張飛と夏侯覇、趙雲と夏侯恩「夏侯覇仲権」三国志小説

投稿日:2003年3月15日 更新日:



荊州の都・襄陽から南へ下ったところに当陽という街がある。

その郊外に景山という小高い山があり、その麓は長坂坡と呼ばれる土地である。

二百年の八月。

劉備軍は南の江陵へと逃げる途中で長坂坡に差し掛かった。

最早荊州は劉備にとって安堵の土地ではなくなっていた。

鄴城を陥落させた曹操は北征を続け袁家一族を根絶やしにした。

後顧の憂いを取り除くと今度は南征軍を編成し荊州を狙いに定めた。

丁度時を同じくして荊州の主・劉表が危篤に陥っていたからである。

曹操軍来襲の知らせを受けた劉表は病床に長男劉琦を呼び寄せた。

しかし、劉表の後妻蔡夫人とその弟で重臣の蔡瑁が邪魔をする。

蔡夫人は自分が腹を痛めて産んだ次男劉琮を後継ぎに立てようと企んでいたのである。

袁紹と同様の泥沼の後継者争いが荊州にも存在していた。

哀れ、劉表は遺言を残せないまま病没してしまう。

号泣して哀しみを繕った蔡夫人と蔡瑁だが、当初の狙い通り劉琮を後継ぎとした。

劉表の遺書を捏造して、諸将が揃っている場で公表したのだ。

国益を考えず、私利私欲だけに走る者を待つのは崩壊でしかない。

蔡姉弟は審配のような確信的な悪党ではない。抜群の才覚を持ち合わせているわけでもない。

曹操軍の侵攻を目前にして内部は揉めに揉めた。

切羽詰った蔡姉弟は思いがけない行動に出た。

荊州劉家として降伏を決定し、降伏状を曹操へと届けたのだ。

嫡子劉琦を立てるのが筋であると主張していた劉備は、

降伏の知らせを受けると驚き、急いで襄陽へ登城した。

しかし、来たのが劉備と知ると城門は開かれない。

以前から蔡姉弟や劉表の旧臣たちは劉備の底力を恐れていたのだ。

見切りをつけて劉備は城を離れる。

東南の江夏に駐屯している劉琦と合流すべく、新野の軍を引き連れ南下した。

この行軍には新野城の民数万人が従っていた。

劉備は新野城の全民に対して退避命令を出した。

別に劉備を慕って付いてきた民ではない。強引に連れてこられたのだ。

劉備はここでも馬鹿正直な大義を前面に出している。

新野の民が曹操軍に虐げられるのを見ていられないので連れてきた、

自分と兵士たちだけで逃げればすぐにも江陵に着くのだが、

自分を慕ってきた民草を捨てるに忍びないのだ、と劉備はそう言ってのけた。

それは真っ赤な嘘である。民草は劉備が握った人質であり、盾であった。

劉備軍の兵はほぼ全員が新野の兵である。

もしも兵士だけで逃げていたら、それこそ途中で兵士の全員が逃亡してしまっただろう。

家族のいる新野を離れてまで劉備に付き従う理由が彼らにはないからだ。

それを防ぐために劉備は兵士の家族たちまで連れて逃げたのである。

民草は兵士たちを逃さないようにするための人質であった。

また、曹操軍の攻撃を緩めるための盾であった。

広大な荊州を支配するためには民衆の心を掴むことが必要である。

新野の民を攻撃すれば、荊州の民衆から非難を受けるだろう。

それを計算した上で劉備は足の遅い民を連れて逃げていた。

曹操軍に追いつかれては地獄。民を切り離して逃げても地獄。

そのぎりぎりの選択で、劉備は己の掲げる馬鹿正直な大義を優先させた。

弱い民衆を保護する善い将軍、という印象を無くしてしまっては

己に何も残らないことを劉備は良く理解していた。

劉備は考えている。これが、英雄の英雄たるしぶとさと信念であった。

長坂坡に差し掛かった時、劉備は遥か後方に立ち上がる土煙を見て曹操軍が迫っていることを知った。

予想よりもだいぶ早い。劉備は大いに慌てた。

追撃があることは想定していたが、今は軍師諸葛亮も関羽も江夏の劉琦へと使いに出ている。

軍兵は少ない上、足手まといとなる民がいる。到底勝ち目はない。

曹操軍の先鋒は曹純と文聘だった。鉄騎兵一万が劉備軍と民衆の中へ突撃した。

逃げ惑う民衆を見た劉備軍の兵士は家族を心配し、隊列を大きく乱す。

殿の張飛が大声を出しても、一旦乱れた隊列が戻ることはない。

あっという間に劉備軍は大混乱に陥った。

劉備は一目散に景山へ逃げようとした。

立ち塞がる曹純軍の兵を必死に斬り崩し、活路を開く。

馬の蹄にかけられた民衆の屍を横目にまっしぐらに逃げ、長坂橋を渡って景山の麓で味方を待った。

曹純・文聘が突入してから間もなく、すぐ後ろに迫っていた曹操本隊も長坂坡に到着した。

前軍は夏侯惇・夏侯淵の両名である。

夏侯惇はこの戦いに特別な意欲を燃やしていた。

それもそのはずである。この六月に喫した大敗の屈辱を忘れるはずがない。


「――劉備が!不義の流賊が!!」

遡ること二ヶ月前。

惇は怒っていた。こと劉備の話になると惇の憤怒は収まらない。

激情の中にも戦場を冷静に見渡すことのできる活眼を持つ将軍であり、

相手を敬うことも忘れない武人であるが、劉備だけは別であった。

「俺が斬ってやる!これで最後だ!」

執拗な言葉。許都からの進軍の途中でも怒り続けたままだった。

劉備討伐軍の都督としての立場からだけだとも思えない。

どうしてだろう、どうして惇はこんなに劉備を憎むのだろうか。

惇にとって人生は曹操のためであった。

陳留での旗揚げ以来、惇は常に曹操の片腕として栄光と辛酸を分かち合ってきた。

最早惇には他に何も見えない。曹操の敵が自分の敵であった。

曹操一筋に生きてきた惇にとって分からない存在がいる。

次々と主を変え、何を求めてか場所を転々とする輩だ。

彼らに武人としての節義を見出すことが惇にはできなかった。

その偽者たちの代表格が劉備だ。

義勇軍から始まり、公孫瓚・陶謙・呂布・曹操・袁紹・劉表と主を変えては生き延び続けている。

しかもその主の中には呂布のような男や、惇の曹操さえもいるのだ。

全ての主を裏切り、己の保身のためだけに生きている男。

それが劉備だ。惇には我慢ならなかった。

「だからあの時に斬っておけばよかったのだ!

我が軍に下ってきたあの時に!わしはそう言っただろう!孟徳、あれは貴様の間違いだったぞ!」

呂布に城を奪われた劉備が曹操の庇護を求めて降ってきた時、惇は曹操に斬るように勧めた。

だが曹操は笑って聞き流すと、「英雄は英雄を知る」と言って温かく劉備を迎えた。

とにかく、あいつは気に食わない。

影のように劉備に付き添っている関羽・張飛のことは

理解できないことはないのだが、とにかく劉備だけは分からない。

大嫌いだ。孟徳の邪魔をするだけで、何の役にもたたん。

孟徳はいつかまたあんな余計な男に熱を上げるかもしれん。

悪い癖だ。だからその前に俺が斬ってやる。孟徳のためだ。

荊州南征の軍議を開いた時、惇は劉備討伐を優先させるべしと進言した。

南進して荊州に入れば真っ先に新野城を通る。

劉備が駐屯している城だ。

劉表は南下してくる曹操の盾となる任務を劉備に命じていた。

惇の言っていることは間違っていない。

曹操は惇に十万の軍勢を授け、劉備掃討を命じた。

新野城は小さく、劉備軍の兵力は一万にも満たない。

関・張の二豪傑がいたところで敵う兵力差ではない。

それに惇ならば安心できる。曹操はそう読んで惇を送り出した。

惇が新野まで進軍すると、意外にも劉備は城外に軍を構えていた。

副将の于禁・李典らを後詰に残すと総大将の惇自ら先陣に立った。

敵の先陣には「趙雲」と書かれた旗が立っているが、そんな将はよく聞かない。

見るとまだ若い将であった。惇は構わず一気に突撃をかけた。

たかが三千ほどの趙雲隊がどうして抑えきれよう。

それでもしばらくは趙雲隊も持ちこたえていたが、全軍突撃を受けると我先に逃げ出した。

惇は趙雲という将を見つけると問答無用で討ちかかる。

十数合槍を交えたところで趙雲は逃げ出した。

惇が追う。途中で何度か趙雲は態勢を立て直しては立ち塞がろうとするが、

十万の夏侯惇軍の前では時間稼ぎにもならない。

趙雲は博望坡という谷間へ逃げ込んだ。

すると数百人程度の伏兵が左右から起こり、趙雲が馬を返してくる。

先駆けしていた惇が三方から包まれた。

「笑止!この程度の伏兵、我が敵ではない!」

惇は怯まない。自ら槍を振るって相手を一蹴した。

兵力の差は歴然としていた。

なおも奥に逃げようとする趙雲を追って惇は進む。しばらく追うとついに劉備本陣が見えた。

「おぉ、見えたぞ!あれが劉備だ!行け!!進め!!」

興奮した惇が叫び、構わず兵を突撃させた。

趙雲が劉備本隊と合流すると、辺りに太鼓の音が響いた。

左右の森から千人ほどの伏兵が現れ、正面の趙雲が軍を反して総攻撃をかけてきた。

突進していたせいで惇の軍は長く伸びてしまっている。

谷間の道は狭く、多勢の利を活かすことができない。だが、惇は冷静であった。

「これか!この程度の切り札しか用意していないとは、この夏侯惇も舐められたものよ!」

兵を励まして戦う惇の姿に勇気付けられたのか、夏侯惇軍は一気に劉備軍を押した。

伏兵の計も失敗した劉備軍はまっしぐらに退却していった。

その後を追い、惇は突撃を繰り返す。

最早趙雲に兵を返す余裕はみられない。

惇は先陣を切って前に進んだ。遮る敵を馬で蹴散らし、立ち塞がる兵を槍で突き伏せる。

ふと、劉備の陣旗が見えた。

遠目にだが、劉備の乗馬である白馬の姿があった。

(おぉ!あれが孟徳の邪魔をしている奴か!あれさえ取り除けば孟徳の道は開ける!)

惇が声を枯らして兵を急かす。

勝利を確信した夏侯惇は一気に劉備との距離を詰めようと突撃をしたのであった。

その頃。先頭から後れること数里ばかり、副将の李典は于禁の元に馬を寄せていた。

「どうも道が怪しくないか?行くごとに道幅は狭まり、林は深くなってゆく」

李典の心配は于禁にすぐに伝わった。

「うむ。そう言われればそうだ。谷間に誘い込まれている感じがあるな」

「丞相が日頃おっしゃっている危険予測の兵法にこんな場所があっただろう?」

「兵法は覚えてないが、こういう道は伏兵か火計の絶好の場だ」

実戦経験豊かな于禁がそう言う。

「この兵力差だ、伏兵は心配いらないが、もしも、」

「火計、か」

二人は顔を見合った。

「劉備にそんな智謀の将がいるとも思えんが、

最近劉備から降ってきた徐庶が言っていただろう、劉備には諸葛亮という軍師がついている、と」

一瞬の沈黙の後、李典は言った。

「それにだ。関羽も張飛もまだ姿を見せておらんのが不気味なのだ」

その一言が決定的だった。二人はふと背筋に冷たいものが走るのを感じた。

「李典、貴公はここで陣を構え、大局をよく見定めてくれ給え。我輩は夏侯都督を諌めて参る」

「うむ、任せたぞ。油断するな」

そう言って于禁と李典は二手に分かれた。


一方その頃。

輜重隊にいた子雲と仲権は余裕で馬を進めていた。

「伯父上は凄い!どんな時にも全力を尽くす。

十倍の兵力差の相手にも総大将自ら斬り込んで行くんだから士気も上がるよ。

被害を最小限に抑えようとする総大将の責任だろう。凄いよ」

仲権が言うと、子雲は頷いて言った。

「あぁ。そんなに劉備が憎いんだな」

「違うだろ?自軍への責任だよ」

仲権が突っ込む。

「いいや、憎しみだね」

二人の捉え方はそれぞれだった。

だがそれは、惇からすればどちらでもいいことだ。曹操にとって利益があるものが惇の正義なのだ。

ふと、後方で喚声が上がった。

子雲と仲権が振り向くと、輜重隊の後方で火の手が上がっていた。

その頃。

先陣の惇はというと、逃げる劉備本陣を追って執拗な追撃を繰り返していた。

前を遮ろうとする敵兵を破っては追撃し、蹴散らしては前に進んでいた。

「おぉーい、おぉーい」

後方から声がする。土煙を上げて追ってくる一隊がある。于禁だ。

「夏侯惇殿!待たれよ、留まり給え!」

「おぉ、于禁!手を貸せい!急いで劉備を追撃じゃ!」

ようやく追いついた于禁が火攻めの危険性を訴える。

だが、惇は相手にしなかった。

劉備の本陣のすぐそこまで迫っているのに火攻めがあるわけがない。

近距離で火を放てば劉備軍にも被害が出てしまうからだ。

だが、惇は追撃に必死のあまり、敵兵が邪魔している間に

既に劉備本人は遠くまで逃げ去っていたことに気が付いていなかった。

――ひときわ大きい銅鑼の音が響く!

「すわ、何事か?!」

于禁が四方に視線を走らせる。

悪夢の光景。左右の林に火の手があがり、

前後の林道に火だるまの枯れ草が投げ込まれるのを于禁は見た。

「いかん!退却!!退却!!!」

最早間に合うはずもない。すっかり虎口に入り込んでいた夏侯惇軍であった。

あっという間に火の手は周囲に回り、火の恐怖で大混乱が起こる。

怯えて右往左往する兵は互いに互いの逃げ道を塞いでしまう。

夏侯惇軍は大計にはまってしまったのだ。

伏兵ならまだしも、さすがの惇も火は相手にできない。

最後尾の輜重隊にも容赦ない火の攻撃が襲い掛かってきた。

左右の林深くから突如現れた張飛隊は問答無用にたいまつを投げ込むと突撃してきた。

元々戦闘要員ではない輜重隊である。

張飛の猛攻にどうして耐えられよう。散々に打ちのめされ、あっという間に壊滅した。

輜重隊の将は夏侯蘭である。

夏侯家の遠縁に当たる蘭は、袁紹亡き後で陳留を守る役割から解放され夏侯惇軍に合流した。

彼は元々法律に精通する文士であり、戦闘員ではない。

不意に現れた張飛の前ではなす術がなかった。

遊軍の恩と覇は救援要請のため前の敵を突破するように蘭に命じられる。

二人がなんとか道を切り開いて李典の陣まで辿り着くと、

李典隊もまた敵の襲来を受けていた。それも相手は関羽である。

救援どころではない。

散々に蹴散らされたが、李典と恩と覇は命からがら逃げ延びた。

先陣の夏侯惇隊の損害は著しかった。

歴戦の勇士である惇自身はさすがに上手く逃げ延びたが、

遠く陣を引いて残存兵をまとめてみると十万の兵が半分以下まで減っていた。

輜重隊の夏侯蘭は張飛に討ち取られていた。

于禁や李典もそれぞれ火傷を負っている。大敗であった。

わずか一万の劉備軍に十倍の兵力の夏侯惇軍が打ち負かされる。

かつてない屈辱である。

決して戦上手とはいえない劉備にまさかこんな大敗を喫するとは、誰もが想像できないことであった。

この博望坡の敗北によって、夏侯惇は旗揚げ以来築き上げてきた名声に

大きな傷を付けることになってしまった。

最大の敗因は、夏侯惇の強引な突撃指示であった。

一人の判断で何万人もの兵の命が失われた。

許都まで戻ると、惇は己の身体を縄で縛って曹操の前にひれ伏した。

全ての責任は自分にある。

死を覚悟して潔く咎めを受けようとした惇だったが、曹操は全く責任を問わない。

大勝があれば大敗がある、とばかりの態度で不問に処した。

劉備にそんな知恵はないはずだから誰か有能な軍師がついたのだろう、と曹操は幕僚達に問う。

徐庶がやはり「諸葛亮」の名前を挙げた。

博望坡ではそんな軍師の姿は見当たらなかったが、

思えばあの趙雲という将の行動が演技だったとすれば見事だった。

退いては返り、返っては退いて夏侯惇軍を誘導していたのだ。

あれは諸葛亮の指示の元に行われたのであろう。


あの博望坡で、劉備はまたひとつ曹操の邪魔をしてくれた。

惇自身の名誉をも奪い、ひいては夏侯家の家名に傷をつけた。

惇の怒りは頂点に達していた。夏侯家にとって、惇の怒りは自分の怒りである。

淵も、恩も覇も劉備が憎かった。

あわよくば劉備か張飛を討ち取って博望坡の借りを返したい。

それを狙う惇は密命を出した。淵には殿の張飛の首を。

恩には劉備の嫡子・阿斗劉禅の捕獲を。惇自身は覇と共に劉備の首を狙う。

戦況からして曹操軍の勝利は間違いない。

惇は敵兵を蹴散らすことが目的ではないとはっきり言い切った。

あくまで特定の敵個人だけに狙いを絞ったのである。

曹操軍全体の目的からは逸脱した行為だが、夏侯家に反対する者はいなかった。

夏侯惇軍の先陣を務めるのは夏侯覇であった。

夏侯惇以上に夏侯覇は熱くなっている。

許都へ引き上げる時の夏侯惇の悲愴な表情が忘れられない。

己の身体を縄で縛って曹操の足元に平伏した夏侯惇の姿を忘れることができない。

それもこれも軍を預かる将軍としての責務であった。

夏侯覇は将としての責務というものを深く考えさせられた。

その一方で、劉備を憎む心を持った。

当陽を出た頃、青釭の剣を背負った夏侯恩が馬を寄せてきた。

「子雲、この戦いには命を賭けるぞ!必ずしや劉備の首を取ってやろうではないか!」

だが、仲権を見る子雲の目は冷ややかであった。

しばらくの間、無言で何かを訴えかけるかのように仲権に見ると、

一声だけかけて自軍へ戻って行った。

「おう、仲権。劉備たちの家族は必ずやこの俺が捕らえてみせようぞ!」

子雲は劉備たち、というところを強調して言った。

仲権はその一言だけで子雲が何を考えているかが手に取るように分かった。

――子雲は劉備の家族ではなく、張飛の家族を保護しようとしている。

張飛の家族、つまり玉思だ。

この行軍には劉備の家族を含め、新野にいた全員が従っていると聞く。

それならばきっと玉思もこの戦場にいて、追手から逃げることに必死になっているに違いない。

それを子雲は心配しているのだった。

仲権は早く劉備を捕らえてしまいたかった。

劉備さえ処刑されるなり、降伏するなりしてしまえばきっと張飛にも平静が訪れる。

劉備が死んで、張飛が曹操の配下になればよいのだ。

そうすれば今度は逆に味方同士になるのだから、玉思と接点ができる。

あるいは、張飛が死んでしまえばいい。

仲権がそれを考えなかったといえば嘘になる。

玉思は悲しむだろうが、仲権自身がこれから守ってあげることができる。

夏侯家にもう一度戻ってこればいいのだ。

口に出すことはできないが、偽らざる仲権の本心であった。

仲権が劉備を憎む理由は公と私と、それぞれにあるのだった。

形は違えども、子雲も仲権も想いはひとつである。

あの約束が、今も二人の生きる理由なのであった。

武人として果たすべきこと、夏侯家の一員として成すべきことはあるが、

それ以前に一人の男としての責務が子雲と仲権を動かすのだ。

平頂山以来、玉思とは逢っていない。

相変わらず時々手紙で無事を知らせてくれるのだが、今どこにいるのか、どうしているのかは知らない。

敵対勢力に分かれてしまった以上やむを得ないことではあった。

あれからのことを玉思がどう割り切っているのかは分からない。

昔のことはなにも思っていないかもしれないし、今も夏侯家のことを懐かしんでくれているかもしれない。

だが玉思はともかく、子雲と仲権の心はあの時のままで、今も変化はないのである。

一緒にいる時間が短かったから、玉思との記憶は少ない。

少ないとそれがまるで時が止まったかのように思え、永遠に感じる。

永遠に続く過去の理想の恋。

あれから別の恋をしても、その相手の奥に探す玉思の面影が消えなかった。

消えようとはしない思い出よ。

人はどうして現実の幸せに満足できず、無意味な過去の理想に翻弄される運命なのであろうか。

夏侯惇と夏侯淵は劉備の殿隊へと突入した。

夏侯淵は全兵力を敵の掃討に集中させた。

既に混乱に陥っていた張飛隊はこれで完全に壊滅した。

夏侯惇は突入すると素早く軍を展開させ、張飛隊の脇を抜けてその先へと強引に進んだ。

張飛軍をやり過ごすとそれが二隊に分かれる。

夏侯恩隊は中軍がいた方向へ向かう。

夏侯覇を先頭とした夏侯惇本隊はさらに先へと突進した。

劉備本隊は既に遠くに逃げ去っていた。

夏侯恩は劉備逃亡の様子を曹純・文聘の兵に聞いて回った。

兵士たちは劉備が単身逃げ去ったと答えた。

劉備の家族の行方は誰も知らなかった。

護衛兵に伴われた馬車が景山の方向に逃げ去ったと言う兵がいたが、

その方向には既に曹純・文聘が全兵力で追討に向かっていたのである。

夏侯恩は兵士を幾つもの小隊に分け、それぞれを全ての方角に向けて派遣した。

そして夏侯惇から言われている伝令にひとつ付け加えて兵士に言い聞かせた。

――劉備と、その義兄弟である関羽・張飛の一族を捕らえよ。

殺してはならず、必ず無傷で保護せよ。

そして夏侯恩は捕らえた者に百金を出すことを約束した。

小隊が各方向に散ると、夏侯恩自身も近習を伴って馬を走らせた。

全ては玉思を探すためである。夏侯恩の行動に躊躇はなかった。


今や長坂坡は阿鼻叫喚の様相を呈していた。

良人や子を失った女の泣き声が大地を支配し、

安否を心配して家族の名を呼ぶ声があちこちで交わされている。

劉備に置いて行かれた民たちには逃げるべき方向すら分からない。

巣穴を襲われた蟻のように右往左往して、どこを目指して逃げるわけでもなく、

地面に転がる屍骸を踏みつけて歩き惑っている。

そんな戦場で夏侯淵は虎髯の将を探していた。

あぁ、宿敵劉備の末弟。

敗れては再生し、また敗れては不死鳥のように蘇る劉備とその一味。

殺さねばならぬ、ここで殺さねばならぬ。曹操のために、曹操と創り上げる国のために。

そして、張飛を斬るならば自分しかいないと夏侯淵は思っていた。

夏侯淵は小義に目がくらんで大義を見失うような将ではない。

彼は将である。それも、一部隊を率いる程度の将ではない。

幾つもの軍を統括する将軍である。私心を出して務まるような職ではない。

幾多の戦場で兵を統率してきた夏侯淵に油断はなかった。

一方で、多少の私心をはさむ余裕も培われていた。

玉思を奪われて以来、事の成り行きを納得してはいたが、

やはり夏侯淵も張飛に復讐を誓っていたのである。

張飛の人格を否定するのではないが、あまりに立場が不安定過ぎる。

劉備軍はいずれ曹操軍に討伐される運命にあるだろう。

降伏すればよいのに、それは叶いそうにない。叶わない限り、玉思に平和はない。

それならばいっそ自分自身の手で葬ってやろうという想いがあった。

名将同士の情でもある。

混乱している張飛軍を駆け回って張飛本人を探すがその姿はない。

夏侯淵は所々に残った張飛の兵陣に包囲しては逃げ惑う残党を討ち続けた。

顔見知りの曹純の配下から、劉備を心配した張飛が

殿から離脱して劉備を追っていった、と聞かされる。

夏侯淵は思わず舌打ちした。

自分の罠の範囲から逃げてしまった以上仕方がない。

すぐに気持ちを切り替えて徹底的に残党狩りをすることにした。

張飛軍を完膚なきまで叩きのめすと、後から来た曹操本隊に合流して長坂橋へと進んだ。

青釭の剣を背に夏侯恩は長坂坡を駆けた。

この戦いは既に曹操軍が勝利している。

あとは劉備の首を挙げられるかどうかだが、それは惇小父と仲権に任せればいい。

――そうだよ、仲権。もう、この戦なんてどうでも良い。

俺たちの目的はそんなことではないだろう。

玉思を一生守り続けること、それが俺たちの人生だぞ。

いいか、間違ってもこんなところで死ぬなよ。

俺はな、仲権。この青釭の剣さえあれば夏侯家の家名を捨てても玉思を守ってみせる。

そういう覚悟があるんだ。夏侯家への裏切りではない。

ただ、お前との約束が人生に優先するだけだ。

誰にも聞こえないその言葉。

一体どこの将が戦場においてそんなことを考えようか。

行き交う雑兵は目に入らない。探しているのは馬車だった。

劉備の二夫人は馬車に乗って移動していたと聞く。

張飛の家族もきっと劉備の二夫人と同乗している。

夏侯恩は目を皿のようにして探し回っていた。

「――酷い混乱ぶりよ。ここでたった一人を探すことなど、黄河に投げ込んだ小石を探すに等しい。

それでも必ずや探して見せるぞ」

そう言う夏侯恩の独り言を聞いた近習の者たちは思わず頷いていた。

ただし、その「たった一人」が意味する相手は、主とは違っていた。

民を脅しては手がかりを聞く。

しかし、敵軍に対して好意的に答える民もなく、頼りにならない情報しか手に入らない。

ふと、曹純配下の淳干導という部将の姿が見えた。

劉備軍の将らしき男を生け捕りにして馬に乗せている。

夏侯恩が近寄り、劉備の家族の行方を知らないかと聞いてみると、

淳干導は近くにある集落のほうを指さして言った。

「わしも探していたのだが、行方が分からん。

劉備の夫人らは馬車を捨てて徒歩で逃げたしいことは聞いておる。

わしはこの敵将糜竺をあの集落近くで生け捕った。あの付近ではないか。わしは劉備を追う」

夏侯恩は集落の家をひとつひとつ周った。

住民は既に逃げ去っており、人気はない。

所々に逃げてきた劉備の民がいて、夏侯恩の姿を見ると大地にひれ伏して命乞いをした。

しばらく探し続け、ある農家の庭に入るとそこには上等な服を着た女性が赤子を抱いていた。

来たのが曹操軍の兵だと分かったらしく、女性は赤子を抱き締めて全身を激しく震わせた。

無理はない。劉備の妻の一人、糜夫人であった。

「御身は、劉備のご夫人か?」

思いがけず優しく聞かれて、糜夫人は少しだけ気を取り戻したようだった。

しかし、何も言わずに赤子を抱き締めた。

「――勘違いされるな。わしは曹操軍の将だが、劉備の子よりも張飛の妻を捜しておる。

御身のことは見逃そう。

張飛の妻はどこにいるのだ?それを教えてくれれば黙ってここを立ち去る」

近習の者はその言葉に驚いた。

しかし、それは夏侯恩一流の策であると信じた。

目的達成のためならばどんな嘘でもつくことができる将であると知っていたからだ。

そのことを逆手にとって夏侯恩は裏の裏の言葉を選んだ。

糜夫人は震える指で東を指差した。

口を開いても震えのあまり言葉にならないらしい。

指差す方向は集落の向こうの深い森の中である。

それを見た夏侯恩はすかさず東に馬首を返す。

内部から疑惑をもたれてはならないことを夏侯恩は知っていた。

糜夫人を欺いたことにはなるが、振り返って近習へ下知する。

「その赤子は劉禅阿斗だ。夫人共々確保せよ」

手がかりを掴んで、夏侯恩の心は張り裂けんばかりに高揚した。

――玉思。俺がもうすぐ行くぞ。

この青釭の剣でお前のことを守ってみせる。どうか、無事でいてくれ!

農家の庭を出ようとしたとき、家の陰から突如人馬の影が夏侯恩の前を遮った。

「夏侯恩であるぞ!何者だ!」

夏侯恩がそう言い終えた瞬間に、男から繰り出された鋭い槍先が夏侯恩の胸を捉えた。

夏侯恩の身体は馬上から吹き飛び、地面に叩きつけられた。

――玉思!玉思よ!俺はここで終わりだ!あぁ、仲権!あとはお前がいてあげてくれ!

薄れゆく意識の中で、子雲はそう叫んでいた。

男は、落馬した敵将が背負っている剣に目を留めた。


雲霞の如く押し寄せる大軍。

一人一人は小さくとも、精兵が群を成すとそれは大きな力とになる。

精兵が集まって一体の身体を成す。将の位置が頭である。

訓練の行き届いた曹操軍は豹であった。この豹は呂布や袁紹さえ飲み込んだ。

しかし、どれだけ豹が集まろうとも一匹の龍の前では無力な存在である。

豹が龍を飲み込むことはない。

この長坂坡には二匹の人龍がいた。

一匹は長坂橋にいた。

もう一匹は胸当の下に赤子を抱え、青釭の剣を手に長坂坡を駆け巡っていた。

その名を趙雲、字を子竜という。

趙雲が通るところ鮮血の朱霧がかかった。

突如現れたその存在は、あたかも夜雲をかき消して姿を見せた満月のようであった。

趙雲の前を遮った淳干導は、相手がたった一騎であることを甘く見て馬を突進させた。

趙雲は馬を止めて相手を待つ。

確かに槍を繰り出したのは淳干導の方が先であった。

しかし、淳干導の槍が相手を突くよりも早く彼の咽喉は趙雲の突きによって穴を穿たれた。即死である。

主将を討たれた淳干導の兵は狼狽して逃げ出した。

趙雲は糜竺を解放した。糜夫人はこの糜竺の妹である。

曹操軍を蹴散らした趙雲を見て、周囲の民群から一人の女性が飛び出してきた。

甘夫人であった。

趙雲はすぐさま甘夫人を保護し、淳干導が乗っていた馬に糜竺と甘夫人を乗せた。

「甘夫人、若君と糜夫人はどちらにおられるか?」

「分かりませぬ。糜夫人が抱いていたのですが、敵の襲来で散り散りになってしまいました」

趙雲は自分の鞍にかけていた予備の剣を糜竺に渡して言った。

「俺は若君と糜夫人をどこまでも探しにゆく。

貴公は甘夫人をお連れして景山の主君に合流してくれ」

趙雲は馬を走らせた。

趙雲は劉備の二夫人と阿斗劉禅を護衛する任務についていた。

しかし、劉備本人の退却を助けるため敵軍を防ぐ中でいつしか馬車と離れてしまったのだ。

趙雲は血眼で馬車の行方を捜していた。

既に味方の軍は壊滅し、残兵は景山へと逃げ込んでいる。

そんな戦場を趙雲は単騎で駆け巡っていた。

趙雲の前には無数の敵部隊が立ち塞がる。

趙雲の繰り出す鋭い槍先は主将だけを狙い、そして確実に仕留めていた。

将さえ討ってしまえば周りの兵は逃げ散る。

単騎になってからどれだけ敵将を討ったのだろう。

趙雲が繰り出す突きは恐るべき早業であった。

破壊力も抜群ではあるが、突きの速さが常人とは違う。

身のこなし、馬の操り方でも趙雲の速度についてゆくことができる者はいない。

近くの農家で夏侯恩隊を蹴散らし、遂に趙雲は阿斗劉禅と糜夫人を救出した。

だが、糜夫人は流れ矢を腿に受けており歩くこともままならない状態であった。

糜夫人は両手で阿斗劉禅を抱き上げて、趙雲に言った。

「わたしくはもう歩けません。

どうかわたくしに構わず和子だけを良人の元へ届けてください。さぁ、急いで」

馬を降りた趙雲は糜夫人を抱え上げて馬に乗せようとする。

糜夫人はそれを拒んだ。井戸に身体をもたらせたまま動こうとしない。

「ご安心なされい、この趙雲が命に代えても若君と貴女を殿の元へお届けしますぞ!

さぁ、乗られてください!私は敵兵の馬を奪いましょう!」

「なりませぬ、徒歩では敵陣を突破できません!

さぁ、急いで!さぁ、早く和子だけを連れてここを離れてください!」

「何をおっしゃる!貴女こそ早く馬に乗られてください!早う、早う!」

譲り合っている時間はない。趙雲は焦った。

――この少し前、混乱に乗じて近くの農家で

欲しいままに略奪を行っていた曹純軍の晏明はある声を聞いた。

「――敵将夏侯恩討ち取ったり!!」

そして、ある農家から兵たちが逃げ散るのを晏明は見た。

夏侯恩といえば自軍の名のある将である。

あの青釭の剣を曹操から直々に授かったということは話に聞いていた。

その夏侯恩を討った敵がいるらしい。

部下を集めてその農家を包囲させると、晏明は数十名を従えて農家へ突入した。

「曹軍の晏明だ!さっと降参しろ!」

大声を上げて進入してきた敵将を見て趙雲はすかさず応戦の構えを取る。

馬で突っ込んできた晏明の間合いを崩そうと、趙雲は跳躍した。

思いがけない跳躍に驚いた晏明は剣を振るうが、趙雲の身体は捉えられない。

それどころか必殺の突きを咽喉に受けて即死した。

従っていた雑兵を趙雲が追い払っていると、背後の糜夫人が大声を上げた。

「趙将軍!御身に任せましたぞ!必ず和子を良人の元へ!!」

そう言い終えると、糜夫人は自ら井戸へと身を投じた。

「糜夫人!」

趙雲が駆け寄ると、深い井戸の底で既に糜夫人は動かぬ人となっていたのである。

阿斗劉禅は糜夫人ではなく甘夫人が産んだ子であった。

それでも自らの命を犠牲に良人劉備の子を守ろうとした糜夫人を思うと趙雲の胸は熱くなった。

糜夫人の遺志を尊重しなければならない。

近くの草や木を井戸に投げ込んで糜夫人の骸を隠すと、胸当を緩めてその下に阿斗劉禅を抱いた。

すぐさま馬に跨って農家を離れる。


すぐさま別の部隊が何重にも趙雲を囲む。

趙雲の繰り出す早業は甲冑の隙間から敵将の咽喉を突き、

振り回す柄で無数の相手を吹き飛ばした。

どれだけの敵兵がかかっても鎧袖一触、最早趙雲に当たるべき者はいないのである。

そこへ旗を掲げた一隊が現れた。旗印を見ると張郃である。

かつて袁紹の元で顔良・文醜と並び称された勇将であった。

趙雲は思わずため息をついた。戦って負ける相手ではないが、

張郃ほどの名将であれば易々と討ち取らせてくれるわけがない。

長丁場の勝負になるだろうが、そんなことをしている余裕はない。

討ちかかってきた張郃はすぐには勝負をかけようとはせず、のらりくらりと攻防を引き伸ばす。

体力を奪うことを優先させようとしたのだ。

趙雲はその術中にはまった。突きの間合いに踏み込もうとすると張郃は距離を取る。

趙雲は焦った。しかし、不用意に逃げるには危険過ぎる相手である。

――已む無し!

趙雲は覚悟を決めた。

隙を見て距離を開けると、秘匿の投槍技を繰り出した。

愛槍を張郃自身ではなくその乗馬の腹に命中させる。

落馬した張郃を尻目に趙雲は全力で走り去った。

背負っていた剣を鞘から抜く。途中で敵将夏侯恩から奪った青釭の剣である。

この剣のことは趙雲も知っていた。

柄に刻まれた「青釭」の文字に趙雲は祈る。

本当に名剣であるなら、その力で阿斗劉禅を劉備の元に届けることができるはずだ。

常に槍を得物としていた趙雲である。

だが体力を温存して景山まで逃げ延びなくてはならない今、

槍を振りかざしていては体力の消費が激しい。

この場は短くて軽い剣のほうが有利であった。

向かってきた次の敵将の矛を払うと、趙雲は敵の懐まで飛び込む。

そして、胸から腰まで青釭の剣で斬り下げた。

あぁ、青釭の剣!鉄でさえ泥のように切り裂くという天下の宝剣!

趙雲の一撃は敵将の甲冑を切り裂き、その身体を一刀両断にした。

勢い余って乗馬の背中まで切り裂いたではないか。

「おぉ!!」

切れ味の凄さに趙雲は唸った。

その光景を見た曹軍の兵たちは戦慄を覚えて道を開けた。

趙雲の手に握られた青釭の剣の一撃は、青い稲妻であった。

振り下ろした剣先から稲妻が発せられ、将の身体から馬まで切り裂いたかのように見えたのだ。

この一振りで青釭の剣に命が注がれた。

人龍によって本来の能力が引き出されたのである。

夏侯恩の武力では使いこなすことができていなかった。

燐を放ち、青い恋情を切り裂くのが精一杯であった。

趙雲という主を得て、遂に青釭の剣は本来の輝きを放ち始める。

まだまだ曹軍の包囲網は抜けていない。

無人の野を行くが如く馬を走らせ、青い稲妻で敵を斬りまくる趙雲は青い人龍であった。

馬延・張顗・焦触・張南の四将が揃って馬を走らせ、趙雲を取り囲んだ。

これまで獅子奮迅の戦闘を繰り返してきた趙雲は既に両肩で息をするほど疲れ切っていた。

それでも一人では敵わないと悟った四将は揃って撃ちかかってきた。

だが、趙雲の身のこなしと馬の操り方は天下の至芸である。

四将の繰り出す槍の合間を見つけると張顗を袈裟懸けに斬り捨て、

返す刀で馬延の首を刎ねる。

怯んだ焦触・張南の隙を逃さず、両名を討ち取った。

趙雲の素早い剣さばきと、青釭の剣の切れ味が重なればそれは恐ろしい凶器である。

丘の上からその光景を眺めていた者がいる。

追いついてきた曹操だ。曹操は趙雲の顔を知らなかった。

それもそのはず、趙雲は汝南から劉備軍に加わったばかりのまだ新米であり、

これまでは関羽・張飛の勇名の陰に隠れてしまっていたのである。

だが、その武技は関羽・張飛に引けを取らぬものであった。

この長坂坡の活躍で趙雲は一躍勇名を馳せることになる。

曹操はその万夫不当の敵将に見惚れた。

周囲の者に尋ねると、李典が答えた。

「趙雲子龍です。博望坡では奴に随分とやられました。

劉備軍は関羽・張飛だけではありませぬぞ」

それを聞いた曹操はいつも癖を出してこう伝令を出した。

――趙雲に向けて弓矢は使うな。無傷で生け捕れ。

耳を疑う伝令である。

趙雲の如き一騎当千の武将は雨のように矢を降り注ぐか、

疲れを待って多勢の槍にかけるかでもしなければ討ち取ることは難しい。

落とし穴を掘って罠にかけるには時間がなさ過ぎる。

生け捕る方法など、皆無に等しいのである。

曹操独特のこの癖が、結果的に趙雲を救った。関羽に続いて、趙雲をも救った。

長坂橋が前方に見えてきた。あの橋を越えれば、劉備に合流できる。

趙雲は最後の力を振り絞り、必死で活路を開いた。

しかし、また敵将に囲まれる。

夏侯惇の部下で、鍾縉と鍾紳の兄弟だ。

力自慢で知られる鍾兄弟は共に大斧を持ち、重い一撃を加えてくる。

趙雲の青釭の剣は両名の大斧を良く防いだが、如何せん体力が残っていない。

さすがの名剣も数え切れないほどの敵を斬ったせいで切れ味が鈍ってきている。

強行突破を図ろうとするが鍾兄弟は上手く馬道を塞いで、そうはさせまいとする。

その時、長坂橋の方向から怒声が聞こえてきた。

「おい、趙雲!!もう少しだぞ!!この橋を渡れ!!」

張飛の声であった。

あまりの声量に思わず鍾兄弟は長坂橋の方に視線を向けてしまった。

趙雲は思い切って鍾縉の懐に飛び込み、渾身の力を揮って胴を払う。

鍾縉の胴体は鎧ごと真っ二つになった。

一対一になれば鍾紳は趙雲の敵ではない。あっという間に青龍の餌食となった。

趙雲の馬は既にくたびれ果てている。

これが最後だとばかりに馬を励まして長坂橋へと向かう。

逃がすまい、とばかり文聘が兵を上げて後ろから追ってくる。

「良くやったぞ、趙雲!後は俺に任せろ!」

張飛がそう怒鳴り、趙雲に長坂橋を渡らせる。

曹操軍数十万に満ちた長坂坡を一匹の青龍が駆け抜け、

阿斗劉禅を無傷で劉備へと届けたのである。


夏侯惇は張飛の軍勢に構うことなく、真っ直ぐに兵を突撃させた。

既に曹純・文聘が兵を進めていたが、簡雍・糜竺・糜芳の抵抗で足止めをされていた。

「覇!まずは中央の簡雍隊を集中攻撃せよ!」

指示を受けた夏侯覇は簡雍隊にぶつかる。

ただでさえ兵力に乏しいのに一点攻撃を受けてはたまらない。

簡雍隊は支離滅裂になった。しかし、劉備本人の姿はない。

「覇は糜芳に当たれ!わしは糜竺に当たる!よいか、劉備がいるかいないかを見極めよ!

姿がなければ軍を返してすぐさまこの先に突撃するぞ!」

夏侯隊は二手に分かれ、別々の相手に当たった。

糜竺も糜芳も大した相手ではなく、次第に夏侯隊の勢いに押されてゆく。

「惇将軍!あそこに張飛が逃げてゆきますぞ!」

部下の声を聞いて夏侯惇が先程の中央の陣を振り向くと、

そこには見覚えのある虎髯巨躯の男が蛇矛を引っさげて曹軍を斬りまくっている。

そして長坂橋の方角に向けて真っ直ぐ逃げて行った。

「おう、あの方向に劉備はいるぞ!我が軍は張飛を追撃する!」

すぐさま夏侯覇を呼び戻すと、夏侯惇は長坂橋へ向かった。

そこでは文聘が敵兵を薙ぎ倒していた。

「文聘殿、力添えいたす!」

文聘軍に合流した夏侯惇は敵兵の掃討に集中した。

劉備の首を討つにしてもまずは敵陣から崩さなくてはならない。

だが、逃げてきた劉備軍の兵が合流して壁を作る。

中央にいた糜芳隊も揃って引き上げてきた。

「間違いないぞ、劉備本隊はこの先におる!者ども、全力で前面突破じゃ!」

夏侯惇軍は必死で敵兵を押し退ける。

劉備の首を狙っているのは夏侯惇だけではなかった。

先着していた文聘は、後手の夏侯惇に手柄を奪われてなるものかとばかり

長坂橋へと強引に進んで行った。

それを見た夏侯惇は舌打ちをする。

慌てて夏侯覇が突撃を進言するが、こう言ってそれを遮った。

「文聘では張飛に返り討ちされるのが関の山だ。安心せい、劉備を討つのは我々だ!」

夏侯惇は腰をすえて敵兵掃討に取り掛かる。

敵陣という敵陣を打ち破ると、文聘の後を追った。

すると、長坂橋の手前で文聘軍が立ち止まっていた。

「――夏侯惇将軍、ご覧あれ。

橋上にいるのは張飛でござるが、対岸の林には伏兵の気配がある。

先程丞相に報告の伝令を出したところです。

つい今しがた敵将趙雲がこの先に逃げて行ったところを見ると

劉備本陣もこの先に違いないでしょうが、どうも様子がおかしい。しばしお待ちくだされ」

見れば、長坂橋の上で単騎立ち塞がっているのは張飛である。

そして、橋を越えた雑木林からは砂塵が立ち上がっていた。

少数の兵であれば砂塵も抑えられようが、

これがまとまった数の伏兵であれば抑えきれないというもの。

そもそも、いくら勇猛の士とはいえ張飛がたったの一人で待ち構えているのは腑に落ちない。

長坂橋は二人並んで通るのが精一杯の幅しかなく、張飛を避けて通ることはできない。

河を渡ろうにも、急流に遮られて通りようがない。

仕方なく夏侯惇も兵を止めて曹操の到着を待つことにした。

文聘の報告を受けた曹操は先陣まで馬を進めた。

夏侯惇と文聘を従え、長坂橋前までやってくると状況を見て言った。

「軍師諸葛亮が授けた虚実の謀かもしれぬ。

だが、慌て者の張飛ならば隙を見せる可能性がある。しばし様子を見ようぞ」

長坂橋上の張飛は言葉を発せず、仁王立ちを決め込んでいた。

しかし、曹操の姿を見つけると頭上で一丈八尺(約四百十四cm)の蛇矛を

大きく振り回して竜巻のような一喝を発した。

「燕人張飛これにあり!!!曹操、かかって参れ!!!」

劉備や張飛が生まれた涿郡は北方の燕国に含まれる地方であり、

寒暑が激しい気候で生きる北方の人は

温暖な南方地域の人よりも一般的に荒々しい気性で、勇猛であると思われていた。

張飛はその通念を利用して己の名に燕人を冠したのだ。

加えてこの大喝である。張飛の武勇は誰もが知っている。

あの関羽がことあるたびに自分より強いと口にしていたのがこの張飛である。

張飛の一喝だけで、曹操軍の間には重い澱みが生じた。

その空気には、自分ではない誰かが早く張飛に撃ちかかればいい、

という無責任な意味合いが含まれていた。

死を恐れぬ戦士たちでも、怖いものは怖いのだ。

曹操は退却を命じたかった。この戦いは既に勝利している。

劉備は討ち取っていないにしても、この先でいくらでも機会はあるのだ。

窮鼠猫を咬むで、追い詰められた劉備は何をするか分からない。

顔良をたったの一撃で葬った関羽の姿は、今も曹操の脳裏に焼き付いていた。

関羽・張飛・趙雲が命を捨てて自分一人を狙って突撃してきた時を想像すると

さすがの曹操でも身震いがする。

これ以上無理に追い詰める必要はない。

だが、ここで逃げては張飛一人に怖気づいたことになる。

曹軍の総帥として簡単に選択できることではない。曹操は躊躇した。

「――曹操軍に武人はいないとみた!!さっさと都へ帰れ!!」

張飛はなおも竜巻を発して、曹操軍を威嚇した。

曹操は退き鐘を打たそうと思い、横の夏侯惇へちらりと目で促した。

その時、曹操の真意を取り違えて飛び出した者がいる。

夏侯惇の隣にいた夏侯覇仲権であった。

「待て!」

「止まれ、覇!」

曹操と夏侯惇は制止の声をかけた。

だが、夏侯覇は真っ直ぐ張飛に突進して行く。夏侯覇の長坂坡駆けである。

――夏侯覇の胸中は複雑であった。

自分には先陣を任された将としての責務がある。

劉備を討ち取るのは夏侯惇軍だ。それを妨害する者は誰であろうと斬る。

張飛の恫喝によって曹操軍の士気は半減したといってもよい。

それを立て直すべく、曹操は夏侯惇に目で攻撃を催促した。

張飛は人龍である。

それを自分は知っているし、個人的には張飛の武勇を尊敬すらしている。

だが、この場は自分が行くしかない。

夏侯惇軍の先陣は己が務めているのだ。それが将として己に課せられた責務である。

その奥にはもうひとつの訳があった。

そう、夏侯覇にはこの男に玉思が奪われたという嫉妬と羨望があったのだ。

こいつさえ倒せば、こいつさえ倒せば玉思を取り戻すことができる。

夏侯覇は心の奥底でそう思った。

今まで夏侯覇は戦いに私心は挟んだことはない。こんな想いは全く初めてのことであった。

惜しむらくは、曹操の意図を取り違えているところである。

曹操が夏侯惇に目配せをしたのは退却を呼びかけようとしたからである。

何も夏侯惇に攻撃を指示しようとしたわけではない。

それを突撃の催促と受け取り、ましてや張飛相手に

夏侯覇が単騎立ち向かおうとする必要などどこにもなかった。

曹操も夏侯惇も制止を呼びかけたのに夏侯覇はそれを無視した。

曹操が以前より言っていた通り、責務とは勇気と無謀の取り違えではない。

あぁ、戦場で生きる武人たちには己の武勇知勇が全てである。

ただ、人生の大きな流れは時としてその中に異質なものを混ぜることがある。

この時の夏侯覇にはそれが取り付いていたのだ。

玉思を想う気持ちである。

普段の夏侯覇ならばこんなことはしなかっただろう。

しかし、この時の夏侯覇は明らかに、その異質なものによって狂わされていた。

――猪突猛進、夏侯覇は槍を構えて突撃した。

「匹夫!!」

人龍が咆哮した。ぶうん、という轟音を立てて蛇矛が振り回された。

その黒い竜巻のような音に肝をつぶした夏侯覇の馬は、

突然前足で立ち上がって背中の主を宙へと投げ出した。

動転のあまり夏侯覇の馬は自ら河へと飛び込み、流れに呑まれた。

激しく地面へと叩きつけられた夏侯覇は失神していた。

夏侯覇の馬だけではなく、前面にいた曹操軍の馬も、

龍の咆哮に怯えきって後退りし始めていた。

「元譲、一旦退くぞ!!」

そう言って曹操は馬首を反した。

退き鐘を鳴らすように指示し、曹操が先頭を切って退却を始める。

そこへ張飛の竜巻が響いた。

「待て!!我が蛇矛を喰らえ!!」

その黒竜巻をきっかけに、曹操軍の兵士たちは我先に潰走を始めた。

誰もが、後ろから丸い目玉を怒らせて追ってくる黒龍の姿を想像したのだ。

実際の張飛は長坂橋上で待機している。

だが、一旦取り付いた恐怖心は膨らみに膨らんで兵士たちの心に襲い掛かった。

大混乱が起こった。逃げる兵が兵を突き飛ばし、倒れ込んだ兵の上を兵が走る。

馬は暴れ出して騎手を放り出し、あたり構わず兵士を踏みつける。

張飛の黒竜巻で生じた混乱が連鎖反応を引き起こし、曹操軍全体は大混乱に陥った。

曹操も予想していなかった事態である。

曹操軍は数十里も後退し、劉備追跡を断念した。

劉備軍に討たれた兵士よりも、混乱で死んだ兵士の方が多いぐらいの惨々たる有り様であった。

曹操は苦々しく言葉を発した。

――あぁ、人龍どもにやられたわ!!


気が付くと、夏侯覇は地面に横たわっていた。

遠くに聞こえる人の絶叫と馬の嘶き。

なんとか首を後ろに振り向けると、自軍が総撤退しているところであった。

「何だ、生きていたのか」

橋の上から張飛にそう声をかけられて夏侯覇は慌てた。

落馬の際に槍は河に飛び込んでしまっている。

佩刀はしていたが、全身を強く打ってしまい身体が言うことを利かない。

「おら、貴様も早く逃げろ」

そう言って張飛は顎で夏侯覇を促した。この場に及んで、何故か普通の声色である。

「情けはいらん!殺せ!」

夏侯覇は倒れたままそう叫んだ。

こうなったからには、せめて一矢報いて死にたい。

だが、この身体では難しい。それができないのなら、さっさと死にたい。

張飛はその言葉を無視するかのように、小手をかざして曹軍の退却ぶりを眺めていた。

「殺せ!私情を挟むな!!」

夏侯覇が繰り返す。

「やかましい!早く消えろ!」

張飛はぎらりと足元の若者を睨んだ。だが、蛇矛を振りかざそうとはしない。

「どうして殺さぬ?!」

河の流れ。風の音。張飛からの言葉はない。

「どうして殺さぬ」

声が静かになった。やはり、河の音だけ。

「――どうして、殺してくれないのだ?」

哀れな声。すると、面倒になったのか張飛はぶっきら棒に答えた。

「人を殺すのが目的ではない。俺は俺の、貴様は貴様の仕事をした。

それだけだ。さぁ、行け!邪魔だ!!」

夏侯覇は驚いた。この張飛はそんなことを口にする男だったのか。

戦を好み、殺戮を快楽するという巷の噂とは違う。

彼が敵を討つのは責務からであるのか。

思わず本音が口を突いて出た。

「――玉思は無事なのか?!」

「ん?貴様は誰だ?」

初めて張飛は夏侯覇を直視した。眼の色が違う。

「夏侯覇仲権。玉思の兄だ。以前、平頂山の砦で会った」

「おぉ、言われてみればあの時の少年ではないか。見違えたぞ」

張飛の表情も幾分か和らぐ。

「教えてくれ!玉思は無事なのか?」

夏侯覇の口からは本音が止まらなかった。

「遠くに疎開させてある。安心しろ、ここにはいない」

はっきりと張飛が答えた。

それを聞いた夏侯覇は随分と気が抜けたように見えた。

次は弱々しい声しか出なかった。

「玉思の兄と知って殺さなかったのではなかったのか?」

それを聞いた途端、張飛の表情がいつもの戦場のものに変わった。

髪の毛を逆立てて、獅子のような口を開いた。

「なんだ?!ここは戦場だぞ!そんなことは関係ない!

おい、玉思の兄貴。貴様にもまだやることがあるのだろう。

俺にもある。それをやり遂げるんだ。さぁ、行け!邪魔だ!何度も言わすな!!」

口調は乱暴だったが、夏侯覇は伝わるものがあった。

深く頭を下げて言った。

「かたじけない!」

ふらふらと立ち上がり、夏侯覇は歩き出した。

周りで逃げ惑っていた馬の轡を何とか掴まえると、乗って走り出す。

夏侯覇二度目の長坂坡駆けである。

道行くほどに夏侯覇の胸は痛んだ。哀れな兵の骸が散乱している。

馬の蹄の痕跡。死に切れないのか、まだかすかに手足を動かしている兵もいる。

折り重なるようにして死んでいる兵士たちを見れば、

退却の混乱で死んだ者であるということがすぐに分かった。

――全て自分のせいだ!

自分の軽率な行動が、善良な彼らを死に追いやってしまったのだ!

それも武人として堂々たる心ではなく、張飛への嫉妬という個人的な気持ちを

出してしまったことがこんな最低の結果を招いてしまったのだ!

恥を知れ、夏侯覇よ!貴様は将として失格だ!博望坡での惇伯父の教訓があるのに!

おい、子雲!俺は将としての責務を軽く考え過ぎていたぞ!

俺は誤った!

玉思の約束はもちろん大事だが、

今の俺たちはそれ以上に大切なものを抱えていたではないか!

多数の兵の命を預かる夏侯家の将としての責務だ!

あの猪武者の張飛ですらわきまえていたのにこの俺は!

子雲!子雲!俺は間違っていた!

夏侯家の将として俺たちが戦場に出る限り、玉思のことは二の次にしなくてはならない!

私情を挟んだ結果がこれだ!

あぁ、誤った!俺は責務の意味を取り違えた!!

慚愧に耐え切れなくなり、思わず夏侯覇は天を仰いで長坂坡を駆けた。


自軍に追いつくと、陣頭に夏侯惇が立って兵士に指示を出しているのが見えた。

戻ってくる夏侯覇の姿を見つけると、夏侯惇は駆け寄ってきた。

「覇!よく無事で戻った。心配しておったぞ。

よいか、勝敗は平家の常だ。恥じるな。本当に、よく無事で戻ったぞ!」

いつもより口数多く、無理矢理言葉を重ねるように夏侯惇はそう言うのであった。

「私のせいで、私のせいでこんな有様に……」

俯いてそう言う夏侯覇の肩を、夏侯惇は力強く叩いた。

そして、少し声を震わせて怒鳴るように言った。

「おい、仲権!そんなことはどうでも良い!

それよりもな!恩が死んだぞ!子雲が討ち取られたんだぞ!!」

――耳から流れてきたその音の固まりは夏侯覇の時間を停止させた。

「趙雲だ!敵将趙雲だ!関羽・張飛に比肩する武将だぞ!」

そう言う夏侯惇の目には薄く涙が光っていた。

興奮して顔面が真っ赤になっている。

ゆっくりと、夏侯覇は地面に両膝をつく。一筋涙が流れると、それが止まらなくなった。

戦場にいることを忘れ、武人であることを忘れ、将であることを忘れ、ただ泣いた。

理由はなく、意味はなく、ただ無心に泣いた。

そんな姿をしばらく見下ろしていた夏侯惇は、突然夏侯覇の胸倉を掴んで持ち上げた。

「仲権!見ろ!」

夏侯惇は片手で己の眼帯を取り、眼球のない空洞の左眼を夏侯覇に見せ付けた。

「よいか!!人は哀しみを背負って生きるものだ!

何だ、この程度のことで!どんなことでも受け止められるだけの強い心を持て!

仲権!よいか!仲権!!」

夏侯惇は吠えた。狂虎のように吠え立てた。

自らをも襲う哀しみを振り払うかのように、夏侯惇は吠えた。

その時、伝令が来て長坂橋が燃やされたということを告げた。

それを聞いた夏侯惇は冷静に笑うと自軍に攻撃準備を命じた。

「聞いたか、仲権!橋を燃やしただと!

橋向こうの伏兵は偽物だったぞ!劉備にはもう碌な兵力は残されておらんわ!

突撃だ、突撃だ!!」

夏侯惇は軍に号令をかけ、夏侯覇を引っ張って先鋒隊の指揮官に任じた。

そこへ曹操が馬を飛ばせてやってきた。

「元譲!聞いたか、張飛が長坂橋を燃やして逃げた!

伏兵がいるならば橋は燃やさん。行くぞ、突撃だ!」

曹操も同じことを言った。全身から覇気を溢れんばかりに輝かせている。

長坂橋の敗退の影響は見えない。既に気持ちを切り替えていた。

「おう!聞いたぞ!用意はできておる!もう突撃していいか!」

「さすがだな、元譲!鐘を待て!――覇よ、貴様も続け!よいな、元譲!」

曹操は視界に捉えた夏侯覇の姿に眉も動かさず声をかけてきた。

長坂橋での安否については触れることはない。

存在を認識したというその一言で充分だったのだろう。

「丞相!子雲が……子雲が討たれました!」

だがその夏侯覇は見苦しかった。

動転を隠せず、切羽詰った声で曹操に言った。

曹操はあくまで普通に返事をしただけだった。

「是非もない!覇、貴様も倚天の剣を与えられるほどの活躍をせよ!

元譲、鐘を聞いたら真っ先に突っ込め!行くぞ!!」

そう言い残すと、曹操は本陣へ戻って行った。曹操の到着を待って、曹操全軍が動く。

曹操の何気ない一言は夏侯覇の心に、すっと入り込んできた。

抵抗なく、ごく普通の言葉を耳にするかのように滑らか、穏やかに心に入ってきた。

すぐにはその真意が分からなかったが、間もなくゆっくりと、全身へと滲み出してきた。

夏侯覇は正気を取り戻した。

――そうだな、子雲。是非もない。そう、戦場であれば是非もない。

是非も、ない。ここは戦場、俺たちは武人だ。

私情を挟むようなちっぽけな将では責務は果たせない。

夏侯覇はすぐさま部隊に指揮し、鐘が打たれるのを聞くと先陣を切って突撃した。

焼け落ちた長坂橋まで来ると、部下に橋作りを号令し、

一刻も惜しいとばかり自ら木材を運んで橋を架けた。

橋が出来上がると、また自ら先頭に立って劉備軍を追撃した。

――なぁ、子雲。俺たちは小さいことに拘ってきたようだ。

俺たち将は、多くの兵士たちの命と、その家族の生活を背負っている。

その責務の大きさは、俺たちの約束の大きさよりも大きいものだったぞ。

俺たちは夏侯家の将である限り、やらなければならないことがある。

最も大きなものを見失っていたようだ。

個人的感情によってその大きなものを崩壊させるわけにはいかないよな!

ただな、子雲。あの日お前と交わした約束を忘れるわけでもないのだ。

約束は決して忘れない。決して、忘れない。

なぁ、子雲よ。その両方を抱えて、時にはその矛盾と戦い、

時には片方に目をつぶってまで生き続けるのが人生ではないのか。

それを知らなかった俺たち二人なのに、

どうして俺だけが生き長らえてそれを悟り、お前だけが死んでしまった?!

それもまた、是非もないことだろうか。

青釭の剣を背負って馬を寄せてきた子雲はもういない。

子雲がいないのならば、この俺がしなくてはならないことがある。

次に夏侯家を守るのはこの夏侯覇仲権だ。

それが俺の責務であるのだ。

夏侯覇は駆けた。これが三度目の長坂坡駆けである。

それは、遂に責務の大きさを知った責務一大男の長坂坡駆けであった。


――それからの夏侯覇は違った。

寝る間も惜しんでは武芸の研鑽に努め、軍略を学び、

戦場では軍の統率にあらゆる情熱を費やした。

夏侯惇や夏侯淵ですら一目置く存在にまで急成長し、

夏侯家の嫡男として然るべき男になったのである。

彼の戦功は抜群であったが、

夏侯惇軍の先陣の将として活躍していたため史実に残ることはなかった。

夏侯惇の名声の一部に彼の働きが含まれているのである。

彼自身の名が歴史上に出てくるのは、惇・淵が没した後からである。

魏の大将軍・曹真の征蜀軍に従軍したとき、

諸葛亮の大計に陥った曹真軍にあって、唯一冷静に防戦したのが先陣の夏侯覇であった。

蜀軍に取り囲まれた死地で、彼が自らの命を顧みることなく

敵を食い止めたことによって救われた魏兵は幾万人かしれなかった。

この時、夏侯覇は「責務一大」と大書させた陣旗を掲げ、自ら槍を振るって敵を防いだという。

この戦いの後、夏侯覇は「責務一大将軍」と呼び名され、

名将夏侯惇・夏侯淵にも劣らぬ人物と賞賛された。

魏兵たちからは絶大な信頼を獲得したという。

その功績を買われて司馬懿に抜擢されると、

魏蜀の命運を決定付けた五丈原の戦いで司馬懿の片腕として先鋒を任される。

夏侯覇は弟の夏侯威・夏侯恵・夏侯和と共に魏軍の最前列に立った。

常に曹操の右翼と左翼にあった夏侯惇や夏侯淵のように、

魏軍の先鋒に夏侯家あり、と再び高々と夏侯家の旗を掲げたのである。

その後も夏侯覇は北の公孫淵討伐で著しい活躍を遂げ、夏侯家の名声を高める。

弟たち一族を許都の要職に就かせると、自らは西の長安に赴任した。

かつて父・夏侯淵が命を落とした征西将軍の職である。

父がやり残した蜀討伐という大仕事を継ごうとしてか、魏の繁栄のためか、

夏侯家の隆盛を思ってか、己を殺して彼は単身西に向かった。

西羌や匈奴の異族を手なずけ、征蜀の軍を整える。

長年築き上げてきたものが形になり、

諸葛亮亡き後の蜀の弱体化が目に見えてきたその時に、事件は起こったのである。


――雨。暗い雨。夏侯覇は想う。

あれから四十年、俺は生き続けてきた。

四十年間。その長い年月は人という人を去らしめ、

世界という世界を変化させるに充分な時間であった。

英雄曹操は病没し、その後を追うかのように惇伯父は逝った。

父はそれ以前の蜀との戦で討ち死を遂げている。

関羽・張飛・趙雲も最早この世の人ではない。

中原を輝かしく彩った英雄たちは一人また一人と、時代から姿を消していった。

どうやら夏侯家は魏にいられなくなってしまったようだ。

司馬懿ほどの智将が叛乱した以上、包囲網は十二分に張り巡らされていると思っていい。

許都にいる我が一族の安否は既に司馬懿の掌中にある。

俺がこの人生を懸けて築いてきたものが、今はなるようにしかならない状況になってしまった。

名門夏侯家の家長を引き継いだのは確かにこの俺だ。

四十年間、俺は夏侯家を守ってきた。

司馬懿のことがなければ、俺はこのまま夏侯家を守る責務に命を捧げていたことだろう。

惇伯父や父がしたように、俺も俺の家庭を持ち、

子を産み、子弟を育て、夏侯家の存続を優先させてきた。

そして、魏の将軍としての責務を一身に背負ってきた。

将として、夏侯家の家長として、責務を重んじること鉄石の如しと、

自らに言い聞かせ、周囲からもそう言われてきた。

四十年というと人一人ほぼ全ての人生に相当する。

家名のため、将としての責務のための今までの人生に、自分自身のための時間は必要なかった。

子雲がいなくなってからの四十年のなんと単調で、変わり映えがなく、退屈な時間であったことか。

それもこれも全ては三度の長坂坡駆けで背負った責務のためと思い、俺は真っ向から受け入れた。

俺を支えてくれたものがあった。

平凡な四十年を生きながらえるために必要とし、一人心の奥でしがみついていたもの。

たとえ一時でも本物の愛情を誰かに注いだのだという確かな思い出さえあれば俺は生きてゆけた。

あの女性との思い出があった。だから俺は生きてゆけた。

だがな、夏侯家はもう魏にいられなくなってしまったのだ。

俺はどうして一族と離れた土地で一人残ってしまったのだろう。

一族の元にはもう戻れないのだ。俺には何も無くなってしまった。

――ならば、俺は俺自身で生き方を選んでもいいだろう。

俺にはもう家名はいらない。

夏侯家の名がいらない以上、将としての責務も放棄する。

こうなっては是非もない。もう、いいだろう。

なぁ、子雲。俺は四十年間、責務を果たし続けてきた。

――もういいだろう?

司馬懿のことを聞き、俺の人生に家名も責務もなくなったと知った時、

俺は何を思っていたのだと思う?やはり玉思だった。玉思のことだった。

俺は、遠い昔に見た玉思の姿をずっと愛し続けてきた。

心の中から、この思い出だけは消し去ることができなかった。

きっと、実際に逢ってしまえば普通なのだろう。

この偶像は、幼い頃にだからこそ植え付けられてしまった、本来存在しない幻なのだろう。

今の家庭の方が大切なことは間違いない。

しかし、俺はそれを承知の上で想いを止められない。

己に嘘はつけない。幻と知っていても、この四十年間ずっと想い続けてきた。

誰にも打ち明けることができなかったが、ずっとそうだったのだ。

俺はずっとそうだったのだ。それが俺の根底を成す、偽らざる本心であった。

最早一族も責務もないとなった時、

俺がこの想いに賭けてみたくなったのはごく自然の流れだったと思う。

確かに馬鹿げている。それは承知の上だ。

俺はな、こんな勇気は初めてだ。

惇伯父や父を継ぐ猛将と呼ばれるようになって久しいが、

こんなに勇気を出して行動するのはまるで初めてのことだ。

なぁ、折角の機会だ、人生に悔いは残すものではない。

これより俺は夏侯家の名を捨て、一人の男として生きる。

後世の人々は俺を裏切り者と呼ぶだろう。

それを否定することはしない。

だが、俺の中で既に夏侯覇という名前は存在しなくなっている。

これからは、愛する女を守るただ一人の男として生きる人間になる。

既に責務からは解き放たれた。彷徨っていた想いを貫く、裸の人間となる。

長坂坡以来、俺は封印をしていた。

玉思を守るという子雲との約束は、心の中の籠に閉じ込めた鳥だった。

鳥はずっと籠の中に入ったままで生きていた。

時には大人しく眠り、時には暴れ、時には羽を広げようとした。

俺はその籠を責務という厚い壁で封じ込めてきた。

しかし今、俺はそれを解放した。

四十年もの間に鳥はくたびれ、老い、飛び方を忘れてしまったのだろうか。

約束は風化してしまったのだろうか。

いいや、そうではなかった。

空気に触れると、鳥は見る見るうちに輝きを取り戻し、かつてのような情熱を湧き上がらせた。

すぐさま飛び立つ用意を整えてくれた。

玉思はまだ生きている。

張飛との間に二人の娘が生まれ、その両方とも劉禅の后となったと聞く。

皇后の母ともなれば安心なのだろうが、

張飛亡き今、蜀に玉思のことを全身全霊で守る者はいない。

思えば、征西将軍に固執したのは父の敵討ちをしたいという理由だけではなかった。

いざ何かが起こったときに真っ先に蜀へと乗り込むことが叶う地位だったからだ。

子雲、お前ならば分かるだろう。

成都に足を踏み入れる最初の魏の男はこの俺でありたかった。

真っ先に玉思を保護するためだ。

子雲、まるで長坂坡のお前だな。

今回のことがなくとも、やはり俺は玉思を守るという約束を

忘れることができない人間だったのだと思う。

これからは俺が直接玉思を守ろう。己の命を懸けて玉思のことを守り続けてみせよう。

子雲、お前の分まで俺が守ってみせる。

そのために、老体に鞭を打って俺は蜀を目指す。

子雲よ、妙なものだ。俺は今、わくわくしている。

四十年間責務を守り続けるなかでいつしか感情の高低は失せていった。

毎日は平凡の連続で、働くことに人生の大部分の時間が費やされ、

束の間の休息となるはずの家にいても、家長としての責務があった。

生きることの意味は考えてはいたが、

目の前にある責務につい気を取られ、四十年間が過ぎていった。

そんな俺が、これからの残り少ない人生にわくわくしている。

こんな新鮮な気持ちはいつ以来だろう。

「――仲権お兄様。毎回、この子供っぽい呼び方でついつい呼んでしまいます。

お互いずいぶんな歳になったのに可笑しいですよね。

すっかりご立派になられた貴方に対して失礼なことでしょうが、

わたくしにとってはいつまでも仲権お兄様と、そして子雲お兄様でいてください。

長い人生、まだまだ続くようですが、

わずかな歳月でも夏侯家で一緒にいられたことはわたくしの大切な思い出です。

最近、あの頃をよく思い出します。

みなさん、本当にわたくしのことを愛してくれていたのですね。

玉思は幸せでした。

仲権お兄様もお身体に気をつけて。また書きます」

玉思、玉思よ。

あれから四十年間、たまに届く手紙はいつも俺を家庭との狭間で悩ませていた。

この気持ちが家庭への裏切りではないと、

そうはっきり思えるようになるまで随分と時間がかかったものだった。

お互い立場に壁があったが、それでも手紙を書き続けてくれることが純粋に嬉しかった。

叶わぬ約束でも、なんだか無性に嬉しかった。そ

れがこの人生の最後で変わるだなんて思いもよらないことも起こるものだ。

――俺はずっと思い続けてきた。

人生では、生き続けることが大切なのではないだろうか。

形はどうであろうと構わない。とにかく生き続けることが、大事だと思う。

生きていても叶わない夢ばかりだ。

生き続けていても良いことばかりがあるだなんて誰も思っていない。

ただ、生きてさえすればきっと叶うことがある。

生きてさえすれば、きっと逢える。四十年ぶりに、玉思にも逢える。

人生は、生きてこその人生だろう。形振り構わず生きてこそ、叶うことがある。

そして、子雲。生きていれば俺はきっとお前にも逢えると信じている。

ここからは責務一大男夏侯覇としてではなく、

子雲や玉思と無邪気に遊んでいた仲権としての人生だ。

生きてさえいれば――きっと逢える。仲権は微笑んでいた。

少年のもののように柔らかな、安堵の微笑みであった。

「この峠を越えれば蜀だぞー!」

先導の兵士が叫んだ。

仲権は馬を進める。間道の森の合間から、遠くの小さな灯りが見えた。

この山を越えれば漢中。蜀の領地だ。

(――あぁ、玉思。あぁ、子雲。僕は逢いに来たよ。

三人で狩りをしたあの日のままの仲権がここにいるよ――)

仲権は思わず二人に呼びかけていた。

歩き続けて、夜が明ける。薄明かりが差し込んでくると、遠くに武都城が見えた。

その美しい輪郭は、幼いあの頃に三人で見た許都城のようだった。







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