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小説「愛日常」1話 フルムーンサイクリング〜本物のアイディア

投稿日:2004年2月1日 更新日:




——それはアイディアだよ。本物のアイディアだよ。

 頭から離れなくなってしまった。フルムーンサイクリング。満月の夜、白砂の砂漠がバイシクリストだけに開放されるらしい。

 砂漠が白砂。とても想像できない。実際にこの目で見なくては分からないよ。ただ、そんな場所を満月の下、マウンテンバイクで走ると考えたら僕の心は震えた。

 フルムーンを浴びて白砂漠は輝くのだろう。眩しく、温かく、そして妖しく。月色に染まる白い砂漠をフルムーンサイクリング。五感が麻痺してしまう。僕はすっかりそのイメージに夢中になっていた。

 遅い帰宅の電車に揺られながら、旅行雑誌で見かけたフルムーンサイクリングのことを考えていたら、あっという間に乗り換えの駅に着いていた。これから各駅電車を乗り継いで最終駅の拝島までまだかかる。夜中になると接続の待ち時間が長いのが辛い。

 ふと僕の着メロが鳴り、ケータイを出そうとしたら、それが隣で電車待ちをしていた男からだと気が付いた。同じ着メロとは珍しい。男はボソボソと小さな声で話し始めてすぐに切った。

 国立公園のホームページに載っていたフルムーンサイクリングの案内を鞄から出して薄い明かりの下で広げる。すると、また着信音。今度は僕のケータイにメールだ。月曜を休む先輩から仕事の引継ぎメールだ。隣の男も同じ着メロに気が付いたようで、こちらをちらりと見た。

 ケータイをしまおうとしたら、フルムーンサイクリングの紙が落ちた。風に転がされて隣の男の足元まで飛んだ。男は無表情にそれを拾う。拾う途中に男の視線が紙の文字と絵に注がれたのを僕は見た。彼に分かるのだろうか。

 「音同じですね。落ちましたよ」

 親しみのある声色。着メロが同じなんてなかなかないから近くに感じるのだろう。

 「ありがとうございます、珍しいですよね」

 礼を言って受け取ろうとする。すると、隣のフォームに入ってきた電車が風を起こした。飛ばされそうになって男は咄嗟に紙を両手で掴む。

 「おっ、危ない危ない」

 電車が止まるまで男はしっかり掴んでいてくれた。

 「どうもありがとうございます、すいません」

 僕は丁寧に礼を言った。

 「いいえ。同じ着メロ同士ですから」

 そう言うと男は小さく笑った。まだ若い。僕より少し下ぐらいだろう。

面白い。僕はそう思った。着信音が同じというだけで互いに近くに感じることができる。そうだ、どうせ時間は余っている。こんな深夜の駅でやることなんて何もないし、ちょっと試してみるのも面白いかもしれない。

 「どうですか、それは。どう思われます?」

 突飛な聞き方になった。

 「ん?これですか、」

 男は紙に目を通し始めた。英語のホームページの切り抜きだが、砂漠や満月の写真があるから何となく分かるだろう。

 じっと見ている男。他の人がどう思うのか是非とも聞きたい。たまらず話しかけていた。

 「満月の夜に、白砂の砂漠が、自転車の人たちだけに、開放されるんです。どうです、素晴らしいと思いませんか?」

 本心からの言葉。これは話し言葉ではないよね。何も言わず男は見続けていた。

 「僕にはたまりませんね。本物のアイディアだと思います」

 フォームが暗いからだ。迷わず独り言が出る。

 「あぁ、大体こんな感じですよ、いいでしょう」

 男が言う。どうもひっかかる言い方だ。

 「大体、ですか?僕にはこれ以上のアイディアはないと思いますけどね」

 「興味はありますよ。でもちょっと違うかな。僕はもっと大きなことを探しているから。そうでなければシンプルなヤツね。まぁ、これはシンプルなものの中ではいい方だと思いますよ」

 ――この男は。ひまつぶしにするつもりが、逆に遊ばれてしまった。悔しいので更に突っ込んでみる。

 「シンプル。シンプルですか。確かにそうだ。でも、こんなアイディア本当になかなかないですよ。想像できます?」

 「できますよ。アメリカにそんな白い砂漠があるとは初めて聞いたけど、一面真っ白な世界に道一本!いいね!しかも車を締め出した満月の夜なんでしょう?」

 「そう!車じゃなくて、またマウンテンバイクっていうのがポイントでね」

「時季がいいよ、時季が。これを見ると五月頭と九月末でしょう。暑くもなく、寒くもなく。いやぁ、いいね!いい!」

男はプリントをパーンと指で叩きながらそう言う。食らいついてきた。

どうせ暇だし、次の電車が来るまでのつなぎにでもなればいいと思っていたら、これがなかなか話が終わらない。結局、電車に乗ってからも続いていた。

 「で、その白い砂漠にはいつ行くんですか?」

 それはちょっと話が早い。

 「いやぁ、行かないよ。こういうのは空想だけの方がいい」

 「あれ?そうですか。まぁ、そういう考えもありですけどね」

 「仕事してるから休みも取れないし。でも、これぐらい素晴らしいとイメージするだけで伝わってくるものがない?それで充分だよ」

 「確かに。これって、どんな人のアイディアなんだろう。普通の人では無理でしょ」

 「何か分かる気がするなぁ。偶然なのか、意図的なのか、見回りのレンジャーがマウンテンバイクで走ったんじゃないかな。それが満月の夜だったとか」

 「それで、あまりに素晴らしかったのでそのレンジャーが企画した、と」

 「そう。それなら説明がつく」

 「ははは。なるほど」

 僕以上に男が乗ってきたから話が長くなった。拝島駅に着いても、改札を出ても会話が終わらない。

仕方ない、どちらからともなく周りを見渡してまだ開いている店を探した。こんな最果ての駅にはファミレスもないし、もう十二時近くになっていたからファーストフードも閉まっている。 

ひとつだけ開いている店を知っていた。Time’s Barという、こんな場末の町には相応しくないほどお洒落なBarだ。何度か入ったことがあるのでそこに行くことにした。

店に入るとマスターが迎えてくれた。金曜の夜なのに客がいない。テーブルに座り、ソルティドッグと野菜スティックを頼む。彼はギネスの黒ビールを注文した。会社を出たところで食べていたのでお腹は空いていない。

「シンプルなのがいいと言ったね。例えば、このつまみはどう?揚げ物とかも美味しそうだけどあえて野菜スティックを頼んでみた。生野菜を塩や味噌だけで食べるのはシンプルってことなのかな?

 「そう、そういうこと。いいねぇ、生野菜。いいねぇ」

 彼は機嫌よく頷いていた。

 「できればもっと大きなのがいいけど、そういうシンプルで小さいのも僕は好きだからさ」

 まただ。彼は大きなことと言う。僕はそれに興味はない。大きなこと、か。社会を知らない学生にありがちなことを考えているのだろう。かつての僕もそうだったから分かるよ。

 「それで君は大学生?」

 今更ながら初めて個人的なことを聞いてみた。ふと、階段の軋む音がした。他に客が来たのらしい。中年太りのサラリーマンと若い女。マスターが出迎えて席に通した。男がうるさい。結構飲んでるな。静かにしていてくれよ。

 「四年目を留年中。卒業後に何をするのか迷っててね」

 少しも悪びれることなく彼は言う。

「いいんじゃない。時間あるんだからよく考えればいいと思うよ」

「そうですか。で、どうです社会人って。まるで想像できないんですよ、会社勤めは」

 「何とか凌いでいる感じだね。特別の感動もないけど、生活は安定している。自立できたし、そんなに悪くない」

 それが素直な感想だった。わずかそれだけの言葉で的確にまとめられる。その容易さに我ながら呆れてしまう。

 「自立。自立かぁ。難しいですよね、そこの割り振りが。大き過ぎたら足元がないし、かといって足元だけじゃぁねぇ……

 何言っている。分かる気もするが、やっぱり分からない。

 「今年卒業?決めてるの、進路は?」

 「未定。不定。暫定だけは嫌なんで」

 そう。それなら別に何も聞かないよ。僕だってサラリーマンなんて嫌だった。でも、親にそれ以上面倒かけることはしたくなかったからすぐに就職した。まぁ、道なんていくらでもある。みんなそれぞれ個々の状況に生きているのだから他人が口を挟むことじゃない。

 向こうのテーブルからは男の話し声ばかりが聞こえてきた。だいぶ飲んでいるらしく声が大きい。女は相槌を打って話を合わせようとしている。

 「どうしてあなたはフルムーンサイクリングが気に入ったのだと思います?」

 どうして。それは意外な質問だった。考えたこともなかったが、考えてみると答えは既に出ていた。

 「はっきりしてる。会社勤めしているからだね。妥協の中に長く漬かっているからこそ見えてきたものだと思う」

 「へぇ。それはどうして?聞きたいなぁ。是非聞きたいなぁ」

 身を乗り出すようにして彼が聞いてくる。サラリーマンがそんなに興味あることなのか。

 「いいけどさ、後で僕も聞きたいことあるから聞くからね」

 「ん?何?いいですけど」

 「そう。あのさ、やっぱり会社勤めをするのに感情はいらないんだよね。もちろんずっと無表情のままってわけじゃないけど、凄く感動するとか、大きく失望するとか、そんなことはなかったよ。毎日は平凡で、感情の高低は不要で、そんな中にずっといるとなんとかしなくちゃ、自分の人生をなんとかしなくちゃ、って思えてくるんだ」

 「うん、うん」

 彼はよく聞いていた。

 「僕の場合は働き始めて四年も経たないうちにそうなったよ。一時仕事に全情熱を注いだ時があったけど、それが所詮は無意味だと知った時からそうなった。どれだけやっても、結局一人の仕事じゃ何も変わらないんだ。それからもうずっとこんなこと考えている」

 彼に分かるのだろうか。社会経験のない彼にこんなことまで言ってしまっていいものなのだろうか。

 「最近そんな僕の心に自然体で入ってくるものがあってね。それが、君の言うところのその『シンプル』なヤツなんだ。朝の挨拶を爽やかにするのでもいい。仕事の合間に当たり障りのない天気の話をするのでもいい。ただぶらぶらと公園を歩くのも、無邪気に動物と触れ合うことも、僕の心を捉えて離さないんだ。下らないことだと思うだろう?でも今の僕には違うんだ」

 「現代の『癒し』って奴ね」

 「そうかもしれない。自分ではそうは思っていないけどやっぱりそうなのかな。忙し過ぎる仕事に、ややこしい人間関係。人の下らなさも一杯知ったし、数は少ないけどいい思いだってした。全体的に後悔だらけで傑作はわずかかなぁ。とにかく、右から左まであらゆる日常を見てきて最後に残ったものがそういうことだったんだ。これは貴重だよ、これこそ本物だよ」

 分かるのだろうか。彼に分かってもらえるのだろうか。

 「なるほど。分かる気がします。僕が言っても説得力ないと思いますけど」

 「いやいや、少しでも分かってもらえるなら嬉しいよ。フルムーンサイクリングをいいって言ったぐらいだから、君も分かってくれているんだと思う」

 なんだか安心した。誰かに届いた。ただの独りよがりではなかった。

 「で、聞きたいことって?」

 「そうそう。『大きなこと』って何?やりたいって言ってた『大きなこと』って」

 「あぁ、それ。具体的じゃないんで聞き流して下さい。自分でもはっきりとは分かりません。ただ、大きなことですよ。大金を稼ぐことかもしれないし、大きな人助けかもしれない。あなたの言うような『シンプル』なことかもしれないですね。その『大きなこと』が自分にとっては何なのか、まだ自分でも分かっていないんです。ただ、妥協じゃなくて、自分が心から納得できる何かという、それだけです」

 「分かった。そういうことね」

 「まだまだ全然見えてこなくて」

 社会経験のない彼にどうしてフルムーンサイクリングの良さが分かるのか不思議だった。でも、これを聞いて分かった気がする。僕にもやはり同じようなことを考えていた時期があった。社会に出てからしばらくはそれが止まっていたが、今また復活したと思っている。彼の言う『大きなこと』が、僕にとっての『シンプル』なことなのではないだろうか。そうだとすれば、僕たちは同じようなことを考えていて、だからフルムーンサイクリングで一致したのだろう。

 ――突然、男の怒声が響いた。

 「いい加減にしろ!可愛いからって黙ってればいいってもんじゃねぇ!何とか言え!人形か、お前は!」

 テーブル席のさっきの男が女にわめき散らしている。キレた男に驚いたのか、女は身を縮めたまま何も言えずにいた。

 「チッ!いい金払ったのに馬鹿馬鹿しい!ガキが!!」

 憎たらしそうに舌打ちすると、男は金を払って出て行った。一人取り残された女は俯いて動こうとしない。

 Barに嫌な空気が漂った。僕はこの場にいたたまれなくなった。あの二人の関係なんてどうでもいい。いずれにせよ、男がかなりの金を使って女をここに誘うまで漕ぎつけたのだろう。その結末がこれだ。あぁ、嫌だ。どんな事情であれ、男女のつまらない修羅場なんて見て嬉しいものではない。

 「いや、良かった!いやぁ、良かったじゃないの!うるさい奴を巻けたでしょ、これで当分は平和だって!」

 突然、彼が独り言のようにそう言い出した。女に直接語りかけるのでもない。女は反応せず俯いたままだ。構わず彼は続ける。

 「結局のところ、男が女に求めるのは愛嬌なんだよ。いくら可愛くても、黙っていちゃぁ男にとっての女の価値は下がるようですよ。中身はなくても、間をつくらず話ができる女性の方が魅力的だ。これは仕方ない。男の目から見ればそうなってしまうんだよ。所詮人間だからね、人間。そこは分かっておいた方が良い。そんなうわべだけしか求められていないんだから、真面目に考える必要なんかない」

 その容赦のない物言いに僕は呆れた。別に好きでもなんでもない男だったのだろうが、あんな言葉を受けたばかりの女性に言うべき台詞ではない。大体そんな男性的な論理を聞いてどこの女性が慰められるのか。まるで分かってないな。

 女が顔を上げた。どきっとするぐらいに彼女は若く、そして可愛い顔立ちをしていた。目の前のグラスを勢いよく飲むと、飲みかけのグラスを手にしたまま彼女はこっちに近寄ってくる。そしてヒステリックをぶちまけた。

 「何?!じゃぁ、どうすれば良かった?!客だからと思ってこんな時間に外まで付き合ってやったのにどうしてあんなこと言われるんだよ?!」

 グラスから溢れた液体が彼女の服を濡らした。手にグラスを持ったまま、顔を長い髪に埋めて彼女は立ち尽くしている。恐らく自分がどうすれば良いのか分かていないのだろう。そのあまりの弱々しさに僕は顔を背けたくなった。

 「大したことじゃない。この世の中にあるゴミのひとつだよ。明日になれば忘れられる。気にしないでお帰り」

 言葉は優しいくせに、口調は優しくない。馬鹿にされた気がしたのだろう。彼女が噛み付いてくる。

 「大したことあるから!せっかくできた初めての常連さんなのにもうおしまいじゃない!無理してこんな所まで着いてきたのにどうしてくれるんだよ?!」

 「いいや、君では遅からずこうなっていたと思うよ。それがちょっと早くなっただけ。いずれ結果は同じになるんだから、別に今日のせいじゃない」

 言い過ぎだろう。僕は思わずフォローに走っていた。

 「すいません、ちょっとこの人は口が悪くてね。あなたをかばおうとしてるつもりで、言い回しに容赦が無さ過ぎるんですよ。あまり気にされないでください」

 「本当のことだよ」

 まだ言う。余計なことを。

 「だから!大したことあるから!……でも、本当は大したことない」

 彼女の声が小さくなった。

 「……そう、わたし、大したことはしてない。確かにあのオヤジの言う通り、わたし、お客さんと上手く話せないから……。それは自分でも分かってる」

 益々小さくなってゆく声。

 「わたし、店に出ちゃダメかも。でも、これが一番手っ取り早いから……

 「いいんだよ!大した仕事をしなくてもいい!大したことなんて誰にもできやしないんだから!」

 今度はあいつ、そこで妙に同調し始めた。急に声が元気になっている。

 「えっ?」

 彼女には分からない。

 「だから!大きな仕事なんて誰にもできっこないよ!人一人の限界なんて知れているものだから。大したことをできる人間なんていない!」

 「そっか……。わたしなんかに大したことできっこない」

 「そうだそうだ!よっぽどの強運でもない限り人は大きなことなんてできない!」

少女を安心させるためか。それとも自分の本心か。僕には区別がつかない。ただし、僕はその言葉に賛成できないのだった。

人は大した仕事をするべきだと僕は思う。どんな事情があろうともプロなのだから、お金を貰う以上はしっかり仕事して欲しい。この厳しい社会の中では、若過ぎるからだなんて理由にならない。

 「みんな同じだよ!立派なことを成し遂げられる人間なんてほんのわずかだ!彼らだってきっと自分の力じゃない。周りの人たちの助けを借りてるだろうし、それ以上に時代や環境に恵まれただけなんだよ。才能じゃない、運だよ、運。普通の人は大したことをする必要なんかない!ただ平凡な今あるのみだ!人間なんてつまらないものだ!あははは、そんなもんさ!あははは、真面目に考えるなんて馬鹿馬鹿しくて笑っちまう!あはは!笑止!笑止!!」

 僕も彼女も呆気に取られた。何だ、コイツは。自分で言い出したことに自分で笑って腹を抱えている。

 こんなことでいいのだろうか。人間、そんな無責任なもんじゃないだろう。みんながどううってことじゃなくて、みんながみんな、自分だけはしっかりやって欲しい。

 「そうかな、」

 だから僕は口を挟まずにはいられない。他人の意見は尊重したいが、できない時だってある。

 「人が大した仕事をできない?そんなことがあるのかな」

 僕は反対だった。やはり違うと思う。

 「人間の可能性は偉大なものだよ。自らそれを狭めちゃ駄目だ。それに、僕たちの若さでそんな絶望的なことを言っていてどうするんだよ。きっとできる、必ず何かできるさ」

 「いやぁ、どうかな」

 彼は随分あっさりと返す。

 「とてもそうは思えない。できる人もいるけど、普通の人はなぁ。ムリだよ、ムリ。人間にはムリ。人間じゃムリ」

 そのつまらない言い分。

 「何かしなくちゃ駄目だ。最初から諦めていては何も始まらない。何かさ、やりたいことってないの?」

「特にないね」

 彼は首を振った。彼女も目を伏せたまま何もリアクションをしない。聞いていない様子でもない。聞こえているのに無視か。それならこいつも同類だ。

 「それは僕だってミュージシャンのようになりたい。想像力ひとつで小宇宙を創り上げてしまうミュージシャンに。あの可能性は確かに人間にしては偉大だよ。でも、僕みたいな平凡な人間じゃ無理だ。大体、そういう君だって本当は何かをできるって思ってんのかよ?やりたいことなんてあんの?」

 挑発かよ。僕は闘わなくちゃいけない。

「僕にはある!」

「何?」

「僕にはある。社会人になって消えてしまうどころか、逆に大きくなってきている夢だ。僕は若い。身体は段々鈍ってきてるが、僕はまだ若い。若さの証として何かを今、刻み付けたい。何かをする夢だよ。見返りを求めない夢だ。何でもいいんだ、方法は。結果も対価もどうでもいい。ただ、何かを自分自身の力だけで成し遂げて、確かに自分は何かやったぞ、っていう実感を得たいだけだ。何かをすることだよ!」

「何するんだよ?」

「だから、何でもいいんだ!」

「だから!何するんだよ?具体的に!どうせないんだろ?!」

「ある!例えば……

「例えば?!」

「例えば……花、とかだ」

 あぁ。勢いで言ってしまった。

「――花?」

露骨に怪訝な顔をされた。彼女もおかしなものを見るような顔で僕を一瞥した。

……そうだ、花だよ。一番シンプルなものだろう?何もない土地を自分自身の力だけで耕して草花を植えたい。機械なんて使わずに、全部自分の手だけで花畑を創ってみせるんだ。どうだ、最高のアイディアだろう?分かるか?」

 何だか僕は興奮している。後には退けない。勢いに任せて一気に言っていた。そんな真剣に考えていたことでもないのに。

 「せっかく五体満足に生まれてきた人生だ、何でもできるじゃないか!とにかく何かしろよ!何もしなくちゃ始まらない!頭の中だけで悩んでて何かが変わるのなら教えてくれ!」

 「どーせ、口先だけだろ?自分だって本当にそんなことやる気あるのかよ?言うのは誰にだってできる。君は空想の人だな!」

 本当にふてぶてしい野郎だ。それに、まるで興味なさそうな顔でこっちを覗く彼女にもいい加減腹が立つ。

 「冷めた奴らだな!本当にやるんだから一緒にするな!」

 「どうだか。ねぇ?」

 男に振られると少女は力なく口元を緩めて冷笑した。そのやる気のない目の色。まるで僕の言葉が信じられていない。思わず売り言葉に買い言葉で口を開いていた。

「やる気があるなら来週この時間にここにいてみろよ!僕の夢を一緒に創らしてやるぞ!オマエらこそ口先だけじゃないのか?!」

 自分で言ってて何だか恥ずかしくなってきた。僕はこんなに非現実的な夢を持った男だったのか。なんだか今日の僕はおかしい。でも今更口は止められない。

 「とにかく若いんだから何かやろうぜ、つべこべ言わずにな!」

 そう言うと僕は金を払って店を出た。あいつらは何も言葉をかけてこなかった。

妙に興奮していた。僕はあの二人の無気力に怒っていたんだ。大したことをしなくても仕事が成り立つと言ったあいつらが許せなかったんだ。

 人間、そういうものではない。やはりそう思いたい。若さが死んでいては世界は終わりだ。せめて僕は自分の若さを朽ち果てさせないようにしよう。僕はやるのだ!必ずやり遂げてみせよう!急に言葉にしてしまったが、これは以前からぼんやりとは考えていたことだった。それが急に今、クローズアップされてきた。あの自然をこの手で復活させてみせよう。僕のこの、怠け切った手で。

 無性に故郷に帰りたくなってきた。あの桃畑。学生時代にいつも走っていたあの桃の老木の場所。幼い僕を豊かに耕してくれた場所。あの場所を、今の僕の若さで素敵な場所にしてあげられないだろうか。

今までこんな具体的に考えたことはなかった。勢いに任せて、思いつきでさっきああ言ってしまった時、僕の心はまた震えた。フルムーンサイクリング以上の甘美な夢を見つけてしまったからだ。

 何をしたいのかではない。何のためでもない。目的はともかく、若さは行動だ。僕は本気だった。汗を費やして、あの桃園を再建しよう。それが今の僕の若さの証ではないか。あんな二人のことなんてどうでもいい。僕はやる。一人でもやってみせよう。

 そんな夢を見ながらアパートまで歩いて帰った。――夢。これは深夜の夢。幻を見ていたのだ。叶う筈のない、アルコールが見せる夢だ。

 翌朝、目が覚めたベッドの中で後悔していた。なんで昨夜はあんなに熱くなってしまったのだろう。初めて会った人たちに本心をさらけ出してしまうなんて。

 せっかくの週末は、あっという間に終わってしまった。何をしていたのだろう。ビデオを借りて、食事を作って、洗濯して、なんだかそれで終わってしまった気がする。多摩川沿いを走って鈍った身体を鍛えるつもりだったのに、結局走らなかった。

あの夜に僕が言ったこととはまるで逆だ。何もしていない。せっかくの週末を何もせずに終わらせてしまった。よくあることだ。何もしなかった、という実感は毎回自分を苦しめるのだが、本当はそんなこと考えなくてもいいのかもしれない。

 きっと、考え過ぎなのだ。こんなことで悩んでいるのは僕だけに違いない。週末は平日の疲れを癒すためのものだろう。何かをする必要はない。元々何もしなくていいんだ。やりたいことだけを適当にやっていればいいじゃないか。

 そうだ、僕は考え過ぎだ。一日をやり終えたはずなのに、毎晩僕はそのまま眠れない。何かやらなくちゃいけないことがあるんだって思い込んでいるから、夜だって何か時間が惜しくて、でも仕事をした後の夜なんて大したことできるわけないのに、やっぱり何かやらなくちゃいけないんじゃないかって思い込んでいる。こんな生活ばかり繰り返してきた。早く眠れば明日が楽なのに。解決できないこの心。

 金曜日はどうしよう。言い出した本人が行かないのはまずいよな。でも、名前も連絡先も知らない人たちだ。気が向いたら行けばいい。大体さ、仕事が忙しいんだから行けるとは限らないじゃないか。

 そして平日は始まってゆく。週末のスローな時間が嘘のように、長々と時間を拘束され、無駄な通勤時間を垂れ流し、やりたいことはできず、月曜日から金曜日までの五日間がノルマのように思えてくる。人生は、五日のノルマをクリアしなくては自由な二日を手に入れることができないのだろうか。五対二という比率に正当性はあるのか。そもそも人生の中心はどっちなのか。毎度ながら、本当に分からない。

 僕は悩んでいた。月曜から火曜、水曜と進むにつれて益々結論が出ない。

――結論が出ない。それは違うのか。答えはとっくに出ているのだ。ただ、踏ん切りがつかないだけ。僕は行くしかないだろう。見ず知らずの彼らが来るとは思わないが、少なくとも自分自身にけじめをつけるためにも、僕は行かなくてはならない。

 木曜日、僕はかなり働いた。金曜の夜になるべく早く会社を出たかったからだ。待ちきれなくなっていた。一度行くと腹を決めたら、一気に新しいイメージの波が押し寄せてきた。

 馬鹿正直に本心を吐露してしまったあの夜。青臭い。センスがない。だが、あれはあれで良かった。凡庸とした平日の渦中に思い出せば、なんとドラマティックで、なんとエキサイティングな一時だったのだろう。あの続きがしたい。できないか。あの少女が来るとは思わないが、あの変わった彼なら来てくれる可能性もゼロではない。それに、別に誰かと一緒にやる必要もないじゃないか。自分自身だけでできることだ。

 金曜日の朝は爽やかな気持ちだった。いつもは憎たらしく見える出勤途中の駅さえも晴れやかに思えてくる。あと何時間かすれば僕はここに戻ってきて、新しい自分自身を探す冒険に出ている。変化のない生活にピリオドを打とうとしていることが新鮮で堪らなかった。

 来週に回せる仕事は可能な限り回して、夜八時にはタイムカードを切った。普通に残業してしまったが、うちの会社では結構早い方だ。この時間帯なら途中で乗り継がなくても直行電車がある。身体が先を急いでいた。遂にこの時が来た。テストの結果待ちを何倍も濃くしたような動悸。あの悪戯の結末はどうなるのだろうか。

 Time’s Barに着いたのが九時半。僕は軽い気持ちで階段を下った。いるわけがない。誰もいるわけがない。

 薄暗い店内に入ると、カウンターに人影があった。あいつだ。彼だ。あいつがいた。

 「――待ち兼ねたよ。ようやく来た」

 あいつは楽しそうに笑って僕を迎えた。本当に、いやがったぞ、コイツ。

 「昭です。よろしく」

 思わず名乗っていた。

 「慶です。興味がある。やってやろうじゃないか」

 楽しそうな彼の声。僕は冷静にこう言う。

 「男が二人もいれば何かはできる。あの娘は来ないだろうが、大の男が力を合わせれば何かしらできるさ。お互い自分自身の為に頑張ろう」

 「その言い方は素直で良いね。お互い自分自身の為に頑張る、か。互いのことはともかく、共通の目標がある限りはチームを組んでみるってね。腹黒を隠して」

 「おいおい、悪用はしないでよ!ちゃんとルールはわきまえてくれよな!」

 笑いながら彼に言う。妙に素直で良い。

 「分かってるよ。大丈夫。で、一応もうちょっと待ってみる?一応」

 彼も気にしているようだった。でも、来るわけがないのはお互い承知だ。

 「一応ね、一応」

 「じゃぁ、飲もう。マスター、僕は黒ビール。ギネスね」

 「カシスソーダお願いします」

 横顔のまま慶が続ける。

 「Barで男を待つなんてロクなもんじゃないと思っていたけど、これがまたなかなか悪くない。いやぁ、待ったよ。八時の店のオープンから来ていた」

 「早過ぎ。そんな時間無理。これでも今日は結構無理して早く上がってきたけど。実はさぁ、自分から言い出しておいて変だけど今日が待ちきれなかった」

 本当にそうだ。待ち切れなくなっていた。

 「僕も考えました。あれからあの言葉が頭から離れなかった。あれは、とてもいいですよ。聞いた時はすぐに分からなかったけど、一日また一日と経つにつれて分かってきた。あの言葉はあなたの一番の本物の部分から放たれたものだと思う。あの娘は黙っていたよ。ちょっとして帰る、と言うから大丈夫かなとは思ったけど、そのまま一人で帰らせた」

 「彼女は来ないでしょ。あの年じゃ僕の真意はまだ伝わらない。どう見てもまだ十代だろ?それに、男二人の中に入って来ようとするわけがない」

 「だね。あなたが変わっているから」

 慶はぼそっ、とつぶやいた。僕は鼻で笑い飛ばしてやった。変わっているのはどっちだ。僕もそうだが、それ以上にお前だろう!

 グラスを合わせて乾杯した。場末の町で偶然知り得た男だが、貴重な友人となってくれるのだろうか。僕の人生にかすかな灯りでも点してくれる一因となってくれるのだろうか。

 美夜子には分からなかった。なんで、土いじりなんてしたいんだよ。土とか、虫とか大っ嫌い。汗かきたくないし、服も汚したくない。

 わたしはただお金が欲しいだけ。めんどくさいのはヤダ。カレシや友達と遊ぶ時間だけが楽しい。仕事も、言われた以上のことなんてしない。時間だけあげるからお金を頂戴。時間と交換。時間なんて幾らでもあげる。お金を頂戴。車が欲しい。

 金曜になると、昼間からビールを飲んだ。仕事は入れていない。そのくせ、あのBarに行く気はなかった。心のどこかでは行きたいと思っている自分自身を認めようとしなかった。缶ビールを開けるとベッドに寝っ転がる。

 親は構ってくれない。仕事のことも知っているくせに、強く言えない父と母。それがイヤ。うるさいことは言われるのもヤダけど。

 でも、何も言わない親の弱さがもっとイヤ。どうして強く叱ってくれないんだろう。昔は違った。まだ小さかった頃は父も母も厳しかったのに、高校生になったぐらいから、わたしが黙っていると何も言ってこなくなった。

 それが都合良かった。高校の頃はよく外泊もしたし、ハデな格好もした。でも何も言われなかった。今でもそれが続いている。わたしがキャバの店で働いていることも知っているくせに、何も言わない。よくもまぁ、自分の娘がキャバクラで働いていても黙っていられるもんだ。だから、わたしのことなんて興味ないんでしょ。こっちだって親に頼らない。お金とか家とかはしょうがないけど、後は親なんかに何も頼らない。

 部屋でひとり、ビール飲んでる姿なんて誰にも言えない。今日はカレシも休みじゃないし、わたし、どうして休みなんてとったんだろう。行かない。わたしは行かない。そんなヒマなことしてられない。

 酔っ払ってベッドで寝返りを打つ。近所のガキの声がうざい。赤ちゃんとか最悪。

天井が見える。あいつは呑気でいいなぁ。何も考えない白い天井のようになりたい。カレシと二人で見る時には全然興味ないのに、こうして一人で寝ていると天井って結構カワイイんだ、って思えてくる。――行かないから、絶対に行かないから。

しばらくして、美夜子は自分が寝ていたことに気が付いた。いつの間にか時計が二時間も飛んでる。

美夜子にとって、時間はどうでも良い存在だった。何を感じるわけではなく、それはごくありふれたもの。安全や空気や水と同じように、いつでもどこでもタダで手に入るものだった。

家に居てもつまんない。親に黙って外に出た。でも違うから。あのBarに行くためじゃないから。それははっきりさせとく。チャリに乗って駅前の本屋に向かった。立ち読みでもしよう。読みたい本なんてないけど、なんとなく。なんとなく。

駅前の本屋は遅くまでやってるからいつも結構人入ってる。立ち読みばっか。ファッション誌を手に取った。いいなぁ、わたしもこういうカワイイ服着て渋谷に行きたい。カレシにもこういう服を見せたいし。でもお金足りない。入ったばかりでまだ初給料ももらってない。買いたい物だらけ。無駄遣いもできないし。お金を貯めて車を買うんだから。そのために働いているんだから。

カレシのバイクのタンデムシートに乗って出かけるのもいいけど、やっぱり車がいい。カレシは専門学校に入ったばかりで、まだバイトも見つかっていないからお金はないし、車なんて普通に無理。

キャバで働き始めたことは黙っている。深夜の工場で部品組み立てのバイトだって言っておいた。心配してくれてるのがちょっと嬉しいかな。絶対にバレたくない。キャバって知られたら絶対にあいつはキレる。隠し通すつもり。

ふと雑誌から顔を上げた時、イヤな奴を見た。昨夜店に来たオヤジだ。酒が入ってきたらヤラしい手つきで触ってきた汚いオヤジ。目が合うとヤバイ。逃げよう。

雑誌を置いて出ようとした時、オヤジと視線が合った。ヤバイ。早く出よう。オヤジもこっちに歩いて来るのが見えた。美夜子は早足で店を出た。なんだよ、あんなに酔ってたのにわたしを覚えてるんだ。ヤな奴。知らないフリすればいい。

後ろを振り向かずに、美夜子は駅の方向に早足で歩き出した。あぁ、イヤ。お願いだから話し掛けないでよ!

「――ユミちゃん?ユミちゃんでしょ?」

そんな声が聞こえた。今歩いているわたしはユミじゃない。そんな人は店の外を歩かない。だからほら、わたしじゃない。

「――ユミちゃん、ユミちゃんたら、服変えても分かるよ。ほら、昨日の。覚えてるでしょ?」

知らない。昨日と一緒にしないでよ。美夜子は無視して足を早めた。

「ほらぁ~、やっぱりユミちゃんだ。分かるって」

オヤジはすぐ横で顔を覗き込んできた。キモい。ムリ。

「違います。ごめんなさい」

下を向き、そう言って過ごそうとした。

「冷たいんじゃな~い?またお店行くからさぁ~」

何だよ、何が言いたいんだよ。シツコいんだよ。

「ごめんなさい」

そう言ってやり過ごそうとした美夜子の腕が、オヤジに掴まれた。

――その少し前。四季は金曜の夜にしか乗らない電車に揺られていた。いつもは中目黒のマンションで過ごすが、たまの週末には実家に帰る。遠いのがネックだが、週末ぐらいは都心を離れたい。今週もくたくた。忙しくて毎日帰りが遅かったから。

四季は誰もが知っている大企業の海外人事部で働いていた。入社五年目になり、重要なプロジェクトを一人で任されるようにもなってきた。やりがいはあるし、段々責任も重くなってきた。後輩たちも入ってきて、いつの間にか自分の知識と経験が先輩としての価値を持ち始めてきたことを知った。

一方で、最近の四季は大きな選択を前にしていた。今の仕事や、高校の時の英国留学経験とアメリカの大学卒の肩書きが買われたのか、友人経由でブランドショップの国際調達部からの引き抜きの誘いがきている。アメリカの有名ブランドの日本支店だから信頼もできるし、これまでの話では業界未経験者なのに今のお給料よりも貰えるようだから悪い話ではないみたい。そろそろ結論を出したいとは思っている。

――でも、週末ぐらいは何も考えたくない。

昨年までは実家に帰るのもお正月ぐらいだった。週末はマスターコースのスクールに通いがてらジムで汗を流すのが日課だったわ。ヨーロッパの拠点統合の大きなプロジェクトが終わった後、自分へのご褒美のつもりで週末に実家でのんびり過ごしていたら、それが好きになっていたみたい。仕事をバリバリこなすという当初の目標が、随分早く達成できているから今はそれでも良いと思っているの。

今はショッピングが唯一の楽しみ。バッグと靴はかなり増えてしまったし、会社に着ていくスーツは収納に並んでいる。でも理性が利くからショッピング依存症なんてならないし、お給料にも余裕が出てきたから貯金もできている。順調。とにかくこれまでの私は順調なのよ。

こんなこと決して自分から口に出さないけど、私はスタイルにも自信がある。食事や運動にも気を使っているから、同年代の一部の女性たちがなり始めてきたような体型とは縁がない。

仕事中は冷たい顔になる時だってある。でも、本当はそうじゃないって周りから思われているのも私は知っている。対応は良くしてあるし、愛嬌も忘れていないから冷たい女性とは思われていないはずよ。

悲しいけど、社会が最終的に女性に求めるものが何であるかは理解しているつもり。いくら男女平等の現代といっても、建前と男性社会の普遍的な本音が相反するものであると私は分かっている。それを分かっていなくちゃ上手くやってゆけない。

会社では誰もが私を一人前に扱ってくれる。上司も先輩や同僚の男性たちも、周りの女性たちも立派な一人の大人として私を見てくれる。それは嬉しい。入社する前の一番の心配事はそれだったから。総合職としての採用だったけど、本当に私を一女性社員としてではなく、一人の社会人として扱ってくれるのか、それが一番大事なことだった。

嫌いなのは女性を女性としか認識しない男。その種の男を私は嫌い、そして憎む。バブル時代のOLのように、お茶汲みだとか、雑用だとか、書記の役割だけを押し付けようとする男が今の時代にも存在することに私は怒りを覚えている。時代の変革を理解しない無能な男。全ての男がそうではないけど、いまだに一部の男どもはそういう考えを持っているの。それが私には手に取るように分かる。

私は違う。私はそういう女性ではない。そう信じて今まで過ごしてきた。それが私のささやかなプライドだったわ。その信念を曲げてまでも仕事をしたいとは思わない。私は社会人。仕事に、性別による差はないわ。細かい点では色々あるのは認めるけど、大きな部分で差なんてない、絶対にない。

私には男性と同等の仕事を与えて欲しい。女性だからといって甘やかさないで欲しい。そういう配慮は、他の女性にはともかく、この私にとっては侮辱でしかないのだから。そういうことを周囲にそれとなく訴えてきたつもり。今はそれがちゃんと受け入れられていると思っている。今の職場に対して、その意味での不満はないわ。

その裏腹で、私もまたどうしようもないものを抱えている。女性でありたい。女であり続けたい。いつまでも美しく、柔らかく、華の雰囲気をまとっていたい。これが私の心底からの願望。もっと言えば、全ての物事に優先する一番の願望。社会で女性としてだけで見られたくない、という憤りとは正反対に位置する意識なんだけどね。

誰にも言えないこと。でも一番大切なこと。私は女。いつの日も、誰であれ私を一人の女として見て欲しい。私はずっと美しくいるから。仕事では女としてだけで見られたくないけど、オフィスで着ている服には女性としての可愛さを見つけて欲しい。新しい服で出社したらちゃんと可愛いって誉めてよ。

――こんなの、誰にも言えないことだから。

矛盾した気持ち。整理できないふたつの願望。世界の不条理以上に、私が矛盾している。この化け物を抱えながら私は生きて行かなくてはならない。現代を生きる一社会人として、そして一人の女性として、凛として歩いて行かなければならない。これが四季という人間の本性。誰も知らない。決して知らない。

終着駅の垢抜けしない雰囲気に四季は深呼吸していた。人気も建物もない暗闇は森林のようで、柔らかな空気が沸々と湧き出してきているのが分かる。わずかに見える自動販売機の灯りはキャンドル。クラシックな駅は、四季を遥か昔、子供の頃へとタイムスリップさせるかのよう。マックスマーラの上等なスーツを着ている自分自身が場違いで恥ずかしくなってきた。私こそ、現代のStrangerだ。

改札を出て、駅前の狭い広場を歩く。なんとなく雑誌でも買おうと本屋へ向かう。たまには童心に返るのは良いことだわ。親戚の女の子に買うような振りをして、マンガでも買ってみようかしら。恥ずかしい。きっと無理ね。買える人が羨ましい。私じゃ、買ったところで明日にはゴミ箱行きね。旅行の雑誌にしよう。温泉行きたい。

本屋のドアが乱暴に開けられ、一人の女性が早足でこちらに向かってくるのを四季は見た。その後ろからスーツ姿の男性が現れると、小走りで女性に近付いて話しかける。女性の態度は冷たい。下を向きながらひたすら歩いている。

――止めてよ。

四季はそう言ってやりたかった。その女性はまだ少女と呼ぶ方が相応しく、男性はもういい年だ。親子には見えない。よく分からないが、とにかくあまり社会的に好ましくない光景に遭遇してしまったようなのだ。

男性はしつこい。横から覗き込むように声をかけている。厭らしい笑い方。

――止めてよ、私の前から消えてよ。お願いだから、そういうことは私の前ではしないでよ。

逃げようとする少女。無視を続け、男の顔も見ずひたすら足を速めた。次の瞬間、男性の顔から厭らしい表情が消え失せた。次は世間の部長の顔だ。ひたすら上から怒鳴り散らすだけの、あの一方的で、愚鈍な表情だ。部長は大股に闊歩した。そして、少女の腕を掴むとこう言った。

「――調子に乗るなよ!そんなに客が嫌ならキャバクラなんかに出るんじゃねぇ!」

知らずと足が動いていた。ヒールの音をわざと高々に鳴らしながら、四季が少女に近寄る。部長に威嚇の声をかけられて黙ったままの少女に向かい、必死の声色を繕った。

「――美恵!!どうしたの?!」

適当な名前を呼び、小走りで駆け寄る。思わず部長は手を離した。

「姉です!何ですか?!貴方はどなたですか?!」

有無を言わさぬ口調で四季はまくし立てた。今までの社会経験で学んだ、女性特有のずるい口調だ。思い詰めた女性にはどんな男も困惑するのを知っている。さすがに部長も居づらそうな顔になった。だがこれは演技だ。四季の巧妙な演技だ。

部長は笑った。誤魔化しの笑い。意味のない笑い顔だけで上手に、曖昧に笑っている。しかし、四季の演技はそれを上回っていた。

「一体何なんですか?!はっきりしてください!!」

四季はヒステリックな声を出した。曖昧な笑いで水に流すつもりだったらしい部長の咽喉元に突きつけるような狂気の声。四季のテクニックとも気が付かず、今度は部長も困った表情になった。

「――分かったよ、分かりましたよ、じゃぁユミちゃん、またお店でね~」

そして部長は大笑した。引き際を悟ったらしく、豪快な笑いぶりを偽造し、若干腰を屈めて、しかし自分のプライドが傷つかないように絶妙に防御しながら消えて行った。狸同士の化かし合いは、差し詰め勝敗なしといったところ。部長は長い社会経験から大技を繰り出して追っ手を阻んだ。

四季は部長の後姿をずっと目で追っていた。追ってこさせないための用心だ。ふと、横の気配を感じて四季は振り向いた。少女の冷めた目が四季を見ていた。

――その少女の表情を見た時、四季はどこか胸の痛みを感じた。

「助かったけど、そんなにうるさくしないでよ」

それだけ言うと少女は立ち去ろうとする。四季はそれでもいいと思った。もちろん全く知らない少女だ。しつこそうな男性にからまれているのを見て、とっさに機転を利かせて助けてあげただけだ。別に少女を守りたかったからではない。ああいうタイプの男性が嫌いで嫌いで、見ていられなかったからだ。

子供相手に本音を言わなくてもいい。しかし、何もなかったかのように歩き始めた少女の後姿を見ていたら、嫌な塊が胸の奥から込み上げてくるのを抑えられなかった。

「あれは演技。あなたも、このぐらいすぐにできるようになるわよ」

あぁ。意地悪なことを言ってしまった。ありがとうも言えない少女に気分を損ねていたのだろう。我ながら珍しいと四季は思った。

それを聞くと少女は立ち止まって四季を振り向いた。

薄暗い電柱の灯りの下で二人の女が向かい合う。四季はいつも通りの表情だ。自信に満ち溢れた顔。それでいて冷静な知性と、大人の女性美が混在している。少女の口元は不満気だった。誰にも騙されないぞ、という虚勢が顔の全体に巡らされている。

ありのままの表情を四季は続けた。それはほんの数秒だったのだろう。ふと、瞬きの間に少女の表情が一変していた。およそ四季には不可能な変わり方。少女の顔に取り付いていた醜いものが瞬時に消え失せて、そこには愛らしい表情の女の子が微笑んで立っていた。

「お姉さん。ついでにお願い♪」

――何よ、この娘は。四季は動転した。どうしてこういう表情ができるのよ。こんな素直な表情、社会にはないわ。この娘は何か自分の要求を聞いてもらうためにこんな表情をしているのでしょう。

でも、自分の要望を通すためには二通りの方法しかないはず。恫喝と謙譲。頭ごなしに命令する下品な方法と、自らをやや引いて相手の常識に訴える限定的な方法。社会の交渉の場で交わされるのは常にそのどちらかだったはずなのに。

四季はすっかり参ってしまった。少女の真っ直ぐな表情を見て、心にさざなみが立った。同情なのか、社会の先輩としての義務なのか、四季から面倒臭いという意識がこぼれ落ちた。四季の心が、少女の明るさの前に膝を折った。生身の社会というものを体得したはずの四季が白旗を揚げる。こんなこと、全く経験のないことだった。

どうして。どうしてこの娘はこんなことができるの。きっと彼女の若さと社会経験のなさが生み出す、ビギナーズラックのような一時の力。限られた回数しかない奇跡の技。

「ねぇ、お姉さん。わたし一人じゃ行けない場所があるんだ。聞いてよ~」

どうやら少しお酒が入っているようだった。立ったまま少女はよくしゃべった。先週、客に連れられていったBarで出会ったおかしな人たちのこと。上客には愛想を尽かされたが、その後で話した変な男二人のうち、マジメな方が突然言い出した土いじりという地味な夢のこと。そして、何故かそれに加わりたいと思い始めてきたこと。彼女自身もよく分かっていないようなのだが、その話が妙に頭から離れないということ。でも、変な男二人の中に自分一人だけで入って行くのは躊躇があるということ。

初めて少女を見た時から四季には感じるものがあった。可愛いい顔立ちの奥に潜む不安の影。そこには無力さと自信の無さが充満していて、それを少女の若さと肌の輝きが包み込んでいる。鉛と金が不思議と同居していた。哀しいミスマッチ。四季にとってその少女の表情は見てしまってはいけない深い傷のようであった。

都会ですれ違う群集にはいないタイプ。かつての幼い頃の自分自身の無垢な姿を重ね合わせたのか、それとも多分に卑下の感情が含まれた同情心か。少なくとも、善意の優しさだけではなかった。氷の短剣で胸を突かれたかのように、四季の心は麻痺していたのだ。

彼女は少女に伴われてBarの階段を下ることになる。こんなことはまるで初めてだった。我ながら軽率な行動をしているとは思ったが、少女の誠実な部分を見てしまった以上、少女を疑うことはできなかった。

 

小説「愛日常」

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