夏侯恩と青釭の剣、曹操の宝剣「夏侯覇仲権」三国志小説

投稿日:2003年3月15日 更新日:



審配は悪党である。同時に名将であった。

二百二年、曹操は官渡の戦いで袁紹を破った。

兵力や物量の上では曹操を凌駕する勢力をもって平原の覇者を唱えた袁紹も、

敗戦の心傷で病の床に伏せり、そのまま病没した。

袁紹には譚・熙・尚と三人の男子がいたが、

袁紹の後室劉氏は自分が生んだ三男の尚を後継者に立てるよう謀った。

長年袁尚の守り役を務めてきた謀士の審配と逢紀は劉氏と共謀して、

既に危篤に陥っていた袁紹からの遺言だと偽り、袁尚を後継者とした。

長男の譚を立てるのが筋であると当然のように周囲からは反発が起こる。

こうして袁家に骨肉の争いが生じたのである。

曹操は北伐軍を興した。

袁紹を喪った上に、指令系統に問題を抱えた冀州軍は曹操軍の前で脆くも崩れ去ってゆく。

袁譚は自分に断りもなく君主を名乗った弟に憤慨していたが、

まずは曹操撃退を第一優先として出陣をしようとする。

そこに腹心の郭図が袁尚から兵を借りることを提案した。

その通りに袁譚は伝いを出す。

袁譚からの依頼を聞いた審配は袁尚に進言し、同僚の逢紀に兵をつけて袁譚へ合流させた。

兄弟で力を合わせて曹操を撃退すべしと訴えたのである。

だが、これには裏があった。

曹操の有無に関わらずいずれは袁譚と袁尚の戦いになると審配は考えていた。

その時袁尚軍に二人の謀士がいては必ずや己の妨げとなると見た審配が、

機を見て袁譚に逢紀を斬らそうと仕組んだのだ。

事実審配の狙い通りとなり、間もなくして起こった兄弟喧嘩の渦中で逢紀は袁譚に斬られてしまう。

こうして袁尚軍の実権は審配に独占された。

逢紀だけではなく、以前にも田豊・沮授・許攸という有能な謀士が

審配の讒言により袁紹に疑惑を持たれ、遠ざけられている。

袁紹幕僚には幾つかの派閥が出来ていたが、

審配はその手段を選ばない悪知恵で常に有利な立場を勝ち得ていた。

袁家兄弟の仲間割れを逃さず、曹操は怒涛の進撃を加える。

弟の袁尚に圧されがちだった袁譚は進退窮まって曹操に投じた。

兄袁譚の投降を知った袁尚は、袁譚と曹操からの二面攻撃だけは避けようと、

審配を城に残し、自らは軍を率いて鄴城を出た。

袁譚を討つか、再度同盟を組もうとしたのだ。

だが曹操は電撃石火の行軍を取り、留守になった鄴城へと軍を進めた。

曹操の動向を察知した袁尚は急遽軍を翻して鄴城へ戻ろうとするが、

待ち構えていた曹操軍の前に大敗を喫してしまう。

袁尚は鄴城を見捨てて遥か北へと単身落ち延びた。

こうして、鄴城には審配だけが残ったのである。

鄴城を落とすべく曹操は全軍で攻め立てた。

審配は外交や内政を担務とする文官であったが、

同時に軍の統率者としての才能をも持ち合わせていた。

また、鄴城は冀州の名城である。高い丘の上にあり、城壁は高い。

攻め手にとってこれほど攻めづらい城はなく、守り手にとってこれほど守り易い城はない。

まずは定石通り、正面から突入してみる。

丘を登り、城壁へと辿り着こうとするが、

雨のように降り注がれる弩を受けると城壁の前までも到達できない。

決死軍を募り、多勢を恃んで高梯子を城壁にかけようとするが、

城門上から油が注がれ火がつけられる。

土嚢を高く積んで城壁を越えようとするには城壁が高過ぎる。

被害を覚悟して全軍突撃するものの、審配の指示は行き届いており敵兵は善く防戦する。

正面攻撃を諦めた曹操は城内の蘇由という部将を内応させようとするが、

審配が張り巡らせていた情報網にひっかかり審配の知るところとなってしまう。

計画は失敗し、蘇由は身ひとつで城を下った。

頼みにしていた内応策で躓いたことで曹操は意気消沈する。

打開策を持たない曹操軍は無為に時間を過ごすだけになっていた。


ある日好機が訪れる。

東門の守将馮礼が審配の厳しい軍令に音を上げて、

今のうちに曹操へ降ってしまおうと抜け出してきたのだ。

曹操は鄴城の弱点を馮礼に尋ねる。すると馮礼は上策を持っていた。

城には突門というものがある。

城内から城外への非常出入口で、城壁に開けられた小さな門である。

普段は土で厳重に蓋がされているのだが、馮礼は事前に一箇所だけ土を薄くし、

水を含まして柔らかくさせておいたから、

そこに坑道を掘って城内に進入すればいいと言うのである。

曹操は馮礼の言葉を信じ、馮礼自身にその役を命じる。

しかし、審配に抜かりはなかった。

深夜、外から突門に穴を穿った馮礼と兵士三百名が城内に足を踏み入れた途端に、

坑道の入口と出口部分に城上から巨石が落とされた。

うろたえる馮礼に向けて、審配は容赦なく矢を放つ。

針鼠のように全身に矢を受け、馮礼隊は全滅した。

軍兵はそれほど損じていないものの、曹操の心は大きく挫かれることになった。

力攻めは無用と知り、幕僚に広く策を求める。

すると以前審配の中傷によって

袁紹軍にいられなくなり投降していた許攸が一策献じた。水攻めである。

最早鄴城に充分な兵糧がないことは周知の事実であった。

また、いくら鄴城が堅固だとは言え、曹操軍とは兵力が違い過ぎる。

落城は時間の問題であった。

許攸は水攻めで守り手の心を挫こうとしたのである。

曹操は近くの河の流れを変え、鄴城手前に濠を掘り始めた。

その濠の様子を見て審配は嘲笑う。

浅過ぎて誰でも渡ることができる程度の濠だったからだ。

妨害するために出兵してきたところを返り討ちにして、退却する審配軍に紛れて

兵を城内に突入させようとする策だと思った審配は出撃をしなかった。

審配に動きがないことを確認すると、

曹操はその夜のうちにありったけの人員を投入して濠を深くし、河水を流し込んだ。

鄴城の四方は水濠に囲まれた。

裏の裏をかいた曹操の策略が上回った。

水濠の完成は、鄴城への出入りを封じられたことを意味する。

元々援軍の当てはなかったとはいえ、これで万が一援軍が来たとしても城内には入れない。

兵だけではなく、物資の供給も完全に閉ざされた。

最早、鄴城は落城を待つばかりになったのである。

この水濠で曹操が期待したのは、城内に動揺が生じることである。

果たしてその狙い通りとなり、城内には絶望感が充満した。

そこへ、袁譚と共に曹操へ降った辛毘が城前に姿を現して城内に投降を呼びかけた。

辛毘は袁紹の元で青州平原の令を務め、口舌爽やかな弁士であり、

またその清廉な人となりで知られていた。

そういう人物が投降を呼びかけたことで、鄴城の兵士は大いに動揺した。

この次案も曹操の思惑通りであった。

城内の動揺を肌で感じた審配は焦りを覚えた。

動揺を高揚へと逆転させようと、監禁してあった辛毘の一族を城壁の上へと引き摺り出し、

目の前で一人ずつ斬って殺した。

己の不退の決意を両軍に見せ付けるためである。

だが、結果としてこの行動は裏目に出てしまう。

辛毘とて、一族が鄴城内に捕らえられていること承知の上である。

しかし、孤立無援の上に食糧も底をついた鄴城で

これ以上無意味な戦いを続けても袁家のためにはならないと思い、この任を引き受けたのだ。

ある程度は予想されたこととはいえ、

それが本当に最悪の結果に結びついてしまうとはなんという仕打ちであろうか。

辛毘は号泣のあまり落馬する。

崩れ落ちてもまだ辺り憚らずに泣き続けた。

それは哀れなぐらい、それは無様なぐらい、もうどうしようもないぐらいに泣き腫らした。

泣いて泣いて、泣き続けた。

その辛毘の裸の姿によって、辺りの空気は一変する。

曹操軍の全員が辛毘の敵討ちを誓ったのである。

曹操軍だけではなかった。

鄴城の大半の兵士たちですら辛毘寄りに心を動かしたのである。

本心であろうか、演技であろうか。

いや、その両方で辛毘は一世一代の役を務めたに違いない。

一人間としては一生で最悪の時間を、

大義のために働く男子としては一生で最も大きな賭けの時間を。

一族を失った哀しみと、一生一度の大舞台に立つ栄光。

本心で泣き、演技で泣いた。

本心で審配を恨み、演技で両軍に審配を恨ませた。

その辛毘の人生の行動が、鄴城の攻防を決着へと向かわすことになる。

審配の甥の審栄と辛毘は親友であった。

辛毘の境遇に対して、審栄は深く同情する。

叔父の行動はある程度は理解できるが、いくらなんでもやり過ぎである。

審栄は矢文を用意し、曹操の陣営へと射た。

――翌朝寅の刻、正門を内から開く。貴軍、突撃されたし。大憂漢・審栄。

審栄にとっては肉親も親友も変わらず大事である。

ただ、ここで自分が幕引きを図らないと叔父の行き先がない。

また、一族を殺された親友の心を慰めるには叔父が死ななくては叶わないだろう。

両者に対して一番深い関係があるのは審栄であった。

こんな事態になってしまったことを審栄は大きく憂いた。

だが、自分がやらなければ他の誰かにできることではない。

審栄は自らの手で城門を開けることを決意した。


翌朝未明、矢文で伝えた通りに審栄が動く。

遂に難攻不落鄴城の門は開かれたのである。

敵の進入を知った審配は兵を励まして応戦するが、所詮は多勢に無勢、敵うわけがない。

この戦いには曹操の嫡子曹丕が従軍していた。

先陣の張遼・徐晃に続いて曹丕も城内に突入する。

今はその曹丕を護衛する役を任ぜられていた子雲と仲権も続いた。

曹操軍の士気は高かった。

それまで審配の置かれた立場に若干の同情を感じていた兵も多かったが、

あの一幕が審配の印象を悪者一色に塗り替えた。

あの辛毘の哀れな姿が焼きついているのだ。

仲権は審配のあの行動が許せないでいる一人だった。

それにどうも最初から審配のことは好きではない。

「審配は膨大な私財を溜め込んでいるらしいぞ!僕はそれだけで許せないな。あいつは悪徳の士だよ。

何万何十万という民に貧しい暮らしをさせておいて、

必要以上の富を一握りの将が独占するべきではないと思う」

「あぁ、それはな」

子雲は調子を合わせてきた。

だが、彼は珍しく審配に肯定的で、同情的な人であった。

「でもさ、仲権。あの審配という男も可哀想だよな。主に逃げられて、一人で城を守っているんだよ。

別に袁尚なんかには義理立てしないでさっさと降ってしまうという方法もあったのにな」

「自業自得だよ、自業自得!あいつは自分一人が目立てばそれでいいんだよ!」

「まぁ、それは分かるさ。武人らしい心もあるんだなって言いたいだけさ。

なぁ、仲権。俺はあの男の意地を最期まで遂げさせてやりたい。そう思っている」

「あぁ、そうか。そうしたいならそうすればいい!」

仲権にも好きになれない奴がいる。本当に審配が嫌いなのだ。

「そうするよ。審配は俺が捕らえてみせる。いいか、功績を狙っているだけではないぞ。

最後を悟った審配は自害するだろう。

しかしだ、仲権。俺は審配を曹丞相に会わせてやりたいんだ。

辛毘殿のこともある、降伏はできないだろう。

だがな、審配は死ぬ前に曹丞相に会うべきだ!

袁紹や袁尚だけでいいのか?曹丞相という大河があるのを知ってから死なせてやりたい。

それが、武人として最高の餞ではないだろうか。俺はなんとしてもそうさせてあげたい」

しかし、そんな子雲の真剣な言葉も仲権にはどこ吹く風であった。

仲権には子雲の同情が理解できない。

被害者である辛毘よりも、加害者である審配の方が弁護されるなんてことはあってはいけないんだ。

そのことだけに仲権はこだわった。

(――あれから子雲は変わった)

審配のことを必死に正当化しようとする子雲の表情を見ながら仲権はそう思っていた。

あの日、平頂山を下った時から笑顔を見せることが少なくなった。

代わりに武芸に打ち込み、戦を好むようになった。

活躍してくれるのはいい。自分の励みにもなる。

だが、二人で一緒に過ごす時間も減ってきたのが辛い。

子供の頃からいつも一緒にいたから、一人でいても仲権には何をしてよいものか分からない。

あれ以来、自然と玉思のことを話題に上げないのが暗黙の了解になっていた。

子雲は幾人もの楽女や遊女たちと付き合い始めた。

もう成人したのだからそんなことに口を挟む立場ではないとは知っているのだが、

仲権は心配で堪らないのだ。

(子雲、約束は忘れていないか?審配のことを同情的なのも以前の君にしては変じゃないのか?)

口にはできない心の疑問。言い出したい。言い出せない。

ここしばらくこればかりだ。結局仲権は伝えることを躊躇したままだった。

――鄴城内は地獄のような光景であった。

餓死をした民の屍が積み上げられ、異臭を放っている。

生きる意志すら失ったかのような民が痩せ細った身体でうずくまっている。

烏や馬の骨、そして葉や根を食い尽くされた枯れ木が辺りに転がっている。

審配軍の大部分は武器を捨てて投降した。

わずかに抵抗する者も士気盛んな曹操軍の前では一方的に蹴散らされてゆく。

勝負は既についていた。

張遼軍の後ろから強引に前線に追いついてくる一騎がいる。

夏侯恩子雲であった。敵に戦意なしと見て取った夏侯恩は、

曹丕護衛の任務を仲権に任せて前線に単騎馬を飛ばした。

既に徐晃軍の兵が審配本陣に突入し、抵抗する護衛兵を討っていた。

単身乗り込んだ夏侯恩は降兵の胸倉を掴んで審配の居場所を問い質す。

刀身を右手にぶら下げ、邪魔する兵士を斬り捨てて、迷わず審配の元へと走った。

危ないからと制止する兵たちの声も振り切り、夏侯恩は屋敷の奥へと大胆に駆け抜けた。


「――審配!何処だ!」

大広間に入るとそこに護衛兵や将校の姿はなく、目指すただ一人の将がいた。

審配である。

両手に刀を持ち、ひとつを夏侯恩に向け、もうひとつを己の咽喉に当てている。

自分か相手か、どちらかを殺すという意思表示だろうか。

審配は目の前に現れた夏侯恩に視線を流すと唾を吐き、大声でわめき散らした。

「なんだ!貴様如き若造では死ぬに死ねん!おい、徐晃を連れてこい、徐晃を!」

「俺は夏侯惇の弟で、曹丕親衛隊の夏侯恩だ。俺では不足か?」

審配はまた唾を吐いた。

「駄目だ!駄目だ!!

俺の最期は徐晃の大斧で真っ二つにされるぐらいが相応しい!

雑魚の弱剣に討たれてしまってはこの審配様の名に傷がつくわ!

徐晃を呼べ!許褚でも良いぞ!」

大きく唾を吐く。続けてまくし立てた。

「貴様、聞いているのか?!片目の兄貴は汝南にいるそうだから無理だな。

早くしろ!俺は逃げんからさっさと徐晃を連れて来い!」

好き勝手言い放つと、審配はまた唾を吐いた。

「おい、審配!貴様は心得違いをしているぞ!徐晃の斧よりももっと貴様の死に相応しいものがある!」

そんな夏侯恩の言葉を、審配は一笑して唾を吐いた。

「餓鬼が!何を分かったような口を利く!」

夏侯恩は呼びかけ続けた。

言葉とは裏腹に審配が興味を引かれたと感じたからだ。

「貴様は曹丞相という大河を知らぬ!よいか、世に袁紹親子しかいないと思うのは誤りだぞ!

死出の土産にこの世の英雄を見たいとは思わぬか?!それから死んでも決して遅くはないぞ!

この夏侯恩、貴様を間違いなく曹丞相の元へと届けよう!」

頬に皮肉な笑いを浮かべると、審配は若者を見つめた。

上から見下げる冷笑。しかし夏侯恩はそれが虚勢に見えた。

ここぞとばかりに言葉を続ける。

「もとより貴様に降伏は勧めない。ただ、袁家如きしか知らずに戦場の鬼となるには惜し過ぎる武人だ。

どうだ、最後の一興と思って我に従ってみないか?」

すると審配はやけに素直になり、剣を放り投げた。

「貴様の言う通りだ!曹操、か。面白い。どれ、罵声のひとつでも奴に浴びせてから死ぬか!」

そう言って、悪党は嫌な笑い方をした。

――鄴は落ちた。曹操軍に包囲されること四ヶ月。

防戦を繰り返してきた審配であったが、最後は辛毘の家族を斬った自らの行動を逆手に取られた。

審配は曹操の前に引き立てられた。縄尻を持つのは夏侯恩である。

曹操は審配に対して旧友であるかのように話しかけた。

「死力を尽くした上で敗れたからには、もう袁家への義理もまっとうしただろう。

人格はともかく才がある者を予は登用する。どうだ、予に使えぬか?」

開口一番、曹操は降伏を促した。

敵ながら善戦をした審配の才能を曹操は人一倍買っていたのである。

「どうせ城内の誰かが裏切って城門を開けたのだろう?!

それであれば、俺は貴様には敗れてはおらん!偉そうな口を叩くな!」

審配は言い返した。汚く唾を吐いた。

「審配。身内さえ統率できないで何が将だ。よいか、城門を開けたのはそちの甥の審栄だぞ。

それも、お主のことを想っての精一杯の行動だろう。よい甥を持ったな。これは皮肉ではない」

その言葉に審配は答えなかった。ただ、俯いて静かに目を閉じた。

「よいか、予はお主の才能を買っている。全て不問に処すから予に仕えい」

曹操はもう一度だけ、審配に降伏を呼びかけた。

傍らにいた夏侯恩はその言葉を聞いて思わず頭を一段下げた。

(全てを不問に処す!あぁ、丞相は凄い!審配よ、そんなことがここでは本当に許されるのだぞ。

丞相が言った以上は、辛毘殿もきっと納得してくれる。人生をやり直せ、審配!)

しかし、審配に応じる様子はなかった。小さく唾を吐いて言った。

「俺のことを買ってくれるのならば、

すぐさま刑場に引き立ててくれれば良いのだ!何も言わずに殺せ!」

悪党には悪党の理屈がある。

審配は自ら腰を上げると刑士の元へと歩き出した。

曹操はそれ以上引き止めることができなかった。

一族を殺された辛毘の心情も尊重しなくてはならないからである。

最後の背中に向けて曹操が言う。

「袁家の臣としてお主の態度は立派であった。

斬首を言い渡す。あの世でも袁家の悪鬼となれい!さらばだ!」

振り返り、曹操ではなく夏侯恩を一瞥すると審配はこういい残した。

「――なるほど。よい冥土の土産となった」

袁尚が北にいるから、と言って審配は北面して死ぬことを望む。

希望通りに斬首が執行され、悪党であり、名将であった審配は鄴城の塵と散った。

夏侯恩は審配の最期の言葉を聞いて身体が震えた。

嬉しくもないし、哀しくはない。ただ空虚である。

胸の痞えが取れ、その代わりにぽっかりと穴が開いた。

審配の姿が刑場へと消えてゆくと城内へと向かった。

その場にじっとしていられる気分ではなかったのだ。


――丁度審配が悪党の死を迎えていた頃、

袁家の大邸宅は徐晃隊により包囲されていた。

ただし、いかなる将兵も屋敷内へは足を踏み入れてはいない。

曹操は鄴城最終攻撃の前に袁家の家族を保護するよう全軍へ厳命を出していた。

そもそも曹操と袁紹は幼馴染であり、政敵となる前は互いに大志を語り合った仲間であった。

旧知の袁一家の命を奪うには忍びない。

また、袁家の家族を保護することで曹操は冀州の民の信頼を掴もうとしていた。

兵が厳重に固める正門に二人の若武者が姿を現した。

曹丕とその護衛を任じられている夏侯覇仲権である。

曹丕を見た兵士たちは互いに顔を見合わせて戸惑っていたが、

曹丕が屋敷に入って行くのを止める者はいなかった。

屋敷内に入ると二人は剣を抜き払った。

いつどんな所から敵が現れても対応できるためにである。

曹丕は十八歳、今回の冀州討伐が初陣であった。

特にこの屋敷に目的があってやってきたのではない。若者の好奇心である。

護衛兵も使用人もことごとく逃げ去っていた。広大な屋敷に人影はない。

鄴城の主であった一族の屋敷とはいえ、

落城した以上ここに曹軍が雪崩れ込んでくるのは明白であった。

ここよりも安全な場所は数多くあり、逆にここに留まるべき理由はない。

ただし、袁一族を除いては。

曹丕は屋敷に残った人に対し自らを名乗り、保護する旨を伝えて回った。

屋敷の家具や装飾品を見て曹丕は思わず唸る。

許都の曹家の物以上に贅を凝らしているのは一目瞭然で、

それはあたかも皇帝の宮殿のような輝きに満ちているのだ。

河北四州という膨大な領土を治めた袁紹の権力の大きさが象徴されていた。

しかし、それも儚い夢物語である。

かつては着飾った袁家の人が多く歩き交わしたであろう長廊下や大庭園も、

今は中身を失ったただの大箱である。

屋敷には敗北した一族の悲哀が付き纏い、ただ空漠な香りが悪戯に漂っていた。

「もろいものだな、名門袁家も。我が曹家の前ではこうなるのも運命か」

「いいえ、若君」

夏侯覇は静かに首を振った。

「うむ?では何だと?」

「結局のところ袁紹は自らの驕りに負けたのです」

それだけ聞くと曹丕は夏侯覇の心中を理解したようだった。

「我が曹軍の数倍に匹敵する兵や領土を有していても、それを動かすのは一人の人間でしかない、か。

覇の考えそうなことだ。それも良かろう」

そう呟いて曹丕は足早に奥へ歩き進める。

そこは屋敷の大奥にあたる部屋であった。入ると部屋の隅で二人の女が身を寄せ合っていた。

一人は服装と年齢からして袁紹の後室劉氏と見て取れた。

もう一人は髪を振り乱し、土まみれの顔の見苦しい女である。

この粗末な服は侍女であろう。曹丕の姿を見ると婦人は両手を掲げた。

自ら両手を縄で縛ってある。無害であることを主張しているのだ。

「我は曹丞相の嫡子曹丕である。劉夫人とお見受けする。

ご安心なされい。害は加えぬように曹丞相が厳命を出されておる」

それを聞くと二人の女は安堵の表情を見せた。

「いかにもわたくしは袁紹の妻です。この通り、抵抗はいたしません」

劉夫人はそう言ってもう一度両手の縄を曹丕に見せた。

「そうか。しかし、そんな卑屈な縄まで我らは望んでおらん。おい、そこの女。解いて差し上げろ」

曹丕にそう言われた女は劉夫人の縄を解こうとする。

しかし、動揺しているのかなかなか解けない。

じれったくなったのか、曹丕が近寄って刀身で縄を切った。

「うん?」

ふと、傍らの女に曹丕は目を留めた。

汚れた顔の中で、美しく光る両の目に気が付いたのだ。

劉氏に目を向けると、劉氏は頷いてこう言った。

「次男袁熙の妻、甄氏です。袁熙はこの屋敷に留めて行きました。

難から逃れさすためにそうするよう私が申し付けました」

曹軍の兵に乱暴されることを恐れてわざと顔に泥を塗ったというのである。

曹丕は己の袖で甄氏の泥を拭ってやった。すると、絹のように白く美しい肌が現れたではないか。

「おぉ」

感嘆の声を上げた曹丕は、夏侯覇に泥を落とすように申し付ける。

夏侯覇は近くの井戸で布を濡らし、甄氏の顔を拭いてやった。

泥を除き、髪を整えると甄氏の美は隠せなくなった。

夏侯覇は己の目を疑った。その雲鬢、その清潔な顔立ち。

あの忘れられない女性とどこか似ている。

いや、あの女性はこんなに美しい顔立ちはしていなかった。

ただ優しく、幸せな表情だった。

十四で目の前からいなくなってしまった女性だから、成長した今はどんな女性になったのだろう。

その女性の今を偲ばせるものが甄氏にはあった。

素顔を見た曹丕は思わず甄氏の手を取り、こう叫んだ。

「――守ってやる!俺が守ってやる!」


丁度その時、廊下から数名の兵の足音が聞こえてきた。

曹丕の安否を心配して駆けつけてきた護衛兵たちである。

「若殿、ご無事でおられるか!」

その中には本陣から駆けつけてきた夏侯恩もいた。

曹丕の姿を見ると夏侯恩が片膝を着いて報告する。

「殿!小輩が敵将審配を生け捕り、曹丞相に引き渡してございます。

審配は降ることを潔しとせず、死を選びました」

自分直属の部下が思わぬ功績を成したと知って、曹丕は喜んだ。

「でかしたぞ、恩!これで戦功第一は我が隊のものだ!」

曹丕は何か考えがあるらしく、一人で小さく笑った。

その時仲権は、子雲が顔を凍ばらせる瞬間を見た。

子雲の見上げた視線の先には甄氏がいる。そうだろう、子雲。そうだろう。

夏侯恩の視線に気付いたのか曹丕は言った。

「袁紹の妻と、次男袁熙の妻だ。丁度良い、貴様ら二人に命じよう。

ここでこの両名を保護しておれい。わしは屋敷を見回る。任せたぞ、恩、覇」

曹丕が部屋を出て行き、護衛の兵も続いた。

部屋には押し黙った二人の女と、同じく黙り込んだ二人の男が残った。

女たちは、男たちの異様な雰囲気に気が付き始める。

自分たちの顔も見ようとはせず、言葉もかけてこない。

大体二人ともお互いに口を利いていない。全身から覇気が消え、岩のように静かに固まっている。

薄気味が悪くて眉をしかめた。

――あぁ、どうして天は眠らせた記憶を蘇らそうとするのか。

玉思と似た女性がいることだけで奇跡。

そして、この広大な大陸の中で子雲と仲権の前にその女性が現れる。

それは奇跡以外の何物でもない。

奇跡と奇跡が重なると、それは互いに反応して必然になる。

必然は、誰もの人生で数度起こるのである。

見る者はそれを幻だと感じるだろう。現実味のない蜃気楼。甘過ぎる幻覚。

人間はその必然を通過することで力強い輝きを発するようになる。

それまでにはなかった力を身につける。

まだ蜃気楼の渦中にある子雲と仲権にとって、この時間はただ苦しいものであった。

(――玉思。お前は今どこにいるのか。幸せに暮らしているのか)

思わず仲権は心の中で呼びかけていた。

時折無事を知らせる手紙だけは届いた。

二人が心配しているようなことには触れず、ただとりとめのないことを書き送ってきた。

(――玉思。お前は綺麗になったのだろうな。張飛は優しくしてくれているか。

あぁ、何であれお前が無事で生きてくれていればそれで良い。

どうか、無事でいてくれ。無事で生きていて欲しい)

蜃気楼の中で、仲権は遠い日の幻を思い描いていた。

それは子雲も同じであった。

審配を斬り、城内を鎮静化させると曹操は袁家の邸宅に向かった。

正門に詰めている兵士に袁家の家族の無事を問い質すと、

若君のご尽力もあって無事ですと兵は答えた。

それを聞いた曹操は激怒して曹丕を呼びつけた。

「丕!貴様がしたことは軍律違反であると分かっておるのか!

わしは何人たりともこの屋敷に入ることを禁じるとの厳命を出した!

我が子であろうとも、それを破ったからには刑罰に処さなくてはならぬ!」

曹操の厳しい措置を見かねた諸将が曹丕をかばう。

曹丕隊が審配を捕らえた功績を相殺してはどうか、という意見が出た。

それを聞いた曹操は簡単に受け入れる。

始めから曹操はそのつもりであった。

ただ、自分の許可も得ずに勝手な行動に走った己の後継者に

勉強させるつもりで演技をしていたのだ。

旧知の劉夫人と面会した曹操は甄氏の美しさを見て喜びの表情を見せた。

すると、すかさず劉夫人が丁寧な礼を言い出した。

「我が家族が無事でおれたのも若君が先だって保護してくれたからでございます、

その深恩に応えるため甄氏を若君へ献じようと思います、

お叶え頂ければ甄氏にとっても無上の喜びでございます」

思わず曹操は心の中で舌打ちした。

次男袁熙の妻が大変な美人であるということは聞いていた。

あわよくば、自分の妾の一人に加えようと密かに考えていたところだったのだ。

だが、劉氏にそこまで言われた以上、自分の物にすることは恥である。

曹操よりは曹丕のほうが組み易しと判断した劉氏が仕掛けた

必死の生存策であることはすぐに分かった。

曹丕にはまだ正室もいなければ側室もいない。

曹操の嫡男曹丕の正室の座に納まる可能性があるのだ。

数いる曹操の妾の一人にされてしまうのとは大違いである。

「よろしい。我が子に相応しい美女である。丕の元に届けてやれ」

そう言った曹操の目は笑っていた。

割り切りが早いのもこの英雄の美点である。

曹丕はそれこそ踊らんがばかりに喜び、甄氏を正室とした。


――その夜、半年に及んだ長期戦の苦難をねぎらうための酒が振舞われた。

将兵という将兵が唄い、踊り、勝利の喜びに酔った。

曹丕の陣営でも陽気な音楽が絶えず、勝利を謳歌する酔いどれ男たちの歓声が飛び交っていた。

しかし、主将の曹丕は姿を現さなかった。

甄氏という佳人を賜った若者には、酒の魅力も色褪せる。

暗い城壁の片隅で、耳を塞ぎながら独りで酒を飲む男がいた。

歓喜に沸く曹操軍で唯一酒を旨いと思っていないのがこの夏侯恩子雲であろう。

その男は敵の大将を捕らえるという第一の手柄を立てたはずなのに。

子雲は何も甄氏に恋をしたというわけではない。

曹丕が甄氏を自分の物にしたことに異論があるわけでもない。

ただ玉思のことを思い出して、やりきれなくなっただけである。

あれから三年、ようやく過去の傷口を癒すことができるようになってきた。

確かに子雲も仲権も、恋の火矢を己から遠い場所に放ち去った。

約束を忘れるためではなく、これからを生きるために不必要な部分を切り捨てようとしたのである。

しかし、二人は知らずとそれを向こうにではなく、己の真上に打ち上げていた。

上空に打ち上げた火矢は長く、美しい線を描き、そして射手の元へと戻ってくる。

火を消す水などどこにもない。打ち上げては戻り、打ち上げてはまた戻るのである。

子雲にとっても、仲権にとっても、玉思のことはいつまでも忘れられない記憶であった。

仲権にだって今は今で別の女性がいる。

その女性たちに玉思の面影を求めるようなこともしていない。

両者はまるで別の生き物で、女という共通項でくくることができない対象であった。

だが不思議と、二人の間で交わされたあの約束は今も確かな意志を含み健在であった。

二人は玉思を守り続けるという約束だけを生かして、

女性に対する理想から玉思の面影を消し去ろうとした。

時が流れ、ようやく別の女性のことを考えられるようになってきたところに、

玉思の成長した姿を思わせる女性が現れ、現れると同時に別の男の物になった。

何のために子雲と仲権の前に現れたというのか。

まるで二人の約束を再認識させるためだけのように、現れては消えていった。

城壁の番所では自ら進んで不眠の番を務めている仲権がいた。

とても酒を飲む気分ではなかった。想いは子雲と同じである。

張飛の山砦を離れてから、一日たりとも玉思のことを忘れた日はない。

玉思を守るのが人生だと言ったことも、今も嘘ではない。

敵の姿を探すべき暗闇に、成長した玉思の姿が甄氏と重なり、浮び上がってくる。

あぁ、忘れられない女性よ。離れても響く永遠の慕情よ。

篝火に照らされて、番所へと向かってくる酔客の姿が見えた。

子雲だ。酷く酔っている。

手に持っていた酒瓶を城下に投げ捨てると仲権に倒れ掛かってきた。

「子雲!それが鄴城攻略第一功労者の姿か?

曹操軍の大捷はお前の手柄なんだぞ!しっかりしろよ!」

不様を見かねた仲権が、子雲を抱え起こして城壁に凭れかからせる。

あぁ、どうして名誉ある手柄を立てた男がこんな悪酔いをしなくてはならないのか。

他の者には分からなくとも、仲権には子雲の気持ちが手に取るように分かった。

そう、仲権自身の気持ちがそのまま子雲の気持ちにつながるからだ。

「……仲権、俺が本当に愛したのは玉思だけだ。

忘れてはいない。約束は忘れてはいないからな……」

項垂れて、か細い声でそう呟く子雲には、いつものような傲慢さや要領の良さは感じられず、

そこにはただ己の心のままに生きる一青年の姿があった。

「……おい、仲権!夢の中の俺の空想力は凄いん、だぞ。

いつも似たような夢を見る。いつも、いっつもだ。

みんなで出かけようと約束するんだ。

お前がいてな、惇兄や淵小父、お前の弟たちに、玉思もだ……。

みんなで笑ってな、俺は楽しみにして、楽しみにして眠る。

でも起きると集合場所が分からないんだ。

俺一人だぞ、お前もいなくて俺一人で集合場所が分からない。

二度と玉思には逢えない。お前もいない。

泣きそうなんだよ、困って困って……そこで目が覚める……」

自嘲のようなつぶやき。昏迷した頭には模糊とした記憶しかないのだろう。

「……昔の記憶の破片が少しずつ集まってな。石を投げてた川原とか、狩りをした山とか……。

場所も人も時代も混じっている。俺の願望そのものだ。

俺はそうしたがっているよ、今も充分幸せなのになぁ……」

どうしたというのだろう。子雲がいつもの子雲ではない。

「玉思に逢えなくなって泣きそうになっている俺は、それが夢だと全然気が付いていないんだ。

また逢いたい、って。逢いたい、って、俺の心がそう思っているんだよ。

……目が覚めてからいつも後悔をする。夢の中の必死の自分に……」

「子雲、子雲。しっかりしろ」

「行軍の馬上で、夜営の闇に……。

戦場でも許都でも夢見るのは玉思のことばかりだぞ。

いつも二度と玉思に逢えなくなる夢を……。

泣きそうなんだぞ。お前にこの哀しさが分かるのか……。

もう二度と逢えないんだなんて嫌だよ。嫌、なんだよ。

でもな、俺は甄氏の顔を見た瞬間に玉思のことを許してしまった。

そう、次に玉思に逢った時、俺はきっと全部許してしまうのだと思う……。

仲権、俺は玉思のことを一生守るぞ。お前がいなくなっても守り続けるぞ……」

力尽きた子雲を仲権は番屋へと運び、横にしてやった。

子雲は泥のように眠りに落ちている。

静かに番屋を離れると、仲権は元の監視位置に立つ。

暗闇を見つめ、微動だにしない男の影。

小さな雫が男の頬を伝った。二つ三つと、それは流れる。

(……僕だってそうだよ、僕だって……)

想いは仲権も同じだった。

――玉思。あぁ、玉思。世に無数の女がいても自分から愛したのは君一人なんだよ。

僕は、僕がどうなっても忘れていない。忘れられない。

子雲の時間は三年前からあまり前進していなかった。

余計な知識だけつけて、幾つかの武功を立てて。

傍目にはきらびやかで、勇ましくても、次第に子雲自身は本心から反れていった。

玉思を思い出しては、当時は確かに存在していた本物の自分自身を思い出す。

だが、その姿が無様に思えて子雲は自分自身を隠した。

仲権にすら見せようとはしなかった。

仲権はようやく子雲の本心に触れることができた気がした。

嬉しい。なんて嬉しいことだろう。

――子雲。みっともないなんて僕は思わないよ。

僕は君を疑っていたぐらいなのだから。

もう玉思のことも約束もみんな忘れて、女たちと遊び呆けているじゃないかって、

僕は君を憎んだ時期もあった。

でも、今は違う。

こうして夜の闇を挟んで君と一緒にいると、君の心がどんどん流れ込んでくるのが分かるんだ。

君は忘れていないんだね。忘れていないんだね!

再び通い合う二人の心。否定の闇の中でようやく小さな光が灯り始めた。

――子雲。僕も一緒なんだよ。あれから、楽しいと思ったことはない。

なんて無様な生き方だろうね、今まで生きてきて、幸せだったのはほんの一瞬だけ。

玉思といたあの一瞬だけが眩しい。

僕は、僕たちは、いつまでこうしていなくてはならないのだろうか。

嬉し涙と哀し涙。誰にも分からないように、仲権は声を出さず泣いた。

兵卒たちの大騒声は仲権の小さな雫の音、

子雲の寝息をかき消して城内を歓喜の色に染めていたのだった。


翌日開かれた功労表彰の場に夏侯恩の姿はなかった。

審配を捕らえた手柄は夏侯恩個人だけではなく、曹丕隊のものである。

褒美として曹丕に昇官の印綬と金鎧が与えられたが、

曹丕は無断で袁家に入る罪を犯した上に既に甄氏という褒美を貰っている、と言って辞退した。

褒美の品は徐晃と張遼に対して平等に分配された。

席が終わると曹丕は夏侯覇に夏侯恩の居場所を尋ねた。

城壁の上の番屋にいるでしょう、と夏侯覇が答えると曹丕は単身番屋へ向かっていった。

翌日になると今度は曹操が夏侯覇を招いた。

袁家追撃に向けて軍務多忙を極めていることだろうに、

昼食の時間に夏侯覇を同席させるとまるで友人に話しかけるかのように問いかけてきた。

「どうして恩は手柄を誇らないのだ?

昨日、丕が恩に直接訊ねたみたいなのだが、貝のように口を閉ざして話さないらしい。

あの要領の良い男が、せっかくの褒賞を受け取らないとは珍しい。

予も気になっておる。お主なら知っていると思ってな。のう、事情を話してくれまいか?」

夏侯覇は困った。

拒むわけにもいかないし、かといって英雄曹操に下手な嘘は通用しない。

玉思のこと、その玉思が張飛の元に行ってしまったこと、

玉思に似た甄氏を見て夏侯恩が衝撃を受けたこと。

さすがに二人のあの約束だけは省いたが、覇は覇らしく全てを曹操に語ることにした。

黙って話を最後まで聞くと、曹操が口を開いた。

「――覇。お主の悪いところは、正直過ぎるということだ。

そこまで詳しく話すこともない。その話を他人にしたと知ったら、恩は失望するぞ。

人の秘密をあまり迂闊に話すな」

そう言って曹操は夏侯覇の馬鹿正直ぶりをたしなめたのである。

夏侯覇は恐縮して平伏した。

「だがな、覇!その馬鹿正直さがお主の才能でもある!忘れるなよ!」

突然の大声に驚いて、夏侯覇は顔を上げた。曹操の表情は優しかった。

「覇よ、恩を呼んで参れ。よいか、丞相命令だと言うのだぞ」

それだけ言うと曹操は忙しく箸を動かして食事を取り始めた。

深く頭を下げ、夏侯覇がその場を去る。

その足で番屋へ行くと、昼間から酒を飲んでいる子雲がいた。

曹丞相の命令であると言っても出立を渋る子雲を仲権は無理矢理連れ出す。

別室で待っていると、しばらくして曹操本人が現れた。

平伏する夏侯恩に向けて、曹操は軽い口調で言った。

「夏侯恩よ、審配を生け捕ったそちの手柄は抜群であるぞ。誉めてつかわす」

夏侯恩は黙って平伏したままで、何も答えなかった。曹操は続けた。

「予は審配の最期の言葉を覚えておる。

敵とはいえども義士の心中を察してやることは政を行う上で大切だ。

なるほど、よい冥土の土産となった――そちに対する審配の精一杯の言葉だぞ」

まだ夏侯恩は黙ったままだった。

「褒美だ。青釭の剣を受け取れ」

――青釭の剣。

それを聞いた夏侯恩は思わず顔を上げて曹操を見た。

青釭の剣は曹操自身が愛用する天下の名剣、倚天・青釭の二振りの内のひとつである。

その片方を夏侯恩へ贈るというのである。

「ありがたき幸せ!!青釭の剣に恥じぬ働きをしまする!!」

夏侯恩は本当に嬉しそうな声でそう言った。

曹操は腰に下げていた青釭の剣を外して夏侯恩の手に渡した。

深々と平伏して受け取る夏侯恩に向けて、小さな声でこう言った。

「……お主を見ていると、昔の予自身を見ているかのような気分になるわ。

それだけ演技を使い分けられれば大成できるぞ。よいか、両名とも。しかと責務を果たせ」

少し言い過ぎたと思ったのか、曹操はそれ以上言わずに部屋を出て行った。

――青釭の剣、青釭の剣。子雲は狂喜した。

主君の常用剣を賜るのは武人として最高の光栄である。

それも、中原の覇者曹操から賜った、天下の名剣である。

双剣のひとつを曹操自身が佩き、もうひとつを自分が佩くのだ。

英雄曹操に認められたのである。

他には代えがたい、武人としての勲章であった。

「――青釭の剣。俺の、青釭の剣」

子雲は喜びに泣いた。哀しみも振り払われよとばかり、心底から泣いた。

曹操の温情が心に痛切に響いて、涙が溢れ出してきた。

青釭の剣。それは子雲に与えられた人生の勲章である。

玉思がいなくなってから、子雲は人生の希望を失いかけていた。

それを、このたった一振りの剣が補ってくれた。

子雲の青釭の剣に対して仲権が嫉妬しなかったと言えば嘘になる。

しかし、子雲の心情を知る仲権にとっても嬉しい出来事であった。

子雲が立ち直ると同時に、仲権も立ち直ることができた。

その夜。鄴城の城壁の上で、子雲は青釭の剣を鞘から抜き払ってみた。

月明かりに照らされて刀身がきらりと光を放ち、子雲の目を射す。

刀身を鏡に、後ろにいる仲権の姿がぼやけて映った。

子雲が青釭の剣を上段に振り上げる姿を、仲権は見ていた。

なんという美しい剣なのであろうか。

およそ人を殺すために創られたとは思えぬその輝き。

戦場の道具としてこれほど相応しくないものもない。

青釭の剣を持つ子雲の姿が月光に祝福されて、その美しい肖像に思わず仲権は跪きたくなった。

――ひゅっ。

小さな音を立てて子雲の青釭の剣が一閃した。

そして仲権は見た、青釭の剣が青白い燐光を放ちながら振り下ろされるのを。

青釭の剣を振り下ろすと子雲は目を閉じ、深く息を吐いた。

剣音が心の何かを優しく断ち切ってくれたように思えた。

もう一振り、音を聴いてみる。横に薙ぎ払ってみる。あぁ、音が心に染み入る。

子雲は目を開けた。青釭の剣を眼前に近付けてみる。

まっさらな刀身は真夜中の雲のように深い色合いをして、

何も語らず、しかし何かを悟らせようとしていた。

ふと、鏡に仲権の姿が入ってきた。子雲は、後ろのその顔が微笑んでいると思った。

――もういいだろう。もう俺は大丈夫だ。ここに俺の命ができた。

子雲は青釭の剣を鞘に収め、後ろの仲権を振り返るといつもの調子で言った。

「おうよ、仲権!今夜は俺様の手柄を祝って飲み明かそうではないか!!」

青釭の剣。この宝剣は子雲と仲権に幸せをもらすものであろうか。

後日、夏侯恩は校尉に、夏侯覇は都尉に叙せられた。

曹丕の守り役はこれで終わりである。

二人はそれぞれ、一軍を率いる将となった。

こうして、子雲と仲権の物語も最後の舞台、長坂坡の戦いへと向けて進むのである。







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