エネルギー循環

エネルギー循環を発見した物理学者はさぞ驚いただろうな。

いいかい、地球にあるエネルギーは循環する。


宇宙から降り注がれた太陽エネルギーが、光合成によって植物を育てると、その植物を食べる小動物が生まれ、

さらには小動物を捕食するより大きい動物が発生することで、生態系を組み重ねていった。


太陽エネルギーは植物や動物を育て上げて、しかも留まることがない。

動物の身体に蓄えられた太陽エネルギーは、死んでは微生物たちに分解され、その微生物の死骸が緑豊かな森へとさらに循環する。


森の植物を食べ、身体中に太陽エネルギーをたっぷり蓄えた動物たちが走り回る。

走ることで太陽エネルギーは失われてゆくが、エネルギーが消滅したというよりは、

運動エネルギーが音エネルギー・熱エネルギーというものに分散されていき、

それらはいずれ地球から宇宙への放射ということで、夜には宇宙へ帰ってゆくじゃないか。


面白いのはその総量のこと。

やってきた太陽エネルギーと、帰ってゆく放射エネルギーの総量はイコールになる。

地球を駆け巡ったと思ったら、エネルギーは留まることなく、その全てが宇宙に帰ってゆくのだ。

それがエネルギーの循環の姿。


とある高僧は言ったよ。自分が失えば他が得る、と。

恵まれた自分が、小さな落し物をするだろう。お金をどこかに寄付するだろう。

それは消えてなくなるものじゃないね。

自分が何かを失えば、失ったその分だけ、どこかの誰かが得ている。


ねぇ、君が知らずと財布を落としたとしよう。

それは本当に不幸なこと?

自分が失っただけの富と幸を、財布を拾った他の誰かが得るのだから、お金も幸も不幸も循環しているんだ。


経済もしかり。

ひとつの企業がつぶれれば、他のどこかの企業がその分だけ利益を得ている。

何かで荒稼ぎしている一流企業の陰には、利益が出なくて消えてゆく弱小企業がある。

それもこれも、循環しているだけなんだよ。


誰かと出逢って、愛を育む。

その幸せな季節が終わったら、また他の誰かと出逢って愛が生まれる。

恋ですら、留まるところを知らずに流れに流れて、循環してゆくもの。


川の水は、いずれ海に注いで蒸発し、雲になっては雨降りを通してまた川を形成してゆく。

ヒンズー教の世界では生命の輪廻転生が唱えられている。

前世の宿命を背負って、現世の僕たちが生きているという。

来世のことまで考えて、僕たちは今を生きようという考え方。


エネルギーの循環を見つけた現代の物理学者はこう思うんじゃないかな。

私が見つけたエネルギー循環の考え方は、昔から引き継がれてきた回り回る人生の考え方と同じなのだ、と。


そう、実際同じなんだよ!

ゼロから生まれたものはなくて、どこかから何かを与えられて今の私がある。

その私もいずれは滅び、他の何かに変わってゆく。

昔の人はよく言ったものだ。

生命は輪廻転生する。

自然の生態系では、生と死が循環しながら共存している。


だから物理学者が見つけた現代のエネルギー循環論は最新のものじゃないよ。

生物や人類以前、はるか四十億年前から営まれてきたものじゃないか。

自然の循環だってほら、地球に生命体が生まれた三十億年以上前から繰り返されてきた。

それと比べれば経済のお話なんて、ついこの間、ここ千年に盛り上がってきたものだね。


昔の人はよくぞ言った。人の命は輪廻転生を繰り返す、って。

でも、それは四十億年の歴史を考えればごく新しい知識だね。

新しい知識を、昔の人が指摘している。


自然のサイクルはそのひとつ古い知識。ひとつ現代に遡った人がそれを見つけた。

エネルギー循環っていう一番古い知識に、人がたどり着いたのはこの現代になってから。


最近の知識を、中世人が見つけ、

太古の知識を、近代人が見つけ、

最古の知識を、現代人が見つけ、

宇宙の知識を、未来人が見つける?


エネルギーも自然も人も、みんな循環する。

何もかもが、昔から今から未来へと、流れ流れてゆく。

それを我々人類が悟るのは新しいものから。

古くて根源的なものはなかなか見つけられない。

循環するものの発見も、今は昔の面白い物語。

 



結婚式 ご祝儀 相場

昨今の結婚式のご祝儀金額の相場は 友人3万 親戚5万 家族10万 だと言う

難しいのはそれだけの大金を持参しても他の参加者のご祝儀にまぎれて

本当のセレブレイトの想いはちゃんと伝わらない ということ

最後に記憶に残るのは ご祝儀の金額の相場 という 世間で決まったカタチ じゃない

そこに自分らしい何をプラスして伝えなくちゃ

相場を包んでも相手には伝わりにくいのが結婚式なんだ

だってライバルが多過ぎるから

ご祝儀の相場で10万円を包む肉親たちの方がインパクトは強いし

受付や余興を引き受けてくれた友人たちの方が それは記憶には残るよ

そこで僕たちは何をしてあげられるだろう

例えばご祝儀袋に気持ちの込めた短い手紙を入れてみたり

例えば結婚式の最中にカメラやビデオを積極的に撮って

それを後で新郎新婦にプレゼントしてみたり

ご祝儀の金額の相場をあげることも大事だけど

そういうプラスアルファーをしてあげる方がよっぽど祝福の気持ちが相手に届く

といっても そういうことばかりを重要視して

ご祝儀の金額の相場を守らないのは逆効果だけどね

どうも相場のご祝儀じゃ お祝いの仕方としては 足りないみたいだよ

こんなところにも競争社会? 3枚や5枚のお金は何も語ってくれない

「おめでとう!」を伝えたいなら わざわざ結婚式会場まで行く手間と

ご祝儀の相場を払うポケットと 加えてもうひとつ何かやらないと

本当のお祝いの相場は達しない っていうのが 厳しいところだね

 



与謝蕪村 俳句

「折釘に烏帽子かけたり春の宿」という蕪村の句には俳諧として高度な技術が織り込まれている。

烏帽子をかぶるような高貴な人物が、旅先なのか日常なのか

思いがけず一夜を明かすことになってしまい、いつものように烏帽子をかける専用の場所が

見つからなかったのでとりあえず目に付いた折釘にかけておいた、というシーンを想像すれば、

当然読み手としてはその宿の相手に想像がゆくのであり、

春という季節も重なると生命の息吹に満ち溢れた輝かしい情景を思い浮かべることができる。

連想を投げつけて芸術三昧であったところの稀有な名手であればこそ、

これは連想も技術も行き届いている名句と言っていいだろう。


一方で、芭蕉の「閑さや岩にしみ入蝉の声」の句はどうか。

蝉を涼しく感じる、あるいは暑く感じられると詠むという従来からの決まりを一変させ、

立石寺の閑寂の中に蝉の声を「しみ入」らせた手法が斬新ではあるが、本当にうたっているのは技でも連想でもない。

ただ、芭蕉個人が感じたそのままの「感情」である。

 

この二人の名手にはお互いうわついたところがない。

自分の人生には俳諧しかないと信じ、人生を通してそのための旅に身を置き、

俳諧という芸術こそが自分の全てとした芭蕉だから、この句のように芭蕉の精一杯の心、等身大の表現が句に投影されている。

蕪村もまた、完璧すぎてうわついたところがない。

ただしその性質は芭蕉とは明らかに異なっている。

絵というメインの仕事があったからこそ、蕪村は俳諧に対して自分が求める上限を知っていて、

それ以上のものを求めなかったことが、彼のうわつきのなさにつながっているのではないか。

それが証拠に、辞世の句で「白梅に明る夜ばかりとなりにけり」と残して

蕪村は美しい世界の中で満足しながら死んでいった。

芭蕉は限度がないほど自己表現のアートとしての俳諧に生き様を求め続けていた故に、

「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」というはっきりと心残りのある句が生まれたのではないか。

二人の辞世の句からは、それぞれの自分自身の人生への姿勢と結末が浮かび上がってくるのが見えるようだ。


一方、連句に目を向けると「市中は」に収められた芭蕉の作品に「草庵に暫く居ては打ち破り」というものがある。

これは前句の「ゆがみて蓋の合はぬ半櫃」や前々句の「そのままに転び落ちたる升落」を受けての句だが、

役に立たない半櫃や枡落がありそうな場所を連想して草庵を思いつき、

その草庵におそらくはしばらく滞在していたがいよいよ旅に出ようとしている主を思い浮かべている。

その内容に切り替えした中で「打ち破り」という結びの言葉は動的な表現が力強く、

その前まで続いた単純な物の連想の遊びを打ち消すかのようだ。

そして勢いよく主を旅立たそうとしたかのような芭蕉の句には、たゆまぬ旅への憧れ、

漂泊して俳諧の芸を極めたいという彼の感情が盛り込まれているようだ。

技能よりも感情を優先して句にする芭蕉の表現方法がこの連句にもよく現れている。


蕪村の「此ほとり一夜四歌仙」所収の連句「薄見つ」の巻に「春もおくある月の山寺」という句があり、

これは「矢を負うし男鹿来て霞む夜に」に対する付合である。


傷ついた男鹿の突然な登場に対し、蕪村はその豊かな感覚美と雅高い想像力を活かして

句を通して動物往生譚を創作したのである。

前の句を詠んだ人間はそこまで求めずただ詠んだだけかもしれない。

だが蕪村は、矢を負って瀕死状態の男鹿が成仏を願って月の霞む山寺にやってきた、

という美しい空想のストーリーを前句との連想で一息に創り上げてしまった。

男鹿さえも浄土の仏の世界を求めていて、それに晩春という季節を重ねることで

より美しく、より儚い世界を心に遊ばせる。

この詩的な付号の妙こそが蕪村の特徴だ。


芭蕉は言葉のテクニックよりも、心の俳諧の修練を力説したと伝えられている。

芸術のための芸術である蕪村と、生のための芸術の芭蕉では、

同じ俳諧の名手といえども全く別の向き合い方をしていたのだと想像してもあながち過ちではないだろう。

一般論として、テクニックは抜群であるが中身の単調さを指摘されるのが蕪村で、

うたっていることはひどくシンプルのくせにその句には無限の奥行きを感じることができると言われるのが芭蕉である。

和歌以来の伝統からの季語をテクニカル的にいじることでそこに芸術の美を出現させ、

ゆとりある人生を満足に生きたのが蕪村で、物事を自分が感じたままにうたい

人生そのものを俳諧で表現することに終始してもがいている、ぎりぎりいっぱいなのが芭蕉。

それぞれの生き方の違いが、二人の俳諧にはそのまま映し出されているようだ。



芭蕉の俳句

芭蕉の俳句は、社会的身分に関係ない視点で事実をあるがままに表現したことで


本邦の文芸史上でも現実主義確立の上で重要な転機となった。


芭蕉によって、文芸がより庶民に身近なものとなったのである。


それを踏まえた上で、私は一方で芭蕉が抱えていただろう民衆と己との葛藤についてまとめてみた。


限られた文字数で表現をする俳諧には表現の方法にも制限が出てくる。


また、それまでの歴史に培われてきた文学の歴史があり、人間には不変の美学というものもある。

 

芭蕉の時代にも大昔から伝統とされてきた和歌の美学を欠かすことはできなかったのである。

 


和歌の繁栄で確立されたその不変の美学を、芭蕉の俳句にも見ることができる。

 

芭蕉の俳諧は、和歌から続いた普遍の美学を引き継いだ。

 

その上で、芭蕉は庶民の普段の生活に密着した俳諧を創り上げ、


また、素人の人間が創る俳諧も肯定することで文芸の垣根を取り払った。


より庶民の生活に根付いた文芸を築いたのである。

 

『何に此 師走の市に ゆくからす』 元禄二年

 

ここに詠われたからすには芭蕉が己を投影させている。

 

師走の人の忙しさなどを知らずに市に飛んできたからすがいた。

 

俳諧に没頭し、庶民とはかけ離れた暮らしをしていた芭蕉もまた、師走の忙しさを意識することなく市に来たのだろう。

 


庶民の活発な生活力を前に圧倒されている芭蕉の姿が想像できる。

 

己の姿を醜いからすに例えたことで芭蕉が庶民の生活を見下しているわけではないことが分かる。

 

いや、それどころか地味なからすと比較させることで、

 

生活力に溢れた師走の庶民を輝く存在にしようとしたのではないか。


庶民の日常にどこかで憧れ、しかしそれには同化できなかった己に対して悩んでいる姿も見えてくるようだ。

 

芭蕉は文芸をもっと庶民に身近なものとするために俳諧の世界を築き上げてきたといってもよい。

 

しかし、俳諧だけに専念して日常の生活に追われていなかった芭蕉は、

 

いつしか庶民の感覚とは違う世界にいるようになってしまった。

 

和歌時代には一握りの地位ある人間の特権として生まれた文芸を

 

より庶民の方に近付けたという意味で、芭蕉の功績は称えて良いものである。

 

だがしかし、この俳句に見られるように、芭蕉自身は民衆に同化できず、


己の居場所を模索して悩み苦しんでいたのである。


文芸が庶民に近付いても、己を庶民に近付けることはできなかったのである。

 


『秋深し 隣は何を する人ぞ』 元禄七年


秋季の円熟を初句に呼びかけるが、その次にくる言葉はあまりに現実的である。

 

この落差は何なのか。これもまた、芭蕉の俳諧の世界と庶民の生活に存在した溝なのだ。

 


秋の深さを想う文芸的な気持ちはある。

 

だがその一方で、これまで隣人の職業さえ知ろうとしなかった自分の生活に

 

思い当たった時に芭蕉が感じた一抹の寂しさをここで窺うことができる。

 

この秋の深さを嘆く姿は、同時に己の人生の終焉を感じ取っている姿に重なってくる。

 

己が築き上げてきた俳諧の世界は円熟し、終わりを迎える段階にまできた。

 

だが、すぐ隣にあった庶民の世界のことさえも、

 

結局自分は何も知ろうとはしなかった、という反省の気持ちも含まれるのである。

 


ここでも芭蕉は己の俳諧の成果について疑問を持っているのである。

 

自分は民衆に文芸の素晴らしさをより知ってもらうために俳諧に人生を費やしてきた。


だが、自分はその民衆の中に溶け込むことができないのである。


この俳句のように隣人に対しても疑問を持つだけで、結局はそれ以上の追求をすることもないまま生きてきたのである。

 

人生の終盤を感じながら、芭蕉は今までの己の姿に疑問を隠すことができなかったのである。


『月しろや 膝に手を置 宵の宿』 笈日記 元禄八年刊

 

この俳句は、大商人・正秀宅での句会に招かれた時に芭蕉が詠んだ句である。

 

前述の俳句に見られたように、芭蕉は俳諧だけに生きてきた己と、


生活のために生きてきた民衆との狭間で悩んでいた部分もあった。

 

だが、その悩む姿だけが芭蕉の本性ではなかった。

 

芭蕉は己の俳諧に絶対な自信を持っていたのである。

 

俳諧の道に生きる己と民衆との距離はあってしかるべきものである。

 

そう割り切り、自信に満ちていた芭蕉の心がこの句に込められていると思う。


月が出る前の、空の白み。その時間帯には、生活のための民衆の労働は終わっている

 

つまり、日常生活は終わっている。


そんな時間帯に催される句会で、芭蕉は膝に手を置いた。

 

膝に手を置く仕草は、別に緊張を意味しているわけではない。

 

芭蕉はこの時を待っていたのである。

 

月は風流の象徴である。月が出る瞬間を境として、民衆の生活の時間は終わり、自分の俳諧の出番が来た。

 

自分が人生を賭けてきた俳諧のショータイムが来たのを知って、意気込む芭蕉の姿が思い浮かんでくる。


それも、決して堅くならずに、あくまで自然体で俳諧の世界に入ろうとしている芭蕉の姿だ。

 

民衆の日常になじむことができなくとも、己の得意とする俳諧の世界では己の思うがままに表現ができる。

 

そんな絶対的な自信を持って膝に手を置く芭蕉の姿が想像できてくる。

 

芭蕉が詠んだこの俳句からは、松尾芭蕉が歩んだ人生が想像できてくる。

 

芭蕉がしようとしたのは、俳諧という方法による民衆と文芸との接近だ。

 

確かに彼はそれに成功した。

 

だが結局、芭蕉は自分自身と民衆との間には常に壁を意識していた。

 

俳諧が壁を越えても、己は越えることができなかったのだ。

 

それでも芭蕉は臆することなく、己の俳諧の世界を追及した。

 

最後まで芭蕉自身は民衆に迎合することはできなかったが、

 

悩み、苦しみつつも俳句に命を注いだ芭蕉の精一杯の姿が見えてくる。





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