太平記 楠木正成

楠正成――「太平記」の異端、「平家物語」に代表される浪漫的軍記物語の爪痕。

「太平記」は冷徹な歴史の記録であり、「平家物語」のような

浪漫溢れる軍記物語の文学的性格を本来持ち合わせてはいなかったというのが通説である。


そうした中で、どうして楠正成のように豪快で忠誠心に富んだ武将、

ある意味「平家物語」にこそ相応しいような人物が登場してくるのか。

そこには中世という時代や読者に対しての「太平記」の妥協と、中世の時代変革の過程を垣間見ることができる。


相次ぐ南北朝の内乱に対しての記録と同時に乱世非難であり、

なかなか訪れようとしない「太平」の実現を祈る作者によって描かれたというのが「太平記」誕生の背景であるといわれている。


そうした反戦の意味の強い平和的な作品であるのに、どうしてそこに戦上手の武将・楠正成が登場する余地があったのか。


同じ中世の軍記物語といっても、「太平記」には「平家物語」のように

史上の出来事を超越した段階で文学的な価値を見出すためではなく、ただ正確な歴史記録としての意義が求められている。

中世本来のあるがままの武士の姿を描きたかったのである。


そこで作者が意図した登場人物の行動規範は君臣の秩序に絞られる。

それにふさわしい登場人物が不可欠であり、そこでとりあげられたのが楠正成である。


実に楠正成ほど非現実的な人物はいない。

「平家物語」などの登場人物以上に神がかり的に描かれている。

まさに「太平記」の異端児である。


智略の限りをつくして幕府の大軍を退けた河内赤坂城の戦いぐらいまではいい。

しかし、わずか千人をもって二百万の東国軍を千劔破城で食い止めたという部分や、

そもそも母が若い時に『夢想ヲ感シテ儲タル子』だとか、

帝が「木」の「南」の夢をみたから「楠」という名前で招聘されただとか、

天王寺で聖徳太子の予言書を読んで後醍醐帝の再興を予告する箇所だとか、そこまでくると大袈裟な観があるのは否定できない。


この武略と智謀をもって活躍する人物には、武士としての忠誠心や鎌倉武士らしく利を考えずに義を重んじる姿がある。

加えて、大衆の興味を得るために幾倍、幾十倍もの敵と戦って勝利する、というエンターテインメント性が与えられた。


これは浪漫的軍記物語の犠牲ではないだろうか。

そういった大衆にとって魅力的な人物を出さずには、

当時の社会で認められることがなかったからこそあえて取った手法に思われる。


歴史記述のための物語である「太平記」には文学的魅力にかけるところがあるのは周知のことである。

「平家物語」以来の軍記物語を期待した読者へのインパクトの薄さを埋めるために楠正成が出てきたのではないか。

 

 

 


中世の時代、天皇や幕府の影響力は絶大だったとはいえ、

一地方豪族であった楠正成が形勢不利である後醍醐帝を援護する妥当性はどこにもない。

「太平記」に書かれているのは後醍醐帝からわざわざ直に声をかけられたので

馳せ参じたという非常に儒教的道徳に忠実なことだけなのだが、おそらくその背後にあっただろう、

中世の豪族としての楠正成のしたたかな恩賞の打算や「欲心」、迷いや義理などは一切省略されている。


そして楠正成が活躍する場面は、戦乱の最中だけであって、

それ以降の政局を見据えて動くべき箇所ではまるで存在感を失ってしまう。

静々と兵庫へ向かう楠正成の後姿には最盛期を過ぎてしまった英雄の末路に重なるものがある。


あれだけ華々しく活躍したスターの末路がそういった形で描かれているのは、

最早時代に楠正成のような人物は成立しないと作者が分かっていたからではないか。

読者サービスと言ってはやや言葉が軽はずみかもしれない。

どこまでも後醍醐帝に忠実である楠正成の存在は、京都に戻った後醍醐帝から礼を与えられ、

それを恐れ多いと固辞するところで役がつきていたのである。


それでも楠正成の存在に頼ることが多かった「太平記」の作者は、

楠正成・正季兄弟の戦死の場面に豪傑な武士の姿を残し、

子の楠正行には健気で情け深い人物像を与え、父の遺言通りに活躍させてはまた豪快に戦死させる。


いわゆる、庶民が望むような「太平記」の浪漫的軍記物語である部分を全てといっていいほど、楠正成に託しているのである。

歴史記録という本来の意味とは別に、異端児・楠正成はこうして「太平記」のなかで独特な、

宣伝媒体としての聖人像を持たされた。


「平家物語」のように戦乱を美化できなかった。

それは中世があまりに長く混乱を続けてしまったことも一因であり、

そして「平家物語」の哀調以上のものが中世では創り出せなかったことが原因であろう。


盲目の琵琶法師という「一種の神力」、カリスマ性を匂わせる「平家物語」の語りものだけではなく、

より摯な語りものである晴眼の談義僧の「太平記」であっても、

こうした「詩的」な楠正成の姿は人の興味を得る物語として不可欠なものであったのだ。


「太平記」の異端であり、浪漫的軍記物語の爪痕とされた楠正成という人物はこうして完結していったのである。

 

密教美術

外国から異なる文化を取り入れ、未知のものと自国に既存のものを混ぜ合わせることで

 

自国の文化発展につなげる、というのは世界中で行われていた営みであったが、

 

それを当時最も盛んに行っていたのが唐の長安。

 


シルクロードを経て流れてきた胡風と呼ばれるペルシア文化やササン朝工芸が


長安では流行していたが、他にも宗教は中国古来の道教に加え

 

インドの仏教(密教)・イスラム教・景教(キリスト教の一派)などが伝わっており、

 

東アジアにおける最大の国際都市であった長安にはユーラシアや東アジアの周辺国は

 

留学生や留学僧を唐に派遣し、文化の吸収を図った。


その中で日本も遣唐使という形で人を長安に派遣していた。

 

遣唐使が日本に持ち帰ってきた文化は数多いが、

 

その中で入唐僧の弘法大師空海が広めた密教文化が後の日本美術史に与えた影響は大きい。


音楽や舞踏・文字・建築などの密教芸術もそうだが、


絵画と彫刻という密教の造形美術は既存の日本美術に刺激を与え、後の日本美術に大きな影響を及ぼしている。

 

 

 


密教という宗教は五感を中心とする人間の生の感覚表現を禁欲的に否定するのではなく、

 

そのボルテージを高めていく方向をとり、神が現実の姿として目の前にいない神道に較べれば

 

より身近で具体的な宗教であり、それまで封じ込めがちであった感性を開放するものという意味で斬新なもの。

 

インドのヤクシー像のように女性の豊満な肉体を官能的に、

 

そして写実的に表現する密教彫刻(東寺)や立体的で色彩豊かな

 

西院の両界曼荼羅のような密教の宗教画は、奈良時代までの日本美術にはないものだったし、

 

経典に定められた宗教世界を現実のものとして描き出す、というそれまでにない美術創作ルールを伝えることになった。

 


無論それ以前の日本にも独自の神々の世界があり、関連する美術文化があった。

 

異質の宗教が入り込んでくると、血みどろの闘争をして、立ち直ることができないほど、

 

相手を破壊しつくしてしまうものが通常であるが、


日本社会は密教を敵対視することなく上手に取り込んでいった。

 

かたちのない神々よりも、より具体的で刺激の強い仏像を求めてゆき、

 

仏像を身近なものとして認識するほうを社会は優先したのだ。


身近なものになると次第に密教は世俗化されてゆき、そこに仏像彫刻の需要が生まれる。

 

当然インドや唐から持ってきたそのままの形ではなく、日本なりに宗教も変容してゆく。

 

次第に密教の変化は「和様化」されるという道をたどることになる。


外国文化を取り入れつつも、彫刻家たちが持っていた奈良時代からの感覚と技が密教彫刻に活かされ、


独自の色を密教彫刻に重ねてゆくようになった。

 

 

密教仏像は元々石の文化としてインドでは誕生したが、

 

日本では中国からもたらされた檀像彫刻や日本の山岳信仰の影響があり木が主流になる。

 

それは木の持つ生命力を日本人は愛したからだろう。


遣唐使の終焉、唐の滅亡とともに大陸からの影響は薄れたが、かな文字や和歌、

 

大和絵など元々は唐からきた文化が「和様文化」として確立されていった藤原時代に、

 

仏像彫刻も日本人が昔から好んだ穏やかで繊細なものに同化されてゆき、

 

密教美術もまた、あたかも日本固有のもののように形を変えてゆく。

 


遣唐使中止以降、次第に密教本来の派手さや難解さは色を薄め、

 

日本人にとってもっとも身近な、平明な境地に置き換えられたのである。

 

京都で栄えた和歌の世界により近いものになって変容してゆく。


それは自然な文化の融合というものであろう。

 

密教文化が和様に変化したものの代表作として、平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像がある。

 

題材の阿弥陀如来は密教の五大明王の一人であるが、

 

鳳凰堂の阿弥陀如来の風貌はふっくらとした美人系の顔立ちであって、見るからに優しさが漂う。


衣の文線のゆるやかな流れ、わずかに背中を丸めて胸を引いた自然体な佇まいにも優雅さがあり、


このような洗練された仏像こそが藤原貴族たちに求められていたものであろう。

 

貴族らは寺院を一種の別荘のように考えていたのであって、彫刻は装飾品の一部としての位置づけをされる傾向にあった。

 


坐像の周囲には極楽浄土の世界がパノラマのように飾られている。

 

密教の難解な教義に興味を示さなかった平安貴族たちが求めたのはもっと簡単な、

 

極言すれば手を合わせるだけで救われるという都合の良い宗教であった。


こうして要求されるものが変わってくる中で、仏像は見るからに恐ろしい姿形をしたものではなく、

 

いかにもありがたそうなものが主流になり、

 

次第に表情もまるでインド風のエキゾチックなものから日本人のように穏やかものに変わってくる。

 

定朝の作り上げたこの阿弥陀如来坐像こそが和様仏像の典型、

 

「定朝様」として日本の彫刻美術に新しいスタンダードを確立した。

 

マイナスの面をあげれば、この和様によって本来の彫刻にあるべき

 

立体的に彫り込むことが軽視され、まるで絵に描いたように平面なものになった。


密教の高度な精神世界の中の阿弥陀如来としてではなく、ただ単に救われるために

 

手を合わせる対象としての仏像になり、宗教の精神面は衰退していったのである。


こうして藤原時代に和様仏像の古典様式が確立されていった。


大半日本人がいかにも好む優美で優しい仏像こそが、

 

最終的に遣唐使が持ち帰った密教から発展していった日本美術の到達点なのだ。

 

万葉集 歌

『三輪山をしかも隠すか雲だにも情あらなぬ隠さふべしや』額田王(巻一・十八)

我々はこの歌に、万葉時代の典型的な美学・事情を見出すことができる。

この歌を詠んだ額田王に関しての詳しい資料は何も残っていないが、

名前から当時の王族、若しくはそれに準ずる身分の女性であったことは分かる。


これは、自身で詠った長歌への反歌。

奈良の三輪山の美しい輪郭を遮る雲に対して、あたかも人に対してのように、

意味のない祈りを捧げるという姿はなんと叙情に溢れた、美しい姿を想像させるのだろう。


三輪山の向こうには己の愛しい人でもいて、その人に対しての恋情を詠わずにはいられなかった、

旅路の女性、という景色が脳裏に浮かんでくるかのようだ。


しかし、本当はそんな美しいものだけではない。

この歌は、大和から近江への遷都が実行された時に額田王が詠んだものである。


三輪山を隠す雲は、自然の抵抗であり、怒りであろう。

三輪山は、今まで暮らしていた思い出深い大和の地を象徴している。

額田王は、遷都により離れなければならなくなった大和の地を惜しんでこの歌を詠んだのである。

惜しむ心だけではなかったのかもしれない。


遷都をするのだから見知らぬ土地での生活への不安は拭い去れなかったであろう。

額田王は、遷都に対して反対だったのかもしれない。

その気持ちを、三輪山に雲がかかる、という表現にして、ささやかな抵抗を試みたとも考えることができる。

万葉集の詠まれた時代は、権力者たちの強い力が存在していた。

反体制的なことを詠うことが叶わないが、人の心は常にどこかへ発散されるものである。

それはこの歌のように、表向きには詠われないが、必ずどこかに潜んでいた。

抑えられた分、その思いは激しい情熱となり、己を振るわせる感動となっているのである。


愛しい三輪山(大和)を隠してしまう雲(支配者である天智天皇)よ、思いやりも必要だ、

隠してはならぬ、隠してならないものなのだ、と心の中で強く反発する額田王が易々と想像できる。


そこには権力者へのささやかな抵抗と、一方では決まった遷都を受け入れつつも、

しかし大和を惜しむ心が同居していて、なんとも複雑である。

この複雑さと、表向きの旅情と慕情が混合し、なんとも独自の世界を創り上げている。


全体的には現実から抜け出たような寂しさが「もののあはれ」の世界であり、

ほんの一握りの有閑貴族たち特有の美学がよく現れている。

このような表向きの儚さと、時代に押し殺された本音が万葉集の根底に流れるものである。

 

 

 


また、歌には様々な使われ方があった。例えば、次のような歌がある。

『千万の軍なりとも言挙せず取りて来ぬべき男とぞ念ふ』高橋虫麿(巻六・九七二)


言葉だけを読めば、なんと勇ましい歌であろうか。

色々事情があるだろうが、黙って敵の大軍を撃退してくることが男だと、これから戦場に赴く相手を称える姿が思い浮かぶ。

勇ましい中身とは裏腹に、なんとも美しい言葉の連なり、そして最後を濁さずはっきりと締めくくったこの歌は、

裏の事情を思いやるかすかな「もののあはれ」を匂わせつつ、しかし勇敢な男らしい歌である。


そうはいえども、もちろんそれだけでは完結しないのがこの当時の歌である。

これは、歌を詠うぐらいでしか己の存在を誇示できなかった歌人虫麿が、

絶対権力者藤原不比等の三男で、軍事責任者という重任として赴任する藤原宇合に対して捧げたいわばご機嫌取りの歌である。


お世辞の歌と分かれば歌の魅力も色あせそうなものだが、

そうではないのは歌自体の勇ましくも美しい響きによるものであろう。

このような使い方をされる歌もあったのだ。

 

万葉集にはこの二例のように本音と建前が混在する歌が多いが、そうではない例もある。

『験なき物を思はずは一坏の濁れる酒を飲むべくあるらし』大伴旅人(巻三・三三八)

この歌自身には全く裏がない。

歌からは豪傑が酒を飲みながら高笑いをする様が浮かんでくるようだ。

歌という高尚な形態をとっているが、「一坏の」「濁れる」などという言葉を選んだ様には、

素朴な人間性が窺われるようだ。どこまでも真っ直ぐな歌である。


歌自身に表しかなくとも、この歌い手の人生を知ると歌の意味は一変する。

大伴という名家の家長として一時は大納言の位にまで出世したのが大伴旅人である。

だが、藤原氏の台頭により太宰府へ左遷され、また大宰府では愛妻を亡くし、恵まれない晩年を送った。


そういう人生を経てきた旅人が詠んだ歌である。

「験なき物」には藤原氏への嫉妬や羨望、憎しみもあろう。

落ちぶれてしまった大伴家に対する想いもあろう。

また、長年連れ添った妻に対する個人的な気持ちもあろう。


そういったことを乗り越えて、一坏の濁り酒を飲むことの楽しみを詠った旅人の気持ちを想うと胸に響くものがある。

歌の言葉を詠んで分かる思いではなく、歌い手の名前の人生を知って始めて分かる思いである。

また、いかに高い身分の人間だろうとも、人間である限り悩みも楽しみも同じだ、という教訓が読み取れるかのようだ。


このように、万葉集には歌自体から真意が読み取れないものもある。

だが、一歩突っ込んで調べてみると、それぞれの歌に意味があり、その意味は現代に生きる私たちにも強く響いてくるものである。

これが、時代を超えても色褪せない万葉集の魅力であろう。

 

古典文学 現代文学

記憶をたどれば、古典とは暗記科目であり、

授業では古典に含まれる美学や時代背景など一切教わりませんでした。


古典を読む、という本質的な作業は同じなのに、授業では内容を無視してただ何かを機械的に覚えるために読み、

今はその時代背景に内容を照らし合わせて当時に思いを馳せる、という全く違う方法を取っていること自体が驚きです。


授業では暗記物としての古典の他に、古典に書かれた内容は無条件で風流である、という点を強調された記憶があります。

確かに教科書に載っている古典文学は高名な作品であったのですが、

授業ではまず文章をありのままに受け入れることが主でした。

つまり、先に古典ありきで、そこに自分たちを同化させていたのです。


しかし、今はそういう一方的な判断をすることの危うさを知り、物事を冷静に批評し、

批判するという心を持つことが大切であるということが分かってきました。


古典とはあくまで大昔の価値観で創られた文学なので、それを盲目的に崇拝する必要性は全くないと思います。

我々は古典が書かれた時代の人でもなければ、当時と同じ生活様式を生きているわけではないからです。

また、古典に現代人である己個人の美学を投影させたり、現代文学と似たものを探そうとすることも無意味です。


そもそも文学とは己の美学の枠をはずし、

他人が描く美学を読み取ることで己に新たなものを取り入れることが大切となります。

ましてやそれが古典であれば、時代の隔たりという難題が横たわります。

それをいかに解決するかが、古典を読む上で大切となります。


まずは作品に触れ、幾つかを読んでみることです。

次に無理をせず、数ある作品の中から自分が少しでも共感するものを見つけ出すことです。

しかし、このときの共感はあくまでとっかかりであり、古典に対して共感というものは前述の通り無意味なものです。

大切なのは、その気になった部分がどういう背景の元に描かれたのか、それを探してみることです。


文学のみならずどんな表現や芸術でも、そこに現れるのは作者の美学でありながら、作者の美学だけではありません。

作者も無意識のうちに、その作者が生まれ育った時代や環境、そしてその作者が読んできた文学が大きく影響してきています。


表面上だけで古典を楽しもうとするならば、単純に現代の読者としての視点から読めばいいでしょう。

しかし、それでは古典を活かすことにはなりません。

古典とは、歴史を追い、背景との関係を理解することから成り立つ学習です。


時代が過ぎ去ってしまった古典は、すでに生きている文学ではありません。

その文学の命はすでに過去のものであり、今後発展するものではないのです。

その古典をどのように読んでゆくか。これは現代を生きる私たちの使命でもあります。


古典自身がすでに発展できないならば、それを読む我々が発展すればいいのです。

古典の中に含まれる教訓や、時代の流れを理解し、

我々がそれを今後へと役立てることで古典は現代でも立派な意味を持つようになります。

 

 

 


ひとつは、古典を読んでそれがその以前の時代のどのような影響を受け、

またそれがその後にどのような影響をもたらしたか、

それを理解することで我々は現在の我々の位置を確認する材料を得ることができます。


我々自身の現代文学には必ずしや古典の影響があるわけであり、

己自身を知らないままでの己の向上は望むことができません。

まずは現代文学の発展経緯を知るために古典を知る必要があります。

それは己自身を知ることに直結します。


ふたつ目に、己を知ることで今後己はどのように展開すればよいのか、

そういうことを考えることができるようになります。

己を知らずに未来を考えても、それは中身の薄い考え方になってしまうのです。


何も古典は過去にどっぷりつかればそれで良いというものではありません。

大切なのは、古典の教訓を我々の今後にどのように活かすかということです。

古典によって、過去を知り、それを通して現代を理解し、そこで初めて未来の展望を立てる。

古典とは過去をしるだけに留める教材ではありません。

あくまで、我々の未来をどのように富ませるか。それが現代における古典の意味です。


現代の我々が古典を理解することは非常に大切です。

何故ならば、我々の文学もいつかは古典と呼ばれるようになり、

我々の現代文学が過去をどのように取り込んできたか、それを後世の人たちが学ぶからです。

今まで古典にその時代の文学を取り込むことで継続させてきた文学の歴史を、我々の時代で閉ざすことはできません。


敵を知り、己を知るものは百戦危うからず。

我々の現代文学は常に未来に対しての責任をおっていることを忘れず、古典を読んできちんと今までを理解した上でなければ、

今後につなげる文学を生み出すことができません。

そういった意味で、古典の読み方ではいかに未来につなげるか、それを第一に考えなくてはならないものです。

 

政治の公共性

「公共性」とはどのような概念で使われていた言葉か。

また、現代日本においてはどのような独自の意味合いが含まれているのだろう。

そもそも「公共性」とは社会全体に共通する利益を優先する概念を指し示す言葉であって、

例えば世間一般に必要なニュースを伝えることであったり、

社会で共有している財産の管理であるとか、誰がそれを行うということは関係なく、

行為そのものに「公共性」があることが重要であった。


ところが日本においては意味合いが違っており、

明治維新によって「家」や「ムラ」という農民社会の頂点に組み込まれた天皇が

この「公共性」の持ち主であり、その天皇につながる政府や官僚の領域に入らないと

「公共性」があるとは認識されにくい風潮が現在も残っている。


これは不思議なものである。行為そのものが判断基準にされるのではなく、

天皇の内にいるか外にいるかで公か私かが判断されるのである。

この考え方では、国家公務員や大企業の社員と、それに順ずる一部の人しか

「公共性」のある行為ができないということになってしまう。


これは長い江戸時代に士農工商の身分制社会があり、

武士がする政治に対して農工商が口をはさむものではなかったという

日本の政治文化が尾を引いていたこともあるだろう。

また、「公共性」を考えて何かを行うとあるが全員がかなう利益の配分はないのだから、

どのような諸価値の配分にコミットするのかという政治的な駆け引きがあるのだ。


それではいつから日本では「公共性」という言葉が権威の象徴になり、

庶民の上に立つ特権者しか使えなくなる風潮が生まれたのか。


それを紐解いてゆくと、明治維新において政府が諸藩を解体した時に遡る。

明治政府は維新後の庶民の心の拠り所として、国家は家であり、天皇は親、国民は子だとした。

このことで国民と天皇の間に擬似親子関係が発生し、

親に尽くす子は当然とする「家族国家」が出来上がったことが問題の始まりである。

 

 

 


そして、もうひとつ別の解釈の「公共性」は、農村に根付いている「ムラ」の中での共同意識だ。

「ムラ」という共同体の中では互いが身内同士として対面関係を重要視する。

明治維新以降の重工業育成による近代化はこの村社会を徐々に崩壊させていったが、戦前戦後にはまだ顕著な意識であった。


「公共性」のイメージが官僚に独占されてしまったところに現代日本での問題性がある。

広く一般にまで浸透してしまったこのイメージによって、

公的な組織に所属する公人のみが人を規制する資格を持つ、という原則が日本国内にできあがってしまったからだ。


そしてもうひとつの問題は、この「公共性」の立場から外れているときは

すべて私人であると人々は認識し、私人であれば多少は節度を守らなくても善しとされてしまったのである。


「公共性」のない中小企業であれば、ゴミの不法投棄も重要な問題にはならない。

ムラから離れた場所にいるときには、何をしてもそれは私人の遊びの範疇であるから問題ではない。


「公共性」のない立場の者は何をしてもいい、

ムラにいなければ縦横のつながりがないのだから何をしても許される。

長い間、日本の農村で培われてきたモラルが崩壊し、欲望だけに突き動かされる時代がやってきたのである。


特に農村から都会に流出してきた労働者たちにその意識は顕著で、

街は金を稼ぐだけの場所になり、隣人関係や地元意識は忘れ去られてしまう。

土地や仕事に愛着を持てない人間たちが国家という家の頂点である天皇に対して敬意を払うわけがない。

その行末に待っているのは家族国家論の崩壊である。


「ムラ」意識の崩壊はこうして家族国家論の矛盾までつながってしまう。

いや、太平洋戦争の敗北で天皇すらその象徴の権威を薄めてしまったのだから、残っているのは自己中心主義だけである。

会社や近所でお互いを思いやる気持ちを持つのではなく、

自分にとって利益のある人とだけつながっておけばよい、という身勝手な意識が生まれてしまう。


官僚や公共機関が上から見下す視点のものだけを「公共性」と呼ぶのではない。

同業社内や同グループ内だけにはびこる仲間内だけの「ムラ」社会でもなく、

本来は誰でも自由にみんなの利益になることに取り込む姿勢そのものが「公共政策」と呼ばれるものなのである。

民間の中にこそ「公共性」があって然るべきである。


官僚独占による公共のイメージを捨てて、オープンな場所で大勢が意見を出し合って物事を決めるとき、

そこに本来の「公共性」は存在するのである。

その意味ではインターネット上の掲示板に書かれた無名の意見には本来の「公共性」があると言うこともできる。


そうして市民が議論を交わしてルールを決めることが本来の民主主義であり、政治の原点であるのだ。

「公共性」の誤ったイメージを拭うためには市民の意識が変わらないといけない。


行政の立場から見る「公共性」と、民間の立場での「公共性」は自然に違ってくることだろう。

政府見解や裁判所の判例にばかり根拠を頼るのは日本政治文化として

今も残りがちではあるが、自分たちの意見を主張することが本当の「公共性」を作り上げることにつながるのだ。

 



<ご紹介>私の最高品質ページ

  • 1.人生ベスト写真4枚 / 2.2017年写真ベスト / 3.インスタグラム





  • © 2006 - Ken Box