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ウエストイエローストーンのユースホステル 見習い芸術家の冒険2話

投稿日:1996年8月24日 更新日:




8月24日(土)

  ボーズマンの予定到着時刻は午前5時過ぎだ。その1時間以上前から眠気がすっかり覚め、目がギンギンに冴えていた。いよいよ本格的に緊張してきたのが分かる。なにせ到着しても辺りはまだ真っ暗だろう。何時に接続のバスがあるのかも、バスディーポが開いているのかも不明なのだ。未明に未定と不明を抱えて僕はバスを降りる。自分の身は自分自身で守る、という冒険旅行がいよいよ始まろうとしている。ポケットの中で握るナイフに一層力が籠もる。

  暗闇の中でバスが停まった。薄灯りの点いたディーポが窓から見えるが、その静まり返った様子からすると閉まっているのだろう。ドライバーが「ボーズマン」と小さく肉声で告げ、車内の灯りは点けずにバスを降りた。僕の他に降りる人はいないようだ。僕は手荷物だけを持ち、世話になった席と窓に別れを告げてバスを降りる。闇の深海は寒かった。冷たい風が、孤独という冷徹な事実を僕に宣告しているようだった。

  グレイハウンドは人だけではなく、荷物の運搬も扱っている。バスの横腹から梱包された荷物を取り出し、ディーポの裏口にせっせと運ぶドライバーに声をかけ、ここで降りたいことを告げる。ドライバーは僕のチケットを確認した後、OKと言ってバックパックを取り出してくれた。

  荷物をディーポに入れ終わるとバスは慌ただしく走り去って行った。僕から保証というものを引き剥がして。

  僕の他に、一人の若い女性がバスを降りていた。時間を尋ねてきた彼女に答えようと時計を見ると、まだ朝の4時05分だ。「随分早く着いたわね」と言って、彼女は寒そうにお腹に腕を回す。寒さと不安を誤魔化すため、ディーポ脇で僕たちは言葉を交わした。なんでも彼女は結婚したばかりでこの町には兄弟がいるそうだ。5時過ぎに兄弟が車で迎えに来てくれるらしい。羨ましいな、そいつは。あんたには、安定が待っているのか。

  間もなく1台の車がやって来て、彼女は僕の前から姿を消した。そして、僕はこんな暗闇のディーポでたった一人取り残される。シアトルから16時間、朝の4時過ぎ。ボーズマンに到着。そして、僕は暗闇に一人だ。ポケットのナイフ、オマエだけが味方だ。頼むぞ、本当に。

  一人になるとディーポの正面へ回ってみた。入口には細々と灯りが点いていたが、ディーポ内は暗く、完全に無人だった。入口の窓に貼られた案内を見ると、ディーポが開くのは朝の7時30分からで、イエローストーン国立公園のゲートシティであるウエストイエローストーン行きのバスは9時10分発になっているではないか。午前中の比較的早い時間帯に出る便があるとは、土壇場で取った選択としては上出来だ。これは嬉しい。

  どうやら僕の冒険はまだ始まらない。国立公園内を自由に羽ばたく瞬間を夢見て、今はもう少しだけ我慢するのだ。ディーポが開き、ウエストイエローストーンへ到着し、園内をどのように冒険するかさえ決まってしまえば、あとは暴れ回るだけ。広い目で見ればこういうバス待ちの時間も冒険旅行の一部に違いないが、出発2日目の僕にとりまだそんな余裕はない。一刻も早く、気持ちの趣くまま充分に暴れたい。

  8月とはいえ、早朝の空気は冷たい。薄手の長袖トレーナーに半袖のシャツを重ね着しても全然足りない。暗さに加え、寒さが僕の不安を加速させる。このままでは危ない、何とか気を紛らわそう、とカメラを取り出した僕はバスディーポをバックにセルフタイマーで1枚撮ってみる。冒険旅行の始まりを象徴する記念すべき一枚だ。しかも状況が早朝5時間待ちの片田舎のバスディーポでだなんて粋だね。冒険旅行終了後にアルバムの一枚目を飾るに相応しい写真になるだろう。状況は文句無しだったが、どんな顔をすればいいのかさっぱり分からなかった。

  1時間ばかりディーポの周りをウロウロしてみたが、近くの店はどこも閉まっているし、期待の持てそうなI-90沿いの遠くの灯りも歩いて行くには少々遠過ぎる。時間帯も時間帯だし、下手に動きまわるのは下策だ。ここは明るくなるのを大人しく待とう、と覚悟を決めてベンチに座り込み、ふとディーポ内の時計を覗き込んだ。――すると!

  余りの馬鹿馬鹿しさに自分自身が情けなくなったよ。こんなのはこの国に4ヶ月も住んでいる人間のするミスではない!ディーポ内の時計が指している時刻は僕の時計より1時間早かった。そうだ、この地域はシアトルが属する太平洋時間(-8時間)ではない。モンタナ州に入った時点で山岳時間(-7時間)に突入していたのだった。

  なんだかとっても恥ずかしいよ~。道理で、1時間待ちだったはずの兄弟がタイミング良く現れた訳だ。僕は嘘をついてしまったことになる。あぁ、これは地域ごとの標準時を設定していない日本のような国から来た人間がやるお決まりの失敗だろうね。ありがちのようだが、実際はこんなことに引っかかる日本人も少ないだろう。今頃僕の無邪気なミスに気が付いたあの二人は軽く笑い飛ばしているのだろうか。

――まぁいいか、待つのが1時間減ったのだし。気持ちを切り替え、得した気分になりきって腕時計の針を直した。この、お馬鹿さん

  ディーポの入口外のベンチに座ってひたすら時間をつぶす僕。元々人気の少ないこのディーポで、まさかこんな時間帯に人がいるとは誰も思わないだろう。更に、夜の闇が僕の姿を隠してくれる。闇は僕にとっても恐い存在だが、こうして誰の目からも逃れさせてくれるので今はありがたい存在だった。

  空が段々と白み出してきた。朝の厳粛な冷気が辺りを覆い尽くし始める。すると、夜の闇に隠されていた周囲の景色が少しずつ僕の目に映し出されてきた。初めは薄いシルエットから、そして次第にはっきりとした実体を伴ってそれは現れる。

  これはゆめの世界だろうか。わずか小一時間の間に、美しい景色が現れた。小汚さなどという言葉が全く取り付く余地のない美しさ。闇を切り裂いて現れる早朝の景色の美しさは神の領域にあると前々から思ってはいたが、これ程美しいものにはお目にかかったことがなかった。

  遥か遠い空を背の高い山々が支配し、その麓までの距離を何物にも遮られない平原が続く。山を点と見立て、空と地を線と見立てれば、点と線だけで世界が成り立った。ここは点と点をつなぐ線の落とし物として生まれた町だったのか。美しいものだけをシンプルに並べた絵がここの景色だ。あぁ、凄く綺麗だよ。

  美しい景色を見ていれば僕は寒さも時間も忘れてしまうよ!――そんな格好良いことを言うにはちょっと寒過ぎたようだ。景色に心を奪われていても寒いものは寒い。あとしばらくの辛抱だから、と僕は景色の美しさに寒さを誤魔化そうと一生懸命だった。余分な時間を千切っては捨て、千切ってはまた捨てる。こんな時は時間が煩わしい。

  それから1時間も過ぎると、細々とした太陽の光が上がってきて、冷え切った僕の身体も温め始めてくれた。あぁ、どうやらこれで深海の恐怖は過ぎ去ったぞ。

  太陽の影響力は絶大なものだった。周りを支配していた冷ややかな空気をあっという間に追い出し、闇も朝靄もかき消してしまう。一時の美しきゆめ心地は、太陽の威光に照らされてステージから姿を消していった。その偉大な威力で早朝特有の美までを消し飛ばせてしまう創造王であり、破壊王である太陽よ。僕はあなたが朝の美をかき消すことを容認しよう。数時間を共にし、愛でていた早朝の美を連れ去られることも甘受しよう。何故なら、そのあなただけが僕のこの数時間の停滞に終止符を打つことができるからだ。いつもの僕ならば、美を奪うヤツのことは許さない。だが、今は美よりも己の冒険を進めたいと願うから、あえて何も言うまい。今は早く僕に先を進ませてくれるものが正義だ。

  無人の駐車場に1台の車が乗り込んできた。運転席から降りてきたのは中年の女性で、僕と目を合わせ「Good Morning !」と言葉を交わすと、いきなり僕の手を取って「冷たい手。ずっと待っていたのでしょう?」と優しい言葉をかけてくれた。「いやいや、そんなでもないですよ」と僕は意味不明な謙遜をするが、両の手の冷たさは隠せない。更に彼女は「お腹すいているでしょう?私、マクドナルドへ行くけど貴方も来る?」と意外な誘いをかけてくれたではないか。

  ――終わりなく続き、永遠に見えたかのような世界を新たなものにするのには、たった一瞬で足りる場合がほとんどだ。彼女のこの一言で、今日という一日が始まる。

  彼女の表情・仕種・言葉使い、人相から服装まで、僕にあるあらゆる常識を使いどう冷静に判断しても、彼女は大丈夫だ。疑心暗鬼にとらわれて本物を逃すまい。これは僕にとって100%プラスの誘いに違いないから、こんな良い話を断る手はない。僕は快く誘いに乗らせていただくことにした。

  荷物になるのでバックパックをディーポ裏の荷物置き場に入れてもらう。ディーポ裏口の鍵を開けた彼女だからここで完全に信頼できた。彼女の車に乗せてもらい、近くのマクドナルドへ向かった。

  面白い感覚がした。グレイハウンドの狭いシートに慣れ切った僕の身体は、普通の車の助手席に乗っているはずがやけに足元を広く感じているのだ。冷え切った僕の身体にとって、車の暖房は正に天国。普通のことでも、それをVIP待遇だと感じてささやかな満足感に浸る。僕はなんだか、本当に幸せだった。

  生意気にレディーファーストを気取って店に入り、朝食メニューのパンケーキセットを頼んだ。

食事よりも熱いコーヒーに飢えていた。まずは熱いコーヒーを胃に流しこむ。冷え切った身体に体温が戻るのが分かる。パンケーキなんて後回しだ。

  会話よりもパンケーキに飢えていた。続いて美味そうなパンケーキを詰め込む。ぺこぺこだったお腹が動き出したのが分かる。会話なんて後回しだ。

  単純な生理的欲求が満たされると、途端に食事を投げ出した。食事よりも会話に飢えていた。まずは自分のことをしゃべりまくり、次に相手に相手のことをしゃべらせまくる。食事なんて後回しだ。

  その女の人はグレイハウンドのドライバーさんで、この町に住んでいる人ではない。僕の名前はキヨシだ、と告げると「親戚のお嫁さんにキヨコという名前の日本人女性がいるから、名前が似ていて覚えやすいわ」と言って嬉しがっていた。

  そういえば、僕は彼女の名も聞かなかった。ただひたすらこれからの冒険旅行の予定について一方的にしゃべり、イエローストーンや他の国立公園の情報を聞き出そうとした。彼女はアメリカ全土を回っているドライバーであって、ここの土地の人ではなかったのでイエローストーンの詳しい情報は引き出すことができなかったし、特に他の国立公園の情報も集めることはできなかったが、一人でペラペラと話し続ける僕の話を彼女はゆっくり頷きながら聞いてくれた。そして「頑張ってね、いい経験になるわよ」と言ってくれた。それからも僕はひたすら話し続けた。彼女はどこまでも僕に付き合ってくれた。

  しばらくすると大きな身体の男性が席に座ってきて、何やら彼女と打ち合わせを始めた。この場所で、この時間に、この彼女と打ち合わせ。そして、その大きな身体。誰がどう見ても彼もグレイハウンドのドライバーだろう。僕にも彼を紹介してくれたが、やはりドライバーだった。彼女が僕の冒険旅行のことを彼に伝える。彼もまた僕のことを祝福してくれた。

  全国を走り続ける彼女は冒険人だ。僕も駆け出しながら冒険人の端くれを自負している。彼女のように、見知らぬ異国の人間と出逢っても3秒後にはマクドナルドに誘うぐらいの精神的余裕がなければ冒険なんてできやしないのだろう。彼女が僕を誘ってくれたのは何気ないことのようにも見えるが、実は大変な業だ。僕には彼女が大きな偉人に見えて仕方がなかった。

  冷えた身体に温かい食事を入れ、久々に沢山しゃべったので心と身体のリフレッシュとなった。時間を有効に使うことができたのも嬉しい限りだ。店を出てディーポに戻り、彼女へ丁寧にお礼を述べる。最後まで彼女は僕のこれからを励ましてくれた。

  ありがとう、まずは貴方が一人目の輝きです。これからの1ヶ月間、僕は無数の光を見ることになるだろうが、貴方が最初に出逢った輝きです。短い時間ではあったが、ささやかな嬉しい出逢いに僕はこれからの長い冒険旅行の光を確かに、見た。

  光に溢れた時間を終えると、当たり前のようにディーポが開いていて、人が歩き交わしているではないか。まるで、ロールプレイングゲームで次に進むのに必要なアイテムを手に入れた時のようだ。彼女の登場と共に今日という一日の冒険が始まった。あぁ、何とも心爽やかな朝ではないか。

  ディーポに入り、カウンターで乗車手続きを済ませる。ここでは荷物も預かってもらった。同じ時刻に他のバスはないし、この狭いディーポではどう考えてもトラブルは起こらないだろう。

  バスの出発時間までまだ時間があった。I-90沿いのガソリンスタンドの店が開いていたので、飲み物と食料を買う。戻るとベンチに座り、本を読んで時間をつぶしていた。

  ボーズマンからウエストイエローストーンまでは2時間とかからないだろう。いいことがあったばかりだし、次のバスはシアトルからのと比べればお遊びのようなものだから、今度は気楽にバス待ちができた。一回嬉しいことがあっただけで僕は幸せだった。バス待ちの時間はずっと浮かれていた。小説を読むのがはかどること、はかどること。いい状態で最初の冒険地を迎えられそうだよ。

  ボーズマンを始発地として南下するバスはどうしようもないくらいにガラガラだった。乗客は僕を含めてわずかに4名。朝早いので、バスも眠たそうに登場してきた。

  乗客全員がすぐに眠り出した。一番前の席に座った兄ちゃんなんて、もうどうにかして一番寝心地のいいポジションを探そうとして色んな体勢を試していたが、前のしきりに足を乗っけてしまうのが一番楽なことを見つけたらしい。でも、足を乗っけるとドライバーの視界の横に彼の足が見えてしまうので、さすがに躊躇したようだった。軽い感じで兄ちゃんが「(足を乗っけても)いいか?」と聞くと、運ちゃんも「あぁ、いいよ。まだ朝早いからな」と気軽に笑って返す。

――なんだか凄い。僕からはただのお行儀の悪い子供にしか見えないが、ごく自然な会話のやりとりでその行為が認められたことにびっくりだ。こういう気軽さを僕の中に取り入れたい。行儀の悪さを認めているのではないよ。実質的な被害がないのならば、形が悪かろうとも、一番良いものを優先させるのに抵抗がない、という考え方を尊敬したいのだ。

  最初は緊張の糸を張って、車内の様子見と窓の外の鑑賞をしていたが、だらけた空気に馬鹿馬鹿しくなった。隣の席を使って無理矢理横になり、仰向けで眠ることにした。昨夜分かったが、こういうバスでは1席を使って座ったままの形で眠るのと2席を使って仰向けに横になるのでは回復具合は雲泥の差だ。座ったままの眠りはあくまで仮眠であって、仰向けになった状態でようやく睡眠と呼べるぐらいだ。これからの夜行バスでは、いかにして仰向けになるスペースを確保するかが鍵となるだろう。

  何はともあれ、落ち着いて眠れることの幸せ。バスという「保証」はつくづく有り難いものだと思う。こうして、僕は冒険開始前最後の休息を取った。

  バスは走る、僕の最初の冒険地に向けて。僕は眠る、バスという「保証」に甘えて。くどいようだが、この冒険旅行に予約という「保証」はわずかしかない。具体的には5泊分のキャンプサイトだけで、他には一切ない。

  イエローストーン国立公園の次はグランドティトン国立公園での冒険を予定している。キャンプ場の予約が入っているのは更にその次の冒険地ロッキーマウンテン国立公園で、9月1日の1泊分だ。その次の予約は9月12日のグランドキャニオン国立公園。最後の目的地ヨセミテ国立公園では17日から19日までの3泊分を既に予約してある。

  全31日間と長い日程だが、予約があるのはそれだけだ。その他に今決定していることはアメリパスが9月23日に失効することと、その23日から学校が始まるということのみだ。おおよその旅程は組んであるが、それは全てガイドブックを参考にしながら自分の勘を頼りに作ったもの。勘といっても今まで似たような体験をした訳でもないから、憶測の域だ。当然、冒険の途中でその場その場の状況により柔軟な対処が必要となる。

元々、予約は捨てるものだと覚悟している。予約に合わせて進むのが理想的ではあるが、この予約はもしもその日その場へ着いていた時、時期柄と場所柄混んでいることが間違いないので一応前もって押さえておいたものだ。全部にキャンセルチャージを払っても惜しくない。いや、逆に言えばこの予約にぴったりと合わせて目的地へ着くことの方が偶然だと言える。

  そんな僕が守るべきことは22日までにシアトルに帰ることのみ。――しかし、実はそれですら絶対ではない。一日一日が千金に値する貴重な冒険旅行のためなら、鉛のように平々凡々とした授業など1日や2日捨てても少しも惜しくない。一生に一度きりの大冒険だ、ぎりぎりまでやってみよう。

  持ち金はトラベラーズチェックで数百ドルあるが、あとは1枚のクレジットカードでのやりくりだ。請求は日本で働く両親の所にゆく。一生に一度のチャンスだ、と両親も応援してくれているとはいえ、常識外の出費は絶対に許されないし、自らも許しはしない。自分の思う限度額は1、500ドルだ。現在1ドル≒109円だから、約16万円。315ドルのアメリパスを含めて20万円を超えるつもりはない。

  手持ちのクレジットカード1枚で僕の命はつながっている。カードが紛失や盗難にあった時点で進退は窮まる。その時助けを求めることができる人間は、この地にはいない。旅程についても、誰一人として相談に乗ってくれる人などいない。これが今の僕の状況。だから、狭い狭いシートとはいえ安全を保証してくれるバスはオアシスに思えるのだ。先に立ち込める不安の渦から一時でも逃げ、快眠を貪るのがなんと心安らぐことか。母の柔らかな胸に包まれ何の心配もせずに眠る生存競争外の赤子のよう。甘い恋人の髪に埋もれる至福の瞬間のよう。

  ──だが、一度目を覚ませば現実が重く圧しかかってくる。冒険旅行はまだ始まりの始まりでしかない。人生経験の浅い僕で、本当にこなしてゆけるのだろうか。このバスを降りた瞬間から、僕は野生動物の宿命を背負わなければならない。食うか、食われるかだ。間もなく弱肉強食のジャングルに放たれる運命にある。

  しかし、そんな不安に脅えていても、これからの未知なる冒険旅行をこの上なく楽しみにしていた自分自身がいる。前に待ち構えている難しいことをに棚上げて、心は無邪気にはしゃいでいる。

  一体、僕はいつから自分自身と全く異質なものを楽しむ心のゆとりを持てるようになったのだろう。今までの僕からみればどう考えてもこういう行動力は常に自分自身とは他人であり、雲の上の存在のはずだった。アメリカへ渡る前の僕には、臆病と無力という持ち札だけしかなかったはずなのに。

――もちろん、まだこんな所で僕に度胸がついたと考えるのは早過ぎる。今の僕は、ただ単に行動力がある人間に憧れ、その模倣をしているに過ぎない。事実ではなく、まだ憧れを真似している段階だ。結論はこの冒険旅行の終わりに出せばいい。――そうだ、今は先を急ぐのみだ。

  大きな揺籃のエンジン音。気だるい目覚め。つけたまま眠った後のコンタクトレンズのごろごろ感が気持ち悪い。目が覚めてすぐの憂鬱な瞬間に、そんな難しいことが色々と脳裏を横切った。僕は今どこにいるのだろう。それを確認しようと横にしていた身体を起こす。ぼんやりと窓の外に目をやると、新鮮な感動が僕を貫いた。

  バスのガラスには、空と川と山と緑だけで描かれたシンプルな絵画がはめこまれてあった。まるで、ありとあらゆる斬新な挑戦を試してしまった芸術家が、原点に立ち返って描いた一枚の絵のようだ。あるいは、自然を題材にされて何を描くか困ってしまった絵の下手な人間が、単純なイメージで描いてみた幼稚な絵のようだ。これは普通の車道から見える景色ではない。そんなレベルは遥かに超えていた。イエローストーンに近くなったからという理由で、特別に納得してもいいのだろうか。

  大部分の草原は黄金色だ。その黄金色の所々に、生命力に溢れた緑色が鮮やかに散りばめられている。そびえ立つ高い山の茶色は絵に存在感を創り出し、空の水色がどこまでも涼やかな雰囲気を加えている。これは一枚の絵だ。シンプルな素材でここまで美しい絵を創り上げた景色に出逢う機会は貴重だぞ。しかも、この絵には主役がいる。

草原にカーブを描いて流れる川がある。その鮮やかな青色には存在感があった。華があるのだ。この一枚の絵に何が決定的な締まりを加えているのか。この川だ。素敵な素材ばかりが集まり、小さな景色でも絶妙の味を醸し出されている。僕は早くも言葉を失ってしまった。まだまだこの先に真打ちが控えているとも知らずに。

  ボーズマンからバスに揺られること1時間45分ばかり。また不思議と大自然の中に小さな町が現われ、バスが止まり、車道の路肩に降ろされる。バスディーポは一体何処だろう。ざっと見回す限りそれらしきものはないが、とにかくここがウエストイエローストーンらしい。

  まぁ、すぐ周りにディーポはあるのだろう、と余り考えないことにしてバックパックを背負って歩き出した。バスという「保証」は僕から離れた。さぁ、いよいよだ。全てが自分自身の力にかかってくる時が遂にきたぞ。

  改めて周囲を見渡すとモーテルや店などはあっても、今の僕にとって必要な物ではない。ガイドブックの地図を見てツーリストインフォメーションセンターへ力強い足取りで向かった。

  僕はイエローストーン国立公園のゲートシティであるウエストイエローストーンに到着した。ここは観光地特有の楽し気な雰囲気のリゾートタウンだ。土産物屋が軒を連ね、道行く人たちもすっかりバケーションのファッションをしている。冒険に生き残るための土臭い服装と大荷物を持った僕は場違いでよ~く目立つよ。こんな場所だからこそブーツの音も高らかに凛として道を歩こう!派手に行こう!この状況を楽しんで行こう!既にサイは投げられたのだ、雰囲気に飲まれている暇などない。

  ガイドブックはありがたい存在だが、教えてくれる情報は既に生きていないものなので、僕は裸足で町を歩いているも同然だ。冒険の始めはまず情報収集から。僕の冒険準備は慎重だ。事前にガイドブックの情報から自分に必要な情報を選んでおき、現地でその情報の裏を取る。他にも集められる限りの情報を集めた後で大勢を見極め、最終的に判断を下す。そして一度判断を下した後は全力で走り出す。走り出すまでは慎重だが、走り出したらもう止まらない。

  ツーリストインフォメーションセンターへ入り、レンジャーのいるデスクでキャンプ場の予約をしたいと言うと、ここでは取り扱っていないから現地へ行け、という不可解な回答が返ってきた。広い園内だから遠隔地では管理し切れないのは分かるが、それではインフォメーションセンターの意味がないよなぁ。公園内の見所を巡回しているシャトルバスとかはないのか、と聞くとツアーバスならある、とパンフレットを渡された。つまりここは車で回ることを大前提とした国立公園らしい。個人の車がないという珍しい人たちのためにツアーバスがある。車が普通、いや、当然であり、車を考えていないヤツなど例外中の例外なのだ。

  ――それは困る。それでは困るんだよ。僕は個人的な冒険をするために、はるばるここまで来たのだぞ。この国ではレンタカーを借りることができるのは25歳からだから、19歳の僕では借りることはできない。するとツアーバスか。しかし、ツアーバスの何処にALL BY  MYSELFの誇りがある?僕は冒険旅行がしたいのであって、観光旅行がしたい訳ではない。

  見習い冒険家はいきなり途方に暮れた。車もなく、他の交通手段もなしで一体どうやってこの222万エーカー(四国のおよそ半分)にも及ぶ広大な国立公園を冒険すればいいのだろう。いきなり、大問題発生だ。

  ここでは全ての問題解決も、生死の責任も、哀楽の行方も、自分自身の双肩だけにかかっている。それを冷徹な事実として理解しているからこそ、一瞬たりとも自らの逃げの時間を許しはしなかった。自分がここで何もしなければ、今後自分を取り巻く世界は何も変わらない。それがALL BY MYSELFの意味であり、試練である。僕はそれを理解していた。

  インフォメーションを出るや否や、頭はフル回転を始めた。いいか、この冒険では自分自身が道を選ぶのだ。その選択によって自分が冒険できるかどうかが決まってゆくのだ。――さぁ、一体どんな方法を取る?!

  バスディーポの位置だけはさっきのインフォメーションセンターで詳しく聞いておいたので、逆戻りして情報集めを試みた。バスディーポには僕のように個人旅行をする人たちが集中から、何か役に立つ情報があるかもしれないと思ったのだ。重い荷物をギシギシ鳴らして行ってみると、さっきバスを降りた路肩のすぐ横にあるモーテルのオフィスの位置がディーポだった。――成る程。ディーポのオフィスを兼ねているモーテルだったのか。

中へ入ってみるが、目ぼしいものは何もない。ここにはただこの町を離れるバスのチケットを管理しているだけで、情報が集まる場所ではなかった。──僕の取るべき行動は決まっていた。

  ――決定しました!なにせ時間が惜しい。今日一日を最大限に活用しつつ、この状況を最も有効な方向に持ってゆける方法。僕がこの状況下で出してみた結論。──さっき歩いていたら、マウンテンバイクをレンタルしている店と、ユースホステルがあった。今夜はユースホステルに泊まり、今日はこれから園内をサイクリングしよう。今日予約をしておいて、明日はツアーバスだ。これが今考えられる幾つかの案の中では一番の上策だ。

ツアーバスとは残念な限りだが、手に入った全ての情報を頭に入れ、ありとあらゆる可能性を考えた上での決定だから、この案に間違いはない。一度決めたことなら、即行動あるのみ。ぐずぐずして一日を無駄にし、心身共に死ぬ訳にはいかないのだ。さぁ、僕は動くぞ。

  土産物屋の2階がユースホステルになっていた。早速一階のレジで1泊分頼んでみると「ユースホステルの会員証は持っているのか?」と聞かれた。ユースホステルにはこれからお世話になりそうだし、持っているのが格好いい気がしたので「持っていないけど、ここで作れますか?」と聞くと「もっと大きい町のユースホステルじゃないと無理だよ」と笑って答えられた。会員よりは少し高くなると言われたが、一泊17ドルなので文句はない。

  2階の部屋に通され、キーをもらう。8畳ぐらいの部屋に2段ベッドがふたつと、クイーンサイズのベッドがひとつ。部屋には誰もいなかったし、残された荷物もなかった。

  ホテルは安心して眠ることができる所ならどこでもいい。僕は余り気にしないタイプだ。安心して眠ることができるスペースさえあれば、バスの中だろうがテントの中だろうが平気だ。増してやこんな温かいベッドなんて、身に余るご馳走だね!昨日の一夜を狭いバスのシートに挟まれて過ごした僕の身体は、とびっきりのご馳走に舌なめずりしている程だ。

  宿という「保証」と、身体を横にして眠ることができる温かなベッド。これで今日一日はいい意味で気を緩めて冒険に専念できる。しかし、まだ冒険旅行も始まったばかりだというのに、もう「保証」の貴重さが身に染み付いてきた。──そうだ、僕は自らの身を千尋の谷底に叩き落とす獅子の子供。もしも独力で這い上がることができなければ自分自身とはいえ生きる資格がない存在と見なすのだ。

  好きな所に荷物を置いていいよ、と言われていたので、クイーンサイズベッドの上にさっさと重いバックパックを投げ出して占領する。大切な物だけを詰めたデイパックを背負い、ユースホステルを出てすぐに次の行動に取り掛かった。

  さぁ、次は明日のツアー予約だ。電話での英会話は難しいもので、今の僕には自分の意志を相手に100%伝える自信がない。だから僕は直接人対人の交渉を望んでみた。ガイドブックに便利なツアーが乗っているが、その主催旅行会社のオフィスの住所はこの町のものだ。ユースホステルからインフォメーションセンターへは歩いて3分とかからず行くことができる位置なので、再度訪れてその場所を確認してみると「このツアーのオフィスはもうこの町にはないよ」と断言されてしまった。ガイドブックは今年版の物だったが、所詮本は本、情報は既に死体だったか。

  ──どうやらこの冒険旅行最初の土地は、そうすんなりと僕を受け入れてくれないらしい。大したものだ。この僕の行動力をからかっているのだろうか。ならば自分自身でガイドブックの番号に電話をかけるのみ。だが、ダイヤルすると「番号が違います」との冷たい機械の返事が返ってくる。

  分からん!さっぱり分からん!また僕を受け入れてくれないのか。まぁ、いいさ。僕だってどうせそう簡単に全てが上手くゆくとは思っていない。まだまだ方法は残されている。インフォメーションセンターでもらったパンフレットを見ると、ツアーバスの会社であるグレイライン社のオフィスがこの町のはずれにあるらしい。そこに行ってみよう。このくらいの障害ではまだまだ僕をノックアウトできないぞ。

  こんな小さい町の中にあるのだからすぐに見つかるだろう。その安易な考えが悪かった。確かに町内には違いないが、これがまた1ブロックが異様に長~いのだ。歩くのも途中からは意地に近かった。たっぷり30分もかかって着くと、ありがたいことにオフィスは無人ではないか。ならば電話だ、とパンフレットを見直すと電話も受け付けている曜日が決まっていて、土曜の今日は思い切りCLOSEだった。そうか、土曜日か!それはオフィスも閉まっていて当然だ。

  ――おめでとう!その瞬間にこの国立公園での行動が完全に決定した。取巻く全ての素材を考慮に入れ、僕の頭が不動の決意を伴い結論をはじき出した。マウンテンバイクで全て周ってみせよう!もう、ツアーなど頭に入れない。自分自身で自分自身を運んでみせよう。これは決定だろう。これ以外に考えられない。

  国立公園を冒険の行き先に選んだのにはもちろん理由がある。昔から僕は、街より自然に親しみを覚えるタイプの人間だった。1ヶ月の時間が与えられ、自分探しの冒険をする覚悟を決めた時、自分にとっては豊かな自然と向き合うことが一番だと感じた。冒険旅行は都市巡りという目的でも達成できる。しかし、僕は国立公園を選んだ。自分は個人的に自然の美しさを目指す人間であり、街の美しさを目指す人間ではない。

  自分自身だけの冒険旅行にしたのも、気に入った場所で誰に気兼ねすることなく好きなだけ時間を取りたいと思ったからだ。元々ツアーはお断りだった。他の人間との都合や時間の制限でまだ見るべきものがある場所を無理矢理離れさせられるのは嫌だ。美しい自然と対話する充分な時間を持ち、自分自身に問いかけ、自分自身を探す時間が取れなくては冒険旅行の意味がない。

  こうなれば逆に好都合と言おうではないか!幾ら広大な世界だろうが、意思旺盛なこの一個の僕には勝てやしない、それを思い知らせてやろう。万人を拒むハードルが、僕という一個人には無力である、それを証明してみせよう。この国立公園と比べれば僕はごく小さな一人の人間、ただし、その意思の力で無限大の存在である。

僕は当初の目的通り、究極のマイペースをマウンテンバイクで貫く。これこそがALL BY MYSELF!あぁ、逆にこちらの思い通りになったではないか!己の身体ひとつでイエローストーン国立公園をねじ伏せ、制覇してみせよう!

  ウエストイエローストーンに着いてからずっと回転を続けていた僕の脳が遂に最終決断を下した。確信と共にだ。不思議なもので、考えれば考える程それがどんどんどんどん自分らしい方法に思えてくるではないか。

  一体、どこの観光客がこの四国の半分とほぼ同じ広さの国立公園をマウンテンバイクで周ろうとする?それは正に観光を越えた冒険のレベル。これこそが僕の憧れたALL BY MYSELFの世界に違いない。さぁ、今まで頭に描いていた冒険旅行を実行に移す時がやってきた。本当にこの僕で克服できるのか?僕は冒険旅行を語るに相応しい人間なのか?答えが出せる舞台がここに整った。高い目標を目の当りにして、僕は激しく興奮している。

  1日25ドルぐらいかな、と値踏みしながらレンタルバイク屋に入ると、1日15ドルと聞かされてちょっと幸せな気分になった。頭の中でざっと予定を組んで、今から3日後の27日に返却します、と言うと実質4日間なのに3日分の料金しか取られなくてまた幸せだった。

  身分証明としてパスポートを見せる。ヘルメットとチェーンロックも無料で貸してくれた。店のお兄さんが持って来てくれたグレイのマウンテンバイクはとても軽く、形も格好いい。冒険心を一層煽ってくれる素敵なヤツだ。それに決めるとすぐさま店を飛び出し、スピードをつけて蝶が舞うが如く無茶苦茶に乗り回してみると、腹の底から人生の勢いに満ちた笑いが込み上げてきた!──楽しい!楽し過ぎる!楽し過ぎて笑ってしまうよ!ALL BY MYSELFとはこうも面白いものなのか!自分自身でチョイスする楽しみ、トラブルを自分自身で裁く楽しみ、こいつは癖になる楽しみ方だ!口だけを大きく開け、声は出さず、しかし高らかに笑う僕!野性味に溢れた笑いが止まらない!

  一旦ユースホステルに戻り、急いで今日一日分の荷物をバックパックに詰めた。それからSUBWAYでツナサンドとレモネードを注文し、持ち帰り用にする。店員のお姉ちゃんは、明らかに場違いな服装でしかも興奮に目をギラギラさせている僕に興味を持ったらしく「観光?どこから来たの?どこの国の人?」と明るく聞いてきた。僕が興奮気味に「シアトルから来た日本人さっ。これからマウンテンバイクで園内を周るんだ!」と面白いことを話すとびっくりした表情で話に食らいついてきて、会話が弾んだ。

自分が楽しそうにしていれば自然と相手も楽しく接してくる。今の僕の楽しさをあなたにも分けてあげられているのなら、それは僕にとっても嬉しいことだ。

  土産物屋に寄り、安物だが実用的なサングラスを買い求めた。ここでもレジのおばあさんが丁寧に「すぐに使うのでしょう?」と言って、シールを丁寧に取り除いてくれた。出発を待ち切れず僕の中でくすぶり続けていた情熱を、こうしてみんなで更に煽ってくれるのか!益々楽しくなってきたね!

  マウンテンバイクに乗って猛スピードで公園入口ゲートへ向かうと、ゲートの手前にイエローストーン国立公園、と大きく宣伝された看板があった。その前での写真は旅のお決まりなのだろう。わざわざ車を停めて沢山の人が記念撮影にいそしんでいた。僕も、頼もしき相棒であるグレイのマウンテンバイクと一緒に撮ってもらった。冒険直前の写真。出発以来、初めて楽しみにわくわくしている姿の写真だ。

  マウンテンバイクでの入園料は4ドルだった。それも、1週間以内であればそのチケットで何回でも再入園が可能で、更に公園の南に隣接しているグランドティトン国立公園にも入園が可能だ、とゲートのレンジャーに説明される。随分お得なチケットだ。イエローストーンを制覇したらついでにグランドティトンにも寄る予定だったし丁度良い。あっ、でもさすがにマウテンバイクでは行けないから駄目か。隣接しているといっても、日本の県をひとつふたつ跨ぐような距離の隣接だしね。ちょっと無理だなぁ。もしも行くのならば、グランドティトンこそはツアーバスに頼らないと駄目だ。

  非常に良心的な入園料だが、僕は安過ぎると思った。全くの他人であるはずの僕が、この金額で採算が取れているのかを心配してしまう。ここで徴収する入園料が公園管理費の全てだとは思わないが、ある程度の割合を占めるものとしよう。広大な園内を整備するのに本当にこの金額で足りているのか、それを僕は心配してしまうのだ。ねぇ、遠慮せずに言って下さいよ。確かに僕は節約旅行をしているけれども、美しい公園を守るためにならもう少しぐらいのお金を出すことを躊躇したりはしないのだから。それで美しい自然を守ることができるなら僕の本望なのだから。

  入園ゲートをくぐる。目の前には、縦に空と山、横に緑、正面に真っ直ぐ一本の車道しか映らない。――何という景色だ。バスの中から見た景色に輪をかけて純粋だ。汚れのない目をして息を呑む僕がいる。この景色が問いかけてくるものを言葉にしてみようか。

  ――私たちは最高の舞台です。自然しかないが、大自然がある。この舞台に立ち、あなたの思い通りの役を演じて下さい。

  この場所に生まれ育った大自然が、僕の始める冒険を待っている。大自然に開けた道も、僕の始める冒険を待っている。道を開こうとするマウンテンバイクも、僕の始める冒険を待っている。今全てが僕の歩き出す一歩から始まるのだ。

  用意は整った。今の時点でやれることは全て終えた。僕は計画深い男であり、その僕が明日のための仕事が完了したことを宣言する。それは何を意味するのか。「DON’T STOP ME NOW」だ!イギリスのロックバンド・QUEENの名曲である「DON’T STOP ME NOW」だ!無性にその曲が聴きたくなったから、ヘッドフォンステレオでかけ始めるよ。

  この瞬間からは僕が冒険を楽しむだけの為に一日がある。もう誰にも止められやしない。後顧の憂いは全て消し去った。今、僕に求められている唯一のことは、これからの瞬間を目一杯楽しむこと。さぁ、本当の冒険が始まろうとしている。噴火したマグマのように、存分に流れ出せ!DON’T STOP ME NOW

  ――見習い冒険家は颯爽とマウンテンバイクに跨り、冒険に出た。

  Don’t Stop me now I’m having such a good time

      I’m having a ball don’t stop me now

     If you wanna have a good time just give me a call

      Don’t stop me now (’cause I’m havin’ a good time)

      Don’t stop me now (’yes I’m havin’ a good time)

      I don’t want to stop at all

                   ~「DON’T STOP ME NOW By QUEEN

  チェーンロックを使い、デイパックを後ろの荷台にくくり付けてみた。背負おうかと思ったが、汗を吸ったら背中が気持ち悪くなるだろうし、重くて邪魔だろうからやめた。大好きなレモネードの入った水筒は、運転しながらも手の届く前輪のボトルホルダーに付けた。

音楽をかけよう。アップテンポのロックナンバーばかりで組んだテープ。格好悪いのでヘルメットはせず、サングラスと白のTシャツ。黒のアーミーパンツと黒ブーツ。よく働いてくれる若い身体に、美しい大自然。──これは最高の御馳走だ。将来どれだけの大金を積んだとしても、絶対手に入らない最高の贅沢が今ここにある。今の僕だからこそ有り得るもの。この最高の瞬間を存分に楽しんでゆこう!

  イエローストーンの入口を軽快に飛ばし続ける。あぁ、僕は今思い切り全身の力を出してもいいんだ!出発以来、狭いバスの中では身を縮め、乗り継ぎのボーズマンでは無駄に時間を垂れ流し、ウエストイエローストーンではことが思い通り運ばないのに苛立つばかりだった。周囲が狭過ぎて自分自身の100%の力を発揮することができなかったのだ。

  しかし、この道ではそんな制限はない。少なくとも目の前に広がるこの道には、僕の100%の力を飲み込むだけの奥行きがある。封じ込められていた情熱を開放し、僕はイエローストーンの宇宙を探ろう。井の中の蛙大海に放たれる、か。それとも、狭い井戸の中に大きな蛙が投げ込まれたのか。僕はイエローストーンと裸のぶつかり合いを希望する。まずは、僕のマウンテンバイクの威力を見よ。

  溜りに溜まった情熱を消化するため、僕はしばらく足を動かすことに夢中になった。僕のこの熱いエネルギーを全開にしてしまえば、どんな宇宙でも呆気なく終わりに辿り着いてしまうに違いない。意識過剰なのではない。今までの生活を思えば、これまでどんなに難しいとされる仕事をこなした後でも、僕の若く健康な身体にみなぎる情熱は決して終わりをみせることがなかった。それどころか、その後でも余りに余った情熱のはけ口に困るようなことが度々あったのだ。自分自身にあるエネルギーの限界点を今まで見たことがない。そんな僕だから、こういう舞台では情熱をかきたてられてうずうずする。イエローストーンよ、僕という新しい世界を知れ。凄い情熱を見せてやる!

  走り出すとすぐに異質な空気を感じた。僕はあくまで強気で傍若無人に道を進むのに、ここは僕の限界を笑いながらのらりくらりと僕の攻撃をかわしているような気がするのだ。更に道を進めば、益々それを感じてくる。まだスタートしたばかりなのではっきりとは分からないが、この道は今まで僕が戦ってきた相手とは明らかに違う。なんだろう、豪く懐の深いヤツがいる。並の敵ではない。あたかも、僕の全力の走りがこの大自然にかき消されるかのような気がする。

僕の全身の汗がイエローストーンの景色の涼しさで引いてゆく?僕の自慢の両足が大自然の風の流れで巻き戻される?――もしかして、これはもしかしたらの話だが、この僕が全情熱を注いでも一筋縄ではいかない相手がここには本当にいるのかもしれない。まだ分からない、まだ分からないのだが、ふとそんな気がした。まぁ、今日一日ぐらいで判断するのは早計というもの。この僕ならきっと大丈夫だ。まずは目の前の目標をひとつずつクリアしよう。今は自分自身を信じ、先を急ぐのみだ。

  今日は23km先のマディソンというポイントを目指している。そこにはこれからの活動基点として考えているキャンプ場がある。

  ウエストイエローストーンを宿にして毎日行動するとなると、必ずこのマディソンへの道を通らなくてはならない。全ての観光ポイントはマディソンから二股に別れる道の延長線上にある。同じ道を毎日往復するのはお断りだ。しかも往復46kmが相手では時間も体力もかなり削られてしまう。そういう事情があり、どうしてもマディソンにテントを構えておくべきだと思っている。

  ウエストイエローストーンの標高は2,030m。マディソンは2,090m。高低差も大してないし、初日の小手調べには丁度いい道だ。様子見と準備体操を兼ねた片道1時間半程度のサイクリングになるだろう。今日は気軽に行こう。ただの下調べだから、時間をかけていい。明日からは生死を賭けた真剣な闘いになる。せめて今日だけはイエローストーンを楽しんで行こう。

  広大な敷地を有するイエローストーン国立公園だから、園内の移動は車を前提として設計されている。真っ直ぐな道を進んでも進んでも、まだまだ真っ直ぐの道が続く。誰がこんな場所に車以外で来るのか、といったレベルのお話なのだろう。凄いスピードを出して車が通り過ぎる。きっと、車でもやっつけるのに一苦労するぐらいのスケールに違いない。主流の車さんたちの邪魔にならないように、マウンテンバイクは控えめに道の右端を走ることにした。

走り続けること約10分、前に不自然な停車の一群が見えてきた。興味津々の眼差しで近付いてみると、みんなが車を降りて一斉にカメラを構えている。その先には何か鹿系の動物がいた。

  道路から幾らも離れていない草むらで何かが一頭、モソモソと草を食んでいる。人間の群れに近付くと、嬉しそうな顔でカメラを構えていたおじさんがこちらから尋ねてもいないのに「あれは雄のエルクだ」と教えてくれた。そうか、あれがエルク(ワピチ)か。エルクは大観衆に見向きもせず、ゆっくりと自分のペースで食事をしている。その肝の太い態度と、1m近くある堂々とした角は見事だ。この冒険旅行で見る初めての野生動物。感動の一頭目だった。

  突然僕は生意気な表情をしてその場を離れた。それまで誰よりも心の中ではしゃいでいたくせに、やけにあっさりとその場を立ち去った。何だろう、周りのみんなと同じではいけない気がしたんだ。みんなからは旅慣れた冒険家と見られなくてはいけないと思ったんだ。エルクの一頭に舞い上がっている所を見られては、僕の小心が見透かされてしまう。

  便利な車での移動をわざわざ捨て、不便なマウンテンバイクを己の意思で選択し、自分の力のみを頼りに冒険をする決死の覚悟の強者。それが今の僕だ。そのイメージを保つのが面白いと感じた。本当は単に年齢の問題でレンタカーが使いたくても使えないだけなのだが、それは僕の中だけにしまっておこう。周りの誰もがそういう英雄の姿を僕に求めている、僕は勝手にそう決め付けた。エルクの一頭にいちいちはしゃぎまわっていてはみんなの期待を裏切ることになる。ここでは僕だけに与えられた使命がある。「ここはイエローストーン、エルクはどこにでもいるものだ」と受け流し、平静を装って走り出そう。いわばこれは最高の冗談。今の僕の状況でしかできない究極の悪戯だ。駆け出しの冒険家が、大役を演じる。いいや、それでも見事に大役を務めてみせる。

  両脇を森に囲まれた真っ直ぐの道を進むことしばらく、次は川に平行して走る道になった。視界が大きく開けてきた。水のある景色は何とも心地良いものだ。身体中の汗が川の流れに洗い流されるように思える。森の緑も僕を元気にさせてくれたが、僕にとってはこっちの方が心強いサポーターだ。

両脇の景色で気付くことがあった。おびただしい山火事の跡がはっきりと残っているのだ。予めガイドブックで読んでいたので知っていたが、1988年に発生した大火事の痕跡が特にこのマディソン付近では今でも見受けられる。異常な高温と乾燥が原因となり自然発生した山火事だが、これに対して人的な消火活動は全く行われなかったという。最初は何故だろうと思った。どうして貴重な美しい自然を燃やしてしまうことを黙認するのかと思った。しかし、その理由を聞いた僕は己の小ささを知った。「自然に起こったものだから、自然に任す」という素晴らしい理由だったのだ。

おぉ、それは正にその通りだよ!僕もその考え方に大賛成だ。そして、人間のその考え方は正しかったのだと思う。燃え尽きた森の下から、今新たな緑の息吹が顔を出している。山火事も自然のサイクルであり、故意に歪めてはいけないものだった。僕はなんだか頭が下がる一方だ。決して人間が地球の中心ではない。人間は慢心している生き物だと思っているが、その人間もここでは理に適う判断ができたのだと思うと嬉しかった。

  あぁ、素晴らしい!僕の周りを流れてゆく大自然。空に浮かぶ白と青の色彩。森の匂いを運んでくる風の具合。情熱を更に注いでくれる良質の音楽。己の若く、健康な身体。僕は返す返す感じる、今の僕が世界最高の贅沢をしていることを!一人の人間として、これ以上望むものはない。美しい自然の中を、ごく自然体な一人の人間が行く。あぁ、これか!この瞬間を冒険旅行と呼ぶのか!

  しばらく行くとバッファロー(バイソン)に出くわした。大きな身体を引きずるように、のんびりと歩いている。のろまに見えるが、この動物には不用意に近付くことができない。巨体に似合わず、本気になったバッファローは時速60kmで走ることができるというのだ。もしも僕の不用意な動作に刺激され、バッファローが野性をむき出しにして向かってきたとしたら、裸同然のバイシクリストは逃げ切る術はない。

  大切なのは、野生動物はこちらが何もしなければあちらからは決して何もしないという事実をわきまえることだ。ごく稀に狂暴になる時があるからといって、彼らを害獣と一方的に決め付けるなんて大人の考えではない。そんな一方通行の保身はいらない。僕がこうして彼らの行動範囲に踏み込んできたことでも彼らの気を害していることにはなるのだろう。今ですら僕の方に非がある。バッファローの攻撃を誘発したとしたら、それは僕の罪だ。それでも、少し離れて双眼鏡でジロジロ見る分にはどうか許して欲しい。僕には悪意はなく、あなたが全身から発する野性にただ惚れ込んでいるだけなのです。

  僕はすっかり自然を愛でる人間になっていた。コヨーテが道路を横切る時には、対向車が轢かないように身体をはって車に注意を促す自分がいた。やっていながらも、それが余りに自然な行動だと思ったのを良く覚えている。考えるよりも早く身体が動いていた。この国立公園にいる以上、そういう行動を取るのは己の責任だと思った。不思議な行動ではないのだ、とても自然で、当たり前のことなのだ。

  ゲートから走り続けることしばらく、一息入れるために道路を外れた。道の途中途中に車を停めるスペースがあり、そこには園内の自然に関する案内の看板がある。まぁ、英語なので絵や数字しか目で追わない。真剣にそのパズルを解こうとすれば、読み明かせるぐらいの語学力は持っていると信じるが、何もこんな所で力を使う必要もないだろう。

  分かる振りをしながらその木製の看板を見つめていると、急に背後から親しげな声をかけられた。振り返ると、何と仲間ではないか。マウンテンバイクに跨り、いかにも「私、趣味はサイクリングです」という正装でばっちり決めた壮年男性だ。車輪を止め、仲間同士でまとまった話を交わした。

  彼はウエストイエローストーンに住んでいて、週に最低1回はこうしてイエローストーン国立公園という「自分の庭」をマディソンまでサイクリングするらしい。イエローストーンを「自分の庭」とは大した大法螺ふきだ。だが、僕にはそれが真実味を感じさせるセリフに聞こえていた。さっきまで自分自身でサイクリングをしていた時には、僕もまたこの景色は自分だけのものだと思っていたのだった。大言ではあるが、幾らかでも同じ体験をした僕には分かる気がした。

  毎回いい運動になるよ、と彼は膨らんで愛嬌一杯のお腹をさすってみせた。年間入場パスを持つ常連さんらしく、余裕をたっぷりと見せて僕のことを尋ねてきた。僕は自分自身のことを説明する。シアトルに留学している最中であること、1ヶ月の夏休みを利用して自分自身で冒険旅行に出ていること、ここイエローストーンが最初の冒険地であること、ここの後にも色々な国立公園を回る予定のこと、レンタカーが借りられないのでマウンテンバイクで回る決意をしたことなどだ。

  短い会話でもお互いを紹介し合うとそこはバイシクリスト同士、すぐにお互いを認め合えた。遂には彼の口から「目的地は一緒だし、一緒に行くか?それとも君はまだ休んでいるか?」という嬉しい誘いまで飛び出したではないか。

  う~ん、惜しいねぇ!一緒にサイクリングをして、地元の彼に色々と案内してもらうのは面白いこと間違いなしなのだが、僕のALL BY MYSELFはまだ始まったばかりで何の実績もない。ようやくスタートラインに立ったこの冒険旅行で、今必要としているのは自分自身の力だけで進むことだ。最初の内に自分自身だけでやり遂げる経験を積み、実績さえできてしまえば、その後は心に余裕を持って他人の好意に甘えるのも許されると思う。今はまだ時機が早過ぎる。考え方が狭いと言われようとも、今の僕はそう思うのだ。誘いは本当に嬉しいが、ここはお断りするしかない。折角の好意をごめんね。今は僕に自分自身だけの時間を下さい。

  僕はここでもう少し休憩してゆくよ、と言うと彼もさっぱりと「GOOD LUCK !」の一言を残し、先へ進んで行った。タフなオッサンだな。さすがはサイクリングも人生も熟練者、余裕でたっぷりとしていたよ。──またひとつ、きらめきが訪れたシーンだった。

  しばらく休憩し、息が整うと僕はまた走り出した。最初の真っ直ぐな道だけ両脇に森が迫っていたが、あとはずっとマディソン川沿いの道なので景色は抜群だった。厳しい上がり下りもなく、実に走りやすい。美しい景色に風を切るサイクリングで汗を流すのはとても気持ちが良い。

  道具を使わず、己の身体ひとつで芸をするのが芸の奥義だと聞いたことがあるが、なんとなくそれが分かる気になるぐらいなのだから凄いことだ。人は生まれた時にゼロから始まり、成長の段階で無数の飾りに戸惑い、試し尽くした後にはゼロが究極だと知る。僕がそれを本当に体得するのは遥か遠い未来の話だろうが、今はゼロの魅力を肌で感じる。豊かな自然と、健康な若い身体と、充分な運動。何度でも繰り返そう、今の僕にあるものが最高の宝だと。

  道を進んでいて、車が停まっていればそこに動物がいる。ここではそういうパターンだと思えばいい。エルクとバッファローは何頭も見た。バッファローはやはり恐い存在だから十分に距離を空けた。本当はバッファローやエルクに直に手を触れて野性を感じてみたい。だが、何が起こるか分からないこの大自然で自分の身を守ってくれるのは自分自身だけだ。無茶をしてこの後の冒険ができなくなってしまっては僕の目標が未達成になってしまう。なにしろ1ヶ月の長丁場だ、今だけではなくこの先のことも考えるのが立派なALL BY MYSELFだ。僕は目の前の興味も、遠い目標も見事に両立してみせるよ。

  23kmの道のりは爽快の一言に尽きた。シアトルから積み重ねてきたうっぷんを晴らすかのように、僕の身体は右へ左へ自由奔放に動いた。厳しい練習を積み重ねてきたスポーツ選手が、遂に念願の試合に出た時の輝きと同じだ。長い川旅を経て水が滝にたどり着く。その後は勢いに任せて一気に滝壷へと水は下る。

  出発から丁度1時間が経ち、午後4時過ぎになるとマディソンキャンプ場が視界に入ってきた。草原ばかりが続いていた所に突然森が現れたので、すぐにそれと分かった。道から外れ、やけに背の高い森に入っていけばそれまで照り付けていた太陽は権威を失い、涼やかな森の空気に包まれる。林間の細い道を進んで行くと、受付事務所が見えた。まずはひとつ小さな冒険旅行をやり遂げて僕は満足だった。

  嬉しいことに、事務所の近くに自動販売機があった。生温くなったレモネードもなかなかどうして悪くはないが、こらえきれず冷たい飲み物に手が出る。汗まみれのTシャツ、アーミーパンツの下のパンツまで汗でびっしょりだ。やや乱れた呼吸、熱い身体。疲れは余りないが、身体の熱気を汗まみれの服が包み込み、蒸し風呂に入っている状態だ。フラフラと自動販売機に近付き乱暴にコインを入れればガラン、と嬉しい音を立てて缶が転がってくれる。冷たいレモネードを一口飲むと、汗だらけのTシャツを破り捨てて吠えたい気分すらする。小さな缶の液体が、大きな僕の肉体を一瞬にして回復させた。眼は大きく開かれ、脳は冴え渡り、汗も身体から蒸発してしまう。あぁ、これが最高の美酒の効果か!

  元気になった所で事務所を覗いてみると、バイシクリストは1人1泊3ドル25セントだった。3ドル25セントということは、つまりほぼ無償で場を提供してくれるというのだ。全く想像をしていなかった善意の料金に、入園料と同じくつい心配してしまったが、なんだかイエローストーンに歓迎されているような気がして無性に嬉しかった。

  キャンプ場内を偵察がてらに回ってみると、サイトの空きは充分にあるようだった。シャワーまではないが、水飲み場・水洗トイレ・洗い物専用の台所などがあり、事務所の横では氷を売っていたりもしている。とても居心地が良さそうなキャンプ場だ。うん、今後の拠点はここにしましょう。決定いたしました!おめでとうございます♪

  陽が落ちるまでまだ時間がある。このまま帰るのはもったいない。どこか僕にまとまった休息を恵んでくれる場所はないか、と安息の地を探しにキャンプ場の森を出て、マディソン川へとゆっくりマウンテンバイクを押して下っていった。

黄昏前のやや鈍い太陽の光が差し込む、穏やかな時間帯。この季節、辺りが闇に包まれるのは9時頃だ。まだまだここでゆっくりできる時間がある。マウンテンバイクで情熱を発散させるのもいいが、こういう場所で自然の匂いを嗅ぐことに時間を取るのも一興であろう。

  足を止め、改めて見るマディソン川の美しさには圧倒されるものがある。たっぷりと横幅のある川がうねりを見せて大地を流れる。川のうねりが女性の持つ腰の美しいラインのようで実に艶めかしい。川の水の純粋な青緑。緑の草原が川にからみ、どこまでも沿い合って遠くへ平面を成してゆく。空の青色の使い具合は絶妙、風のくすぐり具合も太陽の照らし具合も実に涼やかなコードを奏でている。

  ブーツを脱いで素足を川に浸すと、小さな川魚たちが僕の足をついばんできた。くすぐったさと、その光栄に小さく喘ぐ僕。大自然の一員である魚たちから、まさかそんな親しく接してもらえるなんて思っていなかったからだ。

  水面を優雅に流れてゆく水鳥たち。水面下のドタバタぶりには目をつむろう!川を挟んで、目の前には巨大な山がそびえている。青い空の一部を灰色の山が覆う。それは急斜面の崖になっており、無言で存在感のある崖を見つめていると僕は何かを感じる。ウエストイエローストーンのSubwayで買ってきたツナサンドを出してかぶりついた。咽喉を鳴らしてレモネードを飲んだ。

  ――穏やかな時間を過ごす僕に、自然と言葉が生まれてきた。

     冷たい水に足をひたす

       小魚たちは足をくすぐる

     川のほとりに体を置く

       小さな水鳥は逃げもしない

     ここでは小さな生き物でさえ僕の味方

     川の水は豊かに流れ

       大地は緑に埋もれ

     太陽と風が共に歌い

       崖には無言の情熱

     自然は生きている、小さな生き物がそれに興を添える

  ――今思えば、ここで自然と言葉が生まれてきたことが僕の人生の大きな転機だった。頭の中に浮かんでは消えてゆく言葉たちを、僕はこの時初めて文字として紙に書き留めた。確かに言葉は幼稚で、敬愛する人が創り出した言葉を借用してもいる。憧れた芸術家たちの真似事でもしているつもりだったのだろう。とにかく僕は心にある言葉を素直に吐き出した。

  今でもはっきり憶えている。幾つかの言葉をメモ帳に並べたこの時、他では感じたこともない快感を僕は覚えた。

人は幼い頃に強く憧れた何かを忘れられないまま大人となり、生きて行く中でその憧れに少しでも近付きたいと夢見続けているもの。求める理想像を見つけたら、その理想像に己を同化させようとする。結局それはひとつに対する完全な同化ではなく、いいと思った所だけを幾つも取り込み、自分だけの生き方を構築するのが現実だ。その手始めとして、憧れるだけから実際に近付こうと一歩踏み出す瞬間がある。僕にとってはそれがこの時だったのだ。

  僕の少年時代は推理小説に始まり様々な文学、そして楽曲の歌詞に陶酔し、文字と文字の連なりに存在する激しい情熱とロマン、人生の教訓に夢中となり、理想と憧れ、神と崇め、そこに自分自身が進むべき本来の姿を見ていた。

  この時の僕は、事の重大さに少しも気付いていなかった。このことが将来の自分自身をどれだけ変えることとなるか、想像する由もなかった。

  ――見習い冒険家としてはシアトルを出た時から始まっていたが、見習い芸術家としてはこのマディソン川でスタートを切ったと宣言しよう。美しいものを見るだけの無責任な観客の立場から、美しいものを自分自身で創り出す芸術家の立場へと変わった瞬間。それは僕が大人への決定的な一歩を踏み出した記念すべきシーンだった。

  1時間ばかり自然と向き合った後、僕は腰を上げて元の道へと戻った。

  そうそう、自信満々だった僕の情熱はどうだったのだろうか。この僕が本気さえ出せばどんなに困難なものだろうとも僕はクリアできると豪語したアレだ。

今の僕の力が目標クリアに充分なレベルにあるという自信は今も変わらない。ただ、ここは広過ぎるので時間がかかる。目の前の一分一秒に打ち勝てないとは少しも思わないが、何しろイエローストーンは広過ぎてちょっとやそっとでは終わらない仕事の量だ。考え方を改めよう。僕ならばイエローストーンの試練をクリアできるが、時間はかかる。時間はかかるが、僕ならばイエローストーンの試練をクリアできる。

  夕方になり、野生動物が姿を見せる頻度が増していた。いつでも好きな場所で足を止められるマウンテンバイクは本当に便利だね。動物の近くへ気ままに寄っては、気ままに出発できる。いちいち車を停めて降りる手間がないし、動物たちとずっと同じ風を受けているという感覚は嬉しいものだ。

あぁ、僕にとって結局これが一番お似合いのイエローストーンの楽しみ方に違いない!知らず知らずと僕は最高の方法にたどり着いていたようだ!

  一息にマウンテンバイクを走らせ、音楽に合わせ歌いながら踊りながら帰路を急いだ。一度通ってしまったこの道に行きのような新鮮さはない。今、興味があるのはユースホステルに戻ってからどうするか、それだけだ。5分でも10分でも早くウエストイエローストーンに帰ることだけを目指し、ひたすらペダルを漕ぎ続けた。

  1時間後、ユースホステルに着いた僕がマウンテンバイクを何処に置けばいいのか迷っていると、ユースホステルの親切なおばあさんが案内してくれた。外に出しては盗まれる可能性があるから、裏の建物に入れておきなさい、と言われる。倉庫になっている建物の隅に置いて部屋に戻ると、さっきのおばあさんが「お腹空いているでしょう」と言ってわざわざ部屋までパンとメロンを持ってきてくれた。そして「まぁ、まぁ、まずは一階でテレビでも見てくつろぎなさい」と優しい言葉をかけてくれるではないか。

  本当にお腹が空いていた僕はすぐさまそれを平らげる。とりあえず部屋で荷物を整理して明日の準備をしていると、再びそのおばあさんがドアをノックする。今度は何と、サンドウィッチを食べなさい、とその手には間違いなくおばあさんが今手作りしてきたであろうサンドウィッチが、美味しそうに僕に向かい微笑んでいるではないか。

  僕は心の底から嬉しくて、感謝の気持ちを伝えるに充分な英語を探すのに戸惑い、しかし伝えたい気持ちが溢れ、とりあえず口を開こうとすると、おばあさんが急にニヤけて「部屋のキーが外のドアに付いたままだよ」と言う。

  これには参った。僕からも誠実さを返そうとしている所に、恥ずかしい大ボケを見られて照れ、お礼の言葉を口にするのにまごついていると、おばあさんは凄い勢いで背中を見せて下へ行ってしまった。僕はおばあさんの背中にお礼を言うが、それで充分な謝意を伝えられたとは思わない。

  優しさを他人に与えるのに抵抗がなく、他人から優しさを返してもらうことには照れる、か。それもひとつの美学だろう。ならば僕はおばあさんの優しさを心に深く留めよう。それが僕にできる最高の感謝の表現だ。世の中には様々な種類の優しさがあると思うが、このおばあさんのような優しさを持つ人もいるのだ。よく覚えておかなくては申し訳ない。おばあさん、本当にありがとう。僕はとっても嬉しかったよ。

  美味しいサンドウィッチを平らげると、明日からの食料を買う店を探しに出た。運良くユースホステルのすぐ近くにスーパーマーケットがあった。開店時間をチェックすると、朝の9時からオープンなので生ものなどは明日の朝に買うようにし、取り急ぎ保存の利くものや便利な小物などを買い込んだ。

  疲れた身体にシャワーを浴びせてあげよう。シアトル出発以来、初めてのシャワーだ。部屋と同じフロアにシャワー室があるので行ってみると、そこはさすがにユースホステル、ひとつ目のシャワーはいつまで経っても水しか出ない。冷えた身体を素早く隣のシャワーに滑り込ませると、ありがたいことにそっちはお湯も出てくれた。あぁ、おばあさんのサービス精神といい、この壊れかけのシャワーといい、ようやくユースホステルらしくなってきたかなぁ。

  5人は泊まれるはずの部屋だったが、すっかり僕一人のものと化していた。結構緊張して他の宿泊客を待っていたのに、あれから誰一人としてこの部屋に入って来ない。普通のホテルのツインルーム以上に広い部屋に泊まっておきながら、一泊たったの17ドルというユースホステルレートで済んでしまった。こんな美味しい思いをしてもいいのだろうか。

  明日から数日間は町に戻らず、キャンプ生活に入る。いつも通り明日の用意を周到に整えていると、急激に眠くなってきた。逃げ道を自分自身で塞いで必死の力を引き出すやり方は消耗が激しい。火事場の糞力というヤツで今日一日をこんな風に過ごしてみたけれど、夜になりここでようやく気持ちの糸が緩んできたみたいだ。

  思えばホームステイ先の部屋を出てから、ろくな睡眠を取っていない。我ながらお疲れ様だね。また明日からは、自分自身の力だけで捌く行方知れずの冒険旅行、最高にやりがいのある日々が僕を待っている。今夜ぐらい十二分に休んでおこう。まずは出発から2日間、上出来のスタートを切ることができたと思う。これからは、毎日がこんなめくりめく冒険の連続なのだろう。

  何があっても変じゃない、か。ある人がそういう言葉を歌っていた。うん、そうだな。それが今日少し心に染み入るような気がした。それではおやすみ。また明日、大いに暴れましょう。







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