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グランドキャニオン国立公園 ファントムランチ予約 見習い芸術家の冒険21話

投稿日:1996年9月12日 更新日:




9月12日(木)

  わずか一夜でも仲間になれたのなら、別れは惜しくないものだ。朝が来ればそれぞれの一日が始まる。寝ぼけた別れでも構わない。昨夜の新しい仲間たちと早朝に握手をしてサラバをする。何も聞かず、ただお互いこれからの冒険旅行が楽しいものになることを祈って、別々の行動を取る。こんな別れ方は、冒険旅行前には知らなかったよ。ちっとも悲しくなく、楽しい別れだ。一番楽しい所だけをお互いに見せて終わる関係。素材の一番美味しい所だけを使って料理をするような、贅沢な気分だ。

  フラグスタッフのツーリストインフォメーション前からバスが出る。遂に僕は全米一の人気国立公園であるグランドキャニオンを訪問する。さすがにグランドキャニオンともなるとバスも混み合っている。一台目はすぐに満員になったし、僕は2台目に乗ったのだがそれもほぼ満員だ。グレイハウンドと比べてはいけないのかな。いつもと違う満員のバスに新鮮さを感じていた。

  2時間後、バスはグランドキャニオン国立公園へ到着した。僕はひらめいた!最初の一目が大事だ。この大峡谷を、バスからの中途半端な距離で見てしまいたくはない。誰か僕に目隠しをしてくれないか?できれば目隠しをさせられたままで大峡谷の前に立ちたい。目の前に大峡谷が迫り切った場所で、初めてこの両目を開けたい。その時に僕を包む感動というのは、きっと僕の想像を超えるだろう。最初の一目に感動の大半が詰まっていると僕は想像するね!歩く途中で視界に入ってしまっては一生の感動が台無しだ!そんなことを考えていたので、僕は下を向いて近寄った。僕はぎりぎりまで前を見ないぞ!絶対に見ないからね!

  グランドキャニオン。その名前を繰り返す度、僕はイエローストーン国立公園で別れた恋人のことを想う。僕に恋という感情を芽生えさせてくれた、あの女性のことを思い出す。ここグランドキャニオンはイエローストーンのグランドキャニオンよりも遥かに大きな峡谷だと聞く。あぁ、僕はまた恋に落ちる運命なのだろうか。果てしない空間に恋をする男。久しぶりに蘇った愛しい感情。あんな温かい心を再び僕に与えてくれるのなら大歓迎だ。

  何せグランドキャニオン程の有名所だろう、見た者全員の心を最初の一目で奪ってしまうに違いない。だからこそ全米随一の国立公園と呼ばれているのだろう。僕もまた、人生に一度しかないその瞬間を目前にしている。最初の一目が永遠だ。それ以降にどれだけ何かをつぎ込んだとしても、それ以上のものを味わえることはない。

僕は下を向いて歩いて行くよ。崖っぷちぎりぎりで目を開くんだ。美味しいものを目の前にしても、僕はちゃんと我慢して歩き続けた。今、律義に我慢している時間が、数十秒後にはフルーツを数倍も甘く、美味しくさせてくれる。あと少し、ほんの少しの我慢だ。1秒の我慢がすぐに大杯の美酒へと変わることを知っているのだから、僕はここで我慢ができる男のはずだ。――でも、やっぱり見ちゃった。いや、見えちゃった。視界に入ってしまった。

駄目だね、我慢ができなかった。視界の隅に入ると同時に、僕の逆らう気持ちはかき消された。期待が余りに大き過ぎて、僕の意思などどこかへ吹き飛ばされてしまったよ。

僕の目に飛び込んできたのは、イエローストーンのものとは比較にならない程に大きくて広い何かだった。目の前の景色が信じられなかった。そんな馬鹿な!見渡す限り大地が広がっているが、その途中がすっぽりと削り取られているのだ。

無意識の内に僕は木彫りを連想していた。手頃な大きさの木片に彫刻刀を走らせて完成させた木彫り。外部は自然の恵みを活かしつつ、彫りの高低を見事に使い分けて新たな命を注ぎ込んだ作品。シンプルな芸術だが、その途中に必要とされた手間と情熱を想像すると、僕は尊敬の念を隠し切れない。ただの木片でしかなかった物が心有る人の手にかかり、美しく変わってゆくのは素晴らしい。

  僕が言いたいのはここグランドキャニオンもまた木彫りだったということだ。誘惑に負けてしまい僕の両目が真っ先にとらえた映像は、大体木彫りのようなものだった。ただ、そのスケールが違った。なんだ、全然違うじゃないか!木彫りの大きさではない。ここのサイズは凄いぞ!また僕の常識が狂ってしまう!!

  前方10マイル先には、対岸のノースリムが見える。ノースリムは僕のいるサウスリムよりも数百メートル標高が高いので、視界の奥には白い雲と真っ直ぐな対岸の線しか見えない。対岸まで遥かな距離があるが、その途中には空間と、空間しかない。あぁ、何も考える余地がない。真っ白な空間だ。偉大な空間だ。

  記念すべき儀式を終え、道沿いをぼんやりと歩いている僕がいた。どこか落ち着いて腰を下ろし、考え事に集中することができる場所を探して彷徨っていた。同時に、歩くスピードに乗って考えを進めようとしていた。じっとしている時と歩いている時では考えることが違ってくると思う。歩くスピードは車やマウンテンバイクと比べれば何でもないが、微妙なものだと思う。その場でじっとしている時には、頭の中は穏やかなバラードのようだ。歩いて身体を揺らしていると、ロックミュージックに僕は支配されている。

  僕はこの空間に全力でダイブしてみたい!イエローストーン峡谷でのように、静かに羽を広げて飛んで行きたいというものではないよ。このまま歩いて、そして全力で走り加速をつけ、激しくダイブしてみたいという強い衝動。これがロックミュージックの考え方だ。歩いている時はこうなる。

  他の場所と比べ、この辺りのリスたちが大きく見えた。グランドキャニオンのサイズに僕の目が狂わされていたのかもしれないけどね。さすがにピーク時の人気国立公園、サウスリム内のホテルは全部一杯だとの表示が出ていた。僕にはキャンプ場があるから安心だ。まずは荷物を降ろそう、と無料の園内シャトルバスでマーサーキャンプグラウンドまで行ってサイトを押さえる。

広いキャンプ場はガラガラだった。テントを広げて宿泊準備完了。一人用テントだから用意に10分もかからない。それから食料を求めてリム内のスーパーマーケットへ行くと、思いがけず素晴らしい物が売っていた!安いヘッドフォンステレオがあったのだ。シアトルから持ってきたヤツはこの長い冒険で力尽き、すっかり動かなくなってしまっていた。

やはり音楽がなくては冒険旅行とはいえないよ。どこどこを冒険した時にはこの曲を聴いていたな~と、冒険旅行の後に思い出すようになりたい。それは僕の大切な宝物。この冒険旅行だけではないが、どんな時も音楽は僕の思い出、正に「アルバム」であり続けるのだ。僕にとって音楽がないということは、冒険旅行の楽しみを半減させてしまうぐらいの大きな不幸だ。僕はそのヘッドフォンステレオを買った。電池は別売りという金のかかるものだったけど、命にはかえられないので電池も沢山買っておいた。この金の使い方は無駄ではない。不可欠で、冷静かつ正確な判断だ。

  食料品と飲料水を大量に買いこみ、「重い!たまらん!」と喘ぎながらサイトへ戻る。携帯用ガスコンロを取り出し、ベーコンを焼き始めた。するとベーコンから大量の脂が飛び散り、ピクニックテーブルの色を見事に変えた。豚肉を焼いていると蜂が群がってきて、僕は蜂と食料争奪戦をする破目になった。見たことのない種類のカップラーメンがあったので買ってきたのだが、相当のまずさだった。いつも通りの大変な食事だったが、なんだろう、僕は満足だ。

  適当に腹ごしらえをした僕は、ツーリストインフォメーションにも足を運んでみることにした。僕が欲しいのはグランドキャニオンの谷底への道、ブライトエンジェルトレイルの情報だったが、既に知っていた情報しかなかった。どのガイドブックを読んでも谷底唯一の宿であるファントムランチは夏場相当に混んでいて、何ヶ月も前に予約を入れなくては取れない、ということが書いてあった。そんな何ヶ月も前から予約しなくてはならない宿なのだから、谷底での一泊は諦めている。このキャンプ場で数泊しつつ、日帰りで谷底へのトレイルを歩くというのが代案だ。

まぁ、一応は聞いてみようか、と僕はファントムランチの予約を管理しているブライトエンジェルロッジへ向かった。サウスリム内にそれはあり、カウンターで「明日とかって一杯ですよねぇ?」と諦めの入った声で聞いてみた。この冒険旅行に女神が付いてくれていることは分かっているが、なんと相手からは「You have a space!」という信じられない言葉が投げかけられたではないか!

なんと呆気ない、なんと勝手な話だ!複雑な喜びを感じながら、僕はつられて「明後日はいかがですか?」と調子に乗って聞いていた。するとまたまた相手から「OK !」という楽しい答えが返ってくるではないか!予約時に夕食を選ぶ必要があって、最初の一泊はステーキディナーが一杯だったのでシチューディナーを、2泊目はステーキディナーの方で予約を入れた。2泊分全部入れて90ドルにもなったが、この時ばかりは金のことはどうでもよかった。僕は完全に舞い上がって支払いのサインをした。

まさか、こんな上手くゆくとは思いもしなかった!確かにガイドブックには、上手くいけば当日・前日のキャンセル分にありつけるかもしれないと書いてあったが、2泊分もいきなりOKになるとは!生涯きっと二度とはここを訪れる機会はないと思う。それなのに予約もなしに突然来た僕が、これ以上ないタイミングで2泊もできるなんてただ事ではない!俺は偉大だ!これは神業だ!あぁ、どうやらグランドキャニオンという偉人は僕の挑戦を真っ向から受け入れてくれるようだ。

  グランドキャニオンの写真は、2つのタイミングにしか撮る意味がないという。そのタイミング以外に撮った写真は、グランドキャニオンの本物の写真ではないとカメラマンの方々は言っている。サンライズとサンセット。成る程、納得できそうな話だ。早速、そのグランドキャニオンの醍醐味を味わってみよう。間もなくグランドキャニオンにサンセットが訪れる。サウスリムからグランドキャニオンを見渡す展望台で有名なのといえば、イーストリムのヤパパイポイント。僕ははしゃぎながら歩き出した。

  なんて~♪運が~♪いいんでしょ~♪谷底へ行ける~♪谷底へ歩ける~♪谷底へ冒険できる~♪僕は~健脚だよ~♪僕は~根性あるよ~♪どんな道のりも~僕を止められないよ~♪グランドキャニオンも~僕のお散歩コースさ~♪

  ヤパパイポイントまではちょっと距離があるが、僕は全然平気さ。この冒険旅行は歩くことで成り立っている。シアトルを出てから、もうどれだけの道を歩いてきたことだろう。この2本の足が傷ついてしまったら、冒険を断念せざるを得ない。健康な身体と一枚のクレジットカードだけが今の僕を支えているのだが、本来冒険旅行というのはそれだけあれば十二分に成り立つものかもしれないね。

これは新説だ。こんな考え方もあるのか。僕は健やかに冒険を続けている。薄氷を踏みしめているような感じが全くしない。僕は守られている、温かい力に守られている。僕の芸術はちっとも否定されていない。それどころか、どんどん素敵なものが僕の前に集まってきてくれる。僕は自分の楽しみのためだけにこの冒険旅行を始めたが、もしかしたら僕は見習いながらも一人の芸術家として、何かをやり遂げる使命を背負わされているのだろうか。冒険旅行の意味が、僕の知らない所で深くなっているのかもしれない。

  ヤパパイポイント展望台の隅に腰掛け、眼下に広がる景色をいつまでも眺めていた。遠くの谷底には明日の目的地であり、同時に明日の家であるファントムランチが見えている。明日の今頃はあんな遠い場所へたどり着いているはずなんだな。望遠鏡を使わなくてははっきり見ることもできない。峡谷に建てられた休憩用の小屋というイメージだ。

あの場所に行けば、人間の存在の小ささが分かる。ここから見ると谷底を歩いている人間なんて蟻の行軍みたいなものだ。小さく小さく歩いている姿も、歩く人間にとっては必死の行動だ。グランドキャニオンから見れば人間はこの程度だったか。人間の立場からいつも小馬鹿にしていた蟻のことを見直した。同時に、今まで国立公園で小さく歩き回り冒険旅行をしていた僕自身を誇りに感じたね。明日の大役だってきちんと遂げてみせるよ!

  僕は静かにこの大自然の偉人に心を開き、相手の訴えを読み取ろうとする。あなたはイエローストーンの大峡谷ともまたイメージが違いますね。あなたは一体僕に何を話しかけようとしているの?どんな形の情熱を見せてくれようとしているの?感じるまま幾つか言葉を詠んでみたが、どれも僕の心に響いてこない。

     言葉少なくその存在を見せるこの大峡谷

       ただそれだけでも彼の威力に多くの人が気付く

     そうだ、「無言の情熱」も人の心を開けるんだ

                  ~グランドキャニオン~

  この言葉は、布袋寅泰さんの「命は燃やし尽くすためのもの」という曲の中にある「無言の情熱」という言葉がキーワードになっている。「無言の情熱」という素晴らしい言葉は、イエローストーンでも拝借させていただいた。言いたいことをなんとも端的に表現した言葉なので、他人の言葉なのについ使ってしまうのだ。

  詠んで詠んで、言葉をだらだらと垂れ流している僕。僕の前の空で泳ぐ太陽は、もくもくとした雲に遮られてちっともオレンジ色の光を注いでくれない。どうやらホワイトサンズに続いて2連敗だね。全てが上手く行くと思う程僕も子供ではないのだが、つい限度を超えて望んでしまう時がある。ファントムブランチのことで最高についていたから今日はもう満足なのだが、ついでに美しい黄昏も見たいなぁ~。見せてくれてもいいのになぁ~。いじけた僕は暗くなるまでそこにいることにした。

  どっしりと構えたグランドキャニオンに夕刻の時間が注がれる。次第にグランドキャニオンは流れに飲まれ、夜の闇に包まれていった。光が届かなくなり少しずつ闇に溶けてゆく峡谷は、深い霧に包まれてゆくかのようだ。陽気なサンセットは見ることができなかったが、この闇に溶け込んでゆくグランドキャニオンの美しさといったら――。飽きずに眺める僕の脳漿からこんな言葉たちがそこで生まれています。

  太陽の祝福を全身に浴び

      闇と煙のなかへ包まれてゆくその孤高な姿を眺めながら描く姿こそが

        心の求めるそのものなのだろう

                      ~グランドキャニオン・センセット~

  周りの観光客たちも僕と同じく穏やかにサンセットを眺めていた。サンセットはみんなに見られて静かに消えて行く。芸術的な部分を大いに掻き立てられていた僕に、突然の天啓が訪れる!

こんな美しい景色を見ていて、考え事もしない人間はいないだろう。こういう最も美しいレベルの景色を見ながら思い浮かべることこそが、その人が心から求めていることなのではないだろうか。この景色を見ながら、晩飯を何にするのかなんて考えているヤツはいないだろう。みんなが今、大切なことを考えている。グランドキャニオンのサンセットにはそんな力がある。そうだっ、間違いない!この考えは間違いないっ!

    騒ぐだけのこの生き物たちは  少なくともこの在野の偉人に興を添えはしない

      俺はこの偉人を認め  言葉を贈り  黒装束のこの姿と共に一興を添えよう

                      ~グランドキャニオン~

  今改めてこの言葉を見ると、当時の自分が周りの人間のことを相当信用していなかったのだと気付く。どうか責めないで下さい。当時はこんな僕でも精一杯生きていて、基本的には素直な少年だったのだから。

この時の僕は、これだけの素晴らしい景色なのだからそれを見る側の人間にも、ある一定の美しさを要求していた。それはこのグランドキャニオンだけに止まらず、今までのどの国立公園でもしてきたことだった。それがこの場所で遂に言葉となり、ここで詠まれている。自分自身はそれをクリアしている人間だと信じていた。実際そうだった、と今も自信を持って言うことができる。だが、それを自分以外の人間に求めるというのは余計なことだろう。自意識過剰の面がここではっきりと現れている。

  グランドキャニオンは「おやすみ。また明日挑戦してね♪」と僕にゆっくりと言い放ち、夜の帳に静かに包まれていった。貴方は余裕のある方!この偉人の王道ぶりにはつい頭が下がった。

僕もそろそろ寝床へ帰る時間だ。ようやく腰を上げると、もう周囲に人が残っていなかった。随分と暗くなるまで座り込んでいたみたいだな。またここに明日の早朝に来ることにして、今夜の所はテントへ帰って行った。

  明日も冒険の予定で一杯だ。サンライズを見て、グランドキャニオンの谷底へ降りて、ファントムランチに泊まる。さぁ、いよいよ本格的なグランドキャニオンの冒険を始められるのだ!







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