マルクス ケインズ 失業

1920年代のイギリスでは百万人規模の慢性的な失業者が発生していた。

世界恐慌による経済打撃がこれを後押しして、1930年代には実に300万人にも失業者が膨れ上がっていた。

この事態に直面したケインズは、必要に迫られて新しいものを生み出すことになる。


ケインズは伝統的な経済学の理論だけでは今の失業者問題は解決できないと思い、

問題となっていた働きたくても職を得ることのできない失業者たちの存在に焦点を合わせて理論を組み立ててみた。


労働市場で需要が不足しているときはどうしても失業者の発生を防ぐことはできないという

不完全雇用を前提としたところに、ケインズの特徴を見ることができる。


伝統的な理論の問題は、働きたいと希望する人はそもそも全員が雇われるという完全雇用が前提となっていたのである。

失業者とは離職直後から次の職につく間の一時的な失業か、

自発的に働く意思を見せないための失業かで、いずれにしても働きたいと思えば

いつでも職を見つけることができる状態が伝統的な理論の出発地点であった。


この従来の理論では失業者が発生する理由を、労働市場における重要と供給を

均衡させる賃金率よりも高い賃金であることによって説明する以外なかったのである。

高すぎる賃金の切り下げを労働組合が許さず、雇用主としては

一定の雇用賃金上限に達していることから更なる雇用を求めることがなく、

その結果として雇用が縮小して失業者につながっている、というものであった。


賃金が下がれば雇用主は下がった分で別の新たな雇用を生むことができ、労働市場に供給が発生して需要が満たされる。

この繰り返しを続ける限りは全ての人が雇用されることにつながる。

これが伝統理論での失業者の発生原因であるから、失業の原因は賃下げを認めない労働者たちにあると結論付けていた。


しかしこの理論では現実として慢性的に発生している失業者問題はいつまで経っても解決できない。

また、労働者たちに一方的に賃金切り下げを要求するのでは

労働者に対する搾取が一層ひどくなるばかりで景気回復に対する決定的な修復につながるとも思えない。


そこでケインズは投資者階級に注目して、景気が良くない時代には投資家たちが投資を躊躇して、

現金をそのまま資産として自分たちの手元に置きがちなことを指摘した。

人は誰でも危険性があるなら投資をすることはなく、貯蓄に回すだろう。

先祖代々から富裕層に蓄積されてきた富は社会に出回ることがなく、

ただ蓄積されているだけでそれが企業家に経営資金として投資されることはない。

投資家は、企業家に資金を投資して利益を得るということに若干でも危険を感じると、

現金で持っておいた方が安全であると判断しがちであるのだ。

 

 

 


従来の理論では経済活動の末端である労働者に失業の原因があるとされていたが、

ケインズはまるで逆の指摘を行い、大元の投資家にこそ責任があることを指摘した。

そして金融利子率を下げて、投資家が現金のまま手元に富を留めておくことをしにくい状況にすることで、
積極的な投資につなげることを提案した。

民間投資で足りないのならば、政府による大規模な公共投資が景気の活発化には欠かせないことを指摘した。


つまり、お金を持っている人はそれを貯蓄に回すのではなく、消費や投資に当てるように累進課税を導入するなどの工夫をすること。

それは貧しい人たちの貯蓄まで吐き出させることを意味しているのではなく、

豊かな人たちが貯めているお金を市場に循環させることが大事だと説いている。


投資が加われば供給につなげるために新たな労働需要が生まれる。

こうして非自発的失業は、有効需要の不足から生じているとケインズは結論付けたのだ。


その中でもケインズは公共投資によって経済の活性化と新たな雇用を生み出すことが、

失業者問題を解決する方法であると重要視した。

こうして失業者はidle manとして個人の責任にされていたものが、

社会の責任になり、政府が景気対策の前面におどりでたのである。


こうした上からの雇用供給は、景気変動を安定的に動かすための「ビルト・インスタビライザー」と呼ばれており、

それを操るのは国家であるという主張がケインズの論なのである。


マルクスの論で注目すべきは、失業者は仕事が足りてないから

はじき出された不幸な人たち、と労働者に同情的に考えているのではなく、

資本家が労働者から労働力を買うときに発生してしまったやむを得ないものが失業の正体である、と論じている点である。

労働力を使った生産過程で発生する「剰余価値」が資本家にとっての利益につながるものであるが、

自然状態にあるときにはそれを全て資本家が消費するのではなく、

少なくとも一部は更なる資本の蓄積に充当されて生産拡大につながってゆくとマルクスは説いた。


更なる生産拡大が可能であると見越した資本家は、

「剰余価値」によって得た富である「可変資本」を、更なる「剰余価値」を期待して

労働力の購入に充当させるが、そこでの必要な労働力の読み違えによって相対的な過剰人口として失業者が表面化してしまう。


「産業予備軍」とマルクスが呼ぶ失業者たちは、国家の政策上のミスではない。

また、賃上げを拒む労働組合や失業者自身のせいでもない。

必要とされる未知の労働力を正確に把握できなかった資本家の過ちでもない。

ただ、経済活動をしてゆく中で仕方なく発生してしまうもの、すなわち必要悪なのである。


そして、この「産業予備軍」たちは必要な人手が他の部門の生産を害することなく

入手可能な便利な存在になるし、資本主義的生産が自由に営まれるためには、

労働者人口の自然的限度に制限されない産業予備軍の存在が不可欠なのであると

マルクスは結論付けて、失業者たちをあくまで肯定的なものとして認識している。


ケインズは市場だけでは解決できない問題において、

公共事業という切り札を持つ国家が唯一解決可能な存在だと捉えていたが、

マルクスにおいては国家にその役割を要求せず、

政治解放された投資家・企業家・労働者たちが経済活動の中で解決すべき問題とした。


マルクスにとって国家とは疎外された人間の類的本質が空想的に外在化されたものであって、

あくまで民衆は国家に何かの解決を求めるのではなく民主的に問題に向き合うべきだとした。

ケインズも政治の面ではあまり民間に干渉しない小さな国家を求めているが、

経済活動においては国家に労働供給をコントロールする大きな役割を期待している。

 

三跡 書道

日本書道史を考える上で、平安時代の三跡の存在は重要な転機。

彼らの事跡をたどり、日本書道史における三跡の書の意味をつらつらをお話してみたい。

ちょっと長くなってゴメンね、興味がある方はお付き合いいただけると嬉しい。

 

無文学の孤島である古代日本に、紀元前200年頃に大陸から中国語が流入してきた。

文化水準の低かった日本に対し、古代宗教文字を脱して政治文学化した小篆体が、文学の移動を実現したのであるから、

日本は言葉の面で中国語の影響を大きく受けることになる。

その後の大化の改新などで一応の政治的独立は遂げていったものの、

中国を見習った飛鳥文化や遣唐使に顕著なように、文化の面で日本は擬似中国文化であった。


国家をあげて中国の写経を学び、日本が最も中国文化に接近していた奈良文化を過ぎ、

平安時代になると日本文化は次第に中国のものをそのまま真似するだけに留まらず、

仏像彫刻や密教文化などに見られるように和様化が始まってくる。


書の世界においては平安初期に「三筆」が現れると書の文化が隆盛し、

中国の書を学び抜いた先にようやく日本的な表現を見出すに至ったが、未だに晋唐模倣の域を脱しなかった。

そもそも中国における書道は政治に利用される色合いが濃く、

過酷な中国政治を反映して筆尖を真っ直ぐに突く垂直筆や鋭利な表現が好まれていたが、

平安京の貴族たちは優雅なものだけを求めていたために自然と中国のものでは飽き足らなくなってきていた。


中国文学に近かった万葉仮名は、真仮名・草仮名を経て日本独自のものである平仮名(女手)へと姿を変えてゆく。

漢文を補助する記号として生まれた片仮名は日本語文法を形成してゆく。

漢字を元にしつつも原型が分からないほどにまで変容した和様漢字が誕生していった。

これらはみな、擬似中国文学の域をこえて中国文学にも後もどりすることのない

非可逆性の、独自の日本文学と呼ぶべきものなのであった。

 

 

 


平安中期に「三蹟」の一人、小野道風が和様書道を先駆ける。

道風の書には中国書道の代表格である王義之の影響がはっきりと残るものの、

日本的趣致の豊かな新しい書風すなわち和様を創始したと言われる。

「智証大師諡号勅書」に始まって「屏風土代」に至るときには

すでにゆったりとした丸みや豊かさをたたえた、日本独自の和様の書が表れている。

「智証大師諡号勅書」においてはまだ全体の文字の大きさや重量感を残した書き方に

王義之の影響は顕著であるが、筆の入り方はすでに中国の垂直筆を崩しており、

優しく入り重く終わるというリズムによって和様漢字のはしりを見ることができる。


「屏風土代」ではより文字は細くなり、筆の入れ方は三折法ではなく

優しい側筆が全体的に取り入れられていて、「智証大師諡号勅書」と較べると文字の終わり方もやや抑制をきかせている。

「柳」の最終画に表れているように長く伸ばして優しく払って終わるところには鋭利な中国の書のイメージはない。

没落していた小野氏の出身である道風は、藤原氏全盛の時代にいたのであり、

藤原氏以外の者が世に重んじられるには自身の才能を高めること以外に術がなかった。

 


「柳に蛙」のエピソードで知られるが、若い頃の道風は書がなかなか上手くゆかず悩んでいたが、

ある時枝垂れた柳の下で蛙が跳んで枝に移ろうとしているのを見た。

最初は届かなくても次第に高く跳んで、後には蛙は枝に移ることができた。

この蛙の姿を見て道風は努力と向上の必要性を悟り、和様漢字を創り上げて世に出ることができた。

道風自身の独特の型にはめながら文字を書くので、

道風の書跡はすべて一様であり、変化が無いと言われるように、

和様のはしりではあるが、道風一人の書では優雅で柔らかい和様の到達にはまだ届いていない。


藤原佐理の書は異端だ。「離洛帖」での運筆の速さから生じる線の極端な肥痩は見ていてドラマティックでおもしろい。

過度の傾筆と側筆で書かれていて筆力も強く、文字もところどころ片仮名に近く変化されているなど、

統一感を崩すような書には束縛やルールから解き放たれた佐理の自由な発想を伺うことができる。

一筆で書き流す「一墨之様」の草書の特徴があり、他者には見られないスピード感のある運筆が佐理である。

道風の次の世代の人である佐理は道風が生み出した和様の書を基とはしているが、

生まれてきた「和様漢字」を停滞させることなく次の変化の風を吹き込み、

優美さは後進したかもしれないが、道風にはなかった書におもしろさを与え、

「和様漢字」の新しいアイディアを強烈に提案したという意味で重要である。


佐理は藤原氏全盛の時代に藤原氏の一人であるから、何もしなくても恵まれた立場にあった。

出身ゆえに恵まれた官職につき、しかし生来が理非をわきまえず非常識人と言われる佐理は、

その恵まれた出身ゆえに与えられた職務を全うするのは困難があったのだろうと想像するのは容易であるから、

佐理の本当の性質と能力は彼の独自の書にこそ向かったのではなかったのか。

そう考えれば、道風のように世に対してのやり切れない思いが、佐理の書に新しい風を生むことになったのだ。


その佐理の次の世代の人である藤原行成は、道風様を踏襲しつつも「和様書風」に調和と統一感をもたらし、

華やかな藤原文化最盛期に相応しい優雅な書へと完成させた人物である。

「白氏詩巻」に見られる蛇行筆蝕では和様風に優しく抑制を利かせていながらも、

時折そこに中国的な垂直線をのぞかせることで緊張感を作り出しているのが印象的である。

側筆を用い、繊細ながらも「嵩山」の二字のように複雑な文字運びに抑揚を利かせ、

優美さを全面的に漂わせながらも全体に中国漢字の緊張感さえ秘めている。

 


「月」の最終二画のように中国漢字では二画であるはずの箇所を一筆で流したところに、平仮名の影響を見ることができる。

中国漢字の緊張感という美点を踏襲しながらも、道風が先駆けた和様の路線を取りつつ、

佐理の極端な抑揚法に流されることもなく、そのどの良い点をまとめたかのような印象が行成の書にはある。

これは「円満な人格者」(藤原佐理)として藤原道長に重用され、

名門藤原氏出身の能吏として名を上げ、人格・政治手腕・書という芸術の3つもの分野で

才能に恵まれた行成ならではの平衡が取れた優美な和様漢字の完成という到達点である。


このように三跡のスタイルは三者三様であったが、いずれが欠けても

中国書道から脱却して日本独特の和様の書を完成させることはできなかったであろう。

道風の必死の創始によって和様書風は命を得たが、必死だったが故に安定を得るべくもない。

佐理の鬱積した奇才によって変化という風が得られ、和様は停滞することなく次の到達を模索したが、

バランスよく満たされた行成の才能によってそれが完成した。

ちょうど続いた三世代に三跡が現れて、生み、変化させ、まとめる。

こうして三跡の存在は日本書道史における重要な転機となったのだ。

 

島田荘司 文学の魅力

文学は、文字の連なり・ストーリーの流れの美しさを追及する芸術であるのはもちろんだが、

作者のそれまでの人生経験が深く関与してくるところが最も大きな特徴だと思う。

文学に限らず、どの芸術分野においても創造者のそれまでの経験から生まれる芸術がほとんどである。

しかし、こと文学においては作者に与えられた表現方法は文字だけであり、

白紙を最初から最後まで己の言葉だけで創らなくてはならない。

真っ白な紙を埋めるための言葉、そしてゼロから創る物語。

どんな物語であっても、そこには必ず作者の人生がにじみ出てくるものだ。


島田荘司氏の1985年の作品に、「夏、19歳の肖像」というものがある。

第94回直木賞候補作にノミネートされた作品で、

氏のミステリー作家としての才能が発揮されつつも、美しい文章がいくつも並ぶ佳作だ。

若い男を主人公とし、彼の初恋を描くこの青春小説は、最後に大きなどんでん返しがあり、

ミステリーの構えを見せながらも、またそれとは違う魅力にもあふれている。

文学の広さを説明するには、氏の本業であるミステリーとは違う部分で説明をするほうがふさわしい。


第一章が始まる前に、短いプロローグがある。

その事件からかなりの時間が流れた後で、ふと思い出した当時のことを悔やむような、懐かしがるような美しい文章である。

本章では、初めての恋をした若者が知らずと大きな世間の波に翻弄される様を描き、

若者にしかない情熱を持ってそれに立ち向かうが、最後は己の無力さに絶望をする。

若者でこその新鮮な気持ち、純粋な恋。

そして、世間にはびこるどうしようもない人間の欲望、弱肉強食の業。

本章で何が言いたいのかというと、それはひとつ、若者とは無力な存在だ、ということだ。

覇気があっても実力が伴わない。情熱を注いでも、力は届かない。

若さとは無力さだと、氏は心底の本音を吐き出すかのように書いている。

そして、最後のエピローグには無力だった頃のその精一杯のけなげさに勲章をやりたい思いさえする、という賛美の言葉がある。


ただ懐かしむだけではなく、すっかり自分の中で整理がついた大人の心境だ。

無力さにやり切れずにいる若者、時間が経ったあとで当時を賛える大人という姿は、間違いなく作者の強い人生観である。

文学には、創り手の人生観が、それも痛いぐらいに心に突き刺さった人生観が映し出される。

優れた文学には創り手の最も深い人生観が現れ、

また、創り手が心から思った観念を作品に投影しなければ名作は生まれないのであろう。


このように、文学は作者の人生を反映するものである。

さらに深く言えば、作者は文学にその時の深い気持ちを吐き出すことで自らの人生を整理し、

成長し、そして次の人生へと歩いてゆく。

読者にとっては人生経験の格好の場である。沢山の人の人生が作品には詰まっている。

そのひとつを読むことで、一人の作者の人生経験を垣間見ることができるのである。

作品に描かれた人の本性を見て、己の人生の糧とすることができる。

文学には、そのような側面があると思う。


「夏、19歳の肖像」では、初めて愛した女性が己の目の前で連れ去られた後で、

己の無力さにやりきれない気持ちをぶつける少年の姿に心を打たれた。

「私は、自分が何の取り得もない人間だという意識が強かった」という文章を見れば、

島田氏が若い頃にどれだけ己の無力さに失望されたかが想像できる。

そして、「十九歳の自分に何があるだろうと考えると、それはたった一つ、

オートバイしかないのだった」と続け、無力な若者が精一杯の情熱を振り絞って女性を取り返しに行く。


その結末がさらに若者の自虐の念を増幅するようなものであるところが、島田氏の若い頃に対する気持ちが強いことを窺わせ、

文学と作者の人生は接近するという私の文学の解釈に一致するのである。

もう一つ大切だと思うことは、文学が芸術である以上、

中途半端で結論の出ないままで物語を終わらせては芸術として成り立たないという点だ。

島田氏のこの作品は最後に当時を懐かしむだけではなく、理解し、大きく乗り越えている。

文学として公の場に出す以上は、痛みを痛みでさらけだす程度でとまってしまうのではなく、

その痛みを乗り越えた部分を見せて欲しいと思う。

傷をさらけ出すのはもちろん、どのようにそれを乗り越えたのか、

その情熱ある経緯をそのまま書き写すことが、文学本来の魅力になるのだと思う。

 

産業革命 市民革命

人間は太古の昔から様々な宗教の価値観によって物事を把握し生活をしてきた。

それが近代になると宗教的個人主義が生まれて、

19世紀の産業革命と市民革命という二重革命によってさらに思想が転換されてゆく。

そこで交わされた議論のひとつが現代の社会学として、それまでにはなかった学問として成立するに至っている。

二重革命以降の社会思想を大別すると

「自由主義」・「急進主義」・「保守主義」の3つのイデオロギーが生まれたことになる。


「自由主義」ではあらゆる価値の重点をそれ以前の「集団」から、「個人」へと変換させた。

「急進主義」では自由主義で叫ばれた個人の権利を強調して「権力」の獲得に自己献身的な立場を取った。


個人的な「権利」を求めすぎるがあまり、自分の「権力」を増大させることばかりに急ぐ人を生むことがあったが、

自由主義が主張する個人の重要さを社会に知らしめるためには必要な存在であると言うこともできる。


「保守主義」では時代をさかのぼって「中世的な価値観」を再評価し、

自由主義が主張する個人の存在に制止をかけて、集団主義の優れた点を社会に問いかけた。

この保守主義がイデオロギーの核心に「中世的価値」をすえて社会的で生産的な秩序の安定を目指して議論を進めたことが

社会学に発展していく直接の原因になったのである。


そもそも18〜19世紀には古い行動様式と宗教的信念から解放されないといけないという意識が民衆の中にあふれていた。

人々は古代的な身分制度から人間を解放し、コミュニティーやギルドの中で

封じ込めてきた自主性と自由を解放するものが自由主義や急進主義だと考えて後押ししたのである。


その結果としてフランス革命が起こり、最早国家までもが教会や家族や地元社会に忠誠を誓わず、

個人主義による国家統制を決定づける動きを見せ始めていたのだ。

 

 

 


保守主義の反対は合理主義であり個人主義であるから、この世の中の動きとは正反対の観念を示すものである。

そうした個人解放の新しい流れをさまたげて、時代に逆行するものが保守主義である、と一般的には考えられていた。

保守主義は長い時間の中でも社会秩序を保ってきた中世ヨーロッパ人の体制復権を再度打ち出していたのである。

重要なのは、そのことが自由主義・急進主義に対して逆の価値観を示すことになり、

社会が個人主義の考え方に行き過ぎることを抑制する働きかけを行い、

ヨーロッパ思想史において「中世的価値」への再転換を促すという他にはない役割を果たした、ということである。


中世から近代にまたがるこのような社会的思想の変遷を経て社会学は誕生しているが、

保守主義の思想を引いている思想であるから本質的には保守的であるし、

個人から社会を捉える近代思想とは逆で、社会から個人を捉えようとする思想なのである。

資本主義社会という新しいものが人々の中に確立されれば、

それがどんなものであっても当然のように新しい矛盾や問題がそこには生まれてくる。

そこでは個人主義の観点からだけではどうしても解決できないものが当然あるのであり、

社会はそれを満たしてくれる別の考えを求めてゆくのである。


自立と対極する言葉に、社会集団や秩序というのがある。

民衆が経済的な自立を遂げて高度文明化が進んでゆくと、

一方では昔のようなコミュニティーを大事にしようという気持ちが人々の中に出てくる。


それは宗教や家族・会社などを個人と切り離して合理的に解釈しようとしても、

非人格的なものが社会を支えることはできないからだ。

いくら便利な世の中になっても、町に集まる人は社会の中で互いに結合されることはなく、農村地帯にこそ社会的な連帯があるのである。


ボナールは人間は社会の中で社会のためにのみ存在する。

社会は社会をもっぱら社会自体のために形成すると言って、個人に対する社会の優位を主張した。

ヘーゲルが個人が単なる集合のなかに分解していると描くことは、

個人を圧殺してしまうととらえたように、社会学の観点からすれば

個人は社会の一構成員としては捉えられるものの、社会を個人に分解することはできなかった。


保守主義の思想は過去から人々の間に脈々と受け継がれてきたものであり、

19世紀には一旦自由主義と急進主義に追いやられてしまったが、

現代では円滑な社会につながるものであると再び注目されてきている。

保守主義は中世的価値を再評価する動きをつくり、それが反近代主義として資本主義社会に開いた溝を埋めてゆく。

自己反省と形式化の試みは社会学の軸と言われるように、

進み過ぎてしまった社会に疑問を投げかけ、中世の良好な人間関係を取り戻そうとして

社会集団を評価するのが社会学の役割なのである。

 

人格心理学 自己像

自分は自分自身をどのように思っているのだろう。

 

人格心理学の分野では自己像というものを二つの相として捉えることで解いている。

何かを自問自答する際に、主観的な立場にある「主我」の状態が「I」という相で、

一方で自分自身を他者の客観的な目から見るときの「客我」の状態が「me」という相である。


自分自身に問いかけ改善を求めてくる「me」と、
それに応えようとする「I」の両方があることで、我々は自己と対面することができるし、

その後で内的葛藤を生み自分は成長してゆくのである。

 

この二つの相がなければ問題は潜在意識のままで眠ってしまい、

我々は意識的に自分を問いただすこともしないだろうし、新しいものを求める意思は生まれてこないであろう。

 

自己像とは自分を自分で見た他者であると言うことができる。

あたかも他人を見るように自分を他者との比較の中で見ている自分が、自己像なのである。

 

そして、その自己像とは、現在に生きてないものであって、

過去に「me」からの改善要求されたことに対して反応した結果である現在の「I」であり、

時としては過去の「me」に応えた時点の過去の「I」であり、
問いかけてくる「me」に対する未来の自分としての「I」でもある。

 

この自己とは自問自答から生まれる意識ではあるが、

自分一人だけの世界で成り立っているものではなく、

社会的な集団を生きる過程の中で形成されてゆくものである。

 

サルトルの言葉で言えば内面の他者が自己の存在条件となり、

自己像とはあくまで他者との交流から生まれてくるものであって、あくまで外から眺めた自分なのである。

そしてこの自己像とはどのような人間関係によって形成され、発展してゆくものなのだろうか。

 


まずは生まれてから長年生活を一緒にする家族が人格形成に大きな影響を及ぼす。

 

家族の中でも誰がどのような役割を果たすようになるかは次第に決まってゆき、

父親がリーダー役であるとか、調整役・反抗役などに分かれる。

 

この役割がその後の人格形成に重要な意味を持ち、

家族内での役割がそのまま社会の中でも同じような役割を務めることも多い。

 

幼児期に家庭で受ける育児には親によって差があり、それを背負いながら幼稚園などに入るときには

集団行動や友人との協力という新しい人間関係を学んでいかないといけなくなる。


児童期になると気の合う友人と一緒になるようになり、親の知らない生活圏を持ち始めるし、

仲間内での役割がはっきりと出来上がってきて、その後の人格形成や役割分担の方向性が見えてくる。

 

そしてこの頃には社会的集団の中で自己主張と自己抑制の狭間で悩み、

時には自分の欲求を我慢して他人に譲ることも覚えるし、

必要な時には自分の主張を押し通さないといけないという自己コントロール能力を発達させるのである。

 

 

 


思春期では身体に性的な変化が現れ、自分自身への関心から逃げられない。
そして、自分に意識が向いてくることから自分の否定的な側面に気づくようになり、

気になって仕方なくなってしまい、不安定な時期を過ごしがちである。

 

そもそも人は対自的自己認知能力が発達するにつれ、

かつてのように自分を肯定的に見ることができなくなってくるのであって、

他者と比較しては自分のマイナス面ばかりを見つけてしまう時期があるのだ。

 

そこでも人はなんとか肯定的なものを求めようとして、そのためにも自分を理解してくれる人を求めてゆく。

 

自己開示できる友人の存在は貴重であって、
誰も思春期の頃は親ではなく友人関係に精神の安定を求めるのである。

 

青年期になると自分なりの判断が下せるようになり、大きく人格が変化してゆく可能性を秘めている。

 

それ以前に形成したいくつかの自己像を統合し、憧れの存在との自己同一化も解体した上で、

どれが本当の自分なのだろうかと模索する時期である。

 

それは同時に社会の中でもどれが魅力的で役立つ自分なのか、見極めを図る時期でもある。

 

他者にはない、オンリーワンの自分自身を探す最中では、

自己否定と自己肯定もどちらも偽らざる自分自身であることを認識し、

いずれも乗り越えて統合してゆく動きを見せてゆく。

 

自分の中で自己像が確立していない時期は精神的に不安定な状況にあるといえる。


例えば恋人などの自分に強い影響をもたらす存在ができた際に、

自分自身が出来上がっていないと相手の方に流されてしまう恐れがあるのだ。

 

好かれようと思って相手の人格に同一化し、

そのまま流されて過ごしてゆくと自己像が未確定のままになってしまうかもしれない。


このような人間関係の要因の中で我々は生きて行くのだが、

 

常に「I」と「me」の二つの相を自分に問いかけることで、
集団の中でも自分を見失わずに自己形成をすることができている。


身体が成長してゆき、周囲と人間関係を構築していった結果として自我が芽生えたときは、
それに合わせて周囲の人間もまた変容してゆく。


これはワロンの「発展段階論」という考え方で、

身体と自我と周囲の人々との関係を一体化させて考えているものである。

 

成人社会に出た後は、その人がどのような個人的な経験をして生きてきたかによって

人格発達は大きく異なってゆく。

 

結婚相手や子供の性格、事件だとか会社での経験だとか、
外からくるものに大きく左右されるから人によって全く違いが出てくる。

 

中年になるとそれまでの人生を振り返り、たった一度しかない人生を精一杯生きようとする。
そこでは自分というものを知り、自分は自分しかできないと分かっているから

自分らしい人生を突き進もうとする。

 

老人になると内面的には変化は見られなくなるが、

自分や他者の認知の方法が男女の性別の観点から脱却して両性的になったり、

自己認識に対して内省的になりがちになったり、自分を肯定的に捉えることが多くなってゆく。

 

また、豊富な経験を活かして判断しやすくなるが、

どうしても自分の過去の経験からの判断より脱却できなくなる。

青年期に確立した自我同一性は、年を重ねてもこうして発展してゆくことになるのだ。


自己像は自分も相手も肯定的に捉える「WIN-WIN」の自己評価が望ましい。

 

そして、自己像を良い方向に形成する人間関係として望ましいのは、

他人に自己を語りだすような自分自身のあり方である。

 

自分のことを理解してくれる誰かがいるかもしれない、と他人に肯定的な希望を

持っているからこそできることであるし、自分を開示して語ることができるというのは

自分自身に対しても肯定的な証であるのだから。

 





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