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ブライトエンジェルトレイル〜コロラド川 見習い芸術家の冒険22話

投稿日:1996年9月13日 更新日:




9月13日(金)

  早朝6時、眠気との格闘にようやく勝った僕が、慌ててコンタクトレンズをつけ、「やべっ、時間ギリギリだっ!!」と走る姿があった。昨日のヤパパイポイントまで行く途中で、ショーはもう始まりつつあった。2大写真タイムのもうひとつ、サンライズ。昨夜のサンセットは曇りだったからね、ここで挽回して谷底へ向かいたい。

  僕は走った。グランドキャニオンを横目に、朝もやの中を若い力で走り続けた。その時には気付かなかったが、こんな小さな場面こそが、グランドキャニオンのサンライズを見ようと走っている僕の姿が、見習い芸術家の冒険を体現しているのだと思う。なんて可愛いシーンだろう。健康な若い身体と、これから磨き上げる感性。正に見習い芸術家の冒険だ。

  ヤパパイポイントへ着くと、丁度ショーが始まった所だった。目覚めという言葉がぴったりだ。谷底はもちろん、空から横壁まで何もかもが薄闇に包まれている。在野の偉人が眠っている所は初めて目にした。珍しく僕の方が先に起きて、これから在野の偉人が起きる所を目にしようとしている。あなたぐらいに素晴らしい方であれば、朝の目覚めも美しいのだろう。俗人の僕にはできない美しい目覚め。朝の目覚めからもう美しいだなんて、憎いねこの偉人は!

  今朝も雲が邪魔をしている。もうとっくに太陽が顔を出してもいい時間のはずなのに、雲に隠れてちっとも見えやしない。2回連続で焦らされた僕はどうすればいいのでしょう。そのうち、雲が赤くなってきた。雲が後ろから朝日に照らされて赤く染まってゆく。さぁ、太陽よ、今こそ雲を千切って9月13日の空に姿を現すのだ!まだまだ見習いだが、一人の芸術家がその美しさを愛でてやるぞ!

  僕の気持ちを受け入れてくれたのか、遂に雲間からグランドキャニオンの朝日が顔を出した。朝の太陽が神々しい光りをキャニオンに注ぐと、それを受けたキャニオンが一日の活動を始める。なんとも美しい関係だ。

朝日がグランドキャニオンをゆっくりと起してゆく。このでっかい偉人も一人では起きられないのかな。余りにでっかい身体を持っているから、一人では全部のゼンマイを起動させられないのかな。それとも、単に寝ぼすけさんなだけ?更に深く問えば、グランドキャニオンの偉人には実は太陽というボスがいて、太陽が全てを仕組んでいるのかい?真実はどれだ?!その秘密を僕に教えてくれたまえ!

  じわじわと朝日に照らし出してゆくグランドキャニオンの横壁。サンライズの光は昨夜のサンセットよりも赤く、鋭い。朝もやを一条の光が突き抜け、キャニオンにスポットライトを当てる。正に厳粛な朝の儀式。もうどれぐらいの歳月、こんな神々しい儀式が繰り返されているのだろうか。たった一日でも僕がその歴史の証人になれたことを誇りに思います──。

  昨夜のサンセットよりも美しく、サンライズは輝き続けた。キャニオンが赤く染まる瞬間は確かに存在していたが、今朝の太陽は雲に邪魔され続けている。それでも、眠りから覚めたこの在野の偉人の美しさは充分に肌に感じさせてもらったよ。確かにサンセットとサンライズを見ずにグランドキャニオンは語れない。

  ショータイムは終わった。さぁ、見習いよ!いざ、グランドキャニオン谷底へ向かう準備をせよ!次なる冒険のため、キャンプへ戻るのだ!

  トレイルの途中で、エルクの家族に出くわした。両親と小鹿が2匹、歩道と森を仕切っているフェンスが越えられず歩道でウロウロしている。森を歩いている内に歩道に出てしまったのだろう。そのうちに一匹がフェンスを上手くジャンプして越えると、残りの3匹もそれに続き、このショーもお開きとなった。こんな超有名観光地にもエルクがいるとは驚きだ。動物もここを逃げ出そうとしていないのが嬉しい。アメリカの自然の恵みと、アメリカの人たちに感謝と敬意!こういう光景を見る度にこの国の人々が自然と共存しようと願っている、と信じられるんだ。

  キャンプ場に戻るついでに朝の営業を開始したツーリストインフォメーションに質問に出向く。「このビレッジ内にコインロッカーはありますか?」「ないです~。荷物の一時預かりをブライトエンジェルロッジがしていますよ」という会話。キャンプ場に帰ると、さすがは週末、今夜はサイトが一杯との案内が貼り出されていた。あぁ、良かった~。ファントムランチが取れていなかったら今日の午後のバスで帰らざるを得なかったんだ。

  問題は荷物だ。寝袋やテントなどは重くてとても谷底まで持っていく気にはなれない。どこか置いてゆける場所があればそれに越したことはないのだが、と僕は一人でぶつぶつつぶやいている。ストアで沢山の水と食料を買う。なにせこれから僕が行くのは谷底だぜ、このグランドキャニオンにある砂漠だぜ!それなりの用意が必要だ。

  ストアから自分のサイトへ戻る途中で迷子になってしまったので、僕はいきなりくたくたになった。食事を作っていると小鳥たちが近寄ってきた。ちょっとお裾分けね、と投げてやると嬉しそうに小鳥たちは啄ばむ。かなり自分の近くに投げてもここの小鳥たちは抵抗なく寄ってくる。僕は自分の手の平にエサを置いて小鳥たちに見せてみた。こんなこと聞いたこともないね!なんと、ここの小鳥たちは直接僕の手からもエサを食べてくれた!僕の手の平を突っつくのがくすぐったい。なんて純粋な小鳥たちだろう。僕は反省した!僕も、君たちを見習ってもっと他人に心を開くことをしなくてはならないよね。

  置いて行く荷物については腹を決めていた。自分が使っていたサイトと隣のサイトの真ん中にテントを引っ張り、その中に必要ない物を入れてテントを固定する。そして入口にこういう手紙をつけた。

  「親愛なるキャンパー仲間よ。私はキャニオンの谷底へ冒険に行ってきます。コインロッカーがないので荷物を置かせて下さい。あなたの親切さに深く感謝いたします」

  テントを残すと僕は谷底へのトレイルに向かった。貴重品や、無くなって惜しい物は残していない。キャンプをしている人間は心が広くなっている。僕の予想では全く問題は起こらないでしょう!いざ、ブライトエンジェルトレイルのスタート地点へ!

  ブライトエンジェルトレイルを経てファントムランチへたどり着くには体力に自信がある男性で6時間かかるといわれている。しかも今は夏、谷底は砂漠に近いはずだ。ファントムランチへの冒険旅行は体力勝負になる。行きはそれでもまだ良い方だ。トレイルの入口地点は標高2,091mで、目的地のファントムランチは780mだ。帰りは砂漠地帯を歩いた上に、この標高1,300mの山を登るのと同じ計算になるのだ。

  僕にはかなり自信があります!この与えられた機会に、是非自分自身の体力を試してみたい。子供の頃からマラソンが早くて、中学校のマラソン大会で学年2位に入ったこともある。幾ら歩いてもなかなか疲れない健脚の持ち主だし、シアトルから今までの冒険旅行の中で僕のタフさは証明されている。

1ヶ月という長い時間を与えられた僕が、幾多の魅力的な大都市が点在するこのアメリカでわざわざ選んだのが国立公園。旅行のベストシーズンである夏の終わりの、この留学期間中最長の休暇に、僕はわざわざ国立公園巡りを選んでいる。その切っ掛けのひとつはガイドブックに載っていたブライトエンジャルトレイルの紹介文だった。

僕の冒険心をそそる文章、そこにはブライトエンジェルの道の感想が簡潔かつ、美しい冒険の心を基に書かれてあった。その文章を読んで僕が感じたのは「僕もこの道を歩き通してみせる!僕ならもっと早く、そして美しく歩けるはずだ!」という反抗心だった。

僕は国立公園を選んだ。ファントムランチでの宿泊はすっかり諦めていたのだが、今こうして思わぬチャンスも与えられている。このブライトエンジェルトレイルこそがこの冒険旅行最大の目的だと思っている。

そうこう考えている内に僕はブライトエンジェルトレイルのスタート地点に立っていた。なぁ、既に僕は一人の我がままで足を止められない所まで来ていると思うよ。色々なことがあったが、今までの自分の全人生と、これからの展望を一身に背負ってこのトレイルを進んで行く立場にあるのだ。進め、冒険家よ。得心行くまで詠め、芸術家よ。

  気合い入りまくって出発!俺様の力を見せてやる!僕は火を吐きながら歩き出した。午前11時20分に出発。よ~く憶えておこう。

  いつもの黒いアーミーパンツに白のTシャツ。ブーツとバックパック。荷物は水2リットルとお菓子まがいの食料と、カメラなどの貴重品ぐらいしか持っていない。他の荷物は全てテントの中に置いてきたので、歩くのも効率が良い。

  適度な下り坂がだらだらと続き、端で折れ曲がって下に続いている。足元には柔らかい土が溜まっているので、歩き易いトレイルになっている。人の多い入口付近を、僕はもの凄いスピードで歩いて行く。気合の入った蒸気機関車は「オマエら、どきな!」とばかりに黒煙をぽくぽく上げて、乱暴に抜き去ってしまう。僕はクールを装いながらも力強く歩き、あらゆる人たちをごぼう抜きにした。誰一人として僕の勢いに相当するヤツはいない。あぁ、なんて楽しい遊びだ!

  しばらく歩いていると、すれ違う人が今朝谷底から登ってきたのか、あるいは日帰りでちょっと下まで行って上がってきた人なのかなどがすぐ分かるようになってくる。誰も死にそうな顔をして登ってくる。もううんざりだ、という顔をしているのが日帰り挑戦者で、疲れてはいるが意志のある目をしているのが谷底からのつわものだ。

この人たちの顔を見て、大半の日帰り挑戦者は余り下まで行く気を失うのだろうか。確かにそれも分かるし、そうなることでそれぞれの体力に自制がかかるものだと思う。僕には全くそんな効果が無かったが、いや、実に上手くできたトレイルだと感心した。

 びっくりした。驚いた。年配の方が、大きな荷物を背負って上がってくるのに遭遇したのだ。あなたは想像できますか?「老人」という言葉が適切な年齢になった方が、この砂漠の峡谷を歩こうとしている姿を。まさかその年齢でこのグランドキャニオンの偉人に挑戦しようとは、僕には常識破りの行動に見えた。ロッキーマウンテンでも見たが、ここでは一層目を引いた。残念ながら僕のこれまでの人生で、こういった景色を日本で見たことがない。僕の両の眼球は飛び出しながら、相当珍しいその英雄を眺めていた。

  抜くのは良いけど、抜かれるのは嫌だね!僕は誰も抜けないペースをキープし続けた。スタートが11時過ぎというのは時間的に遅い方だし、最初の元気な内に距離を稼ぐのが上策、と思ったからだ。だが、素敵なリズムで暴走を続ける僕の耳に何と後から迫る足音が聞こえた?!

――そんな馬鹿な!この俺様のスピードに付いてこれる訳がない!俺様はこのブライトエンジェルトレイルで一番の健脚の持ち主だ!そんなことはあり得ない!しかし、一人の若い男がこの俺様を抜かし、先へ歩いて行ったではないか!

この俺様が負けることはない!俺様を堂々と抜かすとは大した度胸よ!オマエのその行動はこの俺様に喧嘩を売る以外の何ものでもないと知れ!オマエの挑戦は受けて立とう!俺様はそいつの憎たらしい姿をしっかりと覚えておいた。そして、30分もしない内にそいつを再度抜きかえしたのだ!所詮は俺様の敵じゃないさ。調子に乗って俺様を抜かすとは身の程を知りな!!

  横に並んで道を幅一杯に使っているヤツラがいる。オマエら、自分が最速だっていう自信があってそうして歩いてるのか?邪魔だぜ、道を空けな。――そう、僕は何者も止められないスピードで全てを抜き去った。ここを歩いている限り、社会的地位・財力・知力などという俗世では大切らしいその辺りを無視して、個人の体力が全てだ。どこまでも僕に有利な条件だ。ここは頭を支配しているスピード感に乗って、ここでもこのセリフを言うよ、「Don’t Stop Me Now!」

  歩き出してから30分で1.5マイルレストハウスを過ぎた。1時間歩くと3マイルレストハウスを越えた。随分規則正しいスピードだな。レストハウスでも休憩はせずに素通りし、僕はひたすらこの高い崖を下っていった。後は振り向かないせいか、自分ではどのぐらい下りてきたのか想像できない。ふと、上を見上げれば切り立った美しい岩壁に惚れてしまう。そんなことはないのだが、岩壁が崩れ落ちてきそうで心配になる。でもね、もしもこの岩壁が僕の方に落ちてきたとしても、それは岩壁なりの愛情表現なのだろうな。僕はそんな妄想に走る。

  歩き出してから1時間25分、ようやく崖の部分を越えた。これで長い下りも終わりだ。見上げれば断崖絶壁!遥か上に、サウスリムの切れ端が見える。いつの間にか凄いことをしていたみたいだ。帰りはこれを、この絶壁を登るのか。試練だぞ。これは真剣勝負になるぞ。まぁ、帰りのことは帰りの僕に任せることにしよう。さぁ、いよいよ谷底の砂漠へ歩き出すぞ。

その前にちょっとここで一休みしよう。歩き出してから初めての休憩を取ることにした。

  グランドキャニオンは幾つもの表情を持っている。崖上からの昼間の平和な顔、日の入り・日没の鮮やかな顔、上では自然の厳しさよりも自然の美しさが目立っていたのに、この辺りになると自然の厳しさの方が際立ってきた。地面は赤く、大地は乾き、エルパソ付近で見かけた低木が点在している。僕の自慢のブーツがぱさぱさの土を踏みしめると、土埃が上がる。砂漠だ。グランドキャニオンは次の顔を現してきた。

本来色白な僕の肌はこの長い冒険の旅で逞しく褐色に染まった。他人が見たら、僕を本当の冒険家だと思ってくれるだろう。呼吸を整え、手足を伸ばし、つかの間の休憩を取る。

  見晴らしの良い荒野にある一本道のトレイルをず~っと向こうから人影が歩いてきている。その人影は砂漠の旅人以外の何者でもないよ。僕もあの人たちも、砂漠を歩き続けている旅人。目的地も出発地も様々で、こうしてふと偶然にすれ違った旅人同士。ここは砂漠の真っ只中、グランドキャニオンのような有名観光地ではない。そんなまやかしに騙されているのは僕だけだろうか。暑さは僕を確実に破壊してゆく。砂漠の蜃気楼に頭がやられ始めてきたのか。

すれ違い様、お互いに「Hi!」と元気に挨拶できた。やはり冒険旅行はいいね、初対面の人ともこうして気持ち良く挨拶を交わすことができるのだから。

  10分間の休憩を取ると、僕は元気に歩き出した。峡谷の崖の部分は下りきり、すぐに砂漠になったが、またその先は緑の大地となっていた。砂漠地帯が延々と続くと思っていたが、想像以上に緑が生い茂り、割合涼しい一帯が続く。道の左右を大きな崖を挟まれ、細い一本道が緑の大地を走っている。休憩を取って更に元気になっていた僕はどんどん歩いて行く。

  緑のオアシスを過ぎると、次は赤い大地になった。赤い大地、それは叶わなかったホワイトサンズの黄昏か。いやいや、本当に岩肌が赤いのだ。太陽光線の照りつけで更に赤くなっていて、見る分には非常に楽しい。また、この一体の崖には地層がはっきり刻まれていてなんとも美しい。その年輪の厚さの前では、たかが19年間しか生きていない僕は何も語ることは許されない。

  ここは気温も33止まりだし、岩や木の日陰が多く、実際余りきつくはない。この程度の暑さなら全く問題ないよ。大きな木を見つけたので、その木の下でドーナツを食べながら休憩することにした。休憩とはまたちょっと違うかな。身体が音を上げている訳でもない。風流を堪能したかっただけだ。

あぁ、ここからだとさっきまで下ってきたサウスリムの崖が見えるよ。崖の背の高さは大したものだ。あぁぁぁぁ、帰りはあれを登るのだと考えると、逃げ出したくもなる。

大自然の真ん中、大きな木の下での休憩。この圧倒的な開放感。冒険を遂げるためだけに出ている冒険旅行。今夜の宿は既に決まっていて、今は広い大地の中に自分自身だけがいる。今、何も僕を不安にさせるものがない。本当に自由な時間とはこういう時を差すのだろう。なかなか手に入るものではない。僕はこの自由な時に一体何を見て、何を思っていたのか。今となっては思い出すことの出来ない、輝かしき思い出よ――。

  グランドキャニオンの北岸をぼんやりと眺める。首を捻って後ろを見れば南岸の高い壁も見える。何を好き好んで人はこの谷間に顔を埋めるのだ。見てもみよ、北にも南にも頑丈な鉄柵が張り巡らされているではないか。合理的に考えてみれば、僕たちは変な行動を取っているぞ。1,300mの山を下りて、また登る。何をしているのだろう。別に引越しをしている訳でもないし、この下に忘れ物をしてきた訳でもない。無駄な労力を使うだけの愚かな行為だ、と僕の心の中に住むデビルが嘲笑っていた。

おう、デビルよ、確かにオマエの言う通りだ。僕が取っている行為に生産的な目的がないのは認めよう。だがな、デビル。人には冒険や夢というプラスマイナスの定規だけで測ることができないものが存在する。苦しみの中にも修行とかやりがいというものがあるんだ。人間は馬鹿にできないぞ。人は、場合によっては自ら苦しみに身を投じることすらしてしまう存在なのだ。その偉さを知れ。

  非常事態発生!夢想に耽っていた僕の後方から、僕を抜かそうと数名の敵が進入してきた!それは我慢できないな。冒険家は、こんな所で抜かれる訳にはいかないのだっ!荷物を背負うと僕はすぐさま歩き出した。あの敵たちは「抜かされる」という屈辱を僕に味あわそうと、意地悪く追いかけてきているのだ。急げ、急ぐのだ。この俺様は誰にも抜かれやしないと宣言している!

  追撃を振り払おうと、僕は力強い足取りで先を急いだ。僕は本気を出したからね、すぐにそいつらを振り切ることができた。あっという間に彼らの姿は見えなくなった。トレイルを降り出してからまだ僕は誰にも抜かされていない。

  間もなくインディアンガーデンというキャンプ場が見えてきた。水道があるのでみんなそのオアシスでまったりと休んでいるが、修行中の僕に休憩は許されない。いや本当は、水があるために人が大勢いたので、俗世間から隔離されている僕は光を嫌い逃げ去るしかなかったのだ。逃げろ、逃げろ!大自然を冒険中の僕は人間との交流を避けたがっている。

  それから歩き続けていると、ミュールツアーの一行に遭遇した。ミュール(ラバ)とはロバと馬をかけあわせた動物のことで、ロバの大人しさと馬の強さを兼ね備えた軽四駆のような動物だ。ミュールに跨り、たぽたぽという蹄の音を聴ききながら乗り手たちは心地良さそうに進んで行く。ガイドが先導し、その後に何頭ものミュールが続いていた。

あれは他力本願だが、本物の冒険という表現がぴったりだ!ミュールの背中も馬の背中も変わらないんだろうな。原野そのままのこの大峡谷を馬で下って行く。鞍の上から見る世界はどれだけ美しいものであろうか。歩いていても決して気が付かないものまで見えてしまうのだろう。歩くとなれば足元ばかりを注意しなくてはならないが、ミュールならば景色だけに集中できる。健脚ではない人も、この峡谷の下を堪能できるシステムが構築されている。これは感動の共有だ。美しいものをより多くの世界に開放しようとする心の広さだ。ミュールに跨って詠む言葉は美しいことだろうな。今回は自分自身の足で歩き遂げるが、また次にここを訪れた時はミュールツアーで冒険したい、と思ったぐらいだった。

  単調な道に飽きてきた僕は、上のジェネラルストアで買ったヘッドホンステレオで音楽を聴きながら歩いていた。音楽が流れれば一層激しく動き出すのが僕のこの身体。僕は元気だ、実に気分が良い。いいペースで歩き続けている。

――もうどのくらいの足跡をこの黒いブーツはこの大峡谷に刻み付けてきたのだろう。もうどのくらいの汗をグランドキャニオンの土に落としたのだろう。数ヶ月前の僕よ、今の僕が見えますか?今この瞬間の僕が、以前に夢見ていたグランドキャニオン谷底への冒険旅行をしている姿なのですよ!思い描いていた夢が叶う時、それが現実味のないままに通り過ぎて行くのが不思議だ。夢見ていた時間を過ごしているのに、僕は当たり前のように歩いて行く。夢にまで見たことをしている、という実感はない。僕の心はこの道の終わりだけを願い、僕の身体は何も考えずに足だけを進めている。

  随分と下に来たのだが、ここにきてもまだ対向車線に人を見る。もう午後2時にもなろうというのに、今からでもこの高々とそびえ立つ崖を登る自信があるのかな。昨夜ファントムランチで泊まった人なら、まだ太陽が昇っていない早朝に谷底を出るべきなのにこの人たちはそれを怠ったのかな。あっ、今日崖上から降りてきた人だったらご苦労様!

  インディアンガーデンを過ぎて、道はプラトーポイントとオリジナルのブライトエンジェルトレイルの2つに分かれた。プラトーポイントは日帰りグランドキャニオン冒険者のゴールとして一般的だ。でも、油断ならない道だな。ここまで来るまでで相当の冒険だ。ましては同日中に元来た所まで戻るのは本当に大変だ。決して甘く見ないで欲しい。

どれだけ沢山の人たちがここまで歩いてきたのだろう。みんな頑張っているんだな。やはり人間の本質は素晴らしいものなのか。僕程度の冒険家なら無数にいるに違いない。所詮は僕も星の数程いる冒険家の内のたった一人、しかも見習いときた。僕の芸術家としての部分が成功し、何らかの形でこの物語を世に残せたとしても、所詮は沢山の素晴らしい人間の内の一人である。奇跡が起こったとしてもこの事実だけは忘れず、謙虚に生きていこう。

  道の顔がまた変化してきた。峡谷を下り、平坦な砂漠を進み、緑のオアシスがあった。今また次の進化を遂げようとするこのブライトエンジェルトレイル。さぁ、次は何だっ!次はどんな秘術を尽くして僕を待ち構えている?

  グランドキャニオン、あなたはつくづく偉大な人。上にいては分からなかったことも、下にいることで見えてきた。上でのあなたは、大きな構えで僕を受け入れてくれた。それはそれで大した包容力だったが、下に降りてくるとまた違うものがある。

グランドキャニオンの中身は様々な変化に富んでいる。崖上から見る景色の魅力を王道として前面に立ててはいるが、他の技も持っている。このトレイルを下る途中でその技を幾つも見せてもらった。グランドキャニオンの魅力は底なしだ。今日の昼までやや見下していたのが恥ずかしくなる。これからも油断ならない相手だ。

  次なるグランドキャニオンの表情は、間近に迫る崖の連続だった。グランドキャニオンの崖がトレイルの両端近くを取り囲むようになった。煉瓦のような色で高い城壁の如く、僕の上空を包囲している。なんという力強い壁か。下から上へと見上げてみよう。その一目だけで、この岩壁の歴史を感じる。こんなものが自然に出来あがること自体が奇跡。僕が今ここを歩いていること自体が奇跡。連続する奇跡が、僕の人生に愛しい軌跡を残す。

  平坦な道を随分歩いたからこんな場所に辿り着いたのか。きっとここを通過すれば更に道が一段下がる。大きな変化を遂げる前のひと騒ぎだろう。そんな予感がする。

  歩いていて面白い植物を見つけた。いかにも乾燥地帯にあるな、という土色をした低木で、中世ヨーロッパの典型的な長槍のようなとんがりの幹をしている。幹は真っ直ぐ伸び、なんとも勇ましい。根元には先の鋭いとげが満開の花びらのように開いている。木自体は崖の側面から生えているため、幹の先はまっすぐ空を指してはいない。木は僕がこれから進む方向を指差している!

これはどんな誘いだっ!まるでロールプレイングゲームに出てくるような看板。僕のことを支援してくれ、進むべき方角を示してくれている。この谷底では植物も自分自身を自由に表現したいと思うのだろうか。僕より背の高いそいつは、楽しそうに風に揺られていた。また一人、僕の冒険旅行を支えてくれている仲間に出逢えたことで僕の足取りは更に軽くなるのだった。

  両側から迫り来る岩壁を過ぎると、新たな挑戦が僕を待ち構えていた。何があっても別に驚かないとは決めているのだが、やはり驚くべきものには驚く。今更初めての景色は初めてではないのだが、驚きは隠せない。サウスリムからの断崖絶壁とは比較にならないが、結構な落差のある崖が前に存在している。その真ん中にできたトレイルは左右に遠回りを重ねながら通り行く旅人を谷底まで導いている。崖の日焼けは凄く、こんがりと粘土色に仕上がっている。

景色の中で緑色の植物は点在する低木だけだ。世界は死から立ち上がったばかりだ。無惨な大噴火から数年が経ち、ここにきてようやく落ち着きを取り戻したばかりの噴火口か。生物が住み着くのを拒んでいるかのような不毛の地。あぁ、ブライトエンジェルトレイルはこんな場所も通過しているのか。あぁ、言葉がない!あぁ、俺では及ばない!このブライトエンジェルトレイルはトレッキングをする者を余程楽しませようとしているのだ!凄い道だ、本当に凄い道だ!

  グランドキャニオンは真っ二つに割れた大地の谷間だ。高い壁に遮られているせいで、太陽が真上に昇った時にしか亀裂に太陽は差さない。日照時間が短いので満足に緑も生物も育たないし、風に吹き付けられて水気も干上がってしまった。亀裂の中は高層ビルと高層ビルの間で生命力を失った廃墟だ。だが、中の肌は滅多な者の手には触れられることがないので独自の進化を遂げていた。逆境を超越し、ここの谷底は魅力的になった。

  次の目標はここを下り切ること。進むべき道が全て視界に入っているのは珍しい。永遠と続く階段。絨毯ではなく階段自体が真っ赤で、荒々しい。炎の階段。火中の一本道。厳しい相手だが、全容を目で確認出来る分気が楽だ。終わりの見えない相手と対峙するよりは、精神的に負担が軽い。

それにしても、下るのは問題が帰りはこれを登らなくてはならないとは辛い。ここの登りと、最後の登り。2段重ねでえらい階段が待ち構えている。下りでは体力の心配はないが、さすがの僕も登りばかりは本気を出さざるを得ないだろう。

  僕は軽快なステップで下っていく。ガイドブックで読んで想像していた程、僕の身体は水を必要としないみたいだ。2リットル持ってきたが、半分も飲まず終いになりそうだ。足元に注意しながらも景色に見とれ、僕は順調に冒険を続けている。その長い下りが終わる頃にはさすがに疲労を感じるようになっていた。肉体の疲れではない。蒸し風呂のような空気での肌の疲労と、発汗による気持ちの部分での疲れだ。そして、この下り道をいつかは登るのだと思うことでの精神的なものが最大の敵だ。

  下り坂が切れると、次はまた平坦な道になった。緩急のタイミングのつけ方が意図的だね。意図的かつ、絶妙の具合だ。自然は自分の創り方に活動計画を織り込むことができるのだろうか。たまに、そうとしか思えない場面に出くわす。自然でも、大自然級にもなると生まれながらにしてのエンターテイナーだ。

  午後3時。大きな木の下で休んでから約一時間半、出発からは3時間40分。僕はグランドキャニオンの最も深い場所に到着していた。コロラド川のレストハウスを越えて間もなく、遂に僕はコロラド川まで降りてきたのだ!

――コロラド川。これこそがグランドキャニオンの仕掛け人。昔々、この周辺一体はただのまっさらな土地であった。いつの間にか現れた一本の川が流れを加速させ、川岸を浸食し始め、かなり途中を省くが、いつしかグランドキャニオンが出来上がったという。

  グランドキャニオン形成の経緯説明は以上なのだが、さすがにちょっと頭で想像するのにはサイズが大き過ぎる。なんとなくはイメージできるが、大法螺を吹いていると思われてもおかしくないぐらいの大雑把な理解だ。

  とにかく、僕の前に見えてきたこのコロラド川が、この大峡谷を創った本人らしい。そんな偉人だとは意識せずに、僕はフラフラと川辺へ足を運んだ。水は人の心の寄り所になる。疲れていた僕の身体はここで休むことを望んでいた。僕も頭もここで言葉を詠むことを欲していた。

  川辺の土は細かくて柔らかく、海辺の砂浜のようだ。ホワイトサンズの幻想的な海とは対照的な現実的な赤い海が広がっている。川辺の大きな岩にバックパックを立てかけて、それを背もたれに僕は腰を下ろした。少し身体を休憩させてあげよう。

  身体のことを気遣ってじっとしているのは、心にとっての退屈な時間だ。でも冒険中の僕の心はリラックスするつもりなんてさらさらないらしく、周りの景色を見ては感嘆の声を漏らしている。

  ――なんて風流なことをしているのだろう!

  この偉大なグランドキャニオンの、しかも秘境中の秘境である谷底を探検している僕。僕はただ身体の疲れを覚えたのでここに座っただけ。でも、その座っただけがただ事ではないのだ。ここは、ただの休憩をするような場所ではない。前後にはグランドキャニオンの北南の絶壁が僕を囲んでいる。辺りの岩肌は人を拒むかのような強い褐色で、目の前にはその岩肌とよく似た色をした川が流れているが、なんとこの川がグランドキャニオンを立ち上げた偉人である。そんな偉大なものにぐるりと取巻かれた環境で、僕はのんびりと休みを取っているのだ。何だ、この贅沢!何だ、この風流!

僕は水を飲み、煙草をふかしている。こんな貴重な場所でそんなことをしている。希少価値の高い良質のワインをグラスに注ぎ、一気に飲み干す――そんなイメージの限りない贅沢をしているのだ。

     こんな小さな力がこの大峡谷をつくりあげたというのか

       理屈はよそう  この川も一興添えるだけの存在でいいと思っているはず

                   ~コロラド川~

  目の前を流れるコロラド川は、水の色こそ特殊だがそれ以外はごく普通の川に見えた。川幅はあるが、泳いで横断できない程ではない。そこそこ流れも早いが、目で追いきれない程ではない。あくまで地味な川だ。特別な存在感はない。

でもそこはさすがにグランドキャニオンの創作者、落ち着いた雰囲気の中にも突然変身するかもしれない、という可能性を秘めていると僕は感じていた。だがこの川がグランドキャニオン全体を創り上げた張本人とはどうしても想像できない。この普通の川が大峡谷を創り上げただと?今やこのコロラド川が「おまけ」で、グランドキャニオンが「主役」なのに、その昔両者の立場が逆転していたとは想像できないのだ。

  しばらくして僕はこう考えることにしていた。――過去はどうであれ、今の状況の美しさを優先させよう。つまり、今のコロラド川は自分がこの景色の主人公だとは考えてはいないのだ。コロラド川は、昔自分が創り出したグランドキャニオンが、今は中心だと考えているのだ。そして、自分は主役の美しさを引き立てる役に徹することを願っているに違いない。

僕は煙草を吹かしながら、そんな理解でコロラド川の流れを見ていた。この冒険旅行中に僕が考えている「謙虚」というコンセプトがこの場所でも繋がったようだ。自分を知り、自分の存在価値を明確にすることは美しい。例えそれがナンバー1でなく、その次点であっても自分の活動の場をわきまえているのは美しい。

美しさにも、様々な方法があるということを決して僕は忘れないよ。コロラド川、あなたがグランドキャニオンを更に美しく見せる役に徹していたこと、僕はその精神を忘れはしませんよ。写真と言葉に永遠に刻み、僕の血肉とさせていただきます!

  そうして35分程過ごした後、僕は元気一杯で立ち上がった。十二分の休憩で身体はすっかり回復している。次のトレイルは上流に向かって川沿いに続いていた。川の流れを横に眺めながら歩いて行く。すっかり対向者はいなくなった。既に3時半を過ぎているからね、この時間帯では当たり前か。20分も歩き続けると、楽しいものが視野に入ってきた。このグランドキャニオン谷底冒険を一層冒険らしくしてくれる、とびっきりのエンタータイナーの登場だ!

  コロラド川の両岸を架かる吊り橋よ、お前はこの谷底へ下ってきた全ての旅人たちの冒険心のシンボルとなっているのか!あぁ、目の前には鉄橋が見えてきた。進むべきトレイルはあの鉄橋を通ってコロラド川の対岸へと続く。コロラド川を跨ぐことが、ここまで来た勇者には許されるのか!なんだかそれは大変誇らしいことだな。僕はいそいそと橋に向かって歩き、そして足音も高く橋を闊歩した!僕は堂々と、美しく橋を歩いた。この橋に響く足音は、試練を乗り越えた自分自身の名をグランドキャニオンへ告げることだ!このSilver Suspension Bridgeと名付けられた吊り橋は、そういう役を演じている。

  結局僕は誰にも抜かれなかったよ。休憩の時を除けばの話だけどね。とにかく我ながら上出来だ。張り切り過ぎて最初のハイペースでかなり体力を使ったので後が辛かった。帰りの時はもっとペース配分を考えよう。19歳の僕の体力にとって下りは全く問題なかった。登りはどうなるか分からないけどね!

  橋を渡ると、豊かな緑とビレッジが見えてきた。川辺にはBright Angelというキャンプ場もある。ファントムランチは峡谷の谷間のオアシスだ。それまでの人を拒むかのような谷底とは世界が違う。小さな森に囲まれ、細い川の流れもある。赤い大地に生える緑色が鮮やかだ。僕は涼しい空気に包まれた。緑の豊かな生命力を改めて感じる。緑のある所には人の安心が生まれる。僕はもうすっかりゴールした気分でゆっくりと道を進んだ。

  午後4時20分。僕は遂にファントムランチへとたどり着くことに成功した。トレイルを歩き出したのが午前11時20分だから、丁度5時間だ。休憩時間を全部で65分取った。ブライトエンジェルトレイルの入口からファントムランチまでは距離にして9.7マイル(15.7km)だから、休憩時間を除いて時速にすると3.9kmということになり、これは結構なペースだ。普通の陸地を移動しているのとほとんど差がない。我ながら天晴れ、よく歩き切ったぞ!

  僕はグランドキャニオン谷底唯一の宿、ファントムランチのオフィスの前にいた。「PHANTOM RANCH WELCOMES YOU」という歓迎の言葉のボードがかかっている。あぁ、嬉しいねそこ言葉は。WELCOMES YOUは心からの言葉だろう。ここを訪れる宿泊客は100%の割合でみんながみんな、大変な冒険家ということになる。こんな場所、他にはない。

この時間帯オフィスは閉まっていたので、隣接しているレストランの人に「Hello~」と話し掛けてみると僕を大変なリアクションで歓迎してくれた。小さい宿だからね、オフィスのフロントもレストランの調理係も兼務なのだろう。何はともあれ、彼らに自分のドミトリーを教えてもらい荷物を運び込んだ。

この宿はドミトリー式なので、ユースホステルと同等の設備だ。違うのは、食事が出るということ。せわしい僕は休む間もなくすぐにドミトリーを出て、来た道を戻りコロラド川の河原へと歩いた。

  本当はオフィスがやっていればレモネードをがぶ飲みをしたかったなぁ。僕は大きな石がゴロゴロしている川辺で座りやすそうな岩を見つけるとそこで一服し始めた。今日一日の最大の功労者である両足にありがとうの気持ちを込めてマッサージをしてあげた。

マッサージが終わると、僕は自然とペンとメモ帳をポケットから取り出していたよ。こんなに疲れているくせに言葉を詠むことは止められない。今や、言葉を詠むことが僕の冒険そのものになっている。僕は言葉を詠み、それが落ち着くと今日の日記をつけ始めた。このグランドキャニオンの谷底を歩いた感想を、5時間分を一息に凝縮してノートに閉じ込めた。思い出とは別の所に記録する作業。今日の体験は、思い出とも別の方法で別の場所に永遠に残したいんだ。こんなに美しく、決して他では味わうことができない体験だったから、今の内に残せるものは残せるだけ多くしておいた方が良いに決まっている。

  6時半、待ちに待った夕食タイムだ!間際に行くと、他の宿泊客たちが食堂の前でがやがや騒ぎながら店のオープンを待っていた。ここに集まった人たちは、みんな今日の英雄!部屋の番号で座席が決まっていた。僕は遠慮がちに席に座った。他の冒険家たちを見ていて、気になったことが2つあったからだ。

  ひとつは、白人でないのが僕だけだったこと。2つ目は、本当に若いのが僕だけだったこと。この食堂に集った冒険家たちは、僕の想像を笑い飛ばすかのように、それなりの年齢の方ばかりだった。30代~40代がほとんどだと思う。とにかく僕以外の10代が皆無なのだ。20代も数人しかいない。考えられないね!グランドキャニオンの谷底へ死力を尽くして降りて来た人間のほとんどが、余り若い人ではなかったとは!!

  疲れた身体に染み渡る美味しいシチュー!久しぶりに食べる、他人の手による食事はたまらなかった。凄い勢いでパクつく僕を見て、隣の席のお兄さんが思わず笑い出した。握手をして、僕は自己紹介をした。

――僕は、冒険旅行をしながら物語を書いている作家です。

別に嘘を付いていた訳ではないよ!僕は確かに作家です、まだまだ見習い中、修行中ですけれども……

その人には僕がこれまでに周ってきた観光地の話をした。そのうち僕は耐え切れなくなり、「こんな所に歩いてくるにしてはみなさん、余り若いとは言えないですね」と遂に本音をこぼすと、その30代の男性は笑い飛ばしてくれた。

そして、「君が一番若いよ。あの子供を抜かせばね」と言って、隣のテーブルに座っている12歳くらいの男の子を指差した。確かにそんな年齢の男の子がいる。別にヘリコプターでここに降りてきた訳ではないし、ミュールツアーもここには泊まらないし、歩いてきたのだろう。そうだとすれば、とんでもない冒険だ。つくづく、僕だけが凄い訳ではないのだ。

  美味しく楽しい夕食も終わり、僕が食堂を出た頃にはすっかり辺りも暗闇に包まれていた。僕は真っ直ぐドミトリーには帰れなかった。ドミトリー近くに流れる小川の傍らで岩に腰掛け、ランプもない暗闇の中で煙草を吸っていた。少し雨がぱらついているが、僕は気にかけずに座り込む。

頭に浮かんでくるのはこの偉人のこと。川水の流れる音――腰掛けている岩の感触――この暗闇。自然の中にいると、そんな当たり前な営みが愛おしい。本当に美しいものは時間だの時代だの、そんなものには左右されない。今が西暦何年だろうと、きっとここでの時間は数十年前、数百年前と何も変わりなく穏やかに一秒を刻んでいる。時間でも止められないのならば、何がこのグランドキャニオンを止められる?

この場所の美しさは不変のもの。グランドキャニオンの頑丈な壁に守られて、つまらないものは弾き出される。それは卑怯だとか保身のためだとか、そんな負の言葉で言い表せるものではない。こんな生き方もありだと思うよ。世間知らずだと思われようとも、美しければ良い。どんな形でも、大変な威力さえ持っていれば誰もが納得するのだ。

  僕はまた答えのない謎に自ら迷い込み、悪戯に言葉を垂れ流すことに夜を費やしてしまう。どうやら今夜はこれだという言葉が見つからず、確信犯にはなれなかった。岩から腰を上げ、ドミトリーへと戻ろう。

詠んでは消えた言葉たちよ、どうもありがとう。今夜、僕が存在したことの意味は、あなたたちのお陰で少しはあったのだと思う──。

ドミトリーに戻り、シャワーを浴びる。このファントムランチは男女別のドミトリー式の宿だ。10人用の広いドミトリーになっているから、泊まり客と知り合いになることもたやすい。ましてや、夜は何もやることがなくなる。人との触れ合いがごく自然に発生するように設定されているだろう。旅情をそそる、なんとも言えない味を醸し出している特別な宿だね。

  自分のベッドの上で明日の用意をしていると、だんだん他のベッドからいびきが聞こえ始めてきた。午後8時半には灯りも消え、みんな仲良く就寝となった。みんな相当疲れていたのだろうね。僕はそれ程深刻に疲れてないが、ここは眠っておこう。

今日という一日よ、あなたが素敵な一日だったということは誰にも否定できないでしょう。明日もちゃんと予定が入っているから、また働いてもらうよ。明日も素晴らしい冒険の一日にしよう。グランドキャニオンの谷底で眠る一夜。凄い場所で僕は眠るんだな。雨が本格的に降り出してきたらしい、外の雨音が激しさを増してきた。朝までに止むといいな。

  ――今日も最高だったよ。今日という一日に何の悔いもない。







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