小説「太史慈子義」三国志・呉の武将、当帰の暗号

投稿日:2008年12月6日 更新日:



――人は何度でもやり直しできる。だから人生は美しいのだよ。

地面を叩く雨音に目覚めると、私は決まってあの男を思い出した。

一度しかない人生にやり直しを考えるなど、私にとっては悠長過ぎる。

お茶を点てながら居眠りするような馬鹿げた話。

それがどうしてこうも長い間、私の頭から離れないのだろう。

あの男の強烈な個性が、十数年の時を経てもまだ心に振動を残している。

今朝は春の麗らかな陽光に包まれて起きたはずが、

久々にあの男の言葉を思い出していたのは、昨夜聞いた悪い知らせのせいだ。

何度でもやり直しができると大口を叩いた長躯の青年が懐かしくて、

朝露の庭に遊ぶ小鳥たちに思わず尋ねてみた。

「――人は何度でもやり直せるのかい?――人生は美しいものだったかい?」

あぁ、私もいよいよ人生を振り返る年域に達したのか。

でもたまには悪くはないだろう。

いざ、あの男の生き様に想いを馳せようではないか。

――あれは太史慈、字を子義。東莱郡黄県の人である。

やり直しができると笑いながら語っていたあの太史慈の無邪気な表情が、

私にはいつまでも忘れられないでいる。


疾走してくる馬がある。砂土を蹴飛ばし、泥水を跳ね上げて。

昼も夜もない。ただ道の続く限り。目指す洛陽の都まで。

成功を求めて。機知と覇気を信じて!ただ、生き甲斐を求めて!

大志は広く、理想は高く、その全身に気迫を漲らせて。

小官に甘んじることなく、現状に留まることなく、天性の気性に正直に。

虎さえ呑み込んでしまえ。龍さえ超えてしまえ。駆ける稲妻、それが太史慈という男。

「嫌な任務を押し付けられた」

そう考えるのが普通だろう。新入りの太史慈にどうしてそんな大切な役目が廻ってくるのか。

事は一刻を争う。

ここ東莱郡と隣の青州との言い争いがあるが、中身を聞けば大したものではない。

互いが互いの主張を繰り返しているだけで、正しい意見なんてないのだ。

譲り合うとか、相手の事情を考える、という考え方がないだけで、

要は自分たちの主張を先に洛陽に上奏したほうが正義となるような馬鹿げた話。

青州の使者はとっくに出発したと聞いている。

東莱郡側は上奏文の準備にもたつき、それがやっと今出来上がった。

一週間は遅れをとっている。

今さらどう急いでも青州より先に洛陽に着くわけがないじゃないか。

自分たちの怠慢が原因なのに、

その帳尻をまさかつい先日入ったばかりの太史慈に押し付けるとは。

太史慈の才能を引き出そうとしてのこと?

いいや、そうではないだろう。時間との勝負と分かっているのだから、

自分たちの怠慢による失敗が目に見えている。

その失敗の理由が若僧の太史慈にすりかえられようとしているのだ。

弱冠21歳の太史慈は、それを悪い仕事とは思っていなかった。

落とし穴を知らないわけではない。

目に見えている失敗が分からないほど馬鹿でもない。

ただ、太史慈は肌で自分自身を知っていた。

他人には不可能であっても、自分ならば可能にできる、と。

彼らは太史慈の力を知っていてこの役を命じたのではない。

任ずるのは誰でも良かった。

彼らはただ、自分の能力ではこの仕事ができないことだけ、知っていた。

誰かが失敗すれば責任を転嫁できる。

自分以外であればいい。ただそれだけを知っていた。

昼夜兼行で太史慈は馬を駆った。

従者も連れず、ただの一騎で都に急行した。

常識外の行動ではあるが、なにしろ青州の使者とは一週間の差がある。

団を組んで歩いては間に合うはずがない。

ろくに睡眠もとらず、馬だけを途中で替え、

早朝から深夜まで身体に鞭を打って許都へ急ぎに急いだ。

太史慈が洛陽に到着したのは夜で、

役所も閉まっていたから、翌朝に出直してみるしかなかった。

――ついに着いた。

ここまでは自分の足でどうにか短縮できたが、あとは自分の力だけではどうにも急かせないこと。

明日の朝の出たところ勝負になる。

路銀を与えられたのに使っていない。

休憩らしい休憩も取っていなかったし、今夜ぐらいはゆっくり飲み食いして英気を養おう。

宿に馬を預け、太史慈は酒屋へ向かうことにした。

洛陽は初めてだ。

天子のいる都だけあって、さすがに東莱郡とは比べ物にならないぐらい人が多い。

でも俺はこいつらに負ける気がしない。

個人の力には絶対の自信があった。

だから脇目もふらず、太史慈は天下の往来を堂々と練り歩いて行った。

店には男たちの熱気が立ち込めていた。

酒と煙と熱談。都も田舎も変わらない男たちの居場所。

飯を喰らい、酒を胃に流していると身体が満ち足りてくるのを感じた。

――こいつはいい。身体が喜んでいるのが分かる。

つかの間の休息だな。

明日のことはもう自分の力だけではどうにもできないかもしれないが、

ここまでの自分に報いるための褒美だよ、この酒は。

外に雨が降ってきたからか、人の出入りが激しくなってきた。

一人で飲む酒は味気ないから、こんな騒ぎ声がある方が暗くならずにすむ。

奥の席で喧嘩が始まっているようだった。

酔った男たちが、誰が金を払うかでもめている。

給料を一番貰っている奴が払えばいいと一人が言っているが、それが問題のようだ。

「おい、オマエ、そんなに貰ってるのか!

若僧のくせにそれはねーだろ!親方に贔屓されてるんじゃねーのか?」

「当然だろ!お前こそ仕事さぼってばかりのくせに、俺の仕事と一緒にされちゃ困るんだよ!

金が欲しいなら仕事してから言え、仕事してから!」

年長者らしい男と、若い男の言い争いだ。

一緒に飲んでいた男たちはにやにや笑いながら聞いているし、止めようともしない。

「馬鹿言うな!俺がどれだけ今まで苦労して仕事してきたと思ってる!」

「知らね―よ!今が全てだ、今が!!」

言い争いが続いたと思ったら、次は取っ組み合いになった。

ようやく一緒の男たちも止めに入るが二人は収まる様子がない。

犬も喰わない喧嘩、というやつだな。店も迷惑している。

それなのに店の他の男たちは面白そうに喧嘩を眺めている。

酒の肴に最高だからな。

――見ていられないな。

立ち上がった太史慈が男たちの机の上に金を置く。

全員分が払えるような金額だ。

無言で置くと、男たちは喧嘩を止めて太史慈を振り返る。

「おう、なんのつもりだよ?」

年長者の男が喧嘩口調で聞いてくる。

まぁ、それはそうだろう。太史慈の若さでそんなことをしたら、火に脂を注いでいるようなものだ。

「取っておいてくれればいいさ」

それだけ言うと太史慈は席に戻って、美味そうにまた酒を飲み始めた。

その態度がさらに気に食わなかったのか、年長者も若者も喧嘩を止めて

机の上の金を握り締め、太史慈の席に怒鳴り込んできた。

「余計なことをするな、オマエには関係ねぇ!」

「邪魔するなよ、この若僧が!!」

さっきまで喧嘩していた二人が、今度は協力して太史慈を責めてくる。

それが面白くて太史慈は少しだけ笑った。

その時、二人の後ろから肩を掴んで大声を出す男がいた。

「そうだぜ、そうやって仕事仲間ってのは協力するものだな!

よーし、俺もお前らのために半額出そうじゃねーか!」

そう言って男は金を年長者に無理矢理握らせる。

「おぉ、さっきこの旦那が全額出してくれようとしたな!

それを旦那と俺とでお前らの喧嘩を買おうって訳だ!ほら、金の半分は旦那に返すぜ!」

男は一気にまくして、強引に金を分ける。

勢いに飲まれて二人は、ただされるがままになっていた。

太史慈の手元に半分の金が戻り、二人の手には無理矢理金が握らされた。

強引な男のやり方。勢いがあり過ぎて誰も口が挟めなかった。

「――おい、おい!どいつもこいつも勝手なことするんじゃねーよ!」

ようやく年長者が口を開いたが、勢いはない。

太史慈は男の顔を見つめた。

額が広く、理知的な顔立ちの男。太史慈より十歳は年上だろうか。

視線が合うと男は笑い出した。太史慈も笑ってしまう。

偶然にも気持ちが重なったときの楽しさ。

店中が静まり返っている中、太史慈と男は二人だけで笑い続けた。

「おいおい、面白いな!おう、君、次の店に行こう!」

笑いながら男がそう誘ってくる。

太史慈も笑いながら店を後にし、二人で店の外に出た。

店の中に残されたのは呆気に取られている男たち。

勢いがあり過ぎて何もできなかった。二人の男たちの技に、言葉を失って圧倒されていた。

「困ったものですな、金の争いは。

仕事をすることが大切なのに、その報酬の多寡をめぐって人は狂ってしまう」

次の店で向かい合い、太史慈はその男と酒を酌み交わす。

「そうだな、金ではなく、いい仕事がしたい。

それに後から金がついてくるのが本来の姿なのに、そうもいかないのが人間ってものか」

男は淡々と酒を飲み続ける。

まるで世の中の醜い部分を全て知っているような顔つきで。

「今はまだ俺も小官だが、いずれは立派な武功を挙げてみせるよ。そういう心意気だけは常にある」

そう言う太史慈をちらりと覗いて、男はまた笑った。

「はは。若いな。しかし、君の目には機知と覇気がある。

失敗して挫折しても、君なら立ち向かえるかもしれないな」

裏通りの店に酔客は少なく、二人の男の言葉は細い雨音に包まれながら交わされる。

「失敗なんて俺は恐れない。

人は何度でもやり直しできるんだ。だから人生は美しい。前進あるのみ、ただそれだけさ」

「ほう!人は何度でもやり直しできる、って?珍しいことを言う若者だ。

その言葉はどこから生まれたのかな?」

太史慈の言葉が気になったようで、男が目を光らせて聞いてきた。

「母上の言葉だ。昔から口癖のように聞かされてきたから、俺もそう信じているんだ。

人は何度でもやり直しできる、だから人生は美しい、と」

「なぁ、君。頑張ってくれ。人にそう宣言するのはいいことだ。

それで自分を背水の陣に追い込めば、いつも以上の力が出る。

――どうやら雨も止んできそうだな。

俺はそろそろ行こうか。君、名前を伺っておこう」

「青州東莱郡黄県の太史慈。あなたは?」

「秘密だよ。いいかい、俺は世界を変える男だ。

そうだな、謎掛けをしようか。君と俺の合言葉を作ろう」

男は辺りを見回すと机の上に置いてあった花瓶を手に取り、微笑みながらこう言った。

「これは当帰という名の薬草だな。

これにしようか、当帰という言葉を覚えていてくれ。君と俺の永遠の合言葉はこの当帰だ。

いいか、太史慈という男の活躍を俺はずっと見ているぞ。

君とはまたいつか逢える気がするな」

雨音、地面を叩く雨音。それで男は去っていった。

太史慈もこんな不思議な男には出逢ったことがなかった。


翌日、朝一番で役所が開くのを待って取次ぎをお願いした太史慈だったが、

今日も明日も先約で一杯だから駄目だ、と追い払われる。

手元に渡された札に書かれた太史慈の約定の日時は二日も先だ。

――困ったな。これでは意味がない。

頭を抱えた太史慈が役所通りをウロウロしていると、

向こうから青州の役人たちが来るのが見えた。

旗をかざし、供を従えて悠々と歩いている。

(今日が奴等の上奏の日か!)

太史慈は焦った。

せっかく馬を飛ばして来たのに、奴らに先に入られてはそれまでだ。

あの余裕の雰囲気は、上奏の約定日が今日なのだろう。

(父よ!母よ!俺に力を貸してくれ!!)

意を決すると太史慈は役所の手前まで戻る。

長躯を活かして門前に威風堂々と立ち尽くし、青州の一団が来るのを待った。

「待たれい!上奏の一団とお見受けいたすが、手形を拝見する」

わざと門前から離れて声をかけ、札を見ると確かにこれからの時間の約束手形である。

「拝見した。間もなく御身らの上奏を取り受けするが、

きちんと上奏の型というものを踏んでおられるか?

担当上官は型に大変うるさい御仁だ。型に沿ってなければ申請すら受け付けないぞ」

そう言うと一団の長が心配そうな表情をした。

「そうですか?手前どもは定型にのっとり準備をしてきましたが?」

「それがいつも問題になるのだ。

失礼ながら御身らの地方の型と、この中央の型とは大きく違っていてな。

ほら、それがしもこの通り東方の訛りがあるだろう。

特にこの役所では東方のやり方と全然違っていて困ることばかりだ。

御身らは青州から参ったのだろう?

同じ東人のよしみでまずは俺が見てあげよう。

一度提出してしまってから書き直そうとしても、取り返しがつかないからな」

「それはありがたい。恩にきる。是非お願いしよう。これは大事な用件なのでな」

あまりに堂々とした太史慈の態度に疑いを持たないのか、

使長は懐から手紙を出そうとした。

「おっと、こんな通りの真ん中ではまずい。蔭にいこう、蔭に。御身一人だけでこちらに参られい」

そう言って使長だけを裏通りに誘い込むと、

手紙を受け取るや否や太史慈は手紙をビリビリに破いてしまった。

「なんと!何をする!!」

あっけに取られている使長の首を掴むと、

太史慈は大男の貫禄を見せ付けて耳元に脅迫口調でこう囁いた。

「おう。これでおめぇもお終いだ。

俺は東莱郡の使者だが、道の途中で上奏文を奪われちまって役目が務まらねぇ。

おめぇも俺ももう上奏は失敗したし、このまま田舎に帰ったら仕事放棄で首だ。

それどころか、死刑にされちまうかもしれねぇ。おい、このまま逃げるぞ。文句はねぇな?」

――恐ろしいものよ、この太史慈の度胸は。

使長を抱えるようにしてそのまま太史慈は都から逃げ出した。

太史慈の脅しを本気に捉えた使長は、すっかり魂を飛ばしていた。

確かに上奏は重役である。

役を果たさずに戻ってきた使者には重罰が科せられていたし、死を申し付けられた先例もある。

太史慈の言葉はあながち嘘でもなかった。

うろたえる青州の使長をひきまわし、しかし二日目の早朝に太史慈は宿を一人抜けると、

そのまま約束の手形の時間に役所まで舞い戻って上奏を行った。


「――その武勇伝は聞いたことがある。

太史亨殿、貴殿も大変だな。呉の名将・太史慈の嫡子として、

立派な活躍をしなくてはならない宿命を生まれつき背負わされているわけだ」

「それも私の運命であって、逃げようとも思いません」

「立派な心がけだ。それで、孫策に出逢う前の尊父はそれからどうしていたのだ?」

「はい、それからの父は決して恵まれてはいませんでした。

母や親戚から聞いた話ですが、使者の役目を果たしたのに強引な手口を批難されて、

父は東莱郡にいられなくなってしまったようです。

在野に下った後、名君の評判の高かった孔融や同郷の劉ヨウに仕官したのですが、

どちらも父が期待したような主君ではありませんでした」

劉ヨウとのこと。

太史慈にとって、劉ヨウの配下にいた時期が最も不遇であった。

何度か主君を変えた過去がある太史慈を重用してしまったら、

高名な人物占いである許子将に笑われないかと心配して、劉ヨウはわざと太史慈を遠ざけていた。

仕事はするのに評価が伴わない。

本来の実力を発揮する場所が与えられない。

その空虚な時間に太史慈はひどく気分が塞がっていた。

許子将の言葉など何も関係ないのに、ただ自分は自分の仕事を忠実に務めていたいだけなのに。

「そんな時に尊父は孫策に出逢ったわけだな」

「そうです。ようやくそこから父らしい武勇を発揮できる主君に仕えています」

「孫策と太史慈の一騎打ちといえば、

この魏の兵卒でも知らない者はいないぐらい有名な武芸譚だからな。

太史亨殿、もっと教えてくれ。英雄の生き様を知りたい」

――身を乗り出すようにして聞いてくる主と、静かに受け答える客。

「英雄の生き様ですか?

希代の英雄でいらっしゃる殿下の口からそんなお言葉がでるとは思いませんでした」

「いやいや、太史亨殿、世辞はいらん。

今宵はこうしてたった二人きり、私も魏の皇帝である曹ヒとしてではなく、

互い偉大な父を持った二代目同士として話をしたかったのだ」

それは太史亨にも共感できる言葉だった。

敵国である呉の使者として許都にやってきた太史亨という

無名で位も低い将を誘って、魏の皇帝ともあろう曹ヒが

一対一で食事を共にしているのはそういう思いがあったのだ。

曹ヒもまた、魏の建国者・曹操という偉大すぎる父と比較され続ける宿命を背負った、

哀れな二代目であるのだろう。重圧から一瞬でも逃れようと、

似た境遇の太史亨と慰め合っているのか。

父・孫堅の遺志を継ぐために領土を求めていた孫策は、

叔父の危機を救うためと称して袁術から兵を借り、揚州を治める劉ヨウに攻めかかった。

有能な将を引き連れた孫策軍は瞬く間に劉ヨウ軍を撃破してゆき、城前に迫る。

神亭山に小勢で斥候に出た孫策を討とうと、

単騎で駆け付けた太史慈はうまく孫策を誘い出して、百合にも及ぶ一騎討ちを繰り広げた。

その間に敵味方の軍勢が入り混じり決着はつかなかったが、

万夫不当で知られる勇将・孫策と互角に討ち交わす太史慈の武勇は両軍の間で伝説となった。

「劉ヨウ軍敗戦の後、残兵をまとめていた父でしたが、孫策の人物に惚れ込んで配下になりました。

初めてまともな主君に巡り合えたのです。

自分の才能を活かすことができる場所を得たことで、

それからの父は顔つきが変わるぐらいに満たされていました。

戦場では孫策とのように強引な一騎討ちをするのではなく、軍兵を統括する将軍役を務めました。

孫策に従ってからの父は落ち着いたと言われますが、それは満たされていたからです。

派手な活躍がなくても、心は幸せそうでした」

父の英雄譚を語る息子。一呼吸おいて杯を空けた曹ヒが続いて問いかける。

「太史亨殿。先にも言った通り、今夜は魏も呉も関係なく、

一人の男と男との雑談だから聞いてもよいかな?

孫策が亡くなった時に父・曹操からなのか、他の誰からなのか、

いずれにしても魏から尊父へ登用の打診があったそうではないか。

こちらの誰に聞いても分からず終いなのだが、そんな噂を聞いている。

敵国の魏から声をかけられるなんてなかなかあるものではない。

それでも結果として、尊父は呉のままで病死を迎えている。

そこにはどんな物語があったのかな。英雄らしい伝説を残されている」

「曹ヒ殿。実は私もそのことは詳しく知らないのだ。父・太史慈が残した唯一の謎がそれだ。

息子にも母にも誰にも伝えることなく、父は呉に残る決断をしている。

魏からそんな誘いがあったことは間違いなく、その返事と思われる手紙も残っている。

そこには父の直筆でこう書いてある」


――人は何度でもやり直しできる。

与えられた環境に耐えてこそ真の男、という言葉も理解できるが、

やはり人は何度でもやり直しできるのだよ。

求めるものがそこにないのなら、ある場所を求めて移るのは自然なことじゃないかな。

それはひどく勇気のいることで、失うものも多いが、

やり直しが叶った後の満ち足りた心に比べればわずかな損失でしかない。

孔融や劉ヨウに仕えていた時のことを振り返ってみると、私はやはりそう思うんだよ。

我が心の主・孫策の死去というこの状況下で、やり直しを勧めてくれる君の真意は伝わってくる。

俺にもう一度輝く場所を与えてくれようとしているのだろう。

君は君の利益のことだけを考えているかもしれないが、

こんな俺のことを覚えてくれていた君の心が何よりありがたいよ。

だが、俺はもう生涯の居場所を得た。

やり直しは納得がゆくまで何度でも繰り返せばいいが、

一度自分の本当の居場所を得たのならそこに留まるのもいいと思う。

俺は呉に留まる。俺を拾ってくれた孫策への感謝だとか、

今まで呉から受けてきた恩義とか、ここにいる家族、自分の健康や年齢のこともある。

これが俺の最後の答えだ。

君の気遣いに最高の感謝を捧げたい。

人は何度でもやり直しできる、だから人生は美しいのだよ、と

いつかの俺は母の言葉の受け取りを言ったね。

今、自分の人生を通してその言葉も、もっと深い意味にたどり着いたのだと思う。

やっぱり人生は美しいものだった、って。なぁ、分かってくれるかな。


「――父のその手紙が、一体誰への返事なのかが分からないんだ。

手紙が家に残っているから、差出人には届いていないはず。

そんな文章だ、よほど親しい相手に出そうとしたものだろうが、

父が魏の誰かと親交があったとは聞いていない。不明なんだ。

それはともかく、父の真情が伝わってくる手紙だから私は大事に預かっている。

いつかそれを本来の差出人に私から伝えられたら幸せだな、と思っているよ。

一体何があったのだろう。

親の心を子は知らず、子の心を親も知らず。父・太史慈が残した永遠の謎なんだ」

「本当だな。私にも分からない。

きっと尊父とその誰かと、二人の間でしか分からない話なのだろう。

とにかくそういう心境があって英雄・太史慈は魏に降らず呉に残った、ということか」

「はい。私に言えることはその事実だけです」

「太史亨殿、やはり君の人生も父の偉大さに多少なりとも振り回されるようだな。

私と一緒だ。なぁ、聞いてもいいかい?偉大な父という壁を越える自信はあるのかな?」

「正直、ないよ。父とは別の分野で生きてゆかないと、

父以上の武功なんて残せるわけがないじゃないか。

私が誓うのは、父の名を汚すような恥ずかしい様はしないって、それだけさ。

二代目なんて、所詮そんなものじゃないかな」

「ははは、よく分かっている。私もだよ、父・曹操の偉大さを越えられるものか!」

二代目同士、共感するところがあるようで、

国を超えた二人の友の酒は滑らかに進んでいくのだった。


孫策が死んだ。衝撃、それは俺の人生を覆すほどの衝撃。

永遠最後と仰いだ主君がいなくなるとは!

俺よりも年下の男だったから、孫策以外の主君に仕えることはもうないと思っていたのに、

ようやく掴んだ満ち足りた主従関係がなくなってしまうとは!

そんな折、一通の手紙がきた。

開封するとそこには「当帰」という名前の薬草が入っているだけ。

送り人の名を聞いて俺は心を飛ばした。それは、魏の曹操だと言う。

――あぁ、あの男は曹操だったのか!

なんという驚きか。

若かりし頃、洛陽の酒屋で会ったあの男が魏の英雄・曹操だったとは。

そして、もう十数年も前の出来事を、俺のことを覚えているとは。

「当帰」という名の薬草はあの時に曹操が言った二人の間の秘密。

当帰とは元々の場所に帰れ、つまり青州生まれの俺に青州に帰れ、という意味だ。

そして、青州を今治めているのは曹操自身じゃないか。

この謎掛けは、俺のいる魏に降って俺と一緒に天下を駆けよう、という曹操からの誘いだ。

俺は悩んだ。今一度、英雄を求めて冒険しようか。

とはいえ、世話になった呉を敵に回して魏に降るのは正直、引け目がある。

孫策の後を継ぐ孫権も名君になる器に違いないが、

あの曹操が、当代きっての英雄・曹操が俺に声をかけてきてくれている。

悩む、悩むよ、これは。ただ、俺の心は最初から決まっているじゃないか。

手紙にしたためてみよう、そこに心の全てがある。


――太史慈よ、君が呉で病死したという知らせを昨夜聞いた。

衝撃だったよ、俺よりずっと若い君だったのに、

ついにこの世で再会する機会に恵まれなかったな。

俺の手紙を受けても魏に来なかったのも、それは君の選択。

何も言うことはない。

結局、君からは返事すら届かなかったが、

それは魏の曹操と直接やり取りしていたら不審に疑われるだろうから、当然のことだな。

想像でしかないが、君の真意は伝わってくるようだよ。

なぁ、もう君の人生はやり直しが必要ないぐらいに、美しかったのだろう?

あの小雨の薄汚れた酒屋の片隅で、人は何度でもやり直しできる、

だから人生は美しいのだ、

と笑っていた若かりし頃の君のことが、俺は幾つになっても忘れられない。

君が生きて感じただろう、その言葉の意味のそれからを聞きたかったな。

君が亡くなってもう直接耳にできないとはいえ、

君からでも君の息子からでも、俺か俺の息子に伝えて欲しい。

それは叶いそうもない夢かな?

良い思い出だよ。洛陽で偶然出会い、心を通わせ合った。

この朝の庭に遊ぶ小鳥たちに何度でも君とのことを語って聞かせたいって思うぐらいさ。

私は英雄・太史慈のことが、いつまでも、いつまでも忘れられないでいる。







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