ここ設楽原古戦場へは何度か目、5年ぶりの訪問になる。
車窓から馬防柵が見えてきた時は、また来たよ、と思わず声を出してしまったほど愛着のある場所。
長篠堰堤からの帰り道で、今日は設楽原古戦場を主題に来たのではない。
コロナウイルス禍で今年の設楽原決戦場まつりは中止となったし、お盆の火おんどりには来たいけどどうなるかは分からない。
夕方に歩く設楽原古戦場一帯は、なんとも穏やかな感じ。
カメラをぶら下げる僕は観光客とすぐに分かるな、地元の散歩者や農作者たちと挨拶を交わしながら連吾川沿いの田畑をゆっくり歩く。
馬防柵の中に入って、自分を織田家・徳川家の足軽鉄砲隊に見立てて、馬防柵越しに連吾川向こうの武田家の陣を見渡す。
現代人である僕には伝わるはずはないのだが、それでもわずかに、ほんのわずかに恐怖心が湧いてくる。
時代考証された3連の防御、空堀・馬防柵・土塁で守られているとしても、
この至近距離から武田家の兵馬で必死の形相で向かってきたと考えれば恐ろしい。
どれが本当か500年前の情報の真偽を確かめる術はないが、連吾川を越えると、空堀・馬防柵・土塁、さらには大量の鉄砲なり弓矢で迎撃されただろう武田家。
平地山城を構えたと思われ織田家・徳川家はそもそも兵数の面で武田家を上回っていたとされるのだから、
そんな死地に飛び込んで一大決戦する理由がどこにあったのだろうと考えると、もう500年前のミステリーにしか思えないのだ。
武田家史上、最大の領土を獲得した武田勝頼が凡将というわけではないし。
現代では、鉄砲3段重ねという伝説でも生み出して、せいぜい戦国時代ロマンに酔い、楽しんでおけば良いさ。
設楽原・連吾川の長い歴史、きっと何千年という時間のほんの一瞬、
人間たちが壮絶で醜い争いをこの地で行ったという伝聞を、僕も信じてみよう。
設楽原古戦場を歩いてみれば、そんな激烈シーンはウソのように、
ただ静寂な夕暮れ時だけが広がっていた。
2016年撮影
長篠設楽原PAの写真 設楽原の戦い・茶臼山の歴史遺産と馬防柵
そうだ、歴史という宝物がある、長篠設楽原PAの活性化に使わぬ手はない。
設楽原の戦い、その壮絶な生死のやり取りを歴史ロマンの楽しみに昇華させられるのも現代の平和の成せる業ね。
設楽原の戦いで織田信長が本陣をおいた茶臼山に続いているよ、長篠設楽原PAは。
長篠設楽原PAの下りは、織田信長・徳川家康連合軍をイメージ。
チームカラーはブラックかな。
歴史の勝者の扱いはすこぶる良い、上りと比べて施設が格上?な気がした。
下りのPAを歩いていると、設楽原の戦いの跡地っぽく作っている観光施設があった。
馬防柵を観光資源に活かすか、それは分かりやすい話だね。
設楽原の戦い=織田信長の三段撃ち鉄砲で勝利=馬防柵の蔭から撃った鉄砲隊。
「当時、こんな高地に馬防柵はない!連悟川沿い」などと、うるさいこと言ってしまいそうになったがなんでもいいんだ、あの設楽原の戦いの認知度を上げてくれるのなら。
長篠設楽原PAの上りは、武田勝頼軍をイメージ。
チームカラーはレッド、武田の赤備えってわけか。
火おんどりでの供養を僕は忘れない。
眼下に見えるのは設楽原の戦場と1山ずれている。
あの設楽原の戦いの前日に織田信長ら首脳がいた場所に、長篠設楽原PAがある。
幻のランナー・鈴木金七を紹介する看板に近い。
時間が経ち過ぎた歴史はロマンを生んで、その当時の凄惨さ・哀しみをみんな拭い去ってくれた。
楽しいドライブ時間へと昇華してくれた設楽原の戦い。
長篠設楽原PAから岡崎SAへと新東名を走ろう、あの鳥居強右衛門さんが道根往還を経て岡崎城まで走ったように。
2014年6月29日撮影
長篠城跡を訪れてみた、公園風になっている広くて明るい場所。
中央右の白いのぼりがある場所が本丸だったという、高低差はないのね。
長篠城址と聞くと三河武士たちの壮絶な防衛戦があったことを思い出す。
とりわけこの足軽・鳥居強右衛門の生き様は驚きだ。
公園みたいだが、所々に長篠城跡を思わせる地形が残っている。
武田軍に捕らえられた鳥居強右衛門が、あの有名な言葉を発した場所だという。
長篠城から川を挟んで向こうかと思ったら、川の反対側だったのは意外。
牛渕橋から見た長篠城方面、電車の向こうが本丸になる。
豊川と、長篠一帯の山野風景。
あの位置に鳶ケ巣山の砦があったのか、長篠城内は筒抜けではないか。
酒井忠次らの奇襲隊も、夜中から早朝にかけてよくぞあんな場所へ到達したものだ。
長篠城内から、豊川を挟んだ向こう岸に、鳥居強右衛門が磔にされた場所がある。
車で移動してみると、こんな石碑があった。
鳥居強右衛門は長篠城の戦いの英雄。
その鳥居強右衛門のお墓が、少し離れた場所にあった。
新昌寺(住所:新城市有海稲場2)を訪れて、鳥居強右衛門の墓参り。
鳥居大権現とは、英雄はもはや神格化されているのか。
すねえもん氏、死んでからまさかの有名化。
生ある内に伝えたかった、あなたの勇気は素晴らしいと。
そしてJR飯田線の駅名にもなった、鳥居強右衛門の人気ぶり。
無人駅なのに、この鳥居駅は名前のおかげで僕のような訪問者もいる。
武田軍の重臣たちが、翌日の設楽原の戦いを前に、死を決意して水杯を交わしたと言われる場所。
大通寺の本堂の裏側にあった、盃井戸。
長篠城から300mほどの距離にある馬場美濃守信房の墓、整備されていて嬉しいものだ。
鳥居強右衛門同様に、岡崎へ走った伝令兵と言われる鈴木金七の生誕地。
住所:新城市富永字屋川52 (訪れてもこの看板しかありません)
そしていよいよ設楽原古戦場跡へと移動してきた。
馬防柵と田んぼや山野は分かるが、遠くに見える新東名高速道路は邪魔だ。
上の看板に書かれた鉄砲構えが、下の写真のように再現されていた。
草木が繁っていて分かりにくいが、定説の馬防柵よりもこっちの方が現実的。
だがしかし、これを横幅何kmにも渡って作るのは物凄い作業量だ。
伝説なのか、リアルなお話なのか、馬防柵の正体は歴史の謎。
本当に馬防柵が横にずらっと並んでいたら、普通は突撃なんてできないよね。
武田軍の武将がこの馬防柵に攻め込んできて、そのまま銃撃を受けた亡くなった、と。
分かりやすいが、本当に本当なのか?
首洗い池、という恐ろしい名前の池が少し離れた場所にある。
本当だったら目を覆いたくなる場所。
原隼人佐昌胤の墓、武田軍の重臣の一人。
墓の場所は、馬防柵の一帯ではなく、武田軍が陣を構えていたあたりに。
鉄砲に撃たれたのではなく、織田・徳川の追撃戦によって討ち取られたのだろう。
山県昌景の墓の似たような場所にあった。
武田軍の重臣筆頭と呼んでも良いだろう山県昌景もまた、攻め時ではなく守り時に討たれたはず。
8月15日に行われる、火おんどりの案内があった。
日本の祭りを写真に撮る趣味のある僕としては、この火おんどりは最高峰の火祭りだと思っている。
設楽原古戦場を歩き回って、色々な史跡を写真に撮る。
地形や位置関係が見えてきて、なんだか設楽原の戦いの現実的な姿が分かったような気がした。