神護寺の写真、空海由来の密教美術仏像宝庫・京都高雄山

投稿日:2020年5月14日 更新日:



神護寺の石階段は険しい、とは記憶していたが、久しぶりに訪問してみるとそのハードさにびっくりした。

京都一周トレイルランニング中に立ち寄った高雄の神護寺、運動するのに最適な格好をして、

身体も十二分に温まっていて、誰よりも歩ける状態だったのに。

神護寺の写真

(神護寺金堂前の美しき石段)

 

有名で訪れる価値の高い神護寺、だがしかし、この鬼のような石段をクリアしないと辿り着けないという試練がある。

神護寺の写真

途中何回か休憩を入れ、ついでに道脇にある木々の豊かさに紅葉の頃の美しさなんて確信しながら、這々の体で神護寺の正門に辿り着く。

神護寺の写真

(恐るべき試練・正門前の長い石段

 

リニューアル中だった神護寺正門、受付の方と挨拶交わしながらちょっと場違い格好(ランニング着)で拝観を始めた僕。

神護寺の写真

最大のお目当ては金堂にある仏像群。

僕はそっと正面に腰を下ろし、国宝・本尊薬師如来立像に向き合う。

神護寺の写真

(金堂のアップ写真)

 

平安時代初期の作品だというその歴史の長さには驚いてしまうよね。

どうやら僕の目は、薬師如来や日光月光よりも両端にある仏像たちに流れていく。

十二神将・四天王がほぼ完全な形で現存しているという神護寺の貴重さ。

空海由来の真言宗のお寺ということもあり、密教美術品が豊富な神護寺に僕は惹かれている。

神護寺の写真

周りにはお寺の人以外、誰もいない時間帯だったので僕はひたすら仏像たちと無言でじっと向き合っていた。

久しぶりに「本物の仏像」とお逢いできて嬉しい僕、アメリカ転勤中はニューヨークのメトロポリタン美術館で重要文化財級の仏像を見ることはできたが、ここ数年は「本物の仏像」に飢えていた。

仏像たち、それも大好きな十二神将・四天王と静かに向き合う時間、なんとも優雅で贅沢なひと時だった。

神護寺の写真

かわらけ投げの場所、高雄山と清滝川の絶景

 

かわらけ投げの方へ向かい、高雄山と清滝川の絶景を眺めていると庭師の方と話がはじまって、空海が14年もいたこと、当時はこの周辺一帯を治めていた神護寺であったことなどを聞く。

神護寺の写真

国宝18、重要文化財2000も有する神護寺と説明受けると、その偉大さを改めて知った。

今日は僕、嵐山から鞍馬まで走ります、と伝えると流石に驚かれた表情だった。

新緑の美しさ、苔の見事さ、きっとこの方の努力の賜物なのだろう。

神護寺の写真

高雄山神護寺は確実に紅葉の名所だな、新緑の季節に訪れたのに容易にイメージできる紅葉時の名所ぶり。

心に染み渡る、密教仏像たちとの時間。

またいつか、紅葉時の高雄山神護寺を訪れる機会を設けたいな。

 


高山寺の写真、2010年撮影

高山寺の写真

山奥の小さなお寺なのに、世界遺産だという。

寺宝の「鳥獣人物戯画」は平安時代に書かれた、マンガや風刺画の原型で有名。

ほら、カワイイ兎や猫、猿やカエルで書かれた人間チックな動き。

動物たちを使って、当時の人間ドラマを風刺したもの。

今見てもとってもカワイイ絵だから、思わず微笑みながら見てしまうよ。

高山寺の写真

もうひとつの国宝、石水院の建物に座っていると優雅な気分になる。

緑豊かな一体を、柱と柱に囲まれた絵を鑑賞するような感じで眺める。

高山寺の写真

現在では、近くに大きな車道ができてしまって、聞こえるのは車の音。

きっと昔は、鳥がさえずる音以外、何も音なんてなかったのでしょうね。

そう空想して、石水院にじっとたたずむ時間があった。

高山寺の写真

もうひとつ変わったもの。日本最古の茶畑があるのが、ここ高山寺。

お茶好きの僕には興味津々の場所、この茶畑から全国へお茶文化が広まっていった。

高山寺の写真

小さな場所なのに、国宝や名所を有する高山寺。

ナメてかかることができない場所、小さくてもピリリと甘いのが高山寺。

 


高雄山神護寺の写真、2010年撮影

神護寺の写真

神護寺、僕が尊敬する空海が唐から戻った直後に14年間いたところ、密教文化の発祥の地。

神護寺の写真

京都市街の北西、嵐山から山をひとつ越えたところ、高雄山の中腹にある。

駐車場からちょっと歩くかなと思っていたら、これが大変な山登り。

健脚の僕でもグチを言いたくなるぐらいに急な階段が続いて、汗ばむどころか、汗をかく。

よほど興味がある人しかこの神護寺には来ないでしょう。

神護寺は秘境にあるお寺、紅葉の季節でなければ訪れる人は少ない。

神護寺の写真

この神護寺には素晴らしい宝物が数々ある。

国宝の薬師如来像を中心に、脇に日光・月光が控え、その脇には十二神将がズラリ、

そして四隅を守るのは四天王、しかもそれが金堂で一堂に会している。

こんな仏像パラダイスは東寺の講堂以来、さすがは空海ゆかりのお寺だと魂を飛ばしてしまう。

遠くからしか仏像を見ることができないから、奈良・新薬師寺のような臨場感はない。

よく見れば十二神将の手が欠け、持ち物が足りないものだってある。

しかし、全体がこうして並んでいるのを見ると、たまらなく嬉しい気分。

神護寺の写真

ここ神護寺は修行のお寺でしょう。

多宝塔の秘存の五大虚空蔵菩薩はさておき、他に派手な見どころはない。

神護寺の写真

瓦投げの場所に行けば、視界が一気に晴れて、付近の山を見渡すことができる。

空海が物思いに耽った場所だろう、そう思うと特別な場所にも思えてきた。

神護寺は紅葉の名所だという。

この山深さ、生い繁る樹木の多さ、推測するだけでも燃えるような紅葉が描ける。

神護寺の写真

そうか、空海は紅葉の中にいたのか。

季節の移ろいを愛でながら、空海は何を想い、密教文化を広げていったのだろう。

空海を想い、お宝仏像を愛でる。そんな神護寺の旅でした。

 


密教美術、遣唐使が唐の長安から持ち帰った文化が和様化

 

外国から異なる文化を取り入れ、未知のものと自国に既存のものを混ぜ合わせることで

自国の文化発展につなげる、というのは世界中で行われていた営みであったが、

それを当時最も盛んに行っていたのが唐の長安。

シルクロードを経て流れてきた胡風と呼ばれるペルシア文化やササン朝工芸が

長安では流行していたが、他にも宗教は中国古来の道教に加え

インドの仏教(密教)・イスラム教・景教(キリスト教の一派)などが伝わっており、

東アジアにおける最大の国際都市であった長安にはユーラシアや東アジアの周辺国は

留学生や留学僧を唐に派遣し、文化の吸収を図った。

その中で日本も遣唐使という形で人を長安に派遣していた。

遣唐使が日本に持ち帰ってきた文化は数多いが、

その中で入唐僧の弘法大師空海が広めた密教文化が後の日本美術史に与えた影響は大きい。

音楽や舞踏・文字・建築などの密教芸術もそうだが、

絵画と彫刻という密教の造形美術は既存の日本美術に刺激を与え、後の日本美術に大きな影響を及ぼしている。

 

密教という宗教は五感を中心とする人間の生の感覚表現を禁欲的に否定するのではなく、

そのボルテージを高めていく方向をとり、神が現実の姿として目の前にいない神道に較べれば

より身近で具体的な宗教であり、それまで封じ込めがちであった感性を開放するものという意味で斬新なもの。

インドのヤクシー像のように女性の豊満な肉体を官能的に、

そして写実的に表現する密教彫刻(東寺)や立体的で色彩豊かな

西院の両界曼荼羅のような密教の宗教画は、奈良時代までの日本美術にはないものだったし、

経典に定められた宗教世界を現実のものとして描き出す、というそれまでにない美術創作ルールを伝えることになった。

無論それ以前の日本にも独自の神々の世界があり、関連する美術文化があった。

異質の宗教が入り込んでくると、血みどろの闘争をして、立ち直ることができないほど、

相手を破壊しつくしてしまうものが通常であるが、

日本社会は密教を敵対視することなく上手に取り込んでいった。

かたちのない神々よりも、より具体的で刺激の強い仏像を求めてゆき、

仏像を身近なものとして認識するほうを社会は優先したのだ。

身近なものになると次第に密教は世俗化されてゆき、そこに仏像彫刻の需要が生まれる。

当然インドや唐から持ってきたそのままの形ではなく、日本なりに宗教も変容してゆく。

次第に密教の変化は「和様化」されるという道をたどることになる。

外国文化を取り入れつつも、彫刻家たちが持っていた奈良時代からの感覚と技が密教彫刻に活かされ、

独自の色を密教彫刻に重ねてゆくようになった。

密教仏像は元々石の文化としてインドでは誕生したが、

日本では中国からもたらされた檀像彫刻や日本の山岳信仰の影響があり木が主流になる。

それは木の持つ生命力を日本人は愛したからだろう。

遣唐使の終焉、唐の滅亡とともに大陸からの影響は薄れたが、かな文字や和歌、

大和絵など元々は唐からきた文化が「和様文化」として確立されていった藤原時代に、

仏像彫刻も日本人が昔から好んだ穏やかで繊細なものに同化されてゆき、

密教美術もまた、あたかも日本固有のもののように形を変えてゆく。

遣唐使中止以降、次第に密教本来の派手さや難解さは色を薄め、

日本人にとってもっとも身近な、平明な境地に置き換えられたのである。

京都で栄えた和歌の世界により近いものになって変容してゆく。

それは自然な文化の融合というものであろう。

密教文化が和様に変化したものの代表作として、平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像がある。

題材の阿弥陀如来は密教の五大明王の一人であるが、

鳳凰堂の阿弥陀如来の風貌はふっくらとした美人系の顔立ちであって、見るからに優しさが漂う。

衣の文線のゆるやかな流れ、わずかに背中を丸めて胸を引いた自然体な佇まいにも優雅さがあり、

このような洗練された仏像こそが藤原貴族たちに求められていたものであろう。

貴族らは寺院を一種の別荘のように考えていたのであって、彫刻は装飾品の一部としての位置づけをされる傾向にあった。

坐像の周囲には極楽浄土の世界がパノラマのように飾られている。

密教の難解な教義に興味を示さなかった平安貴族たちが求めたのはもっと簡単な、

極言すれば手を合わせるだけで救われるという都合の良い宗教であった。

こうして要求されるものが変わってくる中で、仏像は見るからに恐ろしい姿形をしたものではなく、

いかにもありがたそうなものが主流になり、

次第に表情もまるでインド風のエキゾチックなものから日本人のように穏やかものに変わってくる。

定朝の作り上げたこの阿弥陀如来坐像こそが和様仏像の典型、

「定朝様」として日本の彫刻美術に新しいスタンダードを確立した。

マイナスの面をあげれば、この和様によって本来の彫刻にあるべき

立体的に彫り込むことが軽視され、まるで絵に描いたように平面なものになった。

密教の高度な精神世界の中の阿弥陀如来としてではなく、ただ単に救われるために

手を合わせる対象としての仏像になり、宗教の精神面は衰退していったのである。

こうして藤原時代に和様仏像の古典様式が確立されていった。

大半日本人がいかにも好む優美で優しい仏像こそが、

最終的に遣唐使が持ち帰った密教から発展していった日本美術の到達点なのだ。







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