桶狭間の戦いランニングコース、織田信長進軍ルートを走る

投稿日:2014年4月27日 更新日:



熱田神宮から桶狭間までランニングしようと思った。

戦国時代ファンのわたし、せっかく愛知県に住んでいるのに戦国時代の痕跡をたどらないのは惜しい。

車じゃなく自転車じゃなく、走って当時の感覚を掴んでみようという冒険。

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清洲城か名古屋城から走ろうと思ったが、距離が長すぎるので諦めた。

熱田神宮~鳴海城~大高城~桶狭間で25kmぐらいだから、こっちを選択。

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織田信長と同じく、熱田神宮に戦勝祈願をしてからのスタート。
さぁここからは織田軍の兵卒になった気分でお殿様の馬を追うように走るのみ。

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熱田神宮の中に、信長塀というものが残っている。
桶狭間の戦いに勝利した信長が、熱田神宮に感謝するために奉じたもの。
400年前のものと触れ合える楽しみ・ロマンが良いね。

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i-Phoneのグーグルマップに経由地データをあらかじめ登録しておき、GPSで位置チェックをしながらの走り。
迷うこともなく、大喜~津賀田~井戸田~中根と街中を東へ走り抜ける。

野並で天白川を越えて、一息つく(下の写真)。
天気は良いが、そう暑くもなく、汗も出過ぎることはない、消耗は少ない。

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そこから丹下砦(現在の光明寺付近)までは真っ直ぐな道。
一言言いたい、見事なまでに平坦な地形だったから、走りやすかったよ!
当たり前だけど、地形を把握した上での冷静な移動経路だ。
熱田神宮からここまで1時間半ぐらい、信長は2時間かかったらしい。

でも、信長軍は清洲城から熱田神宮まで12kmぐらいを鎧・武器装備の上で明け方に強行移動している。
道の整備具合こそ大違いだろうし、当時の人たちのタフさを窺い知った。

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信長が最初に入った丹下砦は、現在では何の痕跡もなく、この光明寺の付近にあったと言う。
平坦な道が続いていて、急に高い丘が見えたから「ここら辺かなー」とすぐに推測できた。

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続けて善照寺砦まで、「砦公園」という名前が残っていて、ここもまた小高い丘の上。
「丹下砦」「善照寺砦」「中嶋砦」の3つの砦は、今川軍の鳴海城を孤立させるために織田軍が造った付城。
鳴海城をぐるっと囲むように砦を構えて、人と物資の往来を封じる戦国テクニックね。

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善照寺砦からは遠く大高城方面が見えた(下の写真)。
現在は建物に隠れているが、敵対する鳴海城はもちろん良く見えたはず。

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その善照寺砦からすぐ、鳴海城へ駆けつけると、そこも高い丘の上はもちろん、「鳴海城跡公園」が残っていた。

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あまり大きな城跡ではなく、ごく普通の公園だったのがちょっと残念。
現在の本丸は↓の富士山みたいなヤツか。

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鳴海城の裏は海や沼地だったから、3つの砦に囲まれてはどこにも行き場がない。
ひとつの砦を攻撃しようものなら、他の砦から挟撃を受けるだろうし、迂闊に手が出せない。
そして消耗戦・にらみ合いが続いたのだろうと連想させた。

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最後の中嶋砦へ向かうと、そこは平野だが、扇川と手越川という2つの川の合流点にあった。
山・山・川と封鎖されては鳴海城は厳しい。
このあたりの地形の感覚を肌で見れただけでも、信長の足跡が聞こえた気がした。

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ここまでで13kmぐらいを走った計算になるが、まだ疲れは大丈夫だ。
敵軍とこれほど近い距離で接するなんて、いつ攻められるかというプレッシャーで夜も眠れないだろう。
鳴海城から大高城方向へ走ると、これもまた平坦な道、昔は海や沼地だったと言われて納得。

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鷲津砦付近に差し掛かると、急勾配の丘に目を奪われる、それはここに砦を構えるだろう。

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今は鷲津砦公園となっているこの場所、まず他の織田陣営の砦の中で一番規模が大きい気がした。

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こんな攻めにくい砦を落とすとは、今川軍の朝比奈勢の本気度も凄まじい。

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現在の鷲津砦は鬱蒼とした深くて暗い森に包まれている、小さな山城のようだ。

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すぐの距離にある丸根砦跡、ここも小さな山城のような佇まい。

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守るのは良いが、退路がないから全滅と言う言葉も納得できる、無残で言葉にならない。

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大高城付近まで走っていると、当時の大高城下の繁華街に出た。

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大高城跡、ここが今日一日回った中で最も規模が大きく、きれいに保存されている史跡だった。

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新緑が眩しい大高城跡公園内、あの徳川家康が若かりし日、兵糧の運び入れで活躍した城だ。

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ここから出撃して、鷲津砦・丸根砦を落としたという事実。
両砦を落とせるぐらいなのだから、あと1日あれば鳴海城周辺の丹下砦・善照寺砦・中嶋砦も危うかったはず。
今川軍が万全の構えで進軍していたことを感じたような気がした。

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GPS機能を使いすぎたか、ここら辺でiphoneのバッテリーがいつの間にかなくなっていた。
大事な情報網を絶たれ、お昼ご飯を食べていなかったわたしは窮地に立たされていた。
長戦では兵站が大事だと知っていたのに、準備不足か。

それはともかく、大高城付近を制圧した今川軍が進むべきは鳴海城、その先は尾張の中心地。
信長の決断・桶狭間の戦いがあと1日でも遅れていたら、歴史はまるで違ったものになっていたのだろう。
ここまで18kmぐらいは走っていて、疲れが目立ってきた頃。

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有松に入ると、東海道の宿場町の面影を色濃く残した道があった。
いよいよ桶狭間という地名が残った町へ走っていく。
東海道からすると丘の上、今は住宅街だが、当時は野山だったのだろう。

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桶狭間の戦いの史跡が数多く残っているから、ひとつひとつ回ることにする。
七ツ塚はGPSがないと探せないか?と心配していたが、偶然にもすぐに看板を見つけた。
たたりがあってはいけないので、写真はほのかな感じにしています。

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桶狭間古戦場公園まではすぐの距離、いよいよ着いたよ、本日最大の目的地。
田楽坪とも呼ばれる窪地、あの今川義元が最期を遂げた場所と伝えられている。

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歴史的な大戦があったとは思えない平和な雰囲気、住宅街の中の小さな公園。

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織田信長と今川義元の銅像が立っているのが、今朝熱田神宮から走ってきたわたしにとっては感動的。

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今の桶狭間の戦いの情報は、勝利した側である織田信長が残した記録によるものだから、真偽は疑うべきところがある。

敗北した今川義元からすれば「おい、それはちょっと違うんじゃない?」と言いたいところはあるだろうよ。
歴史書とはそういうもの、勝者に一方的なものだ。

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桶狭間の戦いでの織田信長進軍ルートを改めて見る。
熱田神宮から丹下砦~善照寺砦~中嶋砦までは、わたしが走ってきた行路と同じ。

中嶋砦から東海道を通らず北上して桶狭間へ入ったのか、織田信長は。
今川軍前衛をかわして、今川義元本陣に突撃したという意味では奇襲で間違いない。

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少し離れて周囲の地形を見れば、おけはざま山という小高い丘があり、そこが今川義元の本陣だったという。
攻められて逃げ場を求めて丘を下り、田楽坪でいよいよ追い詰められたのか。

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おけはざま山と今川義元本陣跡を求めて歩いたが、どうも見つからず道を下って、豊明市側の桶狭間古戦場伝説地に着いた。

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今川義元のお墓があり、駿河・遠江に加え三河・尾張まで領地拡大した英雄に合掌。

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朝9時に熱田神宮を出て、ここまで距離にして25km、いつの間にか3時になっている。
体力もかなり消耗しているから、今日はここまでと最後のゴールを釜ヶ谷に定める。

残念ながら釜ヶ谷の信長坂(今川義元本陣への突撃ルート)は大学構内にあって、そこをダッシュはできなかった。
それでも鳴海城・大高城・桶狭間の多くの史跡を自分の足で走り、地理を感じて満足だった。

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わたしの桶狭間の戦い所感。
今川義元の進軍は理に適っており、順当にいけば尾張侵攻は成功したのではないか。
織田信長は通説のようなとんでもない奇襲+大逆転劇をしたのではないが、常識破りの行動が奇跡を呼び寄せた。

・早朝からの強行移動(今川軍からすると、昨日清洲城にいた織田信長本隊が突如目の前に現れた!)
・当時の定石「合戦は早朝開始」を無視した午後2時の開戦
・今川軍前衛を避けた桶狭間への突撃(敵陣真っ只中だからリスク高し!)
・大雨→止むという天候に恵まれた信長の運

信長の清洲城出撃があと半日~1日遅れていたら、鳴海城の付城が落とされていただろうし、今川義元は桶狭間を通過していた。
歴史のIfの範疇だが、すべての必然と偶然が重なって、この桶狭間の戦いの結果になったのだな。
そんなことを感じさせてくれた、25kmの熱田神宮~桶狭間ランニングだった。

 


信長ラン桶狭間 名古屋の観光宝物を活かす戦国時代の歴史ロマン

 

名古屋の宝物を活かすことができず、観光客を東京から大阪・京都へと素通りさせてしまう。

観光客の誘致という私の仕事は行き詰っていた。

愛知万博の頃は良い仕事ができた。

国内外から名古屋が注目されて、観光客需要で愛知県内のホテルが完全満室になり、嬉しい悲鳴を上げたのも一昔前のこと。

今の私には何かが足りない。

夢は大きく天下獲りと言いたいところなのに、やることは中途半端。

今日は戦国時代のコスプレで名古屋城を歩くイベントを開催したところ。

まずまずの参加者数を集めても、所詮は歴史マニアたちの局地的なイベントだし、名古屋城を偶然訪れていた外国人たちが喜んでくれるだけ。

 

このイベントを目指して名古屋を訪れてくれた人たちではない。

私が本当に仕掛けたい名古屋ならではイベントはもっと大きな世界観のはずだ。

名古屋城のお堀に咲く桜は、そんな私を嘲笑うかのように美しい。も

う何百年も人々を魅了し続けているお堀と桜の絵の前では、中身の薄さを露呈され、無様をさらす私の仕事。

 

週末は名古屋城沿いを何周もランニングするのが私のお気に入り。

いつでも天守閣を目の前にしながら走っていられる名古屋一番のランニングコース。

今日はふと、気まぐれになっても良いと思った。

熱田神宮を示す道路標識に釣られて、いつもと違う道を走り出す私。何かの刺激に出会えるかもしれないと思って。

街中のアスファルトの道に色も味もなく、目印の名古屋城がない分だけ気分も盛り上がらない。

それでも熱田神宮に入って森と土の匂いを嗅ぐと新鮮な気持ちにはなった。

惰性で本宮へお参りし、仕事の戦勝を願っていると、あるイメージが膨らんできた。

熱田神宮で戦勝祈願とは、まるで桶狭間に出陣する直前の織田信長だな。

今日は名古屋城からランニングしてきたから、信長が清州城から馬で駆けてきたのとも重なる。

戦国時代の歴史ロマンに包まれて、このまま桶狭間まで走ってみようと思った。

織田信長という名古屋の偉人のおさがりを貰えば、今の私も少しは這いあがれるかもしれない。

 

「ワシは武士の働きを、家長制度ではなく、機能だと割り切ることで成功した。お前は何だ?お前らしい世界を語ってみよ」
熱田神宮から走り出すと、織田信長のそんな声が聞こえてくるような気がした。

桶狭間への距離をスマートフォンでチェックすると、名古屋城から熱田神宮を経由して、東海道沿いに走るとちょうどハーフマラソンの距離。

今川義元の本陣が桶狭間で休憩を取るという情報があったから、織田信長は迷わず桶狭間に突撃できた。

その情報提供者・簗田政綱は、後日織田信長から一番の褒美を与えられている。

現代の情報戦はスマートフォンで、織田信長の進行ルートを確認しながら。

名古屋の人、いや、日本人なら誰もの心の中に、織田信長が今川義元を破った桶狭間の逆転勝利は息づいている。
鳴海城から桶狭間への道に、その頃のような山野があるわけではなく、突然の大雨に恵まれることもないけど、

いよいよ桶狭間という地名を頻繁に見かけるようになると、心が滾り、まるで自分が織田信長になったような高揚感に包まれた。

 

この場所こそ織田信長の一世一代の大勝負。

その面影を追って桶狭間を駆ける私は、戦国時代の歴史ロマンに疲れも我も忘れている。

きっと自信に満ち溢れているように振舞いつつも、今川義元を討つまでは不安だらけだっただろう織田信長の心中が見えてくるようだ。
ランニングに重ねる歴史ロマンは蜜の味と知った。

他にはない名古屋独特の楽しみとは、ひょっとするとこういうものではないか。

小さな私は、もっと派手な仕掛けやハコモノがないと売れないと思い続けてきたけど。

 

桶狭間のゴールまではあと少し。

大軍を分散させる王道で攻めてきた今川義元へ、一点集中の奇道で攻めかかる織田信長が通用するか。

走るスピードを上げて、その先の夢を見てみたくなる。

万人が共感できる色褪せない夢、織田信長の歴史ロマン。

あぁ、それこそ名古屋ならではの宝物ではないか。

先人たちが残してくれた財産をつなげば、過大な費用も時間もかけずに、今の名古屋を盛り上げる方法があるではないか。

 

名古屋城~熱田神宮~桶狭間を走る名古屋信長ハーフマラソン。

誰もが織田信長気取りかと思えば、あるランナーは草履取りの木下藤吉郎のように、

禁身の身でありながら信長を慕って出陣した前田利家のように、信長軍の一番槍を務めた柴田勝家のように、思い思いの歴史ロマンを抱えて走る。

名古屋城では姫たちがランナーたちを見送り、熱田神宮では織田信長が敦盛を舞いながら迎え、

桶狭間では沿道を埋める人たちが織田・今川軍に分かれて戦っている中をランナーたちは走る。

名古屋が日本中で最も輝いていたあの頃をもう一度。

観光客が名古屋を素通りせず、独自の魅力にひかれて立ち寄る。

いいや、名古屋が一番の目的地として沢山の人々が旅行に出ている様を想像しながら、私は桶狭間を走っている。

 

戦国時代の財産を活かし、大勢の人々が楽しみながら参加できる歴史イベントを。

織田信長が天下布武の口火を切った桶狭間の戦いになら、それを受け止められる度量がある。

私の中では大逆転勝利の兆しが見えたと確信してきた。

次時代の新しいものばかりを追うのではなく、古いものに新しいものを融合させ、

どこか泥臭く、なにか地道に、しかし歴史ロマンに溢れたイベントこそ、名古屋らしい。

桶狭間公園が今日のゴール。

いよいよ今川義元本陣の幟が今の私の目には見えてくる。

さぁ、これからが私の本当の勝負。名古屋信長ランニングというイメージを得て、夢を叶える武器は揃った。
あとはそこに実があるかどうか。本当に敵軍の総大将・今川義元の首級を挙げられるかは今からの私の槍働き次第だ。

名古屋の宝物は私の手中にある。

歴史ロマンに溢れた名古屋を、名古屋信長ランニングで。

 


 

2011年7月1日

小説「信長インパルスプル」ノースフェイスと織田信長の桶狭間

 

織田信長が、ノースフェイスのインパルスプルを選んだことが、桶狭間の戦いの勝因。

今川義元軍25,000人に対し、織田信長軍はわずか2,500人。

10倍の兵力差を逆転させたのは、インパルスプルの70gの軽量性と撥水性

今や歴史の定説となったこの事実を想う度、

織田信長のアウトドアセンスと、それを見事に具現化させたインパルスプルの機能に驚く。

信長インパルスプル
(写真① スタンダードに、正面から魅せるインパルスプル)

西暦1560年、今川義元が攻め込んでくるという一報を受け、

尾張清州城の織田信長は、家臣たちと戦略会議を開いていた。

「戦の勝敗は兵力差で決まる。兵の士気で逆転できるのも1.5倍まで

今川義元が本当に25,000人を率いてこれば、我が織田家に勝ち目はない」

科学でモノを言う信長から、最初から言い切られては反論の余地がない。

「殿!敵は駿河・三河の烏合の衆、我が織田家は精兵揃い、負ける道理はない!」

柴田勝家や前田利家ら武勇の将らは、血相を変えてそう言い放つ。

「お言葉ではありますが、問題はそうした士気より、どういう方法で勝つかでござる

さすがの柴田殿とて、自分の体重の10倍もある相手には歯が立たぬというもの」

「何をぬかす、サルが!今までどんな相手だろうが、我が渾身の槍で討ち取ってきた!

臆病風に吹かれたなら、さっさと尻尾を巻いて後陣に下がれ!」

家臣たちの議論をしばらく黙って聞いていた信長が、ようやく口を開く。

「よいか、最後に勝つのは我が織田家じゃ

要は、お主らのその鋭い槍働きをどこで発揮させるかでな。

1週間後に全てを決める。皆それぞれ、情報入手を急げ。

柴田勝家や前田利家はどれだけ兵を集められるかを、

簗田政綱は敵軍の配置と地形・気候を徹底的に洗い、

サルはノースフェイスの在庫を調べよ。

急げ、この1週間の情報が織田家の命運を左右するぞ

そう言うと信長は足早に去っていった。

信長インパルスプル
(写真② 戦国武将風に、城砦に立って考え込むインパルスプル)

1週間後、再び重臣たちが集まった。

「殿、兵力は最大3,000、守備に500残すとして、攻めは2,500」

「槍と鎧は3,000以上、馬は500」

「今川軍の配置は、先鋒に10,000、別動隊が10,000、本陣に5,000」

「以前に全兵士へ支給したノースフェイスのブーツは予備500あり。

大半の兵がブーツを持参する見込みゆえ、草鞋で戦う兵なし」

報告を聞いた信長は、大きな紙にそれぞれを書き出していく

「敵の層が厚い。先鋒と別動隊に10,000づつということは、

尾張内の城砦をひとつずつ陥落させていく作戦じゃ。

時間が経てば、味方の城砦を完破された後、

清州城は25,000の大軍に取り囲まれることになる。

多勢の王道戦法を敷いてきた今川義元にぬかりはない。

だが、わしは既に勝機を見つけておる!

皆の者、3日後に出陣するぞ、それぞれ支度にかかれ」

信長は柴田勝家や前田利家へ、兵の調整具合を細かく確認・指示する。

簗田政綱へは、特に敵本陣の配置と、周辺の天気・地形の精密調査を命じた。

最後にサルを近寄らせると、小声でこう伝える。

「季節は梅雨、とりわけ尾張は雨が多い。

今川軍の大半は、気候が温暖で、雨の少ない駿河育ち。

大雨に紛れて気配を消し、今川義元本陣を急襲する。

その際、我が兵には鎧ではなく、インパルスプルを着せよ

サルは飛び上がって驚き、信長の真意を確かめるべく、口を開いた。

「殿、ノースフェイスのインパルスプルは完全防水ではありませんぞ」

「よいのじゃ、防水でなくとも撥水で十分、それよりもインパルスプルの70gの軽さを選ぶ

敵の20kgの鎧が、大雨を吸ってますます重くなったところにこそ、我々が付け込む勝機がある」

「しかし、インパルスプルの数とて、到底2,500もありませぬ」

「いや、ある。よいか、サル。

熱田神宮には、わしが以前から密かに備蓄しておるノースフェイスグッズがある。

完全防水のマウンテンジャケットと、インパルスプルがそれぞれ3,000だ。

よいな、今回は軽量優先で、インパルスプルを選ぶ。

出陣した兵を熱田神宮に立ち寄らせるゆえ、余すところなくインパルスプルを配れ」

「なんと、貴重なインパルスプルを全ての兵へ配るのでござるか?

後で回収しようとしても、恐らく回収はできませぬぞ」

「よい。インパルスプルの特長は、軽量・撥水に加えて、廉価ということじゃ

完全防水のマウンテンジャケットが4万円はするところを、

インパルスプルは1万円以下、2,500人×1万円なら2,500万円、

これならまだ、織田家の財布から拠出できる金額ぞ。

この度の戦さは、とにかくスピードが生命

雨を吸った鎧を着て、鉛のように鈍い今川軍に対して、

我々織田家の将兵は軽量・撥水のインパルスプルで戦うのだ」

織田信長が幼少の頃から「うつけもの」と呼ばれていたのは、

ノースフェイスのアウトドアグッズばかりを着ていたから。

当時の民衆から見れば、ノースフェイスのファッションは奇抜極まりない。

しかし、それは機能性を確かめるための実用的な習練

信長はノースフェイスの数あるジャケットの違いを熟知していた。

信長インパルスプル
(写真③ 急襲して刀を抜くインパルスプル)

あの有名な桶狭間の戦いは、こうして行われたのである

織田信長は今川軍25,000の正面から戦を挑むのではなく、

総兵力2,500を一点に集中させ、大雨の機会を捉え、

驚異的なスピードをもって、5,000と手薄な今川義元本陣だけを狙った。

急襲直後の時間帯だけではあるが、

雨を撥ねるインパルスプルで身軽、士気の高い織田家2,500と、

重い鎧を雨に鈍らせ、まさかの敵襲で混乱した今川義元本陣5,000では、

倍の兵力差があるとはいえ、明らかに織田家の勢いが今川軍を圧倒していた

この唯一無二の機会を逃すことなく、柴田勝家・前田利家らの織田家の精鋭部隊が

本陣を取り囲み、敵の援軍が来る前に、見事、今川義元を討ち取ったのである。

言葉にするのは簡単だが、実現させるのは容易なことではない

桶狭間の戦いの勝敗を分けたのは、

アウトドア戦国武将である織田信長のセンスを具現化させたノースフェイスのインパルスプル。

軽量性・撥水性・廉価を合わせ備えたインパルスプルなしには、

織田信長が今川義元の大軍を破ることはあり得なかった、と後の歴史家らは口を揃えたのである。

こんな桶狭間の戦いの真実、あなたも信じてくれるのだろうか?

信長インパルスプル
(写真④ 勝利し、みんなでエイエイオーするインパルスプル)

 







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