川端康成 雪国

昭和初期の天皇を中心とした絶対専制的国家のなかで軍事色が強まることは、作家の活動範囲を狭めることに直結した。

ましてや、大正デモクラシーという開放的な時代の後であっただけに、

西洋近代化や女性の地位向上など長い時間を経てようやく確立しつつあったものが

進むべき道を塞がれ、自由な行動を制限されてしまったのだ。


文学は書かれた時代の社会的背景を抜きにして語ることはできない。

『蓼喰う蟲』や『雪国』は軍部の目を警戒する必要がある時代の作品であった。


世の動きに無関心であるわけがないのだが、それを批判することのできない時代。

当時の文化統制によって『雪国』に伏字や削除がされたことを受けて、川端は「文学者はたまったものではない」と言った。

文学は批評の心から始まるものである。

鬱積された文学者たちの気持ちが、この時代では別の形となって作品に表れている。


社会に深く関ることができなければ、次は個人的な心情を追求するしかない。

戦争を美化できなかった彼らは、もっと身近で非社会的なものを題材にした。

『蓼喰う蟲』や『雪国』では女性が題材として描かれている。


いずれの主人公も妻帯者でありながら、自分の気持ちや日常を妻に求めたり、

依存したりするのではなく、妻ではない別の女性に求めている。

この主人公たちの行動は作者たちの素直な心情ではなかったのか。

自分が現存する世の中こそが一番興味のあるはずの対象であるのに、社会背景によってその一番のテーマを放棄せざるを得なかった、

その思いが主人公に妻ではなく別の女性にテーマを求めさせる原因になったのではないのだろうか。


一方で、それは歓迎すべき時代の推移でもあった。

日本社会の近代化、それは西洋化を意味したが、それが進んでいることを文学でも確認することができる。

それまでのような男尊女卑の封建社会はまだ残っていたにしろ、

この作品のように女性の存在が大きく取り上げられた通り、次第に女性の地位が男性に近くなってきたのである。


女性を一人の人格として見ようとする態度は、性的な対象としてだけ見る傾向にあった封建的な社会にはなかったものである。

男性と女性のありかたが変わりつつある時代の一面がここにある。


両作品の主人公は社会的に無気力だという点で、内面も行動も共通している。

『蓼喰う蟲』の要は、いずれは離婚すると自らで結論付けておきながら、実行できないまま時を垂れ流している。

『雪国』の島村は仕事もせずに親の財産で生活をし、妻子を残して一人で自分探しの山登りにでかけ、

実際に見たこともない西洋舞踏に机上の論を語るような浮ついた男である。


この主人公たちは作家の自己像であったに違いない。

谷崎は妻の千代を佐藤春夫に引渡し、住まいも関西に移すという生活の大転換を経験し、古い生活からの脱却を望んでいた。

川端は表現を抑制される時代に閉口し、その虚無のなかで何とか活路を見出そうとしている時期であった。


個人の自由や主張が抑制された時代に、覇気に満ちた主人公は生まれない。

彼らは作家の自己像であったと同時に、時代と社会に生き甲斐を奪われ、

生きる意味を見失ってしまった当時の男性像でもあった。

そんな無気力な彼ら男性が、時代にも社会状況にも左右されずにマイペースで生きる、

彼らにとっては不思議な存在を見つける。それが作品中の女性たちである。


要は妻を愛することができなかったし、かといって慰み物にはしなかった。

妻という女性に対しての感情は何もない。

神でもなく、玩具でもないニュートラルな位置付けに妻を置いたままである。


お久には古典的な女性像を投影し、古典芸術や文楽人形の姿を重ねる。

理想の女性像であり、美しさの象徴としての女がお久だ。

これは同時に母親像につながっている。

要は現実の身近な女性である妻を愛せずに、古典的な理想の女性を探しているのである。

駒子とは対照的な女性像である。個性の乏しい、受身の昔の女だ。

男から愛されるだけの玩具だ。


ルイズにはモダンな異国興味を持っている。

性欲の対象としての相手だが、結局深く入り込むことはない。

あくまで生理的な要求の一環としてのうわべの相手である。

相手に心を求めようとはせず、破ろうとしない幻想を抱いているだけなのだ。

 

 

 


この3人の女性は、要のなかではどこかで重なり合うことがなく、各々が独立している。

要は現実の女性を誰一人として愛そうとはしない。

結局お久に文楽人形を投影させるだけ投影させ、最後は玩具と理想を混同させてしまうのである。


島村の態度から妻への興味は感じられない。

駒子と関係してから、駒子に一方的なイメージを植え付けていた。

それまでの苦難の人生や決して清潔だとはいえないはずの生業を知っているくせに

駒子を清潔だと思い込み、子供の頃から日記をつけたり、

読んだ小説の筋や登場人物を記録したり、特段深い関係でもない幼馴染みに

自分で稼いだお金をつぎ込んだりするのが徒労だと決め付ける。


その割に、駒子の三味線の音を聴いて急にイメージを変えたりする。

田舎芸者のお遊戯のような芸だと思って見下していた三味線の音に、ふと戸惑う。

徒労と決め付けたのは女性を見下す男の旧態然としたエゴであろう。

突然その徒労が意味のある美しい徒労だと思うようになる。


この変化は島村にとっては大きい。古い自分を脱却することのできる変化である。

川端の自己に対する希望を、島村の変化に託しているようである。

そうしていつの間にか駒子は理想の清潔な女性像になった。


要もお久という存在に新しいものを見つけて己を停滞から脱却させようとしている。

そのためにお久を文楽人形になぞらえる必要があった。


一見徒労に見える駒子の行動には情熱があることに島村は気が付く。

それは、島村にはない情熱である。

当時の男たちから喪われてしまった情熱であった。

その情熱が、島村や男たちからすれば不思議なところで輝いている。


駒子が放つこの美しさはお久とは対照的だ。

自分の意志や力で生き、そこで輝く美しさ。

他者に依存するだけお久とは違う。

女性に新しい価値を求めた両主人公だが、島村は当時にもなかなかみられないような未来的な女性を理想とし、

要は逆に古い女性像に理想を重ねる。

同じ理想の女性像でも正反対である。

だが、それは要にとっては己を脱却させてくれる輝かしい存在であったのだ。


また、『雪国』には現実離れした、男のための女性像がある。

病人を献身的に介護し、死んだ後も墓参りを欠かさない。

非現実的なまでに美しく描かれる葉子という女だ。

子供に接する母親のように全てを包み込んでくれる葉子は、島村が理想とする生活を具現化したものだったのだろう。

この女性像はお久と一致する。


作中の女性が輝く一方で、何もすることのない両主人公の虚しさがある。

彼ら男性たちからは意欲が感じられない。

だが、そうだからといって絶望しているわけでもない。

自身に対する真面目さも失いたくないという態度は感じられる。

島村は自分自身を取り戻すためといって山に登っているのだし、

要は「たった一人の女を守って行きたい」という気持ちを青年時代から持ち越している男である。


考えようとしつつも輝くことができない男性がおり、その対極として、考えないがいつも前向きな女性の姿がある。

時代に思想と行動を抑制された男たちの無力さと、

そんな時代のなかでも時代とは関係なく強く美しく生きている女性の様。

当時の社会では輝くことのできなかった男たちにかえて、女性たちの美しさが描かれた作品であった。


島村は駒子の行動を徒労と感じるが、駒子はそうとは思っていない。

ありのままの行動をして、ありのままの自分で生きるだけだ。

それが不思議と島村の心捉える。

捉えると、逆に島村自身の空しさが浮かび上がってくる。

この対極が美しい。

社会に逆らえず、島村のように無気力になっているのが一般的な民衆であろう。

その一方で、ありのままを出して輝いているのが一握りの民衆であろう。


明確な形をとっていなくても、駒子の姿自体が時代に対する反逆なのである。

島村の怠惰な生活自体が、国家に忠実であることを求められる当時の民衆に対する反逆なのである。

3人の女性像のなかから、最も古典的で非現実的なお久を選んだ要の行動も、

当時の社会に逆行するという形の批判なのである。


正面から時代に向かうことのできない状況下で、昭和の文学者たちの批評の精神が燃え上がり、

直接的な時代への反抗ではなく、間接的な批評に向かった。

それがこの両作品にはこめられている。

 



マルクス ケインズ 失業

1920年代のイギリスでは百万人規模の慢性的な失業者が発生していた。

世界恐慌による経済打撃がこれを後押しして、1930年代には実に300万人にも失業者が膨れ上がっていた。

この事態に直面したケインズは、必要に迫られて新しいものを生み出すことになる。


ケインズは伝統的な経済学の理論だけでは今の失業者問題は解決できないと思い、

問題となっていた働きたくても職を得ることのできない失業者たちの存在に焦点を合わせて理論を組み立ててみた。


労働市場で需要が不足しているときはどうしても失業者の発生を防ぐことはできないという

不完全雇用を前提としたところに、ケインズの特徴を見ることができる。


伝統的な理論の問題は、働きたいと希望する人はそもそも全員が雇われるという完全雇用が前提となっていたのである。

失業者とは離職直後から次の職につく間の一時的な失業か、

自発的に働く意思を見せないための失業かで、いずれにしても働きたいと思えば

いつでも職を見つけることができる状態が伝統的な理論の出発地点であった。


この従来の理論では失業者が発生する理由を、労働市場における重要と供給を

均衡させる賃金率よりも高い賃金であることによって説明する以外なかったのである。

高すぎる賃金の切り下げを労働組合が許さず、雇用主としては

一定の雇用賃金上限に達していることから更なる雇用を求めることがなく、

その結果として雇用が縮小して失業者につながっている、というものであった。


賃金が下がれば雇用主は下がった分で別の新たな雇用を生むことができ、労働市場に供給が発生して需要が満たされる。

この繰り返しを続ける限りは全ての人が雇用されることにつながる。

これが伝統理論での失業者の発生原因であるから、失業の原因は賃下げを認めない労働者たちにあると結論付けていた。


しかしこの理論では現実として慢性的に発生している失業者問題はいつまで経っても解決できない。

また、労働者たちに一方的に賃金切り下げを要求するのでは

労働者に対する搾取が一層ひどくなるばかりで景気回復に対する決定的な修復につながるとも思えない。


そこでケインズは投資者階級に注目して、景気が良くない時代には投資家たちが投資を躊躇して、

現金をそのまま資産として自分たちの手元に置きがちなことを指摘した。

人は誰でも危険性があるなら投資をすることはなく、貯蓄に回すだろう。

先祖代々から富裕層に蓄積されてきた富は社会に出回ることがなく、

ただ蓄積されているだけでそれが企業家に経営資金として投資されることはない。

投資家は、企業家に資金を投資して利益を得るということに若干でも危険を感じると、

現金で持っておいた方が安全であると判断しがちであるのだ。

 

 

 


従来の理論では経済活動の末端である労働者に失業の原因があるとされていたが、

ケインズはまるで逆の指摘を行い、大元の投資家にこそ責任があることを指摘した。

そして金融利子率を下げて、投資家が現金のまま手元に富を留めておくことをしにくい状況にすることで、
積極的な投資につなげることを提案した。

民間投資で足りないのならば、政府による大規模な公共投資が景気の活発化には欠かせないことを指摘した。


つまり、お金を持っている人はそれを貯蓄に回すのではなく、消費や投資に当てるように累進課税を導入するなどの工夫をすること。

それは貧しい人たちの貯蓄まで吐き出させることを意味しているのではなく、

豊かな人たちが貯めているお金を市場に循環させることが大事だと説いている。


投資が加われば供給につなげるために新たな労働需要が生まれる。

こうして非自発的失業は、有効需要の不足から生じているとケインズは結論付けたのだ。


その中でもケインズは公共投資によって経済の活性化と新たな雇用を生み出すことが、

失業者問題を解決する方法であると重要視した。

こうして失業者はidle manとして個人の責任にされていたものが、

社会の責任になり、政府が景気対策の前面におどりでたのである。


こうした上からの雇用供給は、景気変動を安定的に動かすための「ビルト・インスタビライザー」と呼ばれており、

それを操るのは国家であるという主張がケインズの論なのである。


マルクスの論で注目すべきは、失業者は仕事が足りてないから

はじき出された不幸な人たち、と労働者に同情的に考えているのではなく、

資本家が労働者から労働力を買うときに発生してしまったやむを得ないものが失業の正体である、と論じている点である。

労働力を使った生産過程で発生する「剰余価値」が資本家にとっての利益につながるものであるが、

自然状態にあるときにはそれを全て資本家が消費するのではなく、

少なくとも一部は更なる資本の蓄積に充当されて生産拡大につながってゆくとマルクスは説いた。


更なる生産拡大が可能であると見越した資本家は、

「剰余価値」によって得た富である「可変資本」を、更なる「剰余価値」を期待して

労働力の購入に充当させるが、そこでの必要な労働力の読み違えによって相対的な過剰人口として失業者が表面化してしまう。


「産業予備軍」とマルクスが呼ぶ失業者たちは、国家の政策上のミスではない。

また、賃上げを拒む労働組合や失業者自身のせいでもない。

必要とされる未知の労働力を正確に把握できなかった資本家の過ちでもない。

ただ、経済活動をしてゆく中で仕方なく発生してしまうもの、すなわち必要悪なのである。


そして、この「産業予備軍」たちは必要な人手が他の部門の生産を害することなく

入手可能な便利な存在になるし、資本主義的生産が自由に営まれるためには、

労働者人口の自然的限度に制限されない産業予備軍の存在が不可欠なのであると

マルクスは結論付けて、失業者たちをあくまで肯定的なものとして認識している。


ケインズは市場だけでは解決できない問題において、

公共事業という切り札を持つ国家が唯一解決可能な存在だと捉えていたが、

マルクスにおいては国家にその役割を要求せず、

政治解放された投資家・企業家・労働者たちが経済活動の中で解決すべき問題とした。


マルクスにとって国家とは疎外された人間の類的本質が空想的に外在化されたものであって、

あくまで民衆は国家に何かの解決を求めるのではなく民主的に問題に向き合うべきだとした。

ケインズも政治の面ではあまり民間に干渉しない小さな国家を求めているが、

経済活動においては国家に労働供給をコントロールする大きな役割を期待している。

 



三跡 書道

日本書道史を考える上で、平安時代の三跡の存在は重要な転機。

彼らの事跡をたどり、日本書道史における三跡の書の意味をつらつらをお話してみたい。

ちょっと長くなってゴメンね、興味がある方はお付き合いいただけると嬉しい。

 

無文学の孤島である古代日本に、紀元前200年頃に大陸から中国語が流入してきた。

文化水準の低かった日本に対し、古代宗教文字を脱して政治文学化した小篆体が、文学の移動を実現したのであるから、

日本は言葉の面で中国語の影響を大きく受けることになる。

その後の大化の改新などで一応の政治的独立は遂げていったものの、

中国を見習った飛鳥文化や遣唐使に顕著なように、文化の面で日本は擬似中国文化であった。


国家をあげて中国の写経を学び、日本が最も中国文化に接近していた奈良文化を過ぎ、

平安時代になると日本文化は次第に中国のものをそのまま真似するだけに留まらず、

仏像彫刻や密教文化などに見られるように和様化が始まってくる。


書の世界においては平安初期に「三筆」が現れると書の文化が隆盛し、

中国の書を学び抜いた先にようやく日本的な表現を見出すに至ったが、未だに晋唐模倣の域を脱しなかった。

そもそも中国における書道は政治に利用される色合いが濃く、

過酷な中国政治を反映して筆尖を真っ直ぐに突く垂直筆や鋭利な表現が好まれていたが、

平安京の貴族たちは優雅なものだけを求めていたために自然と中国のものでは飽き足らなくなってきていた。


中国文学に近かった万葉仮名は、真仮名・草仮名を経て日本独自のものである平仮名(女手)へと姿を変えてゆく。

漢文を補助する記号として生まれた片仮名は日本語文法を形成してゆく。

漢字を元にしつつも原型が分からないほどにまで変容した和様漢字が誕生していった。

これらはみな、擬似中国文学の域をこえて中国文学にも後もどりすることのない

非可逆性の、独自の日本文学と呼ぶべきものなのであった。

 

 

 


平安中期に「三蹟」の一人、小野道風が和様書道を先駆ける。

道風の書には中国書道の代表格である王義之の影響がはっきりと残るものの、

日本的趣致の豊かな新しい書風すなわち和様を創始したと言われる。

「智証大師諡号勅書」に始まって「屏風土代」に至るときには

すでにゆったりとした丸みや豊かさをたたえた、日本独自の和様の書が表れている。

「智証大師諡号勅書」においてはまだ全体の文字の大きさや重量感を残した書き方に

王義之の影響は顕著であるが、筆の入り方はすでに中国の垂直筆を崩しており、

優しく入り重く終わるというリズムによって和様漢字のはしりを見ることができる。


「屏風土代」ではより文字は細くなり、筆の入れ方は三折法ではなく

優しい側筆が全体的に取り入れられていて、「智証大師諡号勅書」と較べると文字の終わり方もやや抑制をきかせている。

「柳」の最終画に表れているように長く伸ばして優しく払って終わるところには鋭利な中国の書のイメージはない。

没落していた小野氏の出身である道風は、藤原氏全盛の時代にいたのであり、

藤原氏以外の者が世に重んじられるには自身の才能を高めること以外に術がなかった。

 


「柳に蛙」のエピソードで知られるが、若い頃の道風は書がなかなか上手くゆかず悩んでいたが、

ある時枝垂れた柳の下で蛙が跳んで枝に移ろうとしているのを見た。

最初は届かなくても次第に高く跳んで、後には蛙は枝に移ることができた。

この蛙の姿を見て道風は努力と向上の必要性を悟り、和様漢字を創り上げて世に出ることができた。

道風自身の独特の型にはめながら文字を書くので、

道風の書跡はすべて一様であり、変化が無いと言われるように、

和様のはしりではあるが、道風一人の書では優雅で柔らかい和様の到達にはまだ届いていない。


藤原佐理の書は異端だ。「離洛帖」での運筆の速さから生じる線の極端な肥痩は見ていてドラマティックでおもしろい。

過度の傾筆と側筆で書かれていて筆力も強く、文字もところどころ片仮名に近く変化されているなど、

統一感を崩すような書には束縛やルールから解き放たれた佐理の自由な発想を伺うことができる。

一筆で書き流す「一墨之様」の草書の特徴があり、他者には見られないスピード感のある運筆が佐理である。

道風の次の世代の人である佐理は道風が生み出した和様の書を基とはしているが、

生まれてきた「和様漢字」を停滞させることなく次の変化の風を吹き込み、

優美さは後進したかもしれないが、道風にはなかった書におもしろさを与え、

「和様漢字」の新しいアイディアを強烈に提案したという意味で重要である。


佐理は藤原氏全盛の時代に藤原氏の一人であるから、何もしなくても恵まれた立場にあった。

出身ゆえに恵まれた官職につき、しかし生来が理非をわきまえず非常識人と言われる佐理は、

その恵まれた出身ゆえに与えられた職務を全うするのは困難があったのだろうと想像するのは容易であるから、

佐理の本当の性質と能力は彼の独自の書にこそ向かったのではなかったのか。

そう考えれば、道風のように世に対してのやり切れない思いが、佐理の書に新しい風を生むことになったのだ。


その佐理の次の世代の人である藤原行成は、道風様を踏襲しつつも「和様書風」に調和と統一感をもたらし、

華やかな藤原文化最盛期に相応しい優雅な書へと完成させた人物である。

「白氏詩巻」に見られる蛇行筆蝕では和様風に優しく抑制を利かせていながらも、

時折そこに中国的な垂直線をのぞかせることで緊張感を作り出しているのが印象的である。

側筆を用い、繊細ながらも「嵩山」の二字のように複雑な文字運びに抑揚を利かせ、

優美さを全面的に漂わせながらも全体に中国漢字の緊張感さえ秘めている。

 


「月」の最終二画のように中国漢字では二画であるはずの箇所を一筆で流したところに、平仮名の影響を見ることができる。

中国漢字の緊張感という美点を踏襲しながらも、道風が先駆けた和様の路線を取りつつ、

佐理の極端な抑揚法に流されることもなく、そのどの良い点をまとめたかのような印象が行成の書にはある。

これは「円満な人格者」(藤原佐理)として藤原道長に重用され、

名門藤原氏出身の能吏として名を上げ、人格・政治手腕・書という芸術の3つもの分野で

才能に恵まれた行成ならではの平衡が取れた優美な和様漢字の完成という到達点である。


このように三跡のスタイルは三者三様であったが、いずれが欠けても

中国書道から脱却して日本独特の和様の書を完成させることはできなかったであろう。

道風の必死の創始によって和様書風は命を得たが、必死だったが故に安定を得るべくもない。

佐理の鬱積した奇才によって変化という風が得られ、和様は停滞することなく次の到達を模索したが、

バランスよく満たされた行成の才能によってそれが完成した。

ちょうど続いた三世代に三跡が現れて、生み、変化させ、まとめる。

こうして三跡の存在は日本書道史における重要な転機となったのだ。

 



産業革命 市民革命

人間は太古の昔から様々な宗教の価値観によって物事を把握し生活をしてきた。

それが近代になると宗教的個人主義が生まれて、

19世紀の産業革命と市民革命という二重革命によってさらに思想が転換されてゆく。

そこで交わされた議論のひとつが現代の社会学として、それまでにはなかった学問として成立するに至っている。

二重革命以降の社会思想を大別すると

「自由主義」・「急進主義」・「保守主義」の3つのイデオロギーが生まれたことになる。


「自由主義」ではあらゆる価値の重点をそれ以前の「集団」から、「個人」へと変換させた。

「急進主義」では自由主義で叫ばれた個人の権利を強調して「権力」の獲得に自己献身的な立場を取った。


個人的な「権利」を求めすぎるがあまり、自分の「権力」を増大させることばかりに急ぐ人を生むことがあったが、

自由主義が主張する個人の重要さを社会に知らしめるためには必要な存在であると言うこともできる。


「保守主義」では時代をさかのぼって「中世的な価値観」を再評価し、

自由主義が主張する個人の存在に制止をかけて、集団主義の優れた点を社会に問いかけた。

この保守主義がイデオロギーの核心に「中世的価値」をすえて社会的で生産的な秩序の安定を目指して議論を進めたことが

社会学に発展していく直接の原因になったのである。


そもそも18〜19世紀には古い行動様式と宗教的信念から解放されないといけないという意識が民衆の中にあふれていた。

人々は古代的な身分制度から人間を解放し、コミュニティーやギルドの中で

封じ込めてきた自主性と自由を解放するものが自由主義や急進主義だと考えて後押ししたのである。


その結果としてフランス革命が起こり、最早国家までもが教会や家族や地元社会に忠誠を誓わず、

個人主義による国家統制を決定づける動きを見せ始めていたのだ。

 

 

 


保守主義の反対は合理主義であり個人主義であるから、この世の中の動きとは正反対の観念を示すものである。

そうした個人解放の新しい流れをさまたげて、時代に逆行するものが保守主義である、と一般的には考えられていた。

保守主義は長い時間の中でも社会秩序を保ってきた中世ヨーロッパ人の体制復権を再度打ち出していたのである。

重要なのは、そのことが自由主義・急進主義に対して逆の価値観を示すことになり、

社会が個人主義の考え方に行き過ぎることを抑制する働きかけを行い、

ヨーロッパ思想史において「中世的価値」への再転換を促すという他にはない役割を果たした、ということである。


中世から近代にまたがるこのような社会的思想の変遷を経て社会学は誕生しているが、

保守主義の思想を引いている思想であるから本質的には保守的であるし、

個人から社会を捉える近代思想とは逆で、社会から個人を捉えようとする思想なのである。

資本主義社会という新しいものが人々の中に確立されれば、

それがどんなものであっても当然のように新しい矛盾や問題がそこには生まれてくる。

そこでは個人主義の観点からだけではどうしても解決できないものが当然あるのであり、

社会はそれを満たしてくれる別の考えを求めてゆくのである。


自立と対極する言葉に、社会集団や秩序というのがある。

民衆が経済的な自立を遂げて高度文明化が進んでゆくと、

一方では昔のようなコミュニティーを大事にしようという気持ちが人々の中に出てくる。


それは宗教や家族・会社などを個人と切り離して合理的に解釈しようとしても、

非人格的なものが社会を支えることはできないからだ。

いくら便利な世の中になっても、町に集まる人は社会の中で互いに結合されることはなく、農村地帯にこそ社会的な連帯があるのである。


ボナールは人間は社会の中で社会のためにのみ存在する。

社会は社会をもっぱら社会自体のために形成すると言って、個人に対する社会の優位を主張した。

ヘーゲルが個人が単なる集合のなかに分解していると描くことは、

個人を圧殺してしまうととらえたように、社会学の観点からすれば

個人は社会の一構成員としては捉えられるものの、社会を個人に分解することはできなかった。


保守主義の思想は過去から人々の間に脈々と受け継がれてきたものであり、

19世紀には一旦自由主義と急進主義に追いやられてしまったが、

現代では円滑な社会につながるものであると再び注目されてきている。

保守主義は中世的価値を再評価する動きをつくり、それが反近代主義として資本主義社会に開いた溝を埋めてゆく。

自己反省と形式化の試みは社会学の軸と言われるように、

進み過ぎてしまった社会に疑問を投げかけ、中世の良好な人間関係を取り戻そうとして

社会集団を評価するのが社会学の役割なのである。

 





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