運慶 仏像

運慶の仏像が大好きだ、彼の作品を追って幾度奈良・京都に通ったことか。

仏像の基礎知識や時代背景を知らなくても、単純に美術品として魅力的な運慶の仏像。

もう一歩踏み込んで、日本彫刻の歴史の中での運慶のことを調べてみた。


仏像制作には暗黙のルールが存在していて、自分の美意識で自由創造するものではなく、

作るべき形の基本が定められた、いわば課題制作みたいなもの。

仏師・康慶の家に生まれた運慶は、幼い時よりそのルールを身近なものとして見て育っているし、

また運慶自身も熱心な仏教信者。運慶はそんな制約の多い仏像芸術の中で、

ルールを逸脱しない枠内での工夫を突き詰めて仏像アートの世界を広げた人物。

 

運慶の時代は宗教改革の訪れと重なり、宗教の民衆化・大衆化の波が来ていた。

東大寺・興福寺の焼き討ちを契機にそれが加熱し、

貴族から武士台頭への時代変化にもまれて被害を受け、

苦しみあがく民衆がもっと自分の身近に感じられる対象としての仏像を求めていた。

父・康慶は仏像の写実主義を進めた第一人者だったが、

その流れを受けた運慶は、当時の民衆が求める姿に合致するよう仏像の世界を加速させた。


具体的には、願成就院の不動明王像には運慶が築き上げた特徴が顕著だよ。

密教の経典が説く、醜悪で肥満した童子というイメージを、運慶は見事に力強く、

あたかも現実に存在するかのような仏像として創り上げている。

 

 

 


彼の技法の特徴である玉眼を使うことで、内面から溢れ出してくる威圧感を表現し、

ひだの少ないシンプルな衣と、張り詰めた体躯・めりはりのあるくびれとの対比で

たくましい生命感を浮き彫りにした。

そこから感じられるのは、見る側、民衆に直接エネルギーを与えてくれるような仏像。

東国武士たちが拝むのにふさわしい男性的な運動感・荒々しさがある。

経典の中の取り扱いが難しい人物像をバランスよく見事に写実し、

しかも民衆と武士いずれにも通用する仏像に創り上げた運慶。

 

この両方を兼ね備えた不動明王像こそ、東国で運慶が到達した新しい仏像アートの世界。

玉眼にしろ、衣のひだにしろ、運慶が作る仏像には通常以上に手間のかかる仕事が

細部にわたって施されているのが技法的特徴。

その手間をかけなくてはいかなかった理由として、

当時の仏像社会ではライバルの院派や円派仏師の繁栄があり、

運慶ら慶派の奈良仏師は新しい仏像を創らない限り将来の発展が見込めなかった。


それを理解した上で、今後どうなるか分からない社会情勢の中で

急台頭中の源氏の要請を受諾し、父・康慶は慶派の代表として運慶を東国・鎌倉に旅立たせた。


源氏だって、いつ衰退してもおかしくない世の中。

康慶の行動は自分たちの将来につながるかどうかも分からない賭けの要素があった。

それまでの仏像のスタイルは定朝様式の眠るようなおだやかさが特徴であり、

実在する人間ばなれをした仏のかたちが主流だったが、

東国という新しい土地、宗教がより庶民化してゆく時代背景の中で、

運慶はより写実的で、より力強いものを創り上げるという事績をあげ、

日本美術史における仏像アートの世界に新しい境地を切り開いた。

 

東国では民衆と武士の両方から求められる力強い仏像の世界を確立した運慶だが、

京都奈良に戻って仕事をしてゆくようになると、

やはり日本人の根底には大人しい仏像を求める心が流れていると知ってか、

興福寺での北円堂弥勒仏坐像のような穏やかなものを作り始めた。

かつての強力で斬新な個性を発揮するものではなく、

穏やかさを全身にみなぎらせたものに力を注ぐ柔軟さを運慶は持っている。

 

その頃の運慶には年齢を重ねたことでの余裕や、

すでに画期的な仏像を作り上げたという実績もあったのだろう。

更には、運慶自身が慶派の長というポジションについていて、

もはや自分が率先して鋸を持ち仏像を作るのではなく、

多くの弟子たちを指揮する立場におかれていたことも理由のひとつ。

 

武士の台頭、民衆の逼迫した状況が一段落し、時代は源氏の安定政権に移っていた。

生動感こそが仏像彫刻の美点としてきた運慶は、次の手法を見つけたようだ。

社会を無視して芸術は成り立たものでもないから、

時代が求めるものに対応していくのも美術には不可欠。


次第に民衆は、仏像に以前のような空想性を求めるように戻っていった。

運慶以前の定朝が確立した和様彫刻。

それを察知して、運慶は北円堂の弥勒仏坐像を自然体のものにしたのかな。

和様彫刻よりは写実的だが、鎌倉彫刻よりは力まず、運慶の作風の変化が見られる。

最終的に、弥勒仏坐像は日本美術史上における彫刻の終着点に重なっている。

 

写実性は、彫刻ではなく絵画に引き継がれた。

崇拝対象としての彫刻は結果として写実よりも空想に落ち着く。

運慶の写実主義は子供の慶派彫師たちにも引き継がれたものの、

運慶の世界を大きく変化させたり、その域をはみ出したりすることはなく、

運慶がしてきた範疇の中で、仏像彫刻は続けられていった。


日本彫刻の歴史は定朝の時代に最盛期を迎え、運慶の鎌倉彫刻で飛躍を遂げたが、

その後は社会や民衆の求めに応じて、また定朝の空想の世界に戻っていき、

次の進化に至らないまま現代に至るのである。

強烈だった仏師運慶の個性、私の心はずっと忘れられないのだろうな。

 

与謝野晶子 短歌

与謝野晶子の短歌と、佐藤春夫の『晶子曼陀羅』を通読してみた。

運命の流れに翻弄された一人の詩人像が浮かび上がってくるのを、私は感じていた。


与謝野晶子の人生には数々の運命の分岐点があったが、

最大のものは、生涯の伴侶・与謝野鉄幹との出逢いだろう。

鉄幹と出逢う以前の晶子にとって、歌を詠むこととはほんわりとした娘心を表したものであり、

自分のユニークな部分を主張するためのツールだったように見える。


ところが、鉄幹と出逢って恋するようになってから、晶子にとって詩を書くことの意味が一変した。

言葉の成り立ちを考えずとも、鉄幹への想いがそのまま詩となり、

自分を飾るために詩を詠むのではなく、自分の感情がそのまま詩になった。

鉄幹への愛情が晶子の身体の中に収まりきれずに溢れ出し、詩として形を成した。

 

 

 

 

鉄幹と一緒になりたくて、実家を無断で出奔しようとする前夜、

両親への良心と、自分の気持ちに素直に生きたいという願望の狭間で晶子は激しく悩んだのだろう。

己の生き方を貫こうとする意志のある晶子。

当時の社会では後ろ指を指されるようなこと、いわゆる駆け落ちをやってのけた。

全てを捨てて、恋する鉄幹のもとへ、夢見る詩の世界へと飛び込んでいったのだ。


この行動は、晶子の親友であり、斬新な女流詩人としての好敵手であった山川登美子が、

親の薦める相手と結婚したことと対照的ね。

新しい女性像を理想として掲げた二人のうち、一人は古い慣習の中に戻り、

一人は無謀とも呼ぶべき突飛な行動でもって新しい世界を求めた。

その選択も、追って更なる運命に翻弄される選択でしかなかったというのは、皮肉なものだけど。


鉄幹との出逢いは、晶子の詩への想いのみではなく、与謝野晶子の人格そのものを大きく変えた。

コントロールできていた自分自身が、手のつけようがない情熱の嵐へと変化した晶子。


実家との疎遠、兄との不仲、鉄幹の前の愛人との争いがあった。

それらをようやく乗り越え、晶子初の歌集「みだれ髪」が刊行され、

晶子と鉄幹の子供が産まれるという幸せな出来事があっても、鉄幹との平和な生活は素直に続かない。


晶子の人生最大の選択である鉄幹との結婚でも、大きな皮肉が待ち構えていた。

嫁いだ先の夫が早死をしたことがあり、山川登美子が東京に出て来ていた。

鉄幹との恋の好敵手でありながら、途中で自ら道をそれたはずの山川登美子が、

今更ながら鉄幹と情を通じていた。

無二の親友から裏切られ、命を張って追ってきた男からも裏切られるという、無残な事実。

 

更に酷い皮肉は重なる。

愛する鉄幹との生活のため、鉄幹に捧げようと詠んできた晶子の詩が世に認められてゆくにつれ、

晶子の想いとは裏腹に、鉄幹はそれを面白く思わなかったのだ。


偶然か、必然か、晶子が鉄幹と一緒になると同時に、

詩人としての晶子の名声は高まり、鉄幹は下降の一途をたどっていった。

自分を弟子と名乗って自分の元に来た晶子に、鉄幹は嫉妬を覚える。

何時の間にか、鉄幹は晶子にすっかり上を越されていたからだ。


恋に傷つき、詩に背かれても、晶子は以前と変わらず、もしくは勝る情熱で詩を詠み続けた。

そこに、詩人・与謝野晶子の本性が見えるようだ。

恋の甘いも酸いも知りつくし、それを詩の世界に投影させた晶子。

幸せな意味でも、哀しい意味でも、恋への情熱が与謝野晶子の詩を輝かせた。


晶子が経験した恋とは、全然甘いものばかりではない。。

傷つけられ、裏切られ、しかしそれでも鉄幹のことが忘れられない。

不仲の最中に、しばらく離れて暮らすことで、気持ちを整理しようとしたにも関わらず、

やはり夫恋しさに耐え切れなくなり7人の子供を日本に残したまま、

ロシア鉄道を乗り継いで、鉄幹のいるパリへ単身飛んでいった晶子。

 


恋しい夫に甘えたのも束の間、今度は残してきた子供が愛しくなってしまう晶子。

ついには鉄幹をパリに残し、子供恋しさに突然日本に帰ると言い出した。

帰国の船に乗ったら乗ったで、結局子供よりも鉄幹のほうが恋しいと知って、

取り止めのない己の心に泣いた晶子。


大人の良心と、自分の素直な気持ちの狭間で悩み、苦しみ、そして生き、詩を残した。

一般的な人のものよりも、ずっと激しい感情を晶子は持っていたのだろうな。

晶子が情熱の歌人と呼ばれたのも、分かる気がする。

詩人としての与謝野晶子は、詩にこめられた激しい情熱で成功を収めた。

しかし、鉄幹を愛することを生き甲斐とした一人の女性としての晶子は、

それほど成功したようには思えないが、実際はどうだったのだろう。


矛盾を繰り返す己の心に翻弄され、皮肉な運命に流され続けた。

詩人としての成功、夫婦としての苦悩、晶子の二面性がはっきりと描かれた『晶子曼陀羅』。


晶子が自分の人生に満足したのかどうかは別として、晶子の詩は輝いて人々に愛された。

皮肉な運命に弄ばれながらも、そこで生まれた激しい情熱の嵐を詩にぶつけたことで、

奇遇にも幼い頃に目指した詩の美学は貫かれたみたい。

しかし、愛する鉄幹がそれを喜んだのかどうかは別問題。

晶子が一番望んだことは、叶わなかったのかもしれないけれども。


どこまでも皮肉な詩人、しかし恋も詩も思う存分に堪能した詩人の姿が、

与謝野晶子の短歌から、僕には瑞々しく伝わってくる。

 

パスポートカバー

「パスポートカバーなんて付けてるのって日本人ぐらいでしょ。

他の国の人たちがパスポートカバーを使っているところなんて見たことないわ」


ずっと昔から、わたしは気になっていた。

ほら、空港の出入国審査場で「パスポートカバーを外してください」って書いてあるヤツ。

あんな親切な案内って日本だけだよね。


今のパスポートはバーコードがついていて、機械でデータ読み取りができる。

だからパスポートカバーなんて付けていたら、肝心のバーコードが読み取れなくてダメ。


そもそもパスポートの表紙ってちゃんと厚紙になっているから折れるわけじゃないし、

毎日持つものでもないので汚れることもないでしょ。

日本の出入国では毎回取らなくちゃいけないし、

なんでパスポートカバーをしているのか、ホントわたしにはよく分からなかった。


2006年の3月に日本のパスポートがIC旅券に切り替わった。

この時、初めてIC旅券の現物を手にしたケンが驚きの声を上げたていたのを覚えている。

 

 

 


「ね、旅子!大したものね、外務省さんも。

見て、これ!新しいパスポートは、表紙の裏がデータ面じゃなくなったよ。

これならここにパスポートケースつけてもデータ面が読み取れる。

日本の出入国でわざわざパスポートケースを取り外さなくてもいいんだよ」


確かにIC旅券はその通り。

パスポートカバーのかかる表紙の裏はただの紙で、

データ面は次のページから始まっているので、パスポートカバーはそのままでも良い。


「すごいね、ケン。これってパスポートの仕事に携わる人たちが不便さを感じていて、

改良したいっていう声が集まって、実行に繋がったのかな。

毎日毎日パスポートのカバーを外せ、とか言うのも面倒だしね。

お役所とか官僚とか言われている人たちのそんな工夫、普通はは誰も気にしなくても、

わたしたち旅行業界人ぐらいは気付いてあげても良いのかも」

「そうだね、小さくても工夫は立派」


物を大事にする日本人の文化かしら。

ひょっとしてこのIC旅券スタイルが世界の主流になって他国もマネをし、

他国の人たちもパスポートカバーをつける日がいつか来るのかもしれない。


・・・って一瞬感じたけど、やっぱりそんなのあり得ないよね。

ご丁寧なパスポートカバーなんて日本人だけの発想でしょ?!

海外とか国境という概念が日本よりは明らかに薄い人たちにとって、パスポートは日常だ。

日常だから、裸でパスポートを持つのだろう。

他国からするとヘンだな、と思うパスポートカバーだけど、それはそれで面白いとわたしは思ったよ。

 

大阪アメリカ総領事館 行き方

ケンが大阪出張から帰ってきた。

提携しているビザ業者との打ち合わせと、大阪アメリカ総領事館の見学に行く出張だったの。

「ケン、どうだったの?早く聞かせてよ」

出張から帰ってきたばかりだから、メールを見るとか仕事の整理とか

忙しいと思ったから午前中は黙っていたけど、午後になって催促しちゃった。


「あ、分かってます、分かってますってば。

リクエストの大阪名物・たこ焼きはちゃんと買ってきたから」


――違う。そんなのじゃない。わたしは思わず知らん顔しちゃった。

「あ、大阪の街はね、びっくりしたのがエスカレーターは右に立つのが常識なんだって。

左は急いでいる人のために空けておくそうです。東京の逆なんだよ」

いらない知識だったけど、初耳だったからちょっと食らいついちゃった。

「そうじゃないでしょ〜!領事館よ、領事館。どんなカンジだったの?行き方教えてよ」

「あーあー、それね。逆にそっちの方ね」

すっごくわざとらしい。分かってるくせに。大体、何の逆?


「新大阪駅に御堂筋線っていう地下鉄が走っていて、それで4駅目の淀屋橋駅。

1番出口を地上に上がると、右手に橋が見える。

それが淀屋橋で、その右方向に広い道をずっと歩くんだ。

橋を過ぎると右手に大阪市役所がある。

それから頭上に名神高速がかかっているのを過ぎて、あとはひたすら道を真っ直ぐ。

駅から10分は歩かないかな。

道が二股に分かれるけど、右の道のすぐに沢山の警備が見えてくる。

それが大阪アメリカ総領事館さ」


「道順は分かりやすい?」

「大丈夫。ちゃんと1番出口で出て、右にさえ歩いていけば真っ直ぐだし、

大阪アメリカ総領事館の周りには特有の雰囲気、警備の物々しさがあるからすぐ分かる」

「東京アメリカ大使館の場所とは違う雰囲気かな?」

「ちょっと違う。東京アメリカ大使館はまるでひとつの城のように場所を構えているけど、

大阪アメリカ総領事館は街中に立っているひとつのビル、って感じだ」


「東京アメリカ大使館と、大阪アメリカ総領事館、どっちが好き?」ってわたしがふざけて聞くと、

「どっちも好き。それぞれの個性を尊重。僕と君の個性も同様に大事!」ってケンは言った。

やっぱりわたしとはちょっと違う人間なのね!あははっ!

 

アメリカ大使館 東京 行き方

「旅子、今お客さんから電話が入っていて、東京のアメリカ大使館に行きたいんだけど、

どう行ったらいいか、って聞かれてるの。分かる?」

電話のヘルプをお願いされた。

ケンは外出していたけど、その内容ならわたしでも分かる。

電話に出て説明してあげようと思った。


「すいません、そちらのケンさんから地図や案内は貰っていたのですが、家に置き忘れてしまいまして・・・」

そんな簡単な電話。

地下鉄の溜池山王駅ってことは分かっている方みたいで、今はそこにいるって言っている。

「13番出口です。そうです、そうです、駅についてからかなり歩く一番奥の出口です。

そこをあがってください。え? 今、13番出口ですか。

あがったら上に高速が走っているのが見えますね?

そうです、右手の方向に歩いてください」


携帯電話だからちょっと声が途切れ気味だけど、ちゃんと聞こえている。

「はい、最初の交差点まで来ましたか。

交差点を挟んで向こうにスターバックスが見えますよね?

見えますか、では、その交差点を右です。右にまっすぐ行きましょう」


「そうです、歩いていると右に結構新しいビルがありますよね。

赤坂インターシティっていう新しくてお洒落なビルですね。

道路の反対側にコンビニもありましたか?

はい、もうちょっと真っ直ぐ歩くと大使館が見えてきますよ」


「あっ、警察の方に声かけられたんですよね?

目の前にちょっと人が並んでるところ、ガードマンがいる門が見えましたか?

はい、そこです。

そこで面接予約の紙を見せて、ID代わりでパスポートを見せて入ってください。

面接はあまり心配しなくていいですから、流れに沿って受ければOKです。

お気をつけて。いいえ、どういたしまして」

それで電話を切って、わたしの電話誘導は終わった。


電話を取り付いだコが近寄ってきて、

「やるじゃーん、旅子、なんか目隠ししても歩けるみたい?!」って言われた。

そうよ、わたし、大阪アメリカ総領事館の行き方は分からないけど、

東京アメリカ大使館になら、もう何十回も行ってるんだから。

目隠ししても歩けるかもしれない。


でもホントに目隠しして歩いたら警備の警察の人に怪しまれるよね!

あははっ!

 



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