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今昔物語集 宇治拾遺物語集 両説話集の違い 感想レポート

投稿日:2010年1月27日 更新日:




今昔物語集の著者は、どういう視点で人間や社会をとらえたのだろう。

一体何故、何のために今昔物語集を編纂したのだろう。

この膨大な説話集は、何故生まれたのか。

その何故ということを読み解く際には、他の説話集との書き方の違いが

どのようになっているのかを明確にして導き出すのが有効だと信じてみた。

僕のこの長い考察に付き合ってくれるかな、今昔物語集の存在に興味津々の僕のつぶやき。

ここでは同じ説話集である宇治拾遺物語との相違点を通じて考察を進めてゆこう。

未完と推測されるとはいえ、千数十話もある今昔物語集に対して、

百九十七話の宇治拾遺物語という説話の数の違いはあるものの、

両説話集には共通する話が八十一も存在している。

いずれも源流を遡れば『宇治大納言物語』というひとつの説話集に

たどり着くと考えられているが、『宇治大納言物語』はすでに散佚してしまった説話集である。

両説話集を読み較べ、そこにある差異を明らかにしてゆくことが、

今昔物語集の特徴を掴む唯一の方法であろう。

最初に、それぞれの説話集に書かれた最も醜い部分を取り上げる。

今昔物語集の巻二十九第二十五話「丹波守平貞盛、児干を取る語」は、

戦いで矢傷を受け悪性の瘡をつくってしまった平貞盛が、それを治すために妊婦の腹を裂き、

特効薬である男児の肝臓を求めるというおぞましい話である。

赤子の命を犠牲にして瘡を治したと思ったら、矢傷を負ってしまうような弱将である

という外聞が広まるのを恐れるあまり、平貞盛は息子の平維衡に命じてその医者を殺そうとした。

これら平貞盛の行動にはどこにも遠慮がない。

丹波の守を務めていた平貞盛の、権力者としての横暴があたかも当然のように書かれていて、

我々現代人が読んでも当時はこういうことがありうる時代だったのだ、と納得しまうほどではないか。

権力者を正当化させる説明がこの話の節々にはある。

親が子に対して、使用者が使用人に対して、無理難題を要求する。

それが困難な話であっても、両者の間には絶対的な権力が作用しているから、

要求された側は拒むことができない。

矢傷が公になっては武将の威厳を保つことはできないし、

東北の反乱勢力を鎮圧するために次期の陸奥守として

朝廷から派遣される地位を掴みそうだった平貞盛にとって、

地元の争いで負った矢傷が原因で

瘡ができたというマイナスイメージは流すことができない失態であった。

平貞盛自身の失脚は家全体の失脚であるから、確かにそれは個人の問題だけではなかった。

平貞盛が地位を失えば、その一族郎党や使用人も同時に仕事を失うのである。

息子の平維衡にしても、それが分かっているから

無理な要求を拒むことができなかったのも理解できる。

そもそも悪性の瘡であるから、平貞盛からすればどんな犠牲を払ってでも

治療したいと思うのは当然のことでもあった。

京から丹波へわざわざ呼び寄せた医者が唯一の特効薬は男児の肝臓だと言うのだから、

その方法にすがらない理由はない。

最初に平貞盛は息子の嫁が妊娠していることを指摘し、その子供の肝臓を要求する。

息子の子供ということは自分の孫であるのに、

自分のことしか目に入っていない平貞盛は躊躇することがない。

困った息子は医者と相談した上で、「我が胤は薬に成らず」と医者から言わせることで

その無理矢理な要求から逃げることに成功した。

使用人の飯炊きの女が懐妊して六カ月になっていることを知った平貞盛は、

その女の腹を裂いて胎児を取り出す。

胎児が女子だったからその死骸を捨てておく場面には、

平貞盛の非道ぶりから思わず目を背けたくなる。

なんとか別の妊婦を探して児肝を得た平貞盛は、なんとか命を取り留める。

要件を済ませた医者が帰ろうとするのを見て、

平貞盛はその治療法を教えてくれた医者を殺して話が世間に漏れるのを防ごうとするのだ。

それも自分自身で実行するのではなく、ここでも息子に命じて

帰京の山中で強盗を装って医者を殺そうとした。

医者に恩を感じていた息子は策を巡らせ、医者と別人を入れ替えさせて、強盗に別人を殺させた。

医者の命を救って無事に京都へ帰させたのだが、

医者を殺したと思い込んだ平貞盛は「喜て有ける」と書かれている。

こうして話を取り上げることも躊躇するほどの非道ぶりであるし、

さすがの今昔物語集の著者も「貞盛朝臣の婦の懐妊したる腹を開きて

児干を取らむと思ひけるこそあさましく慚はき心なれ」と

自分の非難意見を書いているほど、平貞盛の行動は醜さの頂点に達している。

偶然にも平貞盛は丹波守や家長として強い権限を持っていたから、

そんな悪事も実行可能であった。

他の人が同じ状況に置かれたとして、

考えることはあっても果たして実行に移すまではできたのだろうか。

その行動も自分の社会的な立場があって、

立場上追い込まれていた平貞盛ならではのことと言うこともできる。

他人に不幸を強いて行動しなければ、

自分や自分の周囲の人々が危うい立場に置かれるだけなのだ。

自分ひとりの不幸であれば、悪性の瘡も運命と考えて、

死を受け入れる選択肢も視野に入ったかもしれない。

ただ、自分には家族がいて、一族の未来を背負っていたから

安易に死を選ぶことができなかったということもある。

そう考えれば、平貞盛は今昔物語集の中で

意図的に仕組まれた悪役なのだと捉えることもできないか。

彼がしたのは申し開きできない悪行ではあるが、何も好き好んで悪事を働いたのではなく、

そうせざるを得ない状況に追い込まれていた、ということも考慮に入れないといけない。

他の醜い話を挙げてみると、巻二十九第二十六話の「日向守■、書生を殺す語」には、

日向守が任期を終えるにあたって今まで自分がしてきた不正を誤魔化すため、

部下の書記官に命じて書類を偽造させる話がある。

離れ部屋に監禁して書類偽造を完成させた後に、書記官に褒美の品を与えたまではよいが、

その後には書記官が予感していた通り、口封じのためにその書記官を殺害しようとするのだ。

殺されるために山奥へ連れて行かれる道中、書記官は老母と妻子に一目会いに行き

「露錯たる事も無けれども、前の世の宿世にて、既に命を召しつ。痛く歎き給はで御ませ。

此の童に至ては、自然ら人の子に成ても有なむ。嫗共何かにし給はむずらむと思ふなむ、

殺さるる堪へ難さよりも増て悲き。今は、早う入給ひね。

今一度御顔を見奉らむとて参つる也」と言うのだ。

日向守から殺害を命じられた郎党たちも、さすがにそれを聞いて涙を流すが、

最後は主命だからと書記官は殺害され、その首が日向守まで届けられるのである。

これもまた非道極まりない話である。

話の最後には「日向守いかなる罪を得けむ、詐りて文を書かするそら、なお罪深し。

いわんや、書きたる者をとが無くして殺さむ、思いやるべし。

これ重き盗犯に異ならずとぞ、聞く人憎みけるとなむ語り伝えたるとや」と書かれてはいるが、

話の途中であまりの醜さに遠慮して、救いどころを作るようなことは一切ない。

日向守の非道さを最初から最後まで淡々と書きあげて、この説話は終わりを迎えてしまうのである。

巻二十九第二十四話の「近江国の主の女を美濃国に将て行きて売りたる男の語」は、

若くして夫を亡くした妻が、長年仕えていた使用人に騙されて身売りされる話だ。

湯治か山寺にでも行って気晴らしをしようと言ってきた使用人を信じて妻が出かけると、

近海の家から美濃の見知らぬ男の元へと身売りされてしまう。

裏切られたと知った妻は、下賤の者を信頼してしまった自分が愚かだった、

と絶望のあまり食事を摂ることをせず、そのまま死んでしまう。

妻を買った家の主人が京に上ったときに「糸奇異く哀れ也ける事かな」と、

まるで他人事のようにこの話を広めたことが、

今昔物語集に書かれることにつながったと最後に結ばれている。

こんな醜い話も当の本人が堂々と他言できるような世の中だったのだと思うと、

ますます醜さが増幅されてくるようだ。

この話の妻にも、救済の道がひとつも示されていない。

若くして夫が死んだのはまだやむを得ないまでも、頼りになる親や親戚もいなければ、

唯一頼りにしていた長年の使用人にも裏切られ、知らない男に金で売り飛ばされてしまう。

その男にも不幸な身の上を話したところで、全く聞き入れてもらえることなく、

最後は食事を取ることもないほど精神的にやつれて死んでゆくのである。

先の平貞盛の行動と同様に、

これら二つの説話も何の言い訳もできないぐらい醜い内容ではないか。

日向守と使用人に共通することも、平貞盛と同じである。

人道に背くとはいえ、偽造と口封じをしなければ日向守はいずれ自分の後任者に、

今までしてきた悪事を見破られてしまう。雇ってくれる主を亡くした使用人は、

そのまま女に仕えていてもいずれは自分の食いぶちに困ってしまう。

背水の陣に追い込まれた人間が醜い行動に移るのは世の常なのだと、

今昔物語集ではそれが当然のように、そして遠慮なく話中に投影されていることが分かる。

その背景にあるやむない状況が説明されることなく、淡々と悪事だけが書かれるのだから、

読者はまるでそれが故意的に行われたかのように錯覚して、悪人たちへの非難を強めるのである。

悪事をした者が責められるのは当然ではあるが、

今昔物語集に書かれた言葉だけを見ていると公平な判断を誤ることにもつながるのではないか。

一方の宇治拾遺物語を探してみると、これほどまで醜さが強調された話は存在していない。

巻十三第八話の「出雲寺別当父の鯰になりたるを知りながら殺して食ふ事」には、

自分の父親がナマズになったと夢見で知った出雲寺の別当が

「異人交ぜず、太郎、次郎童など食ひたらんをぞ故御房はうれしと思さん」として、

進んで自分からそのナマズを殺して食う話がある。

父親の化身であるナマズを自分から進んで食べるなど恐ろしい話であるが、

その話では別当の残酷な行動で話を終わらせるのではない。

悪いことをした別当は喉にナマズの骨を詰まらせて死んでしまい、

「妻はゆゆしがりて、鯰をば食はずなりにけりとなん」と、

親不幸は必罰であるという教訓を伝えようとしているのだ。

巻十三第七話「ある唐人女の羊に生れたるを知らずして殺す事」は、

死んだ娘が羊に生まれ変わった話である。

周囲の人が言う話をよく聞くことがなかった主人であったため、

羊を羊にしか見ることができなかった唐人の調理人が、早く主人に料理を出さないと

怒られると思い、娘の羊を殺してしまう。

調理人の誤解が原因だったとはいえ、娘が殺されてしまった後でようやく話を理解した主人も、

最後は「悲しみて惑ひける程に、病になりて死にければ、田舎にも下り侍らずなりにけり」として、

父親までも死なせ、親子の運命の儚さという教訓を伝えようとしているのだ。

巻十四第四話「魚養の事」は妻子を唐に残して日本に帰った遣唐使の話だが、

「宿世あらば、親子の中は行きあひなん」として母が唐の海に投げた子を、

父が日本の海で拾い上げる。

思いがけず息子に再会した父は、自分の行動を悔い改めるわけでも、

母を呼び寄せるわけでもなく、「しかるべき縁ありてかく魚に乗りて来たるなめりと、

あはれに覚えて、いみじうかなしくて養ふ」と書かれている通り、

前世の縁で再会できたのだと都合よい解釈をして喜ぶだけだ。

話は最後に「さてこの子、大人になるままに手をめでたく書きけり」という別の話にすり替えられ、

書が上手い理由をこの数奇な運命にこじつけ、魚養を偉人化して終わるのである。

外国に家族を置いてきた父も父なら、子供を海に投げ捨てた母も母で、

互いが異常な行動を取っている。

子供が死ぬことなく魚の上に乗って海を渡ったというエピソードを、

前世の縁があるからできたことだと美化するのは妥当であろうか。

本当の醜い話がかわされ、別の話に結ばれていることが分かる。

宇治拾遺物語の他の話を探しても、最初から最後まで悪人に徹して書かれている話がない。

話中で言いたいことは、醜いものを非難する場面ではなく、

それが現実だと割り切る場面でもなく、それらを通して獲得できた教訓を

伝えようとする場面にこそ、あるようなのだ。

こうして今昔物語集と宇治拾遺物語の醜い部分を比較してみると、下記のようなことが分かってくる。

共通点として、醜い行動をする人は、あるべき姿と現実の姿とのギャップを強調され、

仕立てあげられた悪役である。

権力者は弱者をいたわり、親は子供を愛すべきだという社会道徳上のあるべき姿があり、

一方でそれを無視して私利私欲に走る現実の姿が話中に描かれている。

そのギャップが大きくなるような話が設定されており、

もっともらしい理由を付けて行われる悪事に弱者たちが翻弄される。

無力な者の側に読み手を感情移入させるのが、説話集での醜い話の典型だということができるだろう。

両説話集の相違点を深堀してゆくと、今昔物語集では遠慮のなさが浮き彫りになってくる。

いずれの悪役の行動にも救いの道だとか、同情の余地がない。

自分のエゴを他人に押し付けるだけの醜い姿を、どこまでも手を加えることなく

書こうとしている様があるではないか。

平貞盛も日向守も使用人も、追い込まれていた立場にあったとはいえ、

彼らが他人を裏切ったことは事実である。

そして彼ら全員が、その行いの罰を受けていない。

彼らによって不幸になった人がいる半面で、当の張本人である彼らは

それまでと変わらない生活を続けているのだ。

こうして醜い行動をした本人らを生かし、被害を受けた弱者たちだけに不幸を押し付けさせる。

主張した者、権力を持つ者を一方的な勝者にして話を終えるところが

今昔物語集における醜い話の型である。

一方の宇治拾遺物語は、比較するとやや遠慮がちで、最後まで悪役を演じきっていない。

悪行そのものではなく、最後に示される教訓こそが中心と考え、

その結論につなげるための構成なのではないか、と推測することができる。

父親の化身であるナマズを食べた息子は、その罰で死んでしまう。

娘の羊を救えなかった父親もまた、悩んで死んでしまう。

魚養の両親に至っては、その後にどうなったかすら記載がなく、

話が全く別のことに向けられて話が終わる。

挙げた三つの説話には、本当の悪役を見つけることができないのだ。

こうして、両説話集の醜い話を比べるとひとつの仮説が浮き上がってきた。

今昔物語集では、話を通して何かを伝えることが目的ではない。

現実の姿そのものを描くことが目的でないか。

宇治拾遺物語では、物語の最後にある教訓を伝えることが目的ではないか。

醜い話だけを最後まで続けても教訓にはつながらないから、

途中で話を変えてゆく必要性もこの仮説で説明できる。

このように今昔物語集と宇治拾遺物語には、現実の姿を描こうとしたものと、

教訓を伝えようとしたもの、という違いが存在するのではないか。

同時代の類似説話集といえども、説話の結末が違う理由は、目的の相違によるものではないか。

仮説を別の角度から考察するため、今度は醜いものではなく、笑い話を比べてみることにする。

今昔物語集の巻二十八第十話「近衛の舎人秦武員、物を鳴らせる語」は、

禅林寺の御壇所で高僧と話をしていた秦武員という近衛の舎人が、

誤って大きなオナラをしてしまう話だ。

そこは僧侶たちが集って勉学をする御壇所というあまりに厳粛な場所であったし、

秦武員は武士たちを統率する将曹という重要な役にあったことから、

周囲の誰もが何も言えずに沈黙が続いていた。

時間を空けてようやく武員が「哀れ、死ばや」と恥ずかしがる発言をしたことで、

座から爆笑が起こり、武員がその場から退散したところで話は終わっている。

オナラした武員がすぐに謝れば良かったし、周囲の人々も音を聞いたらすぐに笑ってしまえば

良かったものを、中途半端に間が空いてしまってお互いに失敗したと思ったことだろう。

このまま何も言わないと自分が辛いだけだし、時間が経ってしまったから

謝るのも違うと思ったのか、「恥ずかしくて死にたい」と素直な気持ちを出して、

武員がその場をやりすごしている。

武士の頭である武員の威厳と、そこが厳粛な御壇所であったことが、

オナラというあまりに単純な恥ずかしさとのギャップを引き立てて、

この話に絶妙な面白さを加えているのだ。

この武員は日ごろ愉快に話をする人で、その時も機転を利かせて「恥ずかしくて死にたい」と言った。

並の人なら知らん顔を続けるだろうし、それでは場も白けてつまらないところを、

武員が絶妙な言い方をしたことに好感を持つ。

失敗したら早く謝るとか、時間が空いてしまったらユーモアを入れて謝るといいだとか、

そういう教訓がこの話から伝わってくるではないか。

話の最後には「此も彼も否不云で居たらむは、極く糸惜なむかし」とあり、

何も言えずにただそのまま座っているのはすごく可哀そうなことだという教訓で結ばれている。

この説話は笑い話であるが、それ以上に機転を利かせることによって

ピンチをチャンスに転換できた武員の知恵と温かな人間性を、この笑い話からは読み取るのだ。

巻二十八第三十八話の「信濃の守藤原陳忠、御坂に落ち入りたる語」は、

信濃守である藤原陳忠が任期を終えて都へ帰ろうとする時の話だ。

道を踏み外して谷底に落ちた陳忠だったが、途中の木に引っ掛かって命を取り留めた。

谷底から救い出された陳忠は、なんと平茸を一杯に抱えている。

命が助かってさぞ喜ぶかと誰もが思っていると、

「未だ残りやありつらむ、云はむ方なく多かりつる物かな。

極じき損を取りつる心地こそすれ」と言い、

もっと平茸を取れたはずだと残念がっている陳忠の姿が書かれた話である。

受領を一期務めればそれだけでひとつの財をなしたと言われていた受領階級のがめつさが

笑いの対象なのだが、それは次の連想につながる。

租税の取り立て役である受領がそんなに強欲な性格であれば、

任地ではさぞかし取りっぱぐれなく租税を徴収した「名」受領なのだろう。

役人のしたたかさに結び付け、元の不幸な事故を忘れてしまうぐらい、話を笑いへ転換させている。

現に陳忠は「宝の山に入りて、手を空しくして返りたらむ心地ぞする

『受領は倒るる所に土を掴め』とこそ云へ」と周囲に教訓を垂れて、

それを笑い話にするのではなく本当に悔しがっているのである。

受領たる者かくあるべき、という素直な教訓として捉えることもできるし、

「然許りの事に値ひて、肝・心を迷はさずして先づ平茸を取りて上りけむ心こそ、

いとむく付けけれ。増して便宜あらむ物など取りけむ事こそ、思ひ遣らるれ」と

民衆から皮肉たっぷりに褒められるところがまた笑い話になっている。

いずれにせよ、命を失っていたかもしれないピンチにおいても、

もっと稼ぐチャンスに変えた陳忠の人間性というか、商売根性は見事であるし、

それがこの笑い話に魅力あるものを加えている。

面白いのは平茸を手にして上がってきた時の笑い話が、

最後にはがめつさに対する冷笑になっており、笑い話は笑い話でも種類が変わっているし、

郎党たちから民衆へと笑う人物が変わっているのだ。

そのくせ、ピンチをチャンスに変えるという教訓まで織り交ぜて、この話は結ばれている。

巻二十八第十六話「阿蘇の史、盗人にあひて謀りて逃げし語」は、

深夜まで京の宮中で仕事をしていた書記官が、西の京の自宅まで牛車で帰るときに

盗賊に襲われてしまった時の話だ。

盗賊たちが牛飼童を追い払い、牛車の簾を開けると書記官が全裸で座っている。

「こはいかに」と声をかける盗賊たちに対して、

「東の大宮にてかくのごとくなりつる。君達寄り来て、

おのれが装束をばみな召しつ」と書記官が笏を持ちながら、

上司に言上するようにかしこまって言うものだから、盗賊たちはみな大爆笑して

そのまま何も取らずに退散していった、という話だ。

話の最初には「車に乗りて大宮下りにやらせて行きけるに、着たる装束をみな解きて、

片端よりみなたたみて、車の畳の下になほく置きて、その上に畳を敷きて、

史は冠をし、襪をはきて、裸になりて車の内に居たり」という説明がある通り、

書記官は深夜の京の大通には盗賊たちがはびこっていることを知っており、

大変高価な仕事用の衣服をあらかじめ隠しておいたのである。

しかも書記官は盗賊たちが呆れて、それ以上何も盗む気にもさせないよう、

大爆笑させる効果を準備している。

裸のくせに冠と笏は忘れていない。

さらには盗賊たちを高貴な人を指す言葉である「君達」と呼び、

「召しつ」という尊敬語を使いながら、かしこまって返事をすることで、笑いを生みだすことを成功させた。

一計を案じて相手を出し抜くことが美徳であって、騙された人こそが悪だという

中世の現実的な社会を見ることができるし、それを笑いに変えていて面白い。

そこまででも十分な笑い話として完結しているのだが、この説話には

「さて、妻にこの由を語りければ」と続きがある。

帰って妻にこの一件を話したところ、「その盗人にもまさりたりける心にておはしける」

と妻に笑って感心されているのだ。

最後は「この史は、極めたる物言ひにてなむありければ、

かくも言ふなりけり、となむ語り伝へたるとや」と結ばれており、

この書記官のしたたかさ、機転と用心深さを称賛し、笑い話だけに留めることなく

教訓へと結びつけたところで話が終わっている。

一方の宇治拾遺物語では、巻一第十五話の「大童子鮭盗みたる事」という話を見てゆこう。

大童子が鮭を盗み、それを咎めた男と町中で口論になって、

互いに互いが盗んだと主張したものだから、男が真っ裸になって無実を証明する。

着物を脱げと言われた大童子は拒否するが、無理矢理に着物を脱がされると、

その腰には盗んだ鮭が隠されていた。

そこで大童子が「こがやうに裸になしてあさらんには、いかなる女御、后なりとも、

腰に鮭の一二尺なきやうはありなんや」と苦し紛れの駄洒落を言うと、

見物していた人たちが大爆笑した、として話が結ばれる。

そこには教訓はないし、政治も文化も人間の身分差もない。

ただ読む人を笑わせるためのエンターテインメントだ。

腰の鮭を、女性器の裂けと読み替えて、裸にすればどんな高貴な女性でも鮭ぐらい出てくる、

とこじつけているのである。

本当にこんな騒動や駄洒落があったとは思えないほど、

面白さだけが誇張された話に思われて仕方がない。

鮭と裂けの駄洒落を思いついた人が、駄洒落を言いたいがために

この話を作って語ったのではないだろうか。

懐に鮭を隠す大童子も不自然だし、町中で着物を脱ぐ人も不自然だ。

あまりによく出来過ぎた駄洒落だから、現実の騒動の記録ではなく、

市井で流行していた下品な駄洒落を記録したものだと思えてしまう。

他の例を挙げれば、巻一第十四話「小藤太聟におどされたる事」では、

小藤太という羽ぶりのよい侍が、雨で出かけられない娘婿の退屈を紛らわそうとした話がある。

酒と肴を持って部屋を訪れたのはよいが、娘が帰って来たと勘違いした婿が、

夜着をかぶり下半身を丸出しにして出迎えたので、小藤太は驚きのあまり転倒して頭を打ち、

のびてしまったという話だ。

単純に面白い。愉快に笑って、また次の話を期待しながら読みたくなる気持ちになる。

ただ、この話のどこにどういう教訓を見つけたらよいのだろう。

巻一第十二話の「児の掻餅するに空寝したる事」は、空寝した比叡山延暦寺の小僧の話だ。

ぼた餅が出来上がり周りの僧たちから一度は起きろと言われたものの、

小僧は意地を張ってもう一度声をかけられるまで待とうとした。

小僧の空寝を知っている大人の僧たちが

「や、なおこしたてまつりそ。おさなき人はね入り給ひにけり」と言って

わざと声をかけないでいると、

ぼた餅を食べたくて我慢できなくなった小僧が、時間を空けて「えい」と返事をしたものだから、

「僧達わらふ事かぎりなし」という結末になっている。

これも面白い。

何しろ子供のすることだから、叱るとか真似するなどの教訓にはつながらないが、

やはり読んでいると単純に面白い話なのだ。

宇治拾遺物語の笑い話はどれも面白い。それも実に面白い。

純粋に腹を抱えて笑うことができるし、誰にでも分かる共通の面白さがある。

疑ってみれば、どれもそれが実話だとは思えないほど、上手に出来上がっている笑い話である。

実話かどうかでは問題ではないし、教訓がなくていいと、著者が思っていたのではないか。

現実の出来事だけでは満足な面白い話にできないから、

そこに若干の加工をすることで、より面白い話を作り上げようとしたのではないか。

今昔物語集の笑い話も面白いのだが、その奥に待っているものは教訓であって、

話全体を単純な笑いが支配しているというわけではない。

一方の宇治拾遺物語の笑い話は、後先を考えることなく、

笑う瞬間の面白さだけを楽しむことができるような話の構成になっているのが対照的だ。

『宇治拾遺物語』の性的な話題が『古今著聞集』などに比べれば明らかなように、

決して陰湿ではなく、おおらかな笑いに包まれていると言われるが、

「大童子鮭盗みたる事」や「小藤太聟におどされたる事」に確かなように、

性に関する話が宇治拾遺物語では明るく書かれている。

教訓じみたものを最後に据える今昔物語集にも、巻二十五第二十五話の

「弾正弼源顕定、摩羅を出して咲わるる語」のように性に関する笑い話がある。

実際に笑いを取ったものの、話の最後には「されば、人、折節知らぬ由なき戯れは

すまじき事なりとなむ、語り伝へたるとや」と結ばれているのだ。

今昔物語集では性を笑いにするどころの話ではなく、最後は逆にそれが失敗した原因だとして、

性に否定的な教訓になってしまっているのだ。

こうしてみると両説話集では、先の醜い話での仮説と正反対のものが浮かび上がってくるではないか。

醜い話においては、教訓がなく、単純に醜さだけの話が今昔物語集だ。

教訓があって、単純ではない話が宇治拾遺物語だ。

笑い話においては、教訓があって、単純ではない笑いが今昔物語集だ。

教訓がなく、単純な笑いがあるのが宇治拾遺物語だ。

この通り、醜い話と笑い話を並べてみたところ両説話の内容が逆転していることが分かる。

これは何故だろう。

そもそも今昔物語集では、教訓を伝えたり、笑わせたりすること自体が目的ではないのではないか。

世の中をありのままに映し出すことをした結果、それが偶然か必然か、

最後には教訓や笑いにつながっているのではないか。

宇治拾遺物語では、教訓を伝えることや笑いをとること自体が目的ではないか。

その本来の目的を達成するために構成された内容であるから、

最終的に醜い話で教訓を伝えて、笑い話で笑いを取らなくては話が成立しないのではないか。

こうして、それぞれの目的が違っているという内因が、

説話の構成上の違いという外因に表れているという考えにたどりつくことができる。

先行する指摘では、柳田国男が『笑いの本願』で書いた

「今昔物語集は笑わせる文学で、宇治拾遺物語は笑ってやりましょう文学」

という考え方があるが、私は若干の修正を加えさせていただきたい。

すなわち、「今昔物語集は真顔で笑って教訓を得よう文学で、

宇治拾遺物語はみんなで笑って楽しもう文学」というのが私の意見である。

今昔物語集は「笑わせる文学」ではあるのが、

読者を笑わせることを主として書かれたものとは思えない。

誰を笑わせるか、それは何故笑わせたいのかと解析してゆくと、

その話を読んだ読者を自然に笑わせて楽しませたところで、

最後に教訓を持ってきがちな今昔物語集であるから、笑いと教訓という二つの目的を

「笑わせる文学」の一言で説明できないように思える。

笑わせるだけならば教訓はいらない。

これが「真顔で笑って教訓を得よう文学」と私が命名した理由だ。

宇治拾遺物語は「笑ってやりましょう文学」ではあるのだが、

これも何故笑ってやりましょうなのかと解析してゆくと、

それは楽しみたいから笑ってやりましょう、ということになる。

笑ってやりましょうの意味は、元々笑ってもらうための説話内容に作り込みをしたから

笑ってやりましょうということなるのだが、やはり何故笑ってやりましょうなのか、

笑う目的を明確にしたい。

「笑ってやりましょう文学」の言葉でほぼ言い足りていると思うが、

より噛み砕いた言葉にして「みんなで笑って楽しもう文学」と名付けてみた。

『宇治拾遺物語』の方がはるかに詳しく、物語の作り方が丁寧であり、

一般的に内容をより細かく描写していると言われるが、それは結論を教訓や笑いという

明確なものに持ってゆくための伏線として考えてみることにしよう。

今昔物語集では人間の行動そのものを見せることが目的だから、

細かい説明を補う必要性はなく、ただ現実のままを書けばよいのである。

現実描写の細かさはあっても、それはまぎれない現実を伝えるために必要な時に

描写が細かくなるだけのことだ。

宇治拾遺物語の「三条中納言の水飯の事」では、ダイエット中の三条中納言が食べているものを

「ほしうりを三きり計くひきりて、五、六ばかりまゐりぬ。

次に、鮎を二きり計に食ひ切りて、五、六計やすらかにまゐりぬ。

次に水飯を引きよせて、二たび計はしをまほし給ふとみる程に、おものみなうせぬ。

『又』とてさし給はす」というように、何をどれだけ食べたかということを具体的に書いているが、

それは細かく書くことで「確かに水飯を食べたが、他のものを食べ過ぎているので

ダイエットにはなっていません」という最後の笑いにつなげようという意図があるからである。

同じ食事風景でも今昔物語集の「鎮西の餌取の法師、往生せる語」では

「この持て来たる物共を食するを見れば、牛・馬の肉也けり」と、

ごく最低限の言葉で終わらせている。肉食をする法師の話とはいえ、

食事内容の部分が教訓の趣旨とは無関係であったからである。

一般的に大衆に受け入れやすいのは、

現実のままの姿から読者向けに加工されている宇治拾遺物語であろう。

現実のままを映し出している今昔物語集は、生々し過ぎて時としてつまらなく、

一般的には受け入れがたいところがある。

しかし、悪行篇など、『今昔』本来の趣旨からいえば番外の物語のほうが、

仏教説話や名人譚などよりはるかに生き生きしているという意見もある。

人の醜い欲望が隠すところなく表れているのが悪行であるのだから、

ありのままの姿を語ることが今昔物語集の意図だと考えれば、

悪行などは事実記録の格好の材料である。

著者も一層の興味関心をもって書くことができたため、

そこに生き生きとした文章が生まれたのではないか。

説話における一方の境地は知恵という美しい話、笑い話であろう。

その対極にあるのが醜い話であって、人間の醜い姿そのものが映し出されているから、

今昔物語集の著者には魅力的に映ったのも頷くことができる。

説話が書かれた時代は、貴族・皇族から武士へと支配者階級が移ってゆく過渡期であった。

それは藤原氏の摂関政治や天皇たちの院政を経て、

実に二世紀もの時代をかけて緩やかに移行していったものである。

民衆にとって個人の力では逃れられない大きな流れが世の中には存在しており、

そこから救ってくれるのが浄土往生という仏教への信仰である、ということが古い価値観であった。

しかしそうした価値観にも徐々に限界を感じてきていた民衆は、

権力者の横暴から個人の英知によって逃れられることを知り始めていた。

これら説話集からは古代的な律令法や価値観の終焉と中世的な価値観の成立の狭間にあり、

権力への服従と個人の生命力の間で悩みつつある民衆の姿を見て取ることができる。

それはまだまだ遠くからの足音とはいえ、東国武士が活躍する力強い様に顕著だ。

宮廷女房たちが作った非現実の王朝物語にはない人間臭い話が説話集には収められている。

それも今昔物語では日本全国だけにとどまらず、舞台は天竺から震旦まで、

登場人物も神仏・天皇から盗賊・妖怪まで、笑い話から醜い話まで、

説話集は人間の生存環境を一通り網羅するほど、広い世界を題材として取り扱っているのである。

夢幻の物語から、現実に即した説話へ。

説話集の視点は、あくまで民衆から現実社会を見たものが中心である。

先の醜い話と笑い話の逆転現象を解く鍵として、

誰に読んでもらうための説話集かという切り口で紐解いてみることにしよう。

今昔物語集には読者という考え方はないとされる。

十二世紀頃の成立から、誰にも読まれることなく保管され、

江戸時代中期の亨保五年(1720)に井沢長秀によって「考訂今昔物語」が

一般大衆向けに開放されるまで、六百年間も一部の関係者だけに

秘められていた説話集なのである。

それが自分のためだけの説話集とすれば、

他人に分かりやすくするための説明を加える必要性はない。

だからこそ笑い話を一人笑いだけに留めることなく教訓を求め、

醜い話には事実記録のために徹底した現実描写を、

今昔物語集の著者が追及するようになったのではないか。

基本的には自分だけが分かる内容であれば良かったのが今昔物語集であろう。

自分が分かっているから細かい状況描写などは最小限に留め、

ただ醜い現実の把握と、一人で笑うのではなく笑いの先に教訓を求めようとして、

今昔物語集は説話を書きあげられていったのだ。

ことのなりゆきを徹底して追求し、ついに究明しえずに断念した絶望的な結果の言明、

不信の表明が今昔物語集と言われる。

千話を書き重ねていった結果、最後の答えが出ることはなく自己矛盾に陥り、

ついには未完のまま終焉を迎える。自問自答の今昔物語集だからこそ、

最終話がないのは自然ではないか。

序文に「世の人、これを興じ見る」とあるように、

宇治拾遺物語は明らかに多くの人々に読ませることを前提として書かれた物語である。

醜いものにはフタをしながら教訓を入れることで読みやすいものを作り上げた。

笑い話には誰でも何を考えずに笑うことができる単純な話を目指した。

「いろいろおもしろいことを語って読者の気をそそっては、最後は何がいいたいのかわからない、

読者を煙に巻いてしまうような語り口なり表現が非常に多いので、

『宇治拾遺物語』はまさに狂惑を方法とした作品であるし、

『宇治拾遺物語』はむしろ最初から行方を追わない。

おぼめかし、あいまいな内にことを溶暗させてしまうとも言われるが、そこに迷いはない。

なにしろ読者に読んでもらうこと自体が目的だから、書くべき話が尽きたら

そこが最終話になりうる性質の説話集である。

柳田国男は『鳴滸の文学』で「笑ひは群で楽しむ場合が最も効果が多く、

それを成し遂げるのは文学の力である」と書いたが、この点でも今昔物語集より

宇治拾遺物語の方がより笑いの効果を持っている。

読者を想定して書かれていれば、それは群で楽しむということにつながるからだ。

今昔物語集では読者があることをそもそも想定しておらず、

宇治拾遺物語では読者ありきの文学を作った。

著者が何のために書き、読者にどう読ませたかったか、という意思の違いが、

両説話集の性質の違いを説明する鍵となる。

今昔物語集の名前の由来となった「今は昔」「となむ語り伝へたるとや」という

最初と最後の定型の書き方は、

自らの語りこそ唯一正統な伝承である保証を得る方法であったことから採られたのであろう。

はっきりと言いたいことも書いてあるはずなのに、著者と限られた周囲の人たちにだけ

分かればよいはずの今昔物語集だが、そこでこの最初と最後の決まり文句を常用することで、

本来自分が言いたかったはずの今の言葉が、あたかも昔から伝承されてきた

一般的な既成事実と同化して、うやむやになってしまうことには違和感がある。

しかし書かれていることはおよそ伝承とは言い切れないことも多々あるから、

定型踏襲という口語りの伝承を擬装することによって、語りの主体を確立し、

書くことの自由を得、伝承そのものから解放されたと考えることもできる。

また、即ち、今昔物語集は自己の語りを正当化するために過去を仮構し

対象化しているというように、今昔物語集は伝承を隠れ蓑として利用していると解釈できる。

一見すると妙なところで説話を書き上げた責任をよそに転嫁して、

著者が自分の存在を隠そうとしているようにも思える。

そこには紫式部はつくり物語のそらごとゆえに、

地獄の苦患のなかにあると言われていたような事情があった。

そらごと・虚構を通して、この世にある人の有様の真実を追求するのがつくり物語であって、

院政期の人々はつくり物語を否定的に捉えているという価値観が存在していた。

「今は昔」「となむ語り伝へたるとや」で入口と出口を統一した今昔物語集は、

全話が実話であって、決してつくり物語ではない、という主張と捉えることができる。

醜い世の中はありのまま書き残してしまおう、つくり物語のように虚構を書いても

地獄に落ちて苦しむだけだ。

笑いは笑いで楽しむが、それだけではなく今を生きている我々がその笑いから

どんな生きる教訓を得ているのか、それを中心にして世の中を記録しよう。

今昔物語集のこんな編纂意図を、私はそこから感じ取る。

一方の宇治拾遺物語では、今昔物語集ほど「今は昔」が形式化していない。

「今は昔」「昔」「これも今は昔の話」「これも昔」といういくつかの形式を取っている。

今昔物語集の後の時代に書かれ、今昔物語集と同じ話も納めている宇治拾遺物語であるから、

今昔物語集の意図的な統一を知らないわけがない。

今昔物語集の形式をある程度は踏襲しながら、

しかし決して完全には統一しなかったのはまた示唆的な点である。

宇治拾遺物語では、自分が行っているのが事実の記録だけではないことを

はっきり意識していたし、それを読者にも理解させようとしていたからではないか。

それは先に述べたように笑いを純粋に楽しむ説話集、醜い世の中を生き延びる教訓を得る、

という実践的なものを取り入れた説話集にしようとする編纂意図があったからこそではないか。

宇治拾遺物語の序文には気になる一文がある。

「五月より八月までは平等院一切経蔵の南の山ぎはに、南泉房といふ所にこまりゐられけり」

「もとどりをゆひわげてをかしげなる姿にて、むしろを板にしきて、すずみゐはべりて、

大なる打輪をもてあふがせなどして、往来の者、上中下をいはずよびあつめ、

昔物語をせさせて、我は内にそひふして、かたるにしたがひておほきなる双紙にかかれけり」

と序文に書かれている。

避暑地・宇治にある貴族の別荘で、寝そべりながら話を聞いて書き込んでいった書物だとは

信じることができないのは、宇治拾遺物語の内容が完成されているからである。

この序文が言いたったことは、そのぐらいのんびりした雰囲気で書いたので、

決して固く読まないで欲しい、という著者の意図ではないか。

ましてや「我は内にそひふして」とあるのだから、著者の源隆国本人は

話し手と直接面と向かって話を聞いたのではないと捉えることができる。

簾越しに聞くか、あるいは間に誰かを挟んだことになる。

しかし、そんな間接的なやりとりでこれだけの説話集が書けるとは誰も思わないだろう。

どこかの寺院で、とある著者が、常人離れした根気を持って

千数十話という膨大な説話を書き上げた、ストイックなものが今昔物語集である。

肩肘張ることなくリラックスしながら書かれた 宇治拾遺物語との書かれ方の違いに、

両説話集の性格の違いの一端を見ることができる。

今昔物語集に序文が残されていないのは残念だが、それは偶然だろうか。

推測が許されるのならば、序文というもの自体が今昔物語集になくて、

それは読者を想定せず自分のためだけの説話集であったから、他人に前提となる状況を

理解させるための序文というものを書く必要性がなかったからではないか。

横暴な権力者の気まぐれで自分がいつ危険な目に合うかもしれない。

今日の笑いは楽しいものの、明日は笑っていられるか、

あるいは本当に明日も無事に生きていられるかすら民衆が信じられない時代であったのだ。

そんな時代に生きた人々にとり、現実の姿をありのままで残し、

生きる知恵として教訓を考えるのは自分の生きた証を刻む術であったのだろう。

今昔物語集にはこうした人々の必死の思いが込められている。

自分の命はいつ終わりを迎えるか分からないが、そうなった時でも自分が書き残した説話集は

自分が生きた記録として永遠の命を持ってゆくのだ。

自分と読み手たちがそこにいる場だけ楽しめればいいエンターテインメント性を含みつつ

書かれた宇治拾遺物語との決定的な違いがそこにある。

芥川龍之介は「今昔物語について」の中で、今昔物語集を「野生brutalityの美しさ」と評した。

荒削りで洗練されていない生の話のくせに、そこが妙に美しい。

生きようとする人々の真剣な思いを話中から読み取って「野生の美しさ」と表現した

芥川の評価には多いに共感できる。

こうして今昔物語集を読み解いてみると、美醜同居の美しさという表現が私には浮かび上がってくる。

美しいものは美しい。

それに加えて、つくり物語との決定的な違いである、

醜い人間の姿までもが含まれている点において、そしてそれを宇治拾遺物語と比べて

あからさまに書きあげているところに、今昔物語集の特性を見る。

醜いものも美しいのが、今昔物語集なのである。

今昔物語集は読み手のために書かれたものではなく、現実社会の正確な記録として、

またそこから教訓を得て生きてゆく人たちの力強い様を描いたものである。

こういった特有の世界観を持ちながら書かれた説話集が今昔物語集なのであると、

宇治拾遺物語との醜い話と笑い話の内容比較を通して説明することができる。







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