李白 月

月はいつも人間の頭上にあり、今現在だけでなく、先祖の代、

そのもっと前の先人たちもまた、同じ月を見ていたことに違いない。

 

その思いに加え、中国では古来より今頭上にある同じこの月を、遠く離れた故郷の旧友が見ているのかもしれない、

または遠くに置いてきた家族が同じく今夜の月を眺めているかもしれない。


月が悲愁の思いを起こさせるものであるから、親しい人を思いながらうたったのだろう。

当時の科学知識では自然界の現象である天象は充分に解明しきれず、

月の満ち欠けの不思議と自分の心を重ねて物思いにふけるのが月の典型的な鑑賞方法だったのだ。

 

例えば杜甫はその流れを受けて、「今夜フ州の月 閨中只だ独り看るならん」とうたい

遠くフ州に疎開させている妻子のことを思っている。


今自分が見ている月は鏡であって、どれだけ距離があったとしても

その天空の鏡を通して大切な誰かと思いがつながっている、という発想が中国古典詩の常道だったことを窺うことができる。


そんな中で李白という詩人は、月という存在をまた別の角度から詩の世界に取り込むことを行っている。

 

 

 


「月下の独酌」の句に「月をわたしと我が影と気楽な三人の酒盛りとなる」とある。

この歌は、唐の玄宗皇帝から表向きは「酒癖が悪いので宮廷務めの器ではない」

と一方的に宮廷お抱えの詩よみ役を解任されたことへの抵抗という意味もあったのかもしれないが、

寂しい感情に浸ることを優先してきたそれまでの漢詩世界の月のイメージを、

明るく前向きで洒脱なものに捉えたという意味で注目に値すると思う。


詩はその後に

「酔うて後は各おの分散す 永く無常の遊を結び 相に期す 雲漠遙かなると」

と続いてゆくが、ここでは酔ったときは一緒の仲間だが酒が冷めたらそれぞれ別々になったとしても、

またいつか天の川の元で再会しよう、と言っており、

李白の自由な発想はついに月をも自分の親しい友人の一人に見立ててしまい、

また会って酒を飲もうと呼びかけているのである。

 

「靜夜思」では句頭から「牀前月光を看る」とうたい、

これもそれまでの月にイメージしていなかった行動を李白はとっている。

つまり、自分から月に向かって心を寄せようとする従来のアプローチに反して、

月光そのものを自分の目の前に引き寄せたのである。


旅路の途中の宿、夜更けまで眠れないベッドの上で物思いにふかっていると、

ふと部屋に差し込んできた月光がまるで目の前まで注いでいるかのように見えたのだろう。

そこから山上の月に視点を展開して遠くの故郷を思う李白の視点は

月に始まって月に終わっており、月を目の前に引き寄せてしまったのは異例だが、心の動きは月を通して自然そのものである。

 

その後に続くのは「頭を挙げて山月を望み 頭を低れて故郷を思う」と、

月に故郷への思いを重ねるのは従来の月のイメージ通りであるが、

この二つの詩で李白がよんだ酒の友としてのポジティブな月、

そして月光を自分の目の前に引き寄せるという発想は漢詩における異質である。


詩仙と呼ばれ着想の自由さ・豊かな想像力・豪快な詩風を魅力とした李白ならではの発想の自由さ、

既存の概念に捉われることなく自分のありのままの感情を詩にうたうことができる

という斬新さをこのふたつが体現しているようだ。

 

そんな月のことを数多く詩に残した李白だからこそ、死に至ってまで

酒を飲みながらの月見の船で揚子江の水面に映った月を

手に取ろうとして落水して水死した、という伝説まで人々に残されてしまったのだろう。

 

いつの時代も、いつまで経っても月は不変だが、人は常に変わってゆくもの。

ましてや王朝がめまぐるしく変わってゆき、明日どうなるか分からない時代に生きてきた

中国の人々には月は格別に不思議な存在だったに違いない。


それが月を物思い・人思いの象徴にさせ、漢詩の世界でもその中国人の根本意識が月のイメージを作り上げたのだろう。

長い漂泊の果てに獲得した士官の道も他人の中傷で急に閉ざされ、

望んだ政治参画に関してはまったくの不遇の人生を送った李白だからこそ、

不変の月を理想と見立てて詩にしたのだとわたしには思えてならない。

 

実は李白は月を美的によむその裏側で張り裂けるばかりの悲痛な心を抱えていたのではないか。

その李白の心中を察するに、詩的なものよりも痛々しいものを感じるばかりだ。

 

山上憶良 大伴旅人

美しいものの創造。

日常にある人間の感情の美的な表現。

それが山上憶良と大伴旅人に共通する意識であるとわたしは思う。

 

旅人の「酒讃歌」にある「験なき物を思はずば一杯の濁れる酒を飲むべくあるらし」のような一見豪快な歌も、

詠まれているものは酒自体の魅力を語るものではない。

そこにあるのは酒を清貧の証、友をいざなうべき風雅の世界と見立てた大陸文化の素養をとりこんだ作なのであり、

政界の汚濁を離れた、隠逸の世界という美の意識である。


「世の中は 空しきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり」のように

正妻・大伴郎女を喪った旅人が嘆く歌が多過ぎて不自然に感じる。

それは妻を亡くしたという喪失感以上に、夫が亡き妻を想うこと、愛しい人を追憶するということ、

その場面に秘められた美こそを表面化させて歌に反映させたものであろう。

 

この歌にある「空し」という言葉は仏典にある空の訳語であろうといわれているが、

旅人の歌は仏教の悟りに落ち着くことなく、現実として妻を失った者は空の極致を知ろうとも哀しいものは哀しいのだ、

と生々しく自分の悲しみを歌っているところが、旅人らしい魅力なのである。

 

 

 


一方、憶良の「宴を罷る歌」も同様に心から子供を気にして作ったものでもないだろう。

子に執した歌人と言われる憶良だが、やはりそれは親が子や妻を心配する、

というシーンにある美しさを歌に表現しているのだろう。

 

憶良らは 今は罷らむ 子泣くらむ それその母も 我を待つらむそ」と憶良は詠むが、

70歳近くになっていた憶良に「五月蝿なす騒ぐ児ども」がいたとは考えにくい。

やはりそれは本当に子供を心配していたということ以上に、

親が子や家族を心配する、という場面にかかる美を歌に込めているのであろう。

 

一方で、子供である古日を失ったときに読んだとされる

「わかければ 道行き知らじ 幣はせむ 黄泉の使 負ひて通らせ」という歌には、

その子供のことを思う憶良の素直な気持ちが現れている。

 

いままで誰もが目をそむけてきた、無知・悲惨の姿に奇態な美を発見した憶良であるから、

美を追求するあまり、幸せな場面だけではなく、「貧窮問答歌」に描いたような哀しい場面にこそ深い美が宿ることを

知ってしまったのかもしれない。

 

これらは旅人が妻を嘆く歌を創り続けたことに影響されてのことかもしれない。

二人はその対象こそ妻と子と違うが、身近な人を想う場面にこそ美の意識を見出し、それを和歌に託して表現していたのだ。


互いが知識人であった二人は、筑前国守というポジションにいた憶良の前に、

大宰師という直属の上役で中央から移って来た旅人という関係で始まり、互いに刺激し合って発展していった。

旅人は名門大伴家の家長と言うエリートである。

一方の憶良は遣唐使経験などもある知識人ではあったが、

家柄としては自分の才覚だけで出世してきた、いわゆる成り上がりであった。

 

また、直接の上司である旅人のほうが憶良よりも5歳も年下であったことも考えると、

この二人はた外を自分とは別物として一線をおいて意識しつつも、しかし美の創作意識にあっては伝統的な和歌の粋から

はみ出したものを持つ風雅の友として感じるものがあったのだろう。

 

交友という人間関係を文学上の主題としたのが旅人であり、憶良は旅人の仏教無常の歌に触発されて作られた

憶良の人間の愛や苦をテーマとする作品を作り出しているのだから、

二人は違う世界にいると意識する中で別々の美の意識を確立したのだが、

現存の我々から見れば互いの意識が交じり合い、共鳴し合って新しい万葉集の一時代を築いたのであるから興味深い。


二人は家族や亡き人に対する愛、より身近なものを歌として、

それまでのような男女の性愛ばかりを対象にするような和歌ではなく、

新しい愛情の拠り所としての万葉集の切り口を確立させた。

 

それぞれの特質は違っていて、旅人は交友を重んじるが為の歌、妻を失った悲しみを純粋に歌う歌があり、

憶良はより現実味のある日常生活のものに対しての美の追求、

思想的な歌・人を諭す歌・貧を嘆く逆説の美を歌う部分に特徴がある。

 

ガリア カエサル

ガリアとは現在の西ヨーロッパ一帯を指す広大な土地である。

そこではベルガエ人・アクィーターニー人・ガリー人の3つに別れて、それぞれが違う文化を持っていた。

 

そのガリアのうち、アルプス・ピレネー山脈以南の地域は当時既にローマの支配下におかれていたが、

フランス・ベルギーの一帯はローマの影響力が未だ及んでいない地域であり、

ガリアの総督を任命されたとはいえカエサルにはガリアを積極的に侵略する正当な口実はなかった。

スイス近辺で生活していたガリア系のヘルウェティー族がより広く有利な土地を求めて

西のガリアへと移動したことが、カエサルのガリア遠征のきっかけとなる。

 

ヘルウェティー人たちはローマ属領を避けて通ったのだが、

その移動のルートがローマの同盟国であるヘドゥイー族やアンバリー族の土地を

通るものであったから、同盟者たちをヘルウェティー族からの侵略から守る、

ということを口実としてカエサルは兵を進め、ヘルウェティー族を撃退した。

 

地上世界をローマの統一的な支配の下におく、というのがローマ人の考えた世界帝国思想であったのだが、

そこにはローマが行ってきた伝統的な対外政策のやり方がある。

ローマはパトリキ(貴族)とプレブス(平民)による身分闘争が決着をみた紀元前2世紀頃から、

他都市を自治市・同盟市・植民市と方法を使い分けながら事実上支配し、

そこからローマへと兵士を提供させることで軍事兵力を増加させてきた。

 

名目上は防衛戦争であるというのが常であったのだから、

カエサルがガリアに軍事介入するに当たって作り上げた強引な口実も、ローマのいつものやり方を踏襲したものであったのだ。

ガリア全土へ領土を伸ばしつつある勢力にゲルマニー人の王アリオウィストゥスがいた。

ヘルウェティー族撃退の後に全ガリアの首領を集めてカエサルは話を聞いたが、

ローマの同盟者であるハエドゥイー族やセークァニー族がローマに援助を求めてきたから介入する、という名目を持って

カエサルはこのアリオウィストゥスを退けることに成功する。

 

 

 

 

次にカエサルはベルギー地方に遠征してガリア人部族を制圧した。

そして頻繁に侵入してくるゲルマニー人たちを防ぐために当時のローマの支配の限界であるレーヌス河に橋を架けて

ゲルマニー人のスガンブリー族と戦って、ローマ人もまたレーヌス河をわたることができるのだ、

とゲルマニー人たちを威嚇した。

ガリア地方のケルト人と密接な同盟関係を持っていた

ブリタリニア人を討伐するために海を渡ってブリテン島へも遠征していくのである。

 

こうした8年に及ぶ戦いの結果に全ガリアを制圧したカエサルであり、

ガリー人のことを企てやすく、一般に変革を好む気まぐれな性質があることを

知っていたカエサルだったが、ローマに一時帰還している隙にガリアで大規模な反乱が発生してしまう。

それまで50以上の部族に分かれて何の連係もなかったガリア人たちが「ガリア解放」を合言葉に立ち上がったのである。

これにはガリー人の気まぐれもあったのだろうが、カエサルの搾取に対しての彼らの不満が募っていたのと、

ガリアを統一しようとしたカエサルの行動が逆にガリア人たちに民族団結の意識を植え付けてしまっていたのだ。

 

カエサルは急遽ガリアへ戻って反乱軍を撃破し、アウァリクム攻囲戦などで優れた攻城土手や櫓を駆使して勝利する。

丘の上にあるアレシア城に籠城したガリア人反乱軍の指導者・ウルウェルニー族の

ウェルキンゲトリクスとの戦いでは城を取り囲んだ上で三重の壕に刺を巡らせて戦った。

駆けつけたガリア族の援軍がカエサルに撃退されてしまうと、

穀物も援軍もなくなり進退窮まったウェルキンゲトリクスは降伏することになり、

ついにカエサルはレーヌス河を境界として全ガリアの地をローマの属領として決定的なものとしたのだ。


このガリア遠征はカエサルに、ローマにどのような利益をもたらせることになったのか。

注目すべきはこのガリア遠征においてローマは、ローマの総力を挙げて戦ったというよりも

カエサル個人の力で勝った印象が強いという点である。

ローマにいる時には経験できなかった軍事実戦の中で、

カエサルは自身の実力と名声を積み重ねることができたのである。

 

そして、ガリアに広がる大森林地帯から切り出す建築用材や金鉱山の資源によって

カエサルは豊富な資金を得て自らのローマ時代の負債を清算できたし、

周囲や部下たちにも富を分配して人気を高め、ローマにいる自身の支援者たちにも大量の金をばら撒くことで地盤固めができた。

昔からこうした属領支配によって繁栄を築いてきたのがローマ帝国である。

ラテン同盟に守られる立場から、逆にラテン同盟を結んでいた国々を支配する立場となり、

イタリア半島を勢力下に収め、そして地中海の覇権を握ってゆく過程で、

ローマでは上層市民のみならず広く下層市民もが勝利の利益分配を得ていたのである。

 

このことは市民全体に戦争を歓迎する気配が強かったことからも説明ができる。

ガリアでの戦勝はローマの威信を世界中に広めることにつながったし、

この実績はローマでのカエサルの政治的な地位を不動のものとしたのである。


指導的立場のコンスルや元老院はローマが地中海世界の支配者となることが正義である

という意識のもとに征服戦争を遂行していくのが常であった。

クラッススやポンペイウスと三頭政治を結び、伝統的な元老院支配に反抗してきたカエサルではあるが、

こうした元老院の利害とも一致する実績を残した以上、

元老院としてもカエサルを無視することはできなくなってしまったのである。


このガリア遠征の歴史的な意義として、西ヨーロッパのガリアという地を、

そしてガリアのみならずカエサルが足を踏み入れたドイツやイギリスまでも、

ローマ文明圏、広くは現代につながる欧州文化圏の中に巻き込んだということがある。

つまり、ガリア遠征がヨーロッパそのものの地政概念を創造したのである。

 

ガリアはローマ経済の輪の中に組み込まれ、ローマ式の道路・建築物・水道橋などの

ローマの文化によって経済繁栄を遂げることになる。

いわば、ガリアに対するローマの植民地政策が、ヨーロッパの基礎文化を成立させていったのだ。

ガリア遠征で成功したカエサルはポンペイウスとの内部対立を制して

ローマ帝国での権力を一手に握るまでに存在感を強めることになる。

 

ガリア遠征の成功による周囲からの評価と、培われた実力がカエサルを

その立場まで押し上げたのだが、そんなカエサルが共和政国家ではなく

独裁国家を築くのではないかと疑った元老院保守派によってその後カエサルが暗殺されたことは歴史の皮肉であろう。

 

自由貿易論 アダム・スミス

アダム・スミスの自由貿易論では、それぞれの国で経済活動する人間たちは

 

与えられた生活環境や才能の中で、最も優位性を持つ何かひとつに打ち込んで、

 

その道のスペシャリストとなることが労働の生産諸力における最大の改善につながる、という分業徹底が説かれている。

 


優位性を持つひとつの物事に集中することで生産性は上がるし、

 

専門性を促進することが新しい技術革新につながり、結果として国全体が富を享受することができる。

 

特化することによって国内の産業と雇用が充実して経済が活性化し、

 

そこでまだ余りある資源があるのであれば他国へ輸出するのが自然な貿易のあり方だとスミスは主張している。


海外市場を優先に考えるのではなく、あくまで重商主義的保護貿易政策によって

 

不当に外国貿易関連部面にふりむけられている資本を、

 

その本来向かうべき国内産業部面に引き戻すことをスミスは目的としているのだ。

 

 

この意味でスミスは積極的な貿易推進論者ではなく、むしろその逆だと言うことができよう。

 

重商主義的保護貿易では自国の利益を最大限に優先させるために

 

他国の利益と競合してしまうことがあり、敵対する可能性が秘められているからだ。

 

そうした側面のある貿易では国際的な平和にはつながらず、

 

継続的な事業にはならないことをスミスは知っていたのだろう。

 

対外貿易産業に資源や労働力をつぎ込むことの無駄を見て、

 

本来は国内のあらゆる農業・工業・商業を十分に満たした上で貿易に向けさせるべきだと考えていたのだ。

 

 

そういったことを踏まえた上で、国際貿易によって国の利益を増加させることを

 

主たる目的とはせずに、国内産業が充実したが故に

 

自然と零れ落ちるような余剰分の品物だけを出すことこそが

 

正当で不可避な貿易であって、その輸入物に関税をかけることは

 

公平な貿易に不必要な障害を発生させてしまうから望ましいものではない、とスミスは主張している。

 

 

しかしこれは理想を突き詰めた先の論であって、輸出によって利益を得ようと


進出してくる他国の企業に対してそれ以上の優位性を持つことができる国内産業は

 

生き残れたとしても、それ以上に優れているとは言えない国内産業は

 

国際競争に敗れて衰退してしまうことが避けられないために、

 

このスミスの自由貿易論は全面的には支持されなかった。

 


例えば将来の食糧不足を見越して国内の農産業に税金を投資してまで優遇し、

 

国内産業を保護することなどは優位性のある分野に特化するとした


アダム・スミスの論からは外れてしまうが、

 

長い目での国益を考えると正当性があるものである。

 

全ての国が同調して関税撤廃を行えばこのスミスの論も実現できるかもしれないが、

 

現実的には難しく、実際に18世紀ではイギリスだけが自由貿易を行ったものの、

 

他国では保護関税が導入されていた。

 

関税をかけることで自国内での産業を保護できるからである。

 

 

そして、保護関税をかけた19世紀のドイツでは国内産業の充実と


保護貿易による経済成長が遂げられているという結果も出ている。

 

こうして見るとスミスはあくまで国内産業の充実に重点を置いている。

 

利益優先の重商主義的保護貿易政策ではなく、まずは自国内で産業や物品売買を

 

完結できる循環型国家を目指し、余った先での自由貿易という理論を展開している。

 


彼の唱えた「見えざる手」は、人間は経済活動を通して無意識の内に

 

自国に発展をもたらしている、というものである。


まずは自分だけの利益を得ようと経済活動を成功させても、

 

その裏では自分を取り巻いている、より上層階のくくりである地域社会、

 

ひいては国をも無意識の内に豊かにさせていると言うのだ。

 

移動手段の発達によって生活の本拠を変えてゆきやすく、

 

人が場所を問わずに経済活動をし、かつ国民団結意識の薄くなっている現代では

 

この考え方はそのまま適用できないだろうが、

 

18世紀には十分に実現できた考え方なのだろう。

 

 

この自由貿易の論理に従い余剰分の品物を使って自由貿易を続けてゆけば、

 

次第に雇用も多くなって国の発展にも結びつくし、社会はますます良い循環につながってゆく。

 

それこそが事物の本源的状態であるとしたスミスの論は、利己心の性善説に基づいた自由放任主義なのである。

 

 

 

 

デヴィッド・リカードは「比較優位」という考え方を独自の自由貿易論の中で展開した。

 

リカードも経済活動を行う上では資源や技術などの面で

 

比較優位に立っている産業ひとつに各自が専念することが必要だ、とした点ではスミスと同じである。

 

しかしリカードの持論では、外国との貿易こそが互いを


「WIN-WIN」の関係にさせるものとして、率先的に自由貿易を行うことを主張している。

 

 

国によって物価が違えば、比較優位の物も価値が変わってくる。


例えば、同じ時間を使って同じワインひとつを作るにしても、

 

先進国では技術が進んでいることから後進国と比べて

 

多く量をつくることができるので「絶対優位」の立場にあると言える。

 

ただし、先進国では人件費や物価が高いことから製造コストは割高になるだろう。


一方で後進国では技術の乏しさから製造量こそ少ないとはいえ、

 

人件費や物価が安価なことから製造費用自体を安く抑えることができる。

 

これを「比較優位」と呼ぶことができるとリカードは説く。

 


安く製造したワインを他国に輸出し、自国では高い製造コストでしか作れない

 

別の品物と交換することで後進国にとってはメリットがあるし、

 

輸入した先進国側も安価で豊富な量のワインを享受することができ、

 

互いに「WIN-WIN」の関係に結びつく、というのがリカードの自由貿易論の図式だ。


「絶対優位」だけが優れているのではなく、「比較優位」こそが

 

本当に優位な自由貿易の形であるとリカードは説明している。

 


この考え方を応用すると、例えば会社で経理もできるし

 

営業もできる人がいたとしても、やはり本業一本にしぼって打ち込んだ方が、

 

結果として全社的にはうまく仕事が回るということであろう。

 

スミスと同じ様に、リカードも関税をかける必要性を認めていない。

 

農業にしても工業にしても自国内で生産できないということは、

 

いざ輸入物が途絶えたら危機に見舞われることに直結するが、

 

この自由貿易は「WIN-WIN」の関係に結びつくので、

 

突然破棄されることは相手の損害にもつながることから考えにくい、としているのだ。

 

 

リカードは自国・イギリスが領地の制限から自国民の食糧供給を

 

100%満たすことができない、という事実を認識していながらもこの論理を進めている。

 

スミスの論では自国の食糧供給が満足にできないことから貿易にまで手を出す。

 

このリカードの自由貿易論からすれば積極的な貿易によって発展し続けられるということになる。


興行に専念したイギリスも自由貿易による相互補充の中で国を豊かにできるのだ。

 

 

スミスもリカードも分業によって社会が豊かさを獲得できる、と考えている点では一致している。

 

大きく違うのはスミスがまずは国内を固めてから始めて余った分を貿易に回す、

 

としたところに対して、リカルドは最初から迷わず自由貿易に依存して国際分業すればよい、としたところである。

 

リカルドが自由貿易に期待するところは大きい。

 

自国内で物流しても1の品物は1の価値にしかならないが、

 

外国貿易では物価や価値の違いで1が2になることもあり、自国内だけで経済活動するのではなく

 

外国も含めて国際社会全体の普遍的な利益を追求している。

 

 

一方でスミスが期待しているのは、ついでに儲けてしまうことである。


あくまで自国内での充実が優先で、貿易とは余剰分の利益である

 

リカードの積極的な貿易とは反対に、消極的な貿易への期待である。

 


現代社会を見てみるとどちらの理論が採用されているのか。

 

現代の世界有数の優良企業・トヨタ自動車と照らし合わせてみると、

 

コストダウンと品質維持の観点からトヨタは3M(ムリ・ムラ・ムダ)削減活動を徹底し、

 

トヨタ生産方式という優れたやり方で自動車業界の世界一を掴んだ。

 

特化における改善はここで活きている。

 

収益確保の点ではトヨタは群を抜いているがこれは北米での利益が

 

全体の70%に当たるのであるから、リカードの比較優位に基づいた手法である。

 


とはいえ国内販売台数のシェアも日本一であるから

 

スミスのいう余剰分を海外にシフトする貿易ともとることができる。


現状の経済活動においてはリカードの利益を求める自由貿易論のほうが

 

広く採られており、「餅は餅屋」のグローバル版が世界経済の主流にはなっているが、

 

危機管理の観点や環境破壊によって将来的に避けられないだろう

 

水不足・食料不足を考えれば自国内で還元できるスミスの社会こそが大事になってくるのかもしれない。

 


つまり、どちらの理論が正解とも言えなく、複雑に絡み合ったのが現実社会なのであろう。

 

平家物語 文学

中世は流転の時代。

現存の支配者を失権させようと戦乱が起こり、また新たな支配者交替が争いを招く。

隆盛していた一族が滅亡し、新たな一族が台頭してはいずれまた滅亡してゆく。

一方で天変地異があり、飢饉があり、疫病が続く。

それらの天災は人の行いに対する神罰や、亡霊の恨みとしてとらえられるのが中世では一般的であった。


こういった時代の中で死んでゆく者たちには、恨みを残して不遇の死を遂げる者が多くなる。

ましてやその死者がかつて権力を持った人間であった場合、それが安らかな死であるとは考えられなく、

その恨みが人を呪っては凶事をもたらすと思われ、人々に深く恐れられていた。


際限なく続いてゆく人の台頭と滅亡を通して、中世では独特の観念が生まれてゆく。

「諸行無常」「盛者必衰の理」とうたわれた平家物語の序章がそれである。


この序章部分には中世の時代の「無常観」が顕著に表れている。

「久しからず」人は「滅びる」者であり、それを人間の自然の姿として受け入れようとする姿勢がある。

そしてその中世の人間社会の厳しい理をあえて美文で描き、

軍記物語として完成させたことの背景には、浮かばれずに滅んでいった諸霊たちを慰めようとする意図があった。


何しろ平家一族のような一時の大隆盛を極めた勢力であっても一転して大滅亡を遂げた時代である。

他にも道理なく一族ごと謀殺された例などは数えられないほどあったのであり、

死者の怨嗟の念は深刻な問題であったのだろう。

そこで中世という時代に自然と生まれたのが、弔辞の意味を担う軍記物語である。

 

 

 


平家一族のように「おごれる人」はいずれ滅亡してゆくというのが

この平家物語のみならず、軍記物語の構想の中心となっている。

隆盛を遂げた者たちは次に傲慢になってゆく。

傲慢の象徴である清盛の摂政殿下藤原基房への暴力行為、

法皇の監禁から遷都の強行など悪行の数々が話に盛り込まれ、

それと平行して祗王や重盛の清廉な態度を散りばめることで清盛の悪玉としてのイメージを逆にふくらましてゆき、

平家一族が「おごれる人」であるということが決定的になる。


その「おごれる」人たちが、激しく変化してゆく中世という混乱期の中で

いつしか時代の波に飲み込まれ、急転落下して滅亡を遂げる。

そこで死んでゆく武士たちの、教経や知盛のような勇ましい死に様、

幼い敦盛の笛に象徴される美しい死に様、生に執着する宗盛の無様など、

局地にある人間の生き様や死に様が、中世独特の人間性追及の方法となっている。

 

源氏物語など王朝文学では心にしみる情緒が「あわれ」として扱われていた。

小さい感覚ながら肯定的なイメージがするこの「あわれ」の言葉も、

平家物語によって意味が一変し、流れ転がって没落してゆく人々の「無常」が「あわれ」としてとらえられてゆく。

イメージは否定的なものに変わっていったのだ。

これは義経の「判官びいき」の感覚と同じように、現代まで続く日本人の代表的な心理として残る結果となった。


平家物語から変わっていったこの悲哀感の漂う「あわれ」の感覚は、不遇のまま死んでいった人々の霊を慰める意味合いが強い。

「無常」「あわれ」という感覚をもって平家物語は終始構成されているが、

そもそもが満たされずに亡くなっていった人間たちの鎮魂の意味が深い軍記物語である。

そこに中世独特の滅亡と隆盛の繰り返しという人間の営みの中で、独特の「無常観」が生まれたのだ。


本来平家一族が滅んだのは源平という、中世ではごくごく一般的な勢力抗争の結果であった。

何も平家だけが特別ではないし、源氏が珍しいことをしたのでもない。

中世の日常の出来事である。


しかし平家物語では中世の「無常観」を強調し、

それは傲慢の象徴である清盛が朝廷に反逆したからである、という古代王朝的規範で結んだ。

人智の及ばぬ時の流れ、運命の力によってそれがなされたとした。

そこを現実に準じて捉えず、中世独特の「無常観」を膨らませて物語風にし、

一般大衆に共感しやすいように作り変えたことから広く民衆に支持され、

現代まで残る傑作として平家物語が人々の共感を呼んでいるのである。


平家物語は中世の時代に飲み込まれて不幸に死んでいった霊を

鎮魂するためのものであり、その亡霊が暴威を振るうことを恐れた人々が、必要に迫られて創り上げた物語である。


美文に言葉が冒頭に続くが、当初は哀調の文章で霊の鎮静を図るという意味があり、

しかしいずれは中世の人々に共感の深い、「無常」「あわれ」の軍記物語として発展していったのである。

 



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