ガリア カエサル

ガリアとは現在の西ヨーロッパ一帯を指す広大な土地である。

そこではベルガエ人・アクィーターニー人・ガリー人の3つに別れて、それぞれが違う文化を持っていた。

 

そのガリアのうち、アルプス・ピレネー山脈以南の地域は当時既にローマの支配下におかれていたが、

フランス・ベルギーの一帯はローマの影響力が未だ及んでいない地域であり、

ガリアの総督を任命されたとはいえカエサルにはガリアを積極的に侵略する正当な口実はなかった。

スイス近辺で生活していたガリア系のヘルウェティー族がより広く有利な土地を求めて

西のガリアへと移動したことが、カエサルのガリア遠征のきっかけとなる。

 

ヘルウェティー人たちはローマ属領を避けて通ったのだが、

その移動のルートがローマの同盟国であるヘドゥイー族やアンバリー族の土地を

通るものであったから、同盟者たちをヘルウェティー族からの侵略から守る、

ということを口実としてカエサルは兵を進め、ヘルウェティー族を撃退した。

 

地上世界をローマの統一的な支配の下におく、というのがローマ人の考えた世界帝国思想であったのだが、

そこにはローマが行ってきた伝統的な対外政策のやり方がある。

ローマはパトリキ(貴族)とプレブス(平民)による身分闘争が決着をみた紀元前2世紀頃から、

他都市を自治市・同盟市・植民市と方法を使い分けながら事実上支配し、

そこからローマへと兵士を提供させることで軍事兵力を増加させてきた。

 

名目上は防衛戦争であるというのが常であったのだから、

カエサルがガリアに軍事介入するに当たって作り上げた強引な口実も、ローマのいつものやり方を踏襲したものであったのだ。

ガリア全土へ領土を伸ばしつつある勢力にゲルマニー人の王アリオウィストゥスがいた。

ヘルウェティー族撃退の後に全ガリアの首領を集めてカエサルは話を聞いたが、

ローマの同盟者であるハエドゥイー族やセークァニー族がローマに援助を求めてきたから介入する、という名目を持って

カエサルはこのアリオウィストゥスを退けることに成功する。

 

 

 

 

次にカエサルはベルギー地方に遠征してガリア人部族を制圧した。

そして頻繁に侵入してくるゲルマニー人たちを防ぐために当時のローマの支配の限界であるレーヌス河に橋を架けて

ゲルマニー人のスガンブリー族と戦って、ローマ人もまたレーヌス河をわたることができるのだ、

とゲルマニー人たちを威嚇した。

ガリア地方のケルト人と密接な同盟関係を持っていた

ブリタリニア人を討伐するために海を渡ってブリテン島へも遠征していくのである。

 

こうした8年に及ぶ戦いの結果に全ガリアを制圧したカエサルであり、

ガリー人のことを企てやすく、一般に変革を好む気まぐれな性質があることを

知っていたカエサルだったが、ローマに一時帰還している隙にガリアで大規模な反乱が発生してしまう。

それまで50以上の部族に分かれて何の連係もなかったガリア人たちが「ガリア解放」を合言葉に立ち上がったのである。

これにはガリー人の気まぐれもあったのだろうが、カエサルの搾取に対しての彼らの不満が募っていたのと、

ガリアを統一しようとしたカエサルの行動が逆にガリア人たちに民族団結の意識を植え付けてしまっていたのだ。

 

カエサルは急遽ガリアへ戻って反乱軍を撃破し、アウァリクム攻囲戦などで優れた攻城土手や櫓を駆使して勝利する。

丘の上にあるアレシア城に籠城したガリア人反乱軍の指導者・ウルウェルニー族の

ウェルキンゲトリクスとの戦いでは城を取り囲んだ上で三重の壕に刺を巡らせて戦った。

駆けつけたガリア族の援軍がカエサルに撃退されてしまうと、

穀物も援軍もなくなり進退窮まったウェルキンゲトリクスは降伏することになり、

ついにカエサルはレーヌス河を境界として全ガリアの地をローマの属領として決定的なものとしたのだ。


このガリア遠征はカエサルに、ローマにどのような利益をもたらせることになったのか。

注目すべきはこのガリア遠征においてローマは、ローマの総力を挙げて戦ったというよりも

カエサル個人の力で勝った印象が強いという点である。

ローマにいる時には経験できなかった軍事実戦の中で、

カエサルは自身の実力と名声を積み重ねることができたのである。

 

そして、ガリアに広がる大森林地帯から切り出す建築用材や金鉱山の資源によって

カエサルは豊富な資金を得て自らのローマ時代の負債を清算できたし、

周囲や部下たちにも富を分配して人気を高め、ローマにいる自身の支援者たちにも大量の金をばら撒くことで地盤固めができた。

昔からこうした属領支配によって繁栄を築いてきたのがローマ帝国である。

ラテン同盟に守られる立場から、逆にラテン同盟を結んでいた国々を支配する立場となり、

イタリア半島を勢力下に収め、そして地中海の覇権を握ってゆく過程で、

ローマでは上層市民のみならず広く下層市民もが勝利の利益分配を得ていたのである。

 

このことは市民全体に戦争を歓迎する気配が強かったことからも説明ができる。

ガリアでの戦勝はローマの威信を世界中に広めることにつながったし、

この実績はローマでのカエサルの政治的な地位を不動のものとしたのである。


指導的立場のコンスルや元老院はローマが地中海世界の支配者となることが正義である

という意識のもとに征服戦争を遂行していくのが常であった。

クラッススやポンペイウスと三頭政治を結び、伝統的な元老院支配に反抗してきたカエサルではあるが、

こうした元老院の利害とも一致する実績を残した以上、

元老院としてもカエサルを無視することはできなくなってしまったのである。


このガリア遠征の歴史的な意義として、西ヨーロッパのガリアという地を、

そしてガリアのみならずカエサルが足を踏み入れたドイツやイギリスまでも、

ローマ文明圏、広くは現代につながる欧州文化圏の中に巻き込んだということがある。

つまり、ガリア遠征がヨーロッパそのものの地政概念を創造したのである。

 

ガリアはローマ経済の輪の中に組み込まれ、ローマ式の道路・建築物・水道橋などの

ローマの文化によって経済繁栄を遂げることになる。

いわば、ガリアに対するローマの植民地政策が、ヨーロッパの基礎文化を成立させていったのだ。

ガリア遠征で成功したカエサルはポンペイウスとの内部対立を制して

ローマ帝国での権力を一手に握るまでに存在感を強めることになる。

 

ガリア遠征の成功による周囲からの評価と、培われた実力がカエサルを

その立場まで押し上げたのだが、そんなカエサルが共和政国家ではなく

独裁国家を築くのではないかと疑った元老院保守派によってその後カエサルが暗殺されたことは歴史の皮肉であろう。

 

与謝蕪村 俳句

「折釘に烏帽子かけたり春の宿」という蕪村の句には俳諧として高度な技術が織り込まれている。

烏帽子をかぶるような高貴な人物が、旅先なのか日常なのか

思いがけず一夜を明かすことになってしまい、いつものように烏帽子をかける専用の場所が

見つからなかったのでとりあえず目に付いた折釘にかけておいた、というシーンを想像すれば、

当然読み手としてはその宿の相手に想像がゆくのであり、

春という季節も重なると生命の息吹に満ち溢れた輝かしい情景を思い浮かべることができる。

連想を投げつけて芸術三昧であったところの稀有な名手であればこそ、

これは連想も技術も行き届いている名句と言っていいだろう。


一方で、芭蕉の「閑さや岩にしみ入蝉の声」の句はどうか。

蝉を涼しく感じる、あるいは暑く感じられると詠むという従来からの決まりを一変させ、

立石寺の閑寂の中に蝉の声を「しみ入」らせた手法が斬新ではあるが、本当にうたっているのは技でも連想でもない。

ただ、芭蕉個人が感じたそのままの「感情」である。

 

この二人の名手にはお互いうわついたところがない。

自分の人生には俳諧しかないと信じ、人生を通してそのための旅に身を置き、

俳諧という芸術こそが自分の全てとした芭蕉だから、この句のように芭蕉の精一杯の心、等身大の表現が句に投影されている。

蕪村もまた、完璧すぎてうわついたところがない。

ただしその性質は芭蕉とは明らかに異なっている。

絵というメインの仕事があったからこそ、蕪村は俳諧に対して自分が求める上限を知っていて、

それ以上のものを求めなかったことが、彼のうわつきのなさにつながっているのではないか。

それが証拠に、辞世の句で「白梅に明る夜ばかりとなりにけり」と残して

蕪村は美しい世界の中で満足しながら死んでいった。

芭蕉は限度がないほど自己表現のアートとしての俳諧に生き様を求め続けていた故に、

「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」というはっきりと心残りのある句が生まれたのではないか。

二人の辞世の句からは、それぞれの自分自身の人生への姿勢と結末が浮かび上がってくるのが見えるようだ。


一方、連句に目を向けると「市中は」に収められた芭蕉の作品に「草庵に暫く居ては打ち破り」というものがある。

これは前句の「ゆがみて蓋の合はぬ半櫃」や前々句の「そのままに転び落ちたる升落」を受けての句だが、

役に立たない半櫃や枡落がありそうな場所を連想して草庵を思いつき、

その草庵におそらくはしばらく滞在していたがいよいよ旅に出ようとしている主を思い浮かべている。

その内容に切り替えした中で「打ち破り」という結びの言葉は動的な表現が力強く、

その前まで続いた単純な物の連想の遊びを打ち消すかのようだ。

そして勢いよく主を旅立たそうとしたかのような芭蕉の句には、たゆまぬ旅への憧れ、

漂泊して俳諧の芸を極めたいという彼の感情が盛り込まれているようだ。

技能よりも感情を優先して句にする芭蕉の表現方法がこの連句にもよく現れている。


蕪村の「此ほとり一夜四歌仙」所収の連句「薄見つ」の巻に「春もおくある月の山寺」という句があり、

これは「矢を負うし男鹿来て霞む夜に」に対する付合である。


傷ついた男鹿の突然な登場に対し、蕪村はその豊かな感覚美と雅高い想像力を活かして

句を通して動物往生譚を創作したのである。

前の句を詠んだ人間はそこまで求めずただ詠んだだけかもしれない。

だが蕪村は、矢を負って瀕死状態の男鹿が成仏を願って月の霞む山寺にやってきた、

という美しい空想のストーリーを前句との連想で一息に創り上げてしまった。

男鹿さえも浄土の仏の世界を求めていて、それに晩春という季節を重ねることで

より美しく、より儚い世界を心に遊ばせる。

この詩的な付号の妙こそが蕪村の特徴だ。


芭蕉は言葉のテクニックよりも、心の俳諧の修練を力説したと伝えられている。

芸術のための芸術である蕪村と、生のための芸術の芭蕉では、

同じ俳諧の名手といえども全く別の向き合い方をしていたのだと想像してもあながち過ちではないだろう。

一般論として、テクニックは抜群であるが中身の単調さを指摘されるのが蕪村で、

うたっていることはひどくシンプルのくせにその句には無限の奥行きを感じることができると言われるのが芭蕉である。

和歌以来の伝統からの季語をテクニカル的にいじることでそこに芸術の美を出現させ、

ゆとりある人生を満足に生きたのが蕪村で、物事を自分が感じたままにうたい

人生そのものを俳諧で表現することに終始してもがいている、ぎりぎりいっぱいなのが芭蕉。

それぞれの生き方の違いが、二人の俳諧にはそのまま映し出されているようだ。

自由貿易論 アダム・スミス

アダム・スミスの自由貿易論では、それぞれの国で経済活動する人間たちは

 

与えられた生活環境や才能の中で、最も優位性を持つ何かひとつに打ち込んで、

 

その道のスペシャリストとなることが労働の生産諸力における最大の改善につながる、という分業徹底が説かれている。

 


優位性を持つひとつの物事に集中することで生産性は上がるし、

 

専門性を促進することが新しい技術革新につながり、結果として国全体が富を享受することができる。

 

特化することによって国内の産業と雇用が充実して経済が活性化し、

 

そこでまだ余りある資源があるのであれば他国へ輸出するのが自然な貿易のあり方だとスミスは主張している。


海外市場を優先に考えるのではなく、あくまで重商主義的保護貿易政策によって

 

不当に外国貿易関連部面にふりむけられている資本を、

 

その本来向かうべき国内産業部面に引き戻すことをスミスは目的としているのだ。

 

 

この意味でスミスは積極的な貿易推進論者ではなく、むしろその逆だと言うことができよう。

 

重商主義的保護貿易では自国の利益を最大限に優先させるために

 

他国の利益と競合してしまうことがあり、敵対する可能性が秘められているからだ。

 

そうした側面のある貿易では国際的な平和にはつながらず、

 

継続的な事業にはならないことをスミスは知っていたのだろう。

 

対外貿易産業に資源や労働力をつぎ込むことの無駄を見て、

 

本来は国内のあらゆる農業・工業・商業を十分に満たした上で貿易に向けさせるべきだと考えていたのだ。

 

 

そういったことを踏まえた上で、国際貿易によって国の利益を増加させることを

 

主たる目的とはせずに、国内産業が充実したが故に

 

自然と零れ落ちるような余剰分の品物だけを出すことこそが

 

正当で不可避な貿易であって、その輸入物に関税をかけることは

 

公平な貿易に不必要な障害を発生させてしまうから望ましいものではない、とスミスは主張している。

 

 

しかしこれは理想を突き詰めた先の論であって、輸出によって利益を得ようと


進出してくる他国の企業に対してそれ以上の優位性を持つことができる国内産業は

 

生き残れたとしても、それ以上に優れているとは言えない国内産業は

 

国際競争に敗れて衰退してしまうことが避けられないために、

 

このスミスの自由貿易論は全面的には支持されなかった。

 


例えば将来の食糧不足を見越して国内の農産業に税金を投資してまで優遇し、

 

国内産業を保護することなどは優位性のある分野に特化するとした


アダム・スミスの論からは外れてしまうが、

 

長い目での国益を考えると正当性があるものである。

 

全ての国が同調して関税撤廃を行えばこのスミスの論も実現できるかもしれないが、

 

現実的には難しく、実際に18世紀ではイギリスだけが自由貿易を行ったものの、

 

他国では保護関税が導入されていた。

 

関税をかけることで自国内での産業を保護できるからである。

 

 

そして、保護関税をかけた19世紀のドイツでは国内産業の充実と


保護貿易による経済成長が遂げられているという結果も出ている。

 

こうして見るとスミスはあくまで国内産業の充実に重点を置いている。

 

利益優先の重商主義的保護貿易政策ではなく、まずは自国内で産業や物品売買を

 

完結できる循環型国家を目指し、余った先での自由貿易という理論を展開している。

 


彼の唱えた「見えざる手」は、人間は経済活動を通して無意識の内に

 

自国に発展をもたらしている、というものである。


まずは自分だけの利益を得ようと経済活動を成功させても、

 

その裏では自分を取り巻いている、より上層階のくくりである地域社会、

 

ひいては国をも無意識の内に豊かにさせていると言うのだ。

 

移動手段の発達によって生活の本拠を変えてゆきやすく、

 

人が場所を問わずに経済活動をし、かつ国民団結意識の薄くなっている現代では

 

この考え方はそのまま適用できないだろうが、

 

18世紀には十分に実現できた考え方なのだろう。

 

 

この自由貿易の論理に従い余剰分の品物を使って自由貿易を続けてゆけば、

 

次第に雇用も多くなって国の発展にも結びつくし、社会はますます良い循環につながってゆく。

 

それこそが事物の本源的状態であるとしたスミスの論は、利己心の性善説に基づいた自由放任主義なのである。

 

 

 

 

デヴィッド・リカードは「比較優位」という考え方を独自の自由貿易論の中で展開した。

 

リカードも経済活動を行う上では資源や技術などの面で

 

比較優位に立っている産業ひとつに各自が専念することが必要だ、とした点ではスミスと同じである。

 

しかしリカードの持論では、外国との貿易こそが互いを


「WIN-WIN」の関係にさせるものとして、率先的に自由貿易を行うことを主張している。

 

 

国によって物価が違えば、比較優位の物も価値が変わってくる。


例えば、同じ時間を使って同じワインひとつを作るにしても、

 

先進国では技術が進んでいることから後進国と比べて

 

多く量をつくることができるので「絶対優位」の立場にあると言える。

 

ただし、先進国では人件費や物価が高いことから製造コストは割高になるだろう。


一方で後進国では技術の乏しさから製造量こそ少ないとはいえ、

 

人件費や物価が安価なことから製造費用自体を安く抑えることができる。

 

これを「比較優位」と呼ぶことができるとリカードは説く。

 


安く製造したワインを他国に輸出し、自国では高い製造コストでしか作れない

 

別の品物と交換することで後進国にとってはメリットがあるし、

 

輸入した先進国側も安価で豊富な量のワインを享受することができ、

 

互いに「WIN-WIN」の関係に結びつく、というのがリカードの自由貿易論の図式だ。


「絶対優位」だけが優れているのではなく、「比較優位」こそが

 

本当に優位な自由貿易の形であるとリカードは説明している。

 


この考え方を応用すると、例えば会社で経理もできるし

 

営業もできる人がいたとしても、やはり本業一本にしぼって打ち込んだ方が、

 

結果として全社的にはうまく仕事が回るということであろう。

 

スミスと同じ様に、リカードも関税をかける必要性を認めていない。

 

農業にしても工業にしても自国内で生産できないということは、

 

いざ輸入物が途絶えたら危機に見舞われることに直結するが、

 

この自由貿易は「WIN-WIN」の関係に結びつくので、

 

突然破棄されることは相手の損害にもつながることから考えにくい、としているのだ。

 

 

リカードは自国・イギリスが領地の制限から自国民の食糧供給を

 

100%満たすことができない、という事実を認識していながらもこの論理を進めている。

 

スミスの論では自国の食糧供給が満足にできないことから貿易にまで手を出す。

 

このリカードの自由貿易論からすれば積極的な貿易によって発展し続けられるということになる。


興行に専念したイギリスも自由貿易による相互補充の中で国を豊かにできるのだ。

 

 

スミスもリカードも分業によって社会が豊かさを獲得できる、と考えている点では一致している。

 

大きく違うのはスミスがまずは国内を固めてから始めて余った分を貿易に回す、

 

としたところに対して、リカルドは最初から迷わず自由貿易に依存して国際分業すればよい、としたところである。

 

リカルドが自由貿易に期待するところは大きい。

 

自国内で物流しても1の品物は1の価値にしかならないが、

 

外国貿易では物価や価値の違いで1が2になることもあり、自国内だけで経済活動するのではなく

 

外国も含めて国際社会全体の普遍的な利益を追求している。

 

 

一方でスミスが期待しているのは、ついでに儲けてしまうことである。


あくまで自国内での充実が優先で、貿易とは余剰分の利益である

 

リカードの積極的な貿易とは反対に、消極的な貿易への期待である。

 


現代社会を見てみるとどちらの理論が採用されているのか。

 

現代の世界有数の優良企業・トヨタ自動車と照らし合わせてみると、

 

コストダウンと品質維持の観点からトヨタは3M(ムリ・ムラ・ムダ)削減活動を徹底し、

 

トヨタ生産方式という優れたやり方で自動車業界の世界一を掴んだ。

 

特化における改善はここで活きている。

 

収益確保の点ではトヨタは群を抜いているがこれは北米での利益が

 

全体の70%に当たるのであるから、リカードの比較優位に基づいた手法である。

 


とはいえ国内販売台数のシェアも日本一であるから

 

スミスのいう余剰分を海外にシフトする貿易ともとることができる。


現状の経済活動においてはリカードの利益を求める自由貿易論のほうが

 

広く採られており、「餅は餅屋」のグローバル版が世界経済の主流にはなっているが、

 

危機管理の観点や環境破壊によって将来的に避けられないだろう

 

水不足・食料不足を考えれば自国内で還元できるスミスの社会こそが大事になってくるのかもしれない。

 


つまり、どちらの理論が正解とも言えなく、複雑に絡み合ったのが現実社会なのであろう。

 

芭蕉の俳句

芭蕉の俳句は、社会的身分に関係ない視点で事実をあるがままに表現したことで


本邦の文芸史上でも現実主義確立の上で重要な転機となった。


芭蕉によって、文芸がより庶民に身近なものとなったのである。


それを踏まえた上で、私は一方で芭蕉が抱えていただろう民衆と己との葛藤についてまとめてみた。


限られた文字数で表現をする俳諧には表現の方法にも制限が出てくる。


また、それまでの歴史に培われてきた文学の歴史があり、人間には不変の美学というものもある。

 

芭蕉の時代にも大昔から伝統とされてきた和歌の美学を欠かすことはできなかったのである。

 


和歌の繁栄で確立されたその不変の美学を、芭蕉の俳句にも見ることができる。

 

芭蕉の俳諧は、和歌から続いた普遍の美学を引き継いだ。

 

その上で、芭蕉は庶民の普段の生活に密着した俳諧を創り上げ、


また、素人の人間が創る俳諧も肯定することで文芸の垣根を取り払った。


より庶民の生活に根付いた文芸を築いたのである。

 

『何に此 師走の市に ゆくからす』 元禄二年

 

ここに詠われたからすには芭蕉が己を投影させている。

 

師走の人の忙しさなどを知らずに市に飛んできたからすがいた。

 

俳諧に没頭し、庶民とはかけ離れた暮らしをしていた芭蕉もまた、師走の忙しさを意識することなく市に来たのだろう。

 


庶民の活発な生活力を前に圧倒されている芭蕉の姿が想像できる。

 

己の姿を醜いからすに例えたことで芭蕉が庶民の生活を見下しているわけではないことが分かる。

 

いや、それどころか地味なからすと比較させることで、

 

生活力に溢れた師走の庶民を輝く存在にしようとしたのではないか。


庶民の日常にどこかで憧れ、しかしそれには同化できなかった己に対して悩んでいる姿も見えてくるようだ。

 

芭蕉は文芸をもっと庶民に身近なものとするために俳諧の世界を築き上げてきたといってもよい。

 

しかし、俳諧だけに専念して日常の生活に追われていなかった芭蕉は、

 

いつしか庶民の感覚とは違う世界にいるようになってしまった。

 

和歌時代には一握りの地位ある人間の特権として生まれた文芸を

 

より庶民の方に近付けたという意味で、芭蕉の功績は称えて良いものである。

 

だがしかし、この俳句に見られるように、芭蕉自身は民衆に同化できず、


己の居場所を模索して悩み苦しんでいたのである。


文芸が庶民に近付いても、己を庶民に近付けることはできなかったのである。

 


『秋深し 隣は何を する人ぞ』 元禄七年


秋季の円熟を初句に呼びかけるが、その次にくる言葉はあまりに現実的である。

 

この落差は何なのか。これもまた、芭蕉の俳諧の世界と庶民の生活に存在した溝なのだ。

 


秋の深さを想う文芸的な気持ちはある。

 

だがその一方で、これまで隣人の職業さえ知ろうとしなかった自分の生活に

 

思い当たった時に芭蕉が感じた一抹の寂しさをここで窺うことができる。

 

この秋の深さを嘆く姿は、同時に己の人生の終焉を感じ取っている姿に重なってくる。

 

己が築き上げてきた俳諧の世界は円熟し、終わりを迎える段階にまできた。

 

だが、すぐ隣にあった庶民の世界のことさえも、

 

結局自分は何も知ろうとはしなかった、という反省の気持ちも含まれるのである。

 


ここでも芭蕉は己の俳諧の成果について疑問を持っているのである。

 

自分は民衆に文芸の素晴らしさをより知ってもらうために俳諧に人生を費やしてきた。


だが、自分はその民衆の中に溶け込むことができないのである。


この俳句のように隣人に対しても疑問を持つだけで、結局はそれ以上の追求をすることもないまま生きてきたのである。

 

人生の終盤を感じながら、芭蕉は今までの己の姿に疑問を隠すことができなかったのである。


『月しろや 膝に手を置 宵の宿』 笈日記 元禄八年刊

 

この俳句は、大商人・正秀宅での句会に招かれた時に芭蕉が詠んだ句である。

 

前述の俳句に見られたように、芭蕉は俳諧だけに生きてきた己と、


生活のために生きてきた民衆との狭間で悩んでいた部分もあった。

 

だが、その悩む姿だけが芭蕉の本性ではなかった。

 

芭蕉は己の俳諧に絶対な自信を持っていたのである。

 

俳諧の道に生きる己と民衆との距離はあってしかるべきものである。

 

そう割り切り、自信に満ちていた芭蕉の心がこの句に込められていると思う。


月が出る前の、空の白み。その時間帯には、生活のための民衆の労働は終わっている

 

つまり、日常生活は終わっている。


そんな時間帯に催される句会で、芭蕉は膝に手を置いた。

 

膝に手を置く仕草は、別に緊張を意味しているわけではない。

 

芭蕉はこの時を待っていたのである。

 

月は風流の象徴である。月が出る瞬間を境として、民衆の生活の時間は終わり、自分の俳諧の出番が来た。

 

自分が人生を賭けてきた俳諧のショータイムが来たのを知って、意気込む芭蕉の姿が思い浮かんでくる。


それも、決して堅くならずに、あくまで自然体で俳諧の世界に入ろうとしている芭蕉の姿だ。

 

民衆の日常になじむことができなくとも、己の得意とする俳諧の世界では己の思うがままに表現ができる。

 

そんな絶対的な自信を持って膝に手を置く芭蕉の姿が想像できてくる。

 

芭蕉が詠んだこの俳句からは、松尾芭蕉が歩んだ人生が想像できてくる。

 

芭蕉がしようとしたのは、俳諧という方法による民衆と文芸との接近だ。

 

確かに彼はそれに成功した。

 

だが結局、芭蕉は自分自身と民衆との間には常に壁を意識していた。

 

俳諧が壁を越えても、己は越えることができなかったのだ。

 

それでも芭蕉は臆することなく、己の俳諧の世界を追及した。

 

最後まで芭蕉自身は民衆に迎合することはできなかったが、

 

悩み、苦しみつつも俳句に命を注いだ芭蕉の精一杯の姿が見えてくる。

松尾芭蕉 俳諧

芭蕉の俳諧の独自性は、物事を既存の観念に囚われずに自分の目で見て、


心で感じたままを俳諧に描き出したその感性であろう。


芭蕉以前の連歌・俳諧は和歌以来の季語の制約が強く、


すでに存在する言葉のルールに則って言葉をうたってゆくものだった。

 

例えば「蛙」という言葉には、古今和歌集で紀貫之に


「花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける」と記され、


鶯と並んで声の美しい存在というイメージがすでに確立しており、


蛙と言えば、声のきれいな河鹿蛙が鳴く姿であり、なく蛙であった。

 

そしてもうひとつ別のルールがあり、芭蕉以前の俳諧は自分の感動をうたうのではなく、


読む側へ軽妙な笑いを与えるというのが俳諧の目的だ、と考えられていたことも忘れてはならない。


「やり水のついたかいたく鳴蛙」(宗俊)という貞徳時代の俳句がある。


まず蛙を鳴かせるのは従来からの定石であり、テーマの中心には「なく蛙」があると見てよい。


この句ではそこに「やり=槍」「いたく=痛く」というイメージを働かせ、


槍に突かれて痛いと泣く蛙の声を想像できる作りになっているのである。

 

別の例を挙げれば、「手をついて歌申しあぐる蛙かな」(山崎宗鑑)という発句があるが、


これも芭蕉以前のルールに忠実で、歌をなこうとする蛙のイメージと、


その蛙に俳句を読む直前の人間の姿を重ねて滑稽をさそおうとする俳諧の調子があるのである。


そういう俳諧の世界で芭蕉の独自性はどこにあるのか。


純乎たる正風に徹した句であるという、「古池や蛙飛こむ水のおと」の句を見てみよう。


この発句には和歌以来の伝統である「なく蛙」のイメージはまったくない。


蛙の声のかわりに聞こえてくるのは蛙が古池に飛び込んだときの小さな音だけである。


さらに言うなら芭蕉が感じたのは古池にたったその小さな音自体でもなく、


自分を取り巻く静寂の中に飛び込んできた音と静寂との対比にこそ美を見つけていたのではないか。


それを考えればこの古池の句はもはや芸術作品ではない。


むしろ、芸術的悟得の単なる記録であるというのも納得できる。


当然そこには軽妙な笑いはない。


蛙の小さな音さえ聞こえてくる静寂の中で、古池の音を耳にしてその心地よさに


くすぐられるような微笑みこそあれ、従来の俳諧にあった誰もを喜ばせる滑稽さは微塵もなく、


厳粛な雰囲気にこの句は包まれている。

 

芭蕉は俳諧を「笑い」ではなく「アート」として生まれ変わらせようとした。


そのアートとしての俳諧成立のためにこのふたつの古典ルールを乗り越え、


笑いの文芸としての俳諧のその先に見事な感覚アートとしての俳諧を

花開かせた開眼の句がこの有名な「古池や」であろう。

貧しい旅を続けたことで獲得した「わび、さび」の感覚が芭蕉の句には活かされている。


既に存在する古典文芸からのお題に言葉をつけてゆく遊びではなく、自らの感覚で題を設定し、

文芸としての俳句を創ろうとした意志にこそ芭蕉の独自性を見出すことができる。

古典に縛られず未来を創り上げようとした。


縛られるものがあるうちはおのずと上限が決まっている。

その点、芭蕉は自分の感覚を突き詰め新しい意識を創り出そうとした。


技術的に言葉を重ねて作り上げた俳諧ではない。


美しいものを美しいと感じる心そのもので世界を表現し、従来までの俳諧の限界を突き抜けていたのだ。

 

芭蕉のその行動はそれまでの俳諧の常識を覆すものだった。


その常識外の行動ゆえに芭蕉の世界は果てしなく、他に追随を許さない。


自分という世界にどこまでの上限なく飛んでゆくのが芭蕉の俳諧の独自性なのである。


何故なら芭蕉の俳諧は日常生活に根をおいてないものだからだ。


人生を旅のごとく見る認識でとらえる芭蕉の視点は、


日常よりも旅での変化の毎日にこそ己の俳諧の真意を見ていた。


その人生すべてをかけて俳諧という世界をそれまでのお笑いからアートへと変換させることに情熱を注ぎ、


連歌・俳諧の世界を一変させた存在が芭蕉なのである。

 

固定されてしまっていた俳諧の季語ルールからの脱却は、奇をてらってのものだったのだろうか。


江戸時代ではレジャーとして、視野を広げられるものとして旅をとらえることはなかった。


その土地での変わらぬ暮らしが人の生き方や考え方を固定してしまっていたところを、


清貧に旅を続けて新しいものごとと出会うという芭蕉の生き方がそれまでの常識を壊し、


それまでになかった独自のアートとしての俳諧を生み出す原動力となったのだ。

 





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