小説「忍び半蔵」〜忍者の密かな恋

投稿日:2019年11月17日 更新日:



忍び働き。

民家に入り込むと、剣は物の配置をずらす。

火鉢の向きを変える。干してある小袖を裏向きにする。

歩く爪先の重さを隠しながら、家人に気付かれないように音は立てず。

こんな日中に、特段の金持ちでもない年寄か百姓代の家へ忍び込んでくる者がいるはずがない。

何かが盗られるどころか、干し芋が増えていたのも、狐か狸の仕業だろう。

夜に再び忍び入る。

寝ている妻女の衣服の前を肌蹴させて、記念に一口だけ胸を吸い、胸の上に花びらを置いた。

犯すことも殺めることもなく、ただの悪戯。妻女はもちろん、寝ている夫に気付かれないよう。

剣の頭の中は真っ白になっていた。

見つかった時は自分の死を意味すると仮定しているから、一挙一足の重みを意識し、自制心を養うことに直結していた。

実戦に近い緊張感の中で鍛錬を繰り返すことが、無双の忍びの術を生む。

板戸は油を差して音なく開け、横にして紙を口に咥えれば吐き出す息は細く薄くなる。

手の平の上に自分の足を置いて両手で這う深草兎歩という技法を用いれば、歩く音さえ消せる。

逃走経路は予め確保している。いざという時に放つ手裏剣は2つ持った。

思い違いはしない。

忍びにとって、攻撃は本筋にあらず。

目的を遂げた後で、自分を無事に逃すことこそが忍びの術。

自分の気配は最小限に。己の息を動かさないよう、ひとつひとつの所作に時間をかけて家の中を左右に歩く。

さすがに汗はかいたが、以前と較べれば汗の量が減ってきている。訓練によって忍び術が向上した兆しと言えるか。

本番を想定した鍛錬で、暗い家の中をただ往復するだけの異様。

目的を遂げて家の外に抜け出ると、日常が剣を待っていた。

夜明けはすぐ。

俺はあの中で非日常の忍びをやりきった。何も分捕りをしたわけでもない。

今川家の勢力下にある足助鈴木家の領内に入ったことの緊張感もあり、騒がれたくなかった。

 実戦的な忍び働きはもう幾度となく繰り返してきた。盗んだ物も、殺めた人も、数を数えるのはとうに止めた。命と命のやりとりの場数も踏んだ。

 20年も生きていないのに、心は冷たい。忍びの生活は優しい心なんて剥がしてしまう。

 実戦の連続は避けたいが、こうした鍛錬は欠かせない。いつ難敵と出くわすか分からないその日暮らしだが、自分を高めておかないと、忍びの死は次の瞬間にやってくる。

 足助を出ると七里街道を通り、伊賀八幡宮まで戻ってきた。

家人たちは畑を耕している。半農半士の服部家のいつもの光景。

「剣、ちょっと手伝ってよ」

 通りがけに彩が声をかけてくる。

 「眠いんだ、今はやめておくよ」

 剣と同じく服部家の家人の彩。子供の頃からずっと一緒に育ってきた。

 「なんだよ。じゃ、後でな」

 あの計画について、相談することになっていた。

 昼寝をして、夕方になると伊賀八幡宮の境内で待つ。正成と彩がやってきた。

 「忍びの鍛錬か。次の祭りで誰にも気付かれないように伊賀八幡宮の鳥居を動かして、村人たちを驚かせないといけない。さぁ、どうやろうか、剣・彩」

 「本当に鳥居を動かすの?無理じゃない?」

 「方法はなんでもいいから、とにかく鳥居を動かせばいいのだったな?」

 「まぁ、鳥居自体が動くわけでもないし、周りの物を動かすのかな。鳥居が動いたかのように錯覚させレバいい」

 「謀術だな」

 3人はあまり乗り気ではなかった。

 切っ掛けはこうだ。家長の服部半三保長から3人に出された課題。

「祭りの日に、誰にも気付かれず、伊賀八幡宮の鳥居を動かせ」

方法は一任だと言う。別に金銭目的の仕事でもない。ただの技量試しの難題。

 下見してみると、鳥居は地中に深く埋まっており、3人の力では引き抜くのは難しい。日中でも夜でもそんな大掛かりな作業をしていたら人に見つかる。

動かせられないものを動かせ、という謎かけ。

伊賀八幡宮は良く知っているが、改めて鳥居の周辺を見ると何もない。力づくで掘り起こして移せ、という意味にも思えてくるが、仮に鳥居を横に動かしたところで、鳥居が動いたとは誰も気がつかないだろう。何しろ、周りには何もないのだ。

「私の作戦を聞いて。鳥居の周りに自然なものを置く。花木を植えるのが違和感ないでしょう。時間をかければ、鳥居と花木の位置関係をみんなが覚える」

 「それはいいね、目印のない鳥居に僕らで目印を作ってしまうってこと」

 「そう。鳥居ではなく、目印の方を動かしてしまう。鳥居が動いたという錯覚の完成」

 「実際、鳥居本体を祭りの前夜に動かすのは不可能だ」

 「動かすのなら、花木の方が簡単。まぁ、虚実の術でしょ」

 「目印は派手にしよう、みんなの記憶に強く残る花、紫陽花か」

 「伊賀八幡宮の幟を立て、小屋を鳥居の周りに作るのはどうか。どれも移動させやすいような造りにしておいて、祭りの前夜に一気に移動させる」

 「なるほどね。術は成った気がする」

 「父・半三もこれを期待していたと思えてきた。まさか鳥居を力づくで動かせとは言わないよね?」

 「この考えで正解でしょ。あとは村人たちが驚く様を眺めていればいいよ」

 3人は地面に絵を描き始めた。花木を植える位置と、移す位置。鳥居は真ん中に、小屋と花木はその左右に。書いてみると、伊賀八幡宮の参道には何も建物がないのだから、難しいことではない。

 半三保長の考えが分かった気がした。祭りの3カ月も前からこの課題を出してきた真意も重なる。

 「そういえば、戸部政直の今川家への内通が失敗した。尾張織田家の防諜力は見事なものね」

 「えっ?本当か」

 彩は情報通だ。どこから得ているのか、正成も知らないことを知っている。

 「頼むよ、上忍の卵。そんなのも知らないのかい?」

 「だから上忍ではないって!」

 どうやら3人は同じ年に生まれたらしい。1542年生まれの18歳。

 正成は服部半三保長の5男。剣は伊賀の千賀地家の子らしいが、父も母も知らない。彩は服部保長の養女と聞くが、誰も詳しくは知らない。

 気にも留めないのは、よほど名のある家でもなければ、誰がどの父と母の子かは大切ではないから。それよりも、どこの家人かということに意味がある。

 3人は服部家人として対等に育ってきた。嫡男ではない正成、家督を継ぐ可能性はあるのだろうが、今は特に偉いということもない。忍びの家に難しい事情はない。

 どうやら父半三はこの3人を1つと考え、3つの価値を生もうとしていた。

 正成には武士を、剣には忍びを、彩には情報を。

 服部家が必要としている3要素がそれだ。

 伊賀八幡宮の鳥居は動いた。

 祭りを楽しみに来た村人たちは違和感で足を止めた。鳥居の位置が違う。天狗のまやかしか、天変地異の予兆か、自分の目がおかしいのか、つい周りの人に聞いてしまう。

 夜の内に花木を植え替え、小屋の位置も移した。花木・小屋・幟の位置関係と距離は同じにしてあるから、まるで鳥居だけが1町(1.8m)も動いたかのような印象を誰にも与えた。

 まさか、伊賀八幡宮の鳥居が動くなんて!

 村人たちが騒ぐ様子を見ている3人の前を、商人の変装をした半三保長が横切った。

 気が付かなかった。その鮮やかな術に3人は驚く。これが本当の忍びの技か。

 「驚いてくれたか。まぁ、こんな暗い術は主の前では見せるなよ、逆に殺される」

半三は3人をそう諭した。

 「合格。鳥居を動かした。正解は1つではないが、お前たちがやったので事足りる」

 労いの言葉が出た。

 「だが、成功に慢心していたから、俺の姿に気が付かなかった。自分の術が成った時に相手の術に陥り易いことも、これで覚えたな」

 服部家の当主は厳しい。

 雇われ忍びに躊躇はない。

 身体に染み込ませてきた術を右に左に投げつけ、依頼事を果たすためなら手段は選ばない。情報操作が、略奪が、破壊が、暗殺が何だ。人道外の行いでも、忍び働きなら理がある。その結果が自分の家を生き残らせると信じれば。

 ところが、目的を遂げた後で雇い主が忍びを見る目は変わっていく。人外の獣を見るかのように。

武士には禁じ手である比興を、下等な忍びが功を焦るあまり独断で実行してしまったような噂が立つ。

 認められるのは用を足した直後だけ。後には邪魔者扱いされ、他国への追放か、別の忍びから殺害されていった先人の忍びたち。

 雇い主は恐れるのだろう。あの難敵を闇討ちできたのなら、自分も殺せるはずだと。

忍びごときに暗殺させるという武士にとって恥ずべき手段を取ったことが自分の首を絞め、それを種にあの忍びから強請りがあるかもしれない。

自分の命を果たしてくれたことは嬉しいが、自家の安泰を考えればあの忍びが近くにいては困る。やむを得ない、消えてもらうしかない。

 忍び本人にはそんな考えは微塵もない。仕事をこなしたから相当の報酬が欲しい。信頼を積んだので、この次の忍び働きも任せて欲しい。

自分の忍びの術が成果を生み、互いに安心を掴み、同じ方向に歩いて行く、という充実感。ただ、それの考えは間違いなのだ。

 こうして武士と忍びの間には大きな乖離が生れる。それを防ぐ手立てなどない。忍びは成功の後で冷遇される。そんな惨事がどれだけ繰り返されてきたのか。

忍びを取り巻く不変の不条理に見えるよ。上手く行ったのに、後で煙たがられる。忍びの限界だとしたら厭な話。

 「よいか、忍びは周りに目立つことなく手柄を挙げよ。雇い主と直接の引き受け・報告するのではなく、必ず間に一枚かませ。うやむやな報告線を保て。服部家の家長は武士であれ。それが自分たちを守る。俺はもう駄目だ。松平元康の目が見れない。知ってはいけないことを知りすぎた」

 以前に半三からそう諭されたことがある。半三の心の声だったのだろう。何か怖い経験があったのか、と3人は目を伏せた。

 武士として評価を得た訳ではない服部半三保長だから、行動範囲は狭い。

家人を集めても30人の小集団に、武士として檜舞台が与えられることはない。道に出るための山道を、まずは自分たちで切り開かないといけない環境にあった。

 得手とする諜報活動で、半三は働きを得ようとしていた。家人にも告げずに自ら各地を走り回る半三、何か特別任務があることは明らかだった。

 「いいか、半蔵。河内長島の鯏浦城に行ってくれ」

 ある時、具体的な命が半三から半蔵と剣にくだる。

 「松平元康から密命を受けた。今川方の大高城に兵糧入れをすることは話したな?今川義元からの大命。尾張との戦いになる手前、国衆として松平家には前衛役が避けられない」

 「それは服部家にとっても勝負所」

 「悩んだが、ここは諜報戦略で行く。武士ではなく、忍びとして成果を出すぞ」

 「承知」

 「よいか、兵糧入れを派手に成功させよ、というのが下知だ。織田家が大高城の周りに築いた丸根砦・鷲津砦を陥落させた後で、大高城に悠々と補給するのも難しい戦略ではない。今川家の加勢を頼めば、兵力差でなんとでもなる話。だがな、今回はそうではなく、松平家の兵と知恵だけで成功させろという難度の高いお求めだ」

 確かに時間をかければ無理はない話に見える。それぞれ400人しかいない両砦に、5倍の松平家2000人が攻め込めば可能だろう。

 「松平元康が欲するのは、犠牲なき兵糧入れの成功だ。この戦は今川家の勝利間違いなし。だからこそ松平家が傷を負うべき時ではない。損害を出すことなく、しかもどうせなら派手にやり遂げたい。正面からの開戦は無用。忍び働きか情報戦で道を拓けとの御用だ」

 「難しくはありますが、我々にしかできない役回りではありませんか?」

 「そうだ。武士にはできない芸当。無理を叶えてこその立身。ここは忍びの術に徹するぞ」

 「こんな時にはどんな術を使うのが有効なのでしょうか?」

 「欺く。右手を振り注目を寄せたら、左手で相手を刺す。参差(かたたがい)の術。基本的な謀術だ。お前たちは今より当事者になるから本当の狙いを伝える。情報を漏らしたら、家人とはいえども殺すからその覚悟でいろ。松平家が丸根砦を、今川方の朝比奈家が鷲津砦を包囲するが、攻撃はしない。すると彼らは松平家が兵糧入れを狙っていると分かっているから、別で動く小荷駄隊を注視する。しかし我々の本当の狙いは陸からではなく、海からの兵糧入れだ。右手を振って、左手での刺しを相手に警戒させ、実は足元からの兵糧入れ。3段階の偽術」

 「海から?!これは派手な」

 「これが整えば、今川家・松平家のどちらからの命も服部家が叶えることになる。大勝負でこその大功績。そこでだ、正成と剣で長島の服部友定のところに使いに行ってくれ」

 半三は二人に密書を渡して説明する。

 「丸根砦と鷲津砦を包囲した丁度の時に、周囲に気付かれることなく、長島から大高城へ船での兵糧入れを頼め」

 「初めて名を聞きますが、我々とその服部友定とはどういう繋がりが?」

 「服部友定とは血縁も面識もない。彼らは織田家と敵対している一向宗徒だ。敵の敵は味方の考えで今回だけ提携する。服部の姓を持つ同士ということで忍びの影を増幅できる。服部友定が忍びであるはずはないが、人々は服部の姓に勝手に幻を見る。これも術だ」

 それほどの任務を受けるのは正成にとっても初めてのことだった。

 舟を乗り継いで河内長島へ、服部友定へ半三の書簡を届けた正成と剣。

 剣がその道中を覚える眼差しは鋭い。次に来る時は服部友定に派兵を依頼する直前だろうから、どの道を選べばより早く目的地に到着できるか。忍びの関心はそこにある。

 使いの途中で正成と剣は話し合っていた。

服部家に生まれ育って18年、厳しい鍛錬を積んで得た忍びの術。

 それをどう活かして自分を立てればいい?自分が生き続けるためだけの忍びの術でもないよね。

 服部家をもっと幸せにできるのではないか?

 忍びが真っ当に評価されないのも分かっている。

 だが、大名が謀略で他家を滅亡させるのも、侍大将が敵陣の油断をついて襲撃をするのも、忍びが術で人の弱みを攻めるのも、どれも相手を欺くことに違いはない。

どうして忍術だけが評価が低くなるの?表舞台に立つ武士か、裏に隠れる忍びかの違いだけだとしたら、やりきれなさが解けない。

筧重忠という武士は、1547年に松平忠倫へ偽って降参し、寝所に忍んで松平忠倫を刺した。松平広忠(元康の父)から大功を認められ、百貫文の加増を受けた。

岩松八弥という忍びは、1549年に松平広忠の暗殺に成功したが、その場で成敗されている。あれは織田家が放った忍びだったが、大功として認められるどころか、その子供まで罪の引責で抹殺された。

敵将の暗殺という同じ成果。正成と剣の見方が歪んでいるだけかもしれないが、武士は主命に忠義な美談として、忍びは暴走した狂人として、扱われた気がしている。

忍びがかわいそうだよ。名誉なはずが、不名誉に逆流して。忍びの僻みなのかな、武士社会ではそういう風に認識されがちだ。

そんなことがもうずっと繰り返されている。

正成は忍びの術も教え込まれてきたが、長兄の保俊や三兄の勘十郎は武士のことばかりを父半三から学ばされている。

父こそ感じていること、やり切れないことがあるのだろうな、我々二人の不満どころではない苦悩が。なんとかしようと将来に手を打つ中の一つが、我々三人に与えられた役割分担のはず。

暗く考えていても気が晴れない。

今日は、今川家と手を結ぶ甘い餌を与えて、服部友定を仲間に抱き込む使命だったな。

1560年、丸根砦を包囲した松平元康だったが、積極的な攻撃は控えていた。隣の鷲津砦は今川方の朝比奈泰朝が取り囲んでいる。

織田信長は清洲城から動く素振りを見せない。それもそうだ、前年に尾張北部を押さえたばかりの織田家が動員できる兵数は、駿河・遠江・三河3ヶ国に加え尾張南部の一部を支配する今川家に遠く及ばない。北条家・武田家との甲相駿三国同盟によって、今川家は領内に残す兵数を抑えることができている。

隣国の美濃や伊勢と同盟を結んでいるわけでもないし、援軍をあてにできない織田家に勝ち目はない。

本気になって尾張に侵出してきた今川義元、まずは大高城・鳴海城の周りに築かれた織田方の付け城の排除、大高城・鳴海城の基地化をするだろう。それが成ったら、あとは一気に清洲城を落とすだけ。

今川家の太原雪斎が甲相駿三国同盟で成し遂げようとしたことを、今川義元は結実させようとしている。先が見えている戦いに違いないと誰もが思った。

数日前、正成と剣は再び長島まで駆けて、服部友定へ計画実行日を伝えていた。半三の命により、正成と剣は別々の道をとって時間差で使いに出ている。道中の不慮によって、服部友定へ使いが届かない可能性を軽減する常套手段だ。

松平元康からの書状を届けると服部友定は信用する。必ずや尾張を支配するだろう今川家にここで恩を売れば未来は明るいと考えた服部友定は、河内長島の海賊まがいの兵と関船を大高沖に向けた。

潮の満ち引きを考え、満潮過ぎの早朝に服部友定の関船が大高城近くの船着場に入った。わずかな間に兵糧を大高城内に運ぶ。朝のうちに関船は沖に戻った。

計略は成ったのだ。

ところが、まさに兵糧入れが行われていると同刻に、朝比奈家が抜けがけで鷲津砦へ力攻めをかけた。すると今川義元から松平元康へ、丸根砦へも力攻めせよという至急の命が届く。

朝比奈家が松平家を動かそうとしての方策に違いない。そうでもなければ、これほど早く今川義元からの伝令が来るはずがない。

無傷の策を秘めていたのに、こうなっては仕方ない。松平元康はしぶしぶ丸根砦を落とすことを決める。望まぬ攻防戦で被害が出た。

丸根砦を落した後で、昼過ぎには大高城に入れという命が今川義元から松平元康に下された。

大高城主は鵜殿長持という武将だったが、その強さを半三たちは目にした。兵糧が入ったばかりということを除いても兵は冷静であり、士気は高い。こんな将兵ならあと半年でも持ちこたえたのかもしれない。

兵糧入れは計画通りだったのに、存外のもので全体を乱されてしまった。戦なんてそんなものか。

大高城の兵糧入れには、同族のよしみで連携し成功したと誇張した半三。

相手を惑わしつつ、生れた隙に目的を遂げる忍びの術の応用。知恵者であるか、表裏の者と軽視されるかは分からない。

 正成と剣は話し込みたい気分だった。忍びの家に育つ中で思うところがある。

「父の言う通り。武士の槍働きと比べれば、忍び働きの真っ当な評価はない。成果を出したとしても、後で依頼主から口封じされる。人にあらずの扱いでは、混乱の戦国時代が終わると同時に用済み。俺には身分の違いの壁が見える。使い捨てされ、農民に戻るのか。どれだけの苦労と犠牲を重ねても、忍びは武士未満で確定。それに俺は我慢ができない」

正成がそこまで思っていたとは。

「前に岩松八弥が抹殺されたよね。成功して忍びの矜持を見せたのに。裏切り者扱いだったの?」

「そうだよ。主命の真意を取り違えた忍びが勝手に暗殺したとして、織田家中で処理された。そんな扱いが服部家にも及んだら、俺は我慢ができそうにない」

「正成、武士にならないと、服部家に明るい未来がないの?ずっと無足の軽輩のままでは駄目?今のままでもそこそこ平和だし、本当に戦国時代って終わるのかな?」

「駄目だよ、剣。三河は今川家という強い後ろ盾があるからまだいいが、誰か余所者に支配されたら死ぬまで奴婢扱いだ。手縄・足縄で拉致され、他国に連れ去られた足弱たちの様は聞いたことあるだろう?あんなの厭だ。自分で服部家を守らないと。忍びの術があれば自分一人は守れるが、家人は守れない。武士にならないと」

「そう簡単に武士ってなれるもの?足軽になっても仕方がない。僕たち忍びと同じ苦しみは、足軽だってそうだ。半農半士で使い捨て、本当の武士階級になって扶持米を貰えるのは一握り。抜群な戦闘能力や特技、家系を持った恵まれた人たちだけ」

「忍びには特技がある。武士にも農民にもない術。工夫次第で評価される方法があると信じている。忍術を極めても、生をかけて得たその術が自分を助けないなんて。変わらず使い捨てで、化け者として遠ざけられるのは嫌だ。忍術を使って、いっそ武士より優位に立つ飛躍がないかな」

「忍びが武士になれるもの?忍びに積極的な武術はないから、戦場での直接攻撃では活躍できない。本物の武士に武術で敵うものか。僕らができることは陰での破壊と情報工作だけ」

「そうだよね。大きな一歩が見当たらない。飛躍の方法、飛躍の方法か」

「武士の強みは、個人より家を優先するところと聞く。同じことができないかな。忍術を個人単位ではなく、家単位でするとか?」

「忍術ってどうやっても個人技だよね。服部家としての家単位か、想像が難しい」

「家長が仕事を受けて家人総出で仕事をこなすのは、どの忍びでやっていること。武士の場合は、金を出して集めた与力がいるのだろう、そうした与力の成果も家長が吸い上げて自分の家を立てている。忍びにも客忍はいるけど、与力とは違う。上忍・中忍でも他家の成果を勝手に奪ったら、忍びの約束に反して伊賀惣国一揆は崩壊かな」

「分かる。だが、忍びの個人技を集団技にしないと武士より成果が出せない気がする。しかし、忍術は大集団にはそぐわない」

 「そぐわない。忍術は個人によるものだ。個々ではなく、集まって合力しないと武士には勝てないのも分かる。知恵を出せ。彩、何かこれに関連した話ってないの?」

「こんな話を聞いたことがある。雑賀衆の頭は、雑賀孫一という名前を代々受け継いで何代目雑賀孫一と呼ばれている。時間が経てば何代目かの仕事かということは忘れられて、雑賀孫一という名前を聞いただけで誰もが畏怖する仕掛け。こういうこと?」

 「近いね。1つに集約するのがいい。ただ僕たちには時間がないから、何代にも渡って重ねても、戦国時代が終わる前に形にしないと意味がない。惜しいけど違う。似ているけど」

 「そうか」

 「今の時間軸だけに集中。複数人もしくは複数家の仕事を。一点突破するしかない」

 「みんなが同じ名前を使う?半三保長をみんなが名乗って、半三保長に成果を集める」

 剣が呟く。

 「恩賞の配分に無理がある」

 現実くさい正成の返答。

 「まぁ、そうだ」

 「恩賞のことまで考えてはいけないのか。まずは、仕事の成果の飛躍的な拡大か」

 「武士みたいに家長が恩賞を分配できるかな」

 「できるかな、忍びに。内輪揉めをして、内部崩壊しそうな気がする。各々が誇り高いのが忍び」

 「まぁ、やってみないと分からない」

表向きの堂々を好む武士、分身の術は堂々でないと見なされる予感がする。一人一人か。

戻ったら彩にも話を聞いてみて考えようというところで話は終わった。

その夕方、大高城内が騒がしくなった。使い番が来て、今川義元が討たれたという知らせが入る。

「馬鹿な・・・」

半三は表情を失った。別に誰が死んでもいい。小が大を倒したことにも感慨はない。

しかし、今川義元がいなくなったということは、大高城兵糧入れの意味が失われたのだ。服部家は功を得たが、恩を逃した。

どれだけの大軍であろうとも、総大将がいなくなっては統率が取れない。大高城が急襲されれば安泰ではないと感じた松平元康は、その夜のうちに大高城を捨て、岡崎の大樹寺まで退いた。

兵力差で一蹴かと思った矢先の、織田家の鮮やかな逆転劇。

当初の約束通り、大樹寺で服部友定を松平元康へ挨拶させた半三だが、心は優れない。もう服部友定のことはどうでもいい。恩賞は期待できない。

次の功を狙う半三は偽術を企てる。

岡崎城下に散らばって服部家人たちは噂を流した。間も無く岡崎城に織田家が襲ってくると。

昨日までなら戯言にしか聞こえない内容でも、総大将・今川義元を討ち取るという離れ業をやってのけた織田信長なら有り得る、と誰もが受け止める隙間がある。清洲城から岡崎城の距離は11里、一日あれば行軍できる。

人の弱い心に漬け込む、忍びの偽術。岡崎城には混乱が生じた。

岡崎城代の山田景隆までもがその恐怖に負けて今川領まで軍を退いた。

今川義元亡き今、籠城をしても援軍が来るあてがない。1人の総司令官の有無で状況は変わる。戦国時代とはそれほど脆いものだ。

捨てられた岡崎城を松平元康は拾う。実に11年ぶりに岡崎城に松平家の主君が入った。

久しぶりの本城復帰に三河衆の士気も上がる。この功績の一部は服部家のものとして認識された。嘘を流したことは武士として堂々ではないが、誰もが満足の結果になったことで服部家の体面は保たれた。

半三の舌打ち。松平家で若干の名を売れたのは良いが、本来は大殿・今川義元からの褒美だったのに。俺は大仕事を織田信長という幸運の男に奪われたぞ。

正成も剣も彩も思っていた。やっていることは双忍の術そのものじゃないか。忍びと武士がどう違うのか、納得がいかない。同じことをしていて、表面が武士か忍びかで評価が分かれるなんて、やり切れるものか。半三が武士の表面を出していたから今回はなんとかなったものの、忍び働きしかやっていなかったら、闇に葬られていたかもしれない。

「家長制度は長くは続かないだろうな、忍びの世界は個人技だ」

3人揃った場で改めて剣が言い出した。

「せめて有限にすることだね、10年なり20年なり。良く知った身近な数人ぐらいでしか無理」

「分かる」

「虚名はどうだい?1人の名と顔を前面に出して、実際は複数人がその一人のために仕事をする。忍びは正体不明だから複数人が色々な種類の仕事を分けて、別々な所に出没して、様々な手柄を立てても問題ないどころか、不思議感を出せる。瞬間移動したかのような、多能多芸の忍び。時間軸では一人がやっているように繕えば、武士と同じ土俵に乗る」

「いい感じ。雑賀孫一が時間軸で縦、時代継承だとすれば、それを横にして1つの名前を時間軸で横、複数人が同時期で創り上げる。忍びの虚像は存在感があるね。複数人の仕事や術を、1人の忍びの名のものに集約させるってことか」

「それだと忍びの化け物扱いを増長させるだけじゃない?正体不明は恐怖につながって、味方であっても武士からいつか排除される。表の看板は正当なものにしないと、長年継続しない。忍びでそれができるの?」

「そうだった。武士に移行していかないと目的は達せられない」

「例えば服部半三という父の名前を使って、服部家人や客忍が成果を出すとしよう。忍び働きの恩賞は半三が受け取って、それをみんなに分配する。今だってそういう形だね」

「そうだ」

「もう一歩踏み込んでみよう」

「服部半三は武士の顔でいないといけない。武士も忍びも両方凄い腕前でできるのが理想」

「それはそうだ。そんなの分かっている」

「理想じゃなくて最低条件か。武士だけなら他の武士でもできる。忍びだけなら他の忍びがいる。その両方を高度にできればどうなる?」

「忍びだけならいつか駆逐されるが、武士もできるなら邪険にはされない気がする。戦国の時代において忍びは不可欠。一方で忍びにとって、武士であるという表面は自分を守ると思う。だけどそんな簡単に両立は無理だろう、父半三だって頑張ったけど忍びから武士への移行は十分ではない。どっちつかずになって終わりだよ、普通は」

「半三ではなく、服部半蔵保俊の名前を使って偶像化するか?兄の半蔵一人に功績を集中させる。服部家というか服部半蔵が幹で、忍びから武士まで成果を出す。服部家人は半蔵の陰となって半蔵を盛り立てる。忍者と武士の頭を兼ねる半蔵。伊賀の忍びから出て松平に仕えたのが父半三。次代の半蔵が忍びと武士を兼ねるというのは話に合う」

「20年間の有限で服部半蔵という虚像を皆で作り上げたいな。僕たち3人は同年生れで同じ服部家中じゃないか。他にも同年生まれの近い仲間を募って、一世代のみの服部半蔵の陰役ならいいんじゃないか。特技も分かれているし。武士担当、忍び担当、情報担当。他も担当制。虚像とはいえ顔がないと表に出れない。代表者は長兄の半蔵保俊だ。半父三から家督を継いだ時点で、顔半蔵として立ち振る舞ってもらう」

「みんなは兄保俊を真似て、保俊のために忍びや武士の仕事をしてくれるというわけ?」

「いいや、違うよ。馬鹿だな。顔半蔵は偉くないと言っただろう。逆に顔半蔵が俺たち複数の忍びの仕草を真似て動けばいい。元が忍びだからそのぐらいはできるだろう。いろいろな半蔵が手分けして服部半蔵を造る。いいか、半蔵だって服部家中では偉いわけではない。忍びは個人個人が主だ。伊賀惣国一揆。保俊はただの顔。顔半蔵」

「考えてみよう。また話そうよ、このことを」

 面白い話になった。まだ座興の域を出ないが、顔半蔵の考え方。

正成は考える。今回の服部家は武士の働き方をしたのではない。

今川義元の首を取った服部小兵太への世間の称讃ぶりが羨ましかった。あれは武士だからだ。寡兵で敵将を討ち取った大名・織田信長の武名は一気に世間に轟いた。

それに引き替え、大高城兵糧入れの功績が称えられることはなかった。岡崎城奪回も似たようなものだ。忍び働きをした武士を、松平家も世間も冷徹に見ているということか。

堂々の武士働きではなく、忍びの術を使った服部半三保長には、本当に武士なのか?という冷たい目が注がれる?

忍びの頭領としてだけでは生き残るのは困難だよ。表立った槍働きに、変化していかないと。なるべく早い段階に。

俺に何ができるのだろう。武士担当の半蔵に成りきれるかな。

武士といっても1つの型に限らないが、あの服部小兵太のように武術で名をあげるのが立身への近道。だが、俺にはその身体的な力は期待できない。将として大人数を束ねる経験をしたこともないし、ましてや戦略や算術ができるわけでもない。専門家に特化できず、平凡な下級武士として使い捨てになってしまうかもしれないという悩みは尽きない。

まだ父半三の時代だが、兄の保俊が家督を継ぐのも間もない。本物の武士の仲間が欲しい。それは自分ではなれない。忍びから脱却するための土台が今の服部家に必要なのだろう。

剣には満足感があった。今川家からの大恩は逃したが、大高城に服部友定の船が入った時のあの喜び。敵兵を突き倒す時どころではない感動、忍半蔵の仕事はああいうこと。

武士にはできないことを結実させた時に、忍半蔵として生き甲斐を感じた。

 岡崎城に収まったのも束の間、松平元康を取り巻く動きは忙しない。

 今川義元の嫡男・氏真はすでに今川家の当主を継いでいたが、父の仇打ちや今川家の名誉回復のために尾張・三河方面へ力を向ける動きを見せない。

 自領・駿河での立て直しに今川氏真は精一杯と見切った元康は、三河領内に残った今川方・織田方勢力の排除に出る。昨日までの味方は今日の敵、武士の世界にも非情さは介在する。

 挙母・梅坪・高橋・広瀬・伊保の各城を取り返した元康。次は東海道線沿いに出ようとしているのだろう。本格的な戦闘で始まった三河境の取り戻し戦は次第に風向きが変わっていき、織田側の抵抗が弱まる。和議が成立し、織田方が去っていくことが増える。

 信長と元康の和睦交渉が、水面下で始まっていた。昨日の敵は今日の味方へ。尾張と三河の境目さえはっきりさせれば、それ以上の争いごとはない。

 元康の目は今川家が実効支配する東三河に向けられていた。

 服部家にとっても連戦を強いられる歳月となった。ここでは半三は武士としての手柄を立てようと、槍働きを優先しようとした。

そんな中で、長兄・服部保俊が三河高橋城で戦死した。

門のない脇道から保俊率いる服部家人は城内に侵入し、火を放って混乱を生んだことで、松平家の本隊が正門突入する切っ掛けを開いた。

ところがどうだ。保俊の功は認められなかったどころか、討ち死したことすら名誉として扱われていない。敵の弱点を突くという堂々ではない忍び働きをしたから、死んで当然とさえ言われた。

どうして認められない?保俊は武士の色を濃くして戦ってきた、立派な武士だよ。服部家は忍びだけではない。これが武士の戦死として認められなかったら、何が武士なのか誰か教えてくれよ。

保俊を失った悲しみを見せる暇もなく、服部家は従軍して幾つもの戦いを繰り返した。

 考えれば考えるほど、思いつきは膨らんでいく。

俺は顔半蔵にならないといけない。次兄・保正は妾の子で伊賀との連絡役として伊賀に住んでいるから服部家の後継者にはなり得ないという。三男・勘十郎と四男・久大夫は身体は強いが、家長としての全体管理の才能を半三から認められていない。

成果を出せば、お前に半蔵を渡すと父半三から言われた正成。

考えの転換が求められている。服部家を俺が継ぐとすれば、1分野の専門家ではなく、複数分野に通じる汎用性を持った男にならないといけない。

元々、俺は諸芸70点男と呼ばれていた。何かひとつに精通したわけでもないが、裏を返せば忍びも武士も学問もできるが。

何もできないけど、大体できるという意味で、他人とは違う。そんな自分に劣等感があったが、全体把握の顔としては適任かもしれないな。

武士にも忍びにもなれない自分の芸無しぶりにずっと落胆していた。思わぬ居場所が見つかった気分。みんなの後押しを受けて、顔半蔵として服部半蔵の前面を上手く演じられるだろうか。

手足のない本体。主体のようで主体ではない。

 俺は偉くない。半三の息子だから偉いと勘違いすることはない。

僕は忍半蔵か。得意とする忍び働きを、服部半蔵の名の元で引き受けることはできる。陰忍という、表の目にはつかない存在。

敵に見つかったら石投げで身を守って逃げる。一枚だけ持った手裏剣が最後の武器。重くて打ちにくいが、僕のお守り。忍んでいくよ。忍びの極意は敵に遭遇しないよう隠れながら移動すること。

できないことがある。

出世のための宣伝、武士との接点。それを別の半蔵が補ってくれたなら、僕は忍び働きに専念できる。面白い話だと思う、僕一人ではできない壮大な計画。

私は女半蔵。忍び働きのうち、情報入手だけに特化してやればいい。陽忍という、世間に顔を見せて行動する忍び。

元々格闘は不向きな身体、男と同じ場で競っても意味がない。戦いになったら逃げるだけ。

世には男と女しかいなくて、両性は決して左右に交わらないから、女半蔵は世の半分を取ったも同然。

女の都合を使っていきなり男の頭上から攻めて行ける。男たちの間で競った成果や立場に構うことなく、どんな男に対しても水平に入っていけるのが女。ある意味、女忍びには水のような空気のような無類の強みがある。

 忍半蔵。女半蔵。顔半蔵。他にも半蔵を集おう。

 個人を越えて、虚像としての服部半蔵を創り上げる生き様。みんなの力で忍びという苦しい身分を脱却するために。

 三人は改めて同調する。服部半蔵という虚像を始めてみることにした。

 一人の力より三人の力、忍びと武士の両立、服部家が栄えるためには今のままでは走りが遅いという想いの一致。色々な半蔵を集めて服部家を高めたい。

服部半蔵という主を一家で支えるのではなく、公平な家人が服部半蔵を演じるという道が見えた。絶対的な主はいない。この形は永続できないと分かっているから、共に育ってきた正成・剣・彩が現役の限りになる。この形が上手くいくかどうかも分からない。

やはり足りない。本物の武士、武術の専門家がいないと忍びから武士に脱却できないのははっきりしている。槍働きができる強い半蔵は何処?

頭のいい半蔵も欲しいし、金もないから未熟な集団。仲間を加えないと足りない。それはおいおい考えていくことかな。

20才には家督を継げと父半三から言われた正成。服部半蔵の虚像をあと2年間で形にしないといけないのだった。

 「やろう、3人で服部半蔵を」

 気持ちは合った。ぴたりと揃った。

その夜、不意に寝床へ現れた彩の姿を見て、剣は心を乱した。

「抱かれに来たの、剣」

 上等な絹の服を着て、まるで輿入れみたいな様相。元々顔立ちも整っている彩、化粧をしているのか、手に持つ蝋燭に映し出される彩は、美しく輝いていた。

 どういうことか分からない。

 彩なのか?薄汚れた屋根裏部屋に、こんな綺麗な存在が訪れるはずはないのに。

 僕を殺しに来る理由も見当たらない。

 幼い頃から共に育ってきた彩を俺は抱くの?家人か、仲間か、男と女か。互いに忍びだから、理由なんていらないのか?

 七面倒なことを考え始めた剣を見透かすように、彩は距離を縮め、女の匂いで男を圧し、自分の思い通りにする。

 もう考えられない。自分の腕の中に入った欲しい人。果てまでやり遂げる。

 肌に触れる激情に突き動かされ、剣は無心で彩を抱いた。

何もかも脱ぎ捨てたいよいよの時に、剣の耳元で何かを囁く彩。剣には素通りで、目の前の色彩を貪ることしか向いていなくても。

私は女半蔵。女ならでは術で成果をせかすから、忍び働きをして、剣。上手いことできたら、またやらせてあげる。

顔半蔵と忍半蔵、二人で競うのよ。初めは二人に、次はより頑張った方にやらせてあげる。命をかけて働いてね。私は女の命を削っての忍び働き。敵にかけるのは難しくて、味方にかけるのが性の術と知って。

 愛撫を受けている最中に、どうしてそんな難しいことを口にできる?本当の気がないから?

構わない、ただ彩を抱いて、僕を注ぎ込むだけだ。

 この先の自分よりも、今の彩。

女半蔵に転がされている。

暗がりの中、彩と繋がる悦びに溢れ、剣は忍びの冷静さを失った。

ことが終わると、微笑んで静かに去って行く彩。

残された剣は、天井の向こうを見詰めていた。程なく眠りに就きそうに、意識はごく浅い。もう消えてしまう、柔らかい夢は。

僕は彩を抱いたのか?血が近かった彩ともこんな関係になっていくとは。

明日の俺は、忍半蔵として服部半蔵の流れに組み込まれる。それは自分が望んだこと。

 翌年の1561年に織田信長と松平元康の講和が成立した。

 桶狭間の戦い以降、今川家からの独立を進めた松平元康だが、今川家にとっては決定的な裏変わり。

 すかさず元康は東三河の額田や八名といった今川勢力内へと攻め込み、城主の板倉重定を蹴散らした。

 奥三河の国衆から、徳川家への帰順の使いが来た。

 西三河を押さえた元康の力を考えたのだろうが、織田信長と結んだ同盟が彼らを動かした。

 彼らとの橋渡し役を半三が申し出て、剣が奥三河へと走って行き、元康との間をつなぐ。

 今川家も黙ってはおらず、小原資良らを野田城へ派兵した。甲賀出身の小原資良は甲賀者を使って野田城内を物見する。

 ある日、放下師の伊勢踊りが野田城内で始まった。10人ほどの集団が踊り出すと、釣られて城内の民も加わる。誰でも簡単に楽しむことができる伊勢踊りはどこでも流行っていた。人の警戒心を解く効果がある。

 「うち、忍びは4人」

 偶然、野田城にいた剣の目には分かる。

 大半は誘われた足軽や小者だが、何人かの足付きの根には忍びの所作があり、笑った目で見ているのは城内の配置だと。

 直接攻撃は不利。行き掛かりとはいえ城内に味方がいる剣には地の利があるが、忍び同士が4対1では逆に自分の身が危ない。

 城の監視役に事情を話して、放下師団の進行方向の物陰に兵を向かわせる。合図に合わせて兵が放下師団を囲むと同時に、剣は屋根上から棒手裏剣を打ち込む。放下師姿の4人の怪しい人物だけを狙った狙撃だ。

 空を切った棒手裏剣。

 当然、兵の気配を察知していただろう甲賀者は素早く身をかわすと、足元に笛や太鼓を派手に落とすと、その音で周囲の気を逸らせながら、どこへとなく姿を消して行った。

 負ける戦いではないが、今川方の甲賀者が野田城内に入り込んだと知ったら、城内の士気は下がる。

 そう直感した剣は、伊勢踊りに加わっていた民たちが驚いている間に、すかさず駆け寄って笛を拾った。

 「交代の時間でした!我が芸をお見せしよう!」

 そう大声をあげた男からの笛の音は明るく楽しく、場を一気に元に戻した。

 「さぁさぁ皆々様、踊りはこれからですぞ!」

 剣が誘うと、甲賀者のことを忘れて、民はまた踊り出す。囲んでいた兵たちの姿は消えていた。

 知らない場所に入りやすい放下師に成り済ますのは忍びの術のひとつ。会得していた笛の技が役に立った。

 状況は元康が求めたように進んでいった。西三河は安定し、尾張との和議があるから北西への憂いはない。今川家と接する奥三河は、味方についた国衆たちが死にものぐるいで守っている。すると元康の進行方向は東三河だけに絞られた。

 西尾城を落とし、吉良義昭を降伏させた元康。より南へ、三河一国を取り戻すために。

 女体なのか。

丸い線が近付いてくる気配を感じて、剣は身構えた。

彩。白い服に胸の膨らみがはっきり張っている。透けて見えた乳首の形。

いけない。

目を逸らそうとしたが、もう遅い。

一瞬で剣は自制を失った。そんな馬鹿な、この俺が。

術に落ちている、術に落ちている。

「顔半蔵より頑張ったから、今回は忍半蔵にやらせてあげる。防諜は忍びの手柄、次も頑張れるでしょ」

えっ?あの色濃く匂う彩を俺は抱けるの?

豊かな髪の引力にむせかえり、鋭角の横顔の美しさに目が留まる。爪先から脳天まで、狂喜に満たされる自分を剣は覚えた。

女半蔵の術とは分かっていても、惚れた女には弱い。

もう一度繰り返す、あの営み。首筋に唇を押し当てて、俺の頂点まで。

終えて、剣はそのまま寝落ちしていた。彩を横抱きにしたまま。

互いに目覚めると、彩は微笑みを残して去って行く。

彩の柔らかさに、心の置き場を定め始めた俺の自然体。忍びなのに、家人同士なのに、空想が連なってくる。

手を伸ばして、彩をこの先も引き寄せたい。そのために俺は何をすべきだろう。

忍半蔵として結果を出せば、欲しいものが手に入るという好循環。すっかり術に落ちている自分を剣は知った。

女を抱いて意識を失うなんて、忍びには致命的な油断。いつの間に俺は忍びを忘れたの?

それでも、生きている喜びを鮮やかに感じた。これが本当の自分自身か。忍びの術で功を挙げても、こんなに身を震わすことはなかった。

忍半蔵は忍び働きにもう手段を選ばないだろう。成果が欲しい。それは彩が欲しいということだ。

冷徹のようで、その実は色情に流されている忍びなんて、笑い飛ばしてくれ。

また大仕事が舞い込んできた。

1562年、松平元康は三河宇土城を攻める。

守将・鵜殿長持は今川家の縁者で、高名な武士、城は堅固で強兵が揃っている。あの大高城兵糧入れの時の守将だ。

正面から攻めては損害が大きいため、服部半三に裏工作の命が下った。同時に、甲賀出身の忍び・伴資家にも忍び働きで攻め込む隙をこじ開けろという名が元康から伝えられた。

伊賀者と甲賀者、生き残るのはどちらだ、という仕掛けで尻を叩くのか。強者の間を縫って三河を守ってきた松平家ならではの厳しい仕打ち。だが、この程度のことは難なくこなさないといけない。

 忍半蔵は敵城内を調べに出る。

松平家の兵がどの通路で城内を進めばいいか。長持の本陣はどこなのか。それを憶えて、城を抜けたらすぐに地図に描きたい。

忍びの基本とも言える仕事、忍半蔵には容易い。問題は宇土城が開戦間際ということ。警護は厳しくなっており、兵士たちの意識も高まっている。防諜間者たちも当然配置されているだろう。

糞尿や死体を城外に出す不浄口から侵入するのが定石。自然とここに一番の油断ができる。高いところに登ってしばらく動かず様子を見る。兵たちがどう動いているかを見定め、次の自分の移動地点を決める。夕方に雨が降って霧が出ていたが、今は闇夜で侵入には丁度良い。

時間をかけて城内の位置関係を把握する。敵方の監視も厳しかったが、長時間動かず用心深く気配を消した忍半蔵にとってはまだ対応範疇内。面倒な犬たちを減らしておこうと、毒入りの犬の餌を撒いておく。

最後は長持のいる建屋を探すために一歩踏み込んで近づかないといけない、これが危険な行為だった。

便所を見つけるとじっと見張る。鵜殿家人らしい女人が用を足して戻る道をたどる。そうか、親切に僕を案内してくれるのか。

母屋らしい建屋に当たりをつけると、その庭先の闇に埋もれて様子を探る。夜も遅い時刻なのに、使い番が来て何かを報告していた。

「甲賀の忍びが参戦しただと?それは要注意だな」

交わされる小声も、訓練した忍半蔵の耳には聞き取れる。伴資家ら甲賀者がこの戦に加わったのがようやく伝わったのか。そんな報告をしているならば、ここが本陣か。声の主は長持に違いない。

好機を感じ、剣は一歩踏み込んで庭先まで近づく。これが余計な行動だった。

「それならすでに甲賀の忍びが城内に潜伏しているかもしれないな。気配を読め」

そう言うと長持が庭先まで出てきた。

あたりは完全な暗がりだが、達人であれば人の気配は読める。忍半蔵がいくら息を細めても、長持を警戒している限り、気配が無になることはない。

長持は刀を抜いた。悟られたのか?偶然なのか、忍半蔵がいる方向へとにじり歩きしてくる。

逃げるか。いや、さすがにこの暗闇で武士の長持が忍びを見つけるのは不可能だ。長持の人物像が分かるのは得だ。大高城では一瞬のすれ違いだった。時として危険を冒さないと手柄は手に入らない。

確証はないはずだ。武術の達人として気配を悟ったとしても、闇に目が利くわけでもない。まさか忍びの心得はないだろう。一廉の達人ならではの総合力。すると、忍半蔵が油断をした時の気配を読み取って、刀を一閃するわけか。

忍半蔵の背後の壁を乗り越えることは危険。左右に逃げるしかない。最初の一太刀は怖いから、むやみに動けない。

 じりじりと長持が近付いてくるが、さすがに暗闇ではそれ以上の察しがつかず、長持の動きは止まる。互いに次の一手を待っている。まさか長持がここまで武術に長けているとは、松平家の誰も知らなかったはず。

 「いる。お前は遠くに去れ。お前の気配が邪魔して忍びを探し当てられない」

 長持はそう言い、寄って来た家来を遠くに退けた。

 暗闇に二人。

4歩踏み込まないと斬り込めない距離。長持は刀を抜いているし、剣は手に手裏剣を持っている。真剣勝負となった。

 そのまま四半刻が過ぎた。月は出ていない夜、闇の中では次の動きの切っ掛けがない。忍半蔵の忍耐力ならこのまま明け方まで微動しないこともできる。

 長持も大したもので、四半刻に隙を見せない。剣はこのまま待つのは自分に不利と判断し、次の手を準備していた。

 ふと、剣は遠くに異質を感じた。

 誰かがいる。遠くで誰かがこの光景を見ている。それは冷たい目で、誰かは忍びということになる。敵か味方かも分からないが、確かにいる。自分の気配をわざと開放して僕の意識を逸らし、長持に攻撃させる隙を作ろうとしている。

 忍半蔵は得の忍びへの注意を打ち切った。目の前の長持に意識を集中する。

 心配した家来たちが長槍を持って駆けつけてきた。そうだ、それを待っていた。

 「近寄るな」

 長持が声を発した瞬間、忍半蔵は腹話術を使って場所が特定されにくい発声をした。

 「甲賀奥義、霧隠れの術」

 短い言葉。

 長持は驚きを隠せなかった。忍びがいるという確証をようやく掴んだが、自分の声と重なって相手の声の出所が分からない。その声が聞こえた瞬間から、相手の気配が完全に消えた。

 一瞬とはいえ、長持に動揺が生まれた。甲賀の名前はもちろん、「霧隠」という生来初めて聞いた言葉に、見当がつかなく心を乱した。

 そんな動揺は1秒も続いていない。相手に打撃を許す隙にも相当しないが、忍びが1つの動作をするのには足りるのだろう。忍びは何かをして、気配を完全に消した。それまで薄く感じていた気配が無になった。

 長持は危険を察知した。相手の居場所がおおよそ分かっていたこれまでは、相手の動きを感じて刀を振り下ろせる自分が優位だった。相手の位置が分からなくなった今、自分の背後に忍びは回っているかもしれない。

 霧隠れの術だと?人間が霧をどう利用するのか。なんという大仰な言葉。

 いけない、自分の心に動揺ができた。相手の場所が分からない。自分の負けだ。利はないから、逃げるに尽きる。

 そう判断した長持は、真っ直ぐ後ろに走るのを避け、横走りでその場を離れた。

 危機は去った。

 足音の遠のきを聞いた忍半蔵は、術を解いて宇土城外に出る。

 紙と筆を隠していた場所に着くと地図を書き上げる。これで任務は達した。忍びが城に侵入した後で、城門から突入する松平家の作戦を立てることができる。

 危うかった。長持があれほどの武術の達人だとは。

 霧隠れの術。

我ながら、よくも言ったものだ。あの言葉を発した時、俺は足元に丸まっただけ。顔を両腕の中に隠した。土の温もりだけを感じようと意識する。どんな忍びでも相手を見ている間は気配が無にならないが、この鶉隠れという遁術は相手を全く見ないから気配は無になる。

これこそ危険な術だ。相手を見ないということは、相手が形振り構わず刀を振り回してきたら斬られてしまう。そもそも敵が至近距離にいるのに、視線も構えも外すなど並みの胆力でできることではない。運を信じて、心を無にすることで成り立つ術。誰でもできるようで、誰にもできないのが鶉隠れ。

術に移行する瞬間が問題だった。黙って鶉隠れをしたら、移動していないことを察知される。相手を動揺させる仕掛けが必要だった。それは双方の立ち会いの中では生じないから、外部からの何かが必要だった。

心配した家来が人数を連れて戻って来る時を待った。そこで長持が下知する瞬間に、相手を動揺させる。

霧隠れの術なんて聞いたことがない。反射的に思いついた造語。忍びでも霧には隠れられないし、霧を生むこともできるわけがない。聞いたことがない大袈裟な言葉で長持の動揺を生む。夕方に出ていた霧は長持も見ていただろうから、真に迫った響きを与えられると思い咄嗟に使った。

 忍びの胆力勝ちだ。

後日、長持が話している。あの状況を冷静に考えると忍びが逃げる隙もないから、逃げていないのでは?と直感したらしい。ただし下手にその場に斬り込むわけにもいかず、動かない相手は籠城のようなもので、自分から動いても自分の損害が大きいから不用意に動けない。ずっとその場にいればいいが、忍びに忍耐力では勝てないだろうから逃げた。相手は自分を見ていないという気配?そんな馬鹿なことがあるか。

城内から抜ける時は自分の動きが大きくなってしまうから、脱出の反対方向にある池に石を投げ込んで物音を立てる。兵たちが騒いでいる隙に忍び刀の柄の部分を足がかりに使って城壁を乗り越えた。

 服部家に戻ると城内の様子を事細かく話す。半三はその功を喜んだが、長持とのくだりを話すと、深刻な顔をした。

 「鵜殿長持が武芸の達人との情報はなかった。さすがは今川義元の妹を娶ったほどの将。そんな城主なら油断は禁物。よし、伴資家に様子を話して来よう。お前も一緒に来い」

 伴資家がいる寺はすぐそこだ。

 「鶉隠れとは良い判断だな。しかし、霧隠れの術とは大法螺を吹いたものだ。名前の意外性がいい。その部分は伴には話さなくていい。お前の秘術を明かすのも惜しいからな。ただ上手く逃げたということにしておけ」

 伴資家に城内の様子を話し、伊賀甲賀の構いなく忍び一体として協力を呼び掛ける。伴家には200名もの甲賀者が集まっている。甲賀の名家である多羅尾家の三河出先担当としての伴家だから、後ろ盾が確かだ。

 鵜殿長持は警戒して守りを強化するだろうが、伴家・服部家の忍びが総がかりをすれば打ち勝てる、ということで話は整った。

 剣は正成と彩にもそのことを伝える。忍半蔵として手柄を立てたこと、これで宇土城攻めが上手くいけば、事前情報を得てきた忍半蔵の功は大きい。

 「鵜殿長持といえば、桶狭間の戦いで今川義元が討たれたことを知って、真っ先に戦場から逃げた男の印象が強かった。逃げたのではなく、引き際を知る男だったのか。頑張ったな、剣。ゆっくり休んでくれ。霧隠れね、面白い。」

 彩も手柄を褒めてくれたが、その夜も、次の夜も、剣の所に来てくれなかった。

どうして?我慢ができない。たまらず剣は彩の寝床に忍び込む。

 「彩、手柄を立てたよ、抱いてもいい?」

 剣を見る彩の目は鈍かった。

「駄目。まだ早いよ、その気持ちは宇土城を落とすことに向けていて。功を得たらやらせてあげる。でもね」

「でもね?」

「今夜はいいよ、抱いて。あのね、私にご褒美が欲しいんだ」

 「ご褒美って?」

 「私ね、武術の専門家を仲間入りさせたの。槍半蔵。やっと見つけて、ようやく丸め込んだ。この宇土城攻めの際に服部半蔵として槍働きをしてくれる人なの」

 「それは凄いじゃないか!ずっと探していた武芸の達人かい?」

 「そう。顔を隠し、服部半蔵を名乗り、槍働きしてくれる達人。渡辺守綱っていう生粋の武士で、わたしたちと同じ年の生まれ。条件申し分ないでしょ」

 「うん」

 「報酬を提示して、事前に金と甘みを渡して、一方でその男の弱みを調べて握って、周りから状況を固めて逃げられないようにした。全部、正成と話しながら進めたよ。手堅くできた」

 驚いた。そんな理想めいた条件で、服部半蔵を演じてくれる武士を味方につけたのか、彩は。

 「剣、そんなことも今はどうでもいいの。わたし、ちゃんと働いたからご褒美を頂戴。抱いてよ、剣」

 いつになく甘えてくる彩。柔らかい雰囲気に剣は心を盗まれた。

 「僕が褒美になるのか?俺にとっては彩との抱擁は最高の褒美だけど」

 「なるよ。私は手柄を挙げたの。何が欲しいって、剣との愛のある交接が欲しい。女忍びとしての術ではなくて。今夜は剣のためではなく、私のために私を抱いて。ねぇ、お願い、剣」

 もう言葉はいらない世界。

氾濫する水流のように二人は抱き合って、忍びも世も忘れる。今なら自分が何者だっていい。明日もいらない。それほどに熱い時間。

 忍びは酒も飲まなければ、女を抱くのも時と場合を選ぶぐらいに慎重。油断が死に直結すると知っているからだ。

達人の忍びともなると女を抱いている最中でさえ、周りへの警戒心が途切れないと聞く。万が一、そんな時に他の忍びから襲われても逃げ切れる備えをしている。忍びには交接さえ死と背中合わせ。

 酷な忍びの生き方。剣にはそれができなかった。せめて本物の交接の時だけは、汚れだろうが死だろうが受け入れたい。剣に躊躇はなく、どうやら彩も同じく。死ですら彩との深い交接になる。

 俺は忍び。分かってはいるが、忍びでも好きな女は抱きたい。忍びでも、忍び失格でも。

 互いに果てて、また手探りの時間が戻ってくると彩がつぶやいた。

「私がまた手柄を立てたら抱いて」

 「分かった。俺が手柄を立てても、抱かせてくれる?」

 「いいよ、やらせてあげる」

 変な関係。ずっと傍にいて服部半蔵を演じている二人、いっそ毎日でも抱き合えばいい距離なのに。

 何かを感じているのは不幸な忍びだから?幸せだけでは生きていけない時代だから?

 「身を滅ぼすから。恋は自由でも、忍びは自由じゃない。いつもではいけないの」

 吐き出すように彩が口にした言葉が、剣の心を代弁していた。

 身を滅ぼすから。忍びらしい言葉。

まだ出来上がっていない服部半蔵の偶像に、幸せは似合わない。今は土を這って実績を挙げ、いつしか認められたら初めて幸せを享受することができる。

忍びの一刻先は手探り。それも甘いのかな。忍びに幸せなんて未来永劫あるわけない。不幸な生き方だね、彩。

 服部家人と客忍を合わせて30人の忍び働きだけでは、松平元康からの依頼を満足に果たせない。甲賀郡中惣のつながりを強く持つ伴資家の力を利用して忍びの力を倍以上にする。

 元康の思い違いだ、伊賀・甲賀は敵対関係にない。

 忍び同士で功績争いをしている場合ではない。忍び自体の価値を引き上げたい思惑が伴資家とも共通していたから話は早い。

半三保長からの下知は半日しか猶予がない。家人とはいえ、敵への密通を避けるためだ。陣鐘が鳴ったので集まると、半日後の今夜に奇襲をすると告げられる。

事細かい指示が半三から出た。勘十郎は足軽をまとめて松平家の前衛へ。正成は特命を持って同じく松平家の前衛へ。半三と半助は忍びを率いて城内へ。

正門付近に火を放つ役目の伴家の甲賀忍びが、鳥の子を投げ込んで城兵の意識を集めると、夜の闇を利用して城の周りから服部家の忍びも侵入する。

組織的な忍びが必要とされていた。個人技に走ることのない忍びだってある。城内に忍んだ半三と半助は、数人ごとにまとまって動いた。

火をつけると馬は暴れ出し、人は動揺する。

あとは容易いものだ。うろたえる兵を見つけては闇から半弓で狙い撃ちする、そっと背後に回って刺す。いくら鵜殿の兵が強兵でも、ある程度は忍びへの構えをしていたとしても、忍びの術に狙われたら駄目さ。普段の訓練も、警戒を重ねた防備も役に立つことはない。

 半助たち数名は、正門から長持がいる建屋への道を狙って無数の巻き葵を投げ込んでいた。巻き葵を踏めば足裏に傷を負って、どんな武術の名人でも本領を発揮できなくなる。人が一番移動する経路への罠。もちろん松平軍と今夜の忍びたちには、その道を歩かないように連絡が行き届いている。忍半蔵の地図が役立った。

剣たち数名は建物に火矢を射かけていた。長持の陣屋の裏手、城の奥の方から火を上げる。搦手門からも正門の前後からも音や火が出れば、混乱は加速する。

その途中で、剣はあの気配を感じた。長持と対峙していた時の遠くからの冷たい目。あの忍びがいる。この時この場所で感じるということは、伴家の忍びに違いない。

薄明かりが入ってくると、先陣の松平清善の軍勢が正門を突き破って宇土城内に流れ込む手筈。

忍びの術は卑怯だと武士は言うが、それは自分を正統化する言い訳にすぎない。生死をかけた戦いなら、相手方もその卑怯に対抗できるよう、防諜の忍びを雇えばいい。それをせずに忍びの侵入を許したのは武士の責任だ。

こんな時は武士は無力、忍びの手の上で遊ばれている。うっせきされた胸が晴れる、暗くても明るい忍びの時間。

日の出を待たず空が白み始めてくると、混乱に乗じた伴資家の忍びが正門を内側から開放させた。城外からなだれ込んでくる松平家の先頭を切る男は、巨大な槍を抱えていた。鬼を模した面頬を着けており顔立ちは分からないが、甲冑と装飾には特長がある。

「二代目半蔵、服部半蔵正成!」

そう大声を挙げた徒士立ちの大槍の男。城内の混乱を背に受けつつ、新手の前進を受けた宇土城兵たちは腰を据えて戦えるはずもない。好機を逃さず、槍で突きまくる服部半蔵。その槍技は事実凄かった。右から左へ流れるような槍技、疲れも重さも感じることはないのか?というぐらいに槍を振り回す。敵兵がひるんで距離を空けると、男は両手で槍を持ち上げる特徴的な仕草をして、咆哮を上げる。

 「うわぁ、鬼槍だ!敵わん!逃げろ!」

悲鳴があたりから聞こえてくる。なんのことはない、忍びこんだ服部家人が鵜殿の兵のふりをして声を上げ、背を向けて逃げて行く。それも忍びの撹乱術だ。

半三たち数人は建物の上から半弓や礫で服部半蔵の周りにいる敵兵を狙い撃ちしていた。味方にも気付かれないよう、服部半蔵の槍働きを助けている。服部半蔵が散々暴れて正門付近の兵を倒し続けると、城兵たちは逃げ散った。あたかも服部半蔵一人で正門を奪取したかのような働き。

「鬼槍の服部半蔵正成!」と叫ぶと槍を抱えて服部家の陣へ戻る服部半蔵。数十名しかいない服部家なのに、大袈裟な陣幕が整えられていた。足軽たちが服部家の大きな軍旗を掲げる。功を挙げた家が行う戦場での喧伝方法のひとつだ。

周囲の注目が軍旗に集まっている隙に、服部半蔵が陣幕に入ったと思ったらすぐに出てきた。

水筒を手にして、面頬を取る服部半蔵。あの正成の顔が現れた。

陣頭に立った正成は、今度は自ら突撃するのではなく、服部家の一隊に指示を出す将として振る舞った。個人の槍働きも兵の統率もどちらもできるような武士ぶりを、松平家の兵たちは服部半蔵正成に見た。

 正門を突破した松平軍は城内へ殺到した。勝負はあった。宇土城が落ちるのを感じ取り、民や非戦闘員が逃げ始めた。

 籠城も限界と知って、搦手門から鵜殿の兵が打って出て来た。血路を開いて逃げようとする兵の中に鵜殿長持の姿もあった。

 そこに松平家の一隊が立ちはだかる。旗指物を見ると渡辺半蔵守綱とある。

 逃げる鵜殿の兵列の横っ腹に渡辺半蔵の兵がぶつかる。先頭に立つ騎乗の渡辺半蔵の槍働きは凄まじかった。次々と兵を突く渡辺半蔵の槍捌きに恐れをなし、隊列が乱れ、鵜殿の兵はばらばらに逃げる。そうなると追撃は容易だ。

 伴家の忍びも加わってきた。追いついては要領よく忍び刀で突き、機敏に動いてはまた次を突く。忍びの追撃には手心はない。先頭を行く甲賀の忍びの動きの早さと冷たさ。あの時、剣に冷ややかな気配を向けたのはこの忍びかもしれない。

 宇土城は落ちた。松平家は鵜殿長持の子女を捕えた。後日、今川家にいた松平元康の妻子との人質交換として長持の子女は使われている。

 搦手門から落ちた鵜殿長持だったが、鵜殿坂で伴資定の忍びに討たれた。どんな達人でも、逃げるところを追撃されては成す術がない。

 宇土城攻略は甲賀・伊賀の忍びの大功、そして服部半蔵正成の槍働きが評価されるのと合わせて、渡辺半蔵の槍働きぶりが松平家中の噂になった。

松平元康に呼ばれた半三は正成を伴って、褒美を受け取る。

「教えてよ、今回はどういう術を使って宇土城を撹乱させたの?」

忍びが具体的に何をしたかを聞いてくる元康。

半三はところどころぼやかしながら、それでも大筋を話した。甲賀とは競うことはせず合力したこと、宇土城内への潜入と城兵の闇討ち。頷いて聞いていた元康だったが、半蔵正成の正門討ち入りの所で首をかしげた。

 「それは考えにくいよね。事実を話してくれれば悪くは扱わない。服部家中を忍び働きと槍働きの二手に分けた?どうも正成が強過ぎるな、何か仕掛けがあるのだろう?」

周りに流されつつも見極めながら生きてきた元康、独特の勘が真相に近いものを見抜いていた。

 慌てた半三だったが、こうした際に嘘をつき通せないと分かっている。

 「秘術を申し上げます。とある協力者に半蔵正成を演じてもらいました。渡辺半蔵守綱、彼は真の武人。芸に通じた誰かと連携して成果を出すのも忍びなれば、偽りもお許しください。」

「なるほどね、忍びに武士を組み込むとはそれは機知だ。武士には不可能な発想。忍びならではの強さ。敵が防ぎれない策だろうから、松平家には有用な技術」

頷きながら元康はもう1つ質問をした。

「どこまでが渡辺半蔵で、どこからが半蔵正成だったの?境目が分からなかった」

「陣に戻ってきた時に入れ替わっています。軍旗に皆の注目を集めた時、陣幕内に渡辺半蔵殿が入り、同じ甲冑姿をした正成が出ています」

「あの時か。軍旗に術をかけたのか」

「左様」

すると元康が知恵を出した。

「鬼槍半蔵・槍半蔵の異名を元康が宣伝するから、その異名で世間の恐怖と尊敬を膨らますのはどうだい?強いのが2人いれば敵の恐怖は3倍に膨らむ」

「なるほど、鬼槍半蔵・槍半蔵が松平家の先陣にあり、という触れ回りとは。恐怖心を敵兵に植え付けるには有用な術。渡辺半蔵殿も喜んでくれることでしょう」

この話に乗るべきと半三は判断した。忍びの術を明かしても、武士としての異名を元康が請け負ってくれることの方が価値がある。

「これも秘術ですが、服部半蔵正成の名の元に、複数の服部家人が仕事を分担しています。正成は顔半蔵として全体統括するものの、その陰には忍半蔵・槍半蔵・女半蔵などと、それぞれの分野で働く者たちがいます。全ての成果を服部半蔵に集めています」

服部半蔵の虚像を話した半三、それは大きな賭けだった。忍びの実態に不審を抱くかもしれないが、ここは乾坤一擲の勝負。今の元康の顔色ならば、前向きに受け止めるかもしれない。

「半三の家長とはどう違うの?」

「半三と家人は上下関係ですが、半蔵の虚名は対等な役割分担です」

「なんと。そんな分別があるのか。家長にではなく、個人に集約。これも武士では考えつかないことだ」

さすがの元康も一瞬では理解できなかったようだ。少し考え込んで、言葉を続けた。

「納得できることだな、服部半蔵の虚像。鬼槍半蔵として武士の顔を持ちながら、その実、忍び働きもする。なんと言えばいいか、今の松平家に相応しい。我々は今川家・武田家・織田家という強い力の狭間をうまく生き延びないといけない身上。表はもとより、裏で動く必要性に迫られている」

ここぞとばかり正成が口を開く。

 「それこそ服部家の強みです。武士と忍びを兼ねることで、これまでの忍びにあった正体不明を生みません。服部半蔵を存分にお使いください。」

元康は少し考え込んだ。

「提案がある。その服部半蔵という虚像の使い方に、俺も口を挟ませて欲しい。脳半蔵としてな」

驚いた半三と半蔵。

「俺も1542年生まれだぞ。少しは知恵が働く。いいだろう?忍び働きに武士の将が入っては駄目という決まりはあるの?」

「それはありません」

「では決まりだ」

脳半蔵。大物を加えて、服部半蔵という虚像は大きくなる気配を見た。

服部家に戻ると、正成は剣と彩に報告を入れる。

「新しい仲間ができたよ。脳半蔵。頭が良くて、1542年生まれ。服部半蔵に入れてあげてくれ」

「誰でも良いが、誰?」

「松平元康」

「え?えっ!」

剣も彩もびっくりして、そして若干の疑いの目で正成を見た。

「とんでもない隠し玉だな、正成。これまでで最大の術じゃない?!」

「驚いてくれ、喜んでくれ。この仲間を俺たちは上手く操ってみせよう。服部半蔵のために、服部家のために」

槍半蔵に続いて、脳半蔵。その道の本物たちが集うことになった服部半蔵という虚名は本物になるかもしれない。拡大していく服部半蔵。狙いを違わず、目的に向けて確かな足取りで進んでいることを3人は感じていた。

思わず流れる沈黙、鮮やかな光栄。服部半蔵に吹き込まれる新しい風に3人は吹き飛ばされそう。

話題を変えよう、笑い話でもしなくては。

「ところで、渡辺家って鬼退治の家系だよね。渡辺半蔵のご先祖様が鬼退治したと聞く。鬼槍半蔵は槍半蔵に退治されてしまう運命ってこと?」

真面目には言っていない正成。

「面白いこと言うのね」

「鬼退治されたから鬼槍半蔵だしね」

「鬼は隠、隠は忍びを意味するね。鬼半蔵と忍半蔵が服部半蔵にいるのも不思議ではない」

落ち着きを取り戻し、3人は普段の会話を続けた。

 宇土城の戦いが終わると、半三は服部家の家督を正成に譲った。

正成は半蔵の名前を継承し、服部半蔵正成と名乗った。音は同じだが、字は半三から半蔵へ。小さな成功なら積み重ねてきた。服部半蔵の虚像は追加の演者を得て、いよいよ表へ出るのだった。

 「顔半蔵を褒めてあげたいと思うの。脳半蔵って凄い手柄」

 何故か置き残されていた彩からの手紙。

その短い文章を見て、剣は激情に身を囚われた。

 褒めるって?言葉で?それとも、別の方法で? 

 皮膚から嫉妬の汗が湧き出てくる。冷静は散り散りだ。

それも女半蔵の術なのだろう。

尻を叩かれ、成果へと向かわされる忍半蔵。働きが少なければこんな罰を受ける。

術とは分かっている。分かってはいるけど、ただ彩が欲しい。欲しいから、僕は忍半蔵を突き進むだけだ。

 顔半蔵も同じだろう。

こんなこと、正成と話したことはない。今後も話すつもりもない。日頃は一心同体、暗黙の中においては競争相手になる。二人が進む先細い一本道に、強い餌をぶら下げてくれる女半蔵の心持に感謝すべきなのか。

翌週。本当は山ほど在庫があるのに、棒手裏剣の数が足りないとうそぶいて、剣は彩を小屋に連れ出した。

手分けして作業にかかる。50も作るなら半日は必要だろう。面倒くさそうな顔を続けた剣だが、内心は弾んでいた。

だって、この仕事が続く限り、君が僕のことを見てくれる。

 柄をどこまで長くするとか、刃をどれだけ反らせるとか、話の内容なんてどうでもいい。君に近付けるなら。二人きりの時間を重ね合わせられる、かけがえのない機会。

稚拙でも術をかけて、今に君を縛るように。

 それにも次第に限界が来て、君と僕が交わらない時の限りは迫ってくる。

どの剣先も研ぎ澄ませてしまったら、君はどこかに、誰かの元に去ってしまうの?

磨いたばかりの刃を見つめる彩がやけに大人に見えていた。

 刻限を気にする素振りをした君を見れば、胸が締め付けられるように痛む。盗み見した僕が悪い?いいえ、そうさせたのもきっと君の術のうち。

 いっそ、鉤縄を張って君をこの狭い部屋に縛り付けてしまいたい。

 試し打ちをする君、最後の棒手裏剣がその指先を離れるのもすぐ。

 次は四方手裏剣を作る、と言って僕は君に背を向けた。

持ち運びにくいから、滅多に使うこともない四方手裏剣なのにね。

 君が僕ともっと一緒にいたがっている、という空想。

 「私の苦無も作ってよ、剣」

 そんな言葉が君から聞けないかな。

一緒に苦無を作ろう。

そうしたら暗くなるまで二人きり。君を抱けるかもしれない。

 夕暮れよ、早く忍んで来て。夜が来れば僕たちのものだから。小屋の中でも目が利く昼間では僕たちは駄目だよ、闇さえ降りれば互い正直になれるはず。

 太陽は消えて。偽りを終えて。今は夜目も利かないようにして。

そう。棒手裏剣・四方手裏剣・苦無、どれもまだ作り足りていないから。

 松平元康が、松平家康へと改名したのが1563年。

 今川義元から貰わざるを得なかった「元」の一字を、もう背負う必要性はない。松平家が今川家からの独立を果たした証となる改名だった。

 !!!甲賀の者が活躍していて、伊賀だけじゃないことも説明

 順調と思われた三河国統一の戦いだったが、三河一向衆一揆が起こると一変して家康は窮地に立たされた。

 昨日までの家臣たちが敵に回ったのが三河一向衆一揆。中心となっているのは家康の重臣だった酒井忠尚。勝ったとしても、領土が増えるわけでもなく、本来の味方で潰し合っているだけ。

 こんなこの身内の争いで隙を生み、そこを今川家がつけ込まれるわけにもいかない。

 半三は半蔵を通じて家康へ献策した。今川家が攻められない状況を作り出せばいい。一計で今川家中に混乱を生じさせる。

 引間城の飯尾連龍が今川氏真に反旗を翻す動きがあると聞くから、あれを扇動する。飯尾連龍に対して、織田家と松平家が後ろ盾に着くと偽りを伝える。遠江にも虚報を流す。兵や金を出すことなく、今川家の足を止めるという策。

 家康は飯尾連龍へ使いを出し、吉田城を東西で挟撃するという共同作戦を吹き込む。松平家としては吉田城は少し先の目標だったが、飯尾連龍をその気にさせることが優先だった。

 その使い番は服部家が引き受けた。

 引間城と吉田城に陽忍を派遣して情報集めを行う。定期的に剣が訪れては情報を聞き出し、正成と半三が家康へ報告し、下知を聞く。正成は飯尾連龍に会いに内密で引間へ行き、飯尾連龍の期待を煽り続ける。

 1565年に今川氏真が飯尾連龍を毒殺するまで、実に2年もの時間稼ぎをすることができた。その間の1564年に家康は三河一向宗との戦いを終わらせている。時間稼ぎの術は成功したのだ。

 同じく1565年には東三河の中心である吉田城を家康は奪還した。

 1566年、三河全土を治めると、松平家康は朝廷から三河守を叙任され、徳川家康へと名前を変えた。松平姓が多い三河で、飛び抜けた存在であることを示したのだ。

守勢から攻勢へ。1568年、徳川家康は遠江掛川へと進攻した。旧主・今川家の現当主である今川氏真に刀を突き付ける逆転劇の一戦だった。

 武士としての戦功が欲しい。喉から手が出るほど欲しい。顔半蔵は思った。

 だが、そう上手くもいかない。

鬼半蔵として仲間につけた渡辺半蔵守綱は、1562年の三河八幡の戦い・板倉重貞の殿軍で功を挙げ、渡辺守綱独自の槍半蔵の異名を確かなものにしたが、三河一向一揆で家康に背いた挙句、家康に降伏している。

主への裏切り行為は許されるものではない。三河には戦闘人員が少ないという背には腹を抱えられない事情から、徳川家康は渡辺守綱を許してはいた。渡辺守綱は自分の槍半蔵に絞らなくてはならない。鬼槍半蔵として服部半蔵の手伝いをしている余裕はなくなっていた。

元々、一向衆徒との繋がりが強かった渡辺守綱だから、女半蔵はその一向衆徒に利を与えて一向衆徒から渡辺守綱を槍半蔵に仕向けていた。三河一向一揆と共に、槍半蔵の計画は崩れ去った。

服部家は独自で鬼槍半蔵を上積みしないといけない。

槍半蔵は複数の戦で三河武士の強さを印象付けたが、鬼槍半蔵はあの宇土城の戦いだけだ。もう一手も二手も必要。

半農半士あがりの服部家では槍働きに秀でることは無理。足軽としてが精一杯、人の目を引く技量には程遠い。

だが、もう時間稼ぎはできない。

あれから6年、鬼槍半蔵の異名に相応しい活躍はなかった。異名を没収され、服部家は武士として陽の目を見ないという瀬戸際にあることは服部家の誰もが感じていた。

服部家には岡崎城下に屋敷をもらい、伊賀八幡宮近くから岡崎城の内側に移転した。ただしそれは、情報工作で役に立った忍びとしての恩賞に過ぎない。武士ではなく、忍びに降格させられる危機の寸前。

「本来、忍びの術は一子相伝。忍秘伝のような書物には残さない」

ある時、父半三が口を開いた。半三は忍秘伝という書に自分が知り得た忍びの術を書き残し、正成に託していた。

「秘伝の術は私の次代に残す気はなかった。自分の身を削る危険な術だからだ。よくもまぁ、先祖たちはこんな悪い知恵を得たな、と驚く」

昔話を聞かせたいのかな、と正成は少し面倒を感じた。

「その秘伝の術が今の服部家を救うとは。これも皮肉な巡り合わせ」

そこで言葉を切る半三。何か考えがあるようだ。

「それは?」

思わせぶりな半三の態度。正成が声をかけると、瞳を閉じながら半三は口を開いた。

「仙方妙薬の強力形がある。麻酔を使い、身体の疲れ・飢え・乾きを忘れさせる仙方妙薬は劇薬だ。その効果を十倍も増幅させた隠仙方妙薬という秘術を、我が服部家の先祖は見つけている」

正成は顔をしかめた。大きな反作用がある気がする。

「一刻(2時間)のみ、疲労と痛みを一切感じさせないのが隠仙方妙薬。よほどの手練れの忍びと戦うときの最終手段として、先祖は用いたらしい。私は掟を破って、忍び働き以外で使おうと思う。次の掛川城攻めで、俺が鬼槍半蔵として槍働きをする。隠仙方妙薬を使って、一刻のみ思う存分の槍働き」

厭な動悸が止まらない。真っ先に確認してみる。

「それは、父の死を意味しませんか?」

「分からん。結果、そうかもしれない。何しろこの俺ですら、実際に隠仙方妙薬を使った忍びを見たことがない」

 深刻ではない表情で語る半三。嘘は分かる。その態度を見れば、この術の危険具合が伝わってくる。

「よいか。俺もお前もそうだが、武士としては普通より若干上の力量の持ち主だから10割中6割の力だろう。10割から9割の力を先天的に持って育った武術の天才には及ばない。隠仙方妙薬を使えば、力を1.5倍にできるから、6割の我々でも9割の力を瞬間的に得ることができる。鬼槍半蔵に相応しい力だろう?」

「刀傷を受けても、痛みを感じないぐらいの劇薬と聞きました。疲れを忘れるということは、全力で槍働きしても、途中で敵から斬られても肉体は戦い続ける。麻酔が切れて一気に痛みが来たら、耐え切れるはずがない。つまり、死が確実では?」

 「隠居した服部半三保長が残す、最後の土産。よいか、この後は隠仙方妙薬を使うな。それだけ約束してくれればいい」

 半三は半蔵の話を否定しなkった。なんて勝手な置き土産。

反論しようとする正成を、半三は掌で制止する。

 「俺の最後の華。俺の忍び人生は、伊賀から抜けてきたことと、服部家を三河武士の一角に上げたこと、この2つで満足しているが、最後にもう一歩踏み込みたい。このまま死ねるか。分かってくれよ、正成。邪魔をしないのが正しい」

「父に死んでもらっては、子としては困ります」

万が一にも無傷なら生だろうが、先陣で敵を斬りまくっていて無傷なわけがない。槍働きの後で、麻薬が切れたら死は確実。

「ありがとう。だがな、それは情だ。親子ではあるが、それ以前に忍びであれば、情は管理せよ。今の服部家に不可欠な鬼槍半蔵から目を背けるな。この術が最適だと思うなら、支援せよ」

それは分かる。服部家を武士階級に定着させるには、鬼槍半蔵は必須。

戦場で運良く兜首を挙げるか、新しい仲間を見つけるしか、服部家が鬼槍半蔵になれる方法はない。運任せではいけない。もう実績を上積みする期限はきている。

半三の言う通り、鬼槍半蔵の伝説を創ることができる術なのかもしれない。ただ、肉親を犠牲にしてまでも叶えるべき鬼槍半蔵なのか。そこが正成にはすぐには腹落ちできなかった。

思わず掌に取った棒手裏剣、正成はその冷たさを確認した。

「父が言うなら、我々はそれを遂げるための支援をします」

しばらくの沈黙の後、正成が口にした言葉はそんな内容だった。

顔半蔵として言うべき言葉と思った。半三の子としては複雑だが、半三が言おうとしていることも最もだ。男が言い出したことを翻させる必要もない。

 「それでいい。ありがとう」

 半三から正成へ、隠仙方妙薬の作り方は口伝えされた。

半三保長はここで死ぬと決めていた。

掛川城攻めの先陣、とにかく目立った槍働きをしてみせる。麻薬も忍びの術のひとつ。半刻でも、俺の命が最後の華を咲かすのなら、悪いことではない。

今川家の夜襲を読んでいた徳川家は、城内に撤収しようとする今川家の最後尾を追撃した。逃げ込む味方を城内に回収しようと、正門を開ける今川家。そこに付入しようとする徳川家だが、入門直後は危険。相手も危機を感じて全力で守りに入るし、人数的にも守る側が有利だ。ただそこにこそ、目覚ましい活躍を生む好機がある。

事前に城内に忍び込ませた服部家の忍びが、爆発音でその時が近いことを知らせる。敵味方のせめぎ合いの末、城門に徳川家が入り始める寸前。半三は隠仙方妙薬を呑んだ。不味い薬ではなかった。

鬼槍半蔵の目印である鬼面を被ると、半三は先陣まで駆けた。走りながら、次第に自分の身体が浮遊してくるのを半三は感じた。走っても息はあがらない、大槍を持つ手に疲れはない。なんだこれは?走りは羽根のよう、槍は小枝のよう。

鬼槍半蔵は真っ先に入門して先陣に立つ。危険を知り、誰も立ちたがらない場に単身で。

大槍を振り回して、群がる敵の足軽をまとめて散らす。続けて何度槍を大振りしても、半三の腕が止まることがない。敵の矢が鎧に刺さり、敵の長槍の叩きをどこかに受けた気もするが、何の痛みも感じない。

面白いように身体が動く!普段にない速さで槍が突けるし、敵の肉体に沈んだ槍先を引き抜く時も半三の動きに無駄がない。半三が持つ筋力のうち、潜在的な部分、平時は抑制されている肉体の上限が、隠仙方妙薬によって麻痺し、覚醒し、最高値が引き出されている。

夢見ている感覚。自分の肉体が前後に動く様、速度と破壊力において常人を超える自分であることに半三自身が気付かないまま、戦場の興奮に呑まれて無心で槍を振るい続けた。

忍半蔵たち数名の服部家人は城内で爆音を立てることに専念していた。敵兵が鬼槍半蔵に意識を集中させないように、正門と二の門の間で大きな音を上げる。前の鬼槍半蔵と、後ろの不可解な爆音。そのたびに敵兵は動揺し、槍を収めて逃亡したくなる。半三の危機を軽減させる唯一の術がそれだとすれば、忍半蔵たちも必死だった。

ふと、正門周辺には数十体の敵兵が倒れ、自分だけが突出しているのを半三は知った。振り返ると、味方の徳川兵ですら、遠巻きに自分を見ている。尋常でない鬼槍半蔵を警戒しているのだ。

事は済んだ。一番槍は自分のもの、たった一人で敵の一隊を片付けた。敵兵たちはおびえ、逃げ出している。

「鬼槍半蔵だ!」

喉の渇きすら覚えない。宣伝のために大声を上げたが、声の大きさの加減すら分からない。どうやら普通の声量を遥かに上回っている。

自分の四肢の血を見たが、痛みは感じない。あれだけの肉体運動をしたのに、荒い息はなく、心臓の高鳴りも聞こえない。でも分かる、筋肉は悲鳴を上げている、明らかに俺の身体は壊れた。

「俺は死ぬな」

察知した半三は、躊躇の心を捨てた。

それでいい。醜い忍びとして生きてきた俺が、服部家の明るい兆しになれるのなら。忍びが義のため命を捨てることはないが、俺は服部家のため忍び働きに死ねる。

この槍で俺を殺して。この薬で俺を殺して、鬼槍半蔵として。武士として。

我武者羅に前進し、二の門まで走り込む鬼槍半蔵。その後を徳川兵が続いてみると、鬼槍半蔵は変わらぬ勢いで敵兵に槍を振るっていた。疲れも痛みもないのか?まさに鬼のような槍働き。最も堅固な正門が落ち、二の門まで寄せてきたのは大きな前進だ。

ふと、鬼槍半蔵が自陣まで逆走した。甲冑に刺さった矢を抜きながら走り、味方に声を張る。

「鬼槍半蔵だ!皆々、攻めよ!」

一刻近く最前線で戦ったはずなのに、走る速度までが落ちていないことに誰もが驚いた。

半三は感じていた。時間が来た、身体の遠くから痛みと疲れの感覚がきている。潮時だ。

服部家の陣前に来ると、大槍を地面に突き刺し、「鬼槍半蔵だ!」と叫ぶ。足軽たちが3人がかりで大槍を頭上に掲げて何かの口上を大声で伝え、威勢を周囲に見せた。

その後ろで鬼槍半蔵は陣幕に入ったが、すぐに出て来ると面頬を取り、竹の水筒を飲み干す。今一度大槍を手に取ると、変わらぬ大声で服部家の兵を指揮する。遊軍として陣に留まっていた服部家の兵が掛川城内に突進する。その後ろから鬼槍半蔵は声で兵を統率した。

後日、掛川城は降伏した。城主の朝比奈泰朝は、当主・今川氏真の無事を家康に約束させると門を開いて退去した。この戦いの功一番が服部半蔵の卓越した槍働きにあるのは、誰の目にも明らかだった。

徳川家康からの加増一等は服部半蔵に下されたが、それ以上に大事だったのは鬼槍半蔵、縮めて「鬼半蔵」という異名を正式に与えられ、徳川家康の足軽大将として扱われたことだった。

 服部家が武士の重臣として扱われた明確な瞬間。忍び働きでの評価はあれ、槍働きでこれほどにまで認められたのは、この掛川城の戦いが初めてのことだった。

 嬉しさの一方、正成には深い悲しみの戦いになった。

 父・半三保長は死んだ。あの時、服部家の陣幕に入ると、短い言葉を残して半三は自害した。

 「傷を受け過ぎた。痛みが来ている。苦しむのが必至ならば、その前に死ぬ。お前は躊躇わず外に出て、兵を指揮せよ。俺の最後の言葉を聞け」

 今回も顔半蔵はあらかじめ同じ甲冑を着けておき、数人がかりで損傷個所や返り血を同様に装おうと、すかさず外に出て鬼槍半蔵に成りすました。

 「父は死ぬ!服部半蔵のために!服部家のために!」

 鬼面を取って指揮を始めても、自然と悲しみは湧いてこない。そうだ、俺は忍びなのだ。

 ところが、感情は殺せても、涙だけが一方的に流れてきた。汗に誤魔化して、戦場を走る。こんなの、ありかよ。

戦いの後、陣幕に戻るとそこに半三はいなかった。兄弟たちによって父半三の肉体は既に隠されていた。死を死と公表できない。死んだのに死んでいない。死んでいないのに死んだ半三保長。

正成に嬉しさなんてない。父が自分の命を投げ出して稼いだ、武士の功績。父が言った通り、忍びから武士への大きな一歩を得たが、肉親を死なせるとは生き様が悲しい。

 痛みを元に成功を得る。忍びに感傷はなくても水滴が目から流れるのが止まらなかった。

 いよいよ自分が服部家の最後の砦になったことを、正成は実感した。

 もう父半三に意見を聞けるわけでもない。状況を最終判断するのは自分だ、その判断が間違っていれば服部家人たちを不幸に追いやってしまう。

 間違えてはいけない判断者、それを顔半蔵である自分が背負ったのだ。

 今川家が降伏すると、大井川を境に徳川家が遠江を取り、武田家が駿河を取った。

 紳士的に今川家の領地を山分けしたようにも見えるが、次に必ず起こるのは徳川家と武田家の争いだ。ここまでは対今川家として合力しただけで、戦国の狼同士の争いに終わりはない。

 武田家に備えることが急務の徳川家では、武田領に隣接する各地からの情報収集が求められる。

 伊賀者を統率する服部家に、その役割が命じられたのは当然のこと。

しのび行っては遅い。そこに滞在する陽忍を彩は提案した。3人の役割を会話調で書く

 顔半蔵は、家人・客忍を各地に派遣する計画を立てた。彩を含む数十名が陽忍として武田家との領境に散る。陽忍とは、普通にその地で生活をしながら密かに情報を取ってくるという役割。剣ら数名が、服部家と陽忍らを繋ぐ連絡役として各地を走り回る役目を果たす。

 26歳になり初めて3人は散り散りになる。陽忍の仕事は先が分からない。いつまで経っても情報の完成などない。正成が、剣が、彩が、互いを信じて自分の服部半蔵を進めるだけ。互いもう滅多に会えなくても。

 3人の会話と誓い 私は一番必要な情報を取りに要のところに忍びいる。離れても信じ合えるかな?何のために一人で敵地に入るかって?信じる半蔵がいるからよ。目には見えないけど、信じていて。ここから離れる時間がきっと長くなるけど、これまでの3人のままでいられるかな?

 あの鬼半蔵が、徳川家康からまた求められることになる。

1570年の姉川の戦い、鬼半蔵・槍半蔵の2本立てで敵を畏怖する戦術を家康は必要とした。

徳川家にとっても、今回の姉川の戦いで織田家に助成した実績が欲しい。朝倉家と対峙した徳川家だが、兵力数では劣っていた。少ない手駒のうち、鬼半蔵・槍半蔵の二本立ての再現を使いたい気持ちも分かる。

父と約束したことを、早速破らないといけない。

望まない戦だが、仕方なく兄弟ら家人たちに事情を説明して策を練る。

隠仙方妙薬の利用を申し出てきた男がいる。弟の半助だ。

顔半蔵は半助に承諾を伝えた。薬の量を半分にして、死ぬことはないようにするという条件を付けた。

それでは半三のような鬼槍働きはできないのではないか、と当惑する半助に顔半蔵は言う。身内に死人を出したくはない、再生可能な鬼槍半蔵を試してみたい、と。

戦いが始まると、渡辺槍半蔵が旗本一番槍をして、徳川軍の士気を上げた。

半助による鬼半蔵も効果を出した。朝倉家の大軍によって、徳川家が押し込まれていたその時、鬼半蔵が戦場の中心に現れて朝倉家を押し返した。すると、迂回していた榊原康政の兵が脇から突進したことで朝倉家の陣形は崩れ、浅井家への援軍どころかそのまま越前へ逃げ帰って行った。

半助は死ぬことはなかった。

四半刻しか戦っていないし、重装備で刀傷に備えていたから重症もない。それでも自分の肉体の限界以上の動きをしたことで、身体への負荷は高く、命に別条はないものの、何年も寝たきりの状態になってしまった。

身体を破壊させる隠仙方妙薬の術。得るものも、失うものも大きい。

鬼半蔵の異名は継続できた。だが、もうこんなやり口は御免だ。顔半蔵は憤りを止められなかった。

 変わらず剣は三河と奥三河を行ったり来たりする毎日。

 いつか来る武田家との衝突、事前の情報戦の成果が勝敗を左右する。戦闘では負けなしの武田信玄だが、三つ目の者と呼ばれる手練れの忍びを使った調略で敵勢力を事前に切り取ってから戦を仕掛けるから、負けることがないのだろう。

 間諜し、防諜する。水面下での互いの事態は真剣そのものだった。もう近く、両家は全面衝突するだろう。

 長篠城にいる女半蔵の手紙を受け取り、あるいは逆に顔半蔵からの手紙を女半蔵に届けることはあるが、陽忍の気配を悟られないために直接は会わず、決まった隠し場所に手紙を置き合うだけ。隠文で書かれた手紙に感情が入る余地がない。

彩とはもう2年も逢っていない。あなたはどんな日々を過ごしているのだろう。

いつもの道根往還を通り、岡崎城へと戻る道で剣はそんな感傷にふけっていた。

「やればできるではないか」

尾けられていたのか。この気配は、いつかの伴資定の忍びだな。

周りの竹林全体から聞こえて、居場所を特定できない声。

身構えて、左右を覗く。

「見ていたぞ、姉川の戦いでのお前のやり方。鬼半蔵が活躍しやすいよう、飛び道具で雑兵どもの力を削いでいた」

 なんだ、何が言いたいのだ。声には殺気がない、ただの冷やかしか?最近、織田家に鞍替えしたようだな?

 「何が違うのだ。鵜殿退治の時、お前は目を背けながら相手を突いていた。あれは忍びにも良心があるとでも言いたかったのか?井戸に毒でも投げていれば目的は果たせたはず。忍びとは思えない弱腰。それが、姉川では忍びらしい徹し方」

 まだ居場所が分からない。襲ってくるかは分からないが、あの甲賀忍びの腕は確かだ。敵半蔵と呼んでも良い。

 「何がお前を変えたのだ?金か?女か?」

 相手の気配へと剣は礫を放つ。手ごたえはない。

 厭な男だな、敵半蔵。頼むから、お前の倫理観で忍びを語るなよ。

 身近な人が死んでいくのなら、俺だって心を鬼にできる、容赦なく敵を殺す。

 「お前は忍びなのか?忍びなのか?忍びなのか・・・?」

 声が場で反響し合って、音は小さくなり、そして消えた。退散したらしい。

頼むよ、僕の心を読まないで欲しい。精神的な攻撃のつもりなら十分に効果は出た。

僕のことを好敵手だなんて認めてくれるな、放って置いてくれ。

 忍半蔵は気の遠くなる作業をしていた。河原にたまに転がっている、角が取れた珍しい石を探すような。無駄に見えることを真剣そのものでやり続けている。

 最近、徳川家中の情報が武田家に漏れていることを家康や重臣たちは感じていた。鉄の結束と呼ばれた三河衆のどこに穴があいているのかが分からない。相手があの武田家だから、三つ者と呼ばれる武田家の忍びが徳川領内に入って暗躍しているのは当然。

 家康の嫡男・信康に武田家の手の者が出入りしている。何が目的なのかも分からない。

 服部半蔵に命が下ったのは一年も前のこと。その穴を密かに見つけ出せ、という家康直々の命。

 三方が原の戦いの間に、武田信玄が病死したのは織田信長・徳川家康にとってはこの上ない幸いだった。ただ、信玄亡き後も武田家は徳川家の最大の脅威であり続けた。背中を同盟者の織田家と海に守られている徳川家。正面に隣接しているのは武田家しかいないという悲運、唯一にして最強難度の大敵。今川氏真と異なり、跡を継いだ武田勝頼が凡将ではなかったことも徳川家の不運。

 顔半蔵は与力の伊賀衆・甲賀衆のうち、特に有能な忍びに事細かく指示していた。長年の岡崎城一帯の偵察で、どうやら内通者らしき者を数人まで絞ることができた。

 粗探しすれば誰でもおかしな部分はある。大体、金か女か酒かどれかにおかしな動きをする者がいる。忍びを手分けさせて、捜査の網を張り巡らさせた。昼夜問わず行動を追尾していれば、きっと尻尾を出す。

 ある時、忍びから顔半蔵に寄せられた情報では、監視中に別の数人の甲賀者が近くで追跡していたという。ますます怪しんだ半蔵は、最も信頼できる忍半蔵にその者の追跡を頼む。

 忍半蔵が追跡をしていると、確かに別の者の気配を感じた。それは達人の術、冷たい視線、忍半蔵への直接の殺気は感じない。監視中の男が動いた瞬間に、別の忍びの気配が消えた。監視中の男はさておき、その別の忍びを刺してやろうと剣が考えた一瞬に。

 「敵半蔵なのか」

 忍半蔵はようやく確信を持った。そうすると辻褄が合う。

バトルになる!見せ所。顔を違い見せず礫合戦。でも殺意がないのは直接の敵ではないと互い分かっているから。命のやりとりは無用。

 こちらに殺気は向けてこなかったことから、武田方の敵忍びではない。

 織田信長から何らかの指示を受けて伴資家は徳川家を探っている。対武田家で同じ目的であれば良いが、あの冷徹な織田信長のこと、徳川家の隙を探して伴資家の手の者を岡崎城に派遣していても不思議はない。

 あのうるさい男が、剣に話しかけず仕事だけをしていたということは、本気の忍び働き。

 織田家の伴資家との情報戦が始まっている。忍びの戦いは、敵のみならず、味方とも互いの存続をかけて挑むものだ。

 女半蔵からの手紙を開いた顔半蔵。武田家との境・長篠城内に奉公して陽忍の情報収集に従事している女半蔵。ごく普通に仕事をするだけ。日中も夜間も忍びの本性は出さず、ただ様子を見ているだけ。おかしいと感じたことだけを顔半蔵に報告する。

 「どうもあの男がおかしい。甲斐からの商人を通じて、岡崎城との情報横流しをしている気がする」という報告。

 岡崎城から甲斐の武田家に直接連絡は不可だから、両国の間にある長篠城に仲介役を入れている可能性は考えられる。

 女半蔵の見事な術!

 3人の候補のうち、顔半蔵は竹庵という僧に絞り込んでいた。5人の忍びを始終貼り付けておいた。危機を感じたのか、その竹庵が岡崎城を逃げ出したところを追うと、忍半蔵が竹庵を討ち取った。

 その足で忍半蔵は長篠城へ走る。

 もし竹庵が尻尾を見せたら、長篠城内の協力者へ一報が入らないうちに、協力者を暗殺すべきと顔半蔵と忍半蔵は示し合わせていた。女半蔵にさえ知らせる前に忍半蔵は単独で忍び込み、甲州からの商人を刺した。

 問答はなく、人違いだとしたら危険な行為だが、忍半蔵に躊躇はない。

 竹庵という相談僧の死が、噂になることはなかった。むしろ武田の息がかかっている者が岡崎城内に入り込んでいるという事実を広めたくない家康がこの件を隠した。

 こうした裏方こそ服部家の特命業務。徳川家康ら中枢の数人とだけ機密情報を共有した。これは旗本の立場がある服部半蔵正成としての仕事であって、伊賀忍びの頭領である服部半蔵としてではない。父半三の苦悩を超えた顔半蔵なら、下賤の忍びとして主人から逆恨みされることもない。

この防諜成功の褒美として、竹庵が持っていた相州広正の懐剣が徳川家康から服部半蔵へ授与された。

「どうして竹庵を怪しいと思ったのだい、半蔵?」

家康から親しみを込めてそう聞かれた顔半蔵はこう答えた。

「武士でないと持てない名剣を、相談僧が持ってい増田。趣向と考えても理解できません。その一点だけで怪しんで動きをじっと見ていたら異常が発見できました」

 岡崎城の服部屋敷への報告を終えると、剣は伊賀八幡宮への川沿いを歩いていた。

 夜道の手持ち無沙汰なのかな、手のひらに苦無を転がしながら。

ねぇ、彩。君はどんな日々を過ごしているのかな?

 陽忍に出続けている彩とはもう何年も会っていなかった。

 ねぇ、どうしてあんなところに君の苦無があったの?

 商人を刺した後、部屋を調べていると格子に隠した密書が見つかったが、それとは別に何故か苦無が残されていた。

これはいつか僕が心を込めて作った苦無のひとつ。これを見て、僕のことを思い出して欲しかった。苦無をつくってあげるとは君を好きということ、伝わっていたのかな。

君の手の大きさに合わせて、形状も重さも調節して、僕の技術を使い果たしたことを覚えている。

そこに彩の苦無があったことの意味。どんな術を誰にかけようとしたか、想像がつかない。

長年の別離に思いは募る。

なんだか君がまた一歩、遠ざかっていくのを感じた。

今夜はやることが手に付かない気がする。昨日の大功績も、今は心に落ちてこない。

彩とは生れてからずっと一緒だったから、彩に初めて会った日を僕は知らないという不幸。

初めて抱いたあの日がその日の代わり。

彩を抱いた後で、僕はずっと夜空を見上げていたっけ。ずっと棒手裏剣を握っていたっけ。

 僕が忍びの感覚を失ったら、あの日のことを思い出してみればいい。僕が狂い始めた日だから。

1573年の三方が原の戦いでも服部家には鬼半蔵が求められた。

「徳川家の苦境は分かる。相手は戦国最強の武田信玄。北条氏政と同盟した信玄は全力で徳川家に向かってくる。危機、いつも危機だが、これは真の危機。だからと言ってまた服部家人を犠牲にするのか」

近い家人以外に鬼半蔵や隠仙方妙薬の秘密を漏らすわけにはいかない。半三と半助で流した涙をまた繰り返すのか。本当にそれでいいのか。

「俺が行こう」

次兄・保正が鬼半蔵を申し出た。実際は長男なのに、正室ではない母から生まれた庶子のため、服部家の後継には成り得なかった保正。正成には今回もやり切れない気持ちだった。

大須賀康高の与力として先陣に着いた服部家、今回は真正面からの鬼半蔵を要求される。

鉄砲隊の撃ち合いが終わると、長槍組足軽が隊列を組んで両陣から駆け出す。戦の常道だが、そこで鬼半蔵が飛び出した。長槍が上から叩き下ろされる前に、その柄元へと駆け寄った鬼半蔵が足軽を一掃する。甲冑を着込んでいるとは思えない走りの速度に足軽たちは驚愕した。

鬼半蔵が突く槍先に、槍の柄に、吹き飛ばされる武田軍の足軽たち。敵兵の密集地帯で戦えば矢で狙われることもない。とにかく目立つ槍働きを狙った鬼半蔵だったが、武田軍は普通の敵とは異なった。

鬼半蔵が突出した一角だけは徳川家の有利が見えたが、他の戦場では圧倒的に徳川家が押されていた。

間もなく徳川家から退却の合図が下される。

早めに先陣から脱していた鬼半蔵だが、薬の量を半減させていても肉体への負荷は高く、保正の身体は動かなくなっていた。そこは忍びであるから、保正は自ら命を絶つ。動けない以上、生きている意味がない。

鬼半蔵で徳川家は武田家に一矢報いたのかもしれない。だが、負けては無意味だ。必死で潰走した徳川家。

異名の伝説を重ねられた、武田軍から一番槍を挙げた三河武士の鏡と呼ばれた。それでも服部保正という兄を、家人を失った惨めな家長。

「徳川どのはよい人お持ちよ。服部半蔵・鬼半蔵、渡辺半蔵・槍半蔵」という歌が三方が原の戦いの後、三河では唄われた。

武士としては成功したのかもしれない、名誉の歌まで三河者から歌ってもらえた。そんな世間の評価はどう捉えればいいのか。

もう鬼半蔵は止めようよ。肉親を死なせてまでも欲しい異名だと思わない。でも、忍び働きだけでは駄目だし、槍働きが限界だとしたら、どこに行きつけばいい?

内政や外交という柄でもないし、理財はうとい。武士として兵の統率能力で才を発揮しないと後が続かない気がする。

忍びからの脱却を求めて旗揚げした服部半蔵の虚名。武士は武士で悲劇を乗り越えないといけない道。それでももう鬼半蔵は止めたい。

3人の鬼半蔵が奮起して得た武士の格、3人の犠牲の上。重い責任を感じながら、服部半蔵という虚名を顔半蔵はどう活用すべきか。

服部保正は戦死した武士として扱われた。そこは顔半蔵の意地で、雑兵ではなく一介の武士、服部家の家人の戦死として徳川家に申告を通した。

「武士という守り傘ができたよ、父半三。武士として名誉の死を保正に届けられた。褒めてくれよ。ただ、ここからは方向性を変えて忍び働きをしようと思う。鬼半蔵ではなく、裏方での諜報役として。今はそれが服部家の価値を最も高く売れる方法だから」

家康から槍を貰うという武士の名誉を得た服部半蔵。他の旗本と違うのは、部下に伊賀衆・甲賀衆150人を預けられたこと。

家康から特殊任務を任されたなら、そこに新しい服部半蔵の存在価値を見出せ。

 武士には武士で厳しい道。そこを堂々と歩くには、半士半忍の服部家では足りないものがある。やはり服部家は特殊任務の道を進むしかないのか。

防諜は続いていた。

1574年には、岡崎城の家臣・大賀弥四郎の武田家への寝返りを発見して捕えた服部半蔵。

これも女半蔵からの情報がKEYだった。

 家康の命でこの件は三河内に広く伝えられた。武田家の脅威と、諜報戦があること。そして、あの鬼槍半蔵が伊賀者甲賀者を率いてが徳川家中に防諜を巡らせていると、三河中が知ることになった。

 槍働き以外にも特技があったのか、と三河者は驚く。父・服部半三は素性不明な忍び上がりだったが、2代目服部半蔵正成は堂々の槍働きに加えて、伊賀衆・甲賀衆を統率する能力もある。正直、忍びだ毛だとどんな異質な行動に出るか心配だが、武士の服部半蔵なら忍びの卑怯なこと、武士に相応しくないことはしない。三河者はそう思い、服部半蔵を武士として認識した。

直接忍び働きするのは服部半蔵ではないことは家康や家老たちに強調してある。家長として忍び衆を率い、仕事を管理し、成果を最大化する。

この形は信頼を生んだ。家康は半蔵を疑わない。

戦乱の真っ只中にある徳川家では情報操作は価値がある。

 顔半蔵は心の中で一人問いかける。上忍との違いは何だろう。武士の顔の有無だけで、信頼を得ることができるのならば、忍びへのそもそもの低評価に涙が出る。

 やっていることは上忍も服部半蔵も変わらないのだ。武士としての功績をあげ、武士の懐に飛び込んだ服部半蔵と、武士とは距離を取った上忍とでは、武士の将からの評価に大きな差がある。

裏切られる恐れなんてどちらも同じなのにな。父半三のこと、他の忍びのことを考えると、悲しみは止まらない。

服部家の存続を考えれば、この服部半蔵の形が最良。織田信長があと10年で近畿・中部を治めると仮定すると、その後も一人前の処遇で生き残れる忍びはいるのだろうか。

いるはずがない。服部家が民に落とされないために始めた、服部半蔵の虚像だったな。

鬼半蔵として槍働きを三河衆に見せつけた、あの鬼半蔵という土台がこれからの服部家を守ってくれる。槍ができ、忍び働きもできる。その唯一無二の個性をもって、徳川家の中を生き残っていくのが顔半蔵である俺の役割だ。

「新しい半蔵を仲間に入れたよ。金半蔵」

 女半蔵からのそんな手紙を受け、顔半蔵は忍半蔵を交易都市・堺へ派遣した。

 竹庵・大賀弥四郎の件で武田方に顔を知られた可能性を考えて、女半蔵は長篠城を離れ、近畿の経済の中心地・堺へ陽忍に出ていた。

茶屋四郎次郎清延は豪商だが、ここ10年ほどは徳川家康に従軍して金銭面での支援をしていた。

 既に彼は徳川家の味方。この商人が金半蔵として、服部半蔵へどう加わろうとするのか。

 女半蔵からの仲介書面を持参して、忍半蔵が茶屋清延へ面会すると、彼は自信たっぷりに笑った。

 「あなたが忍半蔵ですか。服部半蔵の虚名は聞いています。お見せしたいものがある。礫半蔵をご紹介しましょう」

 金半蔵は自分の蔵にある100丁の礫半蔵こと、鉄砲を忍半蔵に見せた。

 鉄砲は1542年に種子島に伝来した新しい武器。1542年生まれだから鉄砲を礫半蔵と呼ぶのか?

 今はまだ100丁だが、これを大量生産して戦で実用したい。撃ち手を、服部家にお願いしたい。それが金半蔵からの要望だった。

 服部半三の代から服部家では鉄砲には目をつけていて、ある程度の知識と技術がある。

どうして今、服部半蔵に鉄砲を売り込む?忍半蔵にはその意図が読めなかった。

「武士は鉄砲を小馬鹿にして、槍働きを優先したがる。忍びの素養がある服部家ならば、その思い込みが弱く、飛び道具として使う技量があると存じます」

金半蔵の提案は、服部家の必要性と合致していると忍半蔵は感じた。服部家としても、鬼半蔵の次の犠牲を出さないために、槍働きからの脱却は急務。

「金半蔵として、当面は資金の提供をします。見返りとして、鉄砲実用化が成った後で大金儲けをします。今は投資、それなら最も確実な投資先を探しており、服部半蔵殿と商売がしたい」

忍び半蔵は唸った。

商人ならではの提案。互いの利益が見事に重なり合う。しかもそこに服部家の損害の気配がない。とはいえ、金半蔵の未来の儲けのために服部家が働く要素は強い。

服部半蔵の与力ではなく、対等な同盟者。乗らない手もない。それほどに、礫半蔵は欲しい手段。

顔半蔵からの回答を持ち帰る、と忍半蔵は金半蔵に伝えた。

 陽忍と連絡役の関係とはいえ、彩に逢ってしまえば自分はまた駄目になってしまうかもしれない。それが怖くて、彩には黙って去るつもりだったが、そうもいかないよね。

 顔半蔵との比較で忍半蔵がより活躍したわけでもないのに、剣だけが彩に逢ってしまっていいの?

 彩と会っている場を誰かに見られたら、彩が陽忍であることが明るみになってしまう。堂々と逢うわけにもいかない。つまり、僕たちは逢えないんだ。

 昼間、遠くから彩を見た。

 30才すぎになった彩、なんだか遠い街で生まれ育った女みたいに、親しみのない気配を感じた。

 10年前から何回か抱いたが、すぐにはやらせてくれない。いつも、彩はもったいつける。

近寄って、視線を合わせると、二人は距離を取りつつ、人気のない神社の裏に回った。

 我慢できず、剣は彩を抱き締めた。たった3秒だけの永遠。

 「困ったことはないか」

 彩の手に金を握らせる。目を見ると、彩は何も言葉を出そうとしていない。

 時間をかけるわけにはいかない、もう別れなくては。

 行こうとする彩。剣はつい感情を漏らしてしまい、「彩、」と声をかけ、振り返る彩をもう一度抱き締めた。

 「君の足首を感じさせて」

変なことを言ってしまった。

足首を握った時の太さ細さの彩の感覚を、剣の手は覚えている。それをどうしても更新したい。黙った彩の足首を握ると、愛おしさで剣の手は暖かくなったようだった。

 「ふふ、変なの、剣。じゃぁ、行くよ」

 足早に、去って行った彩。

忍びなのに、何かをずっと盗まれている。空回りの剣。

行かないで、と言えたなら良かったのに。

好きになった女と一緒にする仕事、自由な行動を禁じられる胸中ときたら。

若い頃は人の気持ちが分からなかった。20才では花を見ても、花として目に入ってこない。

キレイの盛りだった彩を抱いた僕。大きな目は好奇心の表れ。

君が遠くに去ると知ってから想いは急に力を増した。

彩を抱いてから僕は変わった。もっと遅く、彩に初めて出会っていたなら、僕も違っただろうに。子供の頃から共に育ってしまったことで彩との距離が分からなく成っている。

駄目な空想に心を乱す、忍びらしからぬ忍半蔵。

顔半蔵の決断は明確だった。

戦場での服部家の武器を、槍から鉄砲へ鞍替えする。

肉弾戦ではないから、格闘に不可欠な膂力がなくても、鉄砲には格闘の専門家を殺せる力がある。

 「これか!」

 顔半蔵は叫んだ。服部家人もこの手段に沸いた。もちろん忍半蔵も。

 礫半蔵の技術を積み重ね、戦場でその名手の実績を示せば服部家は栄えることができよう。

 飛び道具になら、忍びの技術が応用できる。狙撃するにしても、奇襲するにしても、武士より一日の長がある。

 武士でなくても、武術の専門家でなくても、多少の訓練を積めば足軽でも武士を鉄砲の一発で仕留めることができる。

 足軽が幾人集まっても本物の武士一人を倒すことは困難とされていた。戦場の常識がこの先の非常識へ。どうしてもっと早く気が付かなかったのだ?

 鉄砲の使い道が、服部家の存在価値を塗り替える可能性を顔半蔵は感じた。

 「鬼半蔵を封印させてみせよう、この礫半蔵で」

 忍びの犠牲、鬼半蔵の悪い縛りから解放されるためなら足掻く。心底からの顔半蔵の叫びがそこにあった。

 服部半蔵の虚名は着実に成長していた。

武士と忍びの双璧。鬼半蔵としての槍働きの実績、忍び働きとしての情報収集・防諜の成果。忍びほど軽視されていないのは、武士としての顔があるから。忍びの特命は表に出ず、裏で徳川家康に報告する顔半蔵の徹底ぶり。いつかの半三からの忠告を憶えている。

忍半蔵や女半蔵ら、配下にある伊賀者と甲賀者による諜報活動は続いていた。武田家は旧今川家臣に厳しく処遇するという偽報を流して、旧今川家臣を徳川家につなぐ役を地道に続けていた。

服部家も身代が大きくなるにつれ、お金が必要になる。金半蔵・茶屋四郎との鉄砲計画は進んでいて、堺での鉄砲を大量生産を開始して金を稼ぐと共に、徳川家が実戦で鉄砲利用を推進する動きを後押ししている。服部家中での鉄砲訓練は急務として行われていた。その様子を聞きつけた徳川家中の他の将から教えを乞う依頼が舞い込んでいる。

だから金半蔵との連絡役・女半蔵からの情報は大切だった。

 武田家との領境になる長篠城に200丁の鉄砲を入れることを、金半蔵は家康に提案し、認められた。この件で金半蔵は金を稼いだし、防御力強化という意味での鉄砲の価値は徳川家に浸透した。

遂に訪れた1575年の武田家との決戦・設楽が原の戦いでは、服部半蔵は浜松城の留守番を命じられた。

どうして服部家が鉄砲隊として徳川家の正面に立てないのだ?誰もが納得できなかった。

竹束を盾にして隠れる鉄砲隊

鉄砲なら、当世具足の防具の隙間を狙うという高等技術でなくても、当てれば大きく負傷させられる。

 鉄砲という奇術(具体的な方法を。生技のように裏方で作り込む)は服部家のものだ。

正成は設楽が原で一騎討ちしているから、参軍していた??

ここで正成結婚34歳と、翌年1576に長男生まれます!

5年もありているからこの間のことを書く 信長を調べる女半蔵 動きが早く強すぎる

いつ武田に本腰を入れるかわからない。他で忙しすぎる。長篠で負けても勝頼は弱らないし、外交で頑張った。徳川単体では武田を倒せないから、調略をして機会を狙う。女半蔵の活躍。情報が多いのは安土城にいるから。

 難しい注文が服部家に次々と舞い込んでくる。1579年の出来事。

 織田信長に嫉妬された、家康の嫡男・徳川信康。信長の嫡男・信忠よりも、家康の嫡男のほうが出来が良いという世間の評判。

 信長・家康の次代になったら、両家の力関係が逆転されるのではという信長の危機感。だが今なら、絶対的な上下関係を利用してその災いの元を取り除くことができる。

 信康が武田家に内通したというありえない話を立てて、信康とその母・築山御前の処分を求めた信長。ところが、それを家康が断ることができないという徳川家の事情。織田家に生殺与奪を握られている苦しい狭間のうち。家康は対応に悩んだが、答えはひとつしかない。

 強引な信長に押し負けてのこと。徳川家中の誰もがそう思っていたが、忍半蔵はひとつの情報を掴んだ。

 これは武田家が仕掛けた情報戦だった。織田家と徳川家を離反させるために、信康の有能さを織田家へ過剰に流し続け、信康が武田家に内通した証拠を織田家中に撒く。当の武田家からそう情報操作されたら噂の信憑性は高まる。

 信長は騙されたふりをしているのかもしれない。織田家にも忍びはいる。以前は饗談と呼ばれる尾張者を使っていたが、最近は伴資家ら甲賀者がそばにいるはず。しかし、徳川信康を除くことは織田家にとっても有利であると言う判断が優先されるはず。武田家の情報戦は急所を突いていた。

 そのことを忍半蔵が顔半蔵へ報告していると、「あっ!」と発して顔半蔵は姿勢を崩した。

 「これだったのか、敵半蔵が俺たちの周りを嗅ぎ回っていたのは!確証はないが、全てが繋がる」

 それを聞いて忍半蔵も色を失った。そうだ、その通りだ。

 「俺は判断を誤った!」

 「どうすれば今から挽回できる?正成?」

 しばらく考えて、正成は首を横に振る。汗が滲んでくる。

 「長年積まれてきた仕掛けに今更気が付いても遅い。信長からの要求は今更変えられない。忍び同士の術に服部家は敗れた」

 「そういうことじゃない、何かあるだろう?考えろよ、正成」

 「すまん、剣。みんなからの情報を俺は正しく判断できなかった。後は俺に任せて欲しい」

 武田家からの間諜を防げなかった責任は服部家にある。完敗だった。

 顔半蔵は心を決めて家康に全てを報告した。

 家康は報告を聞くと、何も言わずに顔半蔵を去らせた。信長も武田家の策と知っているのかもしれないが、それでも利用すべき機と捉えた節がある。

 間もなくして、信康切腹と沙汰が決まる。信康の介錯役に指名されたのは槍半蔵こと服部半蔵だった。

 主君の嫡男に刃を向けるなど、避けたいと武士なら誰もが思う。そうした厭な役目なら服部半蔵に任せるのがよい、という話が誰からとなく出ていた。忍びあがりという差別がある一方、鬼半蔵という異名を逆に言質に取られ、介錯する名誉の武士としては服部半蔵が最適だと話を決められていた。

 家康が何も言わなかったのは、防諜失敗の責任を取れと言いたいのではないか。

 「ちょっと待て。それは本当に名誉なのか?」

 服部家中の誰もが心配した。

 「いいや、名誉の裏の不名誉が強い」

 顔半蔵は真意を見抜いている。忍びの心得で、人の心を読むことには長けている。

 危うい。主君の嫡男を斬るなんて、名誉ではない。いつか、関係のない迷惑を被る予感しかない。

 松平広忠を暗殺した忍び上がりの岩松八弥のように、理性を失った服部半蔵が勝手に徳川信康を斬ったような話が立つのではないか?

 忍びの立ち位置は、灯火のように消えやすい。不条理を圧し付けられる危険性が見える。

 「若君だぞ。そんなお方を斬れば徳川家に刃向いた悪人としての風評は避けられない。名誉の介錯だなんて誰も思うものか。今は服部家が謀られている。危い」

 顔半蔵は忍半蔵と策を練っていた。

 「服部半蔵が若君を斬ることは避けたい。しかし家康の命と言われたら断るわけにもいかない。怪しまれずに介錯を回避する方法が欲しい」

 「一計がある。これも参差(かたたがい)の術の応用だ」

 忍半蔵は知恵を出した。

 介錯役として浜松城から二股城へ向かった顔半蔵は、途中の天方新城主・天方通網を検分役として同行した。道中、顔半蔵は信康の幼少の思い出を通網に語り、同時に自分が戦場で挙げた鬼半蔵の武功を話す。後日の伏線としての術だ。

 一行から先駆けした剣が、この先で一行が休む場所を探そうとしていると、木陰から人が現れた。

 また会ったか、あれは敵半蔵だ。

 珍しい。はっきりと顔を見せて、武器も持たず、言葉をかけてきた。

「徳川家、それに服部半蔵には武田家の盾をしてもらわないと、こっちが危いからな」

どういう意味だ?

敵半蔵はそれきり何も言わず、ゆっくりと歩き去って行った。いつもの自信たっぷりのあの男とは違う。そういえば、面と向かい合ったのは初めてだ。

信康の死装束を見ると、服部半蔵は涙を流した。それも止まらない涙で。

「役目とはいえ、武士なれば、やはり主筋の若君は斬れません」

あの鬼半蔵が涙を拭いながら弱音を吐く。その様を見て、徳川家中の武士は誰もが感動に打たれた。

血の通わない冷徹が忍びではないのか。まるで違う。服部半蔵は、武士の情を持つ武士そのものだ。そうだ、誰だって主君の子に刃など向けられるものか。

元々今川家中だった天方通網にとっては、信康に馴染みは薄い。介錯役の動きが止まった時点で、周囲の目は検分役である天方通網に向けられていた。

家康の直命を、服部半蔵に変わって無名の自分が果たせる好機が来たと天方通網は思い込んだ。あの鬼半蔵を、自分は今越えるのだ。機転を利かせたつもりの天方通網は、徳川信康を介錯する。

この後、天方通網は家督を捨てて高野山に逃亡している。それはどういうことか。このまま徳川家にいたら、徳川家の嫡男を殺したという逆恨みで自分が危機に陥ることを感じ取っての行動ではないか。

顔半蔵たちが恐れた通りになった。危地を上手く乗り越えた服部半蔵の虚像。

押し付けられた面倒をかわしたどころか、徳川家を愛する武士としての涙の物語を作り上げることに転化した。

鬼半蔵の目にも涙。武士としての服部家の地位を、ますます確立した服部半蔵だった。

1580年の高天神城攻めにおいて、服部半蔵は織田家臣と喧嘩沙汰を起こしたことで謹慎扱いとなり、徳川家の中堅格から降ろされた。

本当の処分ではない。

迫りつつある武田家との決戦に向け、特殊任務を多く担当している服部半蔵は、表に出ない方が良くなっていた。

諜報戦略は家康直下にあった。裏方に回った方がいい。そうした狙いの元、架空の喧嘩成敗をでっちあげた。

一抹の不安がある諜報戦略役。鬼半蔵で得た武士の格を失うことにならないか。使い捨ての忍びに戻ってしまわないか。

脳半蔵として徳川家康が言った。武士の名を終わりにするのではない。

今は武田家対策に服部半蔵の情報力が欲しいから、穏に入ってくれ。鬼という言葉は穏という音から派生したもの。だから諜報もまた鬼半蔵の役割だよ、と。忍半蔵、鬼半蔵、穏半蔵。どれも服部半蔵の役割を意味する。

1581年の織田信長による伊賀攻めは、服部家の苦悩だった。

伊賀上忍三家から始まった服部家だが、今は伊賀との接点は薄い。三河生まれの正成だ。土壌は三河に移っている。

何より、信長に逆らえるはずがない。裏から手をまわして伊賀者を救うことすら許されない。そんなことがもしも信長に気付かれたら、築いてきた服部家を一瞬で失うことになりかねない。

「何ができるのだろう。伊賀を滅亡させて良いのかな、我々は服部家なのに」

顔半蔵にも判断ができなかった。

「怖いのは、信長を裏切った後に来る、信長からの徹底した報復だ。思い返してみろよ、剣。浅井家、長島一向宗徒、比叡山もそう。彩から届いた、信長の彼らに対する根絶やしぶりを考えたら恐怖だぞ。ここで服部家が何かしたとしても、それ程の影響力はないのだが、あの信長の報復のひと塊りでも服部家に向けられたら、俺たちはお終いだ」

正成が話すことをじっと聞いている剣。

で、どうするんだ、顔半蔵さん?お前の判断力に服部家がかかっているのだぜ、とでも言いたげな表情。

「腹は決まっている。我慢して、おこぼれだけを頂戴しよう」

服部家は一切の手出しをしなかった。

故郷の焦土化を静観することは辛い。だが、徹底して何もせず。何一つ裏工作もしない忍耐を顔半蔵は選んだ。

ただし、伊賀侵攻の終わりに差し掛かると顔半蔵は数人の忍びを亀山・近江といった伊賀近郊に派遣している。伊賀出身の忍び上がりである服部家が重用している徳川家なら、伊賀からの落ち人を受け入れてくれるという噂を流した。

実際に、伊賀忍びの残党は徳川家を頼って三河へ落ちてくることが多かった。今や近畿を完全支配した織田家に伊賀者が重用されるはずはないが、その織田家の敵方の勢力についても破滅は見えている。

そうなると、織田家と対等同盟を組んでいる徳川家康の存在が注目される。その徳川家には伊賀上忍三家出身の服部半蔵がいるのだ。

伊賀からの落ち人を家康は庇護し、服部半蔵に与力として預けている。それは家康からすると自然な行動だったが、後にそれが家康自身を救うとは予想もしていなかった。

1580年は北条から従属の話。本願寺を倒す。滝川一益が関東担当になる。

時がきたとスタートさせる役目。ずっと狙ってきた武田家との決戦。

 生来の難敵だった武田家を1582年に滅亡させた織田信長は、ひと時の物見遊山を楽しんだ。

 武田信玄・勝頼親子の政権地だった甲斐甲府に出向いた織田信長は、戦後処理を終えると、駿河へ南下しながら帰路に着いた。

 まだ海からの富士山を見たことがないという信長へ、家康は東海道沿いの富士山の美しさを説いた。

 道中に散々のもてなしをした家康。徳川家が大金を使ってのことだが、それにも明確な意味はある。

 織田家・徳川家同盟の意味は、当初は対今川家、次は対武田家の共同戦線だった。その武田家がなくなった今、信長からすると家康の使い道がない。地理上、次は関東の北条家に当たらせるのだが、武田領内を通じて織田家が北条家に直接攻撃することもできる。

 武田家の滅亡は家康の恐怖を呼び覚ますもの。家康は、信長に対して敵意がないことを示す必要があった。

 徳川家を挙げての織田家への接待だった。信長個人にだけではない。織田家重臣はもちろん、足軽・小者に対してまで道中に食わせる飲ませるの待遇を行なった。

 裏は見透かしているのだろうが、心からの歓待を受ければ冷徹の人・織田信長でも悪い気がしない。満足して安土城まで戻った。

 しばらくすると、今度は信長から家康へ返礼がしたいから安土城へ来てくれ、という使いがくる。

 家康にとってはそれさえも恐怖だった。暗殺される可能性がある。ほぼ天下人として君臨する信長だ、倫理に反して家康を殺し領土を奪ったところで、誰に非難されようとも信長の優位性は揺るぎない。

 拒絶すれば、敵対の理由を自ら作ってしまうことになる。冷や汗をかきながら安土城へと参じて、信長や部下の明智光秀からの接待返しを受けた家康だった。

 あえて豪胆に、部下はわずか50人しか連れていなかったところに敵対心のなさを家康は再度見せようとした。

 安土城が終わると、堺・京へと招待された家康。一刻も自領に帰りたいのは山々だが、どこまでも余裕を演じて言われるがままにした。

 5人ほどの虚無僧が歩いている。徳川家康の一行を先駆けること一里。

 服部家の手練れ忍びだ。

 周囲に厳しい目を光らせていても、編笠からの視線だから誰の目にも止まらない。

 信長からすると今こそ家康暗殺の絶好の機なのだ。信長が本気になってきたら、防ぐ手立てなどないのだろうが、せめてもの抵抗はする。身に差し迫った危機を家康一行は感じずにはいられない。

 信長には甲賀者・伴資家が仕えている。顔半蔵は甲賀者の気配を察知せよと、先行する服部家人に命じていた。敵半蔵らがいつ襲ってくるのか、忍半蔵にも極度の緊張がかかっていた。

堺での物見遊山は無事に終わり、最後の目的地である京へ向けた道中。

安全確認のため京に詳しい茶屋四郎を先行させ、共には服部家人の忍びと女半蔵も同行させていた。

 京へ前駆させていた服部家人が戻ってきた。目だけで合図すると、忍半蔵は共に顔半蔵の元へと走る。

「信長が明智光秀に本能寺で討たれた」

知らせを受けた顔半蔵は驚愕した。忍びのくせに取り乱し、無様を隠せない。

「おい、目を開けろ。こんな危機、今まで聞いたことがないぞ」

忍半蔵が追い立てる。

「無理だ。家康が無事に三河まで帰れるあてが全くない。徳川家重臣が揃っていても、50人しか供がいない。落ち武者狩りから守り通せないぞ」

「我々忍びだけなら逃げる術はあるが、家康はどうする」

「家康がいなくなっては、服部家も危うい」

「家康一人なら背負ってでも逃げ切るか」

短い会話の後、顔半蔵は家康の前に出る。

小声で事変を伝えると、家康は目の動きすら止めて固まった。徳川家が瓦解していく音が、家康には聞こえたのだろう。

徳川家重臣たちを集めての作戦会議となった。大きく道を外れ、立円陣を組んで誰もが顔を見合わせる。

中山道や東海道を戻っていては明智光秀の手の者か、掠奪者の餌食になる。何しろ今は手勢がいない。

「堺に引き返し、三河からの応援を待つべき」

「偽りでも光秀と組む」

「京の知恩院で腹を斬る」

「偽報ではないか?これこそ信長からの刺客かもしれない」

生き残る可能性はないのか、と家康が周りに知恵を聞く。すると、信長からの案内人・長谷川秀一からの提案が出た。

「海路で三河に戻れないか。伊勢へさえ出られれば」

「上策だが、亀山までの東海道が一番危険」

「道なき道を進めばよい。寡兵なのを逆に取って、山中に活路を開く。そうだ、甲賀と伊賀を抜けて伊勢の白子浦に出れないか。伊賀は信長を憎んでいるが、徳川家は伊賀を攻めていない」

「我々は織田家の同盟国であるから、一体と見なされ危ないのでは?」

「甲賀・伊賀は縁遠い地ではないぞ。他国よりは味方も集まるだろう」

皆の視線は、自然と服部半蔵に集まっていた。

甲賀者・伊賀者を束ねる役目。父・半三は伊賀から出てきた。半蔵自身は伊賀にゆかりが薄くとも、人脈も土地勘も、他の人と比べればある。

呼吸を読んで、顔半蔵は前に出た。

「ここは服部半蔵にお任せください。伊賀には伝手も多く、我が服部家は伊賀由来の忍び。山中の細道を進むなら大勢に囲まれることはなく、一対一なら雑兵どもの襲撃に遅れを取ることはありません。他のどの経路よりも生き延びる可能性は高い。早速手筈を整えます」

思わぬ話だったが、顔半蔵に迷いはなく、自信に満ちた表情で言い切った。

重臣たちの安堵が伝わってくる。もちろん何の確証もないはったりだ。

酒井忠次・石川数正・本多忠勝・井伊直政・榊原康政ら徳川家の将たちが揃っていても、将だけでは戦はできない。

顔半蔵は最大の好機と受け取った。戦場で何十と兜首を取ることより、有力諜報を何十と得るよりも、今の家康を三河まで逃げさせることの方が価値が重くなる。

京に先行していた茶屋四郎が駆け付けてきた。女半蔵もいる。

「金を持ってきました。護衛の兵が揃うまで、我々が先回りして敵に金をばら撒き、道を開きます」

家康も賛同して、徳川家は伊賀甲賀の山中越えに賭けてみることに決まった。

絶対的に足りないものは兵力。

すぐさま、加勢を要請する使いが甲賀上忍の多羅尾光俊まで走った。多羅尾光俊は信長の伊賀侵攻の際に伊賀を売った裏切り者だが、今は是非を問う場ではない。多羅尾家以上に忍びを集められる家はいない。

途中に通る地の土豪たちにも使いが出る。

撤退し始めた徳川家、進むに連れ次第に兵力が揃っていった。

和田惟政の末弟・定利が伊賀の知り合いに声をかけると、助力があった。

伊賀滅亡後に三河に逃げた伊賀忍びの縁者が甲賀・伊賀一帯にいて、家康を助けてくれた。伊賀攻めを徳川家が静観したことが、周り巡って家康を助けた。

 もうこの世に信長がいないとすれば、今まで信長に遠慮してきた縛りも消える。謹慎中と世に伝えられた服部半蔵正成はもう一度、徳川家の重臣として表に出ることもできる。北の武田家旧領やそれこそ尾張に攻め込んで徳川家の領土拡大ができるかもしれない。それも全ては、ここで三河に帰れてこその大事。

一方、忍半蔵は護衛が揃うと、一人離れて穴山梅雪の後を追っていた。

顔半蔵と謀った秘密の行動だ。堺から家康に同行していた穴山梅雪は、家康の影武者として別行動することを自ら提案して、単独移動していた。

なんのことはない、逃げるどさくさにまぎれて三河者が武田一門衆の自分を殺すのが怖くて、別行動を選んだ。

穴山梅雪個人がどうなろうと別に興味もないが、今は無事逃げられては服部家は面白くない。

常道である近江から美濃を逃げた者は途中で殺され、伊賀山中を無理に抜けた家康だけが奇跡的に助かったという筋書きにならないと、服部半蔵の功績が上がらない。

「武田信玄の娘婿が10名足らずの供だけで逃げてくる。金を多く持っている。殺して金を分け合おう」

忍半蔵は草内村(距離間チェック!!)の山中で待ち構えている残党狩りの男たちに伝えて回った。前金だとばかり小銭をばら撒く虚無僧、男たちは怪しんだが、条件の良い話だから嫌がることはない。

襲撃のどさくさに乗じて、編笠に隠していた半弓で忍半蔵は梅雪を射た。後は壮絶な狩場となった。

穴山梅雪の逃亡失敗で家康の恐怖を煽り、伊賀越えが正解だったことを引き立て、つまり服部半蔵の評価を釣り上げる策。そのためになら手段は選ばない。

礫が飛んできた。

身をよじって避ける忍半蔵。

「何故、お前が梅雪を殺す?仲間のはずなのに、武田領でも狙っているのか?強欲な忍びだな」

敵半蔵だ。今の礫は挨拶ではなかった。どうして僕に本気で投石してきた?

「お前こそ、どうしてここにいる?本能寺から逃れられたとは驚きだな」

伴資家は織田信長の御庭番。それなら敵半蔵がここにいること自体が謎。

「俺にはもう何もないよ。池田?????の子せがれを連れて逃げるよう資家から頼まれて、逃げ通せたら金だけもらって池田家からはお払い箱だ。資家は信長と共に死んだ。伴家に捧げた俺の忍び人生は、わずかな間に消えた。資家もいなければ、資家が仕えた信長もいない。1日も経たないうちに、全ては灰に」

「だから、お前はどうしてここにいる?」

「俺にはもう盗みぐらいしかできない。はぐれ忍びさ。主も、主の主もいないんだ。主が潰えたら、忍びはどう生きるべきなのかな。お前はいいよ、仕事があってさ」

そう言うと敵半蔵は忍び刀を手に取り、滲み寄ってきた。今までに感じなかった本物の殺気。おかしい、こんな場所にいる僕を殺しても何も得るものはないはず。

理由のない戦いでも避けられない時もある。お前がそのつもりなら。

「殺してよ、殺してよ」と言いつつ、敵半蔵は全力で突きかかってきた。

日中にまさかの直接攻撃?確かな技術を持っている相手だから、危なくて後ろに飛んで距離を空ける。忍びらしくない。何かがおかしい。敵半蔵の狙いが分からない。

「俺には何も残っていない。俺と戦ってくれるだろう?これまでは敵の敵だから戦えなかったが、今となって心残りは、お前と忍びとして命のやり取りができなかったことだけ」

にじり寄ってくる敵半蔵。

「僕たちは戦わないといけないのか?主を失ったのなら、服部家に来い」

剣はあえて声をかけて敵半蔵との距離を測っていた。もう見えている、敵半蔵の右足には怪我があるようで本調子とは程遠い。

「能書きはいい。忍びに理由なんているものか。お前は一度でも自分の理由で人を殺したことがあったか?」

敵半蔵は飛び込んできた。術を併用するわけでもなく、その痛んだ足で忍び同士の真っ向勝負とは、敵半蔵は忍びの落第者になった。忍びは突然こうなる。

相手の速度を見極めると、忍半蔵も走り寄り、仕込み杖に仕込んだ刃で伴の肩を突いた。間髪入れず、首を刺して絶命させる。

足に傷を負った忍びが、無傷の忍びに敵うはずがない。お前も分かっているだろう。

容赦はしなかった、僕も欲しいものがこの先にある。

敵半蔵との真っ直ぐな命のやり取り。忍半蔵は相手を殺すつもりで殺した。僕のことを本気で殺そうとしてきた相手だから、自分の意志を入れてお前を殺したよ。こんな僕にも、奪いたくて奪う人の命もあるってことか。

周りの落ち武者狩りの土民たちに始終を見られていた。虚無僧姿なのに忍びの動きを見せてしまったからには、忍半蔵も消えなくてはいけない。

術だったはずだよね?あえて隙を見せて、僕に油断が生じた瞬間に何か術をかけようとしていたのだよね?

まだ甘い気持ちをかけようとする。だって逃げることが中心の忍びが、忍びと直接対峙することは滅多にないのだから。

さらば、敵半蔵よ。整理し切れず、忍半蔵は早足でその場から走り去った。

伊賀甲賀の土豪や忍びに導かれた家康一行は、山中強行で苦労しながらも伊勢へと進んでいた。

前駆して道を拓く顔半蔵は、鹿伏兎越えの際に雑兵から怪我を受けたという話を造った。あの鬼半蔵をもってしても危機が多かったという喧伝だ。

自らを本当に傷つけ、足を引きずりながらも先行する服部半蔵と協力者の伊賀者・甲賀者。

金半蔵から金を借りては伊賀・甲賀の土豪を仲間につける。金になびかない者たちならば、服部家の忍びたちと逆襲撃して蹴散らす。この頃には忍半蔵も追いついてきた。

 伊賀越えは成功した。

 200人まで膨れ上がった伊賀者・甲賀者に守られた家康と重臣たちは伊勢の白子浦へとたどりつき、三河への船を確保することができた。

 すでに夜中になっていて、船出は翌朝まで待つ必要はあるが、もう安心だ。

正成に言われた。

「剣、今回の褒賞に何が欲しい?大功だよ、この伊賀越えは。服部半蔵としての20年間の集大成。現場を離れて忍びたちを統率する立場になる?まだ自分自身で忍び働きを続けたい?もう今まで通りにはいかない年齢が来たのは分かるよね。考えておいて」

 分かるよ、正成。もう40歳だし、次を考えなければならない。

警護を任された船着き場への道沿い。家康が入っている館から漏れる光を眺めて剣は自分の心に問いかけていた。

 忍び働きの褒美と言われて連想するのは、変わらずひとつしかない。

 彩と身体を重ね合う時間が欲しい。

まだ術に落ちている。20年間も。人生の秋に差し掛かっても。

それも限界なのかな。正成も剣も彩も40歳、若さは消え、暑い性をむさぼり合う関係はいつまで続けられるのだろう。代理の若い女を、彩がよこすかもしれないという恐怖すらある。

僕の望みはただ女体を抱いて欲望を果たすことではない。

 功の節目に何度か抱いた彩。同じ家にいることが多かったのに夫婦とか寄り添うとかの概念はない。武士の家になっても忍びの呪縛か、幸せにはなれなかった。僕も妻子を持つような身分だったら良いのに、忍びにそんな安楽はないと身に叩き込まれていた。

彩は何故一人なの?それも分からない。

外見の光の半分が風化してしまったのはお互い様。そんなことではなく、歳月を遡るように彩を長く愛撫して、彩と過ごした若さ、心焦がした時間を感じたい。なぞった君の筋を、僕の指は今も覚えている。

僕はずっと君が好きだった。

それに、彩にも褒美をあげないと。女半蔵として頑張ってくれた、その褒美は今も僕に抱かれることだと彩は言ってくれるだろうか。もう男として僕は駄目だろうか。変わってないことを切に願うよ。

 波止場まで歩きながら考えてしまって、見張りも中途半端。平静と波との合間に漂う夢か。ゆらゆら。闇さぐりで忍ぶ剣。

 しなやかに伸びて、真っ直ぐ明るい。

 そんな君の瞳の大きさに僕は恋をした。

 でも僕には権利がないだろう、君を抱く。

 思い描いては水に溶かす、そんな夜を続けた。

 君が遠くに向かうと聞いたあの時の僕の心ときたら。

 月並みに嘘だ、と唱えて幻と思い込む。

 僕たち、どこで壊れたの?

 「私たちやり直しよ、この高みにはもう立てないとしても」

 消える直前の残り火、白い胸をずっと今に焼き付けて、逃避したかった短い夏の日。

 いっそ君の道が崩れてしまえばいい、陽忍なんて失敗すればいいんだ。形振り構わず君を引き留めたい気持ちと、旅立ちを送ってあげたい度量。

 どれだけ詩的に飾っても、君が欲しい衝動にずっと変わりはなかった。

浜での見張り番をしている女半蔵。向こうには三河への船が見える。手勢も着いた家康は安泰に入った。

この夜が明ければ、服部半蔵の大功も確定する。

 波の音が聞きたい。

これで陽忍の日々も終わり、また服部家で陰忍をするのかな。

今夜も月は足音を立てることなく、黒い空に現れている。

そこへ剣が姿を見せた。

海上の水蒸気さえ吸収してしまいそうな一人ぼっちの影に、思い詰めた何かを彩は感じた。

 「彩を愛することを所望」

 夢の結実を求めてみる。伝えたかった、剣から彩への言葉。

 しばらく空いて、彩が応える。

「いきなりね。まだわたしでいいの?」

今更恥じらいながら抱かれようとする彩が愛らしい。望みは、叶うものだったのだろう。

仕事を放棄して、離れの漁師小屋で二人は抱き合う。

今のままの彩を望むよ。

全身が吸いつけられるような愛欲を剣は感じた。今なら死んでもいい、ただひとつに彩と合わさりたい。未来の忍びより今の男と女。互いの肉体の劣化は暗がりに隠して。

「人生がもう一度あったら、彩をずっと抱いて過ごしたい」

挿れながら、耳元で囁く剣。

「忍びなのに、剣って、夢ばかり見てる」

濡れた女の口で応える彩。

入ったままがいい。ずっとつながっていたい。

終わりたくはないよ。

完全な油断、忍びなのにそれでいいの?

それでも剣は本当に忍びなの?

でもいいよ、私ももう長く生きたから。今殺されても惜しいものなんかない。

40の変化。忍びなら禁じられて愛し合いたい。もうこんな時に剣の耳に術は吹き込まない。

念願叶った後での交接の世界。弾力から柔らかさへ。

服部半蔵は武士と忍びの双方で名声を得た。徳川家の旗本として立身し、伊賀と甲賀の忍びを統率して諜報を担当する。特殊な役割だが、待遇は上忍の延長にあらず、明らかに上級の武士だ。

あの昔に正成・剣・彩が狙った通りの結果。

約束の20年目になった。医療も栄養も不十分なこの時代、40にもなれば老いが隠せない。身体にも不自由が出てきた。3代目服部半蔵は17歳に成長し、家督を継ぐ日も近い。

伊賀越えは決定的な契機となった。幼少より危機が多かった家康だが、これほど明確な危険を潜り抜けた経験はない。率先して道を拓いた服部半蔵の功績は大きく、家康と重臣たちからの信頼は確たるものになった。

武士にも忍びにも通じる器量人として、他者にはない技量を持つ旗本。

服部半蔵の名の元で複数の半蔵たちが動いていることは、他の将は知らないだろう。どうやって土豪たちを味方につけたか誰も知らないし、正体を怪む将もいるのだろうが、真似できない実績を出した服部半蔵は徳川家中でも畏敬の目で見られた。その視線を一身に受ける顔半蔵、顔の役割も板についてきた。

 「そこでだ、」

 顔半蔵からの提案。

「服部半蔵の虚像のうち、忍びはもういらない時代になる。天下を誰か1人が収める日が来る。服部家は鉄砲に長けた武士として生きた方がいい」

 「まだ忍びは活躍できるし、戦が続く限り需要はあるだろう。少なくとも信長に続く次の覇者が見えてから、天下が平和になってから忍びをやめてもいいのでは?」

 「最後の戦いで忍び働きはしない。その手前で止める。最後まで忍びをしていたら、忍び上がりという印象がずっと残る。忍びを封じる日は近いと思っている」

 「まぁそうだね。完全な武士なのに、無理強いしたら忍び働きもできてしまう服部半蔵、ぐらいでないと次代の服部家はいけない」

 「忍びから足を洗うには早い方がいい。本当にいらなくなってからでは後手に回る。いらなくなり始めた頃が頃合いだ」

 「分かるよ、でもなんだかもの悲しいね、正成」

 「悲しいよ、俺たちは忍びとして生まれ育ってきたのにね。いいか、君のこれまでの確かな忍び働きを否定するものではないから」

 「忍半蔵としては存分に働いた、これ以上のものは出せないってぐらいに」

彩も入れて話し合うと、忍半蔵・女半蔵はもう表面に立てないという結論に達した。

「この先はどうする?服部半蔵はどう継続させよう?」

「家名も旗本の地位も手に入った。子供たちに残すものは残した。僕たちはもう服部半蔵の役を解いてもいいのではないか?」

「得るべきものは得た。服部半蔵を三代目服部半蔵正就に譲って、俺たちは影の支えとして働くかな。みんなが望むそれぞれの形で。対立は望まないよ。服部家人としてゆっくりしてくれ。君たち二人がいてこその服部半蔵正成だったから」

「あとは好きなことをして過ごす日々か」

「自分のために生きる?もう役を演じるのではない?今までと真逆の考えだから、しばらく整理の時間が必要ね」

「ひとまず考えて過ごし、またみんなで話し合おうよ。時間を開けて、心の中に落ちてくる方向にそれぞれが進めばいい。答えは急がない」

 季節は巡る。伊賀八幡宮の夏祭りが今年もやってきた。3人はいつかと同じ方法で鳥居を再び動かして村人たちを驚かせた。

 その様を遠くから眺めている3人。変わらず幼少からの家人同士、主従の関係ではないのも昔と同じ。

 「あはは、懐かしいね。あの驚き方はあの時と変わらない!」

 終わると大樹寺の境内裏で焚火をして語る。

「考えても考えてもひとつしか浮かばなかった。僕は忍びの現場にしか生き甲斐がないよ。不条理が付きまとう忍びを抜ける機会なのだろうが、辞めても僕には何も残らない。だから1人で忍びを続ける。服部半蔵とは別の異名を自分だけで創る。忍びとして生きる以外に、僕は何もできない」

剣は真っ先にそう吐き出した。

「霧隠才蔵という名にする。僕らしい名前。霧隠の術の再来。1字を好きな女の名の音から、もう1字を半蔵から貰う」

サイという音を持つ女?今更の愛の告白。正成の前で、この歳になって。

そんなことを口に出すということは、剣が遠くに言ってしまう気がして、正成も彩も笑みを諦めた。

「やはり忍びに生きるしかない。忍び生れ、忍び育ちなら、忍びに死ぬ。古い人間、古い忍びだ。残された時間を、どこまで自分一人で働けるか分からないけど、なすがままに。服部家とはかかわり合いを持たない。服部家の名は捨てる。利害対立しない。どうか勝手にさせてくれ」

 霧隠という名の術に夏を感じる。今思えば、あれは無我夢中で生み出した術だった。

 「私は忍びを捨てて普通に暮らすと決めた。子供ができたの。父は分からないけど」

 正成と剣の胸に到来するもの。自分の子?これからは自分の愛を受けて生きてはくれないの?

似たような表情をした二人だったが、彩は何も答えない。

子供ができたなんて。身に覚えがあるの?露骨に聞きたくもなったが、すべて不問にしよう。彩が決めたことなら、何も言うことはない。本当かどうかも分からない。どっちの子?他の男の子?

女半蔵の最後の術かもしれない。いつだって心はあなたに惑わされるがまま。

正成は武士働きをもうしばらく続け、礫半蔵こと鉄砲の技術で服部家を盛り立て、正就に譲り渡す道を選んだ。鬼半蔵はもう消した。金半蔵・脳半蔵とも組む必要はない。

伊賀越えを遂げた今、忍び働きは最高潮で辞める。服部家は働きの比率を変えて鉄砲に長けた家へ移行しよう。もう忍び働きを廃業する方向に向かう。羽柴秀吉や柴田勝家との争いを控えているから、もうしばらく忍び働きは求められるとしても。

堂々と単独で服部半蔵を名乗ることにした正成。顔半蔵ではなく、俺が今の服部半蔵だ。

忍びが重用されない世は間近。これからは各々で好きなように生きればいい。さらばだ、顔半蔵、忍び半蔵、女半蔵。

豊臣秀吉と徳川家康が争った1584年の長久手・小牧の戦い。伊勢松ヶ島城攻めへの応援で、服部半蔵は戦功を立てている。

それは鉄砲隊としてであって、槍働きでも忍び働きでもない。

忍びは時代に消えて行った。

1590年には遠江に8,000石(約8億円)の知行を得た。

服部半蔵に対する家康の評価が高かった証だろう。あの渡辺半蔵・槍半蔵が同時期に3,000石の旗本だったことを考えれば破格の待遇だ。

 1592年の豊臣家の朝鮮侵攻でも徳川鉄砲奉行として服部半蔵は出陣した。

 服部半蔵正成は1596年に死んだ。

 どの時まで服部家が忍び働きをしていたかは誰も何も伝えていない。

1600年の関ヶ原の戦い以降、世から戦がなくなると各地の忍びは仕事を失い、流浪した。

伊賀を治めた藤堂高虎の藩では、忍びは無足と呼ばれる臨時の扶持米を貰える半農半士に留まったが、戦がない時代が続くにつれ次第に農民へ変容していった。忍びの術も世から消えて行った。

戦に振り回され、必要とされた後で不要になった忍び。その末裔には何も残らなかった。正成たちが予想していた通りの時代になった。

そんな中、忍び出身で武士階級としての地位を後世に維持したのは、服部家の他には数えられるぐらい。

3人の半蔵には先見の明があったのかな。20年後とその先を見据えた判断で、服部家を繁栄させ続けることができた。

想像してみよう。その後の服部家が、主君から何か特命を受け実行した後、逆に謗りを受けたりする可能性はあるか、いつかの忍びみたいに。

武士としか見られていない次代の服部半蔵正就にそんなことは起こらない。徳川幕府の行政官として、仕事に打ち込んでいける土壌を既に得ているのだ。

親の想い届かず。

3代目服部半蔵正就は、正成の死から9年後の1605年に、伊賀者200名を統率できないという問題を起こし、伊賀同心支配役の職を失っている。

弟の4代目服部半蔵正重が家を継いだが、大久保長安事件で失脚した。

皮肉にも、忍びの術を失った服部家からは忍びの頭領としての役は離れ、桑名藩の家老格として服部家は続いていった。

歴史の表舞台から服部半蔵の名は消えて行った。

あれからの剣と彩の消息?

誰も知らない。







Copyright© ケンボックス〜高品質な詩的日記 , 2021 All Rights Reserved.