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三島由紀夫「仮面の告白」、兵役逃れを同性愛者という仮面で逸らす

投稿日:2010年1月28日 更新日:




三島由紀夫は『仮面の告白』を通して自分の再生を試みた。

作品中の「私」が三島由紀夫自身であるのは言うまでもないが

この「私」は巧妙に「仮面」を被ることで俗世間からの視線を逸らしつつ、

その「仮面」の裏で本音を暴露するというやや歪んだ方法を取っている。

多分に痛々しさの残る表現の仕方ではないか。

自分が同性愛者であり、異性には性的興奮を覚えないと「告白」する「私」だが、

三島自身のK子嬢との恋愛のことを知れば三島自身は同性愛者ではないことは分かる。

しかし、それは沢山の情報が入ってくる現代だから分かることである。

作品発表当時にそのようなことは分かるはずがないのであり、

そう考えると世間から同性愛者呼ばわりの汚名を塗ってまでその裏で何を三島は「告白」しようとしたのか。

入隊検査時に仮病を使って兵役逃れしたことと、

戦時中交際していた女性が「私の逡巡から」他家の妻となってしまったことが、三島の「恥部」である。

このことは三島個人の問題であって、現代でも共通する話でもあり、

彼の生きた時代とは関係のないように見えるが、戦時中という窮屈な時代を考えれば無関係ではない。

兵役逃れは戦時中の日本国民にとっては恥じるべき行動である。

ましてや、少年時代から神風特攻隊の英雄的で

壮絶な死に様を賛美していた三島にとっては自分自身を裏切る行為であったのだ。

K子嬢との婚約に腹を決めなかったことも、

まだ若かった年齢や戦争という混乱期において

自分に自信が持てなかったことからくるものであった。

これによってどれだけ三島が傷付き、後悔したのか、

それは三島の「その後の数年の、私の生活の荒涼たる空白感は、

今思い出しても、ゾッとせずにはいられない」という言葉でも想像できるところである。

絶望の底に落ちた自分を復活させるために三島は小説を書かなくてはならなかった。

もちろん、それは自分の一番の後悔である兵役逃れとK子嬢のことを書かずにして完成できない。

だが、三島には事実をそのまま書くには警戒すべきことがあった。

戦時中のモラルに背いてしまったことを暴露しては社会を敵に回してしまう。

K子嬢とのことを書こうとすればそれも事実を事実のままに書くしか方法がない。

両方をそのまま書けば時代の前に吹き飛ばされてしまう。

それでは自分が益々傷つくだけで何の解決にもならない。

その局面で三島は同性愛者の「仮面」を被るというギリギリの選択をした。

三島が自分自身に決着をつけようとし、

その反面で社会への繕いを模索したことを考えれば、この結論には痛ましいばかりである。

小説の中で自分が同性愛者という既成事実を植えつけてしまい、

その「仮面」のもとで自分の過去をはぐらかし、なんとか自分のことを肯定しようとしたのである。

自分の決定的な過ちを、他人から指摘される前に、自分で曲げた形で世間に公表し、

「人生に対する一種の先取特権を確保」したのだ。

作家として自分自身の体験や傷を小説に書き込むのは当然のことであり、

それはどの時代でもあることである。

しかし、若き日の三島が自分自身に向き合うことと平行して、

戦争という時代に言い訳しなくてはならなかったことの必要性を考えると、

彼の取った同性愛者という「仮面」はまさにギリギリの選択であった。

この作品を通して、板ばさみにあった若き日の三島の重い苦悩が伝わってくるようである。







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