中国歴史書

中国において、文学が自由な表現を行おうと思っても

 

そこには特に政治面・経済面において大きな制約があったが故に、思いのままを文学にすることはできなかった。

 

とりわけ歴史書が関連してくる三国演義のような史実に基づいた文学は

 

三国時代から千年近くも経ってようやく文学として身を結んだのである。

 

それも、その普及のためには史実から内容を大きく変えるということを成さずには

 

到達できなかったところに文学の苦労が見て取れる。

 

 


白話小説「三国演義」は三国時代の英雄たちが活躍した様を鮮やかに書き出して

 

民衆の気持ちを捉えた中国文学史上で他に類を見ないほど人気のある文学である。

 

三国時代の史実をベースにしてはあるが、あらゆる面で修正が施されている。

 

一番大きいのがその主役である。

 

西晋の時代に陳寿が書いた「三国志」を基盤としている三国演義だが、話の軸は蜀の劉備らの活躍が中心となって進んでゆくのだ。


しかし歴史書である三国志ではどうか。

 

後漢王朝から正統の皇位を禅譲された魏が話の中心であって、その魏から次に晋が正統に皇帝の座を禅譲されてゆく流れだ。

 

蜀が中心となった話などまったく出てこない。


同じ時代を書いたはずの歴史書と小説に現れたこの決定的な違いは何故だろう。

 

そこに歴史書と文学の関連性、あるいは壁と呼ぶべきものがあることを説明しよう。

 


歴史書の始まりをさかのぼれば紀元前100年前後に「史記」を著した司馬遷にたどりつく。

 

彼は自分が仕えた前漢の武帝の活躍を記したが、

 

その以前の歴史として神話上の五人の君主「五帝」に始まった中国の皇帝から、

 

夏・殷・周・秦と続いた皇帝の推移について述べ、そしてその正統な皇位の流れの延長線上として

 

武帝は中国の神権思想「神天が自分に代わって天子という

 

絶対的な存在を遣わして世を治める」の元で天子になったと結んでいる。

 


そこに書かれているのは前漢の立場だけから非常に都合良く見た中国の歴史であるが、

 

勝者の一方的な視点からということであるからそれは少なくとも公平な歴史書と言うことはできた。

 

世界史の中の中国史という視点もなければ、中国そのものの歴史でもなく、それは皇帝の正統の歴史であるのだ。

 

それを中国の歴史書の始まりと呼ばざるを得ないところに、そもそもから歪みがある。

 


しかし事実としてこの司馬遷の史記が、その後も中国の歴史認識のスタンダードとして捉えられており、

 

中国大陸の支配者である皇帝が代わるたびに新しい国は自国に至るまでの過程を同様の歴史書として書き残してきた。

 

後漢から三国時代を経て魏〜晋とたどりついた時代の中で歴史書・三国志は生まれている。

 

それ以前の歴史認識から見て当然、三国志は晋の前身・魏を中心にして書かれている。

 


いや、書かれなくてはならなかった。


そうでないと正統な天子の禅譲に結びつかないからだ。

 

その中国思想では一人の天子しか地上に存在しないことになる。

 

同じ中国に三人の皇帝がいる三国時代などあり得ない事態であるから、それを歴史書である三国志に公に書くことはできない。

 

そこに妥協という欺瞞がある。

 


陳寿は三国志で魏のことについて書いた魏書にだけ、

 

皇帝の正式な伝である「本紀」として立ててあり、蜀や呉は「列伝」として扱った。


この「列伝」という言葉は皇帝の配下という意味合いがあるから、


要は魏だけを皇帝のいる正統な国として認め、皇帝を名乗った蜀や呉については国として認めなかったのである。

 

さらに注目すべきは著者の陳寿は蜀の出身であるということだ。


当然本人としては魏や晋よりも蜀こそが正統な国であるという意識があったに違いない。

 

ただ、晋の支配下で書いた歴史書であるがために、いくら陳寿といえども蜀を正統とは書き残せなかった。

 

書いたとしても必ず晋によって書物は破棄され、自らの身の危険を招くからだ。

 


新しい国家における歴史書の価値は何か。

 

自己の支配の正統性の根拠についての公式見解を示すプロパガンダの道具であったのだから、

 

歴史書の事実の改ざんが存在するのも当然のことであった。

 

そして支配国の影響があるうちは、事実は歴史書にも小説に書かれることなく闇に葬られることになる。

 

三国演義のように千年の時を経て、具体的な影響が無くなってようやく文学として歴史が描かれるのである。


文学である三国演義には支配者の制約はない。

 

代わって制約がかかってくるのは大衆に受け入れられなくてはならない、という点である。

 

そこで三国演義では主役の交代が行われた。

 

後漢の有名無実化した天子を手玉にとって悪行を極める魏の曹操と、

 

それに立ち向かう蜀の劉備、その劉備には平民出身という身近さと漢王朝の血を継ぐ正統な君主という材料を与えた。

 

本来天子であるべき劉備が平民から力をつけて悪玉の曹操と戦い、

 

しまいには蜀漢という国を建てて皇帝になる、という

 

誰もが喜んで受け入れるストーリー性を追加したことで、三国演義は小説として文学上の地位を獲得した。

 


歴史書である三国志と、文学である三国演義はそれぞれ必要とされた状況によって

 

同じことを書くにしてもこうも違うものに出来上がったのである。

 

この三国演義の主役交代の理由に中国における文学と歴史書との苦しい関係が見て取れるように思えてならない。

 

 

石川淳 佳人 普賢

どうしてこんなに混乱しているのだろう。

石川淳自身がこの『佳人』を決して「小説」と決して呼ばずに「叙述」と言い続けたことも、

その整理されているようでされていない処女作を通読することで理解することができる。

「作家の生活が地上の幸福と折合がつく性質のものではない」と考えている著者は

戦争遂行体制という非常の現実世界と、自身の日常生活や作家としての苦悩との狭間で

葛藤を続けていたのであり、石川淳の面白さは、目下のところおそらくは作者の意図する

本来の小説概念に反して、描き出された作品世界の作者から

独立した発展と示現にあるのではなく、むしろ描き出す作者の手つきそのものにあり、

石川が独自に見つけようとしたこの「自脱の方法」こそが

この『佳人』を生み出した土壌であり、氏の創作理由の根底を成すものであろう。


その混乱の意識の一端を、ユラとミサに対する「わたし」の性欲に見ることができる。

いつも側にいるユラへのマンネリがあり、浜村との秘密の一夜での「色っぽいみずみずしい」ユラを感じるシーンがある。

そのユラの姉であり、性欲など感じてはいけないはずの存在であるミサに対して

三味線をひく指に美を感じたり、ついには性欲を露にして抱き締めてしまう。

これらはごく当たり前の生活のシーンである。

夫婦間のマンネリや、たまに顔を合わす女に一時の新鮮さを感じることは日常のどこにでもある場面であろう。

しかし石川はそういったシーンを物語の「臍」と呼んでもいいような大きな場面に持ってきているのである。

作家は全体の諸要素を意識化出来ないという簡単な事実故という理解が正しいと思うが、

無意識の内にか著者の現実への絶望や屈辱的な出発点が具体化されているのが、この性欲の話なのだろうとわたしには思われる。


文学の理解にはその時代背景を無視しては不十分であり、

『佳人』にも「理想の喪失」と「空虚」という文学人としての石川の時代への抵抗がある。

その政治権力に対しての不満を日常生活の舞台に置き換え、二人の女への性欲を通して苦悩を作中に見ることができる。

石川が作家として書こうとしたテーマである「精神の努力」の痕は話の終わりにではなく、

文章の途中に幾つも流れていて、「わたし」の混乱を引き立てている。

時代を背景に社会への憤りを文章に込めて発信されるのが本来の文学の意味であり、

この『佳人』には石川が「習作」を書いて過ごした自らの「空虚」で厳しい時代で

見出した生活の中の非妥協が描かれている。

そのことを考えると、この『佳人』という作品もその混乱の時代と激しく闘っている

非妥協的な作家の過程がそのまま映し出されているものであり、

「小説」と呼ぶかどうかを不問にしたとしても、文学本来の価値が見えてくる。


『普賢』になると、この混乱と失望がより複雑なものになってゆく。

「自分にとって何が必要であり不必要であるかはっきり判ろうすべのない点が問題である」

とある通り、自分が何に対して混乱しているのかが分からないという結論にたどり着くことで、

『佳人』より一歩突っ込んだ心理を窺うことができる。

『佳人』では「わたし」が語り続けることで心情が顕にしていたが、

この作品では庵文蔵という親友でありライバルである人物を登場させたことで、

「わたし」とは違う見解からも「ことば」を通して理想を闘わすようになっている。


作中で話題はジャンヌ・ダルクやクリスティヌ・ド・ピザンから寒山拾得や文殊普賢まで広がりをみせる。

これは石川の教養の深さからくるものだが、これが石川自身、

ひいては当時の文明人たちの理想の高さを指し示すようにも思えてくるのではないか。

世を憂う気持ちは誰にでもあるものだが、文明人たちにとっては尚更であろう。

しかし戦争という時代に阻まれ、理想は理想のままで陽を見ることも叶わず、

かといって世に埋もれることにも妥協できないという不平不満がこの作品でも顕著であり、

それは酒・博打・浮気とおよそ有益とは思えない行動ばかりをする端役の登場人物たちに

投影されているのではないだろうか。

理想を高く掲げ、世をなんとか変えたいと思いつつも

時代に背を向けられた文明人たちの姿をそこに垣間見ることができる。


そんな中で最終的に「わたし」が心の支えとするのは、遠い記憶の中に生きているユカリという女性像であり、

これが最後の心の砦ともいうべき支えなのだが、作者はそのユカリをも没落させて唯一の望みを断ち切ってしまい、

そのショックからか「わたし」は更には身勝手な行動ばかりをして友人さえも失ってしまう。

終いには「わたし」と似たような考えを持って現実と闘い続けていた

「わたし」の分身とでも言うべき文蔵の死を示唆し、「わたし」の現実世界をことごとく破滅させてしまう。

そんな中で「わたし」がもがき、最後にたどり着くのは文学への望み、わずかな希望である。

時代に恵まれずとも「ことば」を「普賢菩薩」として心に抱く、

そういった文明人のあるがままの姿を小説として顕著に書き出すものとして、この『普賢』は文学としての意味を持つのである。

 

地球の重力 数式

地上にいる限り重力はどこでも同じである。

それは当たり前のこと過ぎて、普段我々がそれを不思議に思うことはない。

エレベータに乗っていてふわっと浮く感じを受けることがある。

その瞬間に自分の体重を量ってみたら、普段よりも軽くなっていることに驚くことだろう。

宇宙飛行士たちが宇宙船内で自由に空中を飛んでいる映像はよく知られている。

宇宙では無重力状態であって、月では重力が地球の1/6しかないことも知っている人は多いだろう。

ただ、こうして水や血肉を湛えている我々の肉体に重さがないはずがない。


それを説明するにはw=mgという数式が有効である。

wは重さで、mは質量、gは重力加速度である。

地上ではgがどこでも同じであるからw=mという関係が成り立つが、

無重力状態ではgがゼロのために、簡単な掛け算を使ってwがゼロになるという結論を導くことができる。

重さ自体がゼロでないことはこの数式で美しく説明できた。

エレベータでふわっと感じたときは、重力加速度が変化している影響を受けて重さ自体が変化していたのである。

 

重さは力として一般化される。

地球上の重力に逆らって静止している物体にはなんらかの力が働いているのである。

上向きに働く力fと、重さwが釣り合っているからこそ、物体は静止ができる。

この上向きに働く力fは位置エネルギーと呼ばれるものだ。

位置エネルギーを数式で表すとmghとなる。

mは質量、gは重力加速度、hは高さである。

大事なことは、静止している際の上向きの力・位置エネルギーmghと、

下向きの力である重さwが等しく釣り合っているということである。


物理学の基本理論としてエネルギーは循環する、というものがある。

ある物体が下から上にあがった際には、上向きに働く力mghに対応して、その分と同等の力が下向きに作用しているのである。

上向きの力は下向きの力と上手に相殺され、物体に働く上下の力の総和がゼロ、ということになる。

上下に位置エネルギーが移動したものの、全体の位置エネルギーの総和に変化はない。

これをもってエネルギーの循環は説明されるのである。

 

ガリレオは落体の法則で地上の物体が落下する様子を数式に置き換えることに成功した。

ガリレオが斜面の実験で見つけたのは、物体を斜面から落としたときには同じリズムが刻まれるということだ。

時間が1:2:3:4というペースで進むのに対して、

落下距離は1:4:9:16と進むのであるから、両者の関係は時間の二乗である。

よって、落下距離=落下時間の二乗に比例する、という法則を見つけ出すことができたのである。

簡単な数式を使って、数値化しづらいものも数値化することができる。

例えば重力加速度とは感覚的なもので、

明確な数字に置き換えることはできないようにわたしには思われたが、

下記の数式を進めてゆけば明確化されるものなのだ。

l(落下距離)=c(比例定数)×t²(時間の二乗)ということが先の落体の法則で分かっている。

速さは時間に比例するのだから、

v(速さ)=2c(比例定数)t(時間)という式も導くことができる。

また、地上での加速度は重力が同じだから一定であるということになり、

a(加速度)=2c(比例定数)という式を法則化することができる。


この3つの式をシンプルにしてみると、a=2cが、a=g(加速度)となり、

2c=gなのであるから、v=2ctはv=gtと置き換えることができる。

v=2ctであったのだから、l=ct²は、l=½gt²と置き換えられた。

落下t秒後の位置エネルギーは、mgH−mglという式で示すことができるのだが、

先のl=½gt²という式を使うと、

mgH−mglはmgH−=½mg²+t²ということになる。

このmgH−=½mg²+t²に、先のv=gtを置き換えると、

mgH−=½mvと整理することができる。

落下t秒後の位置エネルギーはmgHから、½mvだけ減少したことになる。

エネルギーは循環するのであるから、減少分=運動エネルギーであって、

この式から運動エネルギーが½mvという説明につなげることができる。

l=½gt²の式を使い、実際に上から落とした物体が落ちる時間と高さをはかってみると、具体的な数字が出てくる。

地球上における重力加速度はg=9.8m/s²である、ということを数式の結論として導くことができたのである。

 

落体によって位置エネルギーが減少するが、

それと同じエネルギー分だけ別の運動エネルギーが増加するのがエネルギー保存則であり、

エネルギーの総量は最初から最後まで変わることがないのだ。

自然現象を数字化して説明する物理学が「美しさ」を合言葉にしているなんて、なんだか文学的だ。

ピュタゴラス音階を数字で表すことができるなんて!

随分と詩的なことも物理から編み出せるのですね。

それも時代も場所も隔てた司馬遷が「律音」で書いていたことと同じことだなんて、

物理とは人の根本的な「知りたい欲求」を学問にしたものなのだろうと思うよ。

エネルギー保存則 運動と位置

わたしはパラグライダーというスポーツをやっているので、

このパラグライダーの動きを通してエネルギー保存則について説明してみたい。

まずパラグライダーに乗った時に一番高い位置にいるのは、

山の上から助走をつけてパラグライダーを開いて飛び乗ったその時である。

パラグライダーというスポーツはモーターという動力を使わない代わりに、

技量次第では下からの上昇風を拾って上手く位置エネルギーを上げることができるのだが

ここではその例は考えないことにして、浮かび上がったパラグライダーがそのまま着地することで説明しよう。


最上点まで位置エネルギーを与えられたパラグライダーは、

そこからパラグライダー自身とそこに乗っている人間の質量があるので、その分だけ真下に落ちてゆこうとする。

この時の位置エネルギーは、V= mgh(位置エネルギーV=質量m x重力加速度g x高さh)という式で表すことができる。

質量分だけ自由落下してゆくパラグライダーは次第に高度が下がってゆくのだから、

位置エネルギーを失う代わりに別のエネルギー、それは運動に伴う運動エネルギーを持つことになる。

落体における力学的エネルギー保存則の式は、mgh + ½ mv²= mgH と表す。

先に触れたように位置エネルギーはV= mghであって、

浮いているパラグライダーは時間の経過と共に落体の法則にしたがって

高さhを下げてゆくから、位置エネルギーも高さhの減少と一緒に減少してゆく。

mghが位置エネルギーなのだから、mghのhが時間の経過と共に減少してゆくものだとして、

このhの減少分を数式の上で補うとすれば ½ mv²を足してやればmgh + ½ mv²= mgHはイコールで成り立つ。

このことから運動エネルギーKは½ mv²として式にすることができ、

また運動エネルギーが½ mv²であればmgh + ½ mv²= mgHの式で考えれば

失われる時間の経過に伴う減少分の位置エネルギーとイコールになり、

こうして失った位置エネルギーと得た運動エネルギーの数値が一定で、

位置エネルギーと運動エネルギーの和が一定であるという落体における力学的エネルギー保存則を説明することができる。


パラグライダーは時間の経過に伴い質量分だけ落体の法則に従い

位置エネルギーを減少させるが、同時にそれは同じ分の運動エネルギーを獲得することになり、

この運動エネルギーを使って空中で速度を得ることができるし、舵を切って左右へ方向転換をすることもできる。

最も、スカイダイビングと違うのは垂直方向へ自由落下しないのは

パラグライダー自体が空気抵抗となって自由落下を防いでいることと、

パラグライダーの翼が風を取り込んで浮力を発生させているという別の要因はある。

その別の要因を除いたとしても、パラグライダーは減少した位置エネルギーの分だけ

新たな運動エネルギーというエネルギーを発生させ、その運動エネルギーによってスピードや移動を楽しむことができ、

時間の経過と共に位置エネルギーが終わりを告げるときにはパラブライダーも地面間際まで下がってきている。

そして最後の運動エネルギーを使って空中から地面へと着地したとき、

これ以上失われる位置エネルギーはゼロなのだから

同時に得られる運動エネルギーもゼロとなって、パラグライダーは終わるのである。


このようにパラグライダーの例をとってみてもエネルギーは保存する。

パラグライダーが空中で速度を保ち、舵を切って遊ぶことができるのは

上空にある空気抵抗と翼の浮力のお陰でもあるのだが、

そのこと以上に位置エネルギーの減少分だけ新たに得た運動エネルギーを利用しているのだ。

この運動エネルギーは位置エネルギーの減少に伴い同じく減少してゆくが

位置エネルギーだけではなく、空気抵抗という熱エネルギーや音エネルギーとしても減ってゆく。

エネルギーが保存することをはっきり示すのはパラグライダーの着地のときである。

失われない位置エネルギーに対して得られる運動エネルギーもないから、それ以上パラグライダーは動かないのである。

こうしてパラグライダーを例に挙げて見てみると、

パラグライダー独自の上空での風の抵抗や、自然落下に対するパラグライダー自体の抵抗、

パラグライダーの翼の浮力ということがあるものの、

高いところから飛び立ったパラグライダーがその位置エネルギーの減少分だけ

運動エネルギーを得て、その運動エネルギーを持って遊ぶスポーツであるということが説明できるのである。

エネルギーは保存する。太陽に元を発する太陽エネルギーが

巡り巡って我々人間に運動エネルギーをもたらせてくれる。

太陽エネルギーを光合成で取り入れた植物を食べることで動物は糧を得て、

食べることでその分だけ運動エネルギーをもらって我々人間が生きているのである。

だから我々人間自体も太陽から始まり、宇宙への熱反射する太陽エネルギーの保存の一環であると、美しく説明することができる。

 

太陽エネルギー 地球

疎水は限りある水を人工的に循環させることで、どの農地へも平均的に水が行き渡るような灌漑に役立てている。

エネルギーも疎水と同じように、運動を通して循環される中で様々な形をとりつつも、エネルギーの総量が変わることはない。


発電を考えてみると、それは無から有を作り出しているのではなく、

他の形態のエネルギーを電気エネルギーへと変換させているだけである。

原子力発電と地熱発電以外は、元を遡ってみれば全て太陽エネルギーからくるものだ。

太陽エネルギーによって植物が光合成を行い、有機質をつくる。

その有機質に太陽エネルギーが取り入れられ、我々がその植物を食べることで

植物内のエネルギーを得て、我々は運動エネルギーや音エネルギー、熱エネルギーを使って活動している。

このようにエネルギーは様々な形をとっても、エネルギーの総量自体が変わることがない。

地球に届いた太陽のエネルギーは、植物や動物の体内を回ってエネルギーを循環させている。

 

火力発電は、太陽エネルギーを含んだ化石燃料を燃やすことで熱エネルギーを得て、

そのエネルギーを利用して発電機をまわし、電気エネルギーを得ている。

有機質を持ったまま死んだ昔の生命体が、現代の効率の良い燃料に代わっていった。

昔の太陽エネルギーは時代を越えても循環されているのである。

光合成によって炭水化物が生成されることが、太陽エネルギーから始まる地球上のエネルギー循環サイクルだ。

二酸化炭素と水素と光エネルギーが合体すると、葉緑素が媒体となって炭水化物ができる。

炭水化物には太陽エネルギーが貯蔵され、その葉緑体を含む植物をより身体の大きい動物が食べて、活動のエネルギーにしている。


動植物たちが日々の活動の中で燃焼している炭水化物は、太陽エネルギーの解放と言うことができる。

その過程では取り入れた太陽エネルギーと同じ質量のエネルギーが解放されており、

循環するエネルギーの総量には変化がないことが分かる。

エネルギーを人工的に作り出すことはできない。

発電のような一見新たに生み出しているように見える行為も、

実情は元々あるエネルギーを別の新たなエネルギーへと形態変化させているだけなのである。

大元をたどれば、ほぼ全てのエネルギーは太陽から来ていると言うことができる。


あるエネルギーを別のエネルギーに転換させた後に、他のエネルギーに再度変えることは

原理的には可能だが、熱エネルギーに関しては限度があり、

30%ぐらいは他のエネルギーに変えられるものの、残りの70%は熱エネルギーのままである。

このように他のエネルギーに変えにくい熱エネルギーは、

太陽から生まれて派生していった各エネルギーの最終到達点なのである。

それでは太陽エネルギーはどこから生まれているのか。

宇宙はできたときに99%が水素でできていたことから、太陽の内部はほとんど水素である。


この水素の原子核4つが核反応を起こして、ヘリウム原子核になる。

水素とヘリウムとでは水素のほうが質量は大きく、ヘリウムになったことで質量減少が起こっている。

質量=エネルギーなのであるから、この減少分は質量がエネルギーに変わったことを意味する。

解放されたエネルギーは太陽を反射させ、光を伝って宇宙へエネルギーを飛ばして、

我々地球に届いたそのエネルギーを我々が得て生きているのである。


アインシュタインの公式「E=mc²」ではEがエネルギー、mは質量、cは光速である。

太陽で水素が核反応を起こしたときの質量はごくわずかな減少であるが、

太陽自体が巨大なものであるから、全体としては莫大なエネルギーを太陽は生み出している。

エネルギーは循環することを考えれば、例えばクーラーで室内を冷やしたとしても、

その同じ分の熱エネルギーが屋外を暑くしていることになる。

さらにはクーラーを動かすことで電気エネルギーを消費しており、

クーラーをつけても熱エネルギーを減らしていることにはならず、逆に熱エネルギーを使った分、全体をより暑くしているのだ。


このように地球上に溜まった熱エネルギーが地球を暖めているが、

地球はエネルギーを赤外線として宇宙へ放射して循環させている。

太陽エネルギーが形態を変えて地球のエネルギーとなり、

最後は地球から宇宙へと放射してエネルギー放出するという循環を地球は繰り返してきた歴史がある。

太陽が放つエネルギーの総量と地球が使うエネルギーとでは、

太陽からのエネルギーの量の方が格段に多く、この循環が成り立たせてきた。


ニュートンの運動の法則を見てみよう。

第一法則は、物体に力が働かなければ物体はその運動状態を保つと説明されている。

摩擦なし状態の水平面上であれば、止まった物は止まったままで、

動いたものは同じスピードを保ったまま同じ方向に動き続けるというものだ。

これは等速直線運動といって、同じ速度で同じ方向へ運動が続くという習性をうたったものだ。

新幹線を例に挙げると等速直線運動にあれば、直線状であるレールを走るときに、

スピードを減速させる摩擦の力とスピードを加速し続ける推進力が釣り合って、

左右は推進力と抵抗で釣り合って全体で力が働らいていない。

上下は抗力と重力で釣り合っていることからどの方向にも抵抗が働いていない状態になる。

左右上下の全体の力がゼロである等速直線運動を利用して新幹線は効率良くスピードを加速させていることになる。

新幹線に乗っている人はまるで新幹線が止まっているかのような感じにとらわれるが、それは間違いではない。

運動とは相対的なものだから、乗っている当本人には速度は変化なく加速度にも変化はない。

運動している物体は運動している状態のまま、というのが

ニュートン運動の法則の第一法則、慣性の法則と呼ばれる相対性原理である。


第二法則は、物体に力を働かせれば加速度が生じるということから、

加速度の大きさは力の大きさに比例するというものである。

逆に言うと加速度の大きさは物体の質量に反比例するということになる。

F=ma(力=質量x加速度)という運動方程式になるが、

これはW=mg(重力=質量x重力加速度)という重力の式の一般化であって両方とも同じことを言っている。

第三法則は作用・反作用の法則と言われるもので、

物体Aが物体Bに力Fを働かせると、物体Bは物体Aに力−Fを働かせるのである。

このときの力は同じだけの力をちょうど反対方向に働かせていることになる。

Wという重力で上から下へおさえると、同じ大きさ−Wを逆方向に押し返しており、トータルで上下の力はゼロになるのである。


相対性原理では止まっているのか等速直線運動をしているのか違いを見極めることが困難であるが、

止まっているのか加速度が働いているのかは見かけの力という考え方によって説明ができる。

電車の席に座っている人間には、椅子が人を進行方向へ電車の加速度と同じだけの加速度を働かせている。

その際には同時に人が椅子を反作用で同じ力で押し返している。

これが作用・反作用と呼ばれる力である。


人が椅子を押す方向に重力が働いているが、その重力とは反対方向に見かけの力が働いていることから、

乗り物の中で釣り合いの状態に人は自分が椅子を押す方向に力を感じることができているのだ。

加速度運動をしている中では、重力以外に人は見かけの力というものを持っている。


空気抵抗を無視できる場合において放物体が持つエネルギーは、

位置エネルギーと運動エネルギーの合計が厳密に一致することを証明できる。

エネルギーは循環し、総量を変えないのであるから、

位置エネルギーが減少した際には運動エネルギーがその減少分だけ増加し、

また運動エネルギーが減少した際には位置エネルギーがその減少分だけ増加することで、

両エネルギーの合算総量に増減はないのだ。


太陽からもらうエネルギーを燃焼させることで地球や人間が生きており、

人間が作り出しているかのように見える水力発電や風力発電も、

結局は太陽エネルギーを使って起こした気象現象からなるものであるので、大元は太陽エネルギーということになる。


その太陽エネルギーを太陽から宇宙を伝って地球へ運ぶのは、唯一のエネルギーの運び手である光だ。

逆に地球から宇宙への放射を運ぶのも光という運び手である。

太陽の中心には圧力によって陽子と電子が閉じ込められており、核反応エネルギーを生み出している。

陽子4個がヘリウム4原子核になったときに質量が0.7%減少するのだが、

質量の減少はエネルギー保存則に従って別のエネルギーになることがアイシュタインの理論で証明されているように、

この減少分が原子核エネルギーの解放となって光を伝って地球へ太陽エネルギーを届けているのだ。


太陽が一年間で生み出すエネルギーは、人間が一年間に使う電力の10万倍にもなり、

この十分な太陽エネルギーのお陰で我々地球は生きてゆくことができているのだ。

太陽は我々地球に十分過ぎる量のエネルギーを継続的に与えてくれる不可欠な存在である。

 

どうしてこの地球に豊かな生命が宿っているのか。

エネルギーの大元である太陽には生命が育つことがないのに、

偶然にも絶妙な距離にあるこの地球という星には適度な太陽エネルギーが光を通して降り注いできて、

我々人類だけではなく地球全体の活動の命を恵んでくれている。

不思議なのはエネルギーの循環によって地球が消費したはずのエネルギーが、

宇宙へと同じエネルギー分だけ放射しているという点で、

我々地球の生命体の活動を支えているエネルギーが結局は宇宙に戻ってゆくとなると、

人間の活動とはなんなのだろうと思わされた。

それにしても地球はなんと恵まれた宇宙環境にあることか。

無償で太陽から絶妙の太陽エネルギーをもらいうけて、

地球内を巡らせた上でまた同じ分のエネルギーを宇宙に放射させることができるとは、偶然にしてはできすぎな感じさえする。

大袈裟に言えば、太陽エネルギーと地球の関係は宇宙の奇跡だと、知った。





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