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桃畑で雑草取りと水路作り 「愛日常」4話

投稿日:2004年2月1日 更新日:




それから僕の毎日に張り合いができた。いつもは上の空の月曜日。変われば変わるもので、月曜の朝さえも新鮮に感じる。

通勤の途中で勝手な想像をしてみる。造園の知識はなくても、想像の中ではいつも色とりどりの草花が咲き乱れ、自分の思い通りに桃園が出来上がった。

仕事の意味が変わった。その一日のための仕事ではなく、あくまで週末出勤をしないために、金曜になるべく早く帰るために仕事をするようになった。月曜から木曜ごとき、いくら遅くまで仕事をしたっていいさ。名もない平日に用はない。週末にいかに花を咲かすか、それだけが僕の平日になった。

大きな本屋で造園の本を探すが、僕たちの事情にぴったりくるものがない。確かに考えれば趣味の盆栽ではないし、プロの農業でもなく、庭で家庭菜園をするわけでもない。とにかく目的が一般的じゃないから、それらしい本がないのだ。こんなマニアックなことを店員さんに相談するのも気が引けた。

果樹の解説書があったので買ってみた。桃についての記載もある。こんな本が鞄の中に入っているのを見られたら、何て説明すればいいんだろう。説明できないよなぁ。何時間かけて話したところで、僕の新しい仲間たちのように理解してくれる人なんて滅多にいるもんじゃない。昼休みに机で読むわけにもいかないな。電車の中と家で読もう。

あれからみんなどんな毎日を過ごしているのだろう。乾いた平日に目を冷まされたりはしていないだろうか。土曜日までほっておくつもりだったが、とてもそれまで待ちきれない。みんなに同報でメールをしてみた。

「土曜は天気良いみたい。みんな来てくれよな~。昭」

すると、美夜子からすぐに返事が来た。

「ハ~ィ↑ 休みにしたから! (^o^)/

 しばらくして慶からもメールがあった。

 「心配しなくてもみんな来るって。君こそ仕事で駄目になったりしたら許さないぞ」

 昼間に打ったから四季は仕事で返事できなかったんだろう。夜になってメールが届いた。

 「今日もお疲れ様。土曜日早く来ないかしらね (~o~)

 短いメールだから、選ぶ言葉にちゃんと意味がある。この饒舌な社会に落とされた珍しいコミュニケーションツール。簡単かつ本物なのだ。

返事を読んで自分が小さく見えてきた。もうみんなを疑うようなことは止めにしよう。僕は何を心配している。これはもう僕自身だけの話じゃない。みんながそれぞれ意味を持ち始めているのだ。

 それに較べるとこんな仕事が何だ!仕事なんて簡単だ。やればできる。大したことじゃない、やればできてしまうのだ。随分前倒しに処理したから、金曜日は六時半に切り上げた。そのまま飲みに行くのでもなく、帰って何をするのでもなく、ただ早く寝た。月曜からの計画通りにできたので僕は至極満足だった。

 びっくりだ。目覚めは早いし、気分が良い。こんなのなかなかないぞ。早々と荷造りしてBarに車を向かわせた。今日はみんなを拾ったら途中のホームセンターで道具を揃えて行こう。いよいよ本番だ。

 また三十分もフライングだ。駅前の牛丼屋で朝食を取ることにした。会社帰りによく立ち寄るけど、私服で入るとまたなんか新鮮な感じ。運ばれてきたら一気に食べる。まだまだ時間はあるのにゆっくりしていられない。何だこの感じ。僕はまた何かを焦っている。

 先週と同じ場所で待っているとみんなが来た。四季と美夜子は一緒に、慶はまた大荷物を抱えて。どこで買ってきたのか、大きな鎌が四つも袋から刃先を出している。それを見た美夜子は露骨に引いていた。あれじゃ丸っきり危ない人だぞ。

 途中でゴミ袋やバケツを買った。冷たい飲み物も欲しいからクーラーボックスも買う。軍手や鎌は慶が持ってきたから大丈夫だし、縄やシャベルは買った。あと必要な物は何だろう。鴨川さんの力を借りてはいけないんだから、道具だって自分たちで用意しなくちゃ。

「ところでみなさん。そうだとは思ってるけど、今回は一切機械なしでしょ?自分たちの力だけでしょ?」

慶が聞いてくる。僕は女性二人を気にしながら当然のように言ってやった。

「もちろん。機械なんて無粋な物、僕たちに必要ない。でも、二人は心配しないでよ。基本的に力仕事は僕と慶でやるからさ」

「だから~。余計な気を使わないでよ。私たちだってちゃんとやるから。そういう遠慮はお願いだから止めてよね」

「そうだよ~。せっかくやる気なのに!」

嫌気がさして逃げられたら困るからそう言ったのに、逆に怒られてしまった。そうか、二人も本気なんだ。こんなことはもう言わないようにしよう。

「はい、すいません!頼りにしています!」

心の中は感謝の気持ちで一杯だった。こんな気持ちこそ口に出してもいいのに、どうも僕は、そして男という動物は、それを素直に言うことができない。

「でも、いいねぇ。己の肉体だけで何かを創り上げる。芸術の基礎であり、本質だ」

慶がしみじみと言う。

「朝から演説!後にして、後、後!」

美夜子がそう言って笑っていた。彼女にとってはそういう理解か。四季はどうだろう。彼女も笑っているのは美夜子に合わせているからか。僕は慶に賛成だ。慶はいい事を言った。芸術の本質。その通りだと思う。

これまでの人生で慶がどんな日々を過ごしていたのか、僕の知るところではない。まだ出逢ったばかりの仲だが、それでも今までの彼の言動や、仕草や表情からある程度は読み取ることができる。僕とはどこかで共通したものがあると最初からそう思っていた。それは、これまでの人生で決定的な自分の生の確証を掴んでいないという共通点だ。

慶の言葉はいつも強気で、迷いがないように聞こえる。しかし、その裏づけが乏しいと感じるのは僕だけではないはずだ。彼のこれまでは決して幸せではなかったのではないだろうか。幸せな人間ならば、裏にもっと幸せの痕跡が見え隠れする。若さに悩みや苦しみはつきものとはいえ、彼の場合はその生来の変わった性格が災いして、随分多くの壁に阻まれてきたのだろう。それも僕に似ている。

僕は一旦昔に栄光を掴んだが、今では遠い昔話になってしまった。今、それを取り戻すために桃の老木へと向かっている。現実と戦っているのだ。社会生活という妥協の中でも、精神面の弱い妥協を乗り越え、己に非妥協的である自分を再生させようと願っている。一方的に社会に背を向ける非妥協ではなく、かといって生活の妥協の中で精神の非妥協を貫くほどの信念もなく、どこにでも存在する妥協の中で、なし崩し的な己の弱い妥協から守るために、今回は非妥協を目指そうとしている。

留年や下宿という妥協を選択し、自分の人間関係のまずさや端的な知識を世間と妥協させられず、やや勘違いして徹底した非妥協を選ぼうかとしている慶。やはり共通するところがあると思う。

「でもほら、あのぐらいの広さでしょ。逆に機械を探したり、習ったりする方が効率悪い。全部自分たちの力だけにした方が絶対早いって」

僕が繰り返す。

「言った!美夜ちゃん、泣きついてきても絶対に認めないようにしよう!」

「はいはい、認めなくていいですよ。ぜ~ったい機械なんて使わないから」

そういうことでみんなの方針は固まった。便利な東京をわざわざ離れるんだ。東京と同じものを持ち込まなくてもいいと思う。今は違う場所にいるんだから、そこでしかできないことをやろう。どうせなら、その過程の不便ささえも楽しんでみよう。

御坂に着くと、桃の老木へ向かう前に鴨川さんのところへ挨拶だけしに行った。縁側に座って庭の盆栽を見ながらお茶を飲んでいた鴨川さんに、これから作業を始めてきます、と言ったがどうもリアクションがない。あまり関心がないようなのだ。僕にはそれが不可解だった。そんなはずはないんだけどなぁ。わざと無関心を装っているようにしか思えない。

老木まで着くと、すっかり太陽は上がり、まだ五月になったばかりというのに半袖でも耐えられないような暑さを感じた。屋根がないから直射日光が厳しい。これで蝉の声でも聞こえたら本当に夏だ。

みんなで鎌を持ち、まずは桃の老木の一帯から手前の水路跡に向かって雑草を刈ることにした。横一列に並び、足元の草を刈り始める。切ると草の独特の匂いがむっと立ち込めた。

「この匂い。なんか、久しぶり」

僕がそう言うとみんなも何のことか分かった様子だった。

「本当。私もこれ嫌いだった」

「あ、キライ、わたしも」

女性二人はそう言った。そうだろうな。こんなの好きな女性はいない。僕も好きだったわけじゃない。草刈後の畑の横を走る時、この匂いを嗅ぐことがあった。その時は口だけで呼吸するようにしてたもんな。

続けていると腰が痛くなった。慣れないから最初は辛い。ちょっと腰を上げて、背伸びをする。ふと、伸び上がった視線から仲間たちの姿を見た。――ありがとう。いきなりそう言いたくなる。見ず知らずの彼らが、どうして僕の桃園で雑草刈りをしてくれているのか。考えるほど不思議で仕方がない。

予想以上にみんなの手は早く、一時間もしないうちに老木から水路跡まではきれいに片付いた。まだ若い夏草だったから、膝下ぐらいまでしか伸びていなかった。

太陽を浴びて身体を動かしたから汗が出た。背中や額にも汗が滲んでいるのが分かる。重労働だな。みんなも袖口やタオルで汗を拭っていたようだった。仕事で流す汗が悲涙だとすれば、この汗は喜びの涙。僕には作業ではなく、楽しい遊びだ。久しぶりにいい汗にかいたら気分が良くなった。これぞ、汗。

「ちょっと休もうか」

そう僕が言うと、みんなも立ち上がって腰を伸ばした。丘にシートを引いて腰を下ろし、クーラーボックスの氷で冷やしておいた飲み物を飲む。

「ビールが飲みたいなぁ」

突然慶がそんなことを言う。

「飲めないくせに!飲ましたら仕事にならないだろ!」

「冗談だよ、冗談。酒飲みってよくこう言うだろ。ちょっとその気持ちが分かったような気がしてね、一度言ってみたかったんだ」

そう言って慶は一人で笑った。こんなに地味な汗を極上の酒のつまみだと思うとは、彼のやる気も本物というか、感覚が僕に近い。

汗が心地良い。汗よ、全身から流れろ。腐敗した日々の擦り傷や、知らないうちにこびりついてしまった社会の毒だとか、そういうものを洗い流してくれ。土や草木に密着した汗臭い汗はこんなにも気持ちの良いものだとは、今の今まで僕は分かっていなかった。

しばらく休んだ後、今度は丘から下に向けて草を刈ることにした。まだ昼前だが、陽はすっかり上がり、ますます暑くなってきた。帽子を忘れたな。日焼けしないように長袖の服の方がいいみたいだ。

しばらくすると周りの雑草はきれいに姿を消した。お昼になったので、途中で買ってきたお弁当を食べることにした。丘の上のレジャーシートにみんなで座る。

「ここまでは順調だね」

「ホント。順調」

「午後はどうする?」

「水を引くのはまだまだ早い。その前に道を作ろうよ。竹林からこの丘の上まで、土を固めて道を作ろう。でこぼこあるから歩きづらいでしょ?歩く道は大切だよ。それに、舗装していない土の道って、僕たちのコンセプトに合うんじゃないかな」

僕が提案する。すると慶がいいことを言った。

「じゃぁ、水路を掘ろう。そうすれば土が出るから、それを道に使えばいい」

「賛成!」

それを聞いた美夜子が拍手する。

「おっ、たまにはまともな意見出すじゃない。それはいいね、午後はそうしよう」

男二人がシャベルを持ち、竹林の端から端までの水路の溝を深くすることにした。深く掘り過ぎないようにしようと話しておいた。あまり深くしても後で水を流す時にうまく流れなくなってしまうかもしれない。あくまで自然体なものがいい。本物の小川の流れに準じたものにしたい。

「わたしたちどうすればいい?」

持て余した様子で美夜子が聞いてきた。力仕事なので男二人が場所を取ってしまった。

「じゃぁね、刈った草を集めておいてくれるかなぁ。隅っこのほうに山にしておいてよ。そのうち捨てるか燃やすから」

そう言うと、彼女は四季と一緒に草を集め出した。嫌がる様子がない。偉いというか、ちょっと変じゃないかな。僕があのぐらいの年のときはあんな素直に言うことを聞かなかっただろう。何が彼女を動かすのか。まだまだ僕には分からない。

きつい力仕事になった。水路の土を掘っては、出た土をバケツに入れる。それを四季と美夜子が運んで、丘に向かって道の線を描くように撒いた。

「道の脇にはお花植えたほうが可愛くない?」

四季と美夜子がそう言って道なりに何を植えるのか話しているのが聞こえた。それは賛成だね。僕たちの道らしくなる。

水路の溝も順調で、くっきりと溝が出来てきた。広場の掘り終えると、今度は二手に分かれて横の竹林の中まで掘ることにした。掘ってはバケツを土一杯にして戻る。渡すと彼女たちはそれを道に撒いて、なんだか笑いながら道を踏み固めていた。何でも楽しんでしまっている。あれは凄いな。男にはなかなかできない。何でも楽しんでしまうのは女性の特権だと思う。

 溝はだいぶ掘ったから、僕たちも道の方を手伝うことにした。竹林の出口から丘への道はもう出来上がっていた。問題は竹林の中だ。落ち葉が絨毯のように重なって道のようにはなっているのだが、でこぼこがひどい。まずはシャベルである程度慣らしておく。土を撒いたら堅く踏みしめる。結構厚く撒かないと道にならない。今後は土が足りなくなって慶と土堀に走る。

いつの間にか陽は斜めに傾いていた。竹林の道も出来上がってきた。身体中が汗まみれだし、土の匂いが服にこびりついている。

――あぁ。

思わずため息が出た。嬉しい。こんな夢を実現できているとは。それも一人ではなく、仲間たちがいる。なんて満足な一日だろう。

「おぉ~い。もう終わりにしよう」

僕はみんなに呼びかけた。駐車場の近くの道を仕上げていた慶が戻ってくる。四季も美夜子もそれぞれ汗を拭って集まってきた。それで今日は終わりにすることにした。

「今日は成果あったんじゃない?いいねっ、このペース」

「ねー。いい感じ!」

女性二人の会話に慶が口を挟む。

「最初は上手くゆくよ。問題はこれからだ。これから沢山障害があるぞ」

すると美夜子が慶をじろりと見た。やばい、何か言いそうだ。僕がすかさず割り込む。

「いやぁ、とにかくみんなよく頑張った。こんな作業ばかりだけど嫌じゃないよね?楽しい?」

しつこいかと思ったが、そう聞いてみる。

「結構いい運動になるよね。嫌じゃないよ」

四季が助けてくれた。

「じゃぁ、鴨川さんのところにちょっと寄ってから帰ろうよ」

丘へ荷物を取りに戻る。改めて見渡すと、今朝とは景色が違っていた。元々そんなに長くなかったが、乱雑に生えていた夏草が刈り取られて、横に水路溝ができた。竹林から丘までの土色の道だって出来上がった。だいぶいいんじゃないかな。これが、僕たちの一日分の成果だ。

作った道を踏みしめながら竹林を抜け、駐車場に戻る。道は格段に歩きやすくなった。アスファルトではない自然の道。僕たちらしい純粋な道だ。

鴨川さんは家にはいなかった。それから作業道具を預けるため実家に寄ると、母が夕飯を食べていけと勧める。さすがにみんなは遠慮していたが、もう作ってしまったから、という母の強引な言葉に押し切られた。

今日は親父もいた。運転があるから僕には飲ましてくれなかったが、みんなにビールを振る舞って、若い女性二人を前にした親父は恥ずかしいぐらいにデレデレになっていた。飲み過ぎだよ、親父は。飲んだ勢いで色々聞いてきやがったが、四季がとっさの機転を働かせて切り抜ける。拝島のスポーツサークルで知り合ったメンバーで、サークルの課題をここでやることにしたのです、と言うと親父は納得した様子だった。上手い。さすが。

またいつでも来て下さい、と言う両親。こういう時、ウチの親は偉大だ。決して物事を曲げて捉えたりせずに正面から広い心で接してくれる。田舎者といえばそれまでなのだが、東京に出てからその優しさの意味が僕には分かった。

夜の高速で拝島に戻る。飲んでテンションが上がっている四季と美夜子がずっと後ろで騒いでいた。食事付き、ビール付き、送迎付きだから結構いいバイトね~、給料はないけどそれ以外は待遇いいね~、とわざと僕たちらしくないことを言ってふざけていた。

来週もどうかと聞くとみんなは口を揃えて大丈夫、と言ってくれた。良かった。まだ続けられる。実際に始めてみるとこれが結構楽しい。きっと、一人でやったら虚しい気分になっていたことだろう。仲間がいることでそれが楽しさに変わった。一人と二人では大違いなのに、今はそれが四人もいるんだ。ありがたいこと。みんなに感謝しなくちゃいけない。

Barの前でみんなと別れた。また来週ね、と声を掛け合ってみんなが帰ってゆく。家まで送ったりはしないよ。そこまで踏み込まないのがルールだから。互いを信頼して、個人的生活のことはあまり多く聞かない方がいい。こんな仲。逆にこっちの方がいい。

個人的なことに深く踏み込む必要性のないのが現代。何故ならあまりに多くの人間とすれ違う仕組みになってしまっているからだ。同じ目的がある時だけ、同じ時間を共有できればそれでいい。楽しく共有できれば尚更だ。こんなドライな付き合い方が良く思えるのも人間関係が希薄な証拠だろうか。それでも、これが互いにぴったりなのだからこのままでゆこう。こんな関係が永遠に続くとも思っていない。実り豊かな今の一時だけ、存分に噛み締めていこう。

平日が楽しくなった。下らない五日間も、週末の命の輝きを考えれば笑って流すことができる。心に良く斬れる刃を秘めていれば、恐いものなんて何もない。最早この僕から誰もこの楽しみを奪い取ることはできないのだ。たった一度の土いじりだけで僕はすっかり自分の誇りを取り戻したように感じていた。

だから僕は仕事にも立ち向かえるようになった。人の低俗な本性よ、どんどん僕にぶつかってこい!心にプライドがある僕だから、どんな汚れさえも飲み込んで命を輝かせてやる。つまらない仕事の押し付けだとか、責任者の無責任だとか、そんなのも僕は気にしなくなった。人の日常はゴミなのだ。その中で僕は自分のやるべきことだけをやればいい。そんなものか。全てが命の一点のために回り始めた気がした。

翌週もまたみんなが集まった。揃ったところで僕は安心の大きなため息を吐いた。いつになったらこの心配をしなくてもいいようになるのか。いや、これからもそれは無理なのかもしれない。みんなが来てくれることを僕は心から望んでいるからだ。

今日は水路を開こうと車内で決めた。よっぽどのことがない限りは自分たちでやってみろ、と言われていたが、さすがに無断で水を引いてしまうのはどうかと思う。まずは鴨川さんに相談してみようということになった。

鴨川さんは庭で盆栽の手入れをしていた。水を引こうとしていることを説明すると、ふぅーん、と聞き流された。駄目とは言わないし、いいとも言わない。ただ、好きなようにせい、とだけ言って盆栽をいじっている。あの近くに水路はありませんか、と聞いても自分たちで探せとしか言ってくれない。

それからみんなが交互に水路の場所を聞いたり、何年前にあの水路を掘ったのだとか口々に聞くと、鴨川さんもいい加減にうるさくなったのか、新聞広告の裏に地図を書き始めた。少し離れたところに今は使っていない農業用の水路があるらしい。もう何年も整備していないからどうなっているか知らんがそれを使え、と教えてくれた。

お礼を言って桃園に向かい早速水路を探してみる。水路溝に沿って雑木林の中をかき分けながら歩くと、結構距離はあったが農業用の水路にぶつかった。ただし、水の流れが細い。

その流れをさらに遡ってみると川に着いた。これだ。この水が水路に流れ込むように工作すればいい。せき止めている石をちょっといじればいい。僕たちの流れ分だけ、幾らか水を引き寄せよう。用水路の下流に迷惑をかけない程度に水を引っ張ってこよう。

どうすればいいのかは分かったが、その作業の膨大さを思うと呆然とした。これは大変だぞ。水をいじるのは簡単だ。石を外すだけ。問題はその後で、用水路から老木の広場まで距離にして一キロはあるだろう。今何も流れていない水路跡に溝を掘って、水を引っ張ってこなくてはいけない。かなりの労力と時間が必要だ。

老木の土地から下流へも水を通さなければならない。今度は戻ってその下流をチェックしてみることにした。こっちは問題なく、数百メートルも進むとこのあたりの農家が共有している用水路に行き着いた。ここに水を戻せばいいだけだから簡単だ。周りの農家の理解だけ得ればいい。

僕たちの水路に用途はない。ただの観賞用だ。それなのにどうしてこんな大変な困難を抱えてまで水を引っ張ろうとするのか。無駄なんじゃないかな、と思ったりもするけど、逆に狙い通りなんだ。僕たちのこの計画自体に利益はない。見返りを求めない旅をしている。苦労をしてまで、利益のない水の流れを作ろうとする。その考え方が今の僕たちそのものなのだ。あえて困難に突き進む姿が僕たちにはせいぜい相応しい。

 みんなの意見を聞くが、否定的な言葉は出てこなかった。みんなやる気だ。僕だってもちろんその気だ。そうだ、無駄なことを有意義にしようよ。

僕と慶がシャベルで溝を掘り始める。用水路の水はまだ何もいじらないままだ。上流から桃の老木の方向に向かって掘り込んでゆく。昔の溝もまだ残っているので、ゼロから掘るわけじゃない。残った跡を深く刻んでゆく作業だ。

四季と美夜子には出た土で周りを固めて、水路の土手を整えることをお願いした。これも大事な作業だ。上手く土手を固めてもらわないと水を流した時に決壊してしまう。

やり始めてみて改めて大変な作業だと思い知らされる。腰を入れてシャベルを突くが、土が乾燥しているから硬く、思ったように削れない。今日も太陽が暑かった。土埃の籠もった匂いと、草のむせ返りにもやられてしまいそうになる。

一時間も続けると肩と腰が音を上げてきた。ちょっと休憩を取っていると、休んでいる僕を横目で見ているくせに慶は一人黙々と働いていた。一緒に休めばいいのに。案外辛抱強い男のようだ。それともただのひねくれで、頑固なだけか。

振り返ると四季と美夜子はすぐ隣に固まって何か話しながら作業をしていた。あの二人もなぁ。ホント、対照的な性格だと思うんだけど、どうして仲良くなれるんだろう。不思議だなぁ。

それから昼までかけてやったが、あまり進まない。さすがに疲れたのでお昼にすることにした。声をかけるとみんなは待っていました、とばかりに道具を置いた。そうだろう、この作業は先週と比べものにならないぐらいに辛い。車に戻ってお弁当を老木の広場まで運ぶ。

「なかなか進まないね」

食べながら僕がそう言うとみんなも口々に言い出した。

「本当。先が思いやられる」

「荒れ放題だし、土が硬い。マジ大変」

初めての困難だ。これを僕たちはなんとかできるか。もちろんだ。こんな小さな障害ぐらいでどうにかなってしまう僕たちの理想ではない。

「でも、やっとそれらしくなってきたんじゃない」

僕がそう言うとみんな頷く。

「土遊びなんて小学生以来。結構楽しいかも。昭クンも慶クンも腰、大丈夫?」

「大丈夫じゃないね~」

本当に大丈夫じゃないぞ。明日になるのが怖い。来週は階段上がるのとか結構辛いかも。

「これも全て美夜子様のご希望を叶えるために」

慶がすっとぼけて言う。

「え~メンドーならいいんだよ。でも、川あった方が絶対いいから」

「そうね。私も川は賛成!」

四季と美夜子にチームを組まれては勝ち目がない。まぁ、元々やる気で始めたのだ。ちゃんと最後までやってみせるさ。僕だってどうせなら川はあったほうがいいと思う。それにそれが何であれ、今は目の前のものに正面から立ち向かいたい気分だ。せっかくこんな酔狂を始めたのだからどんな物にでもぶつかってみよう。

午後も作業を続けた。慶がいいアイディアを出した。掘る場所に前もって川の水を含ませて柔らかくしておくのだ。これが調子いい。水を汲んで運ぶのは辛いが、スコップの入りが格段に違ってくる。こっちの方が楽なのでこの方法で作業することにした。

作業の合間でふと腰を伸ばす。ようやく雑木林の下に入ったので暑さも厳しくなくてすむようになった。木漏れ日の心地良い太陽。何でもたまにがいいと思った。太陽だけ浴びても辛いし、雑木林の下だけもじめじめして気が晴れない。それと同じように、平日全部がこの豊かな作業でもきっと嫌になってしまう。たまにすることで、貴重さを感じて思わぬパワーが出る。だからきっと土曜日だけにここに来るのが正解なんだと思うよ。

みんなは文句ひとつ言うことなくこの地味な作業を続けた。長い一日になった。結局夕方までかけたが、四分の一しか終わらなかった。先は本当に長い。思わず弱音すら出てきそうになる。

「思ったんだけど、」

慶が声をかけてきた。

「俺たち二人だけでも来週は泊りがけでやらない?これはかなりかかるぞ。さすがに彼女たちに泊まれ、とは言えないからさ。二人で一気にやっちまおうぜ」

賛成だ。それはいいね。梅雨入りする前にこの水路だけでも終わらせてしまいたい。雨が降っていては気分的にこの作業は辛いだろうし、グズグズしていると桃の収穫で農家の人たちが一番忙しくなる時期に入ってしまう。用水路のことも、ベンチや桃の木の件もその前に目途をつけておきたかった。

今日のところはこれで終わり。みんなを呼ぶとさすがにぐったりしていた。真っ直ぐ帰ることにして、母に捕まらないように急いで実家に荷物を残すと、車を走らせる。

帰りの高速でみんなすぐに眠ってしまった。雲行きが怪しくなったと思ったら、談合坂の手前から雨が降り出した。静かな車の窓を雨が叩く。ワイパーのメトロームつきだし、こんないい子守唄を聞かされたら僕まで眠ってしまいそうだ。誰か付き合ってくれないかな。僕も寝ちゃっていいかな。今日という一日に満足しているから僕もぐっすり眠れそうなんだ。

人は醜いと誰かが言う。僕はそれに反対ではないが、それだけとも思わない。確かに人に醜い部分はある。だが、人の世にも雨は降るのだ。稀に空から与えられる雨という世界は美しい。その美しさが毎日毎日与えられるとは限らないことは知っている。それは人がいつも美しくないのと同じ。だが、少なくとも雨が降る時だけは人も美しくなる。だから人間だって捨てたもんじゃない。

結局拝島駅まで僕一人だったからそんなことを考えていた。そうしたら、慶の声が聞こえてきそうだった。雨は自然が降らすものだから人間の美しさとは関係ないよ、と説教を垂れる、人間全体を否定する慶の顔が雨のスクリーンに映し出されてきそうだった。

Barで車を止めたらみんなを起こそうと思っていたのに、そのまま静かにしていた。なんか、こんな時間が好き。車内にみんなの疲れが充満している気がした。自然の肉体労働の匂い。これはいいね。なんだか気分がいい。しばらくこうしていたい。目を閉じてしばらくその空気を味わっていた。

そのままでいたら、みんなが起き出した。少し窓を開けるとその隙間から錐で突くように冷たい空気が流れてくる。外は霧雨に変わっていた。シャワーだから触れると気持ち良い。

僕たち二人は来週実家に泊まりがけで作業しておくよ、と言うと女性二人から文句が出た。私たちは足手まといだから誘ってくれないの?と責められる。慌てて否定すると、それなら私たちも泊まりがけで来ると言い出された。実家は問題ないと思うから泊められることは泊められる。でもいいのかな。四季だけかと思ったら、美夜子も泊まると言い始めるのだ。

まぁ、そう言われた以上拒む理由はないのだが、本当にいいのだろうか。見ず知らずの男性の実家に泊まるなんて非常識ではないか。彼女たちに任せるが、僕は考えさせられた。何がそんなに彼女たちの女性としての警戒心を解くのか。僕たち男二人が無害であることを分かってもらえたことは嬉しいが、それはそれで男として何かさみしい気もする。そんな馬鹿なことも考えていた。

何だろう、そんなこと以上に、この作業自体に魅力があるから自発的に来ようとしているのか。他に何もすることがないわけでもないだろう。彼女たちがそんなに土いじりを好きになるとも思えない。不思議だったが、ここは彼女たちに任せることにした。

翌週も単調な作業を続けた。これが掘っても掘っても終わらない。汗まみれで奮闘する男たちを見兼ねたのか、四季と美夜子は鴨川さんのところからシャベルを借りてきて自分たちも掘り始めた。そのお蔭もあり、午前中掘り続けてようやく半分まで終わった。

昼前になって、鴨川さんが初めてここに姿を見せた。でも何も言わず眺めるように歩くだけで、せっかくなんだから何かアドバイスでもくれればいいのに、そのままふらりと帰ってしまった。

「さっき美夜ちゃんが後で来てね~って言ったから来てくれたのかな」

鴨川さんが行ってしまった後で四季が言う。

「え~、あれって手伝いに来い、って意味だったんだけどな~」

と美夜子。はっきり言うなぁ。僕だったら鴨川さんにそんなのお願いできないよ。

一日中掘って、ようやく三分の二が終わった。なんてゴールの遠い作業だ。四人の汗の力が丸一日分集まっても、道を通すまでには至らない。シャベルの握り過ぎでみんなの両手は真っ赤になっていた。これはタフな仕事だ。

でも、僕は満足だった。こうして流す汗を美しく感じるからだ。こういう純粋な労働はなんて素晴らしいのだろう。こういうことをするために、僕は戻ってきたのだ。

今日はもう終わりにしようと言うと、みんなシャベルを置いて身体を伸ばした。丸一日同じことばっかり続けてお疲れ様。今日は終わりだと思ったら、なんか疲れが一気にどっと来た。それからみんなで丘の上に座ってだらだらしていた。

今日は風が強いから竹林が賑やかだ。風になびいて、薄緑色の竹林全体が右に左にスウィングしている。あっちこっちから話し声が聞こえてくるようだ。

「ね、なんか林間学校みたい。中学生の時、こんなのあった。山歩いたりキャンプファイヤーしたり飯盒でご飯炊いたり。カレーだったかな。みんなで手分けして作るの。なんか思い出すなぁ」

四季が懐かしいことを言い出す。

「そう言われてみればキャンプっぽいね」

「キャンプいいねぇ、ここでテント張るなんていいねぇ」

調子に乗って慶がを言う。

「え~テントはヤ。虫と一緒に寝たくない!」

そうだよな、美夜子にテントは無理だよな。

「女の子にテントって無理よねー。私、キャンプファイヤーだけは好きだったな。木のパチパチっていう音が気持ち良くて。美夜ちゃん、学校でキャンプファイヤーやった?あれって今もやってるのかな?」

「マイムマイム踊るヤツでしょ?やったよー」

「あはは。そうそう、マイムマイムやる。いっつもあれだよねー」

「結構好きだったけどねー」

「それならさ、」

僕が言った。

「あとでここでキャンプファイヤーしようよ。踊らないけどね!」

「えー踊ろうよー」

美夜子が冗談っぽく言った。ダメだよ、僕踊れない。

「踊りはなし!――って、木もないから本当はキャンプファイヤーでもないんだけどね。ほら、ここ上が空いているでしょ。星も見れる。夕飯食べたらここで星を見るってのはどう?それに今日はほとんど満月だ。フルムーンとは言わないけどさ、フルムーンサイクリングの代わりになるかもよ、慶」

慶に振る。

「フルムーンサイクリング?――って何?」

四季が聞き返してきた。二人にはまだ言ってなかったから、僕と慶が最初に話すきっかけになったフルムーンサイクリングのことを説明してみた。でも、彼女たちにその男っぽい感覚は伝わらなかったようだ。

「迷子になりそう」「暗くて危ないじゃん」「何見るの?」とか、そういう反応しかない。駄目か。こればかりは性別の壁がある。

それはともかく、夕食後に星と月を見に来るのは反対ではないらしい。実家に戻ると母がまた豪華な食事を作ってくれていた。

「御坂の桃は山梨でも一番だが、今じゃ若い連中は興味持たんだろう。君たちは珍しい。昭なんて小さい頃から桃は全然食べなかったのに」

父は不思議で仕方ないらしい。相手が親だからね、本当のことを言うは恥ずかしいってのもあるし、それに上手く説明できないからやっぱり言えないよ。

「いや、近いからだよ。課題に合ってて、実家も近いし便利だったから。ただの成り行きだって」

とりあえずそのぐらいで濁しておいた。それから、あの周りの農家に用水路のことを話しておかなくちゃいけないんだ、と相談してみると父は明日でも一緒に挨拶に行ってやると言ってくれた。

夕食後にみんなで外に出た。今夜は満月に近いから必要ないのに母が懐中電灯を持たせてくれた。車を走らせ、いつもの場所で降りると月は前の竹林に隠れて見えない。足元が暗いので懐中電灯が役に立った。先週舗装しておかなかったら夜はとても歩けなかっただろうね。僕が先導し、その後をみんなが続いた。

「おっと。そこで電気消してみて」

いいものを見つけたので僕が言う。みんなすぐに消した。そして足元に注意しながらゆっくりと歩いてきて、竹林を出る直前で思わず声が上がった。

「あー、出てる!」

美夜子のそんな声。彼女にすら伝わる万能の美しさ。開けた空に丸い月が出ていた。僕たちに向かって、「いやぁ来たの、よく来たね」とでも呼びかけている元気な月が。

こんな夜だから懐中電灯はもういらなかった。シートを敷いてみんなが丘に座る。携帯用のガスバーナーとミネラルウォーターを持って来ていたので、みんなに食後の紅茶を淹れてあげることにした。こういう場所で飲む紅茶は最高に旨いんだ。

「はぁ~。美味しい。昭クン、なかなか趣味いいんじゃない?こんなところで紅茶飲ませるなんて」

「ホント。ロマンチックってヤツ?」

 「チックはないでしょ、その響きがロマンティックじゃない。ティックだよ、ティック」

「はいはい」

慶がまた余計なことを美夜子に突っ込んでいた。どうでもいいのに。

「こういう場所で紅茶っていいでしょう。本当は自分が飲みたいからだけど。寝る前はやっぱり紅茶だね。ほら、眠れなくなるっていうけど僕には逆にこれがないと眠れない」

寝酒するぐらいなら僕は紅茶を飲む。身体的にというか、意識的に落ち着いて眠りに落ちやすくなるのだ。昔から癖になってる。

 「寝ちゃったら置いてくから!」

 「こんなところで寝ないよー!で、ホント、みんな泊まって大丈夫?美夜ちゃんも彼氏はいいの?」

僕の言葉に他意はない。いつも美夜子だけが心配だ。彼氏とケンカになるんじゃないかな。僕でも怒るかもしれない。せっかくの週末に彼女が泊まりに行ってしまうのだ、それも男が二人もいる集まりで。実際は健康馬鹿の平和極まりない集まりなのだが、そんなの第三者に分かるわけない。

「平気。大丈夫だから」

大丈夫なはずがない。絶対無理してる。彼氏よりここでの時間の方が大切なわけがないじゃないか。何が彼女を無理させるのか。ここにはもっと楽しい何かがあるのか。彼女の無理が分からない。

「本当に大丈夫?電話ぐらい入れておいたら?家とかもいいの?」

心配なのか四季もそう言うが、美夜子はそのまま涼しい顔をしている。

「親なんてわたしのこと気にしてないし、全然平気。ケンにはみんなのこと言っておいたから。わたしが楽しいならそれでいいって。ケン、いいヤツなんだから」

「へ~。理解ある~。いいなぁ~。で、どうなの~?二人は?」

聞かれて嬉しかったのか、美夜子は調子良くしゃべり始めた。

「ケンはね、優しいし、わたしに真っ直ぐだからいいんだ。絶対に浮気とかしないんだよ。同い年なのに可愛いヤツっていうか、でも頼もしかったり。とにかくいいヤツ」

「写真ないの?写真?ケータイの待ち受けは?」

やっぱり待ち受けはツーショットだった。でも、暗い林の中で小さく光る画面を見たら、僕には一目で分かる気がした。美夜子が言うような誠実な男じゃないんじゃないかな。僕の友達にもいるタイプだけど、典型的なお調子者の顔だ。僕が違うかもしれない。でも、そんなに外れていないと思う。

「イケてない?ウチラの友達のカレシのうちじゃ、一番かっこいいんだよ!」

嬉しそうに言う。

「出逢いは?どうやって?」

僕でもそのぐらいは聞けるから話を振ってみた。

「えっとね、友達がやってたメールサイト。周りで一番遅かったけど、やっとケータイ持ったからメル友欲しくて。登録したらケンの他にも一杯メール来たけど、ケンのが一番良かった。ほら、寂しいじゃん?メールも着信も来ないケータイって。着信こないと何か、自分だけ取り残されちゃう気がする。友達にも恥ずかしくて言えないし。だからメールばっかりやってたら、なんか好きになった」

灰色の太雲が丸い光をすっぽりと覆い隠した。それで暗くなったからか、美夜子の口は遠慮なく動き始める。

「いつの間にか~、なんか顔も知らないヤツだったけど~、なんか近くに感じるようになって~。なんか一人じゃ寂しくて~、だから逢おうってメールして~。そしたら付き合い始めるようになって~。どお?ドラマみたくない?」

テンション高く美夜子が言った。僕はそんなドラマあったっけ?と言いたくなる気持ちを抑えてわざと話を合わせておいた。

「へぇ~。そんな出逢いもあるんだ~」

「えへ。自慢しちゃった。今幸せ。一人じゃ生きていけないって言うじゃん?一人ってつまんないからねー。ケッコンとか憧れる。いいよねーなんか」

嬉しそうな美夜子。そんなにいいヤツなのか。本人がそう思うならいいんじゃないかな。でも、一人では生きていけないという言葉の解釈はそういう単純なことじゃない。

 「どぉ~?どんなヤツに聞こえる~?」

 無邪気に美夜子が聞いてくる。

 「うーんとね、マメにメールとかくれそうな人?」

「ん~、そうだね~。毎日電話くれるよ~。い~でしょ~。カレシがちゃんと毎日電話くれるってなんかよくな~い?ほら~、友達とかも結局はカレシに走っちゃうでしょ~。だから~、わたしも~、ケンを信じてる~。家とか仕事とかあんま信じられないし~、自分のことだって信じらんないけど~、ケンだったら信じられそ~」

自分さえも信じられないくせに、彼氏だったら信じられると美夜子は言う。

「そっか。いいなー」

口数少なく無難なことを返すだけ。それ以上は何も言えない。口を開くと美夜子を傷付けること言ってしまいそうだ。彼女の夢を勝手に壊してはいけない。

月が出ていた。ふと感じることがある。このまま大気汚染が進めば、そのうちに月さえ見えない空になるのではないだろうか。せっかくの明るいものも闇に閉ざしてしまう大気汚染が、美夜子の空にもかからなければいい。

やがて自慢話を喋り疲れた美夜子が帰ろうと言い出したので、その日は眠ることにした。

翌朝はあいにくの雨だった。せっかくの一日をふいにするのは惜しい。雨脚も強くはなかったので、作業もできそうだった。誘ってみるとみんなも嫌がる様子はない。合羽を借りて行ったが、作業場所は雑木林の傘の下に入っていたから逆に雨が涼しいぐらいで丁度良かった。

「よぅし。今日頑張れば全部通るかな」

気合入っていた。朝から僕は全力でシャベルを振りかざした。昨日の筋肉痛なんて平気だ。昨日はだいぶハードだったからなんか今朝は肩と腰が筋肉痛みたいだけど、僕は強いから全然大丈夫。

それよりもこんな単純作業はさっさと片付けてしまおう。早く次の作業がしたい。もっと大きな計画があってそれを描くためにここに来た。それにはまだちょっと早いが、僕はこの先を夢見て、地味な作業を一刻も早く、しかし決して手を抜かずに終わらせようとしていた。

昼前になると雨もあがった。無意識の中にも良かった、とつぶやいている僕。雨は桃の果実の成熟を妨げるから、この一帯では春から初夏にかけての雨は嫌がられている。寒くても駄目だし、日当たりが悪くても実が実らないのが桃。だから僕も春先の雨は嫌いなんだな。これも育った環境なんだろうね。

でも、今日の雨には助けられた。涼しいし、雨を含んだ土は軽快なリズムで削られていってくれる。いいペースで仕事が進むのだ。御坂にいて雨をありがたいと感じるのは珍しいことなんだ。

途中でまた鴨川さんが来た。やっぱりアドバイスらしいことは言ってくれないが、僕のシャベルの使い方に横から文句をつけてきた。腰が入っていないだの、角度が悪いから余計に力を使うだの、それはそれでありがたいのだが、じゃぁお手本を見せてと頼むと逃げるように帰ってしまった。

それから、昼になると父と母が来た。お弁当を沢山抱えてだ。まさかこの年になって両親とピクニックをするとは思わなかったな。丁度お腹も空いていたし、みんなで丘の上にシートを広げてお弁当を食べた。親父は一人で昼から酒を飲んで上機嫌だ。なんだよ、こっちは仕事しているのに!でも、両親の心遣いが染みてくる。

昨日約束した用水路のことで来たようだった。食べ終わると親父はみんなを連れて近所の農家へ向かう。ずっと御坂育ちだし、町内会の会長をやるような人だから顔が広い。周りの農家の戸を叩いてはあっさりとみんなの承諾を取り付けてくれた。

僕なんかじゃこうはスムーズにゆかなかったに違いない。ありがたい、これで堂々と水路をつなげられる。久しぶりに親父を見直した。でも、ありがとうの一言を僕が口に出せないまま両親は行ってしまった。あぁ、またやってしまった。どうしてこんな簡単な言葉が言えない。

午後になるとすっかり陽が出た。雑木林に暑さが戻ってきている。僕たちは相変わらずシャベルを振り続けていた。もう少しだ。あとニ百メートルも掘ればこの作業から開放される。朝からの雨にも助けられて急ピッチで作業を進めていた。

慣れてきたせいもあって順調だ。三時の時点で残すところ五十メートルまできた。この作業には三日もかかったぞ。それももう終わりだ。みんなもいい加減次をやりたかったのだろう。最後の最後になって手が早い。しゃべることも少なくなって、必死でシャベルを入れていた。

そうしたら美夜子のケータイが鳴った。しょっちゅうメールとかも来ているから別に珍しくもないけど、今回は向こうに話に行ったままなかなか帰ってこなかった。なにやら深刻そうに話している。どうしたんだろう。気にはなるが、とりあえず作業を続けていた。

「わたし、帰らないといけないかも」

電話を切った美夜子が困った様子でそう言ってくる。

「どうした?悪いこと?」

「帰って来いってケンが一人でキレてる。わたし、帰らなくちゃ」

それか。それはそうだよな、せっかくの週末に彼女がいなくちゃ怒るのも無理はない。こうなるとは思っていた。驚くことじゃない。

「みんな、悪いけど帰る。ごめんなさい」

「仕方ないよ。みんな、帰ろう。ほら、ほとんど完成したし今週はこのぐらいでいいでしょう」

美夜子の気持ちが分かる気がしたので、わざとみんなにそう呼びかける。この集まりでは別に誰もそれを恨んだり嫌だと思ったりはしないさ。

「うん、帰ろう」

四季がさっさと帰り支度を始める。慶も片付けにかかる。

「ごめんね、みんな」

「今日はもう十分だよ。またいつでも来れるんだから心配ないって」

本当にそうだ。あとはこの水路を通して、桃の木を移植してこればいいだけ。もう厳しい肉体労働はない。それよりも美夜子が来なくなる方がよっぽど困る。今日ぐらい早く帰ろう。彼氏の怒りを解いてもらうのが優先だ。

「みんな、ごめんね」

帰りの車でも美夜子は繰り返していた。ケータイがたくさん鳴っている。彼氏のメールだろう。大丈夫かなぁ。

「――アイツ、信じらんない」

そう美夜子が洩らした。そんな。君には彼氏だけは信じていて欲しい。

「でも、来週また来るから。仲間外れにはしないでよ」

「そんなのしないよ。絶対また来てよ。来週が無理だったらその次でも、もっと先でもいいからさ。もう一度言っておくけど、この集まりに遠慮とか、余計な心配はいらないからね。ただ来てくれるだけでいいから」

本気で言う僕。

「みんな待ってるから絶対来てね。彼とケンカしちゃ駄目よ」

そう言って四季が美夜子をなぐさめていた。不思議なものだ。この僕たちの希薄な関係にもいつしか、仲間意識ができ始めていた。

平日の途中にメールが入ってきた。美夜子からで、「みんなごめんなさいっ (>_<) 今度の土曜はムリそう その次はゼッタイ行くから許して~ (ToT)/~~~ 」とある。

一週間ぐらい何でもないよ。ただ、メールの送信が朝の七時だったのが気になった。仕事してたら絶対寝てる時間なのに。何かあったからそんな時間に送ってきたんだろう。また心配だ。

みんなにメールで連絡しておいた。今週末はキャンセル。翌々土曜日に集合。僕一人でも行って作業しようかと思ったけど、それを知ったら美夜子が辛く感じるだろうから止めておいた。

その週末は完全オフにした。つまらない週末だった。こんな時ばっかりいい天気な気がする。土曜日は昼まで寝てて、昼下がりのTVをダラダラと見ていたらもう三時になっていた。三時!三時っていえば、先週まではひと仕事もふた仕事も終わらせていた時間じゃないか。びっくりして外に出ると図書館に向かう。参考になりそうな本を物色していたが、混んだ席で狭く読んでもちっとも頭に入ってこないから止めた。

メールでもしようかと思ったけど、今日みんなに送ったら嫌味かなって心配してメールもできない。どうしようかな。何もすることがないので、しょうがなく古い映画でも借りて時間を潰して一日が終わった。日曜日もそんな感じ。僕って一人じゃ全然駄目だ。

小説「愛日常」

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