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アダム・スミスの自由貿易論 デヴィッド・リカードの比較優位

投稿日:2010年1月28日 更新日:




アダム・スミスの自由貿易論では、それぞれの国で経済活動する人間たちは

与えられた生活環境や才能の中で、最も優位性を持つ何かひとつに打ち込んで、

その道のスペシャリストとなることが労働の生産諸力における最大の改善につながる、という分業徹底が説かれている。

優位性を持つひとつの物事に集中することで生産性は上がるし、

専門性を促進することが新しい技術革新につながり、結果として国全体が富を享受することができる。

特化することによって国内の産業と雇用が充実して経済が活性化し、

そこでまだ余りある資源があるのであれば他国へ輸出するのが自然な貿易のあり方だとスミスは主張している。

海外市場を優先に考えるのではなく、あくまで重商主義的保護貿易政策によって

不当に外国貿易関連部面にふりむけられている資本を、

その本来向かうべき国内産業部面に引き戻すことをスミスは目的としているのだ。

この意味でスミスは積極的な貿易推進論者ではなく、むしろその逆だと言うことができよう。

重商主義的保護貿易では自国の利益を最大限に優先させるために

他国の利益と競合してしまうことがあり、敵対する可能性が秘められているからだ。

そうした側面のある貿易では国際的な平和にはつながらず、

継続的な事業にはならないことをスミスは知っていたのだろう。

対外貿易産業に資源や労働力をつぎ込むことの無駄を見て、

本来は国内のあらゆる農業・工業・商業を十分に満たした上で貿易に向けさせるべきだと考えていたのだ。

そういったことを踏まえた上で、国際貿易によって国の利益を増加させることを

主たる目的とはせずに、国内産業が充実したが故に

自然と零れ落ちるような余剰分の品物だけを出すことこそが

正当で不可避な貿易であって、その輸入物に関税をかけることは

公平な貿易に不必要な障害を発生させてしまうから望ましいものではない、とスミスは主張している。

しかしこれは理想を突き詰めた先の論であって、輸出によって利益を得ようと

進出してくる他国の企業に対してそれ以上の優位性を持つことができる国内産業は

生き残れたとしても、それ以上に優れているとは言えない国内産業は

国際競争に敗れて衰退してしまうことが避けられないために、

このスミスの自由貿易論は全面的には支持されなかった。

例えば将来の食糧不足を見越して国内の農産業に税金を投資してまで優遇し、

国内産業を保護することなどは優位性のある分野に特化するとした

アダム・スミスの論からは外れてしまうが、

長い目での国益を考えると正当性があるものである。

全ての国が同調して関税撤廃を行えばこのスミスの論も実現できるかもしれないが、

現実的には難しく、実際に18世紀ではイギリスだけが自由貿易を行ったものの、

他国では保護関税が導入されていた。

関税をかけることで自国内での産業を保護できるからである。

そして、保護関税をかけた19世紀のドイツでは国内産業の充実と

保護貿易による経済成長が遂げられているという結果も出ている。

こうして見るとスミスはあくまで国内産業の充実に重点を置いている。

利益優先の重商主義的保護貿易政策ではなく、まずは自国内で産業や物品売買を

完結できる循環型国家を目指し、余った先での自由貿易という理論を展開している。

彼の唱えた「見えざる手」は、人間は経済活動を通して無意識の内に

自国に発展をもたらしている、というものである。

まずは自分だけの利益を得ようと経済活動を成功させても、

その裏では自分を取り巻いている、より上層階のくくりである地域社会、

ひいては国をも無意識の内に豊かにさせていると言うのだ。

移動手段の発達によって生活の本拠を変えてゆきやすく、

人が場所を問わずに経済活動をし、かつ国民団結意識の薄くなっている現代では

この考え方はそのまま適用できないだろうが、

18世紀には十分に実現できた考え方なのだろう。

この自由貿易の論理に従い余剰分の品物を使って自由貿易を続けてゆけば、

次第に雇用も多くなって国の発展にも結びつくし、社会はますます良い循環につながってゆく。

それこそが事物の本源的状態であるとしたスミスの論は、利己心の性善説に基づいた自由放任主義なのである。

デヴィッド・リカードは「比較優位」という考え方を独自の自由貿易論の中で展開した。

リカードも経済活動を行う上では資源や技術などの面で

比較優位に立っている産業ひとつに各自が専念することが必要だ、とした点ではスミスと同じである。

しかしリカードの持論では、外国との貿易こそが互いを

「WIN-WIN」の関係にさせるものとして、率先的に自由貿易を行うことを主張している。

国によって物価が違えば、比較優位の物も価値が変わってくる。

例えば、同じ時間を使って同じワインひとつを作るにしても、

先進国では技術が進んでいることから後進国と比べて

多く量をつくることができるので「絶対優位」の立場にあると言える。

ただし、先進国では人件費や物価が高いことから製造コストは割高になるだろう。

一方で後進国では技術の乏しさから製造量こそ少ないとはいえ、

人件費や物価が安価なことから製造費用自体を安く抑えることができる。

これを「比較優位」と呼ぶことができるとリカードは説く。

安く製造したワインを他国に輸出し、自国では高い製造コストでしか作れない

別の品物と交換することで後進国にとってはメリットがあるし、

輸入した先進国側も安価で豊富な量のワインを享受することができ、

互いに「WIN-WIN」の関係に結びつく、というのがリカードの自由貿易論の図式だ。

「絶対優位」だけが優れているのではなく、「比較優位」こそが

本当に優位な自由貿易の形であるとリカードは説明している。

この考え方を応用すると、例えば会社で経理もできるし

営業もできる人がいたとしても、やはり本業一本にしぼって打ち込んだ方が、

結果として全社的にはうまく仕事が回るということであろう。

スミスと同じ様に、リカードも関税をかける必要性を認めていない。

農業にしても工業にしても自国内で生産できないということは、

いざ輸入物が途絶えたら危機に見舞われることに直結するが、

この自由貿易は「WIN-WIN」の関係に結びつくので、

突然破棄されることは相手の損害にもつながることから考えにくい、としているのだ。

リカードは自国・イギリスが領地の制限から自国民の食糧供給を

100%満たすことができない、という事実を認識していながらもこの論理を進めている。

スミスの論では自国の食糧供給が満足にできないことから貿易にまで手を出す。

このリカードの自由貿易論からすれば積極的な貿易によって発展し続けられるということになる。

興行に専念したイギリスも自由貿易による相互補充の中で国を豊かにできるのだ。

スミスもリカードも分業によって社会が豊かさを獲得できる、と考えている点では一致している。

大きく違うのはスミスがまずは国内を固めてから始めて余った分を貿易に回す、

としたところに対して、リカルドは最初から迷わず自由貿易に依存して国際分業すればよい、としたところである。

リカルドが自由貿易に期待するところは大きい。

自国内で物流しても1の品物は1の価値にしかならないが、

外国貿易では物価や価値の違いで1が2になることもあり、自国内だけで経済活動するのではなく

外国も含めて国際社会全体の普遍的な利益を追求している。

一方でスミスが期待しているのは、ついでに儲けてしまうことである。

あくまで自国内での充実が優先で、貿易とは余剰分の利益である

リカードの積極的な貿易とは反対に、消極的な貿易への期待である。

現代社会を見てみるとどちらの理論が採用されているのか。

現代の世界有数の優良企業・トヨタ自動車と照らし合わせてみると、

コストダウンと品質維持の観点からトヨタは3M(ムリ・ムラ・ムダ)削減活動を徹底し、

トヨタ生産方式という優れたやり方で自動車業界の世界一を掴んだ。

特化における改善はここで活きている。

収益確保の点ではトヨタは群を抜いているがこれは北米での利益が

全体の70%に当たるのであるから、リカードの比較優位に基づいた手法である。

とはいえ国内販売台数のシェアも日本一であるから

スミスのいう余剰分を海外にシフトする貿易ともとることができる。

現状の経済活動においてはリカードの利益を求める自由貿易論のほうが

広く採られており、「餅は餅屋」のグローバル版が世界経済の主流にはなっているが、

危機管理の観点や環境破壊によって将来的に避けられないだろう

水不足・食料不足を考えれば自国内で還元できるスミスの社会こそが大事になってくるのかもしれない。

つまり、どちらの理論が正解とも言えなく、複雑に絡み合ったのが現実社会なのであろう。







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