生物多様性

あらゆる生物にとり避けなくてはならないことは、環境変化に適応できずに絶滅を迎えてしまうことである。

それを防ぐために、種内では個体数を増やすことが大切になる。

そして種間を跨った多様性を保持することが環境に順応するための生存方法となる。


種内多様性というのは遺伝によって伝えられ、

同じ種や同じ個体群でも細胞分裂のときに起こる染色体の構造変化やDNA配列の変化などで、

より現存の環境に適合する優れた遺伝子の働きを次の命に生み与えるものであり、

この遺伝的な多様性に利用して種は絶滅を逃れている。

一般的に小型種に個体数が多く、大型種に個体数は少ない傾向と言われていて、

多様性を保つためには孤立した集団の場合、50体から500個体程度が必要だと言われている。

これは単一品種で生物多様性が乏しいと環境の変化や外敵の侵入で絶滅しやすいと言われているからだ。


個別の種の垣根をまたぎ、別の種間と遺伝子を交換している場合には

環境の突然変異に対応しやすく、絶滅しにくい種が生まれることにつながる。

遺伝的多様性が失われると絶滅危惧種のチータのように繁殖成功率は低下してしまうというマイナスの面もあるし、

孤島に隔離された固有種のように些細な環境変化や新しい病気が流行ると一気に絶滅してしまうことも起こりうる。

遺伝子の変異によって種を生存させるための知恵が特殊化で、これが種間の多様性である。

同一種内での生存競争だけが多様性の決め手ではない証拠に、

自然界には生存力の強い構造と全く違う構造をした生物群集がたくさんあり、種間を跨った多様性が形成されている。


例えそれが優れたものであっても生物はひとつの方向性だけに向かうのではなく、

個々様々な方法に進むことで結果として全体が生き延びることが特殊化というものであり、多様性の英知なのであろう。

自然状態におかれた生物は強者の一点集中よりも複雑な生命を結び、種間の多様化の方向をとってゆく。

種は違っても同じ餌を糧としている生物はギルドという仲間の枠でくくることができ、

食物連鎖の中でこのギルドが重なると競争原理が働いて

どちらか優れたほうだけが餌にありつき一種だけしか生き残らないことになりそうだが、

自然界ではうまく住み分けをして共存可能な程度に競争を減らす。

ギルドの中では競争力だけが全てではなく、種間特殊化が働いて整合性を取っている。


しかし、生態そのものがよく似ていて生態系の中でほぼ同じ役割を果たす種間、

ニッチが重なる生物同士の場合には容赦なく他者を絶滅させてしまうことがある。

ガウゼという学者が説いたガイゼの原理で、これは競争排除の原理とも呼ばれている。


一方、同一種内の個体同士で餌を奪い合う生存競争は最も厳しく行われる。

それは餌の絶対量が少ないほど厳しい。

ニッチが異なる生き物が種間多様性で、安定した群集では特定の餌だけを食べつくすことなく、

餌の個体数が少なくなると他の餌を捕食することで自然と餌動物の多様性を保たれる。


ただし、そこに外来種の捕食者がやってきた場合に限って捕まえるのが簡単なら最後の一匹まで餌を捕りつくしてしまう。

長い時間をかけ、進化の賜物として育った種間多様性の中では種間に相互作用が働いて自然と種の多様性が維持されるが、

外敵が持ち込まれた場合にはそうはいかない。


種間多様性における上位捕食者にはキーストーン種というものがいて、

彼らが下位の動植物を定期的に捕食することでそれらの大量増加を抑制する効果がある。

キーストーン種の存在がなければ下位の動植物の大量増殖に歯止めがかからず、いずれは生態系を食べ尽くしてしまう。

一方、人間が保護したがるシマフクロウのようなアンブレラ種というのは最早現状の環境に適合しにくくなっている種であって、

彼らが生きるのには豊かで広大なスペースが必要で、

このアンブレラ種を守ると周囲の色々な自然や動植物を保護することにはなるが、

アンブレラ種がいなくても致命的な生態系への影響が出るものではない。


キーストーン種がいないと全体的に問題が発生して、生態系そのものが崩壊してしまう可能性が高い。

太古から天変地異による生物の大量絶滅は何度も繰り返されてきてはいるが、

現在ではそれを我々人間が原因となって引き起こしており、自然環境を大きく変えていることが問題である。

人間が住む場所は人間しか住むことができなく、他の生物との共生が難しいからだ。


環境保護という人間中心の視点ではなく、元ある自然環境に従順に生きてゆき、

人間の人口の多さは種間多様性に反す外敵に値すると考えるもの大切なことであろう。

自然状態での種内・種間の多様性こそが生物共通の財産であるのだから。

原油価格高騰 理由

原油生産量の上位国は、2004年時点で

ロシア・サウジアラビア・アメリカ・イラン・中国・メキシコ・ノルウェー・ベネズエラ・カナダ・UAEである。

1996年では

サウジアラビア・ソ連・アメリカ・イラン・中国・ノルウェー・ベネズエラ・メキシコ・イギリス

であったので、ここ10年ではほぼ同じと言っていいだろう。


原油を輸出している上位国は、

サウジアラビア・ロシア・ノルウェー・ナイジェリア・イラン・メキシコ・UAE・ベネズエラ・カナダ・イラク・UAEである。

反対に原油を輸入している上位国は、

アメリカ・日本・中国・韓国・ドイツ・インド・イタリア・フランス・イギリス・オランダである。


原油埋蔵量では中東に世界の半分以上(57.5%)が分布していると言われており、

原油生産量も全世界の31%を占める中東ではあるが、

イラク戦争やサウジアラビアでのテロという政情不安定が付きまとい、

原油供給途絶が懸念されるため現在では中東依存体制からの脱却が世界中で進められている。

中東と北アフリカに広がる世界最大の産油地の他には、

アメリカ南部の州・メキシコ・ベネズエラのメキシコ湾・カリブ海一帯という産油地があり、

この2大地域に世界の石油が偏在していることになる。

中東以外の産油国を見ても最大の生産国であるロシアでも政府と石油会社ユコスの間で騒動が起こるなど問題があるし、

アメリカも中国も原油消費量は自国での生産量を上回っている状態だ。

このように消費する輸入国は自国では原油を生産できないヨーロッパと極東アジアが中心であり、

原油を生産できる場所は不安定な地域にかたまっている。

このことがエネルギーを石油に依存せざるを得ない輸入国の、石油の安定供給への不安を顕在化させ、

発展途上国の原油使用量増加を見越した投機筋が石油の価格を吊り上げ、

結果として世界中に原油安定確保の競争を引き起こしている状況を引き起こしている。

 

1970年初めまでは7大メジャー、セブンシスターズと呼ばれた欧米の国際石油会社によって非公然の国際カルテルが作られ、

当時の原油全生産量で70%のシェアを握っていた彼らが利益を独占する形で原油価格や生産量を決定していた。

1976年にサウジアラビアのアラムコが国有化されるなど、1960−70年代には中東各国で資源ナショナリズムが台頭し、

原油産業はメジャーの支配からその国の資源として国有化されていった。

そしてサウジアラビアやベネズエラら産油国を中心に作られたOPECが生産量と価格を独占してゆく。

石油危機やイラン・イラク戦争という不安定な中東紛争を機に市場混乱を上手く利用して

OPECは7年間で11倍の価格に高騰させたりもしたが、

それが逆に石油需要減少と値段暴落を招いてしまったことから、OPECは自身での値段操作を放棄した。

もっとも、OPEC自体が世界の40%の生産量しかなかったのであるから価格カルテルを作り上げることにも限界があった。

サウジアラビアが宣言した人為的な大幅な価格引き上げは代替エネルギーの導入や消費減退という反動をよび、

長期的には自らの首を絞めるに等しいという発言にも読み取ることができる通り、OPECは価格決定よりも

安定供給と安定利益の確保を目的とするようになったのだ。


現在は経済の自由化・市場化が中心になっていることから、市場につきものの価格変動がある。

ニューヨークのWTI原油・ロンドンのブレント原油、

アジアではシンガポールや東京のドバイ原油の原油先物市場での取引価格が世界の原油価格を決めているのだ。

市場では原油関係者以外にも商社や金融機関・投機家の資本が多大に含まれ、

マネーゲーム化しているため他の商品市場・金融市場とも連動しているし、

市場に委ねられているので誰か個人が意図的に原油価格をコントロールすることはできなくなっているのである。

プライスリーダーが存在しないということが現在の国際石油市場の重要な特徴となっている。


2007年に起きた原油価格の高騰にはいくつかの要因がある。

ひとつはイラク戦争の影響であって、

石油埋蔵量第2位のイラクの政情不安定が中東の石油供給を低下させてしまい、

BRICsらの経済発展に伴って石油の需要は高まっていたはずなのに

供給が低下したものだから、価格だけが釣り上がってしまったのである。

また、原油価格決定にはニューヨークのWTI原油の価格が強い影響力を持つが、

アメリカ南部のルイジアナ州を襲ったハリケーン・カトリーナによって

ルイジアナ州一帯に数多くある石油施設が大打撃を受けてしまったことは

アメリカの石油供給を停滞させてしまい、ニューヨークのWTI原油を高騰させてしまったのだ。

サブプライムローンの破綻によってサブプライムローン関係への投資を見切った投機筋が、

稼ぎやすいと言われていた石油関係に投資をつぎこんだ。

原油価格は需要と供給のバランスで値段が決まるため、需要が高まることで価格だけが高騰していったのである。


マネーゲーム的な投機によって価格が左右されてしまうのが現在の原油。

昔はメジャーやOPECに利権が流れていたが、

現在は富裕層へ更にお金を儲けさせるための道具に原油がなってしまっているという印象を受ける。

エネルギーは誰のもの?全人類が等しくその利便性や富を享受するための仕組みには、

国際カルテルも市場原理も成り得なかったようだ。

原油は人々に便利な生活を与えてくれたが、富の面では平等に分配ができずに

富者の喰い物にされたままで石油は遠い将来に枯渇してゆくように私は思う。

三国演義 中国思想

三国演義には漢民族に受け入れられやすい中国思想がいくつも盛り込まれており、

それがこの白話小説をそれまでの民間に語り継がれていた説話だけに留まらせず、

古典小説にまで飛躍的に発展させた原動力であったのではないかとわたしは考える。


まずは外郭としての時代背景があるが、元の時代において

中国大陸は蒙古人に支配されており、漢民族は常にその脅威にさらされていた。

その後に漢民族の朱元璋が出現し、元を追放して明を建国するという時代であった。

その時代の都市の盛り場で生まれ、語って聞かせるものから読んで楽しませるものへ変貌を遂げていったのが白話小説だ。


内容面の特徴として中国思想の王道をいくつも備えているということがある。

天・地・人の3つが備わってこそ人や社会が成り立つという「三才」の考えが中国人にはあるが、

それが魏呉蜀という中国史上珍しく三分割された「三」国間での争いをバランス良いものとしている。


その「三」という数字に中国人にとっては深い意味があったのだ。

「三」国志であり、劉備「三」兄弟であり、「三」顧の礼であり、三を重ねることで内容に深みをもたらしている。


三国演義は西晋の陳寿が書いた「三国志」という歴史書を踏まえつつも大きく内容を変化させ民衆への溶け込みを成功させた。

ゼロからの空想でなく、現実の人間を主人公としたところにも民衆の親しみやすさがあったのだろう。


正史「三国志」が西晋の流れを含んだ三国時代の勝者・魏を中心として

描いていることに反し、三国演義では蜀が中心であることに注目したい。


これは中国思想の根本として神権思想、

神天が自分に代わって天子という絶対的な存在を遣わして世を治めるというものがあったことによる。

元において支配の中心は漢民族ではなく蒙古人であり、そこに漢民族の不満があったことは想像に難くない。

 

 

 


三国演義では虚名状態になった漢の天子を操る悪玉としての魏の曹操がいて、一方に漢王朝の血を引く蜀の劉備がいる。

史上では次の晋へとつながる魏が主役であるべきなのだが、三国演義ではその悪玉である魏と戦う蜀を中心において、

しかも主人公である劉備と義兄弟の関羽・張飛は平民出身の英雄であった故に

市井の民衆たちが乱世の英雄に憧れる気持ちと漢民族の皇帝を期待する気持ちを取り込んで、民衆に受け入れられる内容とした。


そして失権して名目上だけの後漢の皇帝に天子の意味を持たせていない。

また本来は改革者であったところの魏の曹操をどこまでも悪玉に仕立てることで、

その曹操に立ち向かうという役の劉備に天子の正当性を背負わせた。

現代でも台湾を巻き込んで議論になる「ひとつの中国」の意識を逆に向けて漢民族にとって都合のよいものとしたのである。


数多の英雄たちと様々な脇役たちが織り成す人間模様に人の世の栄衰を投影させたのも

作品のひとつの魅力であるが、三国演義には蜀を中心に立てたその政治的な操作とあわせて、経済的な操作もあった。


三国演義に描かれた英雄たちの中で最も短所がなく魅力的に書かれているのが、義に厚く武勇に優れた関羽である。

例えば反董卓連合軍が氾水関でどうしても攻略できなかった董卓軍の勇将・華雄を、

三国演義ではたったの一太刀で当時無名だった関羽が討ち取っている。

史実では孫堅軍が華雄を撃退させたことになっており、関羽の名前は出てこない。


他にも史実では呂布の愛馬・赤兎馬を曹操に見込まれた関羽が譲り受ける場面はないし、

嫂(劉備の家族)を守って五関を破る危険を冒してまで魏を脱出し

劉備の元へと向かうという場面もないし、赤壁の戦いで敗走した曹操を華容道において

かつて受けた恩義のために目をつぶって許すというシーンもみな三国演義での作り事に過ぎない。

しかも「三国志」の著者・陳寿が「短気なところが災いして滅亡した」と

関羽を酷評していることは三国演義にはまったく記載されてないのだから。


それらはどうしてそうなったのか。民衆が喜ぶ英雄を作り上げ、

その魅力を増幅しようとしたからだけではなく、関羽の生まれ故郷が偶然にも

山西省解州という土地であったからこそ、関羽の活躍は超人的なものとして描かれ、終いには神格化されることになる。

解州には中国最大の塩湖である解池があり、

塩を取り扱う山西商人が中国全土の経済圏を牛耳るまでの影響力を持っていた。

その山西商人たちが事あるごとに関羽を宣伝し、神として祭り上げ、

引いては自分たちの正当性につなげようとしたことが関帝信仰につながったのである。

中国文化では出身地というものがその個人を飾る上で大変重要な意味を持ったからだ。


三国演義の爆発的な普及には話しそのものの魅力や中国思想の妙だけではなく、

山西商人による立場向上のための宣伝要因も含まれていたと考えて間違いないだろう。


これらのようにある程度は史実を踏まえた上で、民衆に全く抵抗ない内容、

いや逆に漢民族の心を上手に取り込んだ内容で、政治的・経済的要因も重ねながら

話を魅力的なものに変えていったところに、比類なき人気を誇る古典小説である三国演義の特徴がある。

 

李白 月

月はいつも人間の頭上にあり、今現在だけでなく、先祖の代、

そのもっと前の先人たちもまた、同じ月を見ていたことに違いない。

 

その思いに加え、中国では古来より今頭上にある同じこの月を、遠く離れた故郷の旧友が見ているのかもしれない、

または遠くに置いてきた家族が同じく今夜の月を眺めているかもしれない。


月が悲愁の思いを起こさせるものであるから、親しい人を思いながらうたったのだろう。

当時の科学知識では自然界の現象である天象は充分に解明しきれず、

月の満ち欠けの不思議と自分の心を重ねて物思いにふけるのが月の典型的な鑑賞方法だったのだ。

 

例えば杜甫はその流れを受けて、「今夜フ州の月 閨中只だ独り看るならん」とうたい

遠くフ州に疎開させている妻子のことを思っている。


今自分が見ている月は鏡であって、どれだけ距離があったとしても

その天空の鏡を通して大切な誰かと思いがつながっている、という発想が中国古典詩の常道だったことを窺うことができる。


そんな中で李白という詩人は、月という存在をまた別の角度から詩の世界に取り込むことを行っている。

 

 

 


「月下の独酌」の句に「月をわたしと我が影と気楽な三人の酒盛りとなる」とある。

この歌は、唐の玄宗皇帝から表向きは「酒癖が悪いので宮廷務めの器ではない」

と一方的に宮廷お抱えの詩よみ役を解任されたことへの抵抗という意味もあったのかもしれないが、

寂しい感情に浸ることを優先してきたそれまでの漢詩世界の月のイメージを、

明るく前向きで洒脱なものに捉えたという意味で注目に値すると思う。


詩はその後に

「酔うて後は各おの分散す 永く無常の遊を結び 相に期す 雲漠遙かなると」

と続いてゆくが、ここでは酔ったときは一緒の仲間だが酒が冷めたらそれぞれ別々になったとしても、

またいつか天の川の元で再会しよう、と言っており、

李白の自由な発想はついに月をも自分の親しい友人の一人に見立ててしまい、

また会って酒を飲もうと呼びかけているのである。

 

「靜夜思」では句頭から「牀前月光を看る」とうたい、

これもそれまでの月にイメージしていなかった行動を李白はとっている。

つまり、自分から月に向かって心を寄せようとする従来のアプローチに反して、

月光そのものを自分の目の前に引き寄せたのである。


旅路の途中の宿、夜更けまで眠れないベッドの上で物思いにふかっていると、

ふと部屋に差し込んできた月光がまるで目の前まで注いでいるかのように見えたのだろう。

そこから山上の月に視点を展開して遠くの故郷を思う李白の視点は

月に始まって月に終わっており、月を目の前に引き寄せてしまったのは異例だが、心の動きは月を通して自然そのものである。

 

その後に続くのは「頭を挙げて山月を望み 頭を低れて故郷を思う」と、

月に故郷への思いを重ねるのは従来の月のイメージ通りであるが、

この二つの詩で李白がよんだ酒の友としてのポジティブな月、

そして月光を自分の目の前に引き寄せるという発想は漢詩における異質である。


詩仙と呼ばれ着想の自由さ・豊かな想像力・豪快な詩風を魅力とした李白ならではの発想の自由さ、

既存の概念に捉われることなく自分のありのままの感情を詩にうたうことができる

という斬新さをこのふたつが体現しているようだ。

 

そんな月のことを数多く詩に残した李白だからこそ、死に至ってまで

酒を飲みながらの月見の船で揚子江の水面に映った月を

手に取ろうとして落水して水死した、という伝説まで人々に残されてしまったのだろう。

 

いつの時代も、いつまで経っても月は不変だが、人は常に変わってゆくもの。

ましてや王朝がめまぐるしく変わってゆき、明日どうなるか分からない時代に生きてきた

中国の人々には月は格別に不思議な存在だったに違いない。


それが月を物思い・人思いの象徴にさせ、漢詩の世界でもその中国人の根本意識が月のイメージを作り上げたのだろう。

長い漂泊の果てに獲得した士官の道も他人の中傷で急に閉ざされ、

望んだ政治参画に関してはまったくの不遇の人生を送った李白だからこそ、

不変の月を理想と見立てて詩にしたのだとわたしには思えてならない。

 

実は李白は月を美的によむその裏側で張り裂けるばかりの悲痛な心を抱えていたのではないか。

その李白の心中を察するに、詩的なものよりも痛々しいものを感じるばかりだ。

 

東西冷戦 ソ連解体

それ以前にも前兆はあったにせよ、東西冷戦は1947年のモスクワ外相理事会から始まったと見てよいだろう。

ソ連が西ドイツからも戦争賠償の利益を享受しようとしたことを見て、アメリカはソ連との共存交渉を諦めた。

そして独自の西欧支援策であるマーシャルプランを打ち出すと、イギリス・フランスがアメリカに同調したのである。


大西洋同盟を結んだとはいえ、西欧諸国にとってはアメリカや西ドイツの軍事力がなければ

巨大な共産主義勢力の通常兵力の前では無力に等しかったのであり、

西欧諸国は安全保障を求めるためにアメリカの力を借りる必要があった。


マーシャルプランにソ連が賛同することはなく、アメリカに賛成する西側諸国と、

ソ連の政策に従おうとする東側諸国という対立が始まった。

米ソは中立国をなんとか自国の仲間にしようとして抱き込み政策を開始して冷戦が始まったのである。


米ソが当時、他を圧倒的に凌駕する軍事力、政治力を有していたがゆえにそれは避けることができない時代の流れであった。

当初の冷戦とは政治的な対立を基としていたが、

次第に軍事的な問題がからむようになり、問題は深刻さを増してゆくことになる。


ドイツ再軍備問題を契機として西欧諸国はアメリカと西ドイツの軍事力を

自分に引き止める工作を行い、NATOを成立させたことで西側諸国は一応の平和を実現させることができた。

そこにはヨーロッパが東と西に分断されるという条件はあったものの、

安定したな平和のためにあえて東西分断というマイナスも飲み込んだのである。


このことは東西を分けたドイツの鉄のカーテンの東側で、ソ連の影響力を増大させることを黙認した。

東側ではワルシャワ条約機構が結ばれ、東欧の協力体制が確立された。

ソ連のフルシチョフは西ベルリンから資本主義を追放しようとして西欧側の譲歩を求めるが、西欧側は譲らなかった。

こうして東西の冷戦対立ははっきりと目に見える形で現れていったのである。


キューバ危機以降に米ソの首脳が直接話し合う機会がもたれるようになったが、決定的な問題解決は見られない。

第二次世界大戦直後は米ソに加えてフランス・イギリスという4大国が

世界政治の中心であったが、この頃から超大国である米ソ二国間対立に変わっていった。


スエズ危機によってフランスとイギリスは国際的な発言力を後退させており、

アジアの植民地らが西欧支配から独立していったことも重なり、

自国だけの反映からヨーロッパ内統合の方向へと次第に舵を切っていったのだ。

長年の植民地支配によって「大英帝国」の地位に慣れていたイギリスでさえ、欧州諸国の中の、ただの一国になっていた。


一方でキューバ危機を契機として米ソの対立は加速してゆき、

核戦争までいきついてしまうかと懸念されたが、米ソ両国とも経済成長の行き詰まりから

SALT(戦略兵器制限交渉)などの軍縮や核縮小・核実験禁止という共通の目標に利益を見出すようになっていった。


この頃には核やコンピュータの分野で先行していたアメリカにソ連が追いつき、

軍事力での解決は核戦争しか残されていない、というところまで

両国の軍事力が対等になってきたことが、デタントにつながっていく理由であった。


一方でヨーロッパ内には別のデタントがおこる。

それはドイツを舞台に冷戦によるヨーロッパの東西分断を防ごうとする意識である。

1961年にベルリンの壁が建設されヨーロッパ分断がはっきりと出来上がっていたが、

西欧諸国はソ連の承諾の元で、東欧諸国と何とか関係改善をしようと考えていたのだ。


そのヨーロッパの意志は東西ドイツの境界線を巡って東欧側の妥協を生み出し、

条件付きではあるものの境界を越えた移動が次第に可能となり、貿易や資本の移動が発生していった。


ヘルシンキ会議を経てこの意識はヨーロッパとしての一体感を育てていこうとするものになったのである。

この点では米ソのデタントとも違う、ヨーロッパとして一帯感を保った上でのデタント、緊張緩和を目指した動きが特徴的である。

 

米ソは軍事的な緊張緩和の一方で、経済的な交流にも乗り出そうとしていたが、

その一方で民族自決を目指した民族解放運動が各地で起こり、そこにからむ米ソ両国の利害が複雑さを増大させていた。


ベトナムや朝鮮半島、中国大陸と台湾の地域などで米ソの利害を巻き込んで対立が発生していた。

中国や北朝鮮を取り込んでソ連は東アジアでの社会主義の地位を築いていたが、

フルシチョフがスターリン批判を行い、改革路線を進めていったことで

ソ連に対しての求心力は薄れてゆき、中国はソ連一辺倒の体制から次第に離れていった。


1950年後半から米ソ接近が進む一方で、東アジアの社会主義国は反米化をすすめ、

米国とその同盟国の日本と、アジアの社会主義諸国との対峙というアジア冷戦が形成されてしまう。

ベトナムの覇権をめぐって中ソ間の軍事衝突も起こるようになり、

ソ連離れをする中国は米国や日本との協調路線を取ってゆく。


欧州での影響力を弱めつつあったソ連は東アジアにシフトしてゆき、

再度中国と良好な関係を築くなど、東アジアは長い冷戦の過程で様々な紆余曲折を通っていった。


デタントを通してアメリカは世界全体の問題解決をソ連と共に進めることを期待していたのだが、

ソ連にとってデタントとは東欧支配を名実ともに確立するためのものにすぎなかった。

東アジアの例をとってみても、デタントは第三世界における

両超大国間の対抗関係を終わらせるのにも成功したわけではなかったのだ。


ソ連がアフガニスタンに侵攻したことによってデタントは停滞する。

ソ連の軍事行動に反抗してアメリカは対立路線をとり、冷戦が再来してしまう。

ソ連とのSALTの調印に成功をしてデタントに一安心し、

軍事強化を緩めていたアメリカの裏で、ソ連は軍事拡大を止めずミサイルの数がアメリカを上回るようになっていたのだ。


こうして米ソの冷戦が再緊張している中でも、東西ドイツでは

より自由な往来ができるようになるなど、欧州内では米ソとは別の路線を取り始めてゆく。

ソ連では経済改革と社会主義の建て直しを願うゴルバチョフの台頭によって

アフガニスタン侵攻は止まり、軍事費を経済改革に回すなどの変化がおきていた。


一方でヨーロッパ統合の動きは加速していた。

東欧社会でもポーランドやハンガリーなどで社会主義体制から脱却する動きが見え始めていたし、

ゴルバチョフのペレストロイカはそれを禁止するどころか、むしろそれらを促した。


そして東西冷戦の象徴であったベルリンの壁が崩壊したのを機に、東欧諸国でも自由化・民主化が進行していったのである。

この動きはソ連解体へとつながり、東西冷戦はこうして終焉を迎えたのである。



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