御嶽山登山 ライチョウ写真

冒険が僕の糧になるらしい


十代の頃に体験したアメリカ国立公園の大冒険が、今の僕のタフネスのベースになっている

 

 

 


3年前に御嶽山に登った時の経験も、また僕を大きくさせてくれた

 

雪山登山の設備がなくて途中挫折したあの時の悔しい思い出、

 

それからNIKON-D90を持ったことで雪山の写真を撮りたい、っていう思いに駆り立てられて、また御嶽山に登ろうと思った

今度は準備も完璧だよ、カジタックスのアイゼンLXT12やNIKEのサングラス、

 

車内泊用に寝袋だけじゃなくて布団まで、この3年間のノウハウを総結集して、いざ、御嶽山へ


前日の夕方から車を走らせたら、途中の峠が道路封鎖と知ってびっくり

 

思いがけず遠回りになってしまい、これなら高速を使わないで普通に行った方が早かったから、なんだか最初から失敗だったなぁ

41号線から濁河温泉へと向かう道になると、それは誰も通らない真っ暗な道

 

ハイビーム全開で細い山道を走るのは、不気味な恐怖感がある

山中だから夜はまるで真冬の寒さ、それだからか途中で見た星空は美しかったなぁ

 

御嶽山濁河温泉登山口前の駐車場に着いたのが夜10時で、すぐに寝た





翌朝5時半に起きると、ついに見えました、冠雪の御嶽山

 

6時に出発すると、3年前と同じく小坂口の最初から登山道は雪に閉ざされている

朝の元気で黙々と歩いていると、ふと前方に動く大きな影

 

それはあっという間に走り去ってしまったが、間違いなく野生のカモシカだった





雪道は容赦なく続き、そのうち太陽も射してくるからサングラスと帽子で防備

 

試してみようとカジタックスのアイゼンを装着してみると、これがなかなか難しい

ちゃんと事前に履く練習してこればよかった!

 

付けて歩くとすぐに外れてしまって、何度やり直したか分からないぐらいで、

 

呼吸を整える時間つぶしのつもりが、だいぶ時間を取られてしまった

それはともかく、ティンバーランドのブーツだけで歩くのとだいぶ違う!

 

何が違うって、ブーツだとつま先に力を入れて一歩一歩進まないといけないのに、

 

アイゼンがあれば体重だけでしっかり足の場所をキープできるのだから

良いことは良いが、慣れていないからなにしろすぐにブーツから外れてしまう

 

何回も何回も付け直して、一体どこがちょうど良いポジションなのかが分からない





そうこう苦戦している間にも森林限界に着いていたみたい

 

弁当を食べるが、昨夜の寒い気温に冷やされた冷や飯のまずさは、ちょっと耐えがたい

 

おかずは食べれても、ご飯だけは残しちゃうもんなぁ

代わりにアーモンドチョコやベビースターで栄養補給

 

汗はかくものの、ポカリスウェットをガブ飲みするほど喉は乾かない

問題児はいつも足元のアイゼンとブーツで、スムーズに登る効果があるのに、外れちゃって時間ばっかり取られる

どの山も、森林限界は美しいものだ

 

だいたい、「森林限界」っていう言葉自体が美しいよね

たどり着いた限界には美学があって、それでも頑張っている滅びの木と、一線を画す気候の厳しさのせめぎ合い、

 

そんなものが森林限界一帯には漂っている





さぁ、いよいよ雪山登山の始まり

一歩足を踏み外したが最期、ゲレンデを真っ逆さまに転がってしまって命がない?

 

そんな緊張感の中で、アイゼンをしっかりと雪道に打ち付ける





辛い辛い、この垂直登山が何よりも辛い厳しい

 

10歩歩いては呼吸を整え、永遠に続くかのような雪山を見上げる





しかもバランスを崩すわけにはいかない緊張感があるし、道はひたすら急角度の登りだし

 

途中からは危ない雪道じゃなくて、草や岩の道をアイゼンなしで登った方が安全になったから、岩から岩へと伝って頂上を目指す





そのうち気付かないうちに天辺に来ていたみたい、目の前でバサッ、という音がしてびっくりしたら、鳥が飛び去っていく音だった

ん?と思ってよく見ると、目の前には一羽の鳥が歩いていて、1mもない距離なのにそいつは全然飛び去る気配がない





それからその場所が長く続いた急傾斜の雪道の終わりで、僕はようやく2,800mの飛騨山頂に着いたのでした





いやぁ、おかしいよ

 

こんなに近づいたのに飛んで逃げようとしない鳥なんているの?

素早くカメラを取り出してシャッターを切ってもやはり鳥は逃げないし、

 

ちょっと近付いても、なんかのんびりとそいつは歩いて進むだけ、まるで緊張感がない





ひょっとして?

 

僕は思った、あれがあの有名な「雷鳥 ライチョウ」じゃないかって

 

飛ばない鳥、高地にしか住まない平和な鳥、確か岐阜県や長野県の県鳥だよね

 

いや、そうだと確信したよ、もっと近付いても全然飛び立とうとはしないし





それで追っていたら、岩陰からもう一羽出てきてびっくりだよ

 

雷鳥が二羽、二羽も!





カメラマン冥利に尽きる被写体じゃないか!

 

高倍率レンズじゃないのが悔しいな、AF-S DX NIKKOR 16-85mmF3.5-5.6G ED VR

 

だから、85mmが最大だもん

 

これで250mmぐらいあれば、どアップの雷鳥が撮れたのに

 

しばらく二羽と一緒に歩いて、彼らの写真を撮りまくり

 

最初に飛び去ったのも雷鳥なんだろうな、あの一羽だけが飛べるなんて不思議

 

しかしいずれにしろ、雷鳥に三羽も逢えるなんて、最高の幸運だ





3年前はアイゼンがなかったし、今回よりも積雪が多かったからこの飛騨山頂が限度だった

今回は雪が薄いな、と最初から感じていた

 

地球温暖化の明確な影響はこういうところに現れるのだろう

 

特に頂上だとアイゼンをつけないほうが歩きやすいぐらいで、風と太陽の力を感じる

 

風の向きになびいている氷の柱、奇才アートを感じるその形状





五ノ池小屋は雪に閉ざされている、神社や標識さえもが氷柱になっていて、それを僕は美しいと感じていたよ





氷の中で、本来の姿が凍結してしまったような





これ↑って、狛犬らしいけど、どこが狛犬だか分かるかなぁ?





どこまで行こうかと考えた

 

目の前に見えている背の高い岳、あのトップに登ればもう文句なしでしょう

 

どうせこの道に戻ってくるから重い荷物は置いてしまおう

大丈夫、今日見かけたのは二人のスキーヤーだけで、人間なんて全然いない

 

カメラとアイゼンだけを持って、僕はさらに上へ、上へと向かう





それも辛い登り道、足元は岩を狙って、ロッククライミングの要領で見かける山肌の傾斜が、

 

雪に白くなった斜め具合が、なんとも言えず美しい、素晴らしい





それはたまらない雪山の美、夢中になってシャッターを切る





しばらく登ると摩利支天山の頂上、標高2,959m

 

さらにどこかへ行こうかと眺めてみると、危ないな、どこへ行くのにも雪の細い峰だ、





御嶽山頂へは行きたかったが、もうここで充分だろう、今日はこれまで





僕はやったよ、3年前の御嶽山登山ではできなかったことを今、実現した

 

嬉しさでセルフタイマーを使って自分を撮って、この2,959mからのビューをカメラに一杯写してみる





南アルプスが、上高地方面の山々が頭に雪を被っているのはもちろん素敵、

 

眼下に見下ろす濁河温泉の小さな集落を見るのも気分はいいし、

 

御嶽山頂とほぼ同じ視線の高さだから、これより上はないのが素敵

今日一日、天気は常に快晴、風もなく、まさに最高の登山日和

 

しばらくぼーっと考え事をしていて、携帯電話を見るとなんと着信履歴あり

 

おいおい、御嶽山の頂上だよ、なんで電波が届くのか!





さぁ、下山してゆっくり写真撮りつつ、濁河温泉に入って帰ろう

 

意を決して下山を始め、飛騨山頂付近で最後の雷鳥探しをしても姿は見当たらず

もういいや、と危険な傾斜を慎重に下ることおよそ半分ぐらい、ふと息をついて写真を撮ろうと思ったら、なんとカメラがない!!

焦ったよ、荷物全部探してもカメラだけがないじゃないか

 

おいおい、こんな致命的な忘れ物ってないよ、カメラを失くして

 

今日こうして登って来た意味がなくなっちゃうじゃないか

 

これはノーチョイスで戻るしかないでしょう、荷物を全部置いてまたあの厳しい傾斜の道を登る、登る

焦っていた、カメラマンがカメラを失くしてどうするのか、まるで意味のないことだし、

 

見つからなかったらどうしよう・・・と考えると本当に参っていた





飛騨山頂まで死にそうになりながら戻って、小屋の方向へ歩いていると、あったよ、僕のカメラ、NIKON-D90が!

そういえば足をずっぽりと深い雪に取られて、ゆっくり這いあがった時があった

 

その時に、音もなくカメラだけを取り残していたみたい、こんな偶然なんてないよ

それはともかく最高の仲間に再会できて心から嬉しく思った

 

ゆっくりと岩肌を下っていたら、またも思いがけない再会、あの雷鳥さんだ





ありがとう、カメラを落として良かったかも?

 

雷鳥を撮っていたら、岩陰から出てくるじゃないか、なんと三羽とも一緒の場所にいたんだから

今回は飛ばれることもなく、三羽ともを写真に写して、ちょっと追いかけて

 

上手く三羽が一緒に撮れるように狙ってみて、カメラに収める

どうだい、こんな幸運ってないよ、いつか雷鳥に逢いたいとは思っていたけど、

 

この御嶽山では全く期待していなかったもん、朝のカモシカに続いて三羽の雷鳥なんて、3年前とは比べ物にならない充実ぶり



(↑ちょっと上手く撮れてないけど、確かに三羽を同時に撮っているでしょ)


それで僕は雷鳥タイム

 

僕が動かなければ、すぐにそこにいる三羽の雷鳥も微動もしないで景色を見ている

 

一緒にゆっくりと風を感じて、僕も四羽目の雷鳥になるべく、ただ静かに





雷鳥タイムが終わると、またカメラマンらしく雷鳥を追ってはシャッターを切る

 

贅沢な時間だと思ったよ、本当にもっと高倍率レンズがあれば・・・と思った





雷鳥にバイバイして、一息に雪斜面を下る

 

日中の温かさに表面が溶けだしていて、朝とは全然歩きやすさが違う





結構なスピードで歩けるようになって、スキーをしている気分で下る

 

それも美しい景色だったよ、誰もいない白いゲレンデを、僕だけが歩いている





濁河温泉には間に合わないと思った

 

その時点でもう3時だったから、普通に下るとちょうど終わっている時間で、あとは下呂温泉に入って帰ろうかな、とあきらめていた

足の疲れ、とくに膝の疲労だね、だいぶ力がこめられないぐらいまで弱っていたけど、

 

最後の力を振り絞って、雪の下り道をトレイルラン気味に下る

疲れていた、途中で力がなくなって雪に座り込んだ時、僕は感じたね

 

あぁ、山が、森が溶けだしている

 

耳に入ってくるのは弱い風の音、たまに鳥の音、あとは溶けて落ちてくる水や氷の水滴

 

とりわけ水滴の音が美しくて、それはまさに御嶽山の冬が溶けだしている音なのだから

間に合うか?と思った

 

すごいペースで下っていたから、このまま順調に下りると濁河温泉にギリギリ入れるかもしれない

 

そう考えるとますますペースが上がって、一心不乱に朝来た道を駆け降りたのだった





ほら、間に合った

 

5時の営業終了のところ、4時15分には小坂口の開始点に着く偉業を遂げた僕、

 

疲労困憊の身体を濁河温泉に浸からせていると、幸せだと思った

ハードなトレイルだったが、無事だったし、雷鳥にも逢えて、美しい風景をたくさんシャッターに切った

 

濁河温泉にも入れたし、あとは何か美味しいものでも食べて帰ろう

山の道すがら、御嶽山が姿を現すとあれだよ、あの厳しい場所に、美しい場所に僕はついさっきまで雷鳥と一緒に佇んでいたんだな





帰り道をドライブしていたら、あまりの疲れ方に気持ち悪くなった

 

1時間ぐらい横になっていたら、目を覚ましてみると辺りはもう薄闇、肌寒いどころか、立派な寒さ

月が出ていたよ、ミラー越しに眺めながら色々考え事をして、それも素敵な時間だった

結局家まで4時間もかかった

 

お疲れ様、最高の冒険になったが、こんな辛い時間だったのにあまり目立った写真の成果がなかったように思える

 

雪山は美しいが、もう春の雪山はいいだろう、他の美を探すことに時間を使おう

3年前の忘れ物を一気に取り返した確信あり

 

最高の冒険、最高の詩的


【所要時間】

6:10 スタート 〜 (途中、アイゼン装着でもたつく) 〜 7:40 湯の花

〜 8:10 のぞき岩 〜 9:15 森林限界 〜 11:15 飛騨頂上

〜 13:00 摩利支天山頂上 〜 15:15 森林限界 〜 16:15 下山

 

三四郎 夏目漱石

郷里の熊本を出た時、三四郎の井の中の蛙っぷりは絵に描いたよう。

自分は高等学校卒のエリート、一般人よりも上という優越感の持ち主。

兄の野々宮のことを、よし子が深く観察している姿を見て、

「これしきの女」「東京の女学生は決して馬鹿に出来ないものだ」

と思うところに女性蔑視の態度が現れているし、

美禰子たちと団子坂へ菊人形を見に行った際に見物人のことを

「教育のありそうなものは極めて少ない」

「あの人形を見ている連中のうちには随分下等なのがいた様だから」

と言う様から、一般庶民を卑下した態度を読み取る。

 

自己意識の高い三四郎は、大都会・東京に出て来て電車や東京の広さに驚く一方、

故郷の母から届いた心尽くしの手紙を見て、もう自分にはいらない世界だと失望する。

様々な人と交流を持ち、新しい女性像である美禰子と知り合ったことで己の不明を知る。

東京での新しい物事になんとか自分で納得のいく理解をしようと試みる三四郎。

しかし、「世紀末」というハイカラな言葉に反応を示さなかった、

いや、示すことができなかったように、東京の考え方になじむことができない。

静かな大学の池の端で佇んでいても、故郷の熊本の自然を心の拠り所にするわけでもなく、

ただ孤独を感じてしまう。既に故郷からも心は遠ざかってしまっていた。

 

三四郎は自分がどこにいればいいのかが分からず、ただもがいているだけの迷子。

同じく、自分がどこにいればいいのかが分かっていない人間がもう一人いた。

自身の結婚問題に揺れる美禰子だ。

当時の一般的な女性像に美禰子は当てはまっていない。

知識があるし、三十円もの大金を自身の判断で三四郎に貸すことができる経済力。

そういった女性は、明治の時代では稀であった。

三四郎にとっては、そんな美禰子こそ、大きな謎。

 

自立しているように見えながら、己を「御貰をしない乞食」と言い、

野々宮への非難の言葉を美禰子から聞き出そうとしていた三四郎の腹を見透かし、

「ストレイ、シープ」という謎めいた言葉を投げる美禰子が、三四郎には謎で仕方がない。

美禰子は美禰子で、三四郎の横顔を熟視するぐらいだから、三四郎のことが気になっていた。

それは恋心というか、三四郎がまだ持っている田舎臭さというか、

純粋さに美禰子自身の青春を重ねていたのだろう。

三四郎に見たその純粋さは、ありきたりな結婚で美禰子自身が手放すものだと気付いていた美禰子。

こうして三四郎は美禰子に謎めいた恋心を覚え、美禰子は三四郎の純朴さに恋をする。


三四郎は次第に美禰子の本質を捉え始めた。

「私そんなに生意気に見えますか」という言葉を皮切りに、

それまで無欠の女王のように思っていた美禰子が、実は不安だらけの一女性だという理解に届く。

しかし三四郎はそこで美禰子を理解したと思い込むこともしない。

「二人の頭の上に広がっている、澄むとも濁るとも片付かない空のような、――意味のあるものにしたかった」

とあるように、三四郎は美禰子に謎の部分を感じ続けたかった。

結局、三四郎は未知の世界に飛び込むことに臆病な無力な青年だった。

 

次第に三四郎は美禰子のことを理解し、対等になったと考え始める。

「あなたに会いに行ったんです」という言葉を言うことができるほどにまで成長するが、

皮肉なことにその時には美禰子の心に変化が起きていた。

「迷える子――解って?」という謎めいた言葉を三四郎にかける美禰子。

これには三四郎に前進して欲しいという気持ちが篭っていたのだろうが、

同時に美禰子自身にも成長を求めた言葉でもあった。


三四郎は美禰子に胸中を告白するまでに成長したが、時既に遅かった。

間接的な言葉ではあるが三四郎が告白をした時も、美禰子には意味が通じなかった。

この時点で美禰子は結婚の意志を固めていたのだろう。

そして美禰子は贖罪を求めるかのように三四郎へつぶやく。

「われは我が愆を知る。我が罪は常に我が前にあり」

新しい女性像を理想としていても、

旧態依然とした結婚のしきたりに従うしかなかった自分を非難した言葉なのかな。

こうして美禰子は理想よりも現実を見ることを決心した。


最後に三四郎は「迷羊、迷羊」と繰返した。

謎でしかなかった美禰子の心情を、三四郎はようやく理解した。

しきたりに囚われず、自分の意志を優先させて生きることを理想に掲げた美禰子が、

現実問題を前にして悩み苦しみ、そして最後は諦らめて現実を選んだ経緯。

それが自分が感じた美禰子の謎の正体だと知った。


すると、三四郎の心に根付いていた深い霧も溶ける。

それまでは若い自尊心が邪魔をして、美禰子のことを愛せていなかったと気付いた。

三四郎も美禰子と同様、本質的なものを理想としていた割に、

夢ばかり見て現実に阻まれ、一番大切なものに手を伸ばそうとしていなかった。

三四郎はそのことを、美禰子を失った代償として理解する。

そして、ついに「迷羊」という言葉の真意を理解し、口にした。

傲慢な田舎青年として上京し、うわべのことに囚われていた三四郎が、

美禰子の結婚を機に青春の夢と決別し、人生の実態に気付く様が、作品には鮮明に描かれている。

 

『三四郎』では三四郎と美禰子の両方に、その時代の中で向き合うべきものがある。

日露戦争後の不況では、当時の女性は夫や親に依存しない限りは生きていくことができなかった。

父親を亡くし、兄と暮らしていた美禰子だが、兄が結婚することに伴って、

何か他の依存対象を見つける必要に迫られていた。

当時を生きる上で不可欠であった『家』という制度が顕著に現れている。

美禰子は今までの『家』から新しい『家』へと移る人生の過渡期だった。


美禰子は三四郎に恋愛を求めていたのではない。

大学という学歴があっても当時はエリートを約束されるわけではなく、

田舎出身で特別な社会的背景を持たない三四郎は中途半端な存在であり、

美禰子はそんな三四郎に自分と似たものを見ていただけ。

中途半端な『ストレイシープ』としての自己像を、

三四郎にも投影させて同情に似た関心を寄せていただけに過ぎない美禰子。


三四郎は東京の大学で勉強するために、田舎の熊本から前途洋々と出てきた人間。

熊本の世界からすれば自分はエリートだが、様々な人に出会う中で自らの小ささを知る。

社会的に孤独な美禰子の『ストレイシープ』を通して、

実は自分も同じように『ストレイシープ』であることにようやく目覚めた。


彼は東京で自らの進むべき道に迷う。

熊本の家という『第一の世界』、

自分の想像していた学者たちともまた違っていて理解のできない『第二の世界』、

美禰子に代表される華やかな『第三の世界』、

付け加えるならば、当時の目まぐるしい資本主義発展によって

社会の外にはじきとばされた、轢死した女・最初の電車で出会った老人や女などの『第四の世界』。


三四郎はどれも理解ができず、矛盾であると曖昧にしてしまう。

この問題を解決できない三四郎。

三四郎という人物に、新しいタイプの知識人、真のエリートにはなれなかった多数のエリート候補が

時代の中で向き合わなくてはならなかった問題を直面させたのが、夏目漱石の意図したものかな。

 

運慶 仏像

運慶の仏像が大好きだ、彼の作品を追って幾度奈良・京都に通ったことか。

仏像の基礎知識や時代背景を知らなくても、単純に美術品として魅力的な運慶の仏像。

もう一歩踏み込んで、日本彫刻の歴史の中での運慶のことを調べてみた。


仏像制作には暗黙のルールが存在していて、自分の美意識で自由創造するものではなく、

作るべき形の基本が定められた、いわば課題制作みたいなもの。

仏師・康慶の家に生まれた運慶は、幼い時よりそのルールを身近なものとして見て育っているし、

また運慶自身も熱心な仏教信者。運慶はそんな制約の多い仏像芸術の中で、

ルールを逸脱しない枠内での工夫を突き詰めて仏像アートの世界を広げた人物。

 

運慶の時代は宗教改革の訪れと重なり、宗教の民衆化・大衆化の波が来ていた。

東大寺・興福寺の焼き討ちを契機にそれが加熱し、

貴族から武士台頭への時代変化にもまれて被害を受け、

苦しみあがく民衆がもっと自分の身近に感じられる対象としての仏像を求めていた。

父・康慶は仏像の写実主義を進めた第一人者だったが、

その流れを受けた運慶は、当時の民衆が求める姿に合致するよう仏像の世界を加速させた。


具体的には、願成就院の不動明王像には運慶が築き上げた特徴が顕著だよ。

密教の経典が説く、醜悪で肥満した童子というイメージを、運慶は見事に力強く、

あたかも現実に存在するかのような仏像として創り上げている。

 

 

 


彼の技法の特徴である玉眼を使うことで、内面から溢れ出してくる威圧感を表現し、

ひだの少ないシンプルな衣と、張り詰めた体躯・めりはりのあるくびれとの対比で

たくましい生命感を浮き彫りにした。

そこから感じられるのは、見る側、民衆に直接エネルギーを与えてくれるような仏像。

東国武士たちが拝むのにふさわしい男性的な運動感・荒々しさがある。

経典の中の取り扱いが難しい人物像をバランスよく見事に写実し、

しかも民衆と武士いずれにも通用する仏像に創り上げた運慶。

 

この両方を兼ね備えた不動明王像こそ、東国で運慶が到達した新しい仏像アートの世界。

玉眼にしろ、衣のひだにしろ、運慶が作る仏像には通常以上に手間のかかる仕事が

細部にわたって施されているのが技法的特徴。

その手間をかけなくてはいかなかった理由として、

当時の仏像社会ではライバルの院派や円派仏師の繁栄があり、

運慶ら慶派の奈良仏師は新しい仏像を創らない限り将来の発展が見込めなかった。


それを理解した上で、今後どうなるか分からない社会情勢の中で

急台頭中の源氏の要請を受諾し、父・康慶は慶派の代表として運慶を東国・鎌倉に旅立たせた。


源氏だって、いつ衰退してもおかしくない世の中。

康慶の行動は自分たちの将来につながるかどうかも分からない賭けの要素があった。

それまでの仏像のスタイルは定朝様式の眠るようなおだやかさが特徴であり、

実在する人間ばなれをした仏のかたちが主流だったが、

東国という新しい土地、宗教がより庶民化してゆく時代背景の中で、

運慶はより写実的で、より力強いものを創り上げるという事績をあげ、

日本美術史における仏像アートの世界に新しい境地を切り開いた。

 

東国では民衆と武士の両方から求められる力強い仏像の世界を確立した運慶だが、

京都奈良に戻って仕事をしてゆくようになると、

やはり日本人の根底には大人しい仏像を求める心が流れていると知ってか、

興福寺での北円堂弥勒仏坐像のような穏やかなものを作り始めた。

かつての強力で斬新な個性を発揮するものではなく、

穏やかさを全身にみなぎらせたものに力を注ぐ柔軟さを運慶は持っている。

 

その頃の運慶には年齢を重ねたことでの余裕や、

すでに画期的な仏像を作り上げたという実績もあったのだろう。

更には、運慶自身が慶派の長というポジションについていて、

もはや自分が率先して鋸を持ち仏像を作るのではなく、

多くの弟子たちを指揮する立場におかれていたことも理由のひとつ。

 

武士の台頭、民衆の逼迫した状況が一段落し、時代は源氏の安定政権に移っていた。

生動感こそが仏像彫刻の美点としてきた運慶は、次の手法を見つけたようだ。

社会を無視して芸術は成り立たものでもないから、

時代が求めるものに対応していくのも美術には不可欠。


次第に民衆は、仏像に以前のような空想性を求めるように戻っていった。

運慶以前の定朝が確立した和様彫刻。

それを察知して、運慶は北円堂の弥勒仏坐像を自然体のものにしたのかな。

和様彫刻よりは写実的だが、鎌倉彫刻よりは力まず、運慶の作風の変化が見られる。

最終的に、弥勒仏坐像は日本美術史上における彫刻の終着点に重なっている。

 

写実性は、彫刻ではなく絵画に引き継がれた。

崇拝対象としての彫刻は結果として写実よりも空想に落ち着く。

運慶の写実主義は子供の慶派彫師たちにも引き継がれたものの、

運慶の世界を大きく変化させたり、その域をはみ出したりすることはなく、

運慶がしてきた範疇の中で、仏像彫刻は続けられていった。


日本彫刻の歴史は定朝の時代に最盛期を迎え、運慶の鎌倉彫刻で飛躍を遂げたが、

その後は社会や民衆の求めに応じて、また定朝の空想の世界に戻っていき、

次の進化に至らないまま現代に至るのである。

強烈だった仏師運慶の個性、私の心はずっと忘れられないのだろうな。

 

与謝野晶子 短歌

与謝野晶子の短歌と、佐藤春夫の『晶子曼陀羅』を通読してみた。

運命の流れに翻弄された一人の詩人像が浮かび上がってくるのを、私は感じていた。


与謝野晶子の人生には数々の運命の分岐点があったが、

最大のものは、生涯の伴侶・与謝野鉄幹との出逢いだろう。

鉄幹と出逢う以前の晶子にとって、歌を詠むこととはほんわりとした娘心を表したものであり、

自分のユニークな部分を主張するためのツールだったように見える。


ところが、鉄幹と出逢って恋するようになってから、晶子にとって詩を書くことの意味が一変した。

言葉の成り立ちを考えずとも、鉄幹への想いがそのまま詩となり、

自分を飾るために詩を詠むのではなく、自分の感情がそのまま詩になった。

鉄幹への愛情が晶子の身体の中に収まりきれずに溢れ出し、詩として形を成した。

 

 

 

 

鉄幹と一緒になりたくて、実家を無断で出奔しようとする前夜、

両親への良心と、自分の気持ちに素直に生きたいという願望の狭間で晶子は激しく悩んだのだろう。

己の生き方を貫こうとする意志のある晶子。

当時の社会では後ろ指を指されるようなこと、いわゆる駆け落ちをやってのけた。

全てを捨てて、恋する鉄幹のもとへ、夢見る詩の世界へと飛び込んでいったのだ。


この行動は、晶子の親友であり、斬新な女流詩人としての好敵手であった山川登美子が、

親の薦める相手と結婚したことと対照的ね。

新しい女性像を理想として掲げた二人のうち、一人は古い慣習の中に戻り、

一人は無謀とも呼ぶべき突飛な行動でもって新しい世界を求めた。

その選択も、追って更なる運命に翻弄される選択でしかなかったというのは、皮肉なものだけど。


鉄幹との出逢いは、晶子の詩への想いのみではなく、与謝野晶子の人格そのものを大きく変えた。

コントロールできていた自分自身が、手のつけようがない情熱の嵐へと変化した晶子。


実家との疎遠、兄との不仲、鉄幹の前の愛人との争いがあった。

それらをようやく乗り越え、晶子初の歌集「みだれ髪」が刊行され、

晶子と鉄幹の子供が産まれるという幸せな出来事があっても、鉄幹との平和な生活は素直に続かない。


晶子の人生最大の選択である鉄幹との結婚でも、大きな皮肉が待ち構えていた。

嫁いだ先の夫が早死をしたことがあり、山川登美子が東京に出て来ていた。

鉄幹との恋の好敵手でありながら、途中で自ら道をそれたはずの山川登美子が、

今更ながら鉄幹と情を通じていた。

無二の親友から裏切られ、命を張って追ってきた男からも裏切られるという、無残な事実。

 

更に酷い皮肉は重なる。

愛する鉄幹との生活のため、鉄幹に捧げようと詠んできた晶子の詩が世に認められてゆくにつれ、

晶子の想いとは裏腹に、鉄幹はそれを面白く思わなかったのだ。


偶然か、必然か、晶子が鉄幹と一緒になると同時に、

詩人としての晶子の名声は高まり、鉄幹は下降の一途をたどっていった。

自分を弟子と名乗って自分の元に来た晶子に、鉄幹は嫉妬を覚える。

何時の間にか、鉄幹は晶子にすっかり上を越されていたからだ。


恋に傷つき、詩に背かれても、晶子は以前と変わらず、もしくは勝る情熱で詩を詠み続けた。

そこに、詩人・与謝野晶子の本性が見えるようだ。

恋の甘いも酸いも知りつくし、それを詩の世界に投影させた晶子。

幸せな意味でも、哀しい意味でも、恋への情熱が与謝野晶子の詩を輝かせた。


晶子が経験した恋とは、全然甘いものばかりではない。。

傷つけられ、裏切られ、しかしそれでも鉄幹のことが忘れられない。

不仲の最中に、しばらく離れて暮らすことで、気持ちを整理しようとしたにも関わらず、

やはり夫恋しさに耐え切れなくなり7人の子供を日本に残したまま、

ロシア鉄道を乗り継いで、鉄幹のいるパリへ単身飛んでいった晶子。

 


恋しい夫に甘えたのも束の間、今度は残してきた子供が愛しくなってしまう晶子。

ついには鉄幹をパリに残し、子供恋しさに突然日本に帰ると言い出した。

帰国の船に乗ったら乗ったで、結局子供よりも鉄幹のほうが恋しいと知って、

取り止めのない己の心に泣いた晶子。


大人の良心と、自分の素直な気持ちの狭間で悩み、苦しみ、そして生き、詩を残した。

一般的な人のものよりも、ずっと激しい感情を晶子は持っていたのだろうな。

晶子が情熱の歌人と呼ばれたのも、分かる気がする。

詩人としての与謝野晶子は、詩にこめられた激しい情熱で成功を収めた。

しかし、鉄幹を愛することを生き甲斐とした一人の女性としての晶子は、

それほど成功したようには思えないが、実際はどうだったのだろう。


矛盾を繰り返す己の心に翻弄され、皮肉な運命に流され続けた。

詩人としての成功、夫婦としての苦悩、晶子の二面性がはっきりと描かれた『晶子曼陀羅』。


晶子が自分の人生に満足したのかどうかは別として、晶子の詩は輝いて人々に愛された。

皮肉な運命に弄ばれながらも、そこで生まれた激しい情熱の嵐を詩にぶつけたことで、

奇遇にも幼い頃に目指した詩の美学は貫かれたみたい。

しかし、愛する鉄幹がそれを喜んだのかどうかは別問題。

晶子が一番望んだことは、叶わなかったのかもしれないけれども。


どこまでも皮肉な詩人、しかし恋も詩も思う存分に堪能した詩人の姿が、

与謝野晶子の短歌から、僕には瑞々しく伝わってくる。

 

パスポートカバー

「パスポートカバーなんて付けてるのって日本人ぐらいでしょ。

他の国の人たちがパスポートカバーを使っているところなんて見たことないわ」


ずっと昔から、わたしは気になっていた。

ほら、空港の出入国審査場で「パスポートカバーを外してください」って書いてあるヤツ。

あんな親切な案内って日本だけだよね。


今のパスポートはバーコードがついていて、機械でデータ読み取りができる。

だからパスポートカバーなんて付けていたら、肝心のバーコードが読み取れなくてダメ。


そもそもパスポートの表紙ってちゃんと厚紙になっているから折れるわけじゃないし、

毎日持つものでもないので汚れることもないでしょ。

日本の出入国では毎回取らなくちゃいけないし、

なんでパスポートカバーをしているのか、ホントわたしにはよく分からなかった。


2006年の3月に日本のパスポートがIC旅券に切り替わった。

この時、初めてIC旅券の現物を手にしたケンが驚きの声を上げたていたのを覚えている。

 

 

 


「ね、旅子!大したものね、外務省さんも。

見て、これ!新しいパスポートは、表紙の裏がデータ面じゃなくなったよ。

これならここにパスポートケースつけてもデータ面が読み取れる。

日本の出入国でわざわざパスポートケースを取り外さなくてもいいんだよ」


確かにIC旅券はその通り。

パスポートカバーのかかる表紙の裏はただの紙で、

データ面は次のページから始まっているので、パスポートカバーはそのままでも良い。


「すごいね、ケン。これってパスポートの仕事に携わる人たちが不便さを感じていて、

改良したいっていう声が集まって、実行に繋がったのかな。

毎日毎日パスポートのカバーを外せ、とか言うのも面倒だしね。

お役所とか官僚とか言われている人たちのそんな工夫、普通はは誰も気にしなくても、

わたしたち旅行業界人ぐらいは気付いてあげても良いのかも」

「そうだね、小さくても工夫は立派」


物を大事にする日本人の文化かしら。

ひょっとしてこのIC旅券スタイルが世界の主流になって他国もマネをし、

他国の人たちもパスポートカバーをつける日がいつか来るのかもしれない。


・・・って一瞬感じたけど、やっぱりそんなのあり得ないよね。

ご丁寧なパスポートカバーなんて日本人だけの発想でしょ?!

海外とか国境という概念が日本よりは明らかに薄い人たちにとって、パスポートは日常だ。

日常だから、裸でパスポートを持つのだろう。

他国からするとヘンだな、と思うパスポートカバーだけど、それはそれで面白いとわたしは思ったよ。

 



<ご紹介>私の最高品質ページ

  • 1.人生ベスト写真4枚 / 2.2017年写真ベスト / 3.インスタグラム





  • © 2006 - Ken Box