芭蕉の俳句

芭蕉の俳句は、社会的身分に関係ない視点で事実をあるがままに表現したことで


本邦の文芸史上でも現実主義確立の上で重要な転機となった。


芭蕉によって、文芸がより庶民に身近なものとなったのである。


それを踏まえた上で、私は一方で芭蕉が抱えていただろう民衆と己との葛藤についてまとめてみた。


限られた文字数で表現をする俳諧には表現の方法にも制限が出てくる。


また、それまでの歴史に培われてきた文学の歴史があり、人間には不変の美学というものもある。

 

芭蕉の時代にも大昔から伝統とされてきた和歌の美学を欠かすことはできなかったのである。

 


和歌の繁栄で確立されたその不変の美学を、芭蕉の俳句にも見ることができる。

 

芭蕉の俳諧は、和歌から続いた普遍の美学を引き継いだ。

 

その上で、芭蕉は庶民の普段の生活に密着した俳諧を創り上げ、


また、素人の人間が創る俳諧も肯定することで文芸の垣根を取り払った。


より庶民の生活に根付いた文芸を築いたのである。

 

『何に此 師走の市に ゆくからす』 元禄二年

 

ここに詠われたからすには芭蕉が己を投影させている。

 

師走の人の忙しさなどを知らずに市に飛んできたからすがいた。

 

俳諧に没頭し、庶民とはかけ離れた暮らしをしていた芭蕉もまた、師走の忙しさを意識することなく市に来たのだろう。

 


庶民の活発な生活力を前に圧倒されている芭蕉の姿が想像できる。

 

己の姿を醜いからすに例えたことで芭蕉が庶民の生活を見下しているわけではないことが分かる。

 

いや、それどころか地味なからすと比較させることで、

 

生活力に溢れた師走の庶民を輝く存在にしようとしたのではないか。


庶民の日常にどこかで憧れ、しかしそれには同化できなかった己に対して悩んでいる姿も見えてくるようだ。

 

芭蕉は文芸をもっと庶民に身近なものとするために俳諧の世界を築き上げてきたといってもよい。

 

しかし、俳諧だけに専念して日常の生活に追われていなかった芭蕉は、

 

いつしか庶民の感覚とは違う世界にいるようになってしまった。

 

和歌時代には一握りの地位ある人間の特権として生まれた文芸を

 

より庶民の方に近付けたという意味で、芭蕉の功績は称えて良いものである。

 

だがしかし、この俳句に見られるように、芭蕉自身は民衆に同化できず、


己の居場所を模索して悩み苦しんでいたのである。


文芸が庶民に近付いても、己を庶民に近付けることはできなかったのである。

 


『秋深し 隣は何を する人ぞ』 元禄七年


秋季の円熟を初句に呼びかけるが、その次にくる言葉はあまりに現実的である。

 

この落差は何なのか。これもまた、芭蕉の俳諧の世界と庶民の生活に存在した溝なのだ。

 


秋の深さを想う文芸的な気持ちはある。

 

だがその一方で、これまで隣人の職業さえ知ろうとしなかった自分の生活に

 

思い当たった時に芭蕉が感じた一抹の寂しさをここで窺うことができる。

 

この秋の深さを嘆く姿は、同時に己の人生の終焉を感じ取っている姿に重なってくる。

 

己が築き上げてきた俳諧の世界は円熟し、終わりを迎える段階にまできた。

 

だが、すぐ隣にあった庶民の世界のことさえも、

 

結局自分は何も知ろうとはしなかった、という反省の気持ちも含まれるのである。

 


ここでも芭蕉は己の俳諧の成果について疑問を持っているのである。

 

自分は民衆に文芸の素晴らしさをより知ってもらうために俳諧に人生を費やしてきた。


だが、自分はその民衆の中に溶け込むことができないのである。


この俳句のように隣人に対しても疑問を持つだけで、結局はそれ以上の追求をすることもないまま生きてきたのである。

 

人生の終盤を感じながら、芭蕉は今までの己の姿に疑問を隠すことができなかったのである。


『月しろや 膝に手を置 宵の宿』 笈日記 元禄八年刊

 

この俳句は、大商人・正秀宅での句会に招かれた時に芭蕉が詠んだ句である。

 

前述の俳句に見られたように、芭蕉は俳諧だけに生きてきた己と、


生活のために生きてきた民衆との狭間で悩んでいた部分もあった。

 

だが、その悩む姿だけが芭蕉の本性ではなかった。

 

芭蕉は己の俳諧に絶対な自信を持っていたのである。

 

俳諧の道に生きる己と民衆との距離はあってしかるべきものである。

 

そう割り切り、自信に満ちていた芭蕉の心がこの句に込められていると思う。


月が出る前の、空の白み。その時間帯には、生活のための民衆の労働は終わっている

 

つまり、日常生活は終わっている。


そんな時間帯に催される句会で、芭蕉は膝に手を置いた。

 

膝に手を置く仕草は、別に緊張を意味しているわけではない。

 

芭蕉はこの時を待っていたのである。

 

月は風流の象徴である。月が出る瞬間を境として、民衆の生活の時間は終わり、自分の俳諧の出番が来た。

 

自分が人生を賭けてきた俳諧のショータイムが来たのを知って、意気込む芭蕉の姿が思い浮かんでくる。


それも、決して堅くならずに、あくまで自然体で俳諧の世界に入ろうとしている芭蕉の姿だ。

 

民衆の日常になじむことができなくとも、己の得意とする俳諧の世界では己の思うがままに表現ができる。

 

そんな絶対的な自信を持って膝に手を置く芭蕉の姿が想像できてくる。

 

芭蕉が詠んだこの俳句からは、松尾芭蕉が歩んだ人生が想像できてくる。

 

芭蕉がしようとしたのは、俳諧という方法による民衆と文芸との接近だ。

 

確かに彼はそれに成功した。

 

だが結局、芭蕉は自分自身と民衆との間には常に壁を意識していた。

 

俳諧が壁を越えても、己は越えることができなかったのだ。

 

それでも芭蕉は臆することなく、己の俳諧の世界を追及した。

 

最後まで芭蕉自身は民衆に迎合することはできなかったが、

 

悩み、苦しみつつも俳句に命を注いだ芭蕉の精一杯の姿が見えてくる。

松尾芭蕉 俳諧

芭蕉の俳諧の独自性は、物事を既存の観念に囚われずに自分の目で見て、


心で感じたままを俳諧に描き出したその感性であろう。


芭蕉以前の連歌・俳諧は和歌以来の季語の制約が強く、


すでに存在する言葉のルールに則って言葉をうたってゆくものだった。

 

例えば「蛙」という言葉には、古今和歌集で紀貫之に


「花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける」と記され、


鶯と並んで声の美しい存在というイメージがすでに確立しており、


蛙と言えば、声のきれいな河鹿蛙が鳴く姿であり、なく蛙であった。

 

そしてもうひとつ別のルールがあり、芭蕉以前の俳諧は自分の感動をうたうのではなく、


読む側へ軽妙な笑いを与えるというのが俳諧の目的だ、と考えられていたことも忘れてはならない。


「やり水のついたかいたく鳴蛙」(宗俊)という貞徳時代の俳句がある。


まず蛙を鳴かせるのは従来からの定石であり、テーマの中心には「なく蛙」があると見てよい。


この句ではそこに「やり=槍」「いたく=痛く」というイメージを働かせ、


槍に突かれて痛いと泣く蛙の声を想像できる作りになっているのである。

 

別の例を挙げれば、「手をついて歌申しあぐる蛙かな」(山崎宗鑑)という発句があるが、


これも芭蕉以前のルールに忠実で、歌をなこうとする蛙のイメージと、


その蛙に俳句を読む直前の人間の姿を重ねて滑稽をさそおうとする俳諧の調子があるのである。


そういう俳諧の世界で芭蕉の独自性はどこにあるのか。


純乎たる正風に徹した句であるという、「古池や蛙飛こむ水のおと」の句を見てみよう。


この発句には和歌以来の伝統である「なく蛙」のイメージはまったくない。


蛙の声のかわりに聞こえてくるのは蛙が古池に飛び込んだときの小さな音だけである。


さらに言うなら芭蕉が感じたのは古池にたったその小さな音自体でもなく、


自分を取り巻く静寂の中に飛び込んできた音と静寂との対比にこそ美を見つけていたのではないか。


それを考えればこの古池の句はもはや芸術作品ではない。


むしろ、芸術的悟得の単なる記録であるというのも納得できる。


当然そこには軽妙な笑いはない。


蛙の小さな音さえ聞こえてくる静寂の中で、古池の音を耳にしてその心地よさに


くすぐられるような微笑みこそあれ、従来の俳諧にあった誰もを喜ばせる滑稽さは微塵もなく、


厳粛な雰囲気にこの句は包まれている。

 

芭蕉は俳諧を「笑い」ではなく「アート」として生まれ変わらせようとした。


そのアートとしての俳諧成立のためにこのふたつの古典ルールを乗り越え、


笑いの文芸としての俳諧のその先に見事な感覚アートとしての俳諧を

花開かせた開眼の句がこの有名な「古池や」であろう。

貧しい旅を続けたことで獲得した「わび、さび」の感覚が芭蕉の句には活かされている。


既に存在する古典文芸からのお題に言葉をつけてゆく遊びではなく、自らの感覚で題を設定し、

文芸としての俳句を創ろうとした意志にこそ芭蕉の独自性を見出すことができる。

古典に縛られず未来を創り上げようとした。


縛られるものがあるうちはおのずと上限が決まっている。

その点、芭蕉は自分の感覚を突き詰め新しい意識を創り出そうとした。


技術的に言葉を重ねて作り上げた俳諧ではない。


美しいものを美しいと感じる心そのもので世界を表現し、従来までの俳諧の限界を突き抜けていたのだ。

 

芭蕉のその行動はそれまでの俳諧の常識を覆すものだった。


その常識外の行動ゆえに芭蕉の世界は果てしなく、他に追随を許さない。


自分という世界にどこまでの上限なく飛んでゆくのが芭蕉の俳諧の独自性なのである。


何故なら芭蕉の俳諧は日常生活に根をおいてないものだからだ。


人生を旅のごとく見る認識でとらえる芭蕉の視点は、


日常よりも旅での変化の毎日にこそ己の俳諧の真意を見ていた。


その人生すべてをかけて俳諧という世界をそれまでのお笑いからアートへと変換させることに情熱を注ぎ、


連歌・俳諧の世界を一変させた存在が芭蕉なのである。

 

固定されてしまっていた俳諧の季語ルールからの脱却は、奇をてらってのものだったのだろうか。


江戸時代ではレジャーとして、視野を広げられるものとして旅をとらえることはなかった。


その土地での変わらぬ暮らしが人の生き方や考え方を固定してしまっていたところを、


清貧に旅を続けて新しいものごとと出会うという芭蕉の生き方がそれまでの常識を壊し、


それまでになかった独自のアートとしての俳諧を生み出す原動力となったのだ。

 

方言周圏論 蝸牛考

柳田国男が『蝸牛考』の中で唱えた「方言周圏論」に基づいて、

具体的に中央語で使われていた古典語である「さまに」の変化を追ってみる。


元々「さまに」という言葉は方向を表す接尾辞「さま」に

格助詞の「に」が付いたもので「〜方向に」という意味を持っており、

具体的な行き先までは分からないがどこどこの方向に行った、と言いたい場合に使われていた。


相手へのあからさまな伝達を避けようとするぼかしの効果として

室町時代まで使われており、現代語の敬称「様」は、

方向を意味する言葉であったものが直接敬称を意味する言葉へと変容した結果である。


「蝸牛考」のイメージ通り、文化の中心で生まれたこの「さまに」という言葉が

中心から円を描くように地方に伝播しながら分布して行った様子を

追ってみるために、西は宮崎県日南市の「さめ」・大分県湯布院町の「さね」と、

東は東北全土で使われる「さ」という言葉を挙げてみよう。


"蝸牛考は観覧車の円のように、地方へと分布して行く"


九州に残った2つの言葉はともに現在でも行き先を限定することなく

「〜方向へ」という意味で使われており、「さまに」の使い方ときれいに重なる。

中央語の「さまに」「さまへ」の接尾の連母音がくっついて「さめ」「さね」に変わったのが変容した箇所であるが、

それを除けば意味といい発音といい古典語が原型に近い形で残っているのが見て取れる。

このことは、方言に古語が残るという「方言周圏論」の考えと一致するところがある。

 

一方で東はどうか。東北の「さ」がそれに近く思われるが、詳しく調べてゆくと

「さ」は九州のものとは違い、移動の方向を表すだけに留まらず、移動の目的そのものを示す言葉になっている。

「東京さ行く」のように行き先が限定されている際にも使われているのである。


つまり、現代の共通語である「に」が担う役割も東北の「さ」は背負い込んでいることになる。

格助詞として大きく意味拡張を果たしたのが東北の「さ」なのである。


このことから、東北の「さ」は進化を遂げ過ぎていて西の九州方言と較べるにはふさわしくないのが分かる。

そこで中央から東北に至る手前、関東の方言を調べてみると「方言周圏論」を説明することができる事例がある。


室町時代のことわざに「京へ筑紫に坂東さ」というものがあることから、

当時の坂東(関東)では移動目標を表す方言として「さ」が使われていたことが分かる。

現在では関東で「さ」を耳にすることはないが、

この「さ」は先に述べた東北の「さ」の使い方と全く同じである。

東北の「さ」の源流は、関東の「さ」であることがこれで説明できる。


東京都の八丈島には「しゃん」という方言が残っており、

行き先が限定される時には「げー」、行き先がはっきりしない時には「しゃん」を使い分けている。

音こそ変わっていったものの、九州の「さめ」「さね」と同じ意味を持ち、

限定されない行き先を示す「〜方向へ」として使われる様子は「さまに」と重なるではないか。


"取り残された蝸牛考、いのしえの言葉"


関東・中部の中間にある山岳地帯では「せぁー」「せー」という方言があり、

これらは「しゃん」「さめ」「さね」のような方向の意味までは持たないまでも、

「さまに」から「さ」へと音が省略されながら移行してゆく途中の言葉が取り残されたものとして考えられている。


つまり今でこそ廃れてしまったものの、京都という文化の中心地で生まれた中央語の「さまへ」という言葉は、

近畿をコンパスの中心として円心状に東西へ広がり、同じレベルで九州と関東にたどり着いたことが見て取れる。


九州では原形を残したまま現在に至っているが、関東ではそれが「さ」という省略型に大きく変化し、

次第に関東でもその「さ」すら使われなくなったが、波紋は時間をかけてその「さ」を

さらに一回り外周にある東北地方へと伝来させ、東北ではそれが定着し今でも顕著に残されたのだ。


九州の「さめ」「さね」・関東の「しゃん」は「方言周圏論」の一重の波紋によるもので、

東北の「さ」は二重の波紋がもたらした方言なのである。


「カタツムリ」「カオ」「バカ・アホ」のような語彙の分野ではこの「方言周圏論」は成立する傾向が強いのだが、

音韻やアクセントなどは周辺地方の方が独自変化が生じやすいとも言われており、

方言の分布方法は方言周圏論に限られるわけではなく、他の要因からも考えるべきであろう。

 

罪刑法定主義

そもそも人権とは公的権力と国民の間での問題に対してのみ、適用されるものとして考えられてきており、

私人間の人権侵害問題へは適切な立法措置が講じられておらず、不十分なものであった。

 

基本的人権とは「人間であれば当然享受しうる基本的な権利」であるのだから、

侵害をしてきた相手側が公私のいずれであるかは問題ではない。

現代社会では私企業に雇用される労働者が多く、近年は企業や労働組合という存在が

私人の枠を超えて「社会的権力」として認識されている。

雇用中の待遇や採用・退職時の企業側の対処をめぐって人権侵害に該当すると判断される事例は後を絶たないが、

今日問題とされているのは私人間同士の問題にも

人権保障規定を当てはめること以上に、一体どこまで当てはめてよいかという議論である。


この議論には3つの説がある。

人権保障規定をそのまま適用させる「直接適用説」、人権尊重の精神で一部だけを適用させる「間接適用説」、

私人間では認めないが片方の私人が公的権力と同等のものを持っている場合のみに適用されるとする「国家同視説」である。

ただし、最高裁判所がこのどの説を支持しているかは明確になっていない。


三菱樹脂事件は身上書に虚偽の記入をし、

面接時にも虚偽の回答をしたことで会社が試用期間満了時に本採用を拒否したという事例である。

学生運動の中心的メンバーであったことを黙って就職したことが問題につながった。

この事件に当たって最高裁判所は「間接適用説」の立場を取りつつも、

企業側には特定の思想・信条を有するものを雇い入れることを拒んでも

それを当然に違法とすることはできないとして、企業側の解約権を認める立場を取った。

雇用が適当ではないと企業が判断すれば本採用拒否もやむなし、

という最高裁判所の立場は思想の自由とその沈黙の自由を越えて

企業側に有利な判例であって、企業という私人に人権侵害は適用されない、という立場に限りなく近いものであった。

 

 

 


罪刑法定主義とは、国家による突然の刑罰権の発動によって

国民の人権が侵害されないような機能を持たせるために派生したものである。

 

罪刑を行うに当たって国家はあらかじめ法を制定して何が罪に当たり、

その際はどのような刑が科せられるかを成文法として定めなければならないとした。

これによって法に定められていない行為、例えば常識や慣習のようなものを盾にとって人を犯罪に問うことはできなく、

法に定められていない刑罰を科したりすることはできないのだ。


当然ながらそこで定められる刑罰は国民の目から見て、

当該行為を実質的に処罰する必要性と根拠が認められなければならない。

そして、制定される罪刑には明確性が要求される。

 

「治安を乱した者は相当の刑に科す」など、あいまいな罪の内容で、

刑の上限と下限が明確に定められていないものを成文法にすることは認められない。

事後法の禁止も重要な条件であって、後から作られた法律によって過去までさかのぼり処罰されることはないとされている。

法律が制定後にしか処罰の対象とはならないのは憲法も実行のときに違法であった行為については

刑事責任を問われないとしていることにも根拠があるからだ。


路上禁煙ルールは慣習としては昔から誰も歓迎するどころか、

通行者に不安を抱かせる常識外の行為とは認識されていたが、

だからと言って現在から過去にさかのぼって処罰されるようなことがあっては安心して我々は社会生活を送ることはできない。

 

路上喫煙を禁止する条例が公布された後でしか我々は罰せられることはないし、

例えば過去にその場所で歩き煙草をしたことがあるからといって、現在や未来に罰せられることはないのである。


類推解釈の禁止も罪刑法定主義には含まれており、

人を裁く側が成文法を都合よく類推解釈して誰かを処罰することはできないとしている。

路上喫煙禁止は公共の道路での喫煙が処罰の対象となるが、

例えば私有の道路も同じ道路は道路であるから処罰の対象になる、と類推適用して処罰されることはないということである。

 

類推することはあっても、こと刑法においては明文化されていない限り刑罰は適用されないのである。

また、国家によるゆき過ぎた権力行使を抑制し、人権を守るための盾となっているのが罪刑法定主義なのである。

 

「身分から契約へ」という言葉は、19世紀にイギリス人のローマ法学者・メインが『古代法』の中で唱えた法の進化の一般原則である。

原始生活において人間は社会的身分を土台にして生活をすることで

秩序が保たれているため、法や人権についての意識が薄く、人々は閉鎖的な傾向にあった。

近代になり工業化と個人主義が台頭し、社会が成熟してきてことによって

個人個人が自己の判断と意思の元に自由な契約を交わすようになる。

このことが近代社会の法秩序形成につながり、社会が活動的なものになってゆくのだ。

 

このメインの考え方も19世紀の経済的自由主義の下では妥当に見えたが、

社会法の発達した現代ではにわかに適用しがたくなっているということもある。

昔は人の属性に従って社会の中で地位や役割が決まっていた。

日本でも江戸時代には武士の子は武士、商人の子は商人、と士農工商制度では

親の仕事がそのまま子供の仕事になると決まっていて、生まれたとき死ぬときまで人はそれに従って生活をしていた。

その身分を飛び越えて違う社会に出る余地はなかったのである。


しかし現代では誰も平等に職業選択の自由が認められており、男女平等も法律で定められている。

人々は自分の意思で行きたい学校に行き、自分の能力によって好きな仕事を選ぶことができるようになっているのである。

昔の社会では身分がその人の権利と義務を自動的に決めていたが、

現代にもまだ残るこの身分の考え方としては、夫婦関係であったり、

親族法・相続法における権利や財産の分配などではないだろうか。

現代人である我々が何か自己の要求を満たそうとするときは、

江戸時代のように身分相応のものを選択の余地がないまま自動的に選ぶのではない。


二当事者間が互いの合意の元の条件で成立される法律行為、

すなわち「契約」を交わすことで要求を実現し、「契約」によって人の間に権利と義務を生じさせている。

最早生来の身分制度ではなく、個人が自分の意思で

取り交わす「契約」によって我々の生活が成り立ち、社会が動いている時代になっているのだ。

 

平家物語 文学

中世は流転の時代。

現存の支配者を失権させようと戦乱が起こり、また新たな支配者交替が争いを招く。

隆盛していた一族が滅亡し、新たな一族が台頭してはいずれまた滅亡してゆく。

一方で天変地異があり、飢饉があり、疫病が続く。

それらの天災は人の行いに対する神罰や、亡霊の恨みとしてとらえられるのが中世では一般的であった。


こういった時代の中で死んでゆく者たちには、恨みを残して不遇の死を遂げる者が多くなる。

ましてやその死者がかつて権力を持った人間であった場合、それが安らかな死であるとは考えられなく、

その恨みが人を呪っては凶事をもたらすと思われ、人々に深く恐れられていた。


際限なく続いてゆく人の台頭と滅亡を通して、中世では独特の観念が生まれてゆく。

「諸行無常」「盛者必衰の理」とうたわれた平家物語の序章がそれである。


この序章部分には中世の時代の「無常観」が顕著に表れている。

「久しからず」人は「滅びる」者であり、それを人間の自然の姿として受け入れようとする姿勢がある。

そしてその中世の人間社会の厳しい理をあえて美文で描き、

軍記物語として完成させたことの背景には、浮かばれずに滅んでいった諸霊たちを慰めようとする意図があった。


何しろ平家一族のような一時の大隆盛を極めた勢力であっても一転して大滅亡を遂げた時代である。

他にも道理なく一族ごと謀殺された例などは数えられないほどあったのであり、

死者の怨嗟の念は深刻な問題であったのだろう。

そこで中世という時代に自然と生まれたのが、弔辞の意味を担う軍記物語である。

 

 

 


平家一族のように「おごれる人」はいずれ滅亡してゆくというのが

この平家物語のみならず、軍記物語の構想の中心となっている。

隆盛を遂げた者たちは次に傲慢になってゆく。

傲慢の象徴である清盛の摂政殿下藤原基房への暴力行為、

法皇の監禁から遷都の強行など悪行の数々が話に盛り込まれ、

それと平行して祗王や重盛の清廉な態度を散りばめることで清盛の悪玉としてのイメージを逆にふくらましてゆき、

平家一族が「おごれる人」であるということが決定的になる。


その「おごれる」人たちが、激しく変化してゆく中世という混乱期の中で

いつしか時代の波に飲み込まれ、急転落下して滅亡を遂げる。

そこで死んでゆく武士たちの、教経や知盛のような勇ましい死に様、

幼い敦盛の笛に象徴される美しい死に様、生に執着する宗盛の無様など、

局地にある人間の生き様や死に様が、中世独特の人間性追及の方法となっている。

 

源氏物語など王朝文学では心にしみる情緒が「あわれ」として扱われていた。

小さい感覚ながら肯定的なイメージがするこの「あわれ」の言葉も、

平家物語によって意味が一変し、流れ転がって没落してゆく人々の「無常」が「あわれ」としてとらえられてゆく。

イメージは否定的なものに変わっていったのだ。

これは義経の「判官びいき」の感覚と同じように、現代まで続く日本人の代表的な心理として残る結果となった。


平家物語から変わっていったこの悲哀感の漂う「あわれ」の感覚は、不遇のまま死んでいった人々の霊を慰める意味合いが強い。

「無常」「あわれ」という感覚をもって平家物語は終始構成されているが、

そもそもが満たされずに亡くなっていった人間たちの鎮魂の意味が深い軍記物語である。

そこに中世独特の滅亡と隆盛の繰り返しという人間の営みの中で、独特の「無常観」が生まれたのだ。


本来平家一族が滅んだのは源平という、中世ではごくごく一般的な勢力抗争の結果であった。

何も平家だけが特別ではないし、源氏が珍しいことをしたのでもない。

中世の日常の出来事である。


しかし平家物語では中世の「無常観」を強調し、

それは傲慢の象徴である清盛が朝廷に反逆したからである、という古代王朝的規範で結んだ。

人智の及ばぬ時の流れ、運命の力によってそれがなされたとした。

そこを現実に準じて捉えず、中世独特の「無常観」を膨らませて物語風にし、

一般大衆に共感しやすいように作り変えたことから広く民衆に支持され、

現代まで残る傑作として平家物語が人々の共感を呼んでいるのである。


平家物語は中世の時代に飲み込まれて不幸に死んでいった霊を

鎮魂するためのものであり、その亡霊が暴威を振るうことを恐れた人々が、必要に迫られて創り上げた物語である。


美文に言葉が冒頭に続くが、当初は哀調の文章で霊の鎮静を図るという意味があり、

しかしいずれは中世の人々に共感の深い、「無常」「あわれ」の軍記物語として発展していったのである。

 



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