夏侯覇仲権・三国志小説、魏蜀共に皇族となった将軍の人生

投稿日:2003年3月15日 更新日:



中国の三国志の登場人物のひとり、夏侯覇仲権。

魏建国の功臣として有名な伯父・夏侯惇や父・夏侯淵の名声の陰に隠れて、

決して注目が集まることはなかった男。

伯父や父の死後、名門夏侯家の跡継ぎとして一時の武名を馳せるも、

魏が司馬懿に乗っ取られる中で居場所を失い、

敵国の蜀に亡命してしまうという運命を辿った不遇の将。

同じく無名の将・夏侯恩子雲。

三国志の大きな見せ場である長坂坡の戦いで、

蜀の猛将・趙雲の活躍をお膳立てするためだけに架空の部将として設定された男。

趙雲が名剣・青釭を敵将から奪う場面でその青釭の剣の持ち主として描かれ、

あえなく趙雲の一槍で討ち取られてしまった無様な役柄の将。

 

三国志の端役として末席を汚しただけの男たちであるが、

現実の彼らは果たして本当にそうであったのだろうか。

夏侯覇はどうして伯父や父の代からの宿敵である蜀に、投降しなくてはならなかったのか。

軍責を重んじること鉄の如しと魏兵たちから慕われ、

夏侯家の繁栄のために心血を注いだ男が

どうして人生の終わりにそれまでの生き様を反転させるような道を選んだのか。

また、魏の皇族であるのと同時に、

蜀にとっても皇族であるという数奇な運命は、彼にとってどういうものであったのだろうか。

青釭の剣は、魏建国の英雄・曹操が愛用していた天下の名剣、

倚天・青釭の二振りの内のひとつであった。

そんな宝剣をどうして夏侯恩が持っていたのか。

夏侯恩が青釭の剣を手に入れるまでには、何か大きな出来事があったのではないだろうか。

人がいればそこに物語がある。

夏侯覇と夏侯恩という男たちの生き様もまた、ひとつの価値ある物語であった。

今まで決して語られることなく、遠い時代に埋もれていた物語がここに蘇る。

 

人がいればそこに物語がある。

百人いれば百通りの、百年生きれば百年分の物語が存在する。

人だけではない。どんな木石にでも物語は生じている。

何かがそこにあればそこに物語があるのだ。

だが残念なことに、世界に蓄積された無限の物語のうち、

その面白さが後世に語られるのはほんの一握りでしかない。

世界に散りばめられた幾千もの物語は、天界に煌く星々である。

世に眠った物語は土竜の夢見る理想郷である。

あぁ、どんなにささやかな物語でも日陰のまま留めておくには勿体無い。

夏侯覇仲権という男がいた。夏侯恩子雲という男がいた。

二十世紀の時を経て現代に名が残るという奇遇に恵まれたこの二人だが、

それは彼らの本当の意思とは反したところで歴史に残ってしまったという不幸な例であろう。

この物語は、夏侯覇と夏侯恩という二人の男が生涯秘め続けてきた真情を描いたものである。

三国志や三国演義には描かれることがなかった、また別の物語である。

彼ら二人の物語が現代に生きて放たれることを願いながら、ここに物語を始めるとしよう。

 


――暗い雨。夏侯覇の身体を冷たく打ち付ける。

全身を滝のように流れる大粒の雨は、手綱を握る腕を狂わそうとしているのであろうか。

夜半の闇に、森の間道を進む一隊がある。

口を開く者もなく、ただ確実な足音だけが響き、

兵の表情には行軍の疲れも見えるが、それ以上に何か強い決意のようなものを感じる。

とりわけ、その将である夏侯覇の眼差しに宿る決意の色は尋常ではなかった。

何か途方もなく大きなものに引き寄せられるかのように、迷いなく馬を進めている。

魏の征西将軍の地位にある夏侯覇がわずかな兵のみを連れ、

大雨の中、敵対国である蜀へと深夜の行軍をしている。

余程の理由がなくては取ることのない行動であろう。

事実、夏侯覇は蜀へ投降する途中であった。

西暦二百四十九年。中国は三国鼎立の時代にあった。

だが、建国時の英雄たちが次々と逝く中、三国が三国とも内患を抱えていた。

蜀では国家の生命線を繋いだ軍師諸葛亮が五丈原に没した後、

暗愚な皇帝阿斗劉禅に国家をまとめる力はなかった。

呉では跡継ぎ争いが起こり大黒柱の陸遜を巻き込んで死に至らしめていた。

魏では策士司馬懿の叛乱により皇帝の曹一族が実権を奪われていた。

夏侯覇は建国の功臣夏侯淵の長男であり、魏を代表する猛将夏侯惇の甥にあたる。

魏の礎を築いた曹操の父は夏侯家からの養子だから、夏侯家は皇族である。

惇・淵亡き後、夏侯家の家長を夏侯覇が務めてきた。

この年の正月、魏の実権を握っていた大将軍曹爽は

司馬懿によって地位を剥奪された上、反逆罪に問われ一族もろとも誅殺された。

三国随一の策謀を持つ司馬懿にぬかりはなく、

支配体制を確固たるものにするべく各所に手を打つ中で、

曹爽の親族である夏侯覇に洛陽へ戻るよう命令を下した。

西の雍州に駐屯して蜀を睥睨する任についていた夏侯覇は

司馬懿に殺意があることを悟り、蜀への投降を決意した。

夏侯覇が側近だけを率いて亡命しようとすると、彼を慕う兵士が後に続いた。

しかし、途中で雍州刺史郭淮の強襲に遭って夏侯覇軍は壊滅する。

残ったわずかな兵を連れ、蜀へと夏侯覇は向かった。

それは自らの全てを投げ捨てての投降であった。

夏侯覇の妻子や一族は洛陽にいた。

既に司馬懿に目をつけられた以上、このままでも殺される可能性はあるが、

夏侯覇が亡命することによってその危険性はますます高まるに違いない。

魏の皇族であるという肩書きを捨て、一族全員を魏に残したまま、

それまで敵対していた蜀に逃げる。

奇しくも蜀帝劉禅の后の実母は夏侯覇の妹であり、夏侯覇は蜀にとっても皇族であった。

だが、そうだからといって蜀が受け入れてくれるかどうかは分からない。

かつて蜀との戦で諸葛亮の策に陥った魏軍を退却させようと、

自らの生命を投げ打ってまで死地に飛び込んで防戦し、

魏兵からの賞賛を一身に浴びた軍責の将・夏侯覇である。

遼東の公孫淵鎮圧で多大な戦果を挙げ、夏侯家の名声を高めた夏侯覇である。

皇族夏侯家の家長として責務を重んじること鉄石の如しと言われた夏侯覇である。

そんな男が敵国の蜀に降るなど、誰も考えることはできなかったであろう。

降将の恥に耐えてまで蜀に降る理由など夏侯覇にはないはずなのに。

彼が責任を負ったのは伯父や父が築いた魏と夏侯一族のみのはずなのに。

自分を虐げたからといって魏に復讐など、魏を愛したこの男にできるはずもないのに。

彼の心底に蠢く無数の葛藤が大雨となり、蜀への間道を叩くかのようだ。

眉間に刻み込まれた深い苦悩。

両の眼の険しさには鬼気迫るものがあるのに、頬に浮かぶかすかな安堵の微笑みは一体何だ。

――何かある。この男には何かがある。

想いを隠し、前だけを見ながら夏侯覇は先を急ぐ。

蜀へと続く暗くて長い道を、夏侯覇を乗せた馬が駆け抜けた。


「――子雲、惇伯父がお呼びだよ!」

入って来るなり仲権が大声を出した。

「――なんだ、騒がしいな」

居眠りをしていた子雲が寝返りをうってそっぽを向く。

「惇伯父が呼んでいるよ!」

「どうせまた弓の訓練だろう。同じことばっかりだ。嫌だよ、僕は」

「もう!いつも寝てばかりじゃないか。起きなよ!」

「嫌だって。君一人で行ってくれ」

子雲は起き上がろうとしない。仲権がむくれて腕組みをする。

「仲権、淵小父が先生なんだから君は行かなくちゃいけないぞ」

「起きてよ!惇伯父がいつもと違ったんだ。

それに一杯人が集まっていた。弓じゃないと思う。

別の大切なことだよ、きっと。ほら、行くよ子雲」

そう言われるとようやく子雲が立ち上がって服を着替えだした。

その背中に向けて仲権は言葉を続ける。

「でも、何だろうねー。ねぇ子雲、何だと思う?」

着替えを終えた子雲は、黙ったまま部屋を出る。

慌てて仲権が後を追った。子雲は後ろも見ずに広い家をどんどん歩く。

そのまま惇伯父の部屋ではなく庭に出て、茨の中をかきわけて塀の隙間を通り抜けた。

仲権も黙って付いて行く。

「子雲!また怒られるよ!僕は知らないぞ!」

家を出てさらに歩いて行く子雲に仲権が言う。

「仲権、君も本当は嫌なんだろう?それに、付いて来たからは同罪だからな」

また振り向かずに子雲が返事をした。

「僕は君を連れて行くのが役目なんだ!後でちゃんと惇伯父のところに連れて行くよ!

逃げないように見張っているだけだぞ!」

そうは言いつつも仲権は大人しく後に続いた。

確かに惇伯父は怖い。でも子雲と一緒にいる方が好きだった。

二人はそのまま歩き、午後の穏やかな日差しの中、冬空の草原を横切って行った。

――時は西暦百八十九年、中国は予州沛国・陳留。

二人の少年は、この地方の豪族夏侯家の子である。

家長を務めるのは夏侯惇、字は元譲。

その従弟の夏侯淵、字は妙才と共にこの地区で一大勢力を築き上げていた。

少年の一人は夏侯惇の腹違いの弟で夏侯恩、字を子雲という。

もう一人は夏侯覇、字は仲権で、夏侯淵の長男である。

子雲は仲権の叔父にあたるが、父親が年をとってもうけた腹違いの子供なので、

仲権とは歳がひとつしか離れていない。

二人は幼い頃からいつも一緒に育てられていた。

子雲はまだ六歳、ひとつ下の仲権は五歳。

数千名の私兵を擁する夏侯一族の子である二人には

武芸の英才教育が施されているのだが、天邪鬼の子雲は無理矢理教え込まれるのを嫌がった。

仲権は生まれつき素直な性格だが、父や伯父よりもこの兄貴分の子雲と一緒にいることを好んだ。

二人の少年は近くの川まで歩いた。

幅は狭く流れも急ではない川で、いつも二人の絶好の遊び場になっていた。

川の真ん中に小さな島がある。

そこに二人の足ぐらいの太さの朽ち木が生え残っていた。

「おい、仲権!あの木を倒してやろうぜ!」

そう言って子雲は足元の石を投げ始めた。

なかなか当たるが、子供の腕力では大したことはない。石は木に弾かれてしまう。

「子雲、全然倒れないよ。無理だよ、無理。あんなの倒せないって!」

「君はいつもそうだ!そうやってすぐに当たり前なことを言う。

あのぐらい倒せないで夏侯家の男子だとは言えないぞ。

ぼーっとしてないで君も手伝ってくれよ!」

「分かったよ、それじゃぁ、倒したら惇伯父のところに行くからね」

「倒したらな!早く倒せよ!」

「よぉ~し!」

子雲と仲権は夢中になって石を投げつけた。

小さな石が風を切って川面を通り過ぎる。

仲権の石はなかなか当たらない。当たったところでびくともしない。

次第に薄い暗闇が辺りを覆い始め、鳥が棲みかへ飛び立つ。

二人の子供はまだ投げ続けていた。木は倒れていない。

ふと、子供たちが腕を振り続けている川辺に、蹄の音が聞こえてきた。

「こら~ぁ、子雲!仲権!やっぱりここにいたか!

何をしておる!元譲がかんかんだぞ!来い!行くぞ!」

淵が馬を飛ばしてやってきた。父の姿を見て仲権は身を竦めた。

子雲は淵の声が耳に入っていないかのように石を投げ続けていた。

「子雲!仲権!おらぁ、早く来い!!」

気が短いことで有名な淵の声が、荒立ってきた。

すると子雲がまた後ろを振り向かないで大声を張り上げた。

「小父上!あの木が倒れないんです!」

「あぁ~?!お前ら子供の腕で倒せるか!見てろよ、小僧ども!」

淵は鞍にかけてある愛用の強弓を手に取ると矢を番え、木を目がけて引き絞った。

木までの距離は百歩近くある。

「――はっ!!」

気合と共に淵が放った矢はぶうん、という振動を立てて辺りの静寂を切り裂き、

鮮やかな矢道を描いて木に突き刺さった。

鈍い音がすると木はゆっくりと後ろに傾き出し、大きな水音と共に川の中へと沈んでいった。

「はっはっは!!どうじゃぁ、わしの神弓は!

おい、子雲に仲権!お前らも早くこのぐらいまでに腕をあげい!」

馬上の淵が豪快に笑った。

「小父上!さすがです!!」

満面の笑みで子雲が振り返った。別人のような素直な表情。

子雲はこの豪快な小父のことが大好きだった。

仲権も笑って父親の元に駆け寄った。

「ほら、仲権!乗れ!子雲、早く来い!」

淵は大きな手で仲権の身体を抱き上げ、鞍の前に乗せた。

遅れて寄ってきた子雲も一緒に前の鞍に座らせる。

「全く、こんな季節に外でうろうろしおって!捜すほうの苦労も考えろ!」

そう言って走り出した淵は片手で手綱を捌きながら、もう片手で二人の身体をさすった。

そして子供たちをあやすように馬を遊ばせながら走らせた。

左右に揺れて走るのが面白くて、子供たちは大喜びしている。

淵はまた豪快に笑った。

三人を乗せた馬は、大きな屋敷の方角へと走り去って行った。


正門を通り過ぎ、屋敷の前で馬を降りる。

今日はやけに兵番が多いな、と仲権は思った。

知らない顔の兵も沢山いるし、馬屋からはかなりの数の嘶きが聞こえる。

どこからかでも来ているのだろうか。

馬番に手綱を預けると、淵は両手にしっかり二人の子供の手を取って、屋敷の中へ入った。

「おい、仲権。僕たちは投石の練習をしていたんだぞ、いいな?」

そう子雲が小声で合図をしてきた。仲権は父に隠れて小さく頷いた。

ふと父を見上げると、父は真剣な顔になっていた。

夏侯家の副将である夏侯淵妙才の精悍な顔つきに変わっている。

いつもとは何かが違う。仲権は改めてそう思った。

子雲もそれに気が付いたのか、淵に手を引かれるまま黙って歩いた。

大広間に行くと、そこには夏侯一族の男子が勢揃いしていた。

既に引退したはずの子雲の父もいる。

夏侯家だけではなく、曹家の部将もいた。

曹仁と曹純の兄弟に、曹洪もいれば、先主の曹嵩もいた。

この陳留一帯は、曹家と夏侯家の一族が牛耳っている。

曹家は、前漢時代の名宰相・曹参の子孫である。

夏侯家も同じく前漢の名将・夏侯嬰の後裔だ。

曹家の先々代、曹騰は宦官で中常侍まで務めた。

その息子曹嵩は夏侯家からの養子である。

両一族は助け合いながら、この一帯で勢力を広げてきた。

座の奥には両族の長、夏侯惇が腕組みをして起立していた。

誰を見るのでもなく、正面遠くをじっと擬視している。

威圧感が重苦しい。

ただでさえ大男で厳つい風貌の惇は恐いのに、

黙って仁王立ちされてはどこにも取り付くしまがない。

二人の少年たちは黙って下座についた。

淵が惇の脇に座り込むと、ようやく惇が口を開き始めた。

「諸君!本日はわざわざのお越し、感謝する!」

相変わらずこの伯父上も父以上に声が大きいな、と仲権は肩をすぼめた。

一族の年長者にだろうと曹家の人間にだろうと、惇は誰かまわず自分の気性で話をする。

このびりびりとした声でやられては誰だって気を呑まれてしまう。

「今日は夏侯家だけではなく曹家の諸兄方にも急遽集まっていただいた!

それは、遂に我々が飛躍すべき時が来たのを皆で喜ばんがためである!」

緊張感。誰も口を開くことはできない。

「我々はこれまでこの陳留で確固たる基盤を築き上げてきた!

養う兵力は両家合わせて五千に届き、兵は精悍、将は豹の如く、糧秣は満ち足り、

その勢いは天に轟きわたっている!最早予州刺史ですら、我々を制することは叶わない!」

惇はここで一旦口を閉ざした。

そして次は声を抑え、しかし段々に声を熱くして語りだした。

「我々一族には不世出の傑物がいる。曹孟徳である。

二十で孝廉に挙げられ、今や典軍校尉の大任にある。

その孟徳が、洛陽から戻ってきた。

それも、天子から直々に密詔を受け、朝廷にはびこる逆賊董卓を誅する大義を任されているのである!

よいか、諸君!我々は孟徳の元で一致団結し、討賊の兵を挙げる!――孟徳!!」

部屋の後ろから一人の男が入ってきた。

額は広く知性に溢れ、強い意志が籠もった目を持つ白面の青年。

曹操、字は孟徳である。

「我は勅命を奉じて董賊を討つ!

今や都は凶賊どもの巣窟となり、帝は虐待され、民は日々の生活を奪われておる!

よいか、皆の者!我が一族に天命が降ったのだ!

我々はここに挙兵する!我に続け!董卓を討ち、天下に我々一族の名を知らしめようぞ!!」

惇のような大声ではないが、声量があり、良く届く声で曹操が呼びかけた。

すると、一族の者が一斉に立ち上がり、皆が腹の底から声を振り絞って気勢を上げる。

夏侯家の屋敷全体に嵐のような喊声が響いた。

――仲権はその男を見つめていた。

父や惇伯父がよく口にしていた曹操という人物が、この男だった。

子供の頃から兄弟同然に過ごした仲だという。

惇伯父も父も、この曹操のことを語る時だけは妙に嬉しそうで、そして誇らしげだった。

今まで誰よりも強く、誰よりも怖かった惇伯父が自分以外の男を大将に立てた。

そんな男は見たことがなかった。

今まで仲権の中では常に惇伯父が一番の男だった。

子供心にも分かったこと、

それはこの曹操という男が並みの器量の持ち主ではないということだった。

子雲は目の前の曹操という男を怖いと思っていた。

腕力が強いとか、気性が激しいということとは違うところで

人を怖いと思ったのはこれが初めてのことだった。

内面から溢れ出てくる何か強く激しいものが、子雲の幼い心にもはっきり感じ取れていたのだった。

三国史上、最も偉大な英雄がここに立ち上がる。

曹操孟徳、この時、齢三十四であった。


子雲は引き下がらない。惇はうんざりという表情だ。

「この戦こそは恩も連れて行ってくれますね?!」

「駄目だ!まだ早い!」

「いつもそればかりです!いい加減に、今回こそは付いて行きますから!良いですね?!」

「駄目と言ったら駄目だ!しっかりと家を守っておれ!」

強引な子雲の言い方に面倒臭くなったのか惇も声を荒げる。

「そうはいきません!恩は行きます!」

子雲に怯む様子はない。

「子雲!仲権!貴様らにはこの家を守る役目を申し付ける!」

そう吐き捨てると、惇はなおも食い下がろうとする子雲を鋭く一瞥してそのまま部屋を出て行く。

乱暴な足音が去り、子雲と仲権だけがその場に残された。

「子雲、ああなってしまってはもう駄目だよ。

一度言ったことは絶対に曲げない人だぞ、惇伯父は」

唇を噛んで悔しがる子雲に向けて仲権はそう言った。

もう何度目だろう。子雲は惇や淵が出陣するたびに直談判しては、毎回断られている。

「仕方ないよ、僕らはまだ子供だ。

今はせいぜい武芸を磨いておくぐらいしかないんじゃないかな?

それにさ、行ってもきっとまだ役に立たないよ」

仲権は優しい声で慰めようとする。

悔しさに表情を歪めた子雲にそれは届いていないようだ。

「――仲権!君は悔しくないのか?夏侯家の男子として認められていないのだぞ?!」

それだけ言うと子雲は馬屋に向かい、馬に鞭をくれて走り去って行った。

旗揚げから七年。あれから、曹操軍は激動の歳月を過ごしてきた。

反董卓連合を立ち上げるまでは良かった。

檄を飛ばすと各地の諸侯が賛同し、連合軍は十七軍まで膨れ上がった。

氾水関に押し寄せ、董卓軍の勇将華雄を破った。

虎牢関では天下随一の猛将呂布も敗走させた。

しかし、間もなく仲間割れという最悪の事態によって連合軍の士気は落ち、

事実上内部崩壊をきたしてしまった。

董卓は洛陽から西の長安に逃げたが、それを追撃したのは曹操だけだった。

その曹操軍も董卓軍の伏兵により壊滅する。

失意の曹操は残った兵を引き連れ陳留に戻ろうとしたが、

袞州東郡で黒山賊が叛乱したことを聞きつけるとすかさず東郡を平定した。

そのまま太守を自称して居座り、勢力を蓄えた。

今や曹操は袞州全土を支配下に治め、正式に朝廷から袞州牧に任じられるようになった。

曹家の傑物と呼ばれた曹操の才幹は尋常なものではなかった。

諸侯を集めて連合軍を立ち上げた結束力と政治力。

袞州を手中に収めた軍事力。

袞州と隣の青州の豪族や賊から奪った財産を活かす経済力。

そしてなにより、彼には有能な人材に対する強い求心力があった。

曹操の元には綺羅星の如く人材が集結した。

文官では荀彧・荀攸・程昱・郭嘉・劉曄・満寵。

武官では許褚・典韋・于禁・李典・楽進。

もちろん夏侯惇・夏侯淵・曹仁・曹純・曹洪もいる。

曹操は各地に広く人材を募った。

在野の士で呼びかけに応じた者がいる。

それまで仕えていた主を見限り曹操に走った者がいる。

彼らは偶然曹操の元に集まったのではない。

飾らずに才能そのものを愛する曹操の魅力に惹かれたのだ。

曹操の人材に対する熱意が、有能の士を彼の元に集めた最大の理由であった。

人の利を得た曹操に、次は時の利と地の利が味方しようとしていた。

董卓が養子の呂布に裏切られ謀殺されると、

次は董卓の部将だった李カクと郭汜が実権を握り、横暴をほしいままにした。

現実の権力が無くとも、漢の献帝というだけで価値はある。

帝を握るものは天下を握る。

また、帝がいる都を抑えることで地の利も付いてくる。

帝は権力争いに利用され、手中に収めようと軍と軍とが衝突する。

彼らの支配下に置かれることを望まない帝は身ひとつで都を逃れた。

そして護衛の軍を求めることに逼迫した挙句、曹操を招聘した。

何故、曹操に白羽の矢が立てられたのか。

何故、他の将軍ではなく曹操が選ばれたのか。

確かにその半分は帝の侍臣が曹操の名声を聞きつけており、曹操の才覚が期待されたからであった。

もう半分は――ただの運であった。

曹操でなくてはならない理由はなく、

帝ののっぴきならぬ状況を救うことができる勢力であればどこでも構わなかったのだ。

しかし、現実に勅命は曹操に下された。

これこそが、曹操に授けられた強運の力。

そして、天下の英雄に降臨した時の利であった。


曹操軍の先陣は、数ある諸将の中でも常に夏侯惇と夏侯淵が務めてきた。

右手に惇を、左手に淵を従え、曹操は戦場を駆け続けてきた。

今度の戦でも先陣を任されるのはこの二人しかいない。

子雲と仲権の初陣はまだだった。

子雲は十三歳、仲権は十二歳になった。

二人とも同年齢の少年と比べると身体は大きい方だが、まだ戦場で敵と槍を交えるのは早過ぎる。

子雲が出て行ってしまうと、仲権は父の元に向かった。

弓の名手である父に恥じない男になろうと、最近は集中して父から弓の鍛錬を受けている。

「父上」

部屋に入ると、淵は槍と弓の手入れをしている途中だった。

「おお、仲権か。丁度良い。お前に言っておくことがある」

淵は仲権を招き入れ、自分のすぐ前に座らせた。

「仲権。曹操小父のところに帝からの勅命が届いたのはお前も知っているようだな」

近頃大人らしくなりつつある我が子の顔を見て、父は膝をさらに寄せる。

「よいか、仲権。今度の戦は今までのものとは全然意味合いが違う。

今や漢王朝の権威は地に落ちた。

ただな、そうは言っても帝は帝だ。戦には大義というものが必要になる。

帝を擁する者はその大義を常に手にすることになるのだ。

今回はよりによってその大義が自ら転がり込んできたようなものだ。

分かるな?まさに千載一遇の機会、これを逃す手はない」

仲権は黙って父の口元を見つめていた。

「元譲とわしは出陣する。

そこでだ。よいか仲権、お前は夏侯家の長男だ。

わしらがいない間は、お前がこの家の主となって一族を守れ。

わしと約束しよう。わしは軍に従って帝を保護し、曹操小父が天下人となるために働く。

お前は間もなくやってくる一族をしっかり守れ。よいな?」

「承知しました、父上。でも、いつかは仲権も戦場に連れて行ってください」

「分かっておる。だがな、まだ若い。その身体ではまだ戦場で役に立たん。

仲権、今のお前は夏侯家の長男として家を守るのが役割だ。

よいか、お前に任せたぞ」

「父上、分かっております。さぁ、今日も仲権に弓を教えて下さい」

「うむ、庭に出ようか。子雲はどうした?」

仲権は、子雲が惇伯父に出陣を直訴して断られ、馬に乗ってどこかに行ってしまったことを話した。

淵は黙ってそれを聞くと、仲権を促して庭の弓の稽古場に連れ出した。

夏侯淵には覇を長男に、威・恵・和・楙と五人の男子がいる。

女子も生まれたが早死にした。

淵はその女子のことを不憫に思ってか、同じ年頃の娘を養女にしている。

幼い弟たちと母と妹は間もなく陳留からこの東郡に移ってくる。

一方、夏侯惇は子宝に恵まれていなかった。

男子も女子も、まだ子はない。愛妾が懐妊したことはあったのだが、流産した。

最近諦めつつある惇は

「いずれは妙才の息子たちから一人二人、貰うことにするか」と軽く笑い飛ばしている。

夏侯家の血の繋がりは深い。惇と淵はあえて同じ家に住み続けている。

陳留の時もそうだったが、この東郡でもそうだ。

今は家族を陳留に留めているが、間もなく東郡に家族を呼び寄せた後も

惇と淵の家族を同居させようとしている。

それには夏侯家を優先させるという意味があった。

惇に男子がいない今、淵の男子を夏侯家の男子として後継ぎにさせるべく、教育をしているのだ。

惇も淵も兄弟は戦死しており、今は歳の離れた惇の弟・恩だけが残った。

戦国の時代、不意の事故はいつでも起こりうるものであった。

どんなことがあろうとも名門夏侯家を存続させるべく対処してある。

この本家とは別に、淵の亡弟の息子・尚が陳留にいる。

遠縁の一族も陳留や各地に散らばっている。

惇や淵世代の息子で一番年上なのは覇だ。恩も同世代の男子である。

この二人を後継ぎと見込んだ惇と淵は、東郡にも帯同した。

幼い頃から様々な経験を積ませようとしたのだ。

また万が一に片方が欠けてしまった場合を考えてか二人を同時に教育した。

急襲をさせたら曹軍随一であり、その抜群の豪胆さをもって鳴らす夏侯淵も、

家に帰れば子煩悩な父親であった。

得意の槍と弓を自ら進んで子供に教え込もうとした。

庭に出ると弓の鍛錬が始まった。

仲権はまだ大人用の弓は引いていないが、最近はだいぶ狙った所に矢が集まるようになっていた。

曹操軍でも一、二を争う腕前の淵の教えもあるし、父譲りの血があるのだろう。筋は良い。

弦の鳴る音。空気中を走る矢の音。そして子を叱咤する父の声が屋敷に響く。

静かである。戦の前とは思えないぐらいの平和な時間があった。


ふと、屋敷の隅で腕組みをして矢筋を見ている惇の姿が見えた。

淵が声をかけると、惇は少し躊躇したがうるさく足音を立てて近寄ってきた。

「仲権、子雲はどこだ?」

優しくない声。

「先程馬に乗って出て行きました。よく知りませぬ」

仲権はわざとぶっきら棒に答えた。子雲のためにもこのぐらいの方がいい。

「そうか。――どれ、わしも弓を研ぎ澄ませておかなければな」

そう言うと惇は片肌を脱ぎ、弓を取った。惇の矢は剛直一辺倒である。

淵は力の中にも技が混在しているが、惇は物を破壊するための力だけで矢を放つ。

放った矢は的を豪快に捉えた。何も言わずに二矢三矢と放つ。

「仲権!貴様も戦に出たいと思うのか?!」

四矢目の弦を引き絞りながら惇は大声で仲権に聞いた。

もちろん視線すら仲権に合わせてこない。

本当はこれが聞きたかったために矢を取ったのだろう、と仲権は思った。

子雲のことが余程気になっているらしい。

「伯父上、行っても役に立てないのなら、

今は武芸の研鑽と、家を守ることが務めだと仲権は思っています」

仲権の本心だった。

「そうか!」

それだけ聞くと惇は黙って矢を放った。また矢を番えては放つ。

惇の矢音は重い。弦の引き絞り方から的の捉え方まで全てが豪快である。

理に適った動きをする淵の矢とは対照的だ。

淵の弓術は力より技術が先行しているようだが、的に刺さった矢を見てみると突き刺さり方は深い。

捉えた獲物を確実に仕留める矢だ。

相当の力も込められているのも分かる。

二人の矢は音が違う。惇の音は破壊的だ。

淵の矢は良い音がする。百発百中で良い音だ。

周りに言うにはこの音が淵の高度な弓技を証明しているという。

二人に比べたら仲権の矢などそのまま子供の技でしかない。

弱矢しか射ることができない自分が恥ずかしい。

仲権はいつもその気持ちで一杯だった。

三人の矢がそれぞれの音を鳴らしていると、慌しい馬蹄が近付いてくるのが聞こえた。

庭まで強引に馬が入ってくる。馬上の人は子雲だ。

巨大な戟を懐に抱え込んでいる。

戟を地面に突き刺すと馬から降りて惇に向かって叫んだ。

「子雲は最早子供ではござらぬ!

これは悪来殿から借り受けた八十斤(約十八kg)の鉄戟でござる!

いざ、我が戟術を見られい!」

勇ましい口上を述べると、子雲は戟を薙ぎ払った。

殷の紂王の臣で豪腕の士として知られた悪来になぞらえられた典韋は、

この鉄戟二本を同時に両手に取って紙のように振り回すことができる。

身の丈が九尺(約二百十六cm)もある典韋以外、誰にもできない技であった。

八十斤の戟を十三歳の少年が扱えるわけがない。

足元はふらつき、身体は戟に流されている。

子雲は必死の形相をして、唇をしかと噛んで耐えていた。

三回四回と振り回すと宙を切る戟の線も大きく乱れてきた。

それでも子雲は止めようとはせず、声を励まし己を叱咤して振り回し続けた。

六回七回と薙ぎ払い、もう腕が上がらないぐらいになっても戟を振回し続けようとした。

「それまで!」

惇が割って入って、子雲から鉄戟を取り上げた。

重そうに両手で抱えて地面に突き刺す。

夏侯惇の力でも持て余すほどの鉄戟を、よくもまだ半人前の子雲が扱えたものだ。

「この戟は悪来の命だぞ!どうやって持ってきた?」

惇が問いただすと、肩で大きく息をしながら子雲は答えた。

「悪来、殿から直接、借り受け、ました!勝手に取ってきたものではござらぬ!」

子供好きの典韋だから、確かに子雲に熱望されたら嫌とは言えないだろう。

惇は黙って子雲の目と身体を交互に見つめていた。

ふと、惇と淵の視線を合う。惇が頷くと、淵も頷いた。

「子雲!仲権!戦の支度をせよ!!」

空を見上げて大声でそう惇は言った。仲権と子雲は目を見開いて顔を見合わせた。

「ただし!貴様らは陣の中央におれ!直接槍を持つことは絶対に許さん!

よいか、覚えておけ、貴様らが余計なことをしたばかりに妙才は貴様らの守り役になってしまったぞ!

貴様らのせいで妙才の戦功が台無しだ!」

たたみかけるかのように惇がそう叫ぶ。

だが、気のせいか惇の目は笑っているかに見えた。

淵も厳しい顔つきではあるが頬は幾分か緩んでいた。

仲権と子雲は飛び上がって喜んだ。

抱き合った二人は心からの笑顔を見せた。

夏侯覇仲権と、夏侯恩子雲の初陣がこうして決まったのだ。


間もなくして曹操軍は動き出した。

夏侯惇を先鋒として、五万の先発軍が洛陽に向かう。

夏侯淵が指揮する中軍に甲冑姿も初々しい仲権と子雲の姿もあった。

李カクと郭汜から逃れるために洛陽の都を落ち延びた献帝の一行は

虎牢関の近くで曹軍と遭遇した。

主将である夏侯惇は帝に軍礼をし、まもなく曹操が本隊を引き連れてくることを言上する。

帝を虎牢関に移して曹軍は一帯に布陣した。

李カクと郭汜の軍勢が間もなく現れることを察知していたからだ。

曹軍の到着から遅れること半日、李カクと郭汜の軍が姿を現した。

曹軍を甘く見て李カクと郭汜は突撃をかける。

しかし曹軍、李軍や郭軍とは軍隊の格が違った。

袞州で軍事訓練を積んだ曹軍の精兵は李カクや郭汜の寄せ集め兵の比ではない。

李軍と郭軍は散々に蹴散らされ、李カクと郭汜は逃亡した。

数日後、曹操が本隊を率いて到着する。

執り行われた謁見の席は至極穏やかな空気であったが、内心では両者が共に驚いていた。

曹操は帝と近習の者のみすぼらしさに衝撃を受け、哀れみすら覚えていた。

天下人であるはずの漢の献帝が、洛陽を追われて以来艱難の道を歩き続けたせいで

衣類や装飾品は疲弊し、覇気は損なわれ、

帝に値する風格がどこにも見当たらなくなっていたのだ。

いや、多数の将を引き連れ威風堂々と謁見に現れた曹操にこそ、王者の気風があった。

曹操は帝の前で礼にかなった拝跪をし、帝を賊軍から護ることを約定する。

そして、そのためにも許都への遷都を敢行すべしと献案した。

献帝はそんな曹操の姿に驚きを隠せなかった。

帝であるはずの己には軍も将もなく、ずっと目前の安全にさえ困り続けてきたのに、

まだ四十歳にも届かないこの一人の将は、強い軍隊と数々の部将を従え、

しかも遷都を促すぐらいに将来の計を考えていた。

真の王者の前に立った仮初の王者は己の非力さに何も言うことができなかった。

英雄曹操孟徳はこうして帝を擁することに成功した。

これによって曹操は常に正当な大義名分を持つこととなり、

中央の覇権を握るための資格を得たのである。

中華の歴史では世間や民衆に訴える権力の正当性が欠かせないものであった。

正当性のない権力に長続きはない。

大義がなくては戦も起こせないし、土地を治める理由そのものが存在しなくなる。

そのため各地の権力者は自らに正当性を課すことに躍起になっていた。

この漢の帝は権力の欠片すら持っていない。

しかし、天子というだけで最大の正当性があった。

天子を擁したことで、計り知れない権益が曹操の元に転がり込むことになる。

曹操が唱えた遷都を献帝は拒まなかった。いや、拒むことができなかった。

曹操はすぐさま許都へ人員を派遣し、帝を迎える設備を造らせた。

できあがるや否や許都への遷都を実行した。

ここに、曹操の入朝を喜ばない人間がいた。

それまで紛いなりにも帝を擁護したということでいばりちらしていた楊奉と韓暹である。

楊奉はもともと李カクの部下だったが、機会を窺って帝を手中にした。

韓暹は都落ちの途中で護衛のためにやむを得ず帝が召した盗賊の頭領である。

二人は生面線である帝を離すまいとして洛陽から強引な逃避を続けてきたが、

曹軍が来ると同時に陽を浴びない境遇となり、

しまいには曹操から害されることを恐れて逃亡していた。

許都への道中、山間の険路に差し掛かると突如一軍が現れて行く手を遮った。

楊奉と韓暹である。

帝を再び自分たちの支配下に収めようと野心を抱き、無謀にも曹操に戦いを挑んできたのだ。

楊奉軍の先頭には見るからに剛直勇猛、全身から奔馬の勢いを発する将がいた。

「――帝をかどわかし、私腹を肥やそうとは不届千万!

この徐晃が一命を賭けて帝をお救いしようぞ!」

そう言うや否や、徐晃は突撃してきた。

道が細くては、大軍の利点を活かすことができない。

しかし曹操は冷静だった。曹軍には一騎当千の勇将が何人もいるからだ。

「許褚!あの獲物は貴様にくれてやる!早々に討ち取って参れ!」

曹操の指揮の元に一人の将が馬を飛ばす。

許褚、字は仲康。

段違いの剛力で知られ、ある時逃げ惑う二頭の牛を引き戻すため

牛の尾をそれぞれ片手に持ち、暴れる二頭の牛を引きずるように歩いたという。

身の丈八尺(百九十二cm)という巨体の持ち主である。

許褚は曹軍でも屈指の武人であった。

悪来典韋や夏侯惇・夏侯淵と比較されるほどの、

いや個人技であればそれ以上の武芸を持つといわれる偉丈夫で、剛力王を自称していた。

徐晃と許褚は馬を突進させ、一合目にそれぞれの得物を撃ち合わせた。

許褚の大槍と徐晃の大斧がぶつかり、火花を散らす。

互角であった。許褚の剛力に匹敵する力を徐晃の大斧は秘めているのだ。

確かに斧という武器は重く破壊力に優れ、短期戦に向いている。

しかし、許褚の全力の大槍を受け止めた相手はこれまで幾人もいなかった。

許褚は軽く舌打ちをすると、馬を返して再度徐晃の大斧へと向かっていった。

数合、数十合に及んでも勝敗はつかない。

両将の槍と斧が打ち鳴らす攻撃的な音が両軍の兵の耳をつんざく。

そのあまりの激音にいつしか兵と兵との戦いは止み、

徐晃と許褚の一騎撃ちを両軍が見守るようになっていた。

数千人が見守る戦地の片隅で、一対の虎が戦っている。

一匹の巨虎が激しく攻撃の牙をむいて飛び掛ると、もう一匹の虎がその大きな爪で弾き返す。

大きな爪が巨虎に襲い掛かると、巨虎も牙で応戦する。

虎対虎の死闘がそこで繰り広げられていた。

両者は互角であった。

互いを好敵手と認めたのか、惜しげもなく秘技を繰り出して相手を仕留めようとする。

しかし、勝負はつかない。大槍と大斧がぶつかる金属音。

一合打ち合わせるごとに両軍の兵士たちは

肝を冷やしながら勝負の帰趨を見詰めていた。

撃ち合うこと五十余合。両者とも肩で息をし、全身は汗まみれになっている。

徐晃の大斧は勝負が長引いても衰えを知らなかった。

恐るべき体力である。もとより許褚の大槍も鋭さと剛力を保っている。

突然、曹軍から退却を命じる鉦が鳴った。

許褚は撃ち合わせた馬を徐晃へと返すことなく、そのまま曹軍へと引き上げた。

徐晃も馬を退いたが、このまま軍を進めるのは危険と判断して陣を遠ざけた。

両陣は硬直状態になったまま、夜の闇を迎えた。


その夜、両軍の兵士の話は徐晃と許褚の一騎撃ちのことでもちきりだった。

やれ許褚は怖くなって逃げ出したのだと言う者、

いや、あとしばらく続いていたら徐晃の大斧の方が鈍って負けていただろうと言う者。

誰もが興奮して、両雄のことを熱く語っていた。

楊奉軍の中にも許褚の肩を持つ者もいたし、曹操軍でも徐晃の優勢を疑わない者もいた。

そこには自軍・敵軍という域を飛び越え、

二人の勇者たちの戦いに魅せられた武人たちの個人的な声があった。

夏侯淵の軍幕でも二人の若者が興奮気味に話す姿があった。

「――惇伯父なら一刀両断だったかなぁ?!」

「いいや、さすがにそれは無理だろうな!許褚はあの悪来と同じぐらいに強いんだぞ。

兵を指揮するのはともかく、個人技だったら惇小父や淵小父だって敵わないはずだ!」

「父上だったら弓矢があるよ!馬を返す振りをして矢を放てば勝てる!」

「あぁ、勝てる可能性があるとしたらそれだろうな。

でも、どうかな。徐晃だってそんな油断はしないだろうから」

「そうだね。でも、明日はどうするんだろう。

どっちにしてもあいつを倒さない限り先に進めないだろう?

剛力王と悪来が二人がかりになって討ち取るのかな?」

「いや、それをしたら曹軍の恥だろう。二人がかりってのは良くないよ」

「じゃぁ、どうする?子雲、自分が曹将軍だったらどうしている?」

「ん~。分からないなぁ。全然分からない!」

「なんだよ、それじゃ駄目だ」

「じゃぁ!仲権、君だったらどうするんだ?」

「僕も分からないんだ」

子雲と仲権はそこで笑った。

この行軍が初陣の二人にとっては何もかもが新鮮な出来事だった。

夏侯惇の先発隊が李カクと郭汜を迎え撃ったとき、二人は虎牢関の上からその戦いを見ていた。

右と左から軍と軍とが交差し、接触した途端に一方が崩れ去り、

そのまま軍全体が崩壊してゆく様を目の当たりにして声を失った。

まるで何かの生き物のように夏侯惇軍は動き、敵軍を飲み込んでいった。

あっという間に敵軍は四方に逃げ散り、そしていなくなった。

さっきまでの敵の陣地を全て飲み込んだ夏侯惇軍は

しばらくして規則正しく元の位置まで戻り、戦いを始める前の陣形に直った。

軍は生き物だと二人は感じた。

興奮して淵に話すと、二人の背中を大きく叩きながら淵はこう言ったものだった。

「子雲、仲権。お前らは夏侯家の将だ。

個人技も大切だが、その生き物である軍を統率する能力を備えなくてはならないぞ!

せいぜい今のうちに良く見ておけい!」

そう言って淵は豪快に笑った。

結局二人は槍を取って直接敵と戦うことはなかったが、

戦場の空気を吸っただけでも随分と自分が大人になった気がしていた。

「――子雲!仲権!行くぞ!!付いて来い!!」

突然、軍幕の前で淵が大声を出した。

二人が驚いて飛び出すと、淵は既に背中を向けて歩き始めている。

慌てて二人は後を追った。

「父上!何事ですか?」

不安そうに仲権が聞く。淵は構わず歩き続けながら声を張り上げた。

「面白いものを見せてやる!

よいか、孟徳――いや、曹将軍の偉大さを知っておけ!」

仲権と子雲は顔を見合わせる。何のことだか想像がつかない。

最近になって惇も淵も人前で軽々しく「孟徳」と呼ぶことを避けるようになった。

いやしくも帝から司隷校尉に任命された曹軍の総帥を

子供の頃からの呼び名で呼ぶことを遠慮しているのだ。

曹操の威厳を損ねないための配慮である。

もっとも、曹操と一対一になった時や、惇と淵だけの時は相変わらずの「孟徳」である。

酒が入ると、悪童時代のあだ名の「阿瞞」で呼ぶときすらあった。


淵は本陣まで歩いた。帷幕では酒宴の準備がされている。

淵は二人を末座に留めると「黙ってみておれ」と言って、上座の惇の隣についた。

二人は大人しく座っていた。

曹操軍の将や幕僚が一堂に会しているのを見て何事であるかを計り損ねていた。

見ると中央の曹操は喜々とした表情で周囲と話している。

昼間にあれほどの死闘を繰り広げた許褚までもが楽しそうにしていた。

しばらくすると伝令がやってきて「まもなく満寵殿のご帰還です」と伝えた。

それを聞くと場がざわめき、嬉しそうな歓声が飛び交うではないか。

許褚が立ち上がって腰の剣をその場に置くと、丸腰で本陣の入口に向かった。

腕を組み、篝火の横で暗闇遠くを見ている。

そこに、馬の蹄の音が聞こえてきた。

闇から二騎、こちらへ向かってくるのが見える。

一騎は満寵であった。

そしてもう一騎は――あの大斧を抱えた徐晃であった。

徐晃が入口まで馬を進めると、許褚が歩み寄る。

轡を取って、徐晃が馬を下りるのを手伝う。

そして、徐晃と顔を合わせると許褚は豪快に笑って言った。

「徐晃殿!そちは強い!」

「――なんの!許褚殿、貴殿こそ大した剛力だ!」

思いがけない許褚の態度だったらしく、徐晃は躊躇したがそれでもそう言ってのけた。

そして許褚はもう一度笑うと徐晃と肩を組んだ。

許褚が大斧を肩に担ぎ曹操の元へ歩き出す。

肩を組んだ二人は笑っていた。

そんな二人の姿を見ると曹操は立ち上がり、ゆっくりと歩き寄った。

徐晃は曹操の前まで来ると平伏する。

一瞬周囲に緊張が走ったが、すぐに曹操が口を開いた。

「徐晃!お主のような万夫不当の士が我が軍には必要だ!

力を貸してくれまいか?一緒に天下を駆けようぞ!」

親しみの籠もった声で、曹操がそう声をかけた。

「降将の身にかたじけないお言葉。もとよりどこまでもお供する覚悟です」

徐晃は平伏したままそう言った。

その徐晃の腕を曹操自らが取って立ち上がらせ、肩を組んだ。

もう片方の肩を許褚が組む。

「皆の者!我が軍にまた一人、頼もしい仲間が加わったぞ!

皆で祝おうではないか!!」

曹操がそう言うと全員が立ち上がって徐晃を迎えた。

曹操が徐晃に酒を注ぐ。

そして諸将に号令をかけて、ただ一人の新参者のために乾杯をした。

皆が徐晃の元に集まり声をかける。新しい仲間たちに賑やかに囲まれて、徐晃も杯を重ねた。

――仲権と子雲は座の後ろで呆気に取られていた。

「仲権?あの徐晃ってのはさっきまで敵だった奴だよな?」

珍しく子雲が単純なことを聞いてきた。

「――そうだよ。信じられない光景だね」

仲権にも意外だった。

降将をこれほど温かく迎えるとは考えられないことだった。

この時の二人はこれが戦場では当たり前だと思い込んでいた。

しかし後々そうではないと知った時、曹操の元に優秀な人材が集まる理由が、

才能ある人間を異常なまでに愛する彼の性格にあると知ることになる。

これが淵の言った曹操の偉大さであった。

この時の記憶は二人の脳裏に深く刻み込まれる。

結局この初陣で二人が知ったのは曹操という人物の器の大きさだった。

許褚と徐晃の一騎撃ちを止めさせたのは曹操だった。

許褚ほどの猛将と互角に戦う徐晃を見て、彼のいつもの癖が頭を持ち上げた。

どうしても徐晃を自分の軍に欲しくなったのだ。

許褚に加えて典韋を出せば、徐晃を敗走させることも可能だったろうし、

全軍を突撃させれば楊奉と韓暹如き一日で葬り去ることもできただろう。

しかし曹操は徐晃の欲しさのあまり軍を退かせ、諸将に徐晃を捕らえる策を相談した。

満寵が進み出て、自分は徐晃と幼馴染であるので説得してくると献案した。

曹操はその言葉を信じて満寵に一任する。

満寵は徐晃が心ある将であることを知っており、理を説いて曹操軍への投降を勧める。

徐晃とて楊奉や韓暹の大義や将来性については、とうの昔から見限っていた。

だが一度主と仰いだ相手を裏切ることはできなかった。

それだけ彼は信義を重んじる人間であるのだ。

それとは別のところで、本当に自分が輝くことができる場所を探したいという心があった。

義と自己実現の狭間で悩んだが、

楊奉・韓暹との戦いの前面に立たないことを条件として徐晃は投降を決した。

徐晃はこの投降は恥だと思っていた。

自らの都合で主を裏切り、敵対勢力に合力するという典型的な背任行為である。

昼間にあれほどの抗戦をした曹操軍に逃げるのだ。

曹操からは冷遇されて当然だと思い込んでいた。

それがこの歓迎ぶりである。

酒宴の途中で徐晃は歓喜のあまり涙を流して曹操の前に跪いた。

そして曹操のためには犬馬の労を惜しまないことを誓ったのだった。

こうして、曹操は名将に出会った一日目にして、その名将を己に心服させた。

徐晃を失った楊奉・韓暹如き曹操軍の相手ではない。

翌日、逆上して挑んできたが、逆に散々に蹴散らされて逃亡した。

百九十六年、曹操軍は献帝を奉じて許都に入った。

車騎将軍に任ぜられた曹操は董卓や李カク・郭汜とは比較にならない治世を布き、

確固たる中央の勢力を築き上げることになる。







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