現代文学の基礎

現代文学は、漱石と透谷の作品から文学の基礎的な本質を学ぶべきだと思う。

 

まず、現在の平成という時代には正体がない。明確なゴールがない。

何をすれば幸せなのか、何をすれば良いのか、その答えがない。

年齢、性別、能力、生い立ち、障害などによる制限は取り払われつつある。

誰が何をしてもおかしくないし、それが可能となる世界になっている。

 

これは現代文学においても同様である。

多岐にわたるジャンルが、現代文学には生まれている。

現代ならではでの問題を取り上げた文学がある。空想を描いた文学がある。

歴史をテーマにした文学がある。

恋愛を、犯罪を、身体障害を、公害を、自然を、欲望を、金を主題とした物語がある。

人が二千年行き続けるなかで感じたあらゆるテーマが、現代文学には与えられているのだ。

 

 

 


しかし、無限の選択肢に人は迷っている。

人間は愚かな存在で、目の前に明確な目的をぶら下げられたらそれに対して邁進する能力はあるが、

無数のテーマをぶら下げられたら何を選んで良いのかが分からない。

現代文学はその豊富なジャンル、多岐多様な時代のなかで方針を見失っていると私は個人的に感じている。

 

選択肢を増やし、様々な角度から文学を検討するのはもちろん有効なことだ。

今後も文学はもっと違う角度からのアプローチをするべきだと思う。

しかし、文学のみならず、ものごとには基礎となるものがある。

それを放置して先に進んでしまったら、それはものごとを進化させているのではなく、

全く別のジャンルの元で全く別の方向にしか進んでいないのだと思う。

 

私は危惧する、現代文学が文学の基礎を忘れていないかを。

文学のスタート地点とは何か。

私は、世界への深いカタルシスを抱く人間が悩み、苦しみ、そしてその長い苦難の過程を経てゆくなかで

何か信じることができるものを見つけ、それを頼りとし、

それに向かって強い意志の力を発揮して、人生を突き進むことだと思う。

 

長い暗闇から這い上がるときに人がみせる強い光が、

その光のまぶしさが文学を形成する上で最も重要なテーマになるのだと思う。

長い暗闇から抜け出した後が、きらびやかな成功でも、再度の暗闇でもいいと思う。

結果はどうであれ、人がみせるその情熱、まぶしい輝きが文学の本質であると信じる。


透谷や漱石の作品ではどうか。

 

三四郎が世間一般に対してあらわにする蔑視は、世界の平凡さに対する深い悲しみである。

また、恋した美禰子へ素直な気持ちを言えなかったり、

はっきりとした行動で伝えることができなかった己の無力さに対して、失望していたことは間違いない。

 

蓬莱曲の素雄は、この世の中では何をしても自分は満たされないと嘆く。

恋をしても、その相手は受け入れてくれないとまで自虐的な言葉を吐く。

この態度そのものが世界へのカタルシスである。

 

透谷や漱石は、そういう深いカタルシスを作品に散りばめ、

そこからどうやって主人公が進んでいくかの過程を描いている。

結果はどうあれ、主人公が途中にみせる当惑と解決への意志が、将来を輝かしいものにしている。

これこそが文学の醍醐味であり、基礎であると私は思うのだ。


無論、現代文学にはこういう基礎がないというわけではない。

この基礎なくして文学の根底の輝きはないのだから、もちろん現代文学にも受け継がれている。

ただ、平成という現代では基礎さえも忘れさせてしまうような危うさがあると思うのだ。

 

現在ではたとえば売れてしまえばそれが成功であるという印象がある。

現代ビジネスの世界ではそれも正解であろう。

しかし、こと文学に関してはそれではいけないと私は思う。

 

文学は芸術である。

芸術にもビジネスは不可欠であるが、その根底は美しいものを描くことだと思う。

現代文学が様々なジャンルに別れ、進化することに異論はない。

 

しかし、文学が文学である以上、文学の基礎を忘れてはいけないと思う。

すなわち、世界に対する深いカタルシスを持つことと、

それを脱却しようとする際にみせるエネルギーの魅力である。

これをなくしては文学そのものが崩壊するのではないか、と私個人は危惧している。

現代文学は、漱石と透谷から文学の基礎を学ぶべきだと思っている。


文学には無限の可能性がある。空想を文字に綴るだけなのだから、何の制限もなくどこまでも理想を追求できる世界である。

願わくば、社会的で低俗な目前のテーマだけを追うのではなく、

人間の深い疑問に基づくような雄大なテーマを追いかける芸術が文学であって欲しいと願う。

 

日本ファシズム

日本の軍部が政党にかわり政治の主導権を握った要因が、

日本型ファシズムの特質にあるということに着目してみた。


日本ファシズムが中国・朝鮮の抗日運動への対抗策であることと、

アジアでの植民地拡大のためということ、そして第二次世界大戦の戦争を

遂行させるために必要なものとして軍部により意図的に喧伝されたという事実も

忘れてはならないが、それ以前にどうして日本国民に割合抵抗なく

この日本ファシズムのシステムが受け入れられたのかに注目しなくてはならない。

 


それは日本ファシズムが、天皇制を基本とする天皇制ファシズムであった

ということが最大の理由ではないか。

 

遡れば、明治維新以来、天皇が発した詔勅が神武天皇以来の神皇に触れ、

天皇の絶対的権威・神秘性を高めんがために

皇室の神話的性格を強調したことにたどりつく。

 

国家神道の形成は自由民権運動の高揚に対抗する

国家の支配的イデオロギー政策の重要な一環であった。
基盤の弱い明治政府が、大衆コントロールのために取った政策である。


「軍事勅論」によって日本軍隊は「皇軍」の理念確立がなされる。

この流れで日清・日露戦争が進められていったのであり、

日本国民の意識に「戦争は天皇の名においてされるもの」というものが根付いてゆく。


韓国併合の条約が天皇の名においてなされたように、

この意識統一の流れは深く日本国民に浸透していった。


何故日本ファシズムが民衆の抵抗によって、イタリアやスペインのように
政権を打破するまでに高揚しなかったのかという疑問も、

日本の場合は道徳上侵してはならない天皇を頂点とする

特有のファシズム形態であったが故に国民の活動が自制された、という考え方で解決することができる。

 

国家神道の教育は明治以降のものであるが、明治憲法の制定や歴史教育を経て

広く国民に浸透していったこの国家イデオロギーを否定しない限り、

日本ファシズムと正面から対抗できないのである。

 

日本ファシズムの頂点は天皇に設定されていた。
事実上は軍部が主導権を握っていたとはいえ、表向きには天皇がその上に君臨している。
ここに民衆が超えることのできない道徳という壁があった。

 

 

 


当時の民衆意識、これは明治以降の長い天皇崇拝教育によるものだが、
そこに天皇否定という考え方は存在しないのである。

 

天皇の名のもとで進められる国家総動員法や治安維持法に国民は抵抗できない。

教育によってカリスマ性を植え付けられた天皇という存在には抵抗できないのが国民だったのだ。

それを計算した軍部のやり方が、大衆支配という点では一応の成功を収めているのだ。

 

当時の支配者層が天皇という存在をいかに重要視したのかは、

戦後の天皇の戦争責任の所在について連合国に問われた時の彼らの対応に垣間見ることができる。

ポツダム宣言を受諾する際にも、政府は
「天皇の国家統治の大権を変更することないのが条件」として最初から交渉に挑んでいる。
最終的には「あこがれの中心としての天皇の地位が不変という解釈における

『国体』は護持されたという結論に落ち着くのだから、
その方向性を結局最後まで押し通したことになるのだ。

 

天皇が戦犯として裁かれることを防ぐために、当時の内閣を中心とした支配層は

敗戦の責任は努力が足りなかった国民にあるような言い方をした。
戦争責任も軍部に押し付け、悪いのは軍人であって天皇ではないと主張した。

連合国側記者の質問にも、東久邇首相らは天皇には戦争責任がないように受け答えしているのである。

 


最終的にアメリカは天皇に戦争責任を負わせることをしなかった。

これは日本国民にある天皇に対する特殊な感情を逆なでしてはならない、

という判断が勝ってきたからである。


この第三者的立場にあったアメリカが、日本国民が天皇に持つ特殊な感情を

重要視したことは、日本ファシズムの特異性を考える上で重要である。

 

現代社会で暮らす我々が具体的に想像できない、

当時の民衆が持つ天皇への強烈な崇拝心というものが、

このことによって客観的に証明されているからだ。

 

日本国民内からも天皇の責任追及の決定的な声があがらず、現代まで不十分な結末で終わっている。

ドイツにおける全国民規模でのナチス戦犯の追及や、

イタリア国民によるファシスト戦犯追及とは大きな違いがあり、

これもまた日本国民における天皇という存在の特殊性を示すものであろう。

 


確かに戦時中は事実上、軍部が政権を握っており、天皇は、旧憲法によれば
統治、総帥、開戦講和など多くの大権保有者とされていた。

 

だが事実上は、その権力を行使しない存在であった、ということに留まっている。

 

他の諸国と違い、日本には明治維新以来政府が粘り強く培ってきた

支配者イデオロギーとしての天皇崇拝という特殊土壌が国民の中に浸透していた。

 

戦時中に軍部がその天皇制を全否定することなく、天皇という存在を上手く利用して、

天皇を頂点とする日本独自のファシズム形態をとったことが、

結果として民衆の抵抗を抑え、民衆を従わせる一種不思議な強制力を与えたのである。


この特殊な形態をとったことで、日本ファシズムは一応の社会的安定性と

国民に対する合理的理由を得ることができ、一時代を築くことができたのである。

 

ロビンソン・クルーソー デフォー

ロビンソン・クルーソーの魅力は、政治や社会に縛られることなく、

無人島で自分自身が望むように冒険するロビンソン・クルーソーの姿そのものにあると思う。

 

生来の放浪癖から航海を続けては海賊やライオンと戦い、

ブラジルの農園でなんとか一財産を築き上げたと思ったらまた冒険に出て、その結果として無人島に漂流してしまう。

そういう浮き沈みの激しいロビンソン・クルーソーの人生に

自分自身の人生を重ねることはいつの時代でも、どこの国の人であろうとも容易にできたのであろう。


孤島での病気や孤独・敵の影に震える様、少しずつ島の生活を充実させてゆく様子なども

同様にありのままの人間の原型像なのであり、誰もが感情移入をし易いものである。

フライデーを従えて蛮人たちと戦い、島を脱出する場面などはなんとも万人の心をかきたてるような豪快な話であり、

それが現代に至っても変わらぬ求心力で我々を惹きつけているものなのであろう。

この冒険は無人島という極限状態の中にあったからこその出来事であるが、

当時の時代背景を知らなくては本当の魅力が薄れてしまうということを忘れてはいけない。


当時のロンドンではペストの大流行があり、多数の市民の命が突然奪われていた。

その翌年には大火災があり、ロンドン市内の木造家屋が焼き払われている。

サウス・シー社の株式暴落も発生しており、

紙幣がある日突然紙くずに成り下がる事態に当時のロンドンは面していたのである。

難破した船に残っていた36ポンドのお金を見て「ここでは何の役にも立たない無用のもの!」と言う

ロビンソン・クルーソーの姿がいかに当時の時代の虚無さを体言していることか。

この時代の人たちは突然生活を闇に閉ざされる可能性に悩まされ続けていたのである。


そんな厳しい状況下で市民階級に求められていたのは、

より身近に自分たちの生活を彼らと近い言葉で語ってくれるものであり、

それは従来の貴族階級による古典的な韻文ではなく、より世俗的な随筆という散文作品であり、

デフォーの『ロビンソン・クルーソー』のような民衆的な冒険小説が好まれる土壌が出来上がっていた。

 

名誉革命以来の市民階級の台頭で王権に対する市民の声の影響力が強まっており、

時代の主役は次第に民衆に移りつつある状況だったのである。

政治や生活に縛られずに冒険するロビンソン・クルーソーはそんな市民たちの英雄像として受け入れられたのだろう。


ロビンソン・クルーソーの魅力はそれだけではない。

表面の下にデフォーならではのいくつかの具体的な要素が重ねられていた。

まずは苦難にあっても立ち直るための宗教人の教えがある。

生きるためのより実践的な教えを施されていたピューリタン教徒であったデフォーは、

孤島で病気や失望に悩まされるロビンソン・クルーソーの生きる術、心のよりどころとしての宗教を書き上げた。

 

「中流の生活こそ最上のもの」と説得した父親の言葉を振り払ってまで

冒険に出てしまった自分自身に罪があるとし、その背信からの罰として漂流を受け入れ、自らを悔い改める。

神に感謝を捧げ、聖書を読み、規則的な生活を自分に課す。

それは純粋な宗教、人に役立つ宗教であり、

国を巻き込んで抗争を続ける堕落してしまった宗教ではないものを投影させている。

 

 

 


一方で、経済人としての活動の反映が随所に散りばめられている。

自身が経済活動の成功者であり、同時に失敗者であるデフォーならではの切り口で、

パンの自給自足や山羊の放牧・農園を作るなど、この難破した船乗りはいつしか自分の王国を作り上げてしまう。

その王国のなかで、自分一人分の食料が自給自足できているかどうかを計算する様には、

一見行き当たりばったりに見える島での生活に実践的な経済の意識が取り入れられている。

 

デフォー自身も浮き沈みの激しい人生を過ごしていたのであり、その経験が作中にも活かされている。

事業の成功やウィリアム王との信頼で勝ち得た王室に出入りできる地位の確立から、

一転して事業の行き詰まりやデフォーが書いた小論文「非国教徒撲滅策」に対しての

国教会と非国教会からの非難と投獄、そしてアン女王による釈放と再度の国家による登用など。

その経験から得たものがヒントとなって、彼は彼の現実の経験を、

無人島で人生の厳しさに直面するという寓意的な姿に変えたのである。


人は失敗しても悔い改めと信仰によって神との満足のゆく関係を見つけることができる、

とロビンソン・クルーソーは語る。

また、この船乗りは他人を尊敬しており、フライデーに対しても決して軽蔑することなく、

奴隷制度を当然のように正当化していない。

これは彼の時代においてはほとんど革命的とも言える声明であるとあるのだから、

当時の社会に対する斬新な意識も込められているのだ。

それらを踏まえたうえで、しかし厳しい当時の生活を離れた位置での

この快活な冒険譚が『ロビンソン・クルーソー』の魅力であるのだ。


これらの背景を知らずに読んでも『ロビンソン・クルーソー』の魅力は伝わってくるが、

ここに書いたような文学史的・社会的側面を理解した上で読むとその魅力もますます深みが増してくる。

 

自由民権運動 明治

そもそも自由民権運動の「自由」という言葉は当時どのような意味で使われたのであろうか。

「自由」とはオランダ語や英語として西洋から入ってきた言葉を和訳したものだという。

つまり、それ以前の日本社会に「自由」という言葉は存在しなかったのだ。

 

近代思想としての「自由」は自由民権運動から始まるわけだが、

その始まりには当時の日本人の大部分は、この近代思想としての『自由』の意味を

本当に理解していたわけではなかったというように、

「何でも許される自由」「我がままの権利」として誤った形で理解されることもあった。

このことから、この言葉が日本の一般社会にとってはいかに真新しい言葉であり、思想であったかが容易に推測できる。


自由民権論者たちが主張した「自由こそが天から人間に生まれながらにして与えられているもっとも大切な権利」

という考え方に加え、「平等」という言葉がいつしか民衆の間で独り歩きするようになる。

我が国では明治維新以来の四民平等によって初めて認められた「平等」の意識であるが、

明治時代にはまだ封建思想が濃厚にのこっていたため民衆に「平等」の近代的意味が

正確に理解されることはなかった。反抗の道具としての言葉に留まっていたのである。

 

しかし、この「自由」や「民権」「平等」の言葉の近代的な意味を理解した一部の人々が、

明治維新後に日本初の民衆運動が始めたことは本邦の歴史上、評価に値する。


自由党の鈴木舎定は「人は誰も皆生まれながら天より自由の権利を与へられております」と言った。

ここで「天」を議論に持ち出してきたことは大きい。それまでの明治以前の儒教学では

「天」は支配者層の頂点である将軍や天皇の存在を指していたものが、

この発言における「天」とは、ひとつの人格ではない全体世界としての「天」であり、

特定の支配者のことを意味するものではなくなっているのである。

 

つまり、儒教思想における「天」の思想を打破したことに、自由民権運動の大きな価値があるのだ。

残念ながら、結果としてこの時代の民衆運動は最後までその姿勢を貫けずに失敗に終わっている。

絶対的支配のための封建制度維持を図った勢力に敗北しているのである。

ただ忘れてはならないのは、日本初のブルジョア民主主義思想がこの自由民権運動にあったということである。

結果は惨敗だったが、日本の民衆が歴史上初めて近代思想と言論による民衆運動をしたことに大きな意味があったのだ。

 

 

 


日本の近代における民衆闘争の特徴事情として、天皇の存在を挙げたいと思う。

そもそもこれは、明治の文明開化がすべて天皇を中心として行われたことで、

当時の民衆が持つ天皇への考え方は形成され、その名残が続いていたのだ。

文部省による徹底した天皇崇拝教育がそれを後押しした。

 

当時の日本社会には天皇は絶対であるという深い意識が根付いていたのだ。

ただ、ここにきて天皇の存在が日本の近代化という点では

市民を阻止するものであるという意味を持ち始めるようになってくる。

結局、天皇を頂点とする支配基盤を固めた明治政府は、民衆中心の政治体制を封印したことになるからだ。


当時の民衆が持つ点のへの考え方は、自由民権運動の国会開設要求の方法に顕著だ。

自分たちの力で天皇制を打倒するのではなく、民衆が天皇へ哀願し、

天皇の賢察によって国会開設の救済を求める、という間接的な形をとっている。

反政府運動であれば現存の天皇体制打破を掲げて当然である。

この意味で、自由民権運動は本来の意味での反政府運動にはなりえなかった。

 

そこには、神話以来の天皇崇拝の伝統から脱却できない日本民衆の姿がある。

天皇制による支配国家体制を確立しようとした明治政府に対して、

民主主義に基づく立憲制国家建設を民衆が目指そうとした時、

そこに立ちはだかったのは別の意味で民衆にイデオロギー化していた、

天皇という存在であったのは近代日本独特の皮肉であろう。

ここに自由民権運動の特質のひとつがあったである。


このようないびつな形で始まり、そのしがらみを打破できなかったことから

頓挫してしまった近代の自由民権運動ではあったが、

方向性を突き詰めれば西欧の民主主義運動の流れを汲む、現代につながる民衆運動の黎明期であった。

 

南総里見八犬伝 江戸読本

江戸読本に著作権が存在せず、出版権を握った版元が利潤追求の生業として出版していたことは、

近世後期作品の内容にも大きな影響を及ぼしている。

まだまだ出版自体が始まったばかりの時期では出版することに莫大な投資が必要であったことから、

内容についての企画やプロデュースを担当したのは著者ではなく版元であった。

 

当時の読本は庶民が買うことのできる値段ではなく、一般的に貸本屋を通じて庶民に読まれたことからも、

一冊出版するのに版元が金銭的に大きなリスクを背負っていたことが分かる。

だからこそ江戸読本にはそれまでの文学とは違う着眼が求められ、

流行に合致しているかどうかや、読者うけする内容かどうかが文学にとって大事な要素となり始めたのである。


これはそれまでの一部の上級階級のみに限定されていた文学の窓口を

広く庶民にまで開放したというプラスの面もある一方、

文学が商品となるという新たな側面を生み出しそれが現代まで続くことになる。

この出版機構との関係なしに滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』を語るのは片手落ちになることは言うまでもない。

版元の注文を取り入れながら馬琴がこの作品を書いたことが推測される。

 

近世以前はひとつひとつを筆で写してゆくという原始的な複写の手段のなかで、

ごくごく限られた人間たちとだけ筆者と読者という接点を持っていればよかった。

それが出版機構の拡大によって広く開放された場を提供される。

そこには表紙に意匠をこらしたり、商品として形成するように様々な装飾などもあわせ流通してゆく。

 

版元の拡販の意図にそぐわない部分は、作者の意図から離れようとも削除されたのだろう。

これは江戸読本に著作権が存在しなかったことの明らかな負の部分である。

これによって、滝沢馬琴のようなメガヒット作品を世に出した人間でさえ、

一生書き続けなければならないという矛盾が生まれてしまったのである。


馬琴はそういう江戸読本の特徴に合わせていくつかの迎合と抵抗をしている。

まずは「女」である。物語に男と女がいなくては、物語として成立しない。

逆に、男と女がいさえすればそこに物語が成立する。

まだまだ文学というものになじみが浅かった庶民をターゲットに読まそうとするのが江戸読本であったとすれば、

版元にとっては大衆うけする素材は必須であったのだろう。

それが、「女」である。

 

 

 


『南総里見八犬伝』に登場する女たちは話題性に富んでいる。

処女懐妊した伏姫は古来からある処女純潔を重視する思想の影響があるし、

薄幸の浜路も男性上位の社会の典型的な思想そのものである。

悪女船虫の乱れた性愛、実はそれは前夫・鴨尻の並四郎への敵討ちから

発生したものとしてあるところにまだ救いがあるが、性という文学のテーマであって

かつ庶民が誰でも興味を持つ対象を上手く題材としている。

 

船虫の起こす事件や流転の生き様、牛に裂かれるという暴力的な死に様もまた、庶民の興味対象であるものであった。

馬琴は様々な女性を巧みに描き、女という性を浮かび上がらせることで庶民大衆の興味を広く捉えたと言うことができる。

ここではそれを文学的ではないと非難しているのではなく、

そうすることで物語としてあるべき道になったのではないだろうかと考えている。

繰り返しになるが、この時代に出版された作品にはそれまでとは大きく違った前提が求められたのであった。

日常社会を逸脱したような階級向けの物語ではなく、万人の心を掴むことの大事さが前提であったのだ。


そして馬琴はそれだけに留まらず、江戸読本を教養人の読み物まで高めた功績が特筆に価する。

教養豊かな馬琴は日本の神話などをふんだんに盛り込み、

中国の三国志や水滸伝などの白話小説も取り入れ、難しい専門知識と言葉を使うことで

内容を非常に重厚で奥行きのあるものに創り上げた。

これによって江戸読本が営利活動としての出版だけに迎合せず、独特の文学的立場を保つことを確立したのである。

 

これが江戸読本と他の戯作などの庶民文学との決定的な差であって、『南総里見八犬伝』が今も文学として評価される所以である。

出版機構の確立は文学を振るいにかけることになった。

例えば、日常の生活や色恋だけに焦点を当てて庶民の興味を誘うことだけに

終始しまうものと、それだけに留まらず『南総里見八犬伝』のように文学としての価値を保つものを分けることになる。

その振るいになったのが近世の出版機構と言うことができよう。


出版業の創設という大きな過渡期を通して、パイオニアである滝沢馬琴は

作家として金銭的には恵まれず、制度の犠牲になったともいえる。

しかし、江戸読本というものを高尚な形で爆発的に庶民に広めたことは世紀の成功であった。

現代に続く、大きな制度確立が馬琴によってなされたのだ。

 





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