樋口一葉の十三夜には、自分さえ我慢すれば周囲が幸せになるから、どんな不条理も甘受すべきだという考え方がある。
とりわけ一昔前の人たちにはそういう習慣が根付いていた。
別に現代人がそうではないと言いたいのではないが、時代の背景というものがあり、
昔の人たちのほうがそういう自己犠牲の精神を強く持っていたという事実を示しているだけ。
樋口一葉の『十三夜』は、今から約百年前、1895年に書かれた作品。
人類の長い歴史からすれば、わずか百年の時間の差なのだが、
その百年で女性の生き方が決定的に違ってきたことを文章の節々から覗うことができる。
主人公のお関は、若くして強引に恋女房にもらわれたが、
態度を急変させて冷淡になった夫のことを、ついに両親にこぼしてしまう。
それも、具体的にお関の何が悪いと指摘するのではなく一方的につまらない奴と言うだけで何の解決も計ろうとしない夫に
もう耐えられないので離婚させてくれ、子供と離れ離れになってもいいと泣き付くのだ。
このお関の言葉は彼女のワガママから出たものだけではなく、時代を超えた女性たちの本音、人間の一般的な要求だ。
娘の辛い気持ちをこの時初めて聞いた両親は、それぞれ違う言葉を娘にかける。
母親は娘に同情し、娘婿に怒りを覚え、そんな夫に我慢することはないと言う。
この母親の言葉もやはり女性全体、人間全体の本音である。
しかし父親の言葉は違うものだった。
離縁すれば子供は父方に引き取られ二度と逢うことも叶わなくなる、
弟が職を得ているのも娘婿の伝手のお陰だと説き、お関が不幸なのも分かるが離縁すれば家族全員が不幸になる、
同じ不幸であれば今の不幸を我慢するほうがよほどましだ、と静かに諭す。
この父親の言葉は親心から出たものだけではなく、当時の一般的な道理であった。
その証拠に、お関は父のその言葉を聞くと泣き崩れ、至極最もだということを悟る。
そして己を取り戻し、私の身体は今夜を初めに夫のものだと思います、とまで言ってのけるのだ。
お関のように、当時の女性たちは社会的な地位を獲得することができず、
夫や親や国や社会など他本位の生活を余儀なくされ、自分の意志を優先させられなかった。
当時の離婚制度にそれが顕著だ。
『十三夜』が発表された明治28年から溯ること5年、明治23年に公布された旧民法では、
夫婦が互いに離婚の意志を持っていることに加え、裁判離婚の制度があった。
合意を前提として、さらに一定の手続きを経て離婚判決がされないと離婚は認められなかった。
夫から妻への一方的な離婚申出を抑制するための制度のようだが、大きな問題があった。
当時の風習として、離婚裁判とは家の無様を世間にさらすことと捉えられ、女性にとって致命的な恥だったのだ。
ただでさえ女性に不利な法だが、更に明治31年公布の明治民法で離婚裁判の必要がなくなる。
これは女性にとり更に不利となる内容であって、
これによって男性は家のもめごとを裁判ざたにはせず一方的に妻を追い出し離婚できるようになった。
社会的に弱い立場にあった女性は、男性から離婚を切り出されたら断る意志はなかった。
明治という時代には女性の立場がさらに弱くなりつつある傾向があった。
本来あるべき姿とは逆行をたどるそんな時代に書かれたこの『十三夜』では、
当時の女性たちにとって、生きることがいかに不条理であったかを樋口一葉は訴えているのだ。
『十三夜』にはお関だけではなく、もう一人の不運な人物が登場する。
女房に逃げられ、子に死に別れ、すっかり落ちぶれた幼なじみの録之助だ。
この物語は当時の女性たちの生きる不条理を書いたものであると同時に、当時に生きた人間たちの不条理を示している。
お関は当時のシンデレラストーリーを叶えた娘であった。
普通の家に育ったのに、突然身分確かな家にもらわれ、一子をもうけた若奥様として何ひとつ不自由のない暮らしをしている。
録之助は録之助で近所の評判の美人を妻に迎え、子も産まれた。
そんな二人はお互い幸せであってもいいはずが、二人は共に不幸を我慢し続けて生きていた。
お関と録之助は子供心に想い合った仲だった。
しかし思いがけぬ縁談でお関が嫁にゆき、しっかり者だった録之助が直後から身を持ち崩した。
理想かと思われたお関の結婚生活も思うようなものではなかった。
まるで二人は他の誰とでもなく、お互いと結ばれたほうが幸せだったかのように見える。
だが二人ともそんなことは相手に告げず、ただお互いを励まし合って東と南に別れる。
最後に録之助は「お別れ申すが惜しいと言ってもこれが夢ながら仕方のない事」と言う。
身分がはっきりと区分けされ、その身分の範疇で生きることしか許されなかったこの時代では、
自分の意志通り生きるということが現代と比べて遥かに困難だった。
生きること自体が今と比べてずっと不条理だったのだ。
不条理ななかでもお関は精一杯前向きな考え方をする。
自分が戻る家の生活も不条理であれば、録之助の帰る宿の暮らしも不条理。
録之助はお関が幸せに暮らしていると思ったのか、
己を卑下するような言葉ばかりを言っていたが、実は互い同じく不条理な人生を生きている。
自分だけが不幸だとは思わず、与えられた今を精一杯生きよう、とお関は思い始めてゆく。
そんなお関の生き様が描かれたこの物語を通して、
不条理であっても生きるしかなかった時代の女性像、ひいてはそれぞれ不幸を背負っても
強く生きてきた人間の強い姿を垣間見ることができる気がしている。
自由民権運動、明治維新以降に民衆が得た平等の権利
そもそも自由民権運動の「自由」という言葉は当時どのような意味で使われたのであろうか。
「自由」とはオランダ語や英語として西洋から入ってきた言葉を和訳したものだという。
つまり、それ以前の日本社会に「自由」という言葉は存在しなかったのだ。
近代思想としての「自由」は自由民権運動から始まるわけだが、
その始まりには当時の日本人の大部分は、この近代思想としての『自由』の意味を
本当に理解していたわけではなかったというように、
「何でも許される自由」「我がままの権利」として誤った形で理解されることもあった。
このことから、この言葉が日本の一般社会にとってはいかに真新しい言葉であり、思想であったかが容易に推測できる。
自由民権論者たちが主張した「自由こそが天から人間に生まれながらにして与えられているもっとも大切な権利」
という考え方に加え、「平等」という言葉がいつしか民衆の間で独り歩きするようになる。
我が国では明治維新以来の四民平等によって初めて認められた「平等」の意識であるが、
明治時代にはまだ封建思想が濃厚にのこっていたため民衆に「平等」の近代的意味が
正確に理解されることはなかった。反抗の道具としての言葉に留まっていたのである。
しかし、この「自由」や「民権」「平等」の言葉の近代的な意味を理解した一部の人々が、
明治維新後に日本初の民衆運動が始めたことは本邦の歴史上、評価に値する。
自由党の鈴木舎定は「人は誰も皆生まれながら天より自由の権利を与へられております」と言った。
ここで「天」を議論に持ち出してきたことは大きい。それまでの明治以前の儒教学では
「天」は支配者層の頂点である将軍や天皇の存在を指していたものが、
この発言における「天」とは、ひとつの人格ではない全体世界としての「天」であり、
特定の支配者のことを意味するものではなくなっているのである。
つまり、儒教思想における「天」の思想を打破したことに、自由民権運動の大きな価値があるのだ。
残念ながら、結果としてこの時代の民衆運動は最後までその姿勢を貫けずに失敗に終わっている。
絶対的支配のための封建制度維持を図った勢力に敗北しているのである。
ただ忘れてはならないのは、日本初のブルジョア民主主義思想がこの自由民権運動にあったということである。
結果は惨敗だったが、日本の民衆が歴史上初めて近代思想と言論による民衆運動をしたことに大きな意味があったのだ。
日本の近代における民衆闘争の特徴事情として、天皇の存在を挙げたいと思う。
そもそもこれは、明治の文明開化がすべて天皇を中心として行われたことで、
当時の民衆が持つ天皇への考え方は形成され、その名残が続いていたのだ。
文部省による徹底した天皇崇拝教育がそれを後押しした。
当時の日本社会には天皇は絶対であるという深い意識が根付いていたのだ。
ただ、ここにきて天皇の存在が日本の近代化という点では
市民を阻止するものであるという意味を持ち始めるようになってくる。
結局、天皇を頂点とする支配基盤を固めた明治政府は、民衆中心の政治体制を封印したことになるからだ。
当時の民衆が持つ点のへの考え方は、自由民権運動の国会開設要求の方法に顕著だ。
自分たちの力で天皇制を打倒するのではなく、民衆が天皇へ哀願し、
天皇の賢察によって国会開設の救済を求める、という間接的な形をとっている。
反政府運動であれば現存の天皇体制打破を掲げて当然である。
この意味で、自由民権運動は本来の意味での反政府運動にはなりえなかった。
そこには、神話以来の天皇崇拝の伝統から脱却できない日本民衆の姿がある。
天皇制による支配国家体制を確立しようとした明治政府に対して、
民主主義に基づく立憲制国家建設を民衆が目指そうとした時、
そこに立ちはだかったのは別の意味で民衆にイデオロギー化していた、
天皇という存在であったのは近代日本独特の皮肉であろう。
ここに自由民権運動の特質のひとつがあったである。
このようないびつな形で始まり、そのしがらみを打破できなかったことから
頓挫してしまった近代の自由民権運動ではあったが、
方向性を突き詰めれば西欧の民主主義運動の流れを汲む、現代につながる民衆運動の黎明期であった。