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安部公房 終りし道の標べに 感想レポート

投稿日:2010年1月27日 更新日:




安部公房の『終りし道の標べに』は、落ちるところまで落ちた人間が生還する様を描こうとした小説と感じた。

「私」が意識するのは遠い場所に捨ててきた「故郷」である。

どの時代でも自己を示す社会的要素は人の存在に不可欠なものであろう。

ましてや、戦争という時代の大きな波の中にある人が、家族はいなかったにしろ、

友人や会社という社会を捨て、「おまえ」との愛を捨て、

赤紙から逃げることで国家を捨て、一般的な世間というものから逃亡した。

「故郷」と別離した人間が満州という、本土から見れば別世界に違いない場所に逃走した時点からスタートするのである。

この故郷喪失の「私」の姿はただ単に故郷に絶望して悶々と悩むだけの姿に留まらない。

そこに何かを見出そうと絶望以上の行動を取り、故郷を拒絶さえしてしまうのである。

誰でも社会に不満を抱くのは当然であるが、公房の「私」はそれを越えて能動的に一歩踏み込んでいる。

加えて「私」は、自分自身をまっとうな一人の人間として見ようとしない。

「私」は草の芽に噛み付き、顔中で地面をこすったりする。

阿片に溺れて現実と幻覚の狭間を行ったり来たりする。

まるで自分自身が人間ではなく、「あたかも物自体のように存在をつづけている」(第一のノート)。

公房は主人公をここまでどん底に落とすことで、

一番底の視点から人間の存在と本質を再考しようとしたのではないか。

人は生まれた時から人として存在するが、その存在以前に人というものの本質が何なのか。

日常では考えることすら必要のないそのことを追求しようとしたのは

異色作家と呼ばれる公房らしい視点である。

この作品で三島の「仮面の告白」と似た使われ方をしているものを私は見つけた気がする。

「私」が飲む阿片が、故郷という「人間」世界と、逃亡先の満州という「物」世界との境を越えるための

「仮面」として利用されているのだ。

不自然な人間の深層部分を問い詰めようとする過程に

不自然さを出さないために阿片服毒という非日常をきっかけとさせている。

これは公房が世間に譲った妥協点であり、はぐらかしの方法ではないだろうか。

公房のこの人間への失望には、少なからずとも第一世界大戦の影響がある。

人間の愚かさを考え、人間への不信を抱いた人々、

特にヨーロッパの人々が人間の本質というものを考え直す活動を始めていた。

公房は戦後の作家たちの集まり「夜の会」を通してこの考え方に影響を強く受けた一人であり、

人間とは一体何者なのだという疑問を進化させて考えたところにこの『終りし道の標べに』の「私」がいる。

ただし、その安部公房の考えは「私はちゃんと知っている。ここにとどまっていることの恐るべき自己欺瞞を」

「そう、今なら分かる、私の逃走は、自己を占有するための実験だったらしい」(第二のノート)

という言葉の通り、最終的には同じ場所に戻ってきてしまう。

自分を物として「無意識」の奥の世界まで覗くとした結果が、

所詮は実験に終わったに過ぎず、やはり人間は物で終わる生物ではなく、

人間という動物として生きてゆくしかないのだ、という諦めにたどり着いた。

結局は自己確認に過ぎなかったのである。

「とどまりながら、しかも歩き続けなければならないという、こっけいな矛盾」(十三枚の紙に書かれた追録)

との言葉が示す通り、「故郷」を捨てて生きた場所には何も存在せず、

それ以上の進展がない以上、「私」は神にもなれず虚無でもなく、ただの人間でしかなかった。

人間だから昔と同じ場所に戻りつつ、「粘土」のように常に形態を変化させながら、

しかしどうにか人間の範疇をあがくしかない。

結局最後に「私」がたどりついたのは「終わった所から始めた旅に、終わりはない」という答えのない原点だったのだ。

戦後、新しい思想が飛び交う時代の中で、人間そのものを見つめようとした結果、

結局は同じ場所に戻ってきてしまった公房の虚無の深さが伝わってくる。

ただし、結果がどうあれ追求せずにいられなかった公房の心中を察すると人間の痛々しささえ感じられるではないか。







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