呂布奉先・最強の武将の最期「夏侯覇仲権」三国志小説

投稿日:2003年3月15日 更新日:



許都での暮らしは、夏侯氏に安泰をもたらした。

東郡にいた夏侯氏一同が合流し、ひとつ屋根の下に集結する。

帝都であり、曹操軍の本拠地でもある許都には軍勢も多い。

陳留での旗揚げ以来、遂に安住の地を得たと言えた。

惇や淵は近隣勢力を討伐するために家を留守にすることが多かった。

その度に仲権や子雲も随行を許されたが、

初陣以来二人は中軍に留められたままで、前陣に立つことは一度もなかった。

落胆の少年たちは許都に帰ると山野での狩猟に耽った。

馬を縦横に駆らせ、すっかり腕を上げた弓矢で野兎や鹿を射止める。

獲物を持って家に帰ると家族に向かってさも大袈裟に聞かせた。

二人には狙いがあった。直接惇や淵に対しては言うのはわざとらしい。

だが、家族の口を経由して彼らの耳に入れば印象が変わると思ったのだ。

これは子雲の策だった。

最初の何度かは家族もよく話を聞いてくれたが、

毎度毎度冒険譚をまくし立てられるうちに飽きてしまったようで、

次第に二人の話から遠ざかるようになっていた。

今ではただ一人、玉思だけがいつでも楽しそうに耳を傾けてくれる存在だった。

玉思は夏侯淵の養女であるから仲権の妹であり、子雲の姪にあたる。

淵には生後一年も経たずに死んでしまった女子がいた。

その後間もなくして沛国時代からの幼馴染が戦死し、忘れ形見が残った。

淵は強引なまでにお願いをして、その女子を引き取り養女とした。それが玉思である。

玉思の笑顔はいつも夏侯家を明るくさせていた。

天真爛漫に育った玉思は誰に対しても自ら心を開く。

老若男女を問わず誰もが彼女のことを好きになった。

初対面の者であろうと偏屈者であろうと、すぐに玉思のことを可愛がるようになった。

この日も、子雲と仲権の自慢話に聞き入る玉思の姿があった。

玉思は仲権よりも三つ下の十一歳。

三人は秋の穏やかな陽光を全身に浴びながら、夏侯家の庭で話し込んでいた。

「――そこで仲権は上手く誘導して鹿を茂みから出させたんだ!

するとその前には僕が待ち構えている!

行き先を塞がれた鹿が僕の前に飛び出してくる!

奴は僕のことを見ると、どの方向に逃げようか一瞬迷った。

その瞬間を逃さず矢を放つと奴の眉間に突き刺さったよ!

これが挟撃の計だね。戦でもこうして敵を欺くものなのさ!」

隣の玉思に向かって子雲が興奮気味に話している。

玉思はじっと目を開いて、子雲の顔を見つめている。

逆の隣に座った仲権が今度は口を開いた。

「それだけじゃなくて、途中でえらい目にあったんだ。

馬を休めている時、捕った野兎を火にくべていたらさ、知らぬうちに野犬に囲まれていたんだ。

匂いを嗅ぎつけたのか、気が付いたときには数十匹も集まってきていた。

危ないと思ったね。

すぐに馬に乗って脱出しようとしたものの、

飢えて狂暴になっている奴等は焼いていた野兎だけじゃ満足せずに、

僕たちの馬に吊るしてあった鹿にも興味を示してきた。

咄嗟の判断で、子雲と馬を揃えて強引に突破したよ。

あの時別々に逃げていたらどうなったか分からない。

まぁ、僕たち二人が協力すればこの通りだね」

「お兄様たちはお強いですから~。

明日の狩りは玉思もとっても楽しみにしておりますよ。

お兄様たちの腕前を見せてくださいね~」

「もちろんだ!ようやく玉思にも僕たちの腕前を見せられる機会だからね。

惇小父や淵小父はいつも僕たちの話を信じてくれないけど、

明日こそは見せ付けてやる!なぁ、仲権」

「そうだ!あの二人をびっくりさせてやろう!」

「明日失敗したら当分は戦にも連れて行ってもらえないかもしれないぞ。

仲権、遅れは取るなよ。玉思も仲権の矢が下手だと思ったら正直に言っていいんだからな!」

そう言うと、子雲は仲権と目を合わせて楽しそうに笑った。

二人につられて玉思も太陽のような笑顔を見せた。

それを見た誰もの心を開かせるかのような真っ直ぐな笑顔。

玉思に喜んでもらうことが、今の子雲と仲権にとっての幸せだった。

太陽の方向へ少しでも蔦を伸ばそうとする草木のように、

二人は気持ちを玉思に近付けようとしていた。

そう、この二人もずっと以前から玉思の飾らない笑顔の虜になっている。

翌日、夏侯家では家族総出で狩りが行われた。

淵を先頭に、妻や子供たち全員が許都を出る。

先導の淵のすぐ後ろには子雲と仲権がいた。

惇は妻たちの馬車に同乗して、楽しそうに朝から酒を飲んでいた。

仲権の鞍には玉思も同乗していた。

女子が馬に跨って外に出るなど、通常有り得ることではない。

仲権はにこにこと嬉しそうに顔を綻ばせながら玉思に声をかけている。

玉思も馬を怖がりもせず随分と楽しそうにしていた。

その隣に子雲が馬を並べている。三人は取り留めもなく話し続けていた。

前の淵も先導の役目そっちのけで振り返っては玉思に話しかけている。

玉思の口からこぼれる言葉をひとつでも多く自分に向けようと、大の男子が競い合っていた。

そんな四人の姿を、取り巻きの従者たちも暖かく見守っていた。

夏侯家の中で玉思がどんな存在であるのか。そこにそれが現れていた。

玉思の微笑は、女神のそれだ。

周りの皆を和ませることができる太陽の存在である。

夏侯家が曹操の親族としてどれだけの権力があろうとも、

惇や淵がどれだけの戦功を立てて敬われようとも、家の中では一人の男である。

家長の威厳さえ柔らかく溶かしてしまうほどに玉思の笑顔は輝いている。

人は人。本物の笑顔には敵うべくもない。

この狩りのことを惇や淵がどれだけ楽しみにしていたことか。

狩りをすると言い出したのは惇で、玉思や妻たちも連れ出すことにしたのは淵だった。

山野に出て家族で狩りをするのは、実に陳留以来十年ぶりのことだ。

親として子供たちの成長を見る絶好の機会であるし、

四方からの外圧が強まりつつある中で政務に追われる惇・淵に取っては又とない休息の場であった。

昨夜の食事の時にも、感情が表面に出がちな性格の淵は

狩りのことが楽しみで楽しみで仕方がない、という様子だった。

普段は冷静な惇でさえも、楽しみにしている素振りをみせていた。

大袈裟に聞かされている子雲や仲権の弓の上達ぶりや

他の子供たちの成長を見届けたかったのだろう。

そして、玉思と過す一日を楽しみにしていたのだろう。

なんのことはない、惇も淵も玉思の笑顔の虜になっていた。

山野に入ると従者たちが犬を放ち、獲物を茂みから追い出す。

その獲物に向けて子雲や仲権、従者に連れられた弟たちが矢を放った。

その様子を眺めて、惇・淵と妻たちが呑気な歓声を立てている。

一番多く獲物を射止めたのは子雲だった。

淵に比肩する腕とは到底言い難いが、子雲の弓矢の技は既に一人前だった。

仲権も少年とは思えない技を持っているが、子雲はそれを上回る技術を習得していた。

他の威・恵・和・楙の弟たちも小さな弓を抱えて走り回るがなかなか獲物には当たらない。

その様を見てまた惇たちは笑うのだった。

昼までに得た成果は鹿が二頭、野兎が四羽だった。

そのほとんどを仲権と子雲が獲っていた。

従者たちも代わり代わりに矢を放ったのにあまり成果が上がらなかった。

昼食の場で散々に誉めてきた玉思に、二人は小声でささやいた。

この山野はしょっちゅう二人で狩りにきているので、

土地勘もあるし、獲物がいる場所も分かっているのだ、と。

でもそれは秘密にしてくれよ、

みんなにこの山は初めてだと言ってあるから、と子雲は目配せをした。

それを聞いた玉思が嬉しそうに笑ってくれたことが、また子雲と仲権にとっての喜びだった。

昼食の最中に、淵の単騎駆けが始まった。

一矢でも外れたら今日は酒を飲まん、と宣言して矢を三本だけ持った。

見守る中で淵は野兎を一矢で仕留め、大きな野猪を次のたったの一矢で倒したのである。

三矢の技は圧巻だった。

ふと空を見上げ、雁の群れを見つけると先頭の雁を落とすと宣言し、

本当に射止めてしまったのである。

これには一同大きな拍手を送った。飛ぶ鳥を落とす技はまさに神弓である。

誇らしげに戻ってきた淵は、惇から盃をもらうと一気に飲み干して豪快に笑った。

玉思が酒瓶を持って淵の横に座った。

いよいよ楽しそうにして淵は玉思に酒をつがせている。

余程気分が良かったのか、淵は食後にまた馬を走らせた。

子雲は淵に同行を申し出て、二人で駆け出した。

仲権は惇と狩りを始めることにした。

朝酒を喰らってご機嫌の惇は自ら勢子の役を買って出たが、

歩いて獲物を追い出すのは面倒らしく、長棒を持って馬を走らせた。

叢から獲物を追い出すと、大声で仲権を急かし立てる。

「仲権!ほら、そこだ!早う射よ、兎が逃げるぞ!」

馬を野兎に平行させ、仲権が矢を放つ。

しかし、急に方向を変えた野兎を捉えることができず、矢は外れた。

「その程度の腕前か、仲権は!まだまだだのう!」

惇はからからと笑った。

「なんの!次こそは本気を見せましょう!」

仲権はむきになって言い返した。目を皿のようにして次の獲物を探す。

しばらくすると、棘から鹿が走り出してきた。

仲権の放った矢は見事鹿の背中に的中したが、

致命傷ではないらしく鹿はそのまま走って逃げようとする。

惇は長棒を投げ捨てると弓を手に取った。

惇の矢は重い音を立てて鹿の臀部に突き刺さり、鹿は倒れた。

「射たり!射たり!」

惇が誇らしげに弓を頭上にかざす。

「どうだ、仲権!まだまだお前の弱矢では敵は倒せんぞ!」

そう言われると悔しくなる。

なんとか惇の前でいいところを見せようと獲物を求めて森の奥まで馬を進めたが、

もう何も姿を現さなかった。

「そろそろ戻るぞ、仲権」

仕方なく仲権は惇と駒を並べて戻ることにした。

「――まぁ、午前中の成果だけでも上出来だ。あとは、それをどう戦場で活かすかだ。

雑兵はともかく、武芸の心得のある将には余程の矢でなければ通用せん」

それを聞いた仲権は喜んだ。

上出来――惇伯父にすれば最高の褒め言葉だ。

「伯父上は戦でどういう使い方をするのですか?」

ふと、仲権は尋ねてみた。

「そうだな、直接攻撃の補助だと思えばいい。お前の槍を助けてくれる頼もしい味方だぞ。

よいか、自分より強い敵は必ずいるものだ。

槍で敵わないと知ったら、矢で勝負することだってできる」

「自分より強い敵、ですか。聞かせて下さい、そんな男はいたのですか?」

「わっはっは!!」

この惇伯父が「自分より強い敵」などという言葉を発すること自体が不思議だった。

仲権がすかさず聞き返したが、曹操軍随一の猛将は笑って答えなかった。


「――面白いな!わしだよ、この夏侯淵妙才だ!」

その頃、同じ質問を子雲が淵にしていた。

曹操軍の斬り込み隊長は笑いながら答えたが、心は籠もっていなかった。

「小父上、ちゃんと答えてくださいよ、剛力王許褚殿ですか?悪来典韋殿ですか?」

「違う違う、元譲の槍か、わしの弓だ!

いいや、やっぱりわしの神弓だ!わしの矢をかわした奴など今まで誰もいないのだぞ!

そうじゃ、わしが最強じゃ!!」

淵はまた豪快に笑いながらそう答えた。

「小父上!!子雲は間違えました!小父上と、惇小父以外で最強の男は誰だったんですか?!」

「おう、子雲!いい質問だ。呂布だ!呂布奉先だ!」

子雲の質問が答え易かったからか、淵はすかさず名前を挙げた。

一方、その頃。

「伯父上!教えて下され!誰ですか?誰が強かったですか?」

「おい、仲権!目の前に最強の男をしているだろう?なんだ、その質問は!」

「でも、先程自分より強い敵は必ずいるものだ、とおっしゃったではありませんか!

そんな男は本当にいたのですか?伯父上が最強ですよね?」

「はっはっは!!」

「伯父上!!いないんですね?他に強い男はいないんですね?」

すると惇はこう言い捨てた。

「――呂布だ。あいつだけには敵わん!」

「呂布!!」

「呂布??」

子雲はその男を知っていた。仲権はあまり詳しくは知らなかった。

「子雲よ、強い奴はいる。

よいか、相手が強いと思ったら真正面から向かっていかないもの器量の内だぞ。憶えておけよ」

「承知しております、小父上。この歳でまだ死にたくはないですから!

しかし、呂布ですか。かねてより恐ろしい男だと話には聞いていましたが」

「なぁに、まともに槍を交えなければ良いのだ。わしの矢は呂布でもかわせんぞ!」

二人は家族の元へと馬首を返した。

一方、納得できない仲権は食い下がるように惇に聞いていた。

「え、呂布ですか?あの董卓の養子になったのに、その養父を殺した男ですよね?

そんな裏切者に強い男なんているんですか?」

「武に人間性は関係ないぞ。呂布が最強の武人だ。

お前が参軍していた戦ではないから知らぬかもしれないが、

徐州侵攻中、呂布に袞州を奪われた時があっただろう。

その奪回戦、あれはまだわしらが入朝する前、濮陽城でのことだった。

わしもあれだけは忘れられん。呂布は信じられないような一騎撃ちをしたのだ――」

遠い口調で惇は語り出した。

西暦百九十五年、濮陽城では曹操軍と呂布軍の戦いが行われていた。

呂布の奇襲によって己の城を奪われた曹操は全軍を上げ、躍起になって呂布を攻め立てた。

己を過信する呂布は籠城をよしとせず撃って出た。

呂布の勇名は、その乗馬である赤兎馬と共に天下に広く知れ渡るところであった。

呂布が前陣に姿を現すと、曹操軍の兵士たちがざわめき立った。

事実、赤兎馬の突進は誰にも食い止めることができないのである。

大地に荒々しく道を刻み込んで行く暴れ水のように、呂布の前の道は常に開けた。

振回す方天戟と、暴れ回る赤兎馬の蹄はそれだけで一軍にも三軍にも匹敵する凶器であった。

曹軍からは剛力王許褚が呂布の前に立ち塞がる。

だが、許褚ほどの武人でも呂布の方天戟にかかっては蟷螂の斧、時間稼ぎにしかならないのである。

形勢不利を見かねた悪来典韋がすかさず加勢に入る。

だが、この二虎を相手にしたところで一人の呂布は怯まない。

逆に呂布の方天戟は許褚の甲冑を掠め、典韋の双戟の片方を叩き落し、

赤兎馬の咆哮が両将の乗馬の足を震わせた。

曹操が左右に指示を出すと、さらに二人の武将が参戦した。

李典と楽進である。四将が総がかりになっても呂布は動じない。

五頭の馬が行き交う狭い空間でも呂布と赤兎馬の息は絶妙だった。

曹軍の四将こそ互いが互いの道を塞ぎ、思うように戦うことができない。

そこに曹操軍の右翼と左翼からそれぞれ躍りだした将がいる。

夏侯惇と夏侯淵だ。

この両雄まで加わって、ようやく呂布に余裕が無くなった。

とはいえども、そのまま数十合も戟を撃ち合わせると、遂に呂布は馬を退いた。

わずかな隙を見出すと、赤兎馬の駿足を活かして逃げを決め込んだのである。

濮陽城は曹操の手に戻った。

「――六人と渡り合う人間などわしは見たことがない。

わしは呂布の方天戟を受け止めた時の強烈な衝撃を今でもはっきりと憶えている。

槍を持つわしの手も痺れたが、馬の身体までが揺れたのだ。

剛力王も真っ青の力だ。

それにな、力だけではなく呂布が繰り出す方天戟の速さは尋常ではなかった。

怪力と早業を兼ね備えた恐るべき傑物だ。

あれはな、仲権。人ではない。武鬼だ。

その上、あいつの乗っている赤兎馬は名馬中の名馬、鬼馬だ。ますます敵わん」

仲権はその名前を繰り返した。

「――呂布。武鬼呂布と、鬼馬赤兎ですか」

「そうだ。よいか、仲権。このわしですら呂布には単騎で勝負はせん。

強い相手を強いと認めることも必要だぞ。勇敢と無謀を取り違えてはいかん」

「伯父上、良く分かりました。もとよりこの仲権、無謀はいたしません。

それにしてもそんな男が存在するのですか。

六人がかり、しかもその六人は曹操軍を代表する猛将たちなのに」

「おう、わしにとっても驚嘆以外の何事でもなかったぞ。武鬼呂布の名を覚えておけ」

「呂布、ですか」

「だがな!わしは呂布が大嫌いだ!あんな男は武人ではない!

利に目ざとく、裏切りばかりを繰り返す鼻つまみ者だ。

義を欠かしては武人ではない。あいつはただ己のことだけで生きている。

家名も、責務も守るものは何もない。あるのは己の欲望だけだ。

そういう意味であいつは武人ではなく、武鬼だ。ある意味で大した大馬鹿者だぞ!

――まぁ、こんな話はもうよい。さぁ、そろそろ戻るぞ、仲権」

そう言うと、惇と仲権の二人も家族たちの元へ帰って行った。

(――呂布。呂布か。どんな男なのだろう。

六将と戦っただなんて、それが本当だとしたら人間業ではない。

まさか、呂布こそが武の神なのではないだろうか?)

仲権はそう思った。まだ若い仲権にとっては武こそが武人の極みだった。

言葉で国を動かす曹操よりも、戦場で槍を振るう許褚や夏侯惇に英雄の姿を見ていた。

知らずと仲権は常に最強の男を探していた。

最強の男、武の神。仲権の憧れはそこにあった。

(惇伯父は武の鬼だと言った。神なら分かるが、鬼とはよく分からない。

本当に呂布こそが武神なのではないだろうか?)

惇伯父を前にして言える言葉ではない。

密かに武神の雄姿を想像し、仲権は呂布という男に強く興味を持った。

一方、子雲たちの帰り道では。

「――淵小父!いくら呂布個人が強くても、個人の蛮勇だけでは軍としては駄目でしょう!

ならば別に恐れる必要なんてないですね!」

馬を走らせながら、そう言って子雲は笑い飛ばした。

「それがな、そうではないのが呂布なのだ」

「えっ?」

子雲は驚いた。

「確かに呂布自身は智に乏しい男だ。

ただ、何故かあんな暴君にも有能な部下がいてな、武将では高順に張遼という豪傑がいる。

加えて陳宮という男が知恵袋となり軍を指揮している。

この陳宮がまた切れる男でな、呂布に袞州奇襲を唆したのもこの陳宮だと聞いている」

「なるほど。最高の駒と、それを操る知能が両立しているのですか。

しかし、呂布のような飢狼に何故そんな智謀の士がついているのか不思議ですね!」

「おう、子雲。お前にもっと不思議なことを聞かしてやる。

その陳宮という男はかつて曹丞相の命を救ったことがある人物なのだ!」

「えっ?!」

子雲は本当に驚いていた。

「曹丞相――ええい、面倒だ。

孟徳、がまだ洛陽で都仕えをしていた時に

董卓暗殺を企んで失敗したことがあるのはお前も知っているのだろう。

洛陽から逃げた孟徳に対して董卓は賞金つきの手配書を各地にばら撒いた。

中牟県の関所で孟徳は正体を見破られて捕まったのだが、そこの隊長が陳宮だった」

「旧知の間柄だったのでしょうか?」

「いや、陳宮が以前に洛陽にいた時、孟徳の噂を聞いて一方的に興味を持っていただけらしい。

捕まえられた孟徳に陳宮がこっそりと近付いて大志を訊ねたという。

孟徳が語った大志に賛同した陳宮は、賞金も官職も家族すらも捨てて孟徳と一緒に逃げたのだ」

「しかし、そんな男は陳留の旗揚げの時にはいませんでした」

「そうなのだ、そこが謎なのだ。一体、逃亡中に二人の間に何が起こったのか。

大志を共感し合った二人がどうして今敵対しているのか。

それが分からんのだ。孟徳はちっともそこら辺を語ってはくれん」

「――そうですか。願わくば、そんな相手とは戦いたくないですね」

「そうだな、呂布とは当分戦いたくない。

だが、いずれは戦わなくてはならなくなるのだろう。

いつになるのか分からぬが、いつかきっとな。

その前に、我々には袁紹という敵がいるぞ。

それに、ほっておけばきっと呂布は自滅する。

あいつの性根は腐っているからな!――さぁ、戻るぞ、子雲」

戻ると、惇と淵は妻たちと杯を交わし始めた。

もう狩りをするつもりはないらしい。


子雲は玉思を誘って鞍の前に乗せ、馬を走らせた。

その前を仲権が走り、獲物を射る。

狩りの雰囲気をもっと体感したいと言い出した玉思に応えようとしたのだ。

茂みから飛び出してきた野兎を追って、仲権が馬を飛ばす。

一目散に逃げる野兎の小さな身体に矢を命中させるのは難しい。

仲権は二矢まで放ったが、野兎は深い繁みに逃げ込んでしまった。

「なんだ、仲権!だらしないなぁ!!」

「お兄様!頑張って!!」

後ろの馬から浴びせられる笑いと声援を聞いた仲権はむきになった。

馬を走らせ、獲物を探し続けた。

鹿の親子の姿を見つけた仲権が馬を寄せる。

鹿の親子は飛び跳ねながら逃げ回ったが、

ふと小鹿が逃げる方向に迷ったのか立ち止まってしまった。

その隙を逃さず小鹿に矢を定めた仲権だったが、

すかさず母鹿が子をかばうようにして小鹿の前に立った。

「今だ、仲権!」

後ろを駆けていた子雲が声を出した。大きな母鹿を射止める絶好の機会だった。

しかし仲権は矢を放たなかった。鹿の親子は森に逃げ込んだ。

「どうした、仲権!手柄を逃したぞ!」

すると仲権はさみしそうに答えた。

「今のは駄目だよ。誰でも当たる」

優しい仲権であった。子を庇う母鹿を見て、矢を放てなくなってしまったのだ。

突然、仲権は空を仰いだ。見ると、数羽の雁が列になって森の上空を飛んでいる。

「あれだ!見てろよ!」

そう言うと仲権は弓を引き絞り、狙いを定める。放たれた矢は最尾の雁に命中した。

「おお!!」

「わぁ、凄い!」

子雲と玉思が大歓声をあげた。父譲りの見事な腕であった。

子供にできる技ではない。さすがの子雲もびっくりしていた。

「やるじゃないか、仲権!さすがの僕でも鳥には一度も当てたことないのに!

なんだ、玉思がいると力の入り具合も違うのか?」

余計なことを言われて、仲権は少し顔を赤らめた。

(……いや、本当は一番前の雁を狙ったんだけどなぁ。まぁ、いいや)

あえて仲権は黙っておくことにした。正直者の仲権には珍しい。

馬を寄せ、落下した雁を自慢気に玉思に見せる。

「空の鳥を射ることは凄いんだぞ。僕が獲ったんだ!」

「お兄様、凄い!玉思は驚きました!!」

玉思は大きく手を叩き、散々に仲権を褒めた。

仲権は嬉しそうに笑って、雁を掲げた。

それを子雲の方に見せ、どうだ、という悪戯な表情をする。

子雲は露骨に悔しそうな顔をした。

「――よし、仲権。あの場所に行こうぜ。」

突然、子雲が馬を走り出させた。今度は仲権が後ろから続く。

「お兄様?どこに行くのですか?」

首を後ろに捻って、玉思が子雲に聞いた。

「――玉思。この前、面白い場所を見つけたんだ。びっくりするような景色を見せてあげるよ」

子雲は優しい声で、玉思にそう言った。

二頭の馬は道を登り、山頂付近まで走った。

道なき道を抜けると突然森が切れ、目の前が開けた。

子雲は馬の足を止め、遠くを指差す。

「玉思、あれが許の都だよ。見えるかい?」

子雲の指の先、遠くに見えるのは四方を城壁に囲まれた都であった。

随分距離があるからはっきりとは見えないが、

平野の一角に、白色の壁に囲まれた四角の地帯がある。

空は厚い灰色の曇に覆われていたが、

ちょうど許都の上空の雲の隙間から眩しい光が許都へ差し降りている。

天から降り注がれるその細い光は、地上に近付くほどに太くなり、

四角い許都の空間を照らし出した。

仲権は子雲の馬の横に並び、その景色を眺めていた。

以前、狩りをしている途中で偶然見つけたこの場所。

他のどの場所よりも美しく許都を見渡すことができる場所だった。

玉思は瞳を輝かせて眼下の光景を見つめていた。

玉思にとってこんな景色は生まれて初めてだった。

「子雲お兄様。仲権お兄様。あれが、私たちの住む許都なのですね。

なんと美しい都なのでしょう……」

子雲と仲権は、玉思を見つめた。

まだ十一歳になったばかりの少女のあどけない顔。

日の射さない森に光る白い肌。

玉思の広い額の左右に流れる真っ直ぐで美しい髪。

両瞳は玉を思わせるが如く煌いている。

内面の美は外面にまで染み出すものであろうか。

子雲も仲権も、物心ついた時から玉思と一緒にいた。

彼女が淵の実子でないことも知っていた。

子雲にとっては姪、仲権にとっては妹として接してきたが、

玉思が許都に移ってきてからは家族の一員としてだけではなく、

別の意味で彼女を見始めるようになってきた。

恋と呼ぶには幼過ぎる。恋としては潔癖過ぎる。

少年の初恋は、恋ではない。信仰である。理想に対する夢想の世界である。

具体的なものなど何も伴わない。伴う必要がない。

数年ぶりに一緒に暮らすことになった玉思は、家を太陽のように照らす存在になっていた。

剛情な惇でさえも、玉思といるときには笑った。

子供を愛する気持ちの強い淵に至っては、

それこそ目の中に入れても痛くないような可愛がり方をした。

男子が多い夏侯家はいつも無口になりがちであった。

そこにたった一人の少女がいるだけで家が明るくなった。

二人にとって、そんな玉思は天女に見えていた。

仲権はこの山上からの景色をいつまでも忘れることができなかった。

子雲や玉思と一緒に見たこの美しい景色。

それはいつまでも、いつまでも愛しい思い出として胸底に残り続けたのだった――。


三人は山を下って、家族の元へと戻ってきた。

見ると、従者たちが慌しく身支度をしている。

三人の姿を見つけた惇がすっ飛んできて言った。

「子雲!仲権!火急の呼び出しだ!すぐ戻るぞ!」

子雲と仲権は顔を見合わせた。

「何だろうね、子雲。良いことだといいんだけど」

「いいや、悪いことだよ。わざわざここまで使いが来るぐらいだから。早く帰ったほうが良さそうだ」

惇と淵は全員をまとめると急いで戻り、城門をくぐるとその足で出仕していった。

家に戻って落ち着く間もなく惇と淵が馬を走らせて戻ってきた。

子雲と仲権は慌てて庭に出て二人を迎える。

「恩!覇!戦だ、すぐに用意をせよ!明日の早朝には出立するぞ!」

馬を降りるのももどかしそうに物凄い早口でまくし立てると、

惇は部屋に引っ込んで行った。

家臣たちが後を追う。歩きながらも惇は指示を出していた。

淵は一旦立ち止まり、振り向きざまにこう言い残した。

「呂布だ!小ハイの劉備の内応が呂布に見つかって軍勢に囲まれたそうだ!

劉備を救って、呂布を成敗するぞ!」

「承知しました!早速出陣の用意をします!」

それだけ言うとやはり淵も足早に自室に戻っていった。

指示を待つべく家臣たちが後を追う。

「驚いたね。敵は袁紹じゃない」

仲権は言った。子雲も同感だった。

許都は東に袁術と呂布、南に劉表、西に張繍、北に袁紹と四方をぐるりと敵対勢力に囲まれていた。

中でも北の冀州に展開する袁紹が最大の敵であった。

その袁紹から兵糧と軍兵の借用を求める使者が来たのは二人も知っている。

ついこの前の張繍との戦いの最中には留守の許都を狙う不審な動きを見せていた袁紹だったが、

曹操が急いで帰京すると今度は手の平を返したように平然と使いを寄越してきた。

それは自分が幽州の公孫瓚と戦を起こすのに兵力が足りないから協力しろ

という勝手な内容で、その上親書の文章は傲慢極まりなかった。

それは脅迫であった。

曹操からの返答内容そのものが、今の袁紹と曹操の力関係を

事実化させる意味を持つことになるのであった。

この重大な岐路を前にして、曹操は広く幕僚たちの意見に耳を傾けた。

その結果、軍兵は協力しなかったが、相当量の兵糧や軍需品を与えた上で、

袁紹が既に実質的に支配している冀・青・并州に加えて幽州の都督に任じる旨を帝に上奏した。

幽州は公孫瓚の領土であるから、物資での援助に加えてご丁寧に戦の口実までお膳立てしたのだ。

曹操は忍耐のできる君主であった。国力では曹操は袁紹に及ばない。

袁紹は広大な北の三州を支配する名門であり、臣下には有能な文武の将も多い。

袁紹単体の攻撃ならばまだ迎撃できる自信が曹操にはあるのだ。

だが、曹操の敵は四面にいた。

袁紹と連携を取って侵入されてはいくら曹操とはいえども手に負えない。

今袁紹と事を構えるのは損であるというのが曹操の最終結果であった。

まずは袁紹よりも近隣勢力の討伐が先であった。

曹操は恥を忍んだ。

だが、いつかそれ以上のものを袁紹に返してもらうつもりの曹操であった。

まさか己の一方的な要求が通るとは本気で思っていなかった袁紹は、

上機嫌になって幽州へ進軍する。危機は回避されたのである。

すぐさま曹操も動き始めた。

真っ先に目をつけたのは、最も危険性の高い呂布であった。

曹操からすれば袁紹との二面作戦を取られない限り脅威になる相手ではないが、

なにしろ呂布は最強の武人であり、爆発力がある。

周囲の敵対勢力のうちでは最初に排除しておきたい癌であった。

その呂布の客で、以前より通じている劉備に曹操は内応を呼びかける。

だが不運にもその密使が呂布軍の手に落ちてしまう。

この機会に賭けていた曹操は焦った。

袁紹が北に目を向けているうちに、せめて呂布を討っておく必要があった。

そこで大至急、劉備救援軍が編成されたのである。

劉備内応は秘策中の秘策であったから、当然子雲や仲権が知っているはずがない。

「まぁ、曹丞相が判断されたことだ。

僕たちには分からないが、相当の必要性があってのことだろう。

おい、仲権。それよりもな、明朝立つということは先鋒隊として強行するということだろう。

淵小父の専門分野だからな。

敵に包囲された裏切り者を救い出すために急行する盾の役だ。これは厳しい戦いになるぞ」

さすがの子雲も心配そうな口調だった。

「ましてや相手は呂布だろう?

実はさっきの狩りの最中に惇伯父と呂布のことを話していたんだ。

あの惇伯父が、いいか、あの猛将夏侯惇がだぞ、

呂布のことを自分より強いと言ったんだぞ!こんなことあるか?!」

「ほう、面白いな。実は、淵小父ともそんな話をしていたんだ。

同じだよ、淵小父も呂布だけには敵わない、って言っていた。

どうするんだろう。劉備軍にも関羽・張飛という勇将がいると聞くが

呂布に攻撃されれば木っ端微塵だろう」

「どうするんだよ、子雲!時間稼ぎと盾になるために惇伯父や父上は戦場に行くんだぞ!

僕たちも何か役に立たないと!」

仲権は内心穏やかではない。

「違うなぁ、仲権。僕らが何かをしようとしてもまだまだ足手まといになるだけだ。

せめて惇小父と淵小父に迷惑をかけないようにすることだな」

いつも通り子雲は冷静だ。

「いやいや!あの惇伯父でさえ敵わないと思っている相手だ!

何かしないと!何かしないと惇伯父も父上も危うい!」

「大丈夫だよ、そんな心配はないに決まっているだろう?

役に立つとか立たないとかじゃなく、邪魔さえしなければ大丈夫だって!

おい、仲権!そんなに堅く考えるなよ!」

いてもたってもいられなくなった仲権はとりあえず部屋へと歩いていた。

子雲の声すらも聞こえていない。

その思いつめた背中に向けて、子雲が落ち着いた声で再度呼びかけた。

「すぐに仕度をしておけよ、仲権。明日の朝には一番で家を出発できるぐらいの気構えでおこうな」

仲権の心は既にここにあらず。返事もせずにいそいそと歩き去っていった。


翌朝、日の出と共に先発隊は許都を発った。

兵力は五万。大将は夏侯惇、副将に夏侯淵と李典。

呂布軍に包囲されてしまった劉備の小ハイ城が陥落する前に、何としてもたどり着かなくてはならない。

夏侯淵の得意とする急行の技を活かして、軍は急ぎに急いだ。

子雲と仲権は夏侯惇の陣にいた。

今までの戦ではずっと夏侯淵隊に付くことを命令されていたが、

今回は遂に憧れた戦いの現場に配置された。

今は淵が先陣だが、敵地に着くと淵と惇が入れ替わる。

二人の喜びはいつになく高まった。

自分の画策した弓術の吹聴と喧伝が功を奏したからだと、子雲は大きな顔で言う。

喜びだけではなく、不安も高まっていた仲権はそれを適当にあしらいつつ、

やはりまだ考え込んでいた。

――この戦で、僕にできることは何だろう。何もしないわけにはいかない。

生来真面目で優しい性格の仲権である。

惇や淵がそう思っていなくとも、自分はもう一人の武人であるという意識が彼にはあった。

背伸びしているわけではないが、既に大人の武人として戦場に赴く以上は、

伯父や父並みに働かなくてはならない。そう仲権は思っていた。

夏侯惇軍は昼夜をおして小ハイ城へと急行した。

徐州に着くと物見から連絡が入る。

小ハイ城を包囲していたのは呂布本人ではなく高順であった。

夏侯惇軍の来襲を知った高順は城の包囲を解いて陣を構える。

小ハイ城陥落を防ぐという目的の第一段階が計らずとも叶ったことで

やや落ち着きを取り戻した夏侯惇軍は、高順軍を目前にして休息を取った。

その夜、子雲と仲権は歩哨を命じられた。

良家の子弟が見張りの番を務めることは通常では考えられないが、

夏侯惇の命令とあっては二人も従わざるを得ない。

子雲は渋々、仲権は黙って任に就いた。

二人は惇や淵たちが眠る本陣の前門に立った。

左右の篝火の元で、矛を立てて屹立する。

兵士も馬も強行軍に疲れて熟睡しているのだろう。

辺りには静かな闇だけが立ち込めていた。

しばらく真面目に役を務めていたが、飽きたのか子雲が小声で話しかけてきた。

「おい、仲権。何で僕たちがこんな雑用をしなくちゃならないんだ?

淵小父から何か聞いていないのかよ?」

子雲にこういう地味な役は合わない。

惇の前では大人しく命に従ったが、やはり不満があるらしい。

「聞いてないよ。逸をもって労を撃つで、

今夜あたり高順軍が夜襲してくる可能性があるからそれに備えてだろう?」

「そんなのは最初から分かっている。

問題は、なんで僕たちを選んでこの雑務を命じたかだ。仲権、君は不思議じゃないのか?」

「惇伯父は叩き上げの武人だから、僕たちにもこういう戦の基礎を経験させようとしたんだろう。

黙って立っていればいいんだよ。それとも眠いのか?

夕方ちゃんと眠っておいただろう?眠いなら帰ってもいいんだぞ。一人いれば十分だ」

今夜の仲権はなかなか厳しい。

「眠くて仕事を放棄するような夏侯恩ではない!

――まぁいい。ここは黙って役割を務めてみようか」

二人は黙ってそのまま闇の中に立ち続けた。

篝火の燃える音と、底のない暗闇。

その繰り返しだけに囲まれていると、仲権は気になっていたことがますます気になってくる。

(……呂布。呂布が武神か)

それはまだその道に足を踏み入れたばかりの若者らしい考えだった。

強い男に憧れ、誰が最強を決めたがる。

人を操るだとか、軍を率いる才覚などは目に入らない。

槍を取ってどれだけの敵を蹴散らすか、それが強さの焦点であり、そこに人の偉大さを見出していた。

(見てみたい、武の神を。曹丞相よりも偉大な男か。惇伯父や淵父上と比べるとどうなのだろう)

仲権は自分の考えを微塵も疑っていない。

だが、ふと隣の子雲がどう思っているのかを知りたくなった。

「子雲、子雲。呂布はどういう男だと思う?」

声を潜めて聞いてみる。

「いや、善くやっているほうだろ」

引っかかる言い方だ。

「善くやっている?呂布のことだよ?」

もう一度聞いてみる。

「そうだよ。でも、楽しみだよな。天下無双で鳴らした呂布もいよいよ最期だ。興味があるな」

「……そうか。僕も興味あるよ」

そう合わせてみたものの、仲権には武神の最期の姿は想像できなかった。

まだその名前しか知らない最強の戦士。

敵を敬うのは自軍への裏切りではないかという自責の声に少し躊躇しながらも、

仲権は呂布の勇姿を空想していた。

それから二人が闇の中で佇むことしばらく、真夜中を過ぎた頃だった。

本陣から一人の男が歩いてきた。夏侯惇であることはすぐに分かる。

近付くと二人の顔を瞬間的に見渡し、短く言葉をかけた。

「――ご苦労。恩は明日、淵の陣におれ。覇はわしと一緒に来い」

そう言い終えるなり惇は本陣へと戻ってゆく。その背中に子雲が声をかけた。

「敵の高順はどういう将ですか?」

惇はゆっくり振り向くと、数歩二人に近付いた。

思い掛けないほど落ち着いた口調で淡々と語り始める。

「呂布には勿体ないほどの名将だ。どうして呂布如きに仕えているのか不思議だ。

高順と張遼。この二将軍が呂布軍の双璧だ」

「名将ですか!呂布の下に有能な部下がついているのですか!」

子雲は驚いた様子だった。

「そうだ。よいか、恩も覇も覚えておけ。呂布は強い。それも尋常ではない強さだ。

あいつと正面から戦って勝てる男はこの世にはいないだろう。

無論、わしを含め曹操軍の中にもいない。

だがな、いくら武勇があろうとも義を知らない男は必ず滅びる。

呂布は裏切りを繰り返してきた。そういう男は滅びる運命にあるのだ。

高順も張遼も名将だが、惜しむらくは使えるべき主を誤った」

思いがけず惇が雄弁を振るう。子雲も仲権も聞き入った。

「呂布は欲望の虜になった狼のような男であるが、

だからと言ってその配下が同じ穴の狢とは限らない。

高順・張遼、この二人は忠義の士だ」

とりわけ、高順は清廉潔白の将として知られていた。

高順は酒を飲まなかった。酒を飲む暇があれば楽曲を聴き、歌った。

武功を讃える酒席などには参加したが、好んで酒を飲むことがない。

飲めないということではなく、飲んで己の冷静が崩れるのを嫌ったという。

また、不正な贈り物は決して受け取らなかった。

武具は手入れが行き届き、兵も統率が取れていた。

部下からの信頼も厚く、何事にも慢心することない武人であったという。

「わしにとってこの戦いは、高順と張遼に捧げる餞だ。

彼らの意思を最後まで遂げさせてやろうと思っている。

それに、もし可能であれば孟徳に仕えてもらおうとも思っている」

「高順は討ち取らないのですか?」

惇は何も言わなかった。

「まさか、敵に対して情けを抱いているわけではないですよね?」

「――違うぞ、恩。わしは明日、高順を一騎撃ちで討ち取る。

高順には『陥陣営』という異名がある。

戦えば必ず敵陣を陥れるという意味で、軍略に長けた男だ。

わしも今までかけて万全の布陣を練ったが、戦って必ず勝てるという保証はない。

一番確実なのは、一騎撃ちで首を挙げてしまうことだ。個人技ならばわしは決して負けん」

その言葉を聞いた子雲は大きく頷いた。

「遠慮などせん!最も被害のない方法で倒す。

戦の鉄則だ。二人とも明日はよく目に焼き付けておけ」

そう言うと惇は本陣に戻って行った。

子雲は満足そうに惇の後姿を見つめていた。

仲権には何か思うところがあるのだろう。朝まで黙って篝火を眺めたままだった。


翌朝、夏侯惇軍は前進して高順軍に対陣した。

夏侯惇と高順が前に出てきて、戦の儀式である主将同士の主張を交わす。

「高順!勅命を掲げた我が軍を妨害する者は天下の逆賊であるぞ!」

「ほざけ!童子でも曹操こそが天子を悪用する姦賊であると知っておるわ!

大義は我が軍にこそある!」

互いに定石通りの理を叫ぶ。

高順の言葉が終わるや否や、夏侯惇が馬を煽って高順の前に飛び出した。

それを見た高順も馬を駆って、夏侯惇と槍を交えた。

両者の槍が繰り出されること十数合。両雄が槍をぶつけ合う音が響く。

勝負はつかないが、高順の槍先がやや乱れ始めてきた。

ここぞとばかりに夏侯惇は肩を怒らせて槍をしごく。

たまらじとばかりに高順は馬を退いて、自陣に逃げ込もうとする。

夏侯惇は追いながら、大声で高順を挑発した。

「陥陣営」の名は高順個人の才覚を指すものだけではなく、

高順直属精鋭部隊七百名の戦績を賞賛して名付けられたものだ。

その「陥陣営」に逃げ込まれては討ち取る機会が失われてしまう。

ふと、夏侯惇陣営から一頭の騎馬が飛び出した。

身体は一人前に出来上がっているが、風貌にはまだ幼さが残っている。

夏侯覇仲権である。

高順の逃げる方向に勢い良く突進して、大声で名乗りを上げた。

「我は夏侯覇であるぞ!高順とやら、この青二才の槍を受け止める勇気すらないのか!」

だが高順は夏侯惇や夏侯覇の挑発に反応せず、そのまま陣中に逃げ込んだ。

追いかけてきた夏侯惇は「陥陣営」に悔しげな視線をくれると馬速を落とす。

だが、夏侯覇の馬はまだ速度を緩めようとしない。

夏侯惇は素早く横に視線を送り、夏侯覇に注意を促そうとした。

――その瞬間、「陥陣営」から矢が飛んできて夏侯惇の左目に突き刺さった。

射たのは「陥陣営」の部将・曹性だった。

自分の矢が敵将に命中したのを見て、曹性は勝利を確信する。

主将の負傷を見て夏侯惇軍は動揺するに違いない。

もうこちらのものだ、そう思った。

曹性のみならず高順軍の誰もがそう思った。

矢を浴びた夏侯惇は声も上げず、鐙をしっかりと踏みしめて落馬を堪えた。

そして、残った右目で鬼の形相をして曹性を睨むと、自ら矢を引き抜いた。

するとなんとしたことか、引き抜いた矢尻に左目までもが付いてきてしまった。

夏侯惇は矢に刺さった球体を見るとすぐさま突風のような声で叫んだ。

「父母が与えてくれたこの身体、捨てるところなどない!!」

そして、矢尻を逆さにすると目玉を喰らった。

左の眼窩から血を流し、口元からも血を滴らせながら、右目でもう一度曹性を睨み付けた。

夏侯惇のこの凄まじい様を見て、両軍の兵は凍てついた。

夏侯覇も思わず馬を止めて夏侯惇の動作に見入っていた。

夏侯惇軍に動揺は生じなかった。

いや、逆に敵将を負傷させたことで本来は有利となるはずの高順軍の方にこそ不気味な緊張が走った。

なにせ、夏侯惇は己の目玉を喰らってしまったのである。

夏侯惇は咄嗟の行動で、見事に自軍の混乱を防いだ。

高順軍で一番動揺したのは、矢を射た当の曹性である。

真っ赤に染まった眼窩で夏侯惇に睨み付けられ、心を宙に飛ばした。

「貴様!我が目玉の価値を知れい!!」

突進してきた夏侯惇の槍を受け、一撃で曹性は絶命した。

その場で四方を睨みまわす片目の修羅の姿を見て、高順軍は言葉を失っていた。

形勢逆転である。空気は夏侯惇軍寄りに動き始めようとしていた。

だが、その中で土煙を上げて夏侯惇に近付いてきた一騎がある。

槍を構え直した高順であった。

高順は無言で夏侯惇に撃ちかかった。

夏侯惇も槍を合わせて迎撃するが、片目を失っては距離感がつかめず、

高順の槍先を受けきれるものではない。

危機を見かねて夏侯覇が助けに入ろうとする。

そこへ高順の背後から「陥陣営」が突撃してきた。

さすがは高順である。夏侯惇が立て直した気勢を一気に反転させた。

「覇!軍を退けい!貴様が指示しろ!」

夏侯惇が大声で夏侯覇に指図する。

夏侯覇が慌てて自陣に馬を返す。

「退け!退け!!一旦態勢を立て直すぞ!!」

声を震わしながら、喉から声を振り絞って夏侯覇が絶叫する。

数合時間稼ぎをしていた夏侯惇も自陣に逃げ込んできた。


決定的な勝機を悟り、高順と「陥陣営」がその後ろから雪崩れ込んできた。

怒涛の突撃を受けて、夏侯惇軍は崩れる。

執拗な高順軍の追撃によって無惨な敗北を重ねてしまい、夏侯惇軍は小沛城から遠く退いた。

高順は夏侯惇軍を壊滅させるや否や、軍を返して小沛城の前に陣取っていた劉備軍に当たった。

勝ち戦の勢いがあるうえに、呂布と張遼も合流したから堪らない。

劉備軍は完膚なきまで叩きのめされ、散り散りになった。

分が悪いと見たのか、小沛城に残っていた兵も降伏する。

こうして曹操軍先発隊は使命を果たせず、最悪の結果に終わったのだった。

呂布が小沛城を手中に収めた頃、

夏侯惇軍は州はずれの小城に入って、曹操本隊の到着を待っていた。

あれから仲権は泣きはらしていた。

惇伯父の油断を招いたのは自分だと、人目を憚らずに大泣きした。

惇や淵の前で何度も懺悔しては罪を請うた。

しかし、惇も淵も仲権を相手にせず、適当に慰めるだけだった。

仲権のせいかもしれないが、仲権のせいだけではないからだ。

詫びて許されるものでないと分かっていても、仲権は謝り続けた。

毎日床に来て酷く涙を流す仲権を見て、いくらか面倒臭そうに惇は言う。

「わしは己の役を果たしたまでだ、勝敗は平家の常、気にするな」と。

だが、それを聞いた仲権はますます己を責めるのだった。

子雲は、そんな仲権に対して責めもせず、かと言って慰めもしないのだった。

それがまた、仲権の心を苦しめた。

大人の二人がはっきり言わなくとも、子雲だけにははっきり責められたほうが気は楽になっただろう。

しかし、子雲までもが何も言わないのだった。

惇が高順を追ったとき、仲権は高順を逃がさないようにするために

己の身を餌にして突進したつもりだった。

まだまだ子供である自分から逃げては「陥陣営」の名折れだと、

高順が逃げるのを躊躇するのかと思ったのだ。

しかし、高順はあくまで冷静だった。

逆に己の勝手な行動が惇のいらぬ注意を引いてしまい、左目を奪ってしまう結果になった。

片目を失うとは戦場に生きる将軍としては大きな損失である。

その重さを受け止めることができるほど、仲権は成人していなかった。

間もなく曹操本隊が合流した。

出迎えもできない状態の夏侯惇を心配して、曹操は夏侯惇を病床まで見舞った。

「元譲。どうした、お前らしくもない。やはり高順は強かったか」

曹操が笑いながらおどけてみせると、夏侯惇は苦虫を噛み殺したような顔になってそっぽを向いた。

今度は曹操が真面目な顔になって言う。

「――しかしな、元譲。片目を失ったからといって腐るなよ。

よいか、ひとつの感覚が失われたことで、他の感覚が鋭くなる。新たな才能を開花させてみよ!」

「言われなくとも分かっているぞ、孟徳!少し油断したわ!

次は高順に呂布も合わせて討ち取ってやる!!」

「そうはいかぬ。元譲、まずは許都に戻って養生に専念せよ。

冀州の袁紹を討つにはお前が必要だ。それまでには万全の体調にしておけ!」

曹操は強い口調でそう言い残すと、部屋を出た。

すると廊下に平伏している者がいた。仲権である。

「私の不注意で、夏侯惇将軍に重傷を負わせてしまいました!

私の罪は万死に値します。どうぞ私に罪を申し付け下さい!」

曹操は鼻先で笑った。

「乳臭児!下らぬことを申すな!

よいか、そんな小手先のことだけに囚われず全体の目的を把握して行動せよ。

貴様の責務はそんなことではないぞ!」

そう言い残すと、曹操はずかずかと歩き去っていった。

(……責務。責務と言った。僕の責務とは何だ)

分からなかった。仲権には新しい悩みが増えた。

間もなく惇は許都に戻った。淵は子雲と仲権を留めて曹操本隊に従った。


先鋒を曹仁に交替した曹操軍は呂布が立て籠もる徐州城に押し寄せた。

徐州の名士で陳珪・陳登という親子がいる。

今は呂布の重臣であるが、陳親子は徐州の将来のためには

呂布以外の主を迎えるべきだと思っていた。

曹操軍が押し寄せるのを見た陳親子は、時機到来とばかりに曹操軍に内応し、

徐州の各城に偽伝を流す。

陳親子の巧みな情報操作によって小ハイ城が危ないと思い込んだ呂布は

赤兎馬に乗って徐州城から出撃した。

小ハイ城に駐屯していた高順・張遼は徐州城が陥落寸前との伝令を受けて、小ハイ城を出た。

曹操軍の伏兵はすかさず徐州城と小ハイ城を奪う。

さらに、夜闇の行軍で相手の旗が見えなくなっていたこともあり、

目の前に現れた軍を敵と勘違いした呂布と高順・張遼は同士討ちを起こしてしまう。

陳親子に裏切られたことを知った呂布は唯一残った下ヒ城に立て籠もった。

要害に立つ下ヒ城は、曹操軍が攻め立ててもなかなか落ちない。

籠城は二ヶ月にも及んだ。

長期戦を覚悟した曹操は水攻めを行い、近くの河の流れを変えて城内に水を流れ込ませた。

だが呂布は怯まない。

何故ならば、彼の乗る赤兎馬は水中ですら平地を走るが如し。

恐れるものは何もないのである。

しかし、長期間の籠城が呂布の短所を浮き上がらせることになる。

目をかけていた陳親子に裏切られたことで呂布は人を信じることができなくなっていた。

どうしていいのか分からず、酒に耽る。

厳しい言葉で諌めてくる高順を冷遇し、兵権を他の将に委ねてしまう。

軍師陳宮の意見にも耳を貸さなくなっていた。

ある時、呂布は鏡に映った己の荒廃した表情に気が付く。

するとその衝撃の大きさに、呂布が持つ類まれな武の魂が蘇った。

禁酒令を出し、自ら方天戟を持って城内の警固に当たるようになる。

しかし、他人を信じることができないのは変わりない。

呂布のこの行動は軍紀の引き締めには繋がったが、

同時に呂布が自分だけの殻に閉籠もることを決定的にさせた。

城内には終息感が漂っていた。

だが、呂布の武は決して終わらない。

いくら曹操が攻め立てようと下ヒ城は落ちないのである。

呂布の武の城が落ちなくとも、呂布の人の城は既に落ちていた。

城内の暗い空気を見兼ねた部将の侯成が、呂布に酒宴の許可を求めた。

兵士に酒を振舞って士気を鼓舞しようとした善意の行動であったが、

禁酒令の当事者である呂布は激怒した。

腹心の将がこぞって命乞いをしたお蔭で死刑は免れたが、侯成には百杖の罰が課せられた。

呂布のあまりの仕打ちを見兼ねた同僚の宋憲と魏続が、侯成と投降を計った。

まず侯成が呂布の命ともいうべき赤兎馬を盗み出して曹操に投降し、城内への一斉突入を促した。

城内では宋憲と魏続が密かに開門の用意を整えていた。

慎重な曹操ではあるが、侯成が引いてきた馬が本物の赤兎馬であることを見ると事態を察する。

すぐさま全軍に呼びかけて城へ押し寄せると、内応の印である白旗が上がり下ヒ城は開門された。

士気低迷も著しかった呂布軍の兵士である。

堅固な城壁を破られては最早曹操軍への抵抗の気持ちは薄かった。

両軍入り乱れる大混乱の中、大半の兵士が投降する。

宋憲と魏続は張遼を急襲して捕虜にすると早々と城を下った。

陳宮は徐晃に捕らえられた。

呂布軍の将はそれぞれ討ち取られ、捕虜となり、また降伏した。

しかし、突入からいくら経っても呂布捕縛の知らせは届かなかった。

今や下ヒ城は曹操軍の手中にあった。

城内の要所には曹操軍の旗が翻り、四門は全て曹操軍が封鎖した。

最早城内脱出も叶わない状態である。

だが、半日近く経っても縄目を受けた呂布の姿は一向に見当たらない。

いや、呂布だけではない。高順の姿もなかった。

「――伝令!敵将呂布は未だ主閣に立て籠もったまま、抵抗を続けております!」

「――まだか!まだ終わらぬか!」

先陣の曹仁は焦っていた。

「おい、前陣の曹純までもう一度行ってこい!とにかく急げ、と伝えよ!」

折り返し伝令が走る。曹仁は落ち着かない。

腰も下ろさず右往左往を続けていた。

先鋒役を命ぜられた以上呂布を捕らえるのは曹仁の仕事であった。

だが、なかなか良い知らせが入ってこない。

時間だけが過ぎてゆく。事態は進展しない。

その間も前陣の曹純からは頻繁に伝令が届いていた。

「――ご報告!曹純殿は主閣を完全に包囲しております!

呂布に逃げる隙間はありません!吉報をお待ちください!」

「――申し上げます!我が隊も突撃しておりますが、

呂布の抵抗を破るまでに今しばらくの時間が必要と思われます!」

「――呂布の方天戟は絶倫にて、苦戦が続いております!」

狭い主閣の周囲は曹仁と弟の曹純の兵に取り囲まれていて、

他の隊が入り込む余地すらない。

開門されると同時にそこまでは電光石火の早業でこなした。

だが、それからが長い。

「どうした、曹純?あとは呂布一人だけだぞ!」

城内で陥落していないのは主閣だけだった。

他隊も曹仁からの呂布捕獲の知らせを待っている。

全隊の注目が曹仁に集まっていた。曹仁は焦っていた。

すぐ後ろに兵を詰めていた夏侯淵が近寄ってきた。

「曹仁!なかなか落ちぬな!さすがは呂布というところか!」

「おう、夏侯淵。なぁに、間もなくだ。今、曹純が全力で攻め立てておる。

まぁ、安心して見られておれい!」

そう強がりを言うが、曹仁は心中穏やかではない。

曹仁も濮陽城での呂布の武勇を目撃していた一人である。

するとそこへ馬に乗った曹純が駆け込んできた。

「――仁兄!おう、夏侯淵殿も一緒か!呂布は強いぞ!

狭い部屋に立て籠もられては数に任せて取り囲むこともできん!

いかんぞ、仁兄。呂布と高順がまだ戦っているが、

こちらの兵にもだいぶ恐怖心が生まれてきておる。

兵の足が鈍くなった。まずは増援を出してくれい!なんとかあいつを捕らえてみせる!」

「分かった。好きなだけ兵を連れてゆけい!なんとかして呂布を捕らえよ!頼むぞ、純!」

頷くと曹純は兵を連れて主閣に戻っていった。

「――しかし!悪鬼呂布健在だな、曹仁!」

「――あぁ、もう全て終わったのに大した奴だ。

だが、こんなところで奮戦してもなんの意味もない。呂布もよくやるのぅ!」

夏侯淵も曹仁もそう言うのが精一杯だった。

(赤兎馬もなく、城は陥落したというのに呂布は何を求めて戦うのか)

夏侯淵の側で仲権は一人考え込んでいた。

(それに、もうどれだけの時間が経っている。

いくら最高の武人であろうとも、これだけの大軍を防ぐことなどできないはずだ。

どんな戦いになっているのだろう。行ってみたい。呂布の闘う様を見てみたい)

呂布の姿を見たことはない。人から呂布の武神ぶりを聞くだけだった。

仲権の脳裏には呂布の具体的な姿は浮かんでこない。

かつて六人の将軍と渡り合い、今は曹操軍の猛攻をいつまでも防いでいる一人の男。

その姿は武の神でしかないと思った。

(呂布。彼は武の神か)

「高順も呂布の側で戦い続けている。最近冷遇されたと聞くのに呂布を見捨てないとは。

あの男もまた悲しい運命よ」

曹仁がそう言う。

「あぁ。『陥陣営』も皆ここで討ち死にか。惜しい。あまりに惜しいな」

さみしそうに夏侯淵も言うのだった。


それから一刻が過ぎても、曹純からの吉報は届かなかった。

途中報告の伝令が何度もやってくるがいい知らせはない。

いいや、次第に伝令たちの表情に暗さが見え始めてきた。

「――状況変わらず!呂布は我が隊をことごとく退けております!

曹純殿から援軍の要請を請けて参りました!」

「――呂布の体力は衰えることを知らず!

我が軍の兵は責めるたびに討ち取られ、

主閣は死骸で埋め尽くされております!どうか増援を!」

伝令が来るたびに曹仁は次第に顔色を失っていった。

夏侯淵も心配のあまり自軍に戻ろうとせずに曹仁と善後策を練っていた。

「馬鹿な!いくら呂布といえ、もうどれだけ時間戦っているのだ!奴は不死身か?!」

「あせるな、曹仁。奴の武は尋常ではない。計算外の男だ。

ただ、必ず限界は来る。短気を起こさずに待てい!」

そう言う夏侯淵だが、彼の表情からも余裕の色は失せていた。

(凄い!凄いぞ!呂布、まさしく武神か!)

その中で、一人仲権だけはこの事態に陶酔していた。

朝から猛攻を受け続けても、決して陥落しない呂布の武。

呂布自らが方天戟を振るって曹純隊を撃退しているようだが、

雑兵だけでも何人斬ったのかしれない。

それだけの数を斬れば、当然体力も尽きる。

いくら高順隊が護衛していようとも、とうの昔に捕縛されていて然るべきなのだ。

(あぁ、呂布殿!貴殿はまことの武人であろう!

敵ながら見事としか言うべくもない!貴殿こそ、僕が求める武の最高峰だ!!)

仲権は武人に武を求めていた。

曹操は偉大な人だ。しかし、戦場で自ら槍を振りかざして戦うことはない。

武人の器量とは戦場での勇躍だと仲権は思っていた。

その点、呂布は総大将でありながら、自ら赤兎馬と方天戟を操って常に前線にいる。

その呂布の姿を想像するだけで仲権はそこに武神の姿を見ていたのだった。

「――伝令!曹純隊は最早壊滅寸前!

曹仁将軍におかれましては、速やかに自ら派兵をお願いされたし!」

「――承知!!夏侯淵、ここはお主に任せた!

我が隊の勢いが止まるようなことがあれば、すかさずお主も突撃せよ!

呂布に休む間を与えてはならぬ!」

そう言うと曹仁は残りの兵士を連れて馬を進めていった。

「淵小父!好機ではございませんか?

このまま曹仁殿だけに任せて良いのですか?今なら我々でも……」

夏侯淵は夏侯恩のその言葉を途中で遮ると、小さくこう言った。

「それはいかん。多く兵を損なった曹仁の心境を考えてもみよ。

同じ一族で手柄を取り合ってはいかん」

「しかし、呂布や高順には貸しがあります!」

夏侯恩は食い下がった。

不本意に許都へ戻ることになった惇のことが言いたいのだ。

「いかんぞ!よいか、個人の功績よりも家名を大切と思え。曹家は同族だ」

冷静に夏侯淵が言う。

「それにな、曹仁は確実な男だ。心配はいらん。奴なら間違いなく呂布を捕縛できる。

安心して待っておれ。そう長くはない」

そう言われると夏侯恩も言い返す言葉がない。

黙って夏侯淵に従った。

(呂布が捕らえられる?!あの武神が他人の武の前にひれ伏すというのか?!

それはないはずだ!それはないはずだ!)

仲権には身体中を縄に巻かれた呂布の姿が想像できなかった。

輝かしいばかりの武威を常に放ち、将兵構わず蹴散らしている姿だけが脳裏に浮かんでいた。

その武の極みが負けるはずはない。

負けるはずがない。負けてしまったら、仲権の武の到達点が宙に浮いてしまう。

それから一刻も経つ頃、ようやく曹仁からの伝令が届いた。

「――呂布陥落!曹仁将軍が呂布を連れて丞相の陣まで向かいます!」

報告を聞いた夏侯淵は静かに頷いた。

「うむ、さすがは曹仁。それで、捕縛の時の様子を知っておるか?」

「はっ、聞くところによりますと敵将呂布は自ら戟を投げ捨てたとのことです。

不敵にも、人を斬るのに飽きたと言って自ら降ってきたようです」

(……呂布がか!武神が自ら戦いを放棄したというのか?!)

仲権の衝撃は大きかった。

「そうか。呂布らしいと言えば呂布らしいのぅ。

子雲、仲権、兵をまとめろ。我々も本陣まで戻るぞ」

呂布は曹仁隊の兵卒に囲まれて城を下った。高順もである。

その後ろを曹仁と曹純が誇らしげに馬を進める。

戦功は大きいが、その代償は大きかった。呂布一人のために曹仁は多くの兵士を失った。

既に陽は西に傾いている。

朝の突入からこの時刻までかかってようやく戦が終わったのである。

本陣では曹操が待ち構えていた。もちろん夏侯淵ら諸将もいる。

子雲と仲権の姿もあった。

仲権は武神を目の前にすることの緊張感で一杯だった。

(遂に武神が来る。光栄だ。どれだけ素晴らしい男なのか)

そして呂布は本陣まで引き立てられてきた。

長身を包む甲冑を血の朱に染め、身体中に縄を張り巡らされた男。

それがどうやら仲権の武神らしい。

(呂布!呂布!あなたの武神ぶりを見せて欲しい!)

仲権の期待は高まった。

だが、周囲の目は決して熱を帯びていなかった。概して冷ややかである。

それが仲権には分からないことであった。

この堂々の巨躯が赤兎馬に跨り、方天戟を縦横無尽に振回す。

その雄姿を想像すると、仲権には穢れのない武神にしか見えてこないのであった。

本陣には侯成と宋憲・魏続の姿もあった。

昨日までは自分の部下として扱っていた彼らの姿を見ると、呂布は激情をほとばしらせた。

「うぬ!!貴様らはどの面をさげてここにいるのだ!」

初めて聞く武神の声を聞いて仲権は心を振るわせた。

侯成は努めて冷静に答えた。

「呂将軍。これはあなたが招いたこと。

主としての器量のない人物に主になる資格はござらぬ。いざ、神妙にされよ」

それを聞いた呂布は激情に顔色を変えて叫んだ。

「貴様!この裏切り者が!」

その声色には傲慢・悪意・他者否定というものが深く沁み込んでいた。

意外な呂布の様子に仲権は驚いた。

兵卒に縄目を牽かれながらも呂布は悪態をつきながら歩いた。

曹操の前に引き立てられた呂布は開口一番悪びれずに言ってのけた。

「曹公!我が献策を受けたまえ!

この呂布に今一度赤兎馬と方天戟を与え、貴軍の先陣に立たせれば、

天下平定までの時間を十年早めることができる!」

その言葉を聞いた幕僚たちに動揺が生まれた。

確かにその通りなのである。

他の君主はともかく、曹操の器量であれば、

この獣のような呂布でも飼い馴らすことができるに違いない。

上手くゆけば、この天下無双の将が曹操軍の前衛で方天戟を振るい、

敵を薙ぎ倒してくれるかもしれない。それが叶えば、こんなに力強い味方はいない。

敵対して分かった呂布の恐ろしいまでの武力が自軍に加わるかと思うと、

それだけで心を動かす将もいた。

だが、才能ある人物を愛する曹操の琴線にも呂布という才能は引っかからなかった。

呂布の武の才能は紛れもなく天下随一であったが、

彼がいるだけで集団に不和を生じさせるという決定的な禍があるのを曹操は知っていた。

才能ある人間が縄目を受けて己の前に引き立てられてきて、

曹操が帰順を勧めなかったのはたったの一度だけ、この呂布の時だけである。

適材適所などという生易しい言葉ではこの呂布の武を抑えることができない。

天下の英雄曹操ですら持て余すほどの呂布の武であり、

同時に曹操ですら包容できない大禍なのである。

曹操は即答しなかった。危険過ぎる諸刃の剣であるのだ。

曹操には分かっていた。呂布を心服させるのは不可能である。

己の器量不足ということではなく、呂布という生命体は

人の下でいつまでも生きられる存在ではないのだ。

一時従えることができたとしても、いつか必ず離反する。

それも、きっと己の最大の危機の際に牙を剥いてくる。

曹操は呂布の登用を断念していた。

才能を愛する男が、呂布の才能には執着を覚えなかった。

傍らにいる劉備を振り返るとこう問いかけた。

「劉君。いかがしたものかな?」

すると劉備は空を斜めに見上げて独り言のように言った。

「さぁ。私には判断できない問題です。ただ私は丁原や董卓の最期を思い出していただけです」

丁原も董卓も呂布を養子としたが、

最終的には呂布は両養父とも裏切って自らの方天戟で死に至らしめている。

責任のないような発言をしたが、劉備の意図ははっきりしていた。

それを聞いた呂布は全身を怒りに震わせてこう叫んだ。

「劉備!貴様もが俺を裏切るのか!俺は貴様には色々面倒をみてやったつもりだぞ!

貴様こそ節操も何もない偽善者ではないか!!」

劉備は目を合わさずに、その遠吠えを聞き流していた。

その態度がさらに呂布の怒りに油を注ぐ。

劉備だけではなく、侯成・宋憲・魏続の三将にも向かってわめき散らした。

「この裏切り者どもが!

よいか、俺はともかく貴様らが俺を裏切るのは許さん!俺は許さんぞ!!」

(なんと……この男は、こんな非常識な大言にも迷いがない……)

仲権は呂布の言葉に驚いた。言ってはならない言葉であろう。

だが、呂布の声色には躊躇が全くない。

軍の大将たる者が、武士たる者が、いいや、人としても

決して口にしてはならない言葉であろうはずなのに。

(……違うというのか。この男は、僕が理想としていた武の神ではないのか)

呂布の言動は少年仲権の胸に不信の闇をぶちまけたようであった。

信頼の上に成り立つ夏侯家に生まれ育った仲権には、

あまりに傲慢で身勝手な人間の姿であった。

仲権は呂布を受け入れることができなかった。

(馬鹿な。これではお互い憎しみ合うだけだ。

醜さを開け出したところで人は前進しないではないか。

馬鹿な!この男は武の極点に立った名誉の男ではなかったのか!)

仲権のすぐ横で、子雲は静かに呂布を見つめていた。

子雲は呂布の人柄を以前より耳にしていた。

そして、その武を尊敬するのではなく、軽蔑する側の人間であった。

(うむ。死ねばいい。最早貴様の生きる場所はない。

そもそも、この男は生まれるべき時と場所を間違えて生を受けてしまったのだ)

あまりの呂布の暴れ様を見兼ねた兵卒が押さえつけようとする。

だが、全力で暴れ出した呂布は止められない。最後は十人がかりでなんとか静かにさせた。

「斬れ。この場でだ」

曹操は冷たい声で斬首を言い渡した。

なおも暴れる呂布だが、十人に押さえつけられては敵わない。

その場で何本もの刃を突きつけられ、あえなく絶命する。

武鬼呂布はこうして戦場の土へと還って行った。

(あぁ、呂布。僕は誤った!僕は間違っていた!武神などではない。

貴様は鬼だ。誤って天から不相応の武を与えられてしまった、ただの一人の卑怯者よ!

その武が偉大過ぎた。貴様は武の鬼だ。

欲望に負け、人間を信じることのできないただの醜い鬼よ。

あぁ、僕は何だってこんな男に神を見ようとしていたのだ!!)

失望。仲権の大きな失望。勘違いもいいところであった。

仲権は自らの不聡明を認め、そしてそれを責めた。


呂布の後には配下の三名将が引き立てられる。

まずは高順が連れてこられたが、その場に座ることもせず、

曹操が熱意を籠めて帰順を勧めても返事すらしない。

根拠なく己を冷遇した呂布の仕打ちに対しての愚痴すら言わず、

結局一言も発せないまま自ら刑場へと歩いて行った。

あぁ、高順には誰にも分からない高順なりの美学があったのだろう。

人生を武人に徹した高順のことだ、呂布という人物に、

人格はともあれ、武の神を見ていたに違いない。

武神が命を落とす時は己も命を落とす時と決めていたのだろうか。

地獄でも武神の護衛役を務めようとしたのだろうか。

無言で去っていった高順の心中を示すものは何も残ってはいない。

ただ、呂布の武が思わぬところで、歪んだ形で、

人を強烈に引き付けていたという事実が、高順の死の物語によって浮き彫りにされている

(敵ながら真の武人よ。そうだ、将には負けた時の責任がある。

ただ、惜しい。仕える主さえ呂布でなければ……)

高順の態度は、仲権の少年らしい真っ直ぐさに通じるものがあった。

幕僚からも彼を惜しむ声は上がったが、武人としての意地や礼節を完結させてやろうという

武人の情により、高順は己の意思を貫くことができた。

次に張遼の番だったが、張遼は劉備配下の関羽と旧知の間柄であり、

今は曹操の庇護下にあり、同席していた劉備と関羽の諌めもあって曹操に降伏した。

最後に陳宮が引き立てられてきた。

(……この男が陳宮。その昔、曹丞相を救った男)

場の誰もが曹操と陳宮の関係を知っていた。

だが、軍法を明らかにする席で私情は禁物である。

子雲はあの狩りの途中で淵小父の言った言葉を思い出していた。

自分の地位や家族まで捨ててまで、お尋ね者の曹操を救った陳宮とはどういう人物なのか。

また、そんな二人がどうして道の途中で志を違えてしまったのか。

曹操は居辛い様子だった。照れ隠しなのか、わざとぶっきら棒に話しかけた。

「――これは陳宮ではないか。御身とは洛陽からの逃避行以来であるな。

その後変わりはないか。中牟のご母堂は元気にしておるか」

それを聞いた陳宮は眉間を怒らせて口を利いた。

「なんという皮肉を言う男であろうか!この期に及んで戯けたことを聞きたくはないわ!

さっさと殺せ!いらぬ辱めを与えるのは狭量の証であるぞ!」

「なんの、御身には不殺の恩があるではないか。

わしは御身にそれを返したいと思っているだけだ」

いつもの曹操の口調ではなかった。

「無用である!呂将軍がいない今、わしに行くところはない。高順殿に順じようぞ」

「……陳宮。わしの大志は以前に話したな。

清濁あるのは重々承知の上だが、最終的には戦や貧困ができるだけない、

安定した世の中を創り上げるのがわしの夢だ。それは今も変わっておらん。

御身はそれに同調してくれた一人ではないか。

今はともかく、あの頃のわしはその大志を持て余すだけであった。

しかし、御身が共感してくれたことでどれだけわしが自信を持てるようになったのか。

それは伝えておきたい」

「おう、わしもあの時は確かに共感したぞ。

しかし、結局貴様はわしの思い描いた英雄ではないのだ!」

「聞かせて欲しいぞ、その続きを!陳宮、最後の雄弁を聞かせてくれい!」

口調がいつもの曹操に戻っていた。

「己を知れ、曹操!貴様は人を幸せにする英雄ではないのだ。

貴様は姦雄だ!貴様は梟雄だ!

貴様は己が生き残るためには他人の死も当然とする考えの持ち主であろう!

わしは今でもはっきりと覚えている。

逃避行中に匿ってもらった呂伯奢の家人を我々の誤解で殺してしまった時、

貴様は恨まれるのを恐れて何の罪もない呂伯奢まで斬り殺した。

その時貴様はなんと言ったのか?!」

「この世でわしが裏切ろうとも、わしを裏切るのは許さん。そう言った」

(…………!!)

仲権は絶句した。

つい今しがた、ある暴君が吐いた言葉と全く内容が変わらないのだ。

あくまで平静にそれを言ってのけた曹操がいた。

「覚えているではないか!貴様のその言葉を聞いてわしは貴様を見限った。

あの時、貴様を斬ってしまわなかったことがわしの心残りだ!」

「清濁併呑だぞ、陳宮。この広大な中華を治めるためには小さく動いていては駄目なのだ。

思い切ったことをしなくては、それこそ十年を一年間に縮めるようなことをしなくては

到底わしが死ぬまでに大志を遂げられん」

「――曹操。わしはな、あれからずっと思ってきた。貴様の言う大志は叶わぬ夢だ。

よいか、貴様が本当に民のことを考えるのならば、その大風呂敷を諦めるがよい!

いいか、人間一人の可能性でこの広大な中華は統一できん。

だが、貴様なら一州や二州を隅々まで関知し、立派に治めることのできる才覚があるではないか。

何故そこで現実的な平和を求めない?!

何故中華統一という見果てぬ夢を見て、毎度毎度戦を興す?!」

「陳宮よ、この曹操の器量を見損なっておるぞ!

かつてこの中華を統一した秦の始皇帝!漢の高祖劉邦!

彼らに勝る器量をわしは持っている!わしならばこの大志を遂げることができる!

よいか、それにこの曹操が目指すのはあくまで千年国家だ!

数十年や数百年で次の時代に取って代わられる国家ではない!」

「危ういぞ、曹操。万が一にでも叶った時にはそれでよい。

だが、叶わなかったときにはどうなる?

貴様は貴様一人の夢のために何万、何十万という兵を死なせ、

何十万、何百万という草民を苦しめた暴君として歴史に名を刻むことになるのだぞ!

英雄は英雄でも人を殺し続けた英雄だ。それは梟雄そのものだぞ!!」

「おう、それは望むところだ!よいか、陳宮。確かに叶わぬ夢かもしれん。

ただし、わしという人間にはその可能性があるのだ。

呂布のような男にそういう可能性があるか?

ならばだ、その可能性を若干でも秘めている者がやらねばならぬ!

わしだ!曹操孟徳だ!だからわしはこの道を進むのだ!

その為には陳宮、御身の才能が役立つから、わしを一緒に大志を追え、と言っておるのだ!」

竹馬の友である惇や淵ですら、これほどの曹操の熱弁を聞いた記憶がなかった。

「お断りしよう。わしは全中華を巻き込んでの殺戮に参加する意思はない。

呂布の武を利用して現実的な平和を求めただけであった。曹操、わしを斬ってくれい」

平静にそれを告げる陳宮の冷たい表情。

「陳宮!何故呂布なのだ!あの男に大志があるのか?!

あの男に己以外のことを考える頭はあるのか?!

あの男では良くてわしでは駄目だという理由が分からん!わしには分からんのだ!」

「少なくとも、呂布には純粋さがある!よいか、貴様のような表裏は呂布にはないぞ!

わしは呂布の武を動かして平和な小国を創りたかっただけだ!

ただ、呂布にわしの想いは届かなかった!だから斬れ!既に未練はない!」

「陳宮、それで良いのか。御身の大志はそこで止まってしまっているのか。

生は難し、死は易し。生きてこそ成し遂げられることがある。今一度考えてみよ」

「無駄である。――その昔、人物鑑定で知られる許子将が貴様を見て

治世の能臣、乱世の姦雄と評したそうだな。

わしはな、曹操。貴様には治世の能臣であって欲しかった……。

だが、今という時代がそれをさせてくれなかったようだ。

貴様はわしの屍を乗り越えてさらに大きくなる人間だ。

最早何も言うことはない。さらだ、乱世の姦雄よ!」

陳宮は立ち上がった。遂に、立ち上がってしまった。

最早彼を引き止めるものは何もない。

曹操の口から発せられる言葉もこれ以上ないのだった。

陳宮は堂々と歩き始めた。己の生き様を貫いた男には躊躇などない。

高順に続いて陳宮は呂布の武に殉じる死国の鬼となった。

あぁ、天下無双の武があり、有能な部下を抱えていても、中華を治めることは適わない。

それでは、いかなる者が天下を手中にできるのか。

人を魅せる器量のある人間である。大志を抱く人間である。

すなわち、曹操孟徳のような人物であれば、その可能性がある。

呂布の死は起こるべくして起こった歴史上の事件であった。

弱肉強食の真の意味を天下に知らしめた事件であった。

強い者が生き残るのではない。生き残った者が最終的には強いのだ。

呂布の死を契機として、時代は大きく動いてゆく。

戦乱の中で運を手にしただけの無能な勢力は姿を消していった。

家柄や金だけでのし上がった者も消えていった。

残ったのは節を保ち、大志を抱いた英雄たちである。

呂布の死によって真の三国時代が始まりを告げる。

――許都の夏侯家では、物が割れる音が響いていた。

音は惇の床から毎日聞こえてくる。惇が鏡を投げ壊す音だった。

惇は、鏡に映る己の眼窩の空洞を憎んだ。

仲権を憎んでいるのではなく、己自身の油断を憎んだ。

憎むあまり、鏡に映る姿に耐え切れず、鏡を見ては投げ壊した。

その割に、しばらくすると家人に鏡を持ってこさせるのであった。

噂を聞きつけた曹操が瀟洒な銀鏡を贈ってきた。

事実を事実として受け止めよ、そこから新しい夏侯惇元譲が始まる、

と言う意味が籠もっているのらしいが惇はそれもすぐさま投げ壊した。

今夜も鏡が割れる音が響く夏侯家で、仲権はひとり静かに考えていた。

(あの呂布と曹丞相が同じわけがない。同じわけがない)

どうしても解けない。あの曹操の言葉が仲権にはどうしても解けなかった。

呂布の醜い大声はあの場の誰にでも届いていたし、

その言葉の酷さは万人に伝わるものであっただろう。

だが、まさかそれと同じ言葉が全知全能に最も近いと思われた

曹操の口から出るとは、誰もが予測できない事態であったのだろう。

皆はどうやってあの曹操の言葉を受け止めたのか。

(なにが違うのだ?……呂布。……曹丞相。なにかが違う。違う必要がある)

確かに呂布は武神でもあった。

下ヒ城の主閣で曹仁隊を相手に縦横無尽に暴れる呂布の姿は、

まぎれもなく武の神のそれであったろう。

だが、あの一言が呂布の神の姿を悪鬼に変えてしまった。

人を信じることなく、この世を己の価値だけで考えてしまう鬼だ。

(愚鈍と英才には重なる部分があるということか。そういうことか)

大体は分かる。しかし、深い理解には至らない。

凱旋の道中でもずっと考えていたが、結論はでない。

そして仲権には惇への謝罪と、あの言葉の解釈だけが全てになった。

曹操の確信的な大鉈の振るい方。

呂布の小心からくる傲慢。

結果が同じでもそれに至る過程に天と地ほどの差がある気がした。

(武人としての、将としての責務だ。責務だ。そうだ、それしかない)

目の前のあらゆる物事を責務の重さに変換してしまう仲権にはそれ以外思いつかないのであった。

庭の桑の樹で夜鳥が羽を鳴らす。

仲権の思いはやがてその一点に集中していった。








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