源氏物語 紫式部

紫式部はこの源氏物語で、物語の社会的立場を向上させようとしたのだと思う。

 

源氏の口から最初に出た言葉は、物語に対して紫式部が持つ否定的な本音そのものである。

男の口から女の馬鹿馬鹿しさを言わせることで、自分も含めた女の世界の狭さを指摘している。

また、物語にはでたらめが多いというところは、

自分が傾倒した物語の中にはびこる退廃的な部分に対して見せた女流作家の抵抗であろう。


まずは素直な言葉で、物語という幻に存在する否定的な部分を前面に出している。

世間体を考えてか源氏のからかい口調を介してはいるが、これは紛れもない紫式部の否定的な物語論である。

またこの否定は、現実の世界に対しての批判が前提にあるものであると思う。

しかし次には物語の肯定的な部分を指摘している。

 

だが逆にそのような幻の物語以上に人の退屈を紛らわすものはない、という源氏の台詞もまた紫式部の本心であろう。

物語には歴史書以上に人の真実が含まれる、と言ってのけた紫式部の野心を見逃してはならない。

ここでも源氏の口調はあくまでからかい気味ではあるが、前述の否定的意見から一転して、

書かれた文章には紫式部が持つ物語への愛着や誇りが見られるのである。

この肯定は、人間のくだらなさや低俗さ、女性の無力さに対しての反抗であると同時に、

その否定的反抗と対比させての物語の肯定論であろう。

 

 

 


紫式部は、当時女の退屈つぶしだと決め付けられていた物語の真価をここに問いかけているのである。

確かに、女は幻のような物語を読み、幻に浸ることの多い生き物である。

それを紫式部は認めている。

また、物語の内容は現実と壁を隔てたものであるということも認めている。


だが逆に、政治色が入っていない物語だからこそ、時代に合わせた改ざんも内容削除も行われておらず、

書き手の意図が純粋に反映されているのだと紫式部は訴えたかったのだ。

文章にされ、時代を経て残る文芸として物語以上に純粋なものはないと主張している。

紫式部は、時代や文化のひとつとしての位置付けをするための物語論ではなく、

人間の本質に迫る論争をここで行いたかったのだ。

 

人間が生き、次の時代の人間がまた生まれることで歴史が生まれ、

歴史があればそれを書き留めることが必要となる。

また、人が生活することで規則が生まれ、規則を書き留めることも必要となる。

文芸の誕生は、人と人との生活に不可欠であった。

この不可欠は人間に対し肯定的な不可欠である。

 

しかし、人と人がいれば主従関係が生まれ、関係を円滑にするために人が人に気に入られることも当然である。

人が嘘をつくのも、必然的な人間の営みである。

その結果として、文芸が嘘やご機嫌取りに利用されるのも人間に不可欠なものである。

この不可欠は否定的な不可欠ではあるが、文学もまた人間のあるがままの姿の結果として生まれたのである。

文学にも様々な種類があるが、歴史書や記録書には人間が生きるうえで

醜い部分が多く反映していると紫式部は思ったのだろう。

 

確かに歴史書などには社会的地位があるが、その裏返しに人間の業のようなものがこびりついていて、

純粋な芸術作品として紫式部は認めていなかったに違いない。


では紫式部は何こそが純粋な芸術作品だと思ったのか。

彼女は自分が傾倒した物語にこそ純粋な芸術があると信じていたのだ。

物語自身はそもそも虚構の上につくられたものである。

事実を事実のまま伝えては面白くもないから、人が話を楽しいように膨らませて創ったものが物語なのだ。

そして、誇張に誇張された物語が人から人へと伝えられる。それこそが物語である。

 

その物語は虚構から発しているが、物語が構成される過程は、

人間の美しい部分であり、人の肯定的な営みからなるものである。

何故ならその過程は人の心を深く掴んで行われたものだからである。

人が楽しむためのものであり、人が自発的に好きだと思うものであり、政治的・社会的な意味が存在しない。

紫式部はそこにこそ、人間本来の性質を見たに違いない。


利害関係無く多数の人々にうけつがれる物語にこそ、

人の本音だとか、偽らざる気持ちや感動が投影されていると訴えたかったのだ。

それは同時に物語を女性の暇つぶしだと決め付けていた男性社会に対しての抵抗でもあったのだろう。


当時の閉鎖的な貴族社会・男性社会ではこういう議論が行われていなかった。

また、女性の中でもこのような意見がなかった。

当時の社会に対する批判と、人間の低俗的・普遍的な業への嘲りと、

同性に対する疑問提起の意味を多大に含み、紫式部はこの物語論を世に出したのだろう。

 

今昔物語集 宇治拾遺物語集

今昔物語集の著者は、どういう視点で人間や社会をとらえたのだろう。

一体何故、何のために今昔物語集を編纂したのだろう。

 

この膨大な説話集は、何故生まれたのか。

その何故ということを読み解く際には、他の説話集との書き方の違いが

どのようになっているのかを明確にして導き出すのが有効だと信じてみた。

 

僕のこの長い考察に付き合ってくれるかな、今昔物語集の存在に興味津々の僕のつぶやき。

 

ここでは同じ説話集である宇治拾遺物語との相違点を通じて考察を進めてゆこう。

未完と推測されるとはいえ、千数十話もある今昔物語集に対して、

百九十七話の宇治拾遺物語という説話の数の違いはあるものの、

両説話集には共通する話が八十一も存在している。

いずれも源流を遡れば『宇治大納言物語』というひとつの説話集に

たどり着くと考えられているが、『宇治大納言物語』はすでに散佚してしまった説話集である。

両説話集を読み較べ、そこにある差異を明らかにしてゆくことが、

今昔物語集の特徴を掴む唯一の方法であろう。

 

最初に、それぞれの説話集に書かれた最も醜い部分を取り上げる。

今昔物語集の巻二十九第二十五話「丹波守平貞盛、児干を取る語」は、

戦いで矢傷を受け悪性の瘡をつくってしまった平貞盛が、それを治すために妊婦の腹を裂き、

特効薬である男児の肝臓を求めるというおぞましい話である。

赤子の命を犠牲にして瘡を治したと思ったら、矢傷を負ってしまうような弱将である

という外聞が広まるのを恐れるあまり、平貞盛は息子の平維衡に命じてその医者を殺そうとした。


これら平貞盛の行動にはどこにも遠慮がない。

丹波の守を務めていた平貞盛の、権力者としての横暴があたかも当然のように書かれていて、

我々現代人が読んでも当時はこういうことがありうる時代だったのだ、と納得しまうほどではないか。

権力者を正当化させる説明がこの話の節々にはある。

親が子に対して、使用者が使用人に対して、無理難題を要求する。

それが困難な話であっても、両者の間には絶対的な権力が作用しているから、

要求された側は拒むことができない。

矢傷が公になっては武将の威厳を保つことはできないし、

東北の反乱勢力を鎮圧するために次期の陸奥守として

朝廷から派遣される地位を掴みそうだった平貞盛にとって、

地元の争いで負った矢傷が原因で

瘡ができたというマイナスイメージは流すことができない失態であった。


平貞盛自身の失脚は家全体の失脚であるから、確かにそれは個人の問題だけではなかった。

平貞盛が地位を失えば、その一族郎党や使用人も同時に仕事を失うのである。

息子の平維衡にしても、それが分かっているから

無理な要求を拒むことができなかったのも理解できる。

そもそも悪性の瘡であるから、平貞盛からすればどんな犠牲を払ってでも

治療したいと思うのは当然のことでもあった。

京から丹波へわざわざ呼び寄せた医者が唯一の特効薬は男児の肝臓だと言うのだから、

その方法にすがらない理由はない。


最初に平貞盛は息子の嫁が妊娠していることを指摘し、その子供の肝臓を要求する。

息子の子供ということは自分の孫であるのに、

自分のことしか目に入っていない平貞盛は躊躇することがない。

困った息子は医者と相談した上で、「我が胤は薬に成らず」と医者から言わせることで

その無理矢理な要求から逃げることに成功した。

使用人の飯炊きの女が懐妊して六カ月になっていることを知った平貞盛は、

その女の腹を裂いて胎児を取り出す。

胎児が女子だったからその死骸を捨てておく場面には、

平貞盛の非道ぶりから思わず目を背けたくなる。

なんとか別の妊婦を探して児肝を得た平貞盛は、なんとか命を取り留める。

要件を済ませた医者が帰ろうとするのを見て、

平貞盛はその治療法を教えてくれた医者を殺して話が世間に漏れるのを防ごうとするのだ。

それも自分自身で実行するのではなく、ここでも息子に命じて

帰京の山中で強盗を装って医者を殺そうとした。

医者に恩を感じていた息子は策を巡らせ、医者と別人を入れ替えさせて、強盗に別人を殺させた。

医者の命を救って無事に京都へ帰させたのだが、

医者を殺したと思い込んだ平貞盛は「喜て有ける」と書かれている。


こうして話を取り上げることも躊躇するほどの非道ぶりであるし、

さすがの今昔物語集の著者も「貞盛朝臣の婦の懐妊したる腹を開きて

児干を取らむと思ひけるこそあさましく慚はき心なれ」と

自分の非難意見を書いているほど、平貞盛の行動は醜さの頂点に達している。

偶然にも平貞盛は丹波守や家長として強い権限を持っていたから、

そんな悪事も実行可能であった。

他の人が同じ状況に置かれたとして、

考えることはあっても果たして実行に移すまではできたのだろうか。

その行動も自分の社会的な立場があって、

立場上追い込まれていた平貞盛ならではのことと言うこともできる。

他人に不幸を強いて行動しなければ、

自分や自分の周囲の人々が危うい立場に置かれるだけなのだ。

自分ひとりの不幸であれば、悪性の瘡も運命と考えて、

死を受け入れる選択肢も視野に入ったかもしれない。

ただ、自分には家族がいて、一族の未来を背負っていたから

安易に死を選ぶことができなかったということもある。

そう考えれば、平貞盛は今昔物語集の中で

意図的に仕組まれた悪役なのだと捉えることもできないか。

彼がしたのは申し開きできない悪行ではあるが、何も好き好んで悪事を働いたのではなく、

そうせざるを得ない状況に追い込まれていた、ということも考慮に入れないといけない。


他の醜い話を挙げてみると、巻二十九第二十六話の「日向守■、書生を殺す語」には、

日向守が任期を終えるにあたって今まで自分がしてきた不正を誤魔化すため、

部下の書記官に命じて書類を偽造させる話がある。

離れ部屋に監禁して書類偽造を完成させた後に、書記官に褒美の品を与えたまではよいが、

その後には書記官が予感していた通り、口封じのためにその書記官を殺害しようとするのだ。

殺されるために山奥へ連れて行かれる道中、書記官は老母と妻子に一目会いに行き

「露錯たる事も無けれども、前の世の宿世にて、既に命を召しつ。痛く歎き給はで御ませ。

此の童に至ては、自然ら人の子に成ても有なむ。嫗共何かにし給はむずらむと思ふなむ、

殺さるる堪へ難さよりも増て悲き。今は、早う入給ひね。

今一度御顔を見奉らむとて参つる也」と言うのだ。

日向守から殺害を命じられた郎党たちも、さすがにそれを聞いて涙を流すが、

最後は主命だからと書記官は殺害され、その首が日向守まで届けられるのである。


これもまた非道極まりない話である。

話の最後には「日向守いかなる罪を得けむ、詐りて文を書かするそら、なお罪深し。

いわんや、書きたる者をとが無くして殺さむ、思いやるべし。

これ重き盗犯に異ならずとぞ、聞く人憎みけるとなむ語り伝えたるとや」と書かれてはいるが、

話の途中であまりの醜さに遠慮して、救いどころを作るようなことは一切ない。

日向守の非道さを最初から最後まで淡々と書きあげて、この説話は終わりを迎えてしまうのである。


巻二十九第二十四話の「近江国の主の女を美濃国に将て行きて売りたる男の語」は、

若くして夫を亡くした妻が、長年仕えていた使用人に騙されて身売りされる話だ。

湯治か山寺にでも行って気晴らしをしようと言ってきた使用人を信じて妻が出かけると、

近海の家から美濃の見知らぬ男の元へと身売りされてしまう。

裏切られたと知った妻は、下賤の者を信頼してしまった自分が愚かだった、

と絶望のあまり食事を摂ることをせず、そのまま死んでしまう。

妻を買った家の主人が京に上ったときに「糸奇異く哀れ也ける事かな」と、

まるで他人事のようにこの話を広めたことが、

今昔物語集に書かれることにつながったと最後に結ばれている。

こんな醜い話も当の本人が堂々と他言できるような世の中だったのだと思うと、

ますます醜さが増幅されてくるようだ。

この話の妻にも、救済の道がひとつも示されていない。

若くして夫が死んだのはまだやむを得ないまでも、頼りになる親や親戚もいなければ、

唯一頼りにしていた長年の使用人にも裏切られ、知らない男に金で売り飛ばされてしまう。

その男にも不幸な身の上を話したところで、全く聞き入れてもらえることなく、

最後は食事を取ることもないほど精神的にやつれて死んでゆくのである。

先の平貞盛の行動と同様に、

これら二つの説話も何の言い訳もできないぐらい醜い内容ではないか。

日向守と使用人に共通することも、平貞盛と同じである。

人道に背くとはいえ、偽造と口封じをしなければ日向守はいずれ自分の後任者に、

今までしてきた悪事を見破られてしまう。雇ってくれる主を亡くした使用人は、

そのまま女に仕えていてもいずれは自分の食いぶちに困ってしまう。

背水の陣に追い込まれた人間が醜い行動に移るのは世の常なのだと、

今昔物語集ではそれが当然のように、そして遠慮なく話中に投影されていることが分かる。

その背景にあるやむない状況が説明されることなく、淡々と悪事だけが書かれるのだから、

読者はまるでそれが故意的に行われたかのように錯覚して、悪人たちへの非難を強めるのである。

悪事をした者が責められるのは当然ではあるが、

今昔物語集に書かれた言葉だけを見ていると公平な判断を誤ることにもつながるのではないか。

 

 

 


一方の宇治拾遺物語を探してみると、これほどまで醜さが強調された話は存在していない。

巻十三第八話の「出雲寺別当父の鯰になりたるを知りながら殺して食ふ事」には、

自分の父親がナマズになったと夢見で知った出雲寺の別当が

「異人交ぜず、太郎、次郎童など食ひたらんをぞ故御房はうれしと思さん」として、

進んで自分からそのナマズを殺して食う話がある。

父親の化身であるナマズを自分から進んで食べるなど恐ろしい話であるが、

その話では別当の残酷な行動で話を終わらせるのではない。

悪いことをした別当は喉にナマズの骨を詰まらせて死んでしまい、

「妻はゆゆしがりて、鯰をば食はずなりにけりとなん」と、

親不幸は必罰であるという教訓を伝えようとしているのだ。


巻十三第七話「ある唐人女の羊に生れたるを知らずして殺す事」は、

死んだ娘が羊に生まれ変わった話である。

周囲の人が言う話をよく聞くことがなかった主人であったため、

羊を羊にしか見ることができなかった唐人の調理人が、早く主人に料理を出さないと

怒られると思い、娘の羊を殺してしまう。

調理人の誤解が原因だったとはいえ、娘が殺されてしまった後でようやく話を理解した主人も、

最後は「悲しみて惑ひける程に、病になりて死にければ、田舎にも下り侍らずなりにけり」として、

父親までも死なせ、親子の運命の儚さという教訓を伝えようとしているのだ。


巻十四第四話「魚養の事」は妻子を唐に残して日本に帰った遣唐使の話だが、

「宿世あらば、親子の中は行きあひなん」として母が唐の海に投げた子を、

父が日本の海で拾い上げる。

思いがけず息子に再会した父は、自分の行動を悔い改めるわけでも、

母を呼び寄せるわけでもなく、「しかるべき縁ありてかく魚に乗りて来たるなめりと、

あはれに覚えて、いみじうかなしくて養ふ」と書かれている通り、

前世の縁で再会できたのだと都合よい解釈をして喜ぶだけだ。

話は最後に「さてこの子、大人になるままに手をめでたく書きけり」という別の話にすり替えられ、

書が上手い理由をこの数奇な運命にこじつけ、魚養を偉人化して終わるのである。

外国に家族を置いてきた父も父なら、子供を海に投げ捨てた母も母で、

互いが異常な行動を取っている。

子供が死ぬことなく魚の上に乗って海を渡ったというエピソードを、

前世の縁があるからできたことだと美化するのは妥当であろうか。

本当の醜い話がかわされ、別の話に結ばれていることが分かる。

宇治拾遺物語の他の話を探しても、最初から最後まで悪人に徹して書かれている話がない。


話中で言いたいことは、醜いものを非難する場面ではなく、

それが現実だと割り切る場面でもなく、それらを通して獲得できた教訓を

伝えようとする場面にこそ、あるようなのだ。


こうして今昔物語集と宇治拾遺物語の醜い部分を比較してみると、下記のようなことが分かってくる。

共通点として、醜い行動をする人は、あるべき姿と現実の姿とのギャップを強調され、

仕立てあげられた悪役である。

権力者は弱者をいたわり、親は子供を愛すべきだという社会道徳上のあるべき姿があり、

一方でそれを無視して私利私欲に走る現実の姿が話中に描かれている。

そのギャップが大きくなるような話が設定されており、

もっともらしい理由を付けて行われる悪事に弱者たちが翻弄される。

無力な者の側に読み手を感情移入させるのが、説話集での醜い話の典型だということができるだろう。


両説話集の相違点を深堀してゆくと、今昔物語集では遠慮のなさが浮き彫りになってくる。

いずれの悪役の行動にも救いの道だとか、同情の余地がない。

自分のエゴを他人に押し付けるだけの醜い姿を、どこまでも手を加えることなく

書こうとしている様があるではないか。

平貞盛も日向守も使用人も、追い込まれていた立場にあったとはいえ、

彼らが他人を裏切ったことは事実である。

そして彼ら全員が、その行いの罰を受けていない。

彼らによって不幸になった人がいる半面で、当の張本人である彼らは

それまでと変わらない生活を続けているのだ。

こうして醜い行動をした本人らを生かし、被害を受けた弱者たちだけに不幸を押し付けさせる。

主張した者、権力を持つ者を一方的な勝者にして話を終えるところが

今昔物語集における醜い話の型である。


一方の宇治拾遺物語は、比較するとやや遠慮がちで、最後まで悪役を演じきっていない。

悪行そのものではなく、最後に示される教訓こそが中心と考え、

その結論につなげるための構成なのではないか、と推測することができる。

父親の化身であるナマズを食べた息子は、その罰で死んでしまう。

娘の羊を救えなかった父親もまた、悩んで死んでしまう。

魚養の両親に至っては、その後にどうなったかすら記載がなく、

話が全く別のことに向けられて話が終わる。


挙げた三つの説話には、本当の悪役を見つけることができないのだ。

こうして、両説話集の醜い話を比べるとひとつの仮説が浮き上がってきた。

今昔物語集では、話を通して何かを伝えることが目的ではない。

現実の姿そのものを描くことが目的でないか。

宇治拾遺物語では、物語の最後にある教訓を伝えることが目的ではないか。

醜い話だけを最後まで続けても教訓にはつながらないから、

途中で話を変えてゆく必要性もこの仮説で説明できる。

このように今昔物語集と宇治拾遺物語には、現実の姿を描こうとしたものと、

教訓を伝えようとしたもの、という違いが存在するのではないか。

同時代の類似説話集といえども、説話の結末が違う理由は、目的の相違によるものではないか。


仮説を別の角度から考察するため、今度は醜いものではなく、笑い話を比べてみることにする。


今昔物語集の巻二十八第十話「近衛の舎人秦武員、物を鳴らせる語」は、

禅林寺の御壇所で高僧と話をしていた秦武員という近衛の舎人が、

誤って大きなオナラをしてしまう話だ。

そこは僧侶たちが集って勉学をする御壇所というあまりに厳粛な場所であったし、

秦武員は武士たちを統率する将曹という重要な役にあったことから、

周囲の誰もが何も言えずに沈黙が続いていた。

時間を空けてようやく武員が「哀れ、死ばや」と恥ずかしがる発言をしたことで、

座から爆笑が起こり、武員がその場から退散したところで話は終わっている。


オナラした武員がすぐに謝れば良かったし、周囲の人々も音を聞いたらすぐに笑ってしまえば

良かったものを、中途半端に間が空いてしまってお互いに失敗したと思ったことだろう。

このまま何も言わないと自分が辛いだけだし、時間が経ってしまったから

謝るのも違うと思ったのか、「恥ずかしくて死にたい」と素直な気持ちを出して、

武員がその場をやりすごしている。

武士の頭である武員の威厳と、そこが厳粛な御壇所であったことが、

オナラというあまりに単純な恥ずかしさとのギャップを引き立てて、

この話に絶妙な面白さを加えているのだ。

この武員は日ごろ愉快に話をする人で、その時も機転を利かせて「恥ずかしくて死にたい」と言った。

並の人なら知らん顔を続けるだろうし、それでは場も白けてつまらないところを、

武員が絶妙な言い方をしたことに好感を持つ。

失敗したら早く謝るとか、時間が空いてしまったらユーモアを入れて謝るといいだとか、

そういう教訓がこの話から伝わってくるではないか。

話の最後には「此も彼も否不云で居たらむは、極く糸惜なむかし」とあり、

何も言えずにただそのまま座っているのはすごく可哀そうなことだという教訓で結ばれている。

この説話は笑い話であるが、それ以上に機転を利かせることによって

ピンチをチャンスに転換できた武員の知恵と温かな人間性を、この笑い話からは読み取るのだ。


巻二十八第三十八話の「信濃の守藤原陳忠、御坂に落ち入りたる語」は、

信濃守である藤原陳忠が任期を終えて都へ帰ろうとする時の話だ。

道を踏み外して谷底に落ちた陳忠だったが、途中の木に引っ掛かって命を取り留めた。

谷底から救い出された陳忠は、なんと平茸を一杯に抱えている。

命が助かってさぞ喜ぶかと誰もが思っていると、

「未だ残りやありつらむ、云はむ方なく多かりつる物かな。

極じき損を取りつる心地こそすれ」と言い、

もっと平茸を取れたはずだと残念がっている陳忠の姿が書かれた話である。

受領を一期務めればそれだけでひとつの財をなしたと言われていた受領階級のがめつさが

笑いの対象なのだが、それは次の連想につながる。


租税の取り立て役である受領がそんなに強欲な性格であれば、

任地ではさぞかし取りっぱぐれなく租税を徴収した「名」受領なのだろう。

役人のしたたかさに結び付け、元の不幸な事故を忘れてしまうぐらい、話を笑いへ転換させている。

現に陳忠は「宝の山に入りて、手を空しくして返りたらむ心地ぞする

『受領は倒るる所に土を掴め』とこそ云へ」と周囲に教訓を垂れて、

それを笑い話にするのではなく本当に悔しがっているのである。

受領たる者かくあるべき、という素直な教訓として捉えることもできるし、

「然許りの事に値ひて、肝・心を迷はさずして先づ平茸を取りて上りけむ心こそ、

いとむく付けけれ。増して便宜あらむ物など取りけむ事こそ、思ひ遣らるれ」と

民衆から皮肉たっぷりに褒められるところがまた笑い話になっている。


いずれにせよ、命を失っていたかもしれないピンチにおいても、

もっと稼ぐチャンスに変えた陳忠の人間性というか、商売根性は見事であるし、

それがこの笑い話に魅力あるものを加えている。

面白いのは平茸を手にして上がってきた時の笑い話が、

最後にはがめつさに対する冷笑になっており、笑い話は笑い話でも種類が変わっているし、

郎党たちから民衆へと笑う人物が変わっているのだ。

そのくせ、ピンチをチャンスに変えるという教訓まで織り交ぜて、この話は結ばれている。

 

巻二十八第十六話「阿蘇の史、盗人にあひて謀りて逃げし語」は、

深夜まで京の宮中で仕事をしていた書記官が、西の京の自宅まで牛車で帰るときに

盗賊に襲われてしまった時の話だ。

盗賊たちが牛飼童を追い払い、牛車の簾を開けると書記官が全裸で座っている。

「こはいかに」と声をかける盗賊たちに対して、

「東の大宮にてかくのごとくなりつる。君達寄り来て、

おのれが装束をばみな召しつ」と書記官が笏を持ちながら、

上司に言上するようにかしこまって言うものだから、盗賊たちはみな大爆笑して

そのまま何も取らずに退散していった、という話だ。


話の最初には「車に乗りて大宮下りにやらせて行きけるに、着たる装束をみな解きて、

片端よりみなたたみて、車の畳の下になほく置きて、その上に畳を敷きて、

史は冠をし、襪をはきて、裸になりて車の内に居たり」という説明がある通り、

書記官は深夜の京の大通には盗賊たちがはびこっていることを知っており、

大変高価な仕事用の衣服をあらかじめ隠しておいたのである。

しかも書記官は盗賊たちが呆れて、それ以上何も盗む気にもさせないよう、

大爆笑させる効果を準備している。

裸のくせに冠と笏は忘れていない。

さらには盗賊たちを高貴な人を指す言葉である「君達」と呼び、

「召しつ」という尊敬語を使いながら、かしこまって返事をすることで、笑いを生みだすことを成功させた。


一計を案じて相手を出し抜くことが美徳であって、騙された人こそが悪だという

中世の現実的な社会を見ることができるし、それを笑いに変えていて面白い。


そこまででも十分な笑い話として完結しているのだが、この説話には

「さて、妻にこの由を語りければ」と続きがある。

帰って妻にこの一件を話したところ、「その盗人にもまさりたりける心にておはしける」

と妻に笑って感心されているのだ。

最後は「この史は、極めたる物言ひにてなむありければ、

かくも言ふなりけり、となむ語り伝へたるとや」と結ばれており、

この書記官のしたたかさ、機転と用心深さを称賛し、笑い話だけに留めることなく

教訓へと結びつけたところで話が終わっている。


一方の宇治拾遺物語では、巻一第十五話の「大童子鮭盗みたる事」という話を見てゆこう。

大童子が鮭を盗み、それを咎めた男と町中で口論になって、

互いに互いが盗んだと主張したものだから、男が真っ裸になって無実を証明する。

着物を脱げと言われた大童子は拒否するが、無理矢理に着物を脱がされると、

その腰には盗んだ鮭が隠されていた。

そこで大童子が「こがやうに裸になしてあさらんには、いかなる女御、后なりとも、

腰に鮭の一二尺なきやうはありなんや」と苦し紛れの駄洒落を言うと、

見物していた人たちが大爆笑した、として話が結ばれる。


そこには教訓はないし、政治も文化も人間の身分差もない。

ただ読む人を笑わせるためのエンターテインメントだ。

腰の鮭を、女性器の裂けと読み替えて、裸にすればどんな高貴な女性でも鮭ぐらい出てくる、

とこじつけているのである。

本当にこんな騒動や駄洒落があったとは思えないほど、

面白さだけが誇張された話に思われて仕方がない。

鮭と裂けの駄洒落を思いついた人が、駄洒落を言いたいがために

この話を作って語ったのではないだろうか。

懐に鮭を隠す大童子も不自然だし、町中で着物を脱ぐ人も不自然だ。

あまりによく出来過ぎた駄洒落だから、現実の騒動の記録ではなく、

市井で流行していた下品な駄洒落を記録したものだと思えてしまう。


他の例を挙げれば、巻一第十四話「小藤太聟におどされたる事」では、

小藤太という羽ぶりのよい侍が、雨で出かけられない娘婿の退屈を紛らわそうとした話がある。

酒と肴を持って部屋を訪れたのはよいが、娘が帰って来たと勘違いした婿が、

夜着をかぶり下半身を丸出しにして出迎えたので、小藤太は驚きのあまり転倒して頭を打ち、

のびてしまったという話だ。

単純に面白い。愉快に笑って、また次の話を期待しながら読みたくなる気持ちになる。

ただ、この話のどこにどういう教訓を見つけたらよいのだろう。


巻一第十二話の「児の掻餅するに空寝したる事」は、空寝した比叡山延暦寺の小僧の話だ。

ぼた餅が出来上がり周りの僧たちから一度は起きろと言われたものの、

小僧は意地を張ってもう一度声をかけられるまで待とうとした。

小僧の空寝を知っている大人の僧たちが

「や、なおこしたてまつりそ。おさなき人はね入り給ひにけり」と言って

わざと声をかけないでいると、

ぼた餅を食べたくて我慢できなくなった小僧が、時間を空けて「えい」と返事をしたものだから、

「僧達わらふ事かぎりなし」という結末になっている。


これも面白い。

何しろ子供のすることだから、叱るとか真似するなどの教訓にはつながらないが、

やはり読んでいると単純に面白い話なのだ。


宇治拾遺物語の笑い話はどれも面白い。それも実に面白い。

純粋に腹を抱えて笑うことができるし、誰にでも分かる共通の面白さがある。

疑ってみれば、どれもそれが実話だとは思えないほど、上手に出来上がっている笑い話である。

実話かどうかでは問題ではないし、教訓がなくていいと、著者が思っていたのではないか。

現実の出来事だけでは満足な面白い話にできないから、

そこに若干の加工をすることで、より面白い話を作り上げようとしたのではないか。

今昔物語集の笑い話も面白いのだが、その奥に待っているものは教訓であって、

話全体を単純な笑いが支配しているというわけではない。


一方の宇治拾遺物語の笑い話は、後先を考えることなく、

笑う瞬間の面白さだけを楽しむことができるような話の構成になっているのが対照的だ。

『宇治拾遺物語』の性的な話題が『古今著聞集』などに比べれば明らかなように、

決して陰湿ではなく、おおらかな笑いに包まれていると言われるが、

「大童子鮭盗みたる事」や「小藤太聟におどされたる事」に確かなように、

性に関する話が宇治拾遺物語では明るく書かれている。


教訓じみたものを最後に据える今昔物語集にも、巻二十五第二十五話の

「弾正弼源顕定、摩羅を出して咲わるる語」のように性に関する笑い話がある。

実際に笑いを取ったものの、話の最後には「されば、人、折節知らぬ由なき戯れは

すまじき事なりとなむ、語り伝へたるとや」と結ばれているのだ。

今昔物語集では性を笑いにするどころの話ではなく、最後は逆にそれが失敗した原因だとして、

性に否定的な教訓になってしまっているのだ。

 

こうしてみると両説話集では、先の醜い話での仮説と正反対のものが浮かび上がってくるではないか。

醜い話においては、教訓がなく、単純に醜さだけの話が今昔物語集だ。

教訓があって、単純ではない話が宇治拾遺物語だ。

笑い話においては、教訓があって、単純ではない笑いが今昔物語集だ。

教訓がなく、単純な笑いがあるのが宇治拾遺物語だ。

この通り、醜い話と笑い話を並べてみたところ両説話の内容が逆転していることが分かる。

これは何故だろう。


そもそも今昔物語集では、教訓を伝えたり、笑わせたりすること自体が目的ではないのではないか。

世の中をありのままに映し出すことをした結果、それが偶然か必然か、

最後には教訓や笑いにつながっているのではないか。

宇治拾遺物語では、教訓を伝えることや笑いをとること自体が目的ではないか。

その本来の目的を達成するために構成された内容であるから、

最終的に醜い話で教訓を伝えて、笑い話で笑いを取らなくては話が成立しないのではないか。

こうして、それぞれの目的が違っているという内因が、

説話の構成上の違いという外因に表れているという考えにたどりつくことができる。


先行する指摘では、柳田国男が『笑いの本願』で書いた

「今昔物語集は笑わせる文学で、宇治拾遺物語は笑ってやりましょう文学」

という考え方があるが、私は若干の修正を加えさせていただきたい。

すなわち、「今昔物語集は真顔で笑って教訓を得よう文学で、

宇治拾遺物語はみんなで笑って楽しもう文学」というのが私の意見である。


今昔物語集は「笑わせる文学」ではあるのが、

読者を笑わせることを主として書かれたものとは思えない。

誰を笑わせるか、それは何故笑わせたいのかと解析してゆくと、

その話を読んだ読者を自然に笑わせて楽しませたところで、

最後に教訓を持ってきがちな今昔物語集であるから、笑いと教訓という二つの目的を

「笑わせる文学」の一言で説明できないように思える。

笑わせるだけならば教訓はいらない。

これが「真顔で笑って教訓を得よう文学」と私が命名した理由だ。


宇治拾遺物語は「笑ってやりましょう文学」ではあるのだが、

これも何故笑ってやりましょうなのかと解析してゆくと、

それは楽しみたいから笑ってやりましょう、ということになる。

笑ってやりましょうの意味は、元々笑ってもらうための説話内容に作り込みをしたから

笑ってやりましょうということなるのだが、やはり何故笑ってやりましょうなのか、

笑う目的を明確にしたい。


「笑ってやりましょう文学」の言葉でほぼ言い足りていると思うが、

より噛み砕いた言葉にして「みんなで笑って楽しもう文学」と名付けてみた。

『宇治拾遺物語』の方がはるかに詳しく、物語の作り方が丁寧であり、

一般的に内容をより細かく描写していると言われるが、それは結論を教訓や笑いという

明確なものに持ってゆくための伏線として考えてみることにしよう。

今昔物語集では人間の行動そのものを見せることが目的だから、

細かい説明を補う必要性はなく、ただ現実のままを書けばよいのである。

現実描写の細かさはあっても、それはまぎれない現実を伝えるために必要な時に

描写が細かくなるだけのことだ。


宇治拾遺物語の「三条中納言の水飯の事」では、ダイエット中の三条中納言が食べているものを

「ほしうりを三きり計くひきりて、五、六ばかりまゐりぬ。

次に、鮎を二きり計に食ひ切りて、五、六計やすらかにまゐりぬ。

次に水飯を引きよせて、二たび計はしをまほし給ふとみる程に、おものみなうせぬ。

『又』とてさし給はす」というように、何をどれだけ食べたかということを具体的に書いているが、

それは細かく書くことで「確かに水飯を食べたが、他のものを食べ過ぎているので

ダイエットにはなっていません」という最後の笑いにつなげようという意図があるからである。


同じ食事風景でも今昔物語集の「鎮西の餌取の法師、往生せる語」では

「この持て来たる物共を食するを見れば、牛・馬の肉也けり」と、

ごく最低限の言葉で終わらせている。肉食をする法師の話とはいえ、

食事内容の部分が教訓の趣旨とは無関係であったからである。


一般的に大衆に受け入れやすいのは、

現実のままの姿から読者向けに加工されている宇治拾遺物語であろう。

現実のままを映し出している今昔物語集は、生々し過ぎて時としてつまらなく、

一般的には受け入れがたいところがある。

しかし、悪行篇など、『今昔』本来の趣旨からいえば番外の物語のほうが、

仏教説話や名人譚などよりはるかに生き生きしているという意見もある。


人の醜い欲望が隠すところなく表れているのが悪行であるのだから、

ありのままの姿を語ることが今昔物語集の意図だと考えれば、

悪行などは事実記録の格好の材料である。

著者も一層の興味関心をもって書くことができたため、

そこに生き生きとした文章が生まれたのではないか。

説話における一方の境地は知恵という美しい話、笑い話であろう。

その対極にあるのが醜い話であって、人間の醜い姿そのものが映し出されているから、

今昔物語集の著者には魅力的に映ったのも頷くことができる。


説話が書かれた時代は、貴族・皇族から武士へと支配者階級が移ってゆく過渡期であった。

それは藤原氏の摂関政治や天皇たちの院政を経て、

実に二世紀もの時代をかけて緩やかに移行していったものである。

民衆にとって個人の力では逃れられない大きな流れが世の中には存在しており、

そこから救ってくれるのが浄土往生という仏教への信仰である、ということが古い価値観であった。


しかしそうした価値観にも徐々に限界を感じてきていた民衆は、

権力者の横暴から個人の英知によって逃れられることを知り始めていた。

これら説話集からは古代的な律令法や価値観の終焉と中世的な価値観の成立の狭間にあり、

権力への服従と個人の生命力の間で悩みつつある民衆の姿を見て取ることができる。

それはまだまだ遠くからの足音とはいえ、東国武士が活躍する力強い様に顕著だ。

宮廷女房たちが作った非現実の王朝物語にはない人間臭い話が説話集には収められている。

それも今昔物語では日本全国だけにとどまらず、舞台は天竺から震旦まで、

登場人物も神仏・天皇から盗賊・妖怪まで、笑い話から醜い話まで、

説話集は人間の生存環境を一通り網羅するほど、広い世界を題材として取り扱っているのである。


夢幻の物語から、現実に即した説話へ。

説話集の視点は、あくまで民衆から現実社会を見たものが中心である。

先の醜い話と笑い話の逆転現象を解く鍵として、

誰に読んでもらうための説話集かという切り口で紐解いてみることにしよう。


今昔物語集には読者という考え方はないとされる。

十二世紀頃の成立から、誰にも読まれることなく保管され、

江戸時代中期の亨保五年(1720)に井沢長秀によって「考訂今昔物語」が

一般大衆向けに開放されるまで、六百年間も一部の関係者だけに

秘められていた説話集なのである。


それが自分のためだけの説話集とすれば、

他人に分かりやすくするための説明を加える必要性はない。

だからこそ笑い話を一人笑いだけに留めることなく教訓を求め、

醜い話には事実記録のために徹底した現実描写を、

今昔物語集の著者が追及するようになったのではないか。

基本的には自分だけが分かる内容であれば良かったのが今昔物語集であろう。

自分が分かっているから細かい状況描写などは最小限に留め、

ただ醜い現実の把握と、一人で笑うのではなく笑いの先に教訓を求めようとして、

今昔物語集は説話を書きあげられていったのだ。

ことのなりゆきを徹底して追求し、ついに究明しえずに断念した絶望的な結果の言明、

不信の表明が今昔物語集と言われる。

千話を書き重ねていった結果、最後の答えが出ることはなく自己矛盾に陥り、

ついには未完のまま終焉を迎える。自問自答の今昔物語集だからこそ、

最終話がないのは自然ではないか。


序文に「世の人、これを興じ見る」とあるように、

宇治拾遺物語は明らかに多くの人々に読ませることを前提として書かれた物語である。

醜いものにはフタをしながら教訓を入れることで読みやすいものを作り上げた。

笑い話には誰でも何を考えずに笑うことができる単純な話を目指した。

「いろいろおもしろいことを語って読者の気をそそっては、最後は何がいいたいのかわからない、

読者を煙に巻いてしまうような語り口なり表現が非常に多いので、

『宇治拾遺物語』はまさに狂惑を方法とした作品であるし、

『宇治拾遺物語』はむしろ最初から行方を追わない。

おぼめかし、あいまいな内にことを溶暗させてしまうとも言われるが、そこに迷いはない。

なにしろ読者に読んでもらうこと自体が目的だから、書くべき話が尽きたら

そこが最終話になりうる性質の説話集である。


柳田国男は『鳴滸の文学』で「笑ひは群で楽しむ場合が最も効果が多く、

それを成し遂げるのは文学の力である」と書いたが、この点でも今昔物語集より

宇治拾遺物語の方がより笑いの効果を持っている。

読者を想定して書かれていれば、それは群で楽しむということにつながるからだ。

今昔物語集では読者があることをそもそも想定しておらず、

宇治拾遺物語では読者ありきの文学を作った。

著者が何のために書き、読者にどう読ませたかったか、という意思の違いが、

両説話集の性質の違いを説明する鍵となる。

今昔物語集の名前の由来となった「今は昔」「となむ語り伝へたるとや」という

最初と最後の定型の書き方は、

自らの語りこそ唯一正統な伝承である保証を得る方法であったことから採られたのであろう。


はっきりと言いたいことも書いてあるはずなのに、著者と限られた周囲の人たちにだけ

分かればよいはずの今昔物語集だが、そこでこの最初と最後の決まり文句を常用することで、

本来自分が言いたかったはずの今の言葉が、あたかも昔から伝承されてきた

一般的な既成事実と同化して、うやむやになってしまうことには違和感がある。

しかし書かれていることはおよそ伝承とは言い切れないことも多々あるから、

定型踏襲という口語りの伝承を擬装することによって、語りの主体を確立し、

書くことの自由を得、伝承そのものから解放されたと考えることもできる。

また、即ち、今昔物語集は自己の語りを正当化するために過去を仮構し

対象化しているというように、今昔物語集は伝承を隠れ蓑として利用していると解釈できる。

一見すると妙なところで説話を書き上げた責任をよそに転嫁して、

著者が自分の存在を隠そうとしているようにも思える。


そこには紫式部はつくり物語のそらごとゆえに、

地獄の苦患のなかにあると言われていたような事情があった。

そらごと・虚構を通して、この世にある人の有様の真実を追求するのがつくり物語であって、

院政期の人々はつくり物語を否定的に捉えているという価値観が存在していた。

「今は昔」「となむ語り伝へたるとや」で入口と出口を統一した今昔物語集は、

全話が実話であって、決してつくり物語ではない、という主張と捉えることができる。

醜い世の中はありのまま書き残してしまおう、つくり物語のように虚構を書いても

地獄に落ちて苦しむだけだ。

笑いは笑いで楽しむが、それだけではなく今を生きている我々がその笑いから

どんな生きる教訓を得ているのか、それを中心にして世の中を記録しよう。

今昔物語集のこんな編纂意図を、私はそこから感じ取る。


一方の宇治拾遺物語では、今昔物語集ほど「今は昔」が形式化していない。

「今は昔」「昔」「これも今は昔の話」「これも昔」といういくつかの形式を取っている。

今昔物語集の後の時代に書かれ、今昔物語集と同じ話も納めている宇治拾遺物語であるから、

今昔物語集の意図的な統一を知らないわけがない。

今昔物語集の形式をある程度は踏襲しながら、

しかし決して完全には統一しなかったのはまた示唆的な点である。

宇治拾遺物語では、自分が行っているのが事実の記録だけではないことを

はっきり意識していたし、それを読者にも理解させようとしていたからではないか。

それは先に述べたように笑いを純粋に楽しむ説話集、醜い世の中を生き延びる教訓を得る、

という実践的なものを取り入れた説話集にしようとする編纂意図があったからこそではないか。


宇治拾遺物語の序文には気になる一文がある。

「五月より八月までは平等院一切経蔵の南の山ぎはに、南泉房といふ所にこまりゐられけり」

「もとどりをゆひわげてをかしげなる姿にて、むしろを板にしきて、すずみゐはべりて、

大なる打輪をもてあふがせなどして、往来の者、上中下をいはずよびあつめ、

昔物語をせさせて、我は内にそひふして、かたるにしたがひておほきなる双紙にかかれけり」

と序文に書かれている。


避暑地・宇治にある貴族の別荘で、寝そべりながら話を聞いて書き込んでいった書物だとは

信じることができないのは、宇治拾遺物語の内容が完成されているからである。

この序文が言いたったことは、そのぐらいのんびりした雰囲気で書いたので、

決して固く読まないで欲しい、という著者の意図ではないか。

ましてや「我は内にそひふして」とあるのだから、著者の源隆国本人は

話し手と直接面と向かって話を聞いたのではないと捉えることができる。

簾越しに聞くか、あるいは間に誰かを挟んだことになる。

しかし、そんな間接的なやりとりでこれだけの説話集が書けるとは誰も思わないだろう。

どこかの寺院で、とある著者が、常人離れした根気を持って

千数十話という膨大な説話を書き上げた、ストイックなものが今昔物語集である。

肩肘張ることなくリラックスしながら書かれた 宇治拾遺物語との書かれ方の違いに、

両説話集の性格の違いの一端を見ることができる。

今昔物語集に序文が残されていないのは残念だが、それは偶然だろうか。

推測が許されるのならば、序文というもの自体が今昔物語集になくて、

それは読者を想定せず自分のためだけの説話集であったから、他人に前提となる状況を

理解させるための序文というものを書く必要性がなかったからではないか。

 

横暴な権力者の気まぐれで自分がいつ危険な目に合うかもしれない。

今日の笑いは楽しいものの、明日は笑っていられるか、

あるいは本当に明日も無事に生きていられるかすら民衆が信じられない時代であったのだ。

そんな時代に生きた人々にとり、現実の姿をありのままで残し、

生きる知恵として教訓を考えるのは自分の生きた証を刻む術であったのだろう。

今昔物語集にはこうした人々の必死の思いが込められている。

自分の命はいつ終わりを迎えるか分からないが、そうなった時でも自分が書き残した説話集は

自分が生きた記録として永遠の命を持ってゆくのだ。

自分と読み手たちがそこにいる場だけ楽しめればいいエンターテインメント性を含みつつ

書かれた宇治拾遺物語との決定的な違いがそこにある。


芥川龍之介は「今昔物語について」の中で、今昔物語集を「野生brutalityの美しさ」と評した。

荒削りで洗練されていない生の話のくせに、そこが妙に美しい。

生きようとする人々の真剣な思いを話中から読み取って「野生の美しさ」と表現した

芥川の評価には多いに共感できる。

こうして今昔物語集を読み解いてみると、美醜同居の美しさという表現が私には浮かび上がってくる。

美しいものは美しい。

それに加えて、つくり物語との決定的な違いである、

醜い人間の姿までもが含まれている点において、そしてそれを宇治拾遺物語と比べて

あからさまに書きあげているところに、今昔物語集の特性を見る。

醜いものも美しいのが、今昔物語集なのである。


今昔物語集は読み手のために書かれたものではなく、現実社会の正確な記録として、

またそこから教訓を得て生きてゆく人たちの力強い様を描いたものである。

こういった特有の世界観を持ちながら書かれた説話集が今昔物語集なのであると、

宇治拾遺物語との醜い話と笑い話の内容比較を通して説明することができる。

 

今昔物語集 説話集

巻二十八第十五話には、海賊に襲われた僧が勇猛なことで有名な

伊佐の入道能観をとっさに名乗り、見事に海賊を追い返したという話がある。

頼れるものは自分自身の才覚だけであって、見破られて殺されるのも覚悟の上であれば、

嘘を突き通す度胸が本物であれば生き延びることもできる。

嘘をつくことが悪と言うよりも、一計を案じて相手を出し抜くことが美徳であって、

騙された人こそが悪だと、この話は語りかけてきている。


色仕掛けで医者を騙して患部を治療してもらい、治ったと同時に姿をくらました美女の話もまた

自分の器量一本で上手に生きてゆく人間を描いたものである。

色男の平中を焦らして恋煩いの末に殺してしまった女も、

機転があればこそ話の主人公となりえるものである。


貴族階級の日常が中心に描かれていた王朝文化では書き得なかった庶民の生活での知恵や、

個人の器量の大切さというものが今昔物語では明確に描かれている。

身分は低くとも、逞しく生きようとする生命力を捉えた話には

活き活きとした庶民の力を感じることができる。


これは現代でも共通することであって、一億総中流を目指せばよかった

バブルの時代が崩れ去った後の資本主義社会においては、

自分自身を売り込む能力がないと勝ち残ってゆくことができない。

今昔物語の生まれた平安時代末期のように、それまで隆盛していた貴族文化や

天皇支配という時代が衰退し、武士という新階級の台頭が

目前に迫ってきていた時だからこそ、新しいものが生まれる直前にあった。


我々の現代でも、経済優先・会社中心だった我武者羅な時代は崩れ、

環境保護や個人の時間を中心にして人々が暮らすように変化してきている今、

そこではやはり個人の能力が問われるのではないだろうか。

そうした場において、個人の力だけではなく神々の力を借りて

成功を収める場面があるのが今昔物語である。


伊香の郡司という話では、上司の国守から難題と引き換えに妻を要求された郡司が、

観音様の力を借りて難題を乗り切っている。

自分自身の力だけに限定せず他の力を借りようとも、

なんとか困難を乗り越えることは今昔物語での美徳である。


そこには仏教信仰の影響もある。

修行僧が性欲に負けて山奥で他人の妻を襲ったところを、

狩の最中に偶然通りかかった夫が獲物かと思って放った矢が、

修行僧に突き刺さる話には、個人の才覚というよりも

仏の力が難を逃してくれる、ということも描かれた。

巻二十七第三十六話では、墓場で鬼に襲われそうになった男が

どうせ死ぬのならば悪あがきしてみよう、と鬼に向かって太刀を振るった結果、

鬼だと思っていた大きな猪を倒して無事を得たという話がある。

流転する時代に巻き込まれ、死が身近だった時代に生きる人間たちは、

常に死を意識していたし、その死に抵抗しようと全力で運命に立ち向かっていった結果、

命を取り留めたという成功譚は今昔物語の代表的な美談だ。


古代の貴族社会から武士台頭の中世までには、

実に二世紀もの長い歳月をかけて緩やかに移行していった歴史がある。

藤原氏が摂政・関白を独占して政治の実権を握った時代から、

院政をひいた天皇が支配した時代、律令法による古代的な貴族・天皇支配の時代は長かったし、

その後の平清盛に始まる平氏の支配、源頼朝ら鎌倉武士が日本の政権を担う時代まで、

京都の貴族・皇族と地方の武士階級が支配を交代していった

長い時代の中から今昔物語は生まれている。


平家物語の盛者必衰の理を体現するかのように、繁栄しては衰退してゆく貴族たちに、

台頭してはまた別の武士に滅ぼされてゆく武士たち。

生も死も不確かな時代の中では、人々は王朝時代にあった優美なものよりも、

もっと身近でもっと人間臭いものを求めていったのではないか。

それが証拠に、今昔物語の本朝部に登場する主人公の多くは源氏物語のように

特権階級の人ではなく、一般庶民であるのだから。

貴族文化から生まれた王朝文学では、雅でないものには焦点を当たることは少なく、

美しいものが取り上げられている。そこに庶民の感情や生き様が入る余地はない。

今昔物語のような説話文学は王朝文学の対極に位置しており、

どんな低俗なものでも自分自身が直接目で見て確認しなくては引き下がれない、

という民衆の視点にまで下がってきている。


巻三十第一話で色男の平中が、どうしても自分のモノにできない美女に懸想をして、

恥ずかしがらせてやろうと便器を調べ、美女が仕掛けていた金の糞を見つけるのも、

幻想を幻想に終わらせるのではなく、

自分で最後まで解決しようした人間の行動が説話になったものだ。

王朝時代の人にもこうした行動があったのだろうが、それが文学に残るだろうか。

いや、風雅の世界に生きた人々がこうした話を文字に刻むことはなかっただろう。

グロテスクなシーンも今昔物語の世界では取り上げられている。

平貞盛は自分の悪性の瘡を治すためだけに胎児の生き肝を捜し、

息子の嫁の腹を裂けと言うし、実際に台所で働いている下女の腹を割いたりしている。

その上で、この治療法を教えてくれた医者を、己の出世と世間体のために殺して

口封じしようとするなど、あまりに惨い話までが生々しく語られているのも、今昔物語ならではだ。

この話だけが特殊だったのかもしれないが、少なくとも当時の人々の間では

こうした必死の生存競争が行われていたことを読み取ることができるし、

確かにその一部を今昔物語の話の中で垣間見ることができるのである。


権力者の横暴もまたひどい。

中国の国王が百丈の卒塔婆を石工に造らせたが、

他国でも似たものが造られるのを阻止しようと、その石工を殺そうとした話には

権力者のエゴが隠しようがないぐらいに出ているし、その危機を石工夫婦が

機知で切り抜けた場面には庶民ロマンの軽快さがある。

古代では権力者からの強制を逃れる術を庶民は持たなかったが、

今昔物語が書かれた時代にはそれも個人の勇気と知力によって克ち得る可能性を秘めていた。

与えられた苦しみにも信仰心を持って耐え抜くことで救われるのは

受動的な仏教の救いの世界であるが、民衆は自分たちが能動的に行動することで

救いを獲得できるということを、身をもって知っていたのだ。

この人生の苦難の話と、美徳を美徳としてだけ書いた話を比べてみる。

物語の多様性を考えれば幸せと不幸の話が交互に散りばめられているのも

説話集には必要だとは思うが、どうしても美徳だけの話には奥行きが乏しく思えて仕方がない。

 

 

 

 


鬼や盗賊の姿を描く暗黒の物語に民衆の貧困を見ることができる。

無人の寺で賊から襲われた女性が、命こそ優先であるから諦めて犯される場面もある。

自分の子供を犠牲にして暴漢から貞操を守った別の女の話でも、

相手の男が乞食だったから子供の命と引き換えにしても

自分の身体を守ろうとしたと考えるならば、

身分階級こそがその女を突き動かしていたものと思うことができる。


今昔物語では話中に美人を登場させたいときに、風貌のどこが美しいかを描くことよりも、

生活様式の品位や全体の趣味で美人をイメージ付けたように、

やはり身分階級意識は当時の人々にとって強いものだったのだろう。

奪おうとした男も必死ならば、守ろうとした女も必死。

互いに必死を生きる中でも、当時なりの価値観によって人々は動かされていたのだ。


武士の力が眩しく描かれている。

巻二十三第十四話では、明尊僧正が三井寺へ往復する道中に

武人の平致経に警護を命じるが、出発姿では平致経と下人一人だけと

頼りない警護だったのだが、歩くごとに道脇から武士仲間たちが無言で共に加わってゆき、

終いには三十人もの黒装束の武士たちが警護していた。

目的を済ませて京都へ戻るにつれ、逆に仲間たちが無言で順に姿を消してゆき、

最後には平致経と下人一人だけとなった。


それらが無言のうちに行われたというところが、

武士たちらしい生死を賭けた訓練と以心伝心の賜物である。

まだ貴族支配の社会が残っている今昔物語の時代に、

刀の音を鳴らして歩いてくる武士の姿を取り上げたところに、

今昔物語の編者たちの先見の明を感じることができる。

古代では貴族たちには優雅こそが大事だという価値観があり、

今昔物語時代には何よりも命が大事だとする庶民的な価値観があり、

その先の中世では名を惜しめという武士たちの価値観がある。

その中でも一番強烈なものは、やはり何よりも命が大事だという

人間臭いらしい必死な動機ではないだろうか。


生き延びることへの執着心。悟りを開いて死に甘んじる仏教の姿ではなく、

貪欲に生きることこそが人間本来の美しさだと、今昔物語の編者たちは伝えたかったのだろうか。

それは世の仏教信仰とは相反する意識であるから、公にはできなかったものと推測できるのだが。

そもそも宗教には支配者層が権力を正当化するために便利なように作られてきた歴史がある。

中国の儒教は官僚支配構造のために生まれた歴史があるし、

ヒンズー教は階級社会を正当化するものだ。中世ヨーロッパの宗教改革は

上からの束縛から脱出するために民衆が巻き起こした運動である。

鎌倉仏教は国家からの自立と個人の救済を趣旨として生まれたものであり、

この今昔物語の貧民たちもまた、崇高な仏教ではなく

純粋に人間解放を求めていたと捉えるともできる。


しかしながら、人間解放へと向かおうとしても当時はまだ闇の時代であった。

古代権力支配の力が残る中で、先が見えない民衆らは

それでも自由への道へと向かおうとする意思を持ち、

「今は昔」の仮の物語を組み立てることで将来を模索し、解放への道筋をつけようとしたのではないか。

「今は昔」の言葉を額面どおり捉えれば過去のことを言っているように思われるが、

実際は過去にまぎれて自分の将来を仮定しようとしたのではないか。

千話に及ぶ膨大な説話集を一人の人間の人生で体験できるものではない。

人は自分が経験したものしか書くことができないのだから、

編者が呼び止めた人から珍しい諸国の話を聞いて書き留めたものに

手を加えて編纂したのが、この今昔物語なのであろう。


今昔物語には真面目な徳を描いた話もあるが、わたしにはどうも興が失われている気がする。

巻十六第二十話には、勇敢な夫が相手に騙されつつも、

妻の機転によって好機を得て相手を退治するという、

若い夫婦が協力して困難を脱してゆく美しい話がある。

強い夫とそれを支える妻という、日本の理想的な夫婦のあり方には違いないが、

他の話では生々しい人の欲望や生き様があり、言わば醜さと美しさが矛盾なく同居して、

それが不思議と輝いているのが今昔物語の魅力であろう。

美徳だけが強調されているところを見て、

今昔物語を知った気になるのは片手落ちと呼ぶべきものだ。


運命の非情さにも容赦がない。

貧しさゆえに別れた前の夫とは知らずに、また結ばれたことに気付いた女が、

わが身の不運を思って息途絶えてしまった話なども、容易に幸せな結末に結び付けず、

そこで死を迎えさせてしまったところに今昔物語の厳しさがある。

同じく貧しさゆえに別れた男女のうち、別の豊かな男にもらわれた女が、

農作業中の落ちぶれた元夫を偶然見つけてその貧乏に同情し、着物を与えた。

そしてそのまま東と西に生き別れる男女の、なんとも残酷の時の流れ。

希望を与えずそのまま冷たい運命に引き裂かれて話を終わらせるところに非情さを伺うことができる。

 

この説話集に所収された話の量は格別であり、それまで巷にあふれていた仏教説話を

ほぼ網羅しており、古代日本における仏教説話集の様相さえある。

それも主役は人間だけではなく、動物や信仰までもが主役になりえたということは、

世界は人間を中心としては回っているわけではなく、

神々や精霊など人間が制御できない何か大きな輪廻転生のようなものが支配していた、

いう考え方がに違いない。

それまでの裕福層を中心とした物語とは変わって、一般庶民から僧侶、賊から武士、

貴族に天皇、菩薩から鬼や蛇など様々な立場に沿って書かれている。


そこには本当の意味での主役が存在しない。

王朝文学に本当に共感できたのは限られた裕福な貴族層だけであったのだろうが、

今昔物語では庶民を含む世間一般全体が読者になる可能性を秘めるようになっている。

全ての人が読んで、全ての人が登場人物になりえて、全ての人が笑われる立場になる。

今日笑っている自分が、一歩間違えば明日には

笑われている自分になるかもしれないという危うさは、明日死んでも不思議ではない、

と死をありふれたものとして受け止めていた当時の人々には身近なものだったのかもしれない。

混沌とする時代の中で、人々は現在や未来がどうなるか予想ができなかった。

今は昔、として昔を例にあげる方法が精一杯だったのだろう。


太平記や平家物語が今を生きる人間に焦点をあてて自分の身の回りの

人間像を描いたのとは違い、今昔物語では昔に生きた人間として話を組み立ててゆくなかで、

故人たちを非難してもしかたないことであるから、そういう人物が過去には存在したのだ、

という事実を描き、それは必然的にありとあらゆる人間像を

描き出す物語を完成させることにつながった。

古代から中世への変化を記録した物語。

王朝文学にはなかったもので、後の人間解放の中世文学を生み出す源が潜んでいて、

文学の時代と時代をつないでいるもの。

 

和漢混在の文体で書かれているところを見ると教育があった著者だったのだろう。

庶民の必死な生き様のようにグロテスクなものは貴族には書けないはずであるから、

当時の文化層である寺院の僧侶階級が書いたものだろうと想像がつく。

印度・中国の仏典までも引用しているのだから、仏教の僧が関係していた間違いないだろう。

源隆国の宇治大納言物語など、いくつもの書物が出典と考えられているが、

それにしても膨大な物語の数は尋常ではないし、

そもそも編纂された意図さえも不明なのが今昔物語だ。

内外の仏教説話がまとめられているところから推測すると、

仏教僧による修行目的の書だったのかもしれない。


別の観点で言えば、混乱の世の中を憂う一人の人間として、

その時代を生きた証拠を残そうとしてまとめた書物なのかもしれない。

仮に複数の僧が作ったものとすると、ある程度の仏教の知識を持つ知識人たち、

それも現在を疑問視する人々で、かつ未来を切り開こうとする意思があった人たちなのだろう。

彼らは過去と現在を書物に封印するために今昔物語を作ったのか?

いいや、連歌や歌合いのように美しい連想を楽しむ、

一種の知的娯楽のような感覚でなかったのか。

そこではアイディアが現実を飛び越えてゆく。

元となった話に沿っていても、イメージはそこに閉塞されたものではなく、

互いに思い切った面白さを競い合うように新しい物語を生んでいったに違いない。

現世を未来に残そうとする意識よりも、ただ目の前の世界を物語に

詰め込んだだけだったと考えて不自然はないと思う。


野生の美しさ、と評した芥川龍之介の指摘は最もだ。

王朝文学の優美さは地に足がついていないのでつまらなく、

台頭した市民層による中世の文学も豊か過ぎてつまらない。

台頭せず、時代に流され、貧しいままの市民層の視点で描かれた物語、

田舎である東人を馬鹿にしている都人の笑いが聞こえたと思ったら、

東国の兵馬どもが勇ましく駆けてくる馬の音が聞こえそうであるし、

荒削りのままで洗練されていない文体は今昔物語の魅力である。

所詮、王朝物語は限られた貴空間だけで行われていたものであって、世界が狭い。

それに引き換え今昔物語には当時の世界まるごと、庶民生活から宗教世界まで、

京都周辺を中心とはしているものの日本各地からアジアまで、

あらゆるものが詰め込まれたアートボックスなのである。


宗教が湿っぽく語られているかと思ったら、低俗な事柄が感情豊かに描かれていて、

全体的に陰気から笑いまで豊かに含んでいる。

地上の左右から高低まで、あらゆる人間の姿を地図に描こうとしたのが今昔物語ではないだろうか。

この説話集には人の醜さと貧しさが否定できず、そこに人の生命力の美しさというものまでが

矛盾なく同居している。この今昔物語の世界感の広さこそ、

野生の美しさを感じさせてくれるものであるし、わたしがひきつけられた魅力的なものなのである。

 

運慶 仏像

運慶の仏像が大好きだ、彼の作品を追って幾度奈良・京都に通ったことか。

仏像の基礎知識や時代背景を知らなくても、単純に美術品として魅力的な運慶の仏像。

もう一歩踏み込んで、日本彫刻の歴史の中での運慶のことを調べてみた。


仏像制作には暗黙のルールが存在していて、自分の美意識で自由創造するものではなく、

作るべき形の基本が定められた、いわば課題制作みたいなもの。

仏師・康慶の家に生まれた運慶は、幼い時よりそのルールを身近なものとして見て育っているし、

また運慶自身も熱心な仏教信者。運慶はそんな制約の多い仏像芸術の中で、

ルールを逸脱しない枠内での工夫を突き詰めて仏像アートの世界を広げた人物。

 

運慶の時代は宗教改革の訪れと重なり、宗教の民衆化・大衆化の波が来ていた。

東大寺・興福寺の焼き討ちを契機にそれが加熱し、

貴族から武士台頭への時代変化にもまれて被害を受け、

苦しみあがく民衆がもっと自分の身近に感じられる対象としての仏像を求めていた。

父・康慶は仏像の写実主義を進めた第一人者だったが、

その流れを受けた運慶は、当時の民衆が求める姿に合致するよう仏像の世界を加速させた。


具体的には、願成就院の不動明王像には運慶が築き上げた特徴が顕著だよ。

密教の経典が説く、醜悪で肥満した童子というイメージを、運慶は見事に力強く、

あたかも現実に存在するかのような仏像として創り上げている。

 

 

 


彼の技法の特徴である玉眼を使うことで、内面から溢れ出してくる威圧感を表現し、

ひだの少ないシンプルな衣と、張り詰めた体躯・めりはりのあるくびれとの対比で

たくましい生命感を浮き彫りにした。

そこから感じられるのは、見る側、民衆に直接エネルギーを与えてくれるような仏像。

東国武士たちが拝むのにふさわしい男性的な運動感・荒々しさがある。

経典の中の取り扱いが難しい人物像をバランスよく見事に写実し、

しかも民衆と武士いずれにも通用する仏像に創り上げた運慶。

 

この両方を兼ね備えた不動明王像こそ、東国で運慶が到達した新しい仏像アートの世界。

玉眼にしろ、衣のひだにしろ、運慶が作る仏像には通常以上に手間のかかる仕事が

細部にわたって施されているのが技法的特徴。

その手間をかけなくてはいかなかった理由として、

当時の仏像社会ではライバルの院派や円派仏師の繁栄があり、

運慶ら慶派の奈良仏師は新しい仏像を創らない限り将来の発展が見込めなかった。


それを理解した上で、今後どうなるか分からない社会情勢の中で

急台頭中の源氏の要請を受諾し、父・康慶は慶派の代表として運慶を東国・鎌倉に旅立たせた。


源氏だって、いつ衰退してもおかしくない世の中。

康慶の行動は自分たちの将来につながるかどうかも分からない賭けの要素があった。

それまでの仏像のスタイルは定朝様式の眠るようなおだやかさが特徴であり、

実在する人間ばなれをした仏のかたちが主流だったが、

東国という新しい土地、宗教がより庶民化してゆく時代背景の中で、

運慶はより写実的で、より力強いものを創り上げるという事績をあげ、

日本美術史における仏像アートの世界に新しい境地を切り開いた。

 

東国では民衆と武士の両方から求められる力強い仏像の世界を確立した運慶だが、

京都奈良に戻って仕事をしてゆくようになると、

やはり日本人の根底には大人しい仏像を求める心が流れていると知ってか、

興福寺での北円堂弥勒仏坐像のような穏やかなものを作り始めた。

かつての強力で斬新な個性を発揮するものではなく、

穏やかさを全身にみなぎらせたものに力を注ぐ柔軟さを運慶は持っている。

 

その頃の運慶には年齢を重ねたことでの余裕や、

すでに画期的な仏像を作り上げたという実績もあったのだろう。

更には、運慶自身が慶派の長というポジションについていて、

もはや自分が率先して鋸を持ち仏像を作るのではなく、

多くの弟子たちを指揮する立場におかれていたことも理由のひとつ。

 

武士の台頭、民衆の逼迫した状況が一段落し、時代は源氏の安定政権に移っていた。

生動感こそが仏像彫刻の美点としてきた運慶は、次の手法を見つけたようだ。

社会を無視して芸術は成り立たものでもないから、

時代が求めるものに対応していくのも美術には不可欠。


次第に民衆は、仏像に以前のような空想性を求めるように戻っていった。

運慶以前の定朝が確立した和様彫刻。

それを察知して、運慶は北円堂の弥勒仏坐像を自然体のものにしたのかな。

和様彫刻よりは写実的だが、鎌倉彫刻よりは力まず、運慶の作風の変化が見られる。

最終的に、弥勒仏坐像は日本美術史上における彫刻の終着点に重なっている。

 

写実性は、彫刻ではなく絵画に引き継がれた。

崇拝対象としての彫刻は結果として写実よりも空想に落ち着く。

運慶の写実主義は子供の慶派彫師たちにも引き継がれたものの、

運慶の世界を大きく変化させたり、その域をはみ出したりすることはなく、

運慶がしてきた範疇の中で、仏像彫刻は続けられていった。


日本彫刻の歴史は定朝の時代に最盛期を迎え、運慶の鎌倉彫刻で飛躍を遂げたが、

その後は社会や民衆の求めに応じて、また定朝の空想の世界に戻っていき、

次の進化に至らないまま現代に至るのである。

強烈だった仏師運慶の個性、私の心はずっと忘れられないのだろうな。

 

与謝野晶子 短歌

与謝野晶子の短歌と、佐藤春夫の『晶子曼陀羅』を通読してみた。

運命の流れに翻弄された一人の詩人像が浮かび上がってくるのを、私は感じていた。


与謝野晶子の人生には数々の運命の分岐点があったが、

最大のものは、生涯の伴侶・与謝野鉄幹との出逢いだろう。

鉄幹と出逢う以前の晶子にとって、歌を詠むこととはほんわりとした娘心を表したものであり、

自分のユニークな部分を主張するためのツールだったように見える。


ところが、鉄幹と出逢って恋するようになってから、晶子にとって詩を書くことの意味が一変した。

言葉の成り立ちを考えずとも、鉄幹への想いがそのまま詩となり、

自分を飾るために詩を詠むのではなく、自分の感情がそのまま詩になった。

鉄幹への愛情が晶子の身体の中に収まりきれずに溢れ出し、詩として形を成した。

 

 

 

 

鉄幹と一緒になりたくて、実家を無断で出奔しようとする前夜、

両親への良心と、自分の気持ちに素直に生きたいという願望の狭間で晶子は激しく悩んだのだろう。

己の生き方を貫こうとする意志のある晶子。

当時の社会では後ろ指を指されるようなこと、いわゆる駆け落ちをやってのけた。

全てを捨てて、恋する鉄幹のもとへ、夢見る詩の世界へと飛び込んでいったのだ。


この行動は、晶子の親友であり、斬新な女流詩人としての好敵手であった山川登美子が、

親の薦める相手と結婚したことと対照的ね。

新しい女性像を理想として掲げた二人のうち、一人は古い慣習の中に戻り、

一人は無謀とも呼ぶべき突飛な行動でもって新しい世界を求めた。

その選択も、追って更なる運命に翻弄される選択でしかなかったというのは、皮肉なものだけど。


鉄幹との出逢いは、晶子の詩への想いのみではなく、与謝野晶子の人格そのものを大きく変えた。

コントロールできていた自分自身が、手のつけようがない情熱の嵐へと変化した晶子。


実家との疎遠、兄との不仲、鉄幹の前の愛人との争いがあった。

それらをようやく乗り越え、晶子初の歌集「みだれ髪」が刊行され、

晶子と鉄幹の子供が産まれるという幸せな出来事があっても、鉄幹との平和な生活は素直に続かない。


晶子の人生最大の選択である鉄幹との結婚でも、大きな皮肉が待ち構えていた。

嫁いだ先の夫が早死をしたことがあり、山川登美子が東京に出て来ていた。

鉄幹との恋の好敵手でありながら、途中で自ら道をそれたはずの山川登美子が、

今更ながら鉄幹と情を通じていた。

無二の親友から裏切られ、命を張って追ってきた男からも裏切られるという、無残な事実。

 

更に酷い皮肉は重なる。

愛する鉄幹との生活のため、鉄幹に捧げようと詠んできた晶子の詩が世に認められてゆくにつれ、

晶子の想いとは裏腹に、鉄幹はそれを面白く思わなかったのだ。


偶然か、必然か、晶子が鉄幹と一緒になると同時に、

詩人としての晶子の名声は高まり、鉄幹は下降の一途をたどっていった。

自分を弟子と名乗って自分の元に来た晶子に、鉄幹は嫉妬を覚える。

何時の間にか、鉄幹は晶子にすっかり上を越されていたからだ。


恋に傷つき、詩に背かれても、晶子は以前と変わらず、もしくは勝る情熱で詩を詠み続けた。

そこに、詩人・与謝野晶子の本性が見えるようだ。

恋の甘いも酸いも知りつくし、それを詩の世界に投影させた晶子。

幸せな意味でも、哀しい意味でも、恋への情熱が与謝野晶子の詩を輝かせた。


晶子が経験した恋とは、全然甘いものばかりではない。。

傷つけられ、裏切られ、しかしそれでも鉄幹のことが忘れられない。

不仲の最中に、しばらく離れて暮らすことで、気持ちを整理しようとしたにも関わらず、

やはり夫恋しさに耐え切れなくなり7人の子供を日本に残したまま、

ロシア鉄道を乗り継いで、鉄幹のいるパリへ単身飛んでいった晶子。

 


恋しい夫に甘えたのも束の間、今度は残してきた子供が愛しくなってしまう晶子。

ついには鉄幹をパリに残し、子供恋しさに突然日本に帰ると言い出した。

帰国の船に乗ったら乗ったで、結局子供よりも鉄幹のほうが恋しいと知って、

取り止めのない己の心に泣いた晶子。


大人の良心と、自分の素直な気持ちの狭間で悩み、苦しみ、そして生き、詩を残した。

一般的な人のものよりも、ずっと激しい感情を晶子は持っていたのだろうな。

晶子が情熱の歌人と呼ばれたのも、分かる気がする。

詩人としての与謝野晶子は、詩にこめられた激しい情熱で成功を収めた。

しかし、鉄幹を愛することを生き甲斐とした一人の女性としての晶子は、

それほど成功したようには思えないが、実際はどうだったのだろう。


矛盾を繰り返す己の心に翻弄され、皮肉な運命に流され続けた。

詩人としての成功、夫婦としての苦悩、晶子の二面性がはっきりと描かれた『晶子曼陀羅』。


晶子が自分の人生に満足したのかどうかは別として、晶子の詩は輝いて人々に愛された。

皮肉な運命に弄ばれながらも、そこで生まれた激しい情熱の嵐を詩にぶつけたことで、

奇遇にも幼い頃に目指した詩の美学は貫かれたみたい。

しかし、愛する鉄幹がそれを喜んだのかどうかは別問題。

晶子が一番望んだことは、叶わなかったのかもしれないけれども。


どこまでも皮肉な詩人、しかし恋も詩も思う存分に堪能した詩人の姿が、

与謝野晶子の短歌から、僕には瑞々しく伝わってくる。

 



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