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東西冷戦とソ連解体 米ソ・超大国同士の覇権争いの結末

投稿日:2010年1月28日 更新日:




それ以前にも前兆はあったにせよ、東西冷戦は1947年のモスクワ外相理事会から始まったと見てよいだろう。

ソ連が西ドイツからも戦争賠償の利益を享受しようとしたことを見て、アメリカはソ連との共存交渉を諦めた。

そして独自の西欧支援策であるマーシャルプランを打ち出すと、イギリス・フランスがアメリカに同調したのである。

大西洋同盟を結んだとはいえ、西欧諸国にとってはアメリカや西ドイツの軍事力がなければ

巨大な共産主義勢力の通常兵力の前では無力に等しかったのであり、

西欧諸国は安全保障を求めるためにアメリカの力を借りる必要があった。

マーシャルプランにソ連が賛同することはなく、アメリカに賛成する西側諸国と、

ソ連の政策に従おうとする東側諸国という対立が始まった。

米ソは中立国をなんとか自国の仲間にしようとして抱き込み政策を開始して冷戦が始まったのである。

米ソが当時、他を圧倒的に凌駕する軍事力、政治力を有していたがゆえにそれは避けることができない時代の流れであった。

当初の冷戦とは政治的な対立を基としていたが、

次第に軍事的な問題がからむようになり、問題は深刻さを増してゆくことになる。

ドイツ再軍備問題を契機として西欧諸国はアメリカと西ドイツの軍事力を

自分に引き止める工作を行い、NATOを成立させたことで西側諸国は一応の平和を実現させることができた。

そこにはヨーロッパが東と西に分断されるという条件はあったものの、

安定したな平和のためにあえて東西分断というマイナスも飲み込んだのである。

このことは東西を分けたドイツの鉄のカーテンの東側で、ソ連の影響力を増大させることを黙認した。

東側ではワルシャワ条約機構が結ばれ、東欧の協力体制が確立された。

ソ連のフルシチョフは西ベルリンから資本主義を追放しようとして西欧側の譲歩を求めるが、西欧側は譲らなかった。

こうして東西の冷戦対立ははっきりと目に見える形で現れていったのである。

キューバ危機以降に米ソの首脳が直接話し合う機会がもたれるようになったが、決定的な問題解決は見られない。

第二次世界大戦直後は米ソに加えてフランス・イギリスという4大国が

世界政治の中心であったが、この頃から超大国である米ソ二国間対立に変わっていった。

スエズ危機によってフランスとイギリスは国際的な発言力を後退させており、

アジアの植民地らが西欧支配から独立していったことも重なり、

自国だけの反映からヨーロッパ内統合の方向へと次第に舵を切っていったのだ。

長年の植民地支配によって「大英帝国」の地位に慣れていたイギリスでさえ、欧州諸国の中の、ただの一国になっていた。

一方でキューバ危機を契機として米ソの対立は加速してゆき、

核戦争までいきついてしまうかと懸念されたが、米ソ両国とも経済成長の行き詰まりから

SALT(戦略兵器制限交渉)などの軍縮や核縮小・核実験禁止という共通の目標に利益を見出すようになっていった。

この頃には核やコンピュータの分野で先行していたアメリカにソ連が追いつき、

軍事力での解決は核戦争しか残されていない、というところまで

両国の軍事力が対等になってきたことが、デタントにつながっていく理由であった。

一方でヨーロッパ内には別のデタントがおこる。

それはドイツを舞台に冷戦によるヨーロッパの東西分断を防ごうとする意識である。

1961年にベルリンの壁が建設されヨーロッパ分断がはっきりと出来上がっていたが、

西欧諸国はソ連の承諾の元で、東欧諸国と何とか関係改善をしようと考えていたのだ。

そのヨーロッパの意志は東西ドイツの境界線を巡って東欧側の妥協を生み出し、

条件付きではあるものの境界を越えた移動が次第に可能となり、貿易や資本の移動が発生していった。

ヘルシンキ会議を経てこの意識はヨーロッパとしての一体感を育てていこうとするものになったのである。

この点では米ソのデタントとも違う、ヨーロッパとして一帯感を保った上でのデタント、緊張緩和を目指した動きが特徴的である。

米ソは軍事的な緊張緩和の一方で、経済的な交流にも乗り出そうとしていたが、

その一方で民族自決を目指した民族解放運動が各地で起こり、そこにからむ米ソ両国の利害が複雑さを増大させていた。

ベトナムや朝鮮半島、中国大陸と台湾の地域などで米ソの利害を巻き込んで対立が発生していた。

中国や北朝鮮を取り込んでソ連は東アジアでの社会主義の地位を築いていたが、

フルシチョフがスターリン批判を行い、改革路線を進めていったことで

ソ連に対しての求心力は薄れてゆき、中国はソ連一辺倒の体制から次第に離れていった。

1950年後半から米ソ接近が進む一方で、東アジアの社会主義国は反米化をすすめ、

米国とその同盟国の日本と、アジアの社会主義諸国との対峙というアジア冷戦が形成されてしまう。

ベトナムの覇権をめぐって中ソ間の軍事衝突も起こるようになり、

ソ連離れをする中国は米国や日本との協調路線を取ってゆく。

欧州での影響力を弱めつつあったソ連は東アジアにシフトしてゆき、

再度中国と良好な関係を築くなど、東アジアは長い冷戦の過程で様々な紆余曲折を通っていった。

デタントを通してアメリカは世界全体の問題解決をソ連と共に進めることを期待していたのだが、

ソ連にとってデタントとは東欧支配を名実ともに確立するためのものにすぎなかった。

東アジアの例をとってみても、デタントは第三世界における

両超大国間の対抗関係を終わらせるのにも成功したわけではなかったのだ。

ソ連がアフガニスタンに侵攻したことによってデタントは停滞する。

ソ連の軍事行動に反抗してアメリカは対立路線をとり、冷戦が再来してしまう。

ソ連とのSALTの調印に成功をしてデタントに一安心し、

軍事強化を緩めていたアメリカの裏で、ソ連は軍事拡大を止めずミサイルの数がアメリカを上回るようになっていたのだ。

こうして米ソの冷戦が再緊張している中でも、東西ドイツでは

より自由な往来ができるようになるなど、欧州内では米ソとは別の路線を取り始めてゆく。

ソ連では経済改革と社会主義の建て直しを願うゴルバチョフの台頭によって

アフガニスタン侵攻は止まり、軍事費を経済改革に回すなどの変化がおきていた。

一方でヨーロッパ統合の動きは加速していた。

東欧社会でもポーランドやハンガリーなどで社会主義体制から脱却する動きが見え始めていたし、

ゴルバチョフのペレストロイカはそれを禁止するどころか、むしろそれらを促した。

そして東西冷戦の象徴であったベルリンの壁が崩壊したのを機に、東欧諸国でも自由化・民主化が進行していったのである。

この動きはソ連解体へとつながり、東西冷戦はこうして終焉を迎えたのである。







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