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密教美術、遣唐使が唐の長安から持ち帰った文化が和様化

投稿日:2010年1月28日 更新日:




外国から異なる文化を取り入れ、未知のものと自国に既存のものを混ぜ合わせることで

自国の文化発展につなげる、というのは世界中で行われていた営みであったが、

それを当時最も盛んに行っていたのが唐の長安。

シルクロードを経て流れてきた胡風と呼ばれるペルシア文化やササン朝工芸が

長安では流行していたが、他にも宗教は中国古来の道教に加え

インドの仏教(密教)・イスラム教・景教(キリスト教の一派)などが伝わっており、

東アジアにおける最大の国際都市であった長安にはユーラシアや東アジアの周辺国は

留学生や留学僧を唐に派遣し、文化の吸収を図った。

その中で日本も遣唐使という形で人を長安に派遣していた。

遣唐使が日本に持ち帰ってきた文化は数多いが、

その中で入唐僧の弘法大師空海が広めた密教文化が後の日本美術史に与えた影響は大きい。

音楽や舞踏・文字・建築などの密教芸術もそうだが、

絵画と彫刻という密教の造形美術は既存の日本美術に刺激を与え、後の日本美術に大きな影響を及ぼしている。

密教という宗教は五感を中心とする人間の生の感覚表現を禁欲的に否定するのではなく、

そのボルテージを高めていく方向をとり、神が現実の姿として目の前にいない神道に較べれば

より身近で具体的な宗教であり、それまで封じ込めがちであった感性を開放するものという意味で斬新なもの。

インドのヤクシー像のように女性の豊満な肉体を官能的に、

そして写実的に表現する密教彫刻(東寺)や立体的で色彩豊かな

西院の両界曼荼羅のような密教の宗教画は、奈良時代までの日本美術にはないものだったし、

経典に定められた宗教世界を現実のものとして描き出す、というそれまでにない美術創作ルールを伝えることになった。

無論それ以前の日本にも独自の神々の世界があり、関連する美術文化があった。

異質の宗教が入り込んでくると、血みどろの闘争をして、立ち直ることができないほど、

相手を破壊しつくしてしまうものが通常であるが、

日本社会は密教を敵対視することなく上手に取り込んでいった。

かたちのない神々よりも、より具体的で刺激の強い仏像を求めてゆき、

仏像を身近なものとして認識するほうを社会は優先したのだ。

身近なものになると次第に密教は世俗化されてゆき、そこに仏像彫刻の需要が生まれる。

当然インドや唐から持ってきたそのままの形ではなく、日本なりに宗教も変容してゆく。

次第に密教の変化は「和様化」されるという道をたどることになる。

外国文化を取り入れつつも、彫刻家たちが持っていた奈良時代からの感覚と技が密教彫刻に活かされ、

独自の色を密教彫刻に重ねてゆくようになった。

密教仏像は元々石の文化としてインドでは誕生したが、

日本では中国からもたらされた檀像彫刻や日本の山岳信仰の影響があり木が主流になる。

それは木の持つ生命力を日本人は愛したからだろう。

遣唐使の終焉、唐の滅亡とともに大陸からの影響は薄れたが、かな文字や和歌、

大和絵など元々は唐からきた文化が「和様文化」として確立されていった藤原時代に、

仏像彫刻も日本人が昔から好んだ穏やかで繊細なものに同化されてゆき、

密教美術もまた、あたかも日本固有のもののように形を変えてゆく。

遣唐使中止以降、次第に密教本来の派手さや難解さは色を薄め、

日本人にとってもっとも身近な、平明な境地に置き換えられたのである。

京都で栄えた和歌の世界により近いものになって変容してゆく。

それは自然な文化の融合というものであろう。

密教文化が和様に変化したものの代表作として、平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像がある。

題材の阿弥陀如来は密教の五大明王の一人であるが、

鳳凰堂の阿弥陀如来の風貌はふっくらとした美人系の顔立ちであって、見るからに優しさが漂う。

衣の文線のゆるやかな流れ、わずかに背中を丸めて胸を引いた自然体な佇まいにも優雅さがあり、

このような洗練された仏像こそが藤原貴族たちに求められていたものであろう。

貴族らは寺院を一種の別荘のように考えていたのであって、彫刻は装飾品の一部としての位置づけをされる傾向にあった。

坐像の周囲には極楽浄土の世界がパノラマのように飾られている。

密教の難解な教義に興味を示さなかった平安貴族たちが求めたのはもっと簡単な、

極言すれば手を合わせるだけで救われるという都合の良い宗教であった。

こうして要求されるものが変わってくる中で、仏像は見るからに恐ろしい姿形をしたものではなく、

いかにもありがたそうなものが主流になり、

次第に表情もまるでインド風のエキゾチックなものから日本人のように穏やかものに変わってくる。

定朝の作り上げたこの阿弥陀如来坐像こそが和様仏像の典型、

「定朝様」として日本の彫刻美術に新しいスタンダードを確立した。

マイナスの面をあげれば、この和様によって本来の彫刻にあるべき

立体的に彫り込むことが軽視され、まるで絵に描いたように平面なものになった。

密教の高度な精神世界の中の阿弥陀如来としてではなく、ただ単に救われるために

手を合わせる対象としての仏像になり、宗教の精神面は衰退していったのである。

こうして藤原時代に和様仏像の古典様式が確立されていった。

大半日本人がいかにも好む優美で優しい仏像こそが、

最終的に遣唐使が持ち帰った密教から発展していった日本美術の到達点なのだ。







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