マルクス ケインズ 失業

1920年代のイギリスでは百万人規模の慢性的な失業者が発生していた。

世界恐慌による経済打撃がこれを後押しして、1930年代には実に300万人にも失業者が膨れ上がっていた。

この事態に直面したケインズは、必要に迫られて新しいものを生み出すことになる。


ケインズは伝統的な経済学の理論だけでは今の失業者問題は解決できないと思い、

問題となっていた働きたくても職を得ることのできない失業者たちの存在に焦点を合わせて理論を組み立ててみた。


労働市場で需要が不足しているときはどうしても失業者の発生を防ぐことはできないという

不完全雇用を前提としたところに、ケインズの特徴を見ることができる。


伝統的な理論の問題は、働きたいと希望する人はそもそも全員が雇われるという完全雇用が前提となっていたのである。

失業者とは離職直後から次の職につく間の一時的な失業か、

自発的に働く意思を見せないための失業かで、いずれにしても働きたいと思えば

いつでも職を見つけることができる状態が伝統的な理論の出発地点であった。


この従来の理論では失業者が発生する理由を、労働市場における重要と供給を

均衡させる賃金率よりも高い賃金であることによって説明する以外なかったのである。

高すぎる賃金の切り下げを労働組合が許さず、雇用主としては

一定の雇用賃金上限に達していることから更なる雇用を求めることがなく、

その結果として雇用が縮小して失業者につながっている、というものであった。


賃金が下がれば雇用主は下がった分で別の新たな雇用を生むことができ、労働市場に供給が発生して需要が満たされる。

この繰り返しを続ける限りは全ての人が雇用されることにつながる。

これが伝統理論での失業者の発生原因であるから、失業の原因は賃下げを認めない労働者たちにあると結論付けていた。


しかしこの理論では現実として慢性的に発生している失業者問題はいつまで経っても解決できない。

また、労働者たちに一方的に賃金切り下げを要求するのでは

労働者に対する搾取が一層ひどくなるばかりで景気回復に対する決定的な修復につながるとも思えない。


そこでケインズは投資者階級に注目して、景気が良くない時代には投資家たちが投資を躊躇して、

現金をそのまま資産として自分たちの手元に置きがちなことを指摘した。

人は誰でも危険性があるなら投資をすることはなく、貯蓄に回すだろう。

先祖代々から富裕層に蓄積されてきた富は社会に出回ることがなく、

ただ蓄積されているだけでそれが企業家に経営資金として投資されることはない。

投資家は、企業家に資金を投資して利益を得るということに若干でも危険を感じると、

現金で持っておいた方が安全であると判断しがちであるのだ。

 

 

 


従来の理論では経済活動の末端である労働者に失業の原因があるとされていたが、

ケインズはまるで逆の指摘を行い、大元の投資家にこそ責任があることを指摘した。

そして金融利子率を下げて、投資家が現金のまま手元に富を留めておくことをしにくい状況にすることで、
積極的な投資につなげることを提案した。

民間投資で足りないのならば、政府による大規模な公共投資が景気の活発化には欠かせないことを指摘した。


つまり、お金を持っている人はそれを貯蓄に回すのではなく、消費や投資に当てるように累進課税を導入するなどの工夫をすること。

それは貧しい人たちの貯蓄まで吐き出させることを意味しているのではなく、

豊かな人たちが貯めているお金を市場に循環させることが大事だと説いている。


投資が加われば供給につなげるために新たな労働需要が生まれる。

こうして非自発的失業は、有効需要の不足から生じているとケインズは結論付けたのだ。


その中でもケインズは公共投資によって経済の活性化と新たな雇用を生み出すことが、

失業者問題を解決する方法であると重要視した。

こうして失業者はidle manとして個人の責任にされていたものが、

社会の責任になり、政府が景気対策の前面におどりでたのである。


こうした上からの雇用供給は、景気変動を安定的に動かすための「ビルト・インスタビライザー」と呼ばれており、

それを操るのは国家であるという主張がケインズの論なのである。


マルクスの論で注目すべきは、失業者は仕事が足りてないから

はじき出された不幸な人たち、と労働者に同情的に考えているのではなく、

資本家が労働者から労働力を買うときに発生してしまったやむを得ないものが失業の正体である、と論じている点である。

労働力を使った生産過程で発生する「剰余価値」が資本家にとっての利益につながるものであるが、

自然状態にあるときにはそれを全て資本家が消費するのではなく、

少なくとも一部は更なる資本の蓄積に充当されて生産拡大につながってゆくとマルクスは説いた。


更なる生産拡大が可能であると見越した資本家は、

「剰余価値」によって得た富である「可変資本」を、更なる「剰余価値」を期待して

労働力の購入に充当させるが、そこでの必要な労働力の読み違えによって相対的な過剰人口として失業者が表面化してしまう。


「産業予備軍」とマルクスが呼ぶ失業者たちは、国家の政策上のミスではない。

また、賃上げを拒む労働組合や失業者自身のせいでもない。

必要とされる未知の労働力を正確に把握できなかった資本家の過ちでもない。

ただ、経済活動をしてゆく中で仕方なく発生してしまうもの、すなわち必要悪なのである。


そして、この「産業予備軍」たちは必要な人手が他の部門の生産を害することなく

入手可能な便利な存在になるし、資本主義的生産が自由に営まれるためには、

労働者人口の自然的限度に制限されない産業予備軍の存在が不可欠なのであると

マルクスは結論付けて、失業者たちをあくまで肯定的なものとして認識している。


ケインズは市場だけでは解決できない問題において、

公共事業という切り札を持つ国家が唯一解決可能な存在だと捉えていたが、

マルクスにおいては国家にその役割を要求せず、

政治解放された投資家・企業家・労働者たちが経済活動の中で解決すべき問題とした。


マルクスにとって国家とは疎外された人間の類的本質が空想的に外在化されたものであって、

あくまで民衆は国家に何かの解決を求めるのではなく民主的に問題に向き合うべきだとした。

ケインズも政治の面ではあまり民間に干渉しない小さな国家を求めているが、

経済活動においては国家に労働供給をコントロールする大きな役割を期待している。

 

三跡 書道

日本書道史を考える上で、平安時代の三跡の存在は重要な転機。

彼らの事跡をたどり、日本書道史における三跡の書の意味をつらつらをお話してみたい。

ちょっと長くなってゴメンね、興味がある方はお付き合いいただけると嬉しい。

 

無文学の孤島である古代日本に、紀元前200年頃に大陸から中国語が流入してきた。

文化水準の低かった日本に対し、古代宗教文字を脱して政治文学化した小篆体が、文学の移動を実現したのであるから、

日本は言葉の面で中国語の影響を大きく受けることになる。

その後の大化の改新などで一応の政治的独立は遂げていったものの、

中国を見習った飛鳥文化や遣唐使に顕著なように、文化の面で日本は擬似中国文化であった。


国家をあげて中国の写経を学び、日本が最も中国文化に接近していた奈良文化を過ぎ、

平安時代になると日本文化は次第に中国のものをそのまま真似するだけに留まらず、

仏像彫刻や密教文化などに見られるように和様化が始まってくる。


書の世界においては平安初期に「三筆」が現れると書の文化が隆盛し、

中国の書を学び抜いた先にようやく日本的な表現を見出すに至ったが、未だに晋唐模倣の域を脱しなかった。

そもそも中国における書道は政治に利用される色合いが濃く、

過酷な中国政治を反映して筆尖を真っ直ぐに突く垂直筆や鋭利な表現が好まれていたが、

平安京の貴族たちは優雅なものだけを求めていたために自然と中国のものでは飽き足らなくなってきていた。


中国文学に近かった万葉仮名は、真仮名・草仮名を経て日本独自のものである平仮名(女手)へと姿を変えてゆく。

漢文を補助する記号として生まれた片仮名は日本語文法を形成してゆく。

漢字を元にしつつも原型が分からないほどにまで変容した和様漢字が誕生していった。

これらはみな、擬似中国文学の域をこえて中国文学にも後もどりすることのない

非可逆性の、独自の日本文学と呼ぶべきものなのであった。

 

 

 


平安中期に「三蹟」の一人、小野道風が和様書道を先駆ける。

道風の書には中国書道の代表格である王義之の影響がはっきりと残るものの、

日本的趣致の豊かな新しい書風すなわち和様を創始したと言われる。

「智証大師諡号勅書」に始まって「屏風土代」に至るときには

すでにゆったりとした丸みや豊かさをたたえた、日本独自の和様の書が表れている。

「智証大師諡号勅書」においてはまだ全体の文字の大きさや重量感を残した書き方に

王義之の影響は顕著であるが、筆の入り方はすでに中国の垂直筆を崩しており、

優しく入り重く終わるというリズムによって和様漢字のはしりを見ることができる。


「屏風土代」ではより文字は細くなり、筆の入れ方は三折法ではなく

優しい側筆が全体的に取り入れられていて、「智証大師諡号勅書」と較べると文字の終わり方もやや抑制をきかせている。

「柳」の最終画に表れているように長く伸ばして優しく払って終わるところには鋭利な中国の書のイメージはない。

没落していた小野氏の出身である道風は、藤原氏全盛の時代にいたのであり、

藤原氏以外の者が世に重んじられるには自身の才能を高めること以外に術がなかった。

 


「柳に蛙」のエピソードで知られるが、若い頃の道風は書がなかなか上手くゆかず悩んでいたが、

ある時枝垂れた柳の下で蛙が跳んで枝に移ろうとしているのを見た。

最初は届かなくても次第に高く跳んで、後には蛙は枝に移ることができた。

この蛙の姿を見て道風は努力と向上の必要性を悟り、和様漢字を創り上げて世に出ることができた。

道風自身の独特の型にはめながら文字を書くので、

道風の書跡はすべて一様であり、変化が無いと言われるように、

和様のはしりではあるが、道風一人の書では優雅で柔らかい和様の到達にはまだ届いていない。


藤原佐理の書は異端だ。「離洛帖」での運筆の速さから生じる線の極端な肥痩は見ていてドラマティックでおもしろい。

過度の傾筆と側筆で書かれていて筆力も強く、文字もところどころ片仮名に近く変化されているなど、

統一感を崩すような書には束縛やルールから解き放たれた佐理の自由な発想を伺うことができる。

一筆で書き流す「一墨之様」の草書の特徴があり、他者には見られないスピード感のある運筆が佐理である。

道風の次の世代の人である佐理は道風が生み出した和様の書を基とはしているが、

生まれてきた「和様漢字」を停滞させることなく次の変化の風を吹き込み、

優美さは後進したかもしれないが、道風にはなかった書におもしろさを与え、

「和様漢字」の新しいアイディアを強烈に提案したという意味で重要である。


佐理は藤原氏全盛の時代に藤原氏の一人であるから、何もしなくても恵まれた立場にあった。

出身ゆえに恵まれた官職につき、しかし生来が理非をわきまえず非常識人と言われる佐理は、

その恵まれた出身ゆえに与えられた職務を全うするのは困難があったのだろうと想像するのは容易であるから、

佐理の本当の性質と能力は彼の独自の書にこそ向かったのではなかったのか。

そう考えれば、道風のように世に対してのやり切れない思いが、佐理の書に新しい風を生むことになったのだ。


その佐理の次の世代の人である藤原行成は、道風様を踏襲しつつも「和様書風」に調和と統一感をもたらし、

華やかな藤原文化最盛期に相応しい優雅な書へと完成させた人物である。

「白氏詩巻」に見られる蛇行筆蝕では和様風に優しく抑制を利かせていながらも、

時折そこに中国的な垂直線をのぞかせることで緊張感を作り出しているのが印象的である。

側筆を用い、繊細ながらも「嵩山」の二字のように複雑な文字運びに抑揚を利かせ、

優美さを全面的に漂わせながらも全体に中国漢字の緊張感さえ秘めている。

 


「月」の最終二画のように中国漢字では二画であるはずの箇所を一筆で流したところに、平仮名の影響を見ることができる。

中国漢字の緊張感という美点を踏襲しながらも、道風が先駆けた和様の路線を取りつつ、

佐理の極端な抑揚法に流されることもなく、そのどの良い点をまとめたかのような印象が行成の書にはある。

これは「円満な人格者」(藤原佐理)として藤原道長に重用され、

名門藤原氏出身の能吏として名を上げ、人格・政治手腕・書という芸術の3つもの分野で

才能に恵まれた行成ならではの平衡が取れた優美な和様漢字の完成という到達点である。


このように三跡のスタイルは三者三様であったが、いずれが欠けても

中国書道から脱却して日本独特の和様の書を完成させることはできなかったであろう。

道風の必死の創始によって和様書風は命を得たが、必死だったが故に安定を得るべくもない。

佐理の鬱積した奇才によって変化という風が得られ、和様は停滞することなく次の到達を模索したが、

バランスよく満たされた行成の才能によってそれが完成した。

ちょうど続いた三世代に三跡が現れて、生み、変化させ、まとめる。

こうして三跡の存在は日本書道史における重要な転機となったのだ。

 

産業革命 市民革命

人間は太古の昔から様々な宗教の価値観によって物事を把握し生活をしてきた。

それが近代になると宗教的個人主義が生まれて、

19世紀の産業革命と市民革命という二重革命によってさらに思想が転換されてゆく。

そこで交わされた議論のひとつが現代の社会学として、それまでにはなかった学問として成立するに至っている。

二重革命以降の社会思想を大別すると

「自由主義」・「急進主義」・「保守主義」の3つのイデオロギーが生まれたことになる。


「自由主義」ではあらゆる価値の重点をそれ以前の「集団」から、「個人」へと変換させた。

「急進主義」では自由主義で叫ばれた個人の権利を強調して「権力」の獲得に自己献身的な立場を取った。


個人的な「権利」を求めすぎるがあまり、自分の「権力」を増大させることばかりに急ぐ人を生むことがあったが、

自由主義が主張する個人の重要さを社会に知らしめるためには必要な存在であると言うこともできる。


「保守主義」では時代をさかのぼって「中世的な価値観」を再評価し、

自由主義が主張する個人の存在に制止をかけて、集団主義の優れた点を社会に問いかけた。

この保守主義がイデオロギーの核心に「中世的価値」をすえて社会的で生産的な秩序の安定を目指して議論を進めたことが

社会学に発展していく直接の原因になったのである。


そもそも18〜19世紀には古い行動様式と宗教的信念から解放されないといけないという意識が民衆の中にあふれていた。

人々は古代的な身分制度から人間を解放し、コミュニティーやギルドの中で

封じ込めてきた自主性と自由を解放するものが自由主義や急進主義だと考えて後押ししたのである。


その結果としてフランス革命が起こり、最早国家までもが教会や家族や地元社会に忠誠を誓わず、

個人主義による国家統制を決定づける動きを見せ始めていたのだ。

 

 

 


保守主義の反対は合理主義であり個人主義であるから、この世の中の動きとは正反対の観念を示すものである。

そうした個人解放の新しい流れをさまたげて、時代に逆行するものが保守主義である、と一般的には考えられていた。

保守主義は長い時間の中でも社会秩序を保ってきた中世ヨーロッパ人の体制復権を再度打ち出していたのである。

重要なのは、そのことが自由主義・急進主義に対して逆の価値観を示すことになり、

社会が個人主義の考え方に行き過ぎることを抑制する働きかけを行い、

ヨーロッパ思想史において「中世的価値」への再転換を促すという他にはない役割を果たした、ということである。


中世から近代にまたがるこのような社会的思想の変遷を経て社会学は誕生しているが、

保守主義の思想を引いている思想であるから本質的には保守的であるし、

個人から社会を捉える近代思想とは逆で、社会から個人を捉えようとする思想なのである。

資本主義社会という新しいものが人々の中に確立されれば、

それがどんなものであっても当然のように新しい矛盾や問題がそこには生まれてくる。

そこでは個人主義の観点からだけではどうしても解決できないものが当然あるのであり、

社会はそれを満たしてくれる別の考えを求めてゆくのである。


自立と対極する言葉に、社会集団や秩序というのがある。

民衆が経済的な自立を遂げて高度文明化が進んでゆくと、

一方では昔のようなコミュニティーを大事にしようという気持ちが人々の中に出てくる。


それは宗教や家族・会社などを個人と切り離して合理的に解釈しようとしても、

非人格的なものが社会を支えることはできないからだ。

いくら便利な世の中になっても、町に集まる人は社会の中で互いに結合されることはなく、農村地帯にこそ社会的な連帯があるのである。


ボナールは人間は社会の中で社会のためにのみ存在する。

社会は社会をもっぱら社会自体のために形成すると言って、個人に対する社会の優位を主張した。

ヘーゲルが個人が単なる集合のなかに分解していると描くことは、

個人を圧殺してしまうととらえたように、社会学の観点からすれば

個人は社会の一構成員としては捉えられるものの、社会を個人に分解することはできなかった。


保守主義の思想は過去から人々の間に脈々と受け継がれてきたものであり、

19世紀には一旦自由主義と急進主義に追いやられてしまったが、

現代では円滑な社会につながるものであると再び注目されてきている。

保守主義は中世的価値を再評価する動きをつくり、それが反近代主義として資本主義社会に開いた溝を埋めてゆく。

自己反省と形式化の試みは社会学の軸と言われるように、

進み過ぎてしまった社会に疑問を投げかけ、中世の良好な人間関係を取り戻そうとして

社会集団を評価するのが社会学の役割なのである。

 

密教美術

外国から異なる文化を取り入れ、未知のものと自国に既存のものを混ぜ合わせることで

 

自国の文化発展につなげる、というのは世界中で行われていた営みであったが、

 

それを当時最も盛んに行っていたのが唐の長安。

 


シルクロードを経て流れてきた胡風と呼ばれるペルシア文化やササン朝工芸が


長安では流行していたが、他にも宗教は中国古来の道教に加え

 

インドの仏教(密教)・イスラム教・景教(キリスト教の一派)などが伝わっており、

 

東アジアにおける最大の国際都市であった長安にはユーラシアや東アジアの周辺国は

 

留学生や留学僧を唐に派遣し、文化の吸収を図った。


その中で日本も遣唐使という形で人を長安に派遣していた。

 

遣唐使が日本に持ち帰ってきた文化は数多いが、

 

その中で入唐僧の弘法大師空海が広めた密教文化が後の日本美術史に与えた影響は大きい。


音楽や舞踏・文字・建築などの密教芸術もそうだが、


絵画と彫刻という密教の造形美術は既存の日本美術に刺激を与え、後の日本美術に大きな影響を及ぼしている。

 

 

 


密教という宗教は五感を中心とする人間の生の感覚表現を禁欲的に否定するのではなく、

 

そのボルテージを高めていく方向をとり、神が現実の姿として目の前にいない神道に較べれば

 

より身近で具体的な宗教であり、それまで封じ込めがちであった感性を開放するものという意味で斬新なもの。

 

インドのヤクシー像のように女性の豊満な肉体を官能的に、

 

そして写実的に表現する密教彫刻(東寺)や立体的で色彩豊かな

 

西院の両界曼荼羅のような密教の宗教画は、奈良時代までの日本美術にはないものだったし、

 

経典に定められた宗教世界を現実のものとして描き出す、というそれまでにない美術創作ルールを伝えることになった。

 


無論それ以前の日本にも独自の神々の世界があり、関連する美術文化があった。

 

異質の宗教が入り込んでくると、血みどろの闘争をして、立ち直ることができないほど、

 

相手を破壊しつくしてしまうものが通常であるが、


日本社会は密教を敵対視することなく上手に取り込んでいった。

 

かたちのない神々よりも、より具体的で刺激の強い仏像を求めてゆき、

 

仏像を身近なものとして認識するほうを社会は優先したのだ。


身近なものになると次第に密教は世俗化されてゆき、そこに仏像彫刻の需要が生まれる。

 

当然インドや唐から持ってきたそのままの形ではなく、日本なりに宗教も変容してゆく。

 

次第に密教の変化は「和様化」されるという道をたどることになる。


外国文化を取り入れつつも、彫刻家たちが持っていた奈良時代からの感覚と技が密教彫刻に活かされ、


独自の色を密教彫刻に重ねてゆくようになった。

 

 

密教仏像は元々石の文化としてインドでは誕生したが、

 

日本では中国からもたらされた檀像彫刻や日本の山岳信仰の影響があり木が主流になる。

 

それは木の持つ生命力を日本人は愛したからだろう。


遣唐使の終焉、唐の滅亡とともに大陸からの影響は薄れたが、かな文字や和歌、

 

大和絵など元々は唐からきた文化が「和様文化」として確立されていった藤原時代に、

 

仏像彫刻も日本人が昔から好んだ穏やかで繊細なものに同化されてゆき、

 

密教美術もまた、あたかも日本固有のもののように形を変えてゆく。

 


遣唐使中止以降、次第に密教本来の派手さや難解さは色を薄め、

 

日本人にとってもっとも身近な、平明な境地に置き換えられたのである。

 

京都で栄えた和歌の世界により近いものになって変容してゆく。


それは自然な文化の融合というものであろう。

 

密教文化が和様に変化したものの代表作として、平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像がある。

 

題材の阿弥陀如来は密教の五大明王の一人であるが、

 

鳳凰堂の阿弥陀如来の風貌はふっくらとした美人系の顔立ちであって、見るからに優しさが漂う。


衣の文線のゆるやかな流れ、わずかに背中を丸めて胸を引いた自然体な佇まいにも優雅さがあり、


このような洗練された仏像こそが藤原貴族たちに求められていたものであろう。

 

貴族らは寺院を一種の別荘のように考えていたのであって、彫刻は装飾品の一部としての位置づけをされる傾向にあった。

 


坐像の周囲には極楽浄土の世界がパノラマのように飾られている。

 

密教の難解な教義に興味を示さなかった平安貴族たちが求めたのはもっと簡単な、

 

極言すれば手を合わせるだけで救われるという都合の良い宗教であった。


こうして要求されるものが変わってくる中で、仏像は見るからに恐ろしい姿形をしたものではなく、

 

いかにもありがたそうなものが主流になり、

 

次第に表情もまるでインド風のエキゾチックなものから日本人のように穏やかものに変わってくる。

 

定朝の作り上げたこの阿弥陀如来坐像こそが和様仏像の典型、

 

「定朝様」として日本の彫刻美術に新しいスタンダードを確立した。

 

マイナスの面をあげれば、この和様によって本来の彫刻にあるべき

 

立体的に彫り込むことが軽視され、まるで絵に描いたように平面なものになった。


密教の高度な精神世界の中の阿弥陀如来としてではなく、ただ単に救われるために

 

手を合わせる対象としての仏像になり、宗教の精神面は衰退していったのである。


こうして藤原時代に和様仏像の古典様式が確立されていった。


大半日本人がいかにも好む優美で優しい仏像こそが、

 

最終的に遣唐使が持ち帰った密教から発展していった日本美術の到達点なのだ。

 

万葉集 歌

『三輪山をしかも隠すか雲だにも情あらなぬ隠さふべしや』額田王(巻一・十八)

我々はこの歌に、万葉時代の典型的な美学・事情を見出すことができる。

この歌を詠んだ額田王に関しての詳しい資料は何も残っていないが、

名前から当時の王族、若しくはそれに準ずる身分の女性であったことは分かる。


これは、自身で詠った長歌への反歌。

奈良の三輪山の美しい輪郭を遮る雲に対して、あたかも人に対してのように、

意味のない祈りを捧げるという姿はなんと叙情に溢れた、美しい姿を想像させるのだろう。


三輪山の向こうには己の愛しい人でもいて、その人に対しての恋情を詠わずにはいられなかった、

旅路の女性、という景色が脳裏に浮かんでくるかのようだ。


しかし、本当はそんな美しいものだけではない。

この歌は、大和から近江への遷都が実行された時に額田王が詠んだものである。


三輪山を隠す雲は、自然の抵抗であり、怒りであろう。

三輪山は、今まで暮らしていた思い出深い大和の地を象徴している。

額田王は、遷都により離れなければならなくなった大和の地を惜しんでこの歌を詠んだのである。

惜しむ心だけではなかったのかもしれない。


遷都をするのだから見知らぬ土地での生活への不安は拭い去れなかったであろう。

額田王は、遷都に対して反対だったのかもしれない。

その気持ちを、三輪山に雲がかかる、という表現にして、ささやかな抵抗を試みたとも考えることができる。

万葉集の詠まれた時代は、権力者たちの強い力が存在していた。

反体制的なことを詠うことが叶わないが、人の心は常にどこかへ発散されるものである。

それはこの歌のように、表向きには詠われないが、必ずどこかに潜んでいた。

抑えられた分、その思いは激しい情熱となり、己を振るわせる感動となっているのである。


愛しい三輪山(大和)を隠してしまう雲(支配者である天智天皇)よ、思いやりも必要だ、

隠してはならぬ、隠してならないものなのだ、と心の中で強く反発する額田王が易々と想像できる。


そこには権力者へのささやかな抵抗と、一方では決まった遷都を受け入れつつも、

しかし大和を惜しむ心が同居していて、なんとも複雑である。

この複雑さと、表向きの旅情と慕情が混合し、なんとも独自の世界を創り上げている。


全体的には現実から抜け出たような寂しさが「もののあはれ」の世界であり、

ほんの一握りの有閑貴族たち特有の美学がよく現れている。

このような表向きの儚さと、時代に押し殺された本音が万葉集の根底に流れるものである。

 

 

 


また、歌には様々な使われ方があった。例えば、次のような歌がある。

『千万の軍なりとも言挙せず取りて来ぬべき男とぞ念ふ』高橋虫麿(巻六・九七二)


言葉だけを読めば、なんと勇ましい歌であろうか。

色々事情があるだろうが、黙って敵の大軍を撃退してくることが男だと、これから戦場に赴く相手を称える姿が思い浮かぶ。

勇ましい中身とは裏腹に、なんとも美しい言葉の連なり、そして最後を濁さずはっきりと締めくくったこの歌は、

裏の事情を思いやるかすかな「もののあはれ」を匂わせつつ、しかし勇敢な男らしい歌である。


そうはいえども、もちろんそれだけでは完結しないのがこの当時の歌である。

これは、歌を詠うぐらいでしか己の存在を誇示できなかった歌人虫麿が、

絶対権力者藤原不比等の三男で、軍事責任者という重任として赴任する藤原宇合に対して捧げたいわばご機嫌取りの歌である。


お世辞の歌と分かれば歌の魅力も色あせそうなものだが、

そうではないのは歌自体の勇ましくも美しい響きによるものであろう。

このような使い方をされる歌もあったのだ。

 

万葉集にはこの二例のように本音と建前が混在する歌が多いが、そうではない例もある。

『験なき物を思はずは一坏の濁れる酒を飲むべくあるらし』大伴旅人(巻三・三三八)

この歌自身には全く裏がない。

歌からは豪傑が酒を飲みながら高笑いをする様が浮かんでくるようだ。

歌という高尚な形態をとっているが、「一坏の」「濁れる」などという言葉を選んだ様には、

素朴な人間性が窺われるようだ。どこまでも真っ直ぐな歌である。


歌自身に表しかなくとも、この歌い手の人生を知ると歌の意味は一変する。

大伴という名家の家長として一時は大納言の位にまで出世したのが大伴旅人である。

だが、藤原氏の台頭により太宰府へ左遷され、また大宰府では愛妻を亡くし、恵まれない晩年を送った。


そういう人生を経てきた旅人が詠んだ歌である。

「験なき物」には藤原氏への嫉妬や羨望、憎しみもあろう。

落ちぶれてしまった大伴家に対する想いもあろう。

また、長年連れ添った妻に対する個人的な気持ちもあろう。


そういったことを乗り越えて、一坏の濁り酒を飲むことの楽しみを詠った旅人の気持ちを想うと胸に響くものがある。

歌の言葉を詠んで分かる思いではなく、歌い手の名前の人生を知って始めて分かる思いである。

また、いかに高い身分の人間だろうとも、人間である限り悩みも楽しみも同じだ、という教訓が読み取れるかのようだ。


このように、万葉集には歌自体から真意が読み取れないものもある。

だが、一歩突っ込んで調べてみると、それぞれの歌に意味があり、その意味は現代に生きる私たちにも強く響いてくるものである。

これが、時代を超えても色褪せない万葉集の魅力であろう。

 



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