人生相渉論争

人生相渉論争において明らかにされた透谷と愛山の文学解釈には、三つの相違点と三つの共通点がある。


透谷にとって文学とは各人が人生を過ごすなかで必ずや生まれるだろう生きることの謎や人生の目標、


そういったものを克服するためにとる手段であり、文学を書くという行為にあまり意味を持たせず、


最終的に各個人の人生にとって有意義なものであったかどうかに価値を見出している。

 


それに比べ愛山は、文学を通して発揮した成果は各個人が判断できるものではなく、


それは時代や世間が判断するものだと考えている。


その文学がその時代にとり具体的な成果をあげたかどうか、その点に価値判断の基準を持たせている。

 

この双方の考え方は双方に筋が通っており、一概にどちらを否定することはできない。


しかし、文学が芸術である以上は、透谷の考え方のほうがより芸術の真意に近いと思われる。


文学を芸術として捉えず、マスメディアとして理解するならば、愛山の理解も納得できる。


しかし、文学は芸術であり、芸術とは創造者の独自の美しい観念を表すものであろうと思う。

 

 

 

 

次に両者は、文学や現実世界の捉え方が違う。


愛山は一元的に捉えるので、表面に現れたものが全てであるという考え方を持つ。


透谷は物事を二重のものとして捉える。


外側が美しくともそれはただ単に外見が元々美しかったのではなく、


内側に秘めた美しい精神が外側に滲み出し、美しいものを形成したと考えるのだ。

 

 

これは誰にでも判断できるものであろう。

 

例え美言ばかりを並べ、綺麗に創り上げた文章であっても、そこに本物の思想がない限りは空虚な文章となる。


ヨーロッパの美しい街並も、ただ莫大な金をつぎ込んだからこそできたものではない。


そこに長い長い歴史があり、職人たちの技術があり、多くの感動があったからこそできたものである。


何でもそうだが、物事を表面の美醜だけで判断しては狭い人間止まりとなってしまう。


この点においても、透谷のほうがより深い理解に到達していると思う。

 

 

最後の相違点として、人生の存在理由についての意見がある。


山路愛山は、人生は人が何を考える前にそこにあった「事実」であり、


過去や未来との係わり合いを重視せず、今現在の時代だけを指している。


つまり、非常に現実的な考えであり、科学に近い。


それに反して透谷の考え方は哲学である。


人生が何故そこに形としてあるのかを考える。


考える前から人生がそこにあったとは考えない。


その個人の葛藤の中から生まれた内面の思想、「内部生命」が具体的な形をもったことで現れたのが人生であると考える。

 

この双方の考え方もどちらもよく理解できる。

 


文学を通し、人生を具体的に前進させたいと考えたのが愛山である。


当時の明治政府による国家主義にとって有益な文学を創り、重用されることを第一の目標としたかのようである。


比べて透谷は、人生を精神的に前進させたいと考えた観がある。


具体的な生活のことなど考えず、あくまで己自身への問いかけの答えを探す旅に文学という方法を選んだかのようである。


しかし文学が芸術の表現方法である以上、私は透谷の考え方を潔いと思う。

 

この論争で意見の対立をみた二人だが、文学を理解する根本的なところで共通点があった。


両名とも、文学には世に大きな影響をもたらす力があると思っていた。


愛山にとってはその考え方そのものが社会を動かす大きな力であり、


透谷にとっては個人の人生観を左右すると同時に、世にその思想を発表すれば大きな力となり、


世に影響をもたらすという理解があった。

 


お互いに文学には世の中をいっそう善いものとし、いっそう幸福なものにできるという力があることをわきまえていた。

 

またこの論争においては、当時の時代をいかに理解するのかというときに文学を通して判断しようとした点で共通していた。


確かに北村透谷は文学を個人の問題として結論付け、


愛山は時代をいきる術として文学をみたというところに相違はあるが、そもそも二人とも明治時代の国家主義に触れたとき、


何をもって己と時代の関係をはかったかといえば、それは文学の意義であった。

 

そして二人は、己の信じる文学の行方が、己の生き方であるという点において共通した人間であった。


捉え方の方法が違い、意見の対立を生んだ二人ではあったが、文学に生き、文学を人生の意義とした姿勢は、まったく同じである。


この三つの共通点を通して見えてくるのは、方法は違えども同じように文学に情熱を傾けた文学者の姿である。

 


先の三つの相違点を批評という形でみれば、文学が芸術である以上、透谷の意見のほうがより本来の文学の意義に近く、


意見として優れていると思われる。


しかし人が十人いれば十通りの考え方があるように、対戦を目の前にした明治という時代に


二人の文学者が本音の部分で意見をぶつけ合った、という事実それだけで評価できる。


主張の内容はともかく、文学をより深いものにしようとした二人の文学者の姿がそこにあるからだ。

 

安部公房 終りし道の標べに

安部公房の『終りし道の標べに』は、落ちるところまで落ちた人間が生還する様を描こうとした小説と感じた。

 

「私」が意識するのは遠い場所に捨ててきた「故郷」である。


どの時代でも自己を示す社会的要素は人の存在に不可欠なものであろう。


ましてや、戦争という時代の大きな波の中にある人が、家族はいなかったにしろ、


友人や会社という社会を捨て、「おまえ」との愛を捨て、


赤紙から逃げることで国家を捨て、一般的な世間というものから逃亡した。

 


「故郷」と別離した人間が満州という、本土から見れば別世界に違いない場所に逃走した時点からスタートするのである。


この故郷喪失の「私」の姿はただ単に故郷に絶望して悶々と悩むだけの姿に留まらない。


そこに何かを見出そうと絶望以上の行動を取り、故郷を拒絶さえしてしまうのである。


誰でも社会に不満を抱くのは当然であるが、公房の「私」はそれを越えて能動的に一歩踏み込んでいる。

 

加えて「私」は、自分自身をまっとうな一人の人間として見ようとしない。


「私」は草の芽に噛み付き、顔中で地面をこすったりする。


阿片に溺れて現実と幻覚の狭間を行ったり来たりする。

 

 

 


まるで自分自身が人間ではなく、「あたかも物自体のように存在をつづけている」(第一のノート)。


公房は主人公をここまでどん底に落とすことで、


一番底の視点から人間の存在と本質を再考しようとしたのではないか。

 

人は生まれた時から人として存在するが、その存在以前に人というものの本質が何なのか。


日常では考えることすら必要のないそのことを追求しようとしたのは


異色作家と呼ばれる公房らしい視点である。

 

この作品で三島の「仮面の告白」と似た使われ方をしているものを私は見つけた気がする。


「私」が飲む阿片が、故郷という「人間」世界と、逃亡先の満州という「物」世界との境を越えるための


「仮面」として利用されているのだ。

 


不自然な人間の深層部分を問い詰めようとする過程に


不自然さを出さないために阿片服毒という非日常をきっかけとさせている。

 

これは公房が世間に譲った妥協点であり、はぐらかしの方法ではないだろうか。


公房のこの人間への失望には、少なからずとも第一世界大戦の影響がある。

 

人間の愚かさを考え、人間への不信を抱いた人々、


特にヨーロッパの人々が人間の本質というものを考え直す活動を始めていた。


公房は戦後の作家たちの集まり「夜の会」を通してこの考え方に影響を強く受けた一人であり、


人間とは一体何者なのだという疑問を進化させて考えたところにこの『終りし道の標べに』の「私」がいる。

 

 

ただし、その安部公房の考えは「私はちゃんと知っている。ここにとどまっていることの恐るべき自己欺瞞を」


「そう、今なら分かる、私の逃走は、自己を占有するための実験だったらしい」(第二のノート)


という言葉の通り、最終的には同じ場所に戻ってきてしまう。


自分を物として「無意識」の奥の世界まで覗くとした結果が、


所詮は実験に終わったに過ぎず、やはり人間は物で終わる生物ではなく、


人間という動物として生きてゆくしかないのだ、という諦めにたどり着いた。

 

結局は自己確認に過ぎなかったのである。

 


「とどまりながら、しかも歩き続けなければならないという、こっけいな矛盾」(十三枚の紙に書かれた追録)


との言葉が示す通り、「故郷」を捨てて生きた場所には何も存在せず、


それ以上の進展がない以上、「私」は神にもなれず虚無でもなく、ただの人間でしかなかった。


人間だから昔と同じ場所に戻りつつ、「粘土」のように常に形態を変化させながら、


しかしどうにか人間の範疇をあがくしかない。

 

 

結局最後に「私」がたどりついたのは「終わった所から始めた旅に、終わりはない」という答えのない原点だったのだ。


戦後、新しい思想が飛び交う時代の中で、人間そのものを見つめようとした結果、


結局は同じ場所に戻ってきてしまった公房の虚無の深さが伝わってくる。

 

ただし、結果がどうあれ追求せずにいられなかった公房の心中を察すると人間の痛々しささえ感じられるではないか。

 

十三夜 樋口一葉

樋口一葉の十三夜には、自分さえ我慢すれば周囲が幸せになるから、どんな不条理も甘受すべきだという考え方がある。


とりわけ一昔前の人たちにはそういう習慣が根付いていた。


別に現代人がそうではないと言いたいのではないが、時代の背景というものがあり、


昔の人たちのほうがそういう自己犠牲の精神を強く持っていたという事実を示しているだけね。

 

樋口一葉の『十三夜』は、今から約百年前、1895年に書かれた作品。


人類の長い歴史からすれば、わずか百年の時間の差なのだが、


その百年で女性の生き方が決定的に違ってきたことを文章の節々から覗うことができる。

 

主人公のお関は、若くして強引に恋女房にもらわれたが、


態度を急変させて冷淡になった夫のことを、ついに両親にこぼしてしまう。

それも、具体的にお関の何が悪いと指摘するのではなく一方的につまらない奴と言うだけで何の解決も計ろうとしない夫に


もう耐えられないので離婚させてくれ、子供と離れ離れになってもいいと泣き付くのだ。

 

このお関の言葉は彼女のワガママから出たものだけではなく、時代を超えた女性たちの本音、人間の一般的な要求だ。


娘の辛い気持ちをこの時初めて聞いた両親は、それぞれ違う言葉を娘にかける。


母親は娘に同情し、娘婿に怒りを覚え、そんな夫に我慢することはないと言う。


この母親の言葉もやはり女性全体、人間全体の本音である。

 

しかし父親の言葉は違うものだった。


離縁すれば子供は父方に引き取られ二度と逢うことも叶わなくなる、


弟が職を得ているのも娘婿の伝手のお陰だと説き、お関が不幸なのも分かるが離縁すれば家族全員が不幸になる、

同じ不幸であれば今の不幸を我慢するほうがよほどましだ、と静かに諭す。

 

この父親の言葉は親心から出たものだけではなく、当時の一般的な道理であった。


その証拠に、お関は父のその言葉を聞くと泣き崩れ、至極最もだということを悟る。


そして己を取り戻し、私の身体は今夜を初めに夫のものだと思います、とまで言ってのけるのだ。

 

 

 


お関のように、当時の女性たちは社会的な地位を獲得することができず、


夫や親や国や社会など他本位の生活を余儀なくされ、自分の意志を優先させられなかった。


当時の離婚制度にそれが顕著だ。


『十三夜』が発表された明治28年から溯ること5年、明治23年に公布された旧民法では、


夫婦が互いに離婚の意志を持っていることに加え、裁判離婚の制度があった。


合意を前提として、さらに一定の手続きを経て離婚判決がされないと離婚は認められなかった。


夫から妻への一方的な離婚申出を抑制するための制度のようだが、大きな問題があった。

 

当時の風習として、離婚裁判とは家の無様を世間にさらすことと捉えられ、女性にとって致命的な恥だったのだ。


ただでさえ女性に不利な法だが、更に明治31年公布の明治民法で離婚裁判の必要がなくなる。


これは女性にとり更に不利となる内容であって、


これによって男性は家のもめごとを裁判ざたにはせず一方的に妻を追い出し離婚できるようになった。

社会的に弱い立場にあった女性は、男性から離婚を切り出されたら断る意志はなかった。

 

明治という時代には女性の立場がさらに弱くなりつつある傾向があった。


本来あるべき姿とは逆行をたどるそんな時代に書かれたこの『十三夜』では、


当時の女性たちにとって、生きることがいかに不条理であったかを樋口一葉は訴えているのだ。

 

『十三夜』にはお関だけではなく、もう一人の不運な人物が登場する。


女房に逃げられ、子に死に別れ、すっかり落ちぶれた幼なじみの録之助だ。


この物語は当時の女性たちの生きる不条理を書いたものであると同時に、当時に生きた人間たちの不条理を示している。

 

お関は当時のシンデレラストーリーを叶えた娘であった。


普通の家に育ったのに、突然身分確かな家にもらわれ、一子をもうけた若奥様として何ひとつ不自由のない暮らしをしている。


録之助は録之助で近所の評判の美人を妻に迎え、子も産まれた。


そんな二人はお互い幸せであってもいいはずが、二人は共に不幸を我慢し続けて生きていた。

 

お関と録之助は子供心に想い合った仲だった。


しかし思いがけぬ縁談でお関が嫁にゆき、しっかり者だった録之助が直後から身を持ち崩した。


理想かと思われたお関の結婚生活も思うようなものではなかった。


まるで二人は他の誰とでもなく、お互いと結ばれたほうが幸せだったかのように見える。


だが二人ともそんなことは相手に告げず、ただお互いを励まし合って東と南に別れる。

 

最後に録之助は「お別れ申すが惜しいと言ってもこれが夢ながら仕方のない事」と言う。


身分がはっきりと区分けされ、その身分の範疇で生きることしか許されなかったこの時代では、

自分の意志通り生きるということが現代と比べて遥かに困難だった。

生きること自体が今と比べてずっと不条理だったのだ。

 

不条理ななかでもお関は精一杯前向きな考え方をする。


自分が戻る家の生活も不条理であれば、録之助の帰る宿の暮らしも不条理。


録之助はお関が幸せに暮らしていると思ったのか、


己を卑下するような言葉ばかりを言っていたが、実は互い同じく不条理な人生を生きている。


自分だけが不幸だとは思わず、与えられた今を精一杯生きよう、とお関は思い始めてゆく。

 

そんなお関の生き様が描かれたこの物語を通して、


不条理であっても生きるしかなかった時代の女性像、ひいてはそれぞれ不幸を背負っても


強く生きてきた人間の強い姿を垣間見ることができる気がしているのだよ。

 

三四郎 夏目漱石

郷里の熊本を出た時、三四郎の井の中の蛙っぷりは絵に描いたよう。

自分は高等学校卒のエリート、一般人よりも上という優越感の持ち主。

兄の野々宮のことを、よし子が深く観察している姿を見て、

「これしきの女」「東京の女学生は決して馬鹿に出来ないものだ」

と思うところに女性蔑視の態度が現れているし、

美禰子たちと団子坂へ菊人形を見に行った際に見物人のことを

「教育のありそうなものは極めて少ない」

「あの人形を見ている連中のうちには随分下等なのがいた様だから」

と言う様から、一般庶民を卑下した態度を読み取る。

 

自己意識の高い三四郎は、大都会・東京に出て来て電車や東京の広さに驚く一方、

故郷の母から届いた心尽くしの手紙を見て、もう自分にはいらない世界だと失望する。

様々な人と交流を持ち、新しい女性像である美禰子と知り合ったことで己の不明を知る。

東京での新しい物事になんとか自分で納得のいく理解をしようと試みる三四郎。

しかし、「世紀末」というハイカラな言葉に反応を示さなかった、

いや、示すことができなかったように、東京の考え方になじむことができない。

静かな大学の池の端で佇んでいても、故郷の熊本の自然を心の拠り所にするわけでもなく、

ただ孤独を感じてしまう。既に故郷からも心は遠ざかってしまっていた。

 

三四郎は自分がどこにいればいいのかが分からず、ただもがいているだけの迷子。

同じく、自分がどこにいればいいのかが分かっていない人間がもう一人いた。

自身の結婚問題に揺れる美禰子だ。

当時の一般的な女性像に美禰子は当てはまっていない。

知識があるし、三十円もの大金を自身の判断で三四郎に貸すことができる経済力。

そういった女性は、明治の時代では稀であった。

三四郎にとっては、そんな美禰子こそ、大きな謎。

 

自立しているように見えながら、己を「御貰をしない乞食」と言い、

野々宮への非難の言葉を美禰子から聞き出そうとしていた三四郎の腹を見透かし、

「ストレイ、シープ」という謎めいた言葉を投げる美禰子が、三四郎には謎で仕方がない。

美禰子は美禰子で、三四郎の横顔を熟視するぐらいだから、三四郎のことが気になっていた。

それは恋心というか、三四郎がまだ持っている田舎臭さというか、

純粋さに美禰子自身の青春を重ねていたのだろう。

三四郎に見たその純粋さは、ありきたりな結婚で美禰子自身が手放すものだと気付いていた美禰子。

こうして三四郎は美禰子に謎めいた恋心を覚え、美禰子は三四郎の純朴さに恋をする。

 

 

 


三四郎は次第に美禰子の本質を捉え始めた。

「私そんなに生意気に見えますか」という言葉を皮切りに、

それまで無欠の女王のように思っていた美禰子が、実は不安だらけの一女性だという理解に届く。

しかし三四郎はそこで美禰子を理解したと思い込むこともしない。

「二人の頭の上に広がっている、澄むとも濁るとも片付かない空のような、――意味のあるものにしたかった」

とあるように、三四郎は美禰子に謎の部分を感じ続けたかった。

結局、三四郎は未知の世界に飛び込むことに臆病な無力な青年だった。

 

次第に三四郎は美禰子のことを理解し、対等になったと考え始める。

「あなたに会いに行ったんです」という言葉を言うことができるほどにまで成長するが、

皮肉なことにその時には美禰子の心に変化が起きていた。

「迷える子――解って?」という謎めいた言葉を三四郎にかける美禰子。

これには三四郎に前進して欲しいという気持ちが篭っていたのだろうが、

同時に美禰子自身にも成長を求めた言葉でもあった。


三四郎は美禰子に胸中を告白するまでに成長したが、時既に遅かった。

間接的な言葉ではあるが三四郎が告白をした時も、美禰子には意味が通じなかった。

この時点で美禰子は結婚の意志を固めていたのだろう。

そして美禰子は贖罪を求めるかのように三四郎へつぶやく。

「われは我が愆を知る。我が罪は常に我が前にあり」

新しい女性像を理想としていても、

旧態依然とした結婚のしきたりに従うしかなかった自分を非難した言葉なのかな。

こうして美禰子は理想よりも現実を見ることを決心した。


最後に三四郎は「迷羊、迷羊」と繰返した。

謎でしかなかった美禰子の心情を、三四郎はようやく理解した。

しきたりに囚われず、自分の意志を優先させて生きることを理想に掲げた美禰子が、

現実問題を前にして悩み苦しみ、そして最後は諦らめて現実を選んだ経緯。

それが自分が感じた美禰子の謎の正体だと知った。


すると、三四郎の心に根付いていた深い霧も溶ける。

それまでは若い自尊心が邪魔をして、美禰子のことを愛せていなかったと気付いた。

三四郎も美禰子と同様、本質的なものを理想としていた割に、

夢ばかり見て現実に阻まれ、一番大切なものに手を伸ばそうとしていなかった。

三四郎はそのことを、美禰子を失った代償として理解する。

そして、ついに「迷羊」という言葉の真意を理解し、口にした。

傲慢な田舎青年として上京し、うわべのことに囚われていた三四郎が、

美禰子の結婚を機に青春の夢と決別し、人生の実態に気付く様が、作品には鮮明に描かれている。

 

『三四郎』では三四郎と美禰子の両方に、その時代の中で向き合うべきものがある。

日露戦争後の不況では、当時の女性は夫や親に依存しない限りは生きていくことができなかった。

父親を亡くし、兄と暮らしていた美禰子だが、兄が結婚することに伴って、

何か他の依存対象を見つける必要に迫られていた。

当時を生きる上で不可欠であった『家』という制度が顕著に現れている。

美禰子は今までの『家』から新しい『家』へと移る人生の過渡期だった。


美禰子は三四郎に恋愛を求めていたのではない。

大学という学歴があっても当時はエリートを約束されるわけではなく、

田舎出身で特別な社会的背景を持たない三四郎は中途半端な存在であり、

美禰子はそんな三四郎に自分と似たものを見ていただけ。

中途半端な『ストレイシープ』としての自己像を、

三四郎にも投影させて同情に似た関心を寄せていただけに過ぎない美禰子。


三四郎は東京の大学で勉強するために、田舎の熊本から前途洋々と出てきた人間。

熊本の世界からすれば自分はエリートだが、様々な人に出会う中で自らの小ささを知る。

社会的に孤独な美禰子の『ストレイシープ』を通して、

実は自分も同じように『ストレイシープ』であることにようやく目覚めた。


彼は東京で自らの進むべき道に迷う。

熊本の家という『第一の世界』、

自分の想像していた学者たちともまた違っていて理解のできない『第二の世界』、

美禰子に代表される華やかな『第三の世界』、

付け加えるならば、当時の目まぐるしい資本主義発展によって

社会の外にはじきとばされた、轢死した女・最初の電車で出会った老人や女などの『第四の世界』。


三四郎はどれも理解ができず、矛盾であると曖昧にしてしまう。

この問題を解決できない三四郎。

三四郎という人物に、新しいタイプの知識人、真のエリートにはなれなかった多数のエリート候補が

時代の中で向き合わなくてはならなかった問題を直面させたのが、夏目漱石の意図したものかな。

 

運慶 仏像

運慶の仏像が大好きだ、彼の作品を追って幾度奈良・京都に通ったことか。

仏像の基礎知識や時代背景を知らなくても、単純に美術品として魅力的な運慶の仏像。

もう一歩踏み込んで、日本彫刻の歴史の中での運慶のことを調べてみた。


仏像制作には暗黙のルールが存在していて、自分の美意識で自由創造するものではなく、

作るべき形の基本が定められた、いわば課題制作みたいなもの。

仏師・康慶の家に生まれた運慶は、幼い時よりそのルールを身近なものとして見て育っているし、

また運慶自身も熱心な仏教信者。運慶はそんな制約の多い仏像芸術の中で、

ルールを逸脱しない枠内での工夫を突き詰めて仏像アートの世界を広げた人物。

 

運慶の時代は宗教改革の訪れと重なり、宗教の民衆化・大衆化の波が来ていた。

東大寺・興福寺の焼き討ちを契機にそれが加熱し、

貴族から武士台頭への時代変化にもまれて被害を受け、

苦しみあがく民衆がもっと自分の身近に感じられる対象としての仏像を求めていた。

父・康慶は仏像の写実主義を進めた第一人者だったが、

その流れを受けた運慶は、当時の民衆が求める姿に合致するよう仏像の世界を加速させた。


具体的には、願成就院の不動明王像には運慶が築き上げた特徴が顕著だよ。

密教の経典が説く、醜悪で肥満した童子というイメージを、運慶は見事に力強く、

あたかも現実に存在するかのような仏像として創り上げている。

 

 

 


彼の技法の特徴である玉眼を使うことで、内面から溢れ出してくる威圧感を表現し、

ひだの少ないシンプルな衣と、張り詰めた体躯・めりはりのあるくびれとの対比で

たくましい生命感を浮き彫りにした。

そこから感じられるのは、見る側、民衆に直接エネルギーを与えてくれるような仏像。

東国武士たちが拝むのにふさわしい男性的な運動感・荒々しさがある。

経典の中の取り扱いが難しい人物像をバランスよく見事に写実し、

しかも民衆と武士いずれにも通用する仏像に創り上げた運慶。

 

この両方を兼ね備えた不動明王像こそ、東国で運慶が到達した新しい仏像アートの世界。

玉眼にしろ、衣のひだにしろ、運慶が作る仏像には通常以上に手間のかかる仕事が

細部にわたって施されているのが技法的特徴。

その手間をかけなくてはいかなかった理由として、

当時の仏像社会ではライバルの院派や円派仏師の繁栄があり、

運慶ら慶派の奈良仏師は新しい仏像を創らない限り将来の発展が見込めなかった。


それを理解した上で、今後どうなるか分からない社会情勢の中で

急台頭中の源氏の要請を受諾し、父・康慶は慶派の代表として運慶を東国・鎌倉に旅立たせた。


源氏だって、いつ衰退してもおかしくない世の中。

康慶の行動は自分たちの将来につながるかどうかも分からない賭けの要素があった。

それまでの仏像のスタイルは定朝様式の眠るようなおだやかさが特徴であり、

実在する人間ばなれをした仏のかたちが主流だったが、

東国という新しい土地、宗教がより庶民化してゆく時代背景の中で、

運慶はより写実的で、より力強いものを創り上げるという事績をあげ、

日本美術史における仏像アートの世界に新しい境地を切り開いた。

 

東国では民衆と武士の両方から求められる力強い仏像の世界を確立した運慶だが、

京都奈良に戻って仕事をしてゆくようになると、

やはり日本人の根底には大人しい仏像を求める心が流れていると知ってか、

興福寺での北円堂弥勒仏坐像のような穏やかなものを作り始めた。

かつての強力で斬新な個性を発揮するものではなく、

穏やかさを全身にみなぎらせたものに力を注ぐ柔軟さを運慶は持っている。

 

その頃の運慶には年齢を重ねたことでの余裕や、

すでに画期的な仏像を作り上げたという実績もあったのだろう。

更には、運慶自身が慶派の長というポジションについていて、

もはや自分が率先して鋸を持ち仏像を作るのではなく、

多くの弟子たちを指揮する立場におかれていたことも理由のひとつ。

 

武士の台頭、民衆の逼迫した状況が一段落し、時代は源氏の安定政権に移っていた。

生動感こそが仏像彫刻の美点としてきた運慶は、次の手法を見つけたようだ。

社会を無視して芸術は成り立たものでもないから、

時代が求めるものに対応していくのも美術には不可欠。


次第に民衆は、仏像に以前のような空想性を求めるように戻っていった。

運慶以前の定朝が確立した和様彫刻。

それを察知して、運慶は北円堂の弥勒仏坐像を自然体のものにしたのかな。

和様彫刻よりは写実的だが、鎌倉彫刻よりは力まず、運慶の作風の変化が見られる。

最終的に、弥勒仏坐像は日本美術史上における彫刻の終着点に重なっている。

 

写実性は、彫刻ではなく絵画に引き継がれた。

崇拝対象としての彫刻は結果として写実よりも空想に落ち着く。

運慶の写実主義は子供の慶派彫師たちにも引き継がれたものの、

運慶の世界を大きく変化させたり、その域をはみ出したりすることはなく、

運慶がしてきた範疇の中で、仏像彫刻は続けられていった。


日本彫刻の歴史は定朝の時代に最盛期を迎え、運慶の鎌倉彫刻で飛躍を遂げたが、

その後は社会や民衆の求めに応じて、また定朝の空想の世界に戻っていき、

次の進化に至らないまま現代に至るのである。

強烈だった仏師運慶の個性、私の心はずっと忘れられないのだろうな。

 





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