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石川淳「佳人・普賢」葛藤と混乱する叙述、戦争という時代

投稿日:2010年1月28日 更新日:




どうしてこんなに混乱しているのだろう。

石川淳自身がこの『佳人』を決して「小説」と決して呼ばずに「叙述」と言い続けたことも、

その整理されているようでされていない処女作を通読することで理解することができる。

「作家の生活が地上の幸福と折合がつく性質のものではない」と考えている著者は

戦争遂行体制という非常の現実世界と、自身の日常生活や作家としての苦悩との狭間で

葛藤を続けていたのであり、石川淳の面白さは、目下のところおそらくは作者の意図する

本来の小説概念に反して、描き出された作品世界の作者から

独立した発展と示現にあるのではなく、むしろ描き出す作者の手つきそのものにあり、

石川が独自に見つけようとしたこの「自脱の方法」こそが

この『佳人』を生み出した土壌であり、氏の創作理由の根底を成すものであろう。

その混乱の意識の一端を、ユラとミサに対する「わたし」の性欲に見ることができる。

いつも側にいるユラへのマンネリがあり、浜村との秘密の一夜での「色っぽいみずみずしい」ユラを感じるシーンがある。

そのユラの姉であり、性欲など感じてはいけないはずの存在であるミサに対して

三味線をひく指に美を感じたり、ついには性欲を露にして抱き締めてしまう。

これらはごく当たり前の生活のシーンである。

夫婦間のマンネリや、たまに顔を合わす女に一時の新鮮さを感じることは日常のどこにでもある場面であろう。

しかし石川はそういったシーンを物語の「臍」と呼んでもいいような大きな場面に持ってきているのである。

作家は全体の諸要素を意識化出来ないという簡単な事実故という理解が正しいと思うが、

無意識の内にか著者の現実への絶望や屈辱的な出発点が具体化されているのが、この性欲の話なのだろうとわたしには思われる。

文学の理解にはその時代背景を無視しては不十分であり、

『佳人』にも「理想の喪失」と「空虚」という文学人としての石川の時代への抵抗がある。

その政治権力に対しての不満を日常生活の舞台に置き換え、二人の女への性欲を通して苦悩を作中に見ることができる。

石川が作家として書こうとしたテーマである「精神の努力」の痕は話の終わりにではなく、

文章の途中に幾つも流れていて、「わたし」の混乱を引き立てている。

時代を背景に社会への憤りを文章に込めて発信されるのが本来の文学の意味であり、

この『佳人』には石川が「習作」を書いて過ごした自らの「空虚」で厳しい時代で

見出した生活の中の非妥協が描かれている。

そのことを考えると、この『佳人』という作品もその混乱の時代と激しく闘っている

非妥協的な作家の過程がそのまま映し出されているものであり、

「小説」と呼ぶかどうかを不問にしたとしても、文学本来の価値が見えてくる。

『普賢』になると、この混乱と失望がより複雑なものになってゆく。

「自分にとって何が必要であり不必要であるかはっきり判ろうすべのない点が問題である」

とある通り、自分が何に対して混乱しているのかが分からないという結論にたどり着くことで、

『佳人』より一歩突っ込んだ心理を窺うことができる。

『佳人』では「わたし」が語り続けることで心情が顕にしていたが、

この作品では庵文蔵という親友でありライバルである人物を登場させたことで、

「わたし」とは違う見解からも「ことば」を通して理想を闘わすようになっている。

作中で話題はジャンヌ・ダルクやクリスティヌ・ド・ピザンから寒山拾得や文殊普賢まで広がりをみせる。

これは石川の教養の深さからくるものだが、これが石川自身、

ひいては当時の文明人たちの理想の高さを指し示すようにも思えてくるのではないか。

世を憂う気持ちは誰にでもあるものだが、文明人たちにとっては尚更であろう。

しかし戦争という時代に阻まれ、理想は理想のままで陽を見ることも叶わず、

かといって世に埋もれることにも妥協できないという不平不満がこの作品でも顕著であり、

それは酒・博打・浮気とおよそ有益とは思えない行動ばかりをする端役の登場人物たちに

投影されているのではないだろうか。

理想を高く掲げ、世をなんとか変えたいと思いつつも

時代に背を向けられた文明人たちの姿をそこに垣間見ることができる。

そんな中で最終的に「わたし」が心の支えとするのは、遠い記憶の中に生きているユカリという女性像であり、

これが最後の心の砦ともいうべき支えなのだが、作者はそのユカリをも没落させて唯一の望みを断ち切ってしまい、

そのショックからか「わたし」は更には身勝手な行動ばかりをして友人さえも失ってしまう。

終いには「わたし」と似たような考えを持って現実と闘い続けていた

「わたし」の分身とでも言うべき文蔵の死を示唆し、「わたし」の現実世界をことごとく破滅させてしまう。

そんな中で「わたし」がもがき、最後にたどり着くのは文学への望み、わずかな希望である。

時代に恵まれずとも「ことば」を「普賢菩薩」として心に抱く、

そういった文明人のあるがままの姿を小説として顕著に書き出すものとして、この『普賢』は文学としての意味を持つのである。







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