動詞 一段化

動詞の活用語尾に使われている母音が一種か二種なのかを見て、一段活用か二段活用かを見分けることができる。


例えば「起きる」であれば一段は「起き・起き・起きる・起きる・起きれ・起きよ/起きろ」と、

「起き」の一種の母音がベースになっているのに比べ、

二段活用だと「起き・起き・起く・起くる・起きよ」と「起き」「起く」と二種の母音が使われることになる。


中世に始まり近世には完了していたとされる連体形による終止形の駆逐によって、

日本語には大きな変化が起こり、終止形が不要になってしまっていた。

これにより例えば上二段活用は次のようなものに変わっていたことになる。

旧上二段・「おき・おき・おく ・おくる・おくれ・おきよ」

新上二段・「おき・おき・おくる・おくる・おくれ・おきよ」

このような活用体系への変化が自然と生じていたことが、ひとつ目の要因として動詞の一段化現象につながってくる。


連体形が終止形を呑み込んでしまうということは日本語の大きな変化であったが、

その中で偶然にも語音構造上に変化が生じなかった用言がある。

それが四段・上一段・下一段である。

まず四段活用では「書か・書き・書く・書く・書け・書け」のままで、

アクセントは違っていたとはいえ、語音構造上の活用形変化は見られなかった。


上一段活用の「あたえる」では終止形「あたふ」が連体形「あたえる」に同化し、

終止形も連体形も「あたえる」になっている。

同様に上一段では「着 き・着る・着る・着れ・着よ」となっていて終止形も連体形も同じ「着る」であった。

こうして見ると新二段と一段は母音が一種・二種ということ以外活用形は同一している。

そして新上二段は下からの上一段と似ていると意識され、

それに引かれる形で上一段に同化したという解釈が一段化現象への次の要因となった。


二段活用から一段活用へと変容していったこの波は、

終止形・連体形の活用形同一化以前から起こっていることではあった。

奈良時代には下二段活用であった「蹴ウ」が、

平安時代に下一段活用の「蹴ル」に変化していったことに例を見ることができる。

「居る」のように「イ・イ・ウ・ウル・ウレ・イ」という上二段だと語の同一性が不明瞭であるから、

上一段で「イ・イ・イル・イル・イレ・イ」とした方がすっきりする。


「見」「煮」のように一音節で元々不変化だった語から次第に一段活用化されてゆき、

それに合わせて他の言葉も変化していったと考えられる。


つまり言葉は使い手である人の都合で使いやすいように時代の中で変化してゆく。

その良い例がこの動詞の一段化現象なのである。


当時の中央では下二段の形が上品な言葉とみなされていたことや、一般の庶民は一段活用で、武士は二段活用を長く保ち、

またうちとけた場面では一段活用、改まったところでは二段活用を用いたことからも、

本音と建前、話し言葉を書き言葉、日常用語と殿上用語の狭間で

長い時間をかけて言葉が変化していったことが推測できる。

人間の国語は楽な方へと進んでゆくから、まずは関東民衆、そして武士、

いずれは中央の話し言葉も次第に変わってゆき、一段化が一般化してゆくのも必然のことであったのだ。

 

日本ファシズム

日本の軍部が政党にかわり政治の主導権を握った要因が、

 

日本型ファシズムの特質にあるということに着目してみた。


日本ファシズムが中国・朝鮮の抗日運動への対抗策であることと、

 

アジアでの植民地拡大のためということ、そして第二次世界大戦の戦争を

 

遂行させるために必要なものとして軍部により意図的に喧伝されたという事実も

 

忘れてはならないが、それ以前にどうして日本国民に割合抵抗なく

 

この日本ファシズムのシステムが受け入れられたのかに注目しなくてはならない。

 


それは日本ファシズムが、天皇制を基本とする天皇制ファシズムであった

ということが最大の理由ではないか。

 

遡れば、明治維新以来、天皇が発した詔勅が神武天皇以来の神皇に触れ、

 

天皇の絶対的権威・神秘性を高めんがために

 

皇室の神話的性格を強調したことにたどりつく。

 

国家神道の形成は自由民権運動の高揚に対抗する

 

国家の支配的イデオロギー政策の重要な一環であった。


基盤の弱い明治政府が、大衆コントロールのために取った政策である。


「軍事勅論」によって日本軍隊は「皇軍」の理念確立がなされる。

 

この流れで日清・日露戦争が進められていったのであり、

 

日本国民の意識に「戦争は天皇の名においてされるもの」というものが根付いてゆく。


韓国併合の条約が天皇の名においてなされたように、

 

この意識統一の流れは深く日本国民に浸透していった。


何故日本ファシズムが民衆の抵抗によって、イタリアやスペインのように


政権を打破するまでに高揚しなかったのかという疑問も、

 

日本の場合は道徳上侵してはならない天皇を頂点とする

 

特有のファシズム形態であったが故に国民の活動が自制された、という考え方で解決することができる。

 

国家神道の教育は明治以降のものであるが、明治憲法の制定や歴史教育を経て

 

広く国民に浸透していったこの国家イデオロギーを否定しない限り、

 

日本ファシズムと正面から対抗できないのである。

 

日本ファシズムの頂点は天皇に設定されていた。


事実上は軍部が主導権を握っていたとはいえ、表向きには天皇がその上に君臨している。


ここに民衆が超えることのできない道徳という壁があった。

 


当時の民衆意識、これは明治以降の長い天皇崇拝教育によるものだが、


そこに天皇否定という考え方は存在しないのである。

 

天皇の名のもとで進められる国家総動員法や治安維持法に国民は抵抗できない。

 

教育によってカリスマ性を植え付けられた天皇という存在には抵抗できないのが国民だったのだ。

 

それを計算した軍部のやり方が、大衆支配という点では一応の成功を収めているのだ。

 

当時の支配者層が天皇という存在をいかに重要視したのかは、

 

戦後の天皇の戦争責任の所在について連合国に問われた時の彼らの対応に垣間見ることができる。

 

ポツダム宣言を受諾する際にも、政府は


「天皇の国家統治の大権を変更することないのが条件」として最初から交渉に挑んでいる。


最終的には「あこがれの中心としての天皇の地位が不変という解釈における

 

『国体』は護持されたという結論に落ち着くのだから、


その方向性を結局最後まで押し通したことになるのだ。

 

天皇が戦犯として裁かれることを防ぐために、当時の内閣を中心とした支配層は

 

敗戦の責任は努力が足りなかった国民にあるような言い方をした。


戦争責任も軍部に押し付け、悪いのは軍人であって天皇ではないと主張した。

 

連合国側記者の質問にも、東久邇首相らは天皇には

 

戦争責任がないように受け答えしているのである。

 


最終的にアメリカは天皇に戦争責任を負わせることをしなかった。

 

これは日本国民にある天皇に対する特殊な感情を逆なでしてはならない、

 

という判断が勝ってきたからである。


この第三者的立場にあったアメリカが、日本国民が天皇に持つ特殊な感情を

 

重要視したことは、日本ファシズムの特異性を考える上で重要である。

 

現代社会で暮らす我々が具体的に想像できない、

 

当時の民衆が持つ天皇への強烈な崇拝心というものが、

 

このことによって客観的に証明されているからだ。

 

日本国民内からも天皇の責任追及の決定的な声があがらず、現代まで不十分な結末で終わっている。

 

ドイツにおける全国民規模でのナチス戦犯の追及や、

 

イタリア国民によるファシスト戦犯追及とは大きな違いがあり、

 

これもまた日本国民における天皇という存在の特殊性を示すものであろう。

 


確かに戦時中は事実上、軍部が政権を握っており、天皇は、旧憲法によれば


統治、総帥、開戦講和など多くの大権保有者とされていた。

 

だが事実上は、その権力を行使しない存在であった、ということに留まっている。

 

他の諸国と違い、日本には明治維新以来政府が粘り強く培ってきた

 

支配者イデオロギーとしての天皇崇拝という特殊土壌が国民の中に浸透していた。

 

戦時中に軍部がその天皇制を全否定することなく、天皇という存在を上手く利用して、

 

天皇を頂点とする日本独自のファシズム形態をとったことが、

 

結果として民衆の抵抗を抑え、民衆を従わせる一種不思議な強制力を与えたのである。


この特殊な形態をとったことで、日本ファシズムは一応の社会的安定性と

 

国民に対する合理的理由を得ることができ、一時代を築くことができたのである。

 

ロビンソン・クルーソー デフォー

ロビンソン・クルーソーの魅力は、政治や社会に縛られることなく、

無人島で自分自身が望むように冒険するロビンソン・クルーソーの姿そのものにあると思う。

生来の放浪癖から航海を続けては海賊やライオンと戦い、

ブラジルの農園でなんとか一財産を築き上げたと思ったらまた冒険に出て、その結果として無人島に漂流してしまう。

そういう浮き沈みの激しいロビンソン・クルーソーの人生に

自分自身の人生を重ねることはいつの時代でも、どこの国の人であろうとも容易にできたのであろう。


孤島での病気や孤独・敵の影に震える様、少しずつ島の生活を充実させてゆく様子なども

同様にありのままの人間の原型像なのであり、誰もが感情移入をし易いものである。

フライデーを従えて蛮人たちと戦い、島を脱出する場面などはなんとも万人の心をかきたてるような豪快な話であり、

それが現代に至っても変わらぬ求心力で我々を惹きつけているものなのであろう。

この冒険は無人島という極限状態の中にあったからこその出来事であるが、

当時の時代背景を知らなくては本当の魅力が薄れてしまうということを忘れてはいけない。


当時のロンドンではペストの大流行があり、多数の市民の命が突然奪われていた。

その翌年には大火災があり、ロンドン市内の木造家屋が焼き払われている。

サウス・シー社の株式暴落も発生しており、

紙幣がある日突然紙くずに成り下がる事態に当時のロンドンは面していたのである。

難破した船に残っていた36ポンドのお金を見て「ここでは何の役にも立たない無用のもの!」と言う

ロビンソン・クルーソーの姿がいかに当時の時代の虚無さを体言していることか。

この時代の人たちは突然生活を闇に閉ざされる可能性に悩まされ続けていたのである。


そんな厳しい状況下で市民階級に求められていたのは、

より身近に自分たちの生活を彼らと近い言葉で語ってくれるものであり、

それは従来の貴族階級による古典的な韻文ではなく、より世俗的な随筆という散文作品であり、

デフォーの『ロビンソン・クルーソー』のような民衆的な冒険小説が好まれる土壌が出来上がっていた。

名誉革命以来の市民階級の台頭で王権に対する市民の声の影響力が強まっており、

時代の主役は次第に民衆に移りつつある状況だったのである。

政治や生活に縛られずに冒険するロビンソン・クルーソーはそんな市民たちの英雄像として受け入れられたのだろう。


ロビンソン・クルーソーの魅力はそれだけではない。

表面の下にデフォーならではのいくつかの具体的な要素が重ねられていた。

まずは苦難にあっても立ち直るための宗教人の教えがある。

生きるためのより実践的な教えを施されていたピューリタン教徒であったデフォーは、

孤島で病気や失望に悩まされるロビンソン・クルーソーの生きる術、心のよりどころとしての宗教を書き上げた。

「中流の生活こそ最上のもの」と説得した父親の言葉を振り払ってまで

冒険に出てしまった自分自身に罪があるとし、その背信からの罰として漂流を受け入れ、自らを悔い改める。

神に感謝を捧げ、聖書を読み、規則的な生活を自分に課す。

それは純粋な宗教、人に役立つ宗教であり、

国を巻き込んで抗争を続ける堕落してしまった宗教ではないものを投影させている。


一方で、経済人としての活動の反映が随所に散りばめられている。

自身が経済活動の成功者であり、同時に失敗者であるデフォーならではの切り口で、

パンの自給自足や山羊の放牧・農園を作るなど、この難破した船乗りはいつしか自分の王国を作り上げてしまう。

その王国のなかで、自分一人分の食料が自給自足できているかどうかを計算する様には、

一見行き当たりばったりに見える島での生活に実践的な経済の意識が取り入れられている。

デフォー自身も浮き沈みの激しい人生を過ごしていたのであり、その経験が作中にも活かされている。

事業の成功やウィリアム王との信頼で勝ち得た王室に出入りできる地位の確立から、

一転して事業の行き詰まりやデフォーが書いた小論文「非国教徒撲滅策」に対しての

国教会と非国教会からの非難と投獄、そしてアン女王による釈放と再度の国家による登用など。

その経験から得たものがヒントとなって、彼は彼の現実の経験を、

無人島で人生の厳しさに直面するという寓意的な姿に変えたのである。


人は失敗しても悔い改めと信仰によって神との満足のゆく関係を見つけることができる、

とロビンソン・クルーソーは語る。

また、この船乗りは他人を尊敬しており、フライデーに対しても決して軽蔑することなく、

奴隷制度を当然のように正当化していない。

これは彼の時代においてはほとんど革命的とも言える声明であるとあるのだから、

当時の社会に対する斬新な意識も込められているのだ。

それらを踏まえたうえで、しかし厳しい当時の生活を離れた位置での


この快活な冒険譚が『ロビンソン・クルーソー』の魅力であるのだ。


これらの背景を知らずに読んでも『ロビンソン・クルーソー』の魅力は伝わってくるが、

ここに書いたような文学史的・社会的側面を理解した上で読むとその魅力もますます深みが増してくる。

 

中国歴史書

中国において、文学が自由な表現を行おうと思っても

 

そこには特に政治面・経済面において大きな制約があったが故に、思いのままを文学にすることはできなかった。

 

とりわけ歴史書が関連してくる三国演義のような史実に基づいた文学は

 

三国時代から千年近くも経ってようやく文学として身を結んだのである。

 

それも、その普及のためには史実から内容を大きく変えるということを成さずには

 

到達できなかったところに文学の苦労が見て取れる。

 

 


白話小説「三国演義」は三国時代の英雄たちが活躍した様を鮮やかに書き出して

 

民衆の気持ちを捉えた中国文学史上で他に類を見ないほど人気のある文学である。

 

三国時代の史実をベースにしてはあるが、あらゆる面で修正が施されている。

 

一番大きいのがその主役である。

 

西晋の時代に陳寿が書いた「三国志」を基盤としている三国演義だが、話の軸は蜀の劉備らの活躍が中心となって進んでゆくのだ。


しかし歴史書である三国志ではどうか。

 

後漢王朝から正統の皇位を禅譲された魏が話の中心であって、その魏から次に晋が正統に皇帝の座を禅譲されてゆく流れだ。

 

蜀が中心となった話などまったく出てこない。


同じ時代を書いたはずの歴史書と小説に現れたこの決定的な違いは何故だろう。

 

そこに歴史書と文学の関連性、あるいは壁と呼ぶべきものがあることを説明しよう。

 


歴史書の始まりをさかのぼれば紀元前100年前後に「史記」を著した司馬遷にたどりつく。

 

彼は自分が仕えた前漢の武帝の活躍を記したが、

 

その以前の歴史として神話上の五人の君主「五帝」に始まった中国の皇帝から、

 

夏・殷・周・秦と続いた皇帝の推移について述べ、そしてその正統な皇位の流れの延長線上として

 

武帝は中国の神権思想「神天が自分に代わって天子という

 

絶対的な存在を遣わして世を治める」の元で天子になったと結んでいる。

 


そこに書かれているのは前漢の立場だけから非常に都合良く見た中国の歴史であるが、

 

勝者の一方的な視点からということであるからそれは少なくとも公平な歴史書と言うことはできた。

 

世界史の中の中国史という視点もなければ、中国そのものの歴史でもなく、それは皇帝の正統の歴史であるのだ。

 

それを中国の歴史書の始まりと呼ばざるを得ないところに、そもそもから歪みがある。

 


しかし事実としてこの司馬遷の史記が、その後も中国の歴史認識のスタンダードとして捉えられており、

 

中国大陸の支配者である皇帝が代わるたびに新しい国は自国に至るまでの過程を同様の歴史書として書き残してきた。

 

後漢から三国時代を経て魏〜晋とたどりついた時代の中で歴史書・三国志は生まれている。

 

それ以前の歴史認識から見て当然、三国志は晋の前身・魏を中心にして書かれている。

 


いや、書かれなくてはならなかった。


そうでないと正統な天子の禅譲に結びつかないからだ。

 

その中国思想では一人の天子しか地上に存在しないことになる。

 

同じ中国に三人の皇帝がいる三国時代などあり得ない事態であるから、それを歴史書である三国志に公に書くことはできない。

 

そこに妥協という欺瞞がある。

 


陳寿は三国志で魏のことについて書いた魏書にだけ、

 

皇帝の正式な伝である「本紀」として立ててあり、蜀や呉は「列伝」として扱った。


この「列伝」という言葉は皇帝の配下という意味合いがあるから、


要は魏だけを皇帝のいる正統な国として認め、皇帝を名乗った蜀や呉については国として認めなかったのである。

 

さらに注目すべきは著者の陳寿は蜀の出身であるということだ。


当然本人としては魏や晋よりも蜀こそが正統な国であるという意識があったに違いない。

 

ただ、晋の支配下で書いた歴史書であるがために、いくら陳寿といえども蜀を正統とは書き残せなかった。

 

書いたとしても必ず晋によって書物は破棄され、自らの身の危険を招くからだ。

 


新しい国家における歴史書の価値は何か。

 

自己の支配の正統性の根拠についての公式見解を示すプロパガンダの道具であったのだから、

 

歴史書の事実の改ざんが存在するのも当然のことであった。

 

そして支配国の影響があるうちは、事実は歴史書にも小説に書かれることなく闇に葬られることになる。

 

三国演義のように千年の時を経て、具体的な影響が無くなってようやく文学として歴史が描かれるのである。


文学である三国演義には支配者の制約はない。

 

代わって制約がかかってくるのは大衆に受け入れられなくてはならない、という点である。

 

そこで三国演義では主役の交代が行われた。

 

後漢の有名無実化した天子を手玉にとって悪行を極める魏の曹操と、

 

それに立ち向かう蜀の劉備、その劉備には平民出身という身近さと漢王朝の血を継ぐ正統な君主という材料を与えた。

 

本来天子であるべき劉備が平民から力をつけて悪玉の曹操と戦い、

 

しまいには蜀漢という国を建てて皇帝になる、という

 

誰もが喜んで受け入れるストーリー性を追加したことで、三国演義は小説として文学上の地位を獲得した。

 


歴史書である三国志と、文学である三国演義はそれぞれ必要とされた状況によって

 

同じことを書くにしてもこうも違うものに出来上がったのである。

 

この三国演義の主役交代の理由に中国における文学と歴史書との苦しい関係が見て取れるように思えてならない。

 

 

石川淳 佳人 普賢

どうしてこんなに混乱しているのだろう。

石川淳自身がこの『佳人』を決して「小説」と決して呼ばずに「叙述」と言い続けたことも、

その整理されているようでされていない処女作を通読することで理解することができる。

「作家の生活が地上の幸福と折合がつく性質のものではない」と考えている著者は

戦争遂行体制という非常の現実世界と、自身の日常生活や作家としての苦悩との狭間で

葛藤を続けていたのであり、石川淳の面白さは、目下のところおそらくは作者の意図する

本来の小説概念に反して、描き出された作品世界の作者から

独立した発展と示現にあるのではなく、むしろ描き出す作者の手つきそのものにあり、

石川が独自に見つけようとしたこの「自脱の方法」こそが

この『佳人』を生み出した土壌であり、氏の創作理由の根底を成すものであろう。


その混乱の意識の一端を、ユラとミサに対する「わたし」の性欲に見ることができる。

いつも側にいるユラへのマンネリがあり、浜村との秘密の一夜での「色っぽいみずみずしい」ユラを感じるシーンがある。

そのユラの姉であり、性欲など感じてはいけないはずの存在であるミサに対して

三味線をひく指に美を感じたり、ついには性欲を露にして抱き締めてしまう。

これらはごく当たり前の生活のシーンである。

夫婦間のマンネリや、たまに顔を合わす女に一時の新鮮さを感じることは日常のどこにでもある場面であろう。

しかし石川はそういったシーンを物語の「臍」と呼んでもいいような大きな場面に持ってきているのである。

作家は全体の諸要素を意識化出来ないという簡単な事実故という理解が正しいと思うが、

無意識の内にか著者の現実への絶望や屈辱的な出発点が具体化されているのが、この性欲の話なのだろうとわたしには思われる。


文学の理解にはその時代背景を無視しては不十分であり、

『佳人』にも「理想の喪失」と「空虚」という文学人としての石川の時代への抵抗がある。

その政治権力に対しての不満を日常生活の舞台に置き換え、二人の女への性欲を通して苦悩を作中に見ることができる。

石川が作家として書こうとしたテーマである「精神の努力」の痕は話の終わりにではなく、

文章の途中に幾つも流れていて、「わたし」の混乱を引き立てている。

時代を背景に社会への憤りを文章に込めて発信されるのが本来の文学の意味であり、

この『佳人』には石川が「習作」を書いて過ごした自らの「空虚」で厳しい時代で

見出した生活の中の非妥協が描かれている。

そのことを考えると、この『佳人』という作品もその混乱の時代と激しく闘っている

非妥協的な作家の過程がそのまま映し出されているものであり、

「小説」と呼ぶかどうかを不問にしたとしても、文学本来の価値が見えてくる。


『普賢』になると、この混乱と失望がより複雑なものになってゆく。

「自分にとって何が必要であり不必要であるかはっきり判ろうすべのない点が問題である」

とある通り、自分が何に対して混乱しているのかが分からないという結論にたどり着くことで、

『佳人』より一歩突っ込んだ心理を窺うことができる。

『佳人』では「わたし」が語り続けることで心情が顕にしていたが、

この作品では庵文蔵という親友でありライバルである人物を登場させたことで、

「わたし」とは違う見解からも「ことば」を通して理想を闘わすようになっている。


作中で話題はジャンヌ・ダルクやクリスティヌ・ド・ピザンから寒山拾得や文殊普賢まで広がりをみせる。

これは石川の教養の深さからくるものだが、これが石川自身、

ひいては当時の文明人たちの理想の高さを指し示すようにも思えてくるのではないか。

世を憂う気持ちは誰にでもあるものだが、文明人たちにとっては尚更であろう。

しかし戦争という時代に阻まれ、理想は理想のままで陽を見ることも叶わず、

かといって世に埋もれることにも妥協できないという不平不満がこの作品でも顕著であり、

それは酒・博打・浮気とおよそ有益とは思えない行動ばかりをする端役の登場人物たちに

投影されているのではないだろうか。

理想を高く掲げ、世をなんとか変えたいと思いつつも

時代に背を向けられた文明人たちの姿をそこに垣間見ることができる。


そんな中で最終的に「わたし」が心の支えとするのは、遠い記憶の中に生きているユカリという女性像であり、

これが最後の心の砦ともいうべき支えなのだが、作者はそのユカリをも没落させて唯一の望みを断ち切ってしまい、

そのショックからか「わたし」は更には身勝手な行動ばかりをして友人さえも失ってしまう。

終いには「わたし」と似たような考えを持って現実と闘い続けていた

「わたし」の分身とでも言うべき文蔵の死を示唆し、「わたし」の現実世界をことごとく破滅させてしまう。

そんな中で「わたし」がもがき、最後にたどり着くのは文学への望み、わずかな希望である。

時代に恵まれずとも「ことば」を「普賢菩薩」として心に抱く、

そういった文明人のあるがままの姿を小説として顕著に書き出すものとして、この『普賢』は文学としての意味を持つのである。

 



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