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奈良の大仏の大きさ、15mは聖武天皇の平和への願いの高さ

投稿日:2014年12月18日 更新日:




「奈良の大仏って、どうしてあんなに大きいの?」

大きさの理由を聞かれて、わたしは戸惑った。

「奈良の大仏の大きさは約15mです」って、いつもの仕事口調で答えるのは簡単だけど、

えっ、何故かって? 奈良の大仏の大きさの訳を知りたいってこと?

目の前の子たちの表情が真剣なのを見つけたからには、わたしは的確に答えてあげようと思った。

ちゃんと理由があって、あそこまで巨大化した奈良の大仏なのだから。

 

 

奈良の大仏の大きさ1.jpg

 

 

物事の不思議の理由を知りたがるのは自然なこと。

そうよね、奈良の大仏の大きさの理由なんて普通は見当もつかないよね。

「大きい方が目立って良いでしょ、分かりやすいし」っていうアメリカン風の

軽いノリであの大きさになっている奈良の大仏でもない。

そうだ、この子たちに奈良観光のお土産として、奈良の大仏の大きさの理由を持ち帰ってもらおう。

きっと学校内で広めてくれるし、いっそTwitterとかで拡散してくれないかな。

 

奈良の観光案内所でバイトをしているわたし、

奈良公園の観光マップをもらいにきた修学旅行生の子たちに聞かれて、こう答えてあげたよ。

「奈良の大仏の大きさは、

あの大仏を造った聖武天皇が平和を祈る心をひときわ強く高く持っていたから、

みんなにそれを伝えるために、あんなに大きな大仏を造ったの」

 

そう聞いた修学旅行生の子たちが「ほう、そういうこと?!」という表情をしてくれたのが、私には分かった。

 

 

日本の主な大仏さんたち

像高場所
京の大仏
 (1973年に焼失)
19m京都府・方広寺
奈良の大仏
 (東大寺盧舎那仏像)
15m奈良県・東大寺
岐阜の大仏
 (釈迦如来坐像)
13m岐阜県・正法寺
鎌倉の大仏
 (阿弥陀如来坐像)
11m神奈川県・高徳院
兵庫の大仏
 (1944年に軍物資として回収)
11m兵庫県・能福寺
東京の大仏
 (阿弥陀如来坐像)
 8m東京都・乗蓮寺
高岡の大仏
 (阿弥陀如来坐像)
 7m富山県・大佛寺

「その昔ね、今から1,200年以上前、西暦750年頃のお話になるけど、

奈良の大仏が造られた時代は病気や戦争が長く続いて、世の中が乱れていたの。

当時の天皇だった聖武天皇はそれをなんとかしたいと思っていてね、

お金があまり余裕なかったのに、強い意志を持って東大寺にこんなに大きいサイズの奈良の大仏を造った。

平和を願う気持ちを、多くの人たちにシンプルに分からせるには、

奈良の大仏が大きければ大きいほど伝わるって思ったのが理由

像の高さ14.98m
頭部 5.41m
目の長さ 1.02m
耳の長さ 2.54m
台座の高さ 3.05m

そう言いながら彼ら彼女らに渡した東大寺・奈良の大仏の紹介パンフレットにはこんな数字が書かれてある。

ちょっとピンとこない書き方かもしれないけど、

聖武天皇風にシンプルに言えば「奈良の大仏の大きさは15m」って覚えて欲しい。

奈良の大仏の大きさ2.jpg

 

「それと、もうひとつ覚えておいて。

奈良の大仏が今もこうして残っているのは、聖武天皇の思いを代々の日本人が理解して、

大事に引き継いできたってことね、それも1,200年間よ、1,200年」

それで説明を終えると、わたしはにっこりと微笑んだ。

口元のアルカイック・スマイルで幸福感を出したつもり。

「聖武天皇が平和を願った気持ちが、奈良の大仏を15mまで大きくしたんですね!

ありがとうございました!」

そう言うとみんなは笑顔を見せた。

良かったよ、わたし。端的に言うとそういうこと。

 

すると横にいた別の子が真面目な表情で話に入ってきた。

「天皇?そんな立派な名前が付いているのに、どうして聖武天皇さんは奈良の大仏の大きさでしか民衆を救ってあげられなかったのですか?」

無邪気な質問だと思った。そうだよね、日本のトップだったのに、税金を安くするとかどこかにお金を寄付するとか、国民が困っている時期だったら具体的な政策で救ってあげても良いのに。

 

「ちょっと難しい答えになるよ。例えば、新型コロナウイルスが流行した2020年、東日本大震災があった2011年、現代の国のトップである内閣総理大臣は特に困った人へのお金や物資を配ったり減税とかもしたけど、いくら国のトップでも全国民を救うことはできなくて、結局は何か神様仏様に願うこと、あとは国民にお願いすることしかできないの

夢を壊すようなお話になって悪い気持ちもするけど、この子に現実的なお話が伝わるかしら。まだ何も返事することなく、私のお話を黙って聞いている。

 

「だから聖武天皇と言っても、具体的にお米を配るとか税金を免除するとか、そういうことはできなかったのでしょうね。全国民に何かを伝えるためには何が良いかと聖武天皇なりに考えたら、せめて未来への明るい希望を見せること、それが奈良の大仏の大きさだったと私は思っているのよ」

男の子は半分ぐらいは分かったような表情。

「情けないと感じる?とにかく未来がどうなっていくのかの展望をみんなに見せるということも、トップの役割のひとつ。そういう意味では、技術が発達していなかった大昔だから、神様仏様に祈るということは大事。そこに超巨大な奈良の大仏様ができたら、全国民にとっては間違いなく明るい未来よ」

そこまで話すと、ようやく男の子も口を開いてくれた。

「いつもは近所の小さなお寺でお願い事しているのに、あの奈良の大仏の大きさの前でお願い事ができるって凄いね、僕だったらいっぱいお願いしちゃう」

隣の子たちとそんなことを話している。

「そうね、私もお願いごとをたくさん奈良の大仏様にするよ」

そんなことで丸めてこのお話もおしまいにした。

修学旅行生たちは奈良公園へと歩いて行った。

 

良い点を突いていると思ったの、この子たちは。

所詮、天皇であっても、それこそ神様仏様であっても、できるのは神仏頼みだし、天候を変えることも豊作を生み出すこともできない。

当時は住民管理していたとは思えないから給付は不可、減税するにも手作業だから凄い工数がかかるのでしょう。

新しい神仏頼みを作ること、その工事に多額の税金を使うことで世の中の景気を回す意味があったことぐらいは推測できる。

 

奈良の大仏 年表

743年聖武天皇が造ることを命じる
752年4,600億円相当かけて、奈良の大仏が完成
1180年焼失
1567年焼失
1958年国宝指定

長く話せば、奈良の大仏はハッピーなことばかりじゃない。

悲しい歴史の裏返しでもあるのが、奈良の大仏のこれまで。

それはわたしからの話ではなくて、奈良の大仏の実物を見た彼ら彼女らが

興味を持って、次は自分たちで調べて欲しいお話ね。

造設当時は、目の前の庶民の苦しみ(飢饉・天災・戦争)を直接助けず
仏頼みの奈良の大仏に、巨額の税金を使った
度々の焼失(戦争による人災)があり、再建していない期間が多々ある

奈良の大仏の大きさの理由を上手く伝えられたって、わたしは一人で喜んで、

思わず東大寺の方向に合掌しちゃった。

彼ら彼女らをその大きさでびっくりさせてね、奈良の大仏さま。

それがこれからの平和の継続に繋がるって、わたしは信じているから。

奈良大仏写真

 

国中の銅を溶かして大仏像を造り、大山を削って大仏殿を造れ”

奈良東大寺の大仏の造立を命じた聖武天皇の意志はよほど強い。

”天下の富を有するのは我だ、天下の勢いを持つのも我だ”

そう豪語した聖武天皇の奈良の大仏造立の詔は、まるで歌のように聴こえる。

 

天皇として自分が持っている絶対的権力を、東大寺奈良の大仏に注いだ聖武天皇。

大仏のその大きさこそが、自分の権力の大きさだと世に知らしめようと、

一般的な大仏、例えば飛鳥大仏の大きさの4倍ものサイズで、奈良の大仏を生んだ。

そのぶっちぎり権力の一方で、聖武天皇は冷静なコメントも出している。

”一握りの土を持って手伝おうとする民がいればそれを受け入れ、

役人はこの大仏造立を理由に無理な税金徴収は許さぬ”

 

聖武天皇は東大寺奈良の大仏の大きさをもって、日本の各地隅々まで、

平和と安定を提供しようとした。

現代からすれば根拠のない神頼みだろうが、当時は神仏にすがるしか方法がない。

戦乱・疫病・天災と、悪魔のような出来事ばかりが続いていた天平時代に、

天皇としてすべきは、悪い空気をかき消す切っ掛けを作ること。

 

それを東大寺奈良の大仏造立に繋げた聖武天皇の政治判断は決して誤っていないと思う。

莫大な税金を、東大寺大仏のようなハコモノ造りに投与した罪は重い?

現代にまで残り、多くの人に愛された東大寺・奈良の大仏だから、

それは聖武天皇のナイス判断だったと、僕は心の底から思っているよ。

 

奈良公園の中心、東大寺の大仏殿におわすは、奈良の大仏様。

日本諸国に点在していた国分寺を統一するために造られたのが東大寺。

当時の日本のトップ・聖武天皇が、抗争する勢力を収め、人心を統一するために造った奈良の大仏様

その大きな意志を受けて、造立当時の奈良の大仏様の全身は金色に輝いていた!

奈良の大仏様の大きさを示すための全身ゴールド、なんとありがたい光なのだろうか。

幾度もの焼失・修理を経ている奈良の大仏様だけど、右腋・腹部・両脚部には、

今だに天平時代の部分が残っているというのだから、その長い歴史にひれ伏したい想い。

奈良の大仏様ができてから千三百年の間、一体どれだけの参拝者が、

あの奈良の大仏の大きさに度肝を抜かれ、手を合わせたことだろう

山野を歩いて奈良公園に入ってきた昔の旅人たちが、華々しい東大寺を眩しく感じるのは分かるけど、

指先までデジタル、スマートフォンに無限の情報量を収めた僕たち現代人でも、
東大寺を訪れたら人間の根本的な部分で、奈良の大仏の大きさには魂を打たれてしまう

なんて大きな、なんておおいな存在なんだろうか、奈良の大仏様。

奈良公園の中心、東大寺の大仏殿におわすは、奈良の大仏様。 日本諸国に点在していた国分寺を統一するために造られたのが東大寺。 当時の日本のトップ・聖武天皇が、抗争する勢力を収め、人心を統一するために造った奈良の大仏様。 その大きな意志を受けて、造立当時の奈良の大仏様の全身は金色に輝いていた! 奈良の大仏様の大きさを示すための全身ゴールド、なんとありがたい光なのだろうか。 幾度もの焼失・修理を経ている奈良の大仏様だけど、右腋・腹部・両脚部には、 今だに天平時代の部分が残っているというのだから、その長い歴史にひれ伏したい想い。 奈良の大仏様ができてから千三百年の間、一体どれだけの参拝者が、 あの奈良の大仏の大きさに度肝を抜かれ、手を合わせたことだろう。 山野を歩いて奈良公園に入ってきた昔の旅人たちが、華々しい東大寺を眩しく感じるのは分かるけど、 指先までデジタル、スマートフォンに無限の情報量を収めた僕たち現代人でも、 東大寺を訪れたら人間の根本的な部分で、奈良の大仏の大きさには魂を打たれてしまう。 なんて大きな、なんておおいな存在なんだろうか、奈良の大仏様。

今日は東大寺大仏殿で、奈良の大仏開眼セレモニーに行ってきた。

西暦752年4月9日のこと、忘れられない記憶だからこうして日記に残しておこう。

奈良の大仏の大きさには「驚き」以外の言葉が見当たらないよ。

身長15mの仏像を造り上げた仏師たちの仕事振りに無数の拍手を送っておいた。

お披露目された奈良の大仏は、全身に黄金色をまとい、極楽浄土を体現していたんだ。

きっと1,000年後には色が落ちていることだろうが、新品の奈良の大仏はゴールドに輝いていた

奈良の大仏開眼セレモニーも、ぶっ飛んだイベントだった。

何しろ全国から1万人もの僧たちが集まったのだから。

東大寺大仏殿の横幅が凄かった、1,000年後には焼失等で間口の横幅が2/3程度に縮小されると予想するが、

創建したばかりの東大寺大仏殿は、どの城郭よりも立派で、美しく、ありがたいもの。

それもこれも聖武天皇の絶対権限によるものだ、こんな建造物は後にも先にも数多くはない。

他に比を見ない大きさの奈良の大仏、本当にこれで全国に平和と豊作が訪れるような気になった。

超高層タワーマンションとか、等身大ガンダムとかがない時代に造られた奈良の大仏。

その大きさは時代の最先端、先進国である中国にもない驚異の技術。

5丈3尺5寸=16メートル、という奈良の大仏の大きさ、その大仏開眼セレモニーの日記だよ。

悪党・松永弾正の狙いは明確、東大寺の大仏の大きさを小さくすること。

三好三人衆と筒井順慶が束になって攻め込んでこようが、

頑強な信貴山城・多聞山城が陥落するものか。

この機を逃さず、最近特に生意気な東大寺の勢力を削いでやる。

東大寺の大仏の大きさにも畏敬を示していない松永弾正は、一計を案じていた。

興福寺や東大寺でさえも相手方と結託し、東大寺大仏殿にまで敵軍を引き入れている。

松永弾正は折を見て、夜討ちを仕掛けて、東大寺大仏殿付近に本陣を張っていた三好三人衆を襲った。

しかし狙いは敵兵の掃討ではなく、大仏殿に火を放つこと。

前線で戦う兵士を支援するのではなく、後陣の弓隊は次々と大仏殿に火矢を射かけた。

恐るべし、悪党・松永弾正!

聖武天皇から続く東大寺大仏の大きさに意味を見出さず、むしろ憎み、火をかけるなど!

敵兵から襲われたため、正当防衛をしただけ、という理由を考えつつ、戦場のどさくさに紛れて、東大寺大仏の大きさを縮めてしまおうなど、誰が思いつくことか。

この東大寺の戦いによって、頭の部分を失い、大仏殿を全焼し、雨ざらしになった東大寺の大仏は大きさを失い、それはつまり、東大寺の権威を落とすことになった。

自分の意のままにならない東大寺に対しての、松永弾正なりの仕打ち。

東大寺大仏殿の戦いというこんな事件もあって、現代の東大寺の大仏は大きさを復活しているんだ。

これからの時代、同じような争いに巻き込まれたら一部焼失だけでは済まされないよね。

ミサイル一発で、東大寺の大仏は痕型もなくなってしまう。

だから、今のうちに見ておこう、拝んでおこう、東大寺の大仏の大きさを。

東大寺の大仏の大きさが怖い、あの15mもある図体、大きな顔で見つめられるのが怖い。

三好三人衆の恐怖は、勢いに任せて将軍・足利義輝を殺害した時から増幅している。

道理に反した事もすることで、なんとか勢力を拡大してきたのだが、夜な夜な、三好三人衆は悪夢を見るようになっていたのだ。

それでも政敵は倒さねばならず、大和の松永久秀を追いつめるべく、東大寺にまで兵を進めるまでは良かった。

東大寺大仏殿に本陣を取り、明日の決戦を前に束の間の休息を取る。

三好三人衆は東大寺大仏の足元で仮眠を取ることにしたのだが、その場所が怖い、怖い。

あの東大寺大仏の大きさが自分の良心の呵責となり、心の隙間に迫ってくる。

大仏の大きな身体が自分の上に迫ってくるような恐怖に襲われ、眠るどころではない。

お前は自分たちの欲望のために、多くの人々を殺めてきていないか?

東大寺の大仏は、その大きさで全てを見抜き、悪党どもに自責の念を投げかけてくる。

丁度その頃、松永久秀の夜討ちがあり、大仏殿付近がざわついてきた。

火が放たれ、銃声が鳴り響き、兵たちの掛け声が辺りに聞こえる。

恐怖心に冷静な判断を狂わせた三好三人衆が、誤った指令を出してもおかしくない。

「良いか者共、今からこの東大寺大仏殿に火を放ち、敵の動揺を引き出した後、敵城まで攻め上がるぞ!」

東大寺の大仏の大きさが怖くて、怖くて。

これが史実かどうかはさておき、この時の三好三人衆と松永久秀の東大寺の戦いにて、東大寺大仏殿は焼失し、東大寺の大仏の頭部も戦火に失っているのだ。

奈良東大寺の大仏の大きさを想う時、真っ先に思い浮かべるのは、聖武天皇のこと。

身長が14.98mもある奈良の大仏、そんな大きさを最初に企画するのはもう常識はずれの行動。

当時は8世紀、特別便利な道具もない中で14.98mもの大きさの大仏を造れと命じるなんて。

途方もないムリなんだ、全てが手作業、人力で賄うのだから、その作業量と費用ときたら、物凄いこと。

1,300年前からこの大きさで、奈良の大仏は東大寺大仏殿に鎮座しているのですよ!

僕たちが今、修学旅行や大人の遠足で奈良公園を訪れ、ふーん、どうせ奈良の大仏だって大きな工場で機械がポンポン造ってくれるのだろう、って考えたとしたら、大きな間違い。

8世紀の奈良大仏造立当時、発案者の聖武天皇は民衆から責められている。

奈良大仏の造立命令が、財政を圧迫し、民衆に無駄な労働を強いている、と。

ちょうどその頃には大きな疫病が流行し、大小様々な内戦に民衆は苦しめられていた。

聖武天皇はそんな時だからこそ、民衆を救済したいという思いを込めて奈良の大仏を造ったのだろうが、民衆は先じゃなくて今を救って欲しい、と思うのも当然のこと。

全国の国分寺のトップを東大寺にして、全ての苦しみから解き放ってくれる存在を造る、それは聖武天皇なりに必死な願いを込めたのが奈良大仏。

だからあの大きさになったのだろうが、評価されたのはずっと後のこと、造った当時としては無駄な公共工事。

東大寺大仏の大きさ14.98mには、聖武天皇の切実な想いが詰まっている。

大仏殿を訪れるとき、君もそんなことを思い浮かべながら歩いて欲しい。

遠い昔の遺産、造った当時の判断は正しいか分からないが、その遺産を1,300年守ってきた日本人の心は美しいものだから。

奈良の大仏様の大きさ には圧倒された、と君たちは口を揃える。

その言葉に裏はなく、身長15mの大仏を見上げると信じられない世界。

端正なお顔立ちには手が届かない、雲の上の存在、我々を頂上から見守ってくれる仏様。

我に返ろう、奈良の大仏様の大きさ の衝撃にどう向き合えばよいのか。

近鉄奈良駅から奈良公園沿いに歩いてきた私は現代の申し子、 都会の高層ビルにオフィスがあり、自宅も高層マンションの一角。

だから日常が大きな・高い場所に慣れている、そんな私は果たして正常だろうか?

忘れ難い思い出がある、柳生の里から奈良公園へ歩いた時のこと。

奈良への道は幾つかあるが、柳生街道から滝坂の道を通じて春日山へ入った。

定かではないが鎌倉時代からの主要道、今はもちろん粋狂な歩き人しか知らない古道。

全てが手作りだった時代の名残が色濃い柳生街道、大きな建物なんて当然ない。

何時間も山道を歩き通した末、春日大社を経由して東大寺に着いた時の驚きときたら。

「なんて華のある街なんだ・・・」

そして奈良の大仏様の大きさ に対面したとき、私の驚きは恐怖、あるいは脱力に変わった。


もう何も考えられない、こんなに大きい人工物、しかもそれが仏像だなんて。

自然界、個々の人間の力では創造が叶わないものが、奈良の大仏様の大きさ だった。

現代の人間生活の続きで見ても新鮮な奈良の大仏様の大きさ だが、 昔の生活を疑似体験した後でお逢いする奈良の大仏様は、もう夢の向こうの空想物。

奈良の大仏を考える、見方を変えればますます大きな大仏様だったということ。

千年前も、千年後も不変のインパクトがある奈良の大仏の大きさ。

かえすがえす、奈良の大仏の大きさ には、聖武天皇の鉄の志を感じる。

743年に造る詔を出してから、実際に東大寺で奈良の大仏が完成したのは752年。

計画を経て、鋳造の工程だけで5年がかり、費用はおよそ15億円という、当時としては天文学的な数字。


奈良の大仏の大きさ は14.98m。

耳の長さだけでも2.54mあるなんて、まさにビッグボーイ・奈良の大仏。

滋賀の紫香楽宮で、聖武天皇は考えていた。

どうしたら、当時の大国・中国に対して、
日本文化が独自性を確立したことを示せるのか、と。

それはすなわち日本の国力を証明し、中国からの侵略から守ることにつながるのだ。

たどりついたのは、奈良の大仏の大きさ。

日本だって素晴らしい大仏やお寺を造れることが立証できれば、「東夷」なんて差別的な呼び方を打ち払い、立派な国家として認められるはず。

聖武天皇の悲願だったのだよ、奈良の大仏の大きさ は。

そんな背景によって奈良の大仏は前代未聞の大きさを要求された。


天平時代には、5丈3尺5寸(16m)が奈良の大仏の大きさだったという記録がある。

これを完全に人の手作りで造った、という点に聖武天皇の強い心が顕れている。

平安時代の855年、大地震によって奈良の大仏の頭部が落下、861年に修理完成。

1180年の平重衡の兵火、1567年の三好・松永の戦いで、それぞれ奈良の大仏は部分的に焼失している。

現存の奈良の大仏の頭部は、江戸時代に造られたものだし、 体も脚も途中で修復されているから、正確な大きさは数字にできなく、幾つも数字が出る。

奈良の大仏殿は、創建当時には今の1.5倍もあったという。

江戸時代の大修理で巨木が手に入らず、正面の幅を30m縮小し再建されたとか。


数奇な運命を経て、現代も奈良公園に鎮座する東大寺の奈良の大仏の大きさ は、
数字でも言葉でも表現しきれない、貴重な1,250年の軌跡。

どこまでも続いて行く、永遠のリレーであって欲しいと願って止まない。

奈良の大仏の大きさを想う

アメリカでは、人が手で作るハンバーガーは大きいけれど、 奈良の大仏のような、人造物は大きくない。

自由の女神!と思ったけど、あれはフランスから贈られたもの。

信仰の対象は大きさとは関係がないのだろう。

日本は食べ物に大きさはそんなに求めていないけど、 信仰の対象には大きさを割り当てて、そして自分たちの手で大きなものを作ってしまう。

奈良の大仏だって、当時は機械がないから、15メートル超のあの大きさを職人や民衆の力を使って作ってしまったのだから。

大きさに対する意識は、アメリカと日本では何かが違う。

違うけど、やはり大きさはインパクト。

そして、大きさと品質の両立が大事だ。

  • 大きさと品質が、どちらも 小 なら「素人」
  • 大きさと品質が、どちらも 中 なら「プロ」
  • 大きさと品質が、どちらも 大 なら「アート」

アメリカのファイブガイズのようなボリューム系・かつ本物系バーガーはアートか。

マックは値段と品質のバランスが良いプロだ。

奈良の大仏はこの指標にするとどうなるのかな。

大きさはかなりの上、品質は最高峰、つまりアートの域だ。

そんな奈良の大仏だから、日本中の観光客から好まれている。

明智光秀と島左近が奈良の大仏とすれ違っていた事実、想像だけでも歴史ファンの血が疼く。

伝説たちの遭遇、ただし決してキレイな状況で対峙したわけではない。

戦国時代、織田信長が桶狭間の戦いで勝利を収めた7年後の1567年のこと。

松永・三好の争い、俗称・東大寺大仏殿の戦い(許されないネーミングだ!)の兵火で、東大寺大仏殿に加えて、奈良の大仏の仏頭が焼失している。

信長に仕官する前の浪人時代に明智光秀が東大寺を訪れていたかは不明だが、近畿一帯を攻略する全権を任された近畿管領を務めた役柄、明智光秀は大仏殿がなく野ざらしになった焼失後の奈良の大仏を見たはず。

近畿一帯を攻略する全権を任された近畿管領を務めた役柄、彼は京の文化に通じた文化人の顔もある。

750年もの間、大和の寺社が守り続けてきた伝統を戦火で灰塵にしてしまった時代。

奈良の大仏の大きさの意味ですら、醜い利権争奪戦の前には価値を無くす。

だから明智光秀と奈良の大仏の大きさが交差した瞬間に美しい場面がない。

雨ざらしになり、仏頭を失った奈良の大仏を見上げて、明智光秀は感銘よりは無常を想ったことだろう。

平和を願い奈良の大仏を造立した聖武天皇の理想が、人災によって潰えた形。

明智光秀もまた、東大寺大仏殿の戦いの15年後には、戦によって命を落としている。

平和で幸せな現代人が見る奈良の大仏は、派手と明るさだけに満ちているようにも思える。

実体は、そんな歴史のページを幾つも経ている奈良の大仏だ、清濁を併せ持っている。

もうひとつのイメージを想い浮かべよう。

戦国時代、大和国の武将たちが東大寺・奈良の大仏の前で物思いにふける絵。

出陣の前、大きな決断の分かれ道に、奈良の大仏に助言を求め、ついつい訪れてしまうとか。

大和の有名な武将とは? 島左近、その御仁しかあるまい。

筒井順慶が大和国統一をした過程で、その右腕として戦術を請け負った希代の猛将だ。

島左近と奈良の大仏の遭遇、これも考えるだけでも歴史ロマンでウズウズしてくる。

しかしそんな空想は現実のものではない。

東大寺大仏殿での戦火は島左近27歳のとき、それから奈良の大仏は焼失で仏頭がない

大和国で生まれ育った者にとっては重い存在、奈良の大仏。

その大きさに包まれ、島左近は育ってきたはずなのに。

戦場へ赴く前夜、東大寺大仏殿に島左近が歩いてくる。

共も連れずただ一人、半分失った奈良の大仏の姿を見上げながら一人思いに耽る。

そんなシーンを想うたび、涙が出るような美しさを感じ、奈良の大仏の大きさを知る。

夢幻だったようだ、そんな島左近と奈良の大仏の共演は。

奈良の大仏の頭部や、大仏殿そのものが焼け落ちてしまった後、島左近は何を思ったのか。

これも大きいお話、奈良の大仏の大きさを痛感するような場面ではなかろうか

東大寺の大仏の大きさを復活させることが、筒井順慶の果たせなかった願いではないか。

大和の地に生まれ、2才で筒井家の当主となり、36才で早逝した筒井順慶の夢を紐解くと、東大寺の大仏の大きさを自分の時代に縮めてしまったことを悔しがっていたのだと、一方的に想像してしまうのだ。

奈良と言えば東大寺、東大寺と言えば大仏様、大和の国のみならず全国の老若男女みなが知っている古からの宝物、各地の国分寺の中心、聖武天皇の祈りが込められた大仏像。

生きるために、松永弾正との長く続いた戦をやり切り、なんとか筒井家が大和一国を統一できた。

その代償は大きなもので、とりわけ三好衆と共に松永勢と戦った東大寺の戦においては、東大寺の幾つかの院を焼失させてしまい、南大門で鉄砲を撃ち合い、
大仏殿を燃やし、あの東大寺大仏の頭部を失くすような戦にしてしまった。

頭部だけで6mもある東大寺大仏だから、もともと15mあった身長を、9mにまで短くしてしまったのは、筒井順慶も加担した戦が切っ掛け。

それもこれも、悪役・松永弾正を倒し、奈良の地を自分の掌中するまでのこと。

お寺の文化に精通し、大和を愛する筒井順慶は、大和国内を安定させた後に、東大寺大仏の大きさはもちろん、続いた戦で失われた東大寺などの文化を復活させる心づもりを持っていたに違いない。

しかし時代は、織田信長の勢力拡大に伴い、筒井順慶にも各地へ出陣するように命令が下り、思うように大和国内の文化回復に時間もお金も費やすことができなかった。

そんな中、病に倒れた筒井順慶は、そのまま息を引き取ってしまう。

島左近や高山右近のような良い将が側近にいてくれたのには、筒井順慶自身に何か魅力があってのことで、それが奈良の文化を重んじる筒井順慶の姿勢だったのだと、私は信じたい気持ちでいっぱい。

東大寺の大仏の大きさを復活できなかったことが、筒井順慶の果たせなかった夢?

奈良の大仏の重さが、奈良の仏教美術の豊富さを象徴しているんだよ。

250トンという奈良の大仏の重さはダテじゃない

その質量の多寡で量れないほどの素晴らしさを、東大寺の奈良の大仏は背負っているから。

キミが、奈良の大仏の重さを調べているのは何故かなぁ?

修学旅行で奈良に行って、奈良の大仏を目にして、あのインパクトの正体を調べようと、ネットサーフィンして奈良の大仏の重さを調べているの?

現地現物で感じた奈良の大仏の重さは本物。

あの東大寺宝物殿に秘蔵されている宝物の重みが、あの奈良の大仏のサイズなのだよ。

どれだけの国宝が、重要文化財が、奈良の東大寺にあるのだろう。

日本の宝物、聖徳太子から続く飛鳥文化の延長線上、1300年間もの時間を、
何十代にもわたって奈良の文化財を守り続けた人たちがいるんだよ。

キミが見て驚いた奈良の大仏、その重さは、奈良中のお寺にある文化財や文化そのものを守り続けてきた、奈良の人たちの仕事の重さなんだよ

そういう風に研修レポートに書けば、きっと最高最良のアンサーになるんじゃないかな。

奈良の大仏だって、一人だけでは、あんなずんぐりどっしりと座っていられないよ。

サポートしてくれる人たちがいるからこそ、悠久の重みを湛えて鎮座できるのだから。

キミのパパだって、昔はスマートだったのに、今じゃお腹でもでちゃって、体重倍増。

でもそれって悲しいことだけじゃなくない?

ママが美味しいごはんをつくってくれたり、キミと遊ぶ時間とか、家族みんなでも旅行とか、幸せが幸せを呼んで、それでついつい食べ過ぎとか飲み過ぎとかで、体重が増えているはずなんだよ。

奈良の大仏の重さも、キミのパパの重さも同じ?

周囲の支えがあり、幸せ太りして立派な数字になったのが奈良の大仏の重さだから、そのことは忘れられないよね。

「奈良の大仏の大きさ を調べなさい」という夏休みの宿題に取りかかろうとしている僕。

像の高さ(座高)はメートルで14.98、フィートにすると48.91。

・・・もう終わってしまったの? こんなのでいいの??

付加価値をちょっとは付けなくては、と焦る僕は蛇足を書いてしまう。


牛久の大仏の大きさは 120メートル、奈良の大仏の方が0.12倍大きい計算になる。

鎌倉の大仏の大きさは11.3メートル、奈良の大仏の方が 1.3倍大きい計算になる。

東京の大仏の大きさは8.30メートル、奈良の大仏の方が 1.8倍大きい計算になる。

高岡の大仏の大きさは7.43メートル、奈良の大仏の方が 2.0倍大きい計算になる。



どーだ、これこそ日本のベスト大仏たちとの比較、大きさって大事♪

レポートを書き上げ、ひとしきり頑張った気になっていた僕。

ふと、大仏の視線の先を眺めていると、別の想いが心の奥底から湧き上がってくるのを覚えた。

「奈良の大仏の大きさ、それってただ背の高さ・身長・長さを測れば良いのだっけ?」

なんかもっと深いことがありそうだな、直感が次の行き先を示していた。

直球を直球だけとして捉えて何になるだろう、奈良の大仏の大きさ の意味とは別の場所にあるのだ。


何故、奈良の大仏は、あんなに大きく造られたの? 何故、奈良の大仏は、あんな大きさを維持したまま1,250年以上、東大寺に存在し続けているの? 
何故、僕たちの先祖様たちは、奈良の大仏を維持保守し続けて21世紀に至るの?


数値ではなく、そういう感情・感性の長い流れが、奈良の大仏の大きさ の裏にある。

どうやらこっちの方にこそ宿題の真意があると感じたよ、
僕の夏休みの宿題はやり直しってことか。

奈良の大仏の大きさを調べようとは、あなたも好奇心のお強い方。

物質的な奈良の大仏の大きさ なら、お伝えするのは簡単。

大きさ(身長)14.98m、重さ(体重)250t。
鼻の穴の大きさが30cm、頭のパンチパーマのボコボコひとつひとつも30cm。


あなたが聞きたいのは、こういう表面上の、数値化された奈良の大仏の大きさでしょう?

せっかくだから、別の角度から奈良の大仏の大きさ に触れてみようよ。

全国の修学旅行生が訪れる人数は、京都に次いで奈良が二番目に多い。

これはひとえに、奈良の大仏を見ようとしてのこと。


奈良公園の東大寺は修学旅行生の大人気スポット、

普段は神社仏閣に興味関心を覚えない少年少女も、

奈良公園の鹿さんに鹿せんべいをあげて、楽しそうに笑っている光景が見れる。

修学旅行生だけじゃなく、奈良・東大寺には大人の観光客がいっぱい。

奈良のホテルは国内外の観光客で混んでおり、その経済効果たるものは計り知れない。

多くの観光収入と関連する雇用を発生させ、奈良の経済活動に好影響を及ぼしている。

もしも、奈良の大仏が鎮座していなかったら、この人の流れは奈良に向かっているの?

そういう面での奈良の大仏の大きさって伝わるかなぁ?



奈良の大仏の大きさは目に見えるサイズだけじゃなく、存在自体の大きさ。

そんなことを想いながら、奈良の大仏に逢いに東大寺南大門から続く参道を歩いて行こう。

先人たちが引き継いできた文化の粋、今も昔も奈良を経済的に護ってくれる。

きっと14.98cmの身長だけじゃなく、もっと他のところに本当の大きさがある大仏だって気付くはず。

仏像に興味がない修学旅行生たちも、奈良の大仏の大きさ を目にしたら理屈なしに誰もがびっくり!

大きいことは誰にでも伝わるシンプルかつクリティカルなメッセージ。

 

奈良の大仏の重さですか? はい、250トンだと言われていますが?

あっ、そっちの重さではなく、重みというか、存在の重さってことね、失礼いたしました。

それではお話ししよう、奈良の大仏の罪の重さを。

昔話になるよ、創建時、8世紀中頃には賛否両論ある奈良の大仏だったんだ。

当時は民衆が飢饉や疫病に苦しめられていたから、

聖武天皇は負のスパイラルから脱却できるように、と願い奈良の大仏と東大寺を造った。

その願いは良いとしよう、しかしあれほど大きな奈良の大仏だよ、建立には巨額の税金が投入された。

民衆からすればこう言いたくなるだろう。

「そんな無駄な公共工事で金を使うぐらいなら、飢えている民に食い物をまわせ!」

奈良の大仏の意味の重さは今でこそ分かるし、評価もされているけど、当時はそれどころではなかったはず。

自分が死ぬ思いをしながら収めた税金が、豪華なお寺や仏像の建築費に浪費されてしまう。

10年がかりの大仏造立、作業中の事故もあり、水銀中毒によって死亡した作業員もいた。

民衆のためにと造った奈良の大仏が、当時の民衆を苦しめるものにしかならなかったのは皮肉な結果

奈良の大仏造立を命じた聖武天皇が没すると、橘奈良麻呂が乱を起す。

すぐに鎮静化されたが、理由を「東大寺の造立で人民が苦しめられていたから」と橘奈良麻呂は説明した。

こじつけられた口実と推測するが、「奈良の大仏設立で民が苦しめられた」というイメージは、

その当時は一般的に通用するものであったと窺い知ることができる。

さぁ、どうだ。

今では奈良観光の目玉、福祉社会事業として障害を持つ子供たちへの療育、学校・図書館を備えて、

日本の福祉事業のパイオニアとして東大寺は高名であるが、そこに至るまでの道は苦難の連続。

民のためが結果として民を苦しめ、戦火で失われては再建を繰り返した大仏殿、

時には奈良の大仏は大仏殿に覆われずに野ざらしの状態にあったり、

首から上を失ったままで鎮座していたこともある。

それでも現代まで残り、人々に修復されては今のお姿を留めている。

この長いストーリーにこそ、奈良の大仏の重さ・存在の重みが宿っている気がする。

250トンの重量だけではなく、奈良の大仏の重さをそういう風に計るのが僕の解釈







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