”張飛の妻・嫁”と聞いただけで爆笑しちゃう、もはや言葉自体がギャグ。
落差の激しさ、イメージの相反、その最たるもの。
ケダモノ張飛 ←→ 13歳の美少女・夏侯氏
あり得ないものと、あり得ないものが、異なる属性を越えてくっつく。
ワイルドじゃないスギちゃんが言う、「ワイルドだろぅ?」
超剛速球で知られる投手が投げた、まさかのスローカーブ
醜男の、美声
美女の、大食い
イケメン斉藤工が本気でやりきった、サンシャイン池崎ネタ
張飛の、妻
ほら、違和感なし。
張飛の嫁、としてもギャップ萌えしちゃうし、
張飛の妃、と来たら馬鹿馬鹿しく、
張飛の女、となると急にドロドロした欲望を感じる。
時代が経ちすぎて、当の張飛本人にも角が立たなくなった今、
張飛の妻、という言葉は誰もが笑って遊べるパワーワード。
「あんなゴリラ男・張飛に、妻なんているわけないでしょ!」
僕たちはこの言葉の意外性・インパクトを愛しているのだ。
しっくりこない。
「張飛の妻」、「張飛の嫁」、「張飛の后」
そんな呼ばれ方をされると、なんだか遠くに感じる、ずっと向こうに、はるか彼方に。
ただの俺の女だから。 張飛の妻とか呼ばれるとなんだか笑ってしまう。
30歳にもなればいつ死んでもおかしくない衛生状態の時代、
だって西暦200年よりも前。
更に俺は常に戦へ出ている身だ、明日のことは知らない。
いつ滅んでもおかしくない我が身体。
今欲しいものを求めただけ。
俺と女の出逢いは単純なものだった。
魏志「諸夏侯曹伝」に書かれた張飛と張飛の妻の始まり。
俺と女の馴れ初めは、俺の強奪によるもの。
そもそも、夫婦ってその程度のものだ。
綺麗事でもないし、運命でもないし、
きっかけがどうあれど、一緒になってからの過ごし方が夫婦を創る。
血より薄くて、濃いもの。
子供がつなぐ仲、それが夫婦なのだ。
2人の娘に恵まれた俺たちは、立派な夫婦と言えよう。
張飛の妻、俺の女、他人たちが語る一組の男と女のあれこれ。
名前が残っていない、って残酷。
子供の名前は何というの?
張苞・張紹の実母なの?
娘が2人いて、共に劉禅に嫁いだ敬哀皇后と張皇后って本当?
そもそも張飛の正室なの?側室なの?もしくはそういう概念はないの?
「張飛の妻」はゲームなどでは夏侯氏などと呼ばれるが、
本当の名前はどこにも残っていない。
だって200年前の話だから。
当時、女性で歴史書に名が残っている人なんて、ほんの一握り、
いいえ、宝くじ当選率をずっと薄めた確率。
魏と蜀という国家どちらにとっても皇族という
珍しいバックグラウンドを持つ人だ、張飛の妻は。
数奇な運命人・夏侯覇と同じく。
派手だから、人目を引くから、
そんな軌跡を通った人は他にいないから、名が残った。
幸なのか不幸なのか、 張飛の妻として後世に名を遺した偶然。
正直、何の功績もないのに、人々の好奇心に遊ばれて、
架空の話をでっち上げられる運命にあった、張飛の妻。
羨ましい気もする、何はあっても、
多くの人たちに存在を認識された張飛の妻の幸運。
魏の親族・夏侯家に育ち、蜀の親族・張家へ、お珍しい生き様だったね。
<中国歴史書とは、勝者の皇帝による正統性証明、歴史の改ざん>
中国において、文学が自由な表現を行おうと思っても
そこには特に政治面・経済面において大きな制約があったが故に、思いのままを文学にすることはできなかった。
とりわけ歴史書が関連してくる三国演義のような史実に基づいた文学は
三国時代から千年近くも経ってようやく文学として身を結んだのである。
それも、その普及のためには史実から内容を大きく変えるということを成さずには
到達できなかったところに文学の苦労が見て取れる。
白話小説「三国演義」は三国時代の英雄たちが活躍した様を鮮やかに書き出して
民衆の気持ちを捉えた中国文学史上で他に類を見ないほど人気のある文学である。
三国時代の史実をベースにしてはあるが、あらゆる面で修正が施されている。
一番大きいのがその主役である。
西晋の時代に陳寿が書いた「三国志」を基盤としている三国演義だが、話の軸は蜀の劉備らの活躍が中心となって進んでゆくのだ。
しかし歴史書である三国志ではどうか。
後漢王朝から正統の皇位を禅譲された魏が話の中心であって、その魏から次に晋が正統に皇帝の座を禅譲されてゆく流れだ。
蜀が中心となった話などまったく出てこない。
同じ時代を書いたはずの歴史書と小説に現れたこの決定的な違いは何故だろう。
そこに歴史書と文学の関連性、あるいは壁と呼ぶべきものがあることを説明しよう。
歴史書の始まりをさかのぼれば紀元前100年前後に「史記」を著した司馬遷にたどりつく。
彼は自分が仕えた前漢の武帝の活躍を記したが、
その以前の歴史として神話上の五人の君主「五帝」に始まった中国の皇帝から、
夏・殷・周・秦と続いた皇帝の推移について述べ、そしてその正統な皇位の流れの延長線上として
武帝は中国の神権思想「神天が自分に代わって天子という
絶対的な存在を遣わして世を治める」の元で天子になったと結んでいる。
そこに書かれているのは前漢の立場だけから非常に都合良く見た中国の歴史であるが、
勝者の一方的な視点からということであるからそれは少なくとも公平な歴史書と言うことはできた。
世界史の中の中国史という視点もなければ、中国そのものの歴史でもなく、それは皇帝の正統の歴史であるのだ。
それを中国の歴史書の始まりと呼ばざるを得ないところに、そもそもから歪みがある。
しかし事実としてこの司馬遷の史記が、その後も中国の歴史認識のスタンダードとして捉えられており、
中国大陸の支配者である皇帝が代わるたびに新しい国は自国に至るまでの過程を同様の歴史書として書き残してきた。
後漢から三国時代を経て魏~晋とたどりついた時代の中で歴史書・三国志は生まれている。
それ以前の歴史認識から見て当然、三国志は晋の前身・魏を中心にして書かれている。
いや、書かれなくてはならなかった。
そうでないと正統な天子の禅譲に結びつかないからだ。
その中国思想では一人の天子しか地上に存在しないことになる。
同じ中国に三人の皇帝がいる三国時代などあり得ない事態であるから、それを歴史書である三国志に公に書くことはできない。
そこに妥協という欺瞞がある。
陳寿は三国志で魏のことについて書いた魏書にだけ、
皇帝の正式な伝である「本紀」として立ててあり、蜀や呉は「列伝」として扱った。
この「列伝」という言葉は皇帝の配下という意味合いがあるから、
要は魏だけを皇帝のいる正統な国として認め、皇帝を名乗った蜀や呉については国として認めなかったのである。
さらに注目すべきは著者の陳寿は蜀の出身であるということだ。
当然本人としては魏や晋よりも蜀こそが正統な国であるという意識があったに違いない。
ただ、晋の支配下で書いた歴史書であるがために、いくら陳寿といえども蜀を正統とは書き残せなかった。
書いたとしても必ず晋によって書物は破棄され、自らの身の危険を招くからだ。
新しい国家における歴史書の価値は何か。
自己の支配の正統性の根拠についての公式見解を示すプロパガンダの道具であったのだから、
歴史書の事実の改ざんが存在するのも当然のことであった。
そして支配国の影響があるうちは、事実は歴史書にも小説に書かれることなく闇に葬られることになる。
三国演義のように千年の時を経て、具体的な影響が無くなってようやく文学として歴史が描かれるのである。
文学である三国演義には支配者の制約はない。
代わって制約がかかってくるのは大衆に受け入れられなくてはならない、という点である。
そこで三国演義では主役の交代が行われた。
後漢の有名無実化した天子を手玉にとって悪行を極める魏の曹操と、
それに立ち向かう蜀の劉備、その劉備には平民出身という身近さと漢王朝の血を継ぐ正統な君主という材料を与えた。
本来天子であるべき劉備が平民から力をつけて悪玉の曹操と戦い、
しまいには蜀漢という国を建てて皇帝になる、という
誰もが喜んで受け入れるストーリー性を追加したことで、三国演義は小説として文学上の地位を獲得した。
歴史書である三国志と、文学である三国演義はそれぞれ必要とされた状況によって
同じことを書くにしてもこうも違うものに出来上がったのである。
この三国演義の主役交代の理由に中国における文学と歴史書との苦しい関係が見て取れるように思えてならない。
~の母と呼ばれたのは、ウルトラマンの母しか知らない。
~の妻と呼ばれたのは、刺身のツマしかない。
~の〇という呼ばれ方の場合、~の子とか、~の父というのが多い。
なのに彼女は「張飛の妻」と呼ばれてもう1800年。
世間の認知度でいえば、張飛>夏侯淵であることは分かっていても、
なんだかやりきれない。
「夏侯氏」だなんて新しい呼び名を与えられた彼女は喜んだのだろうか。
彼女にとっては「張飛の妻」こそがしっくり来る名前なのかな、
それとも、どれもこれも、どうでもいいことなのかな。
「張苞・張紹の母」とは呼ばれることがない。
「夏侯淵の姪」という呼び名も定着しなかった。
あいつの個性が強いから、あいつの支配下にいつも置かれて、どうにも動かない。
もしも別れたら、「張飛の元妻」といつまでも呼ばれ続けていたの?
名を呼べ。
彼女にも名がある、現代までの長い時間の中で風化してしまい、
書物には残らなかった名前だけど。
張飛の妻だが、張飛の妻が主ではない。
夏侯淵は悔しかった。
俺だって神速を得意とする武将で、
征西将軍に任ぜられた、魏を代表する名将の一人だ。
でもあの暴れん坊・張飛のインパクトには勝てない。