イオンモール土岐

イオンモール土岐それ自体がオープンすることは、単純に楽しいなという思いしかない。

 

着目すべきは、イオンモールの投資力の連続性だと感じるのだよ。

 

東海地方に散りばめられた2016-2019年の新しい商業施設たち。

 

2016年の長久手イオン、2017年のアリオ赤池・長久手イケア、2018年のららぽーと東郷&ららぽーと名古屋。

 


それに続く2019年の新規オープンは、イオンモール土岐

 

この後に予定されている大型の新規商業施設は続いていない。

 

これで一通りのショッピングモールブランドの雄たちが出揃った。

 

 

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所詮、年とともに新しいものに変えて行かないと消費者に飽きられるのがショッピングモールのさだめ。

 

イオンモール土岐は岐阜県土岐市に新店舗を出し、この時の最新ノウハウを得る。

 

そして次はみよしイオンなのかどこか分からないが、次のイオンにその新しい手法を点火していくのではないか。

 

単発で話題をさらうのもいいが、総合力でトップを快走しそうなイオンモール勢。

 


新しい投資を継続することができるイオンの底力をイオンモール土岐の2019年オープン予定に見るようで

 

僕はある種の簡明に打たれ、思わず空を見上げていたのだ。

 

コストコ守山

大型商業施設ブームの残滓、というネーミングは失礼を意図していない。

コストコ守山が立ち上がる背景を考える時、嬉しいような悲しいような気になる。

名古屋市守山区中志段のその土地は、ユニーグループが元々は企画を練っていた。

「フォレストウォーク守山」、ウォークブランドの中でも大型案件になるはずだった。


リーマンショックが契機、2008-2009年にかけて世に出た悪魔の景気低迷。

あれが日本各地のショッピングモールプロジェクトに待ったをかけた。

例外に及ばず、フォレストウォーク守山は面積の縮小を余儀なくされた。

更に、時代は商業施設に厳しいどころか、スーパーマーケットにも過度の競争をかした。

結果、コストコ守山計画の前身・フォレストウォーク守山は凍結案件に。

 

 

 

 

さて、本題はコストコ守山のこと。

2018年にオープンする予定のコストコ守山、当初のユニーグループはどこへやら?

超大型ブランドの「フォレストウォーク」→ショッピングモールの「アピタ」→計画頓挫。

生まれ変わりはまさかのアメリカ資本の倉庫スタイル商業施設コストコ。

文脈を読むことに苦しむその移り変わり、思えばこれも時代の移り変わりだと。


日本スタイルのショッピングセンターはイオンしかり、ユニーしかり、アリオしかり、

もう一辺倒になっているから、消費者から飽きられて、爆発的な個性と集客が見込めない。

それに引き換えコストコ守山は、まだ東海3店舗目のコストコ、

認知度は高まっているとはいえ、物珍しさレベルではまだまだフレッシュな感じ。

その新しい切り口でなければ、フォレストウォーク守山跡地の商業的成功は見込めなかった。


ユニーグループが転進させて、コストコへ土地の権利譲渡か。

ショッピングモールの次を推進させてくれるのはコストコ、イケアになる気がする。

それらも10年もすれば一昔、またイオンやららぽーとに回帰することになるのでしょうか。

一歩を踏み出すコストコ守山、あなたの鮮度を10年単位で私は見守っているよ。

 

東大寺の大仏 高さ

東大寺の大仏の高さに、あなたは直感的に何を思うのでしょう?

東大寺を訪れる大人は割と冷静で、あまり感動や驚きの言葉を出さない。

でも、あの東大寺の大仏の高さを目の前にした時は、どんな人だって大きさにびっくりして、

驚嘆の言葉をあげたいはずなのに、大仏への畏敬の念があるから声を出すのを遠慮しているのかな。


東大寺の大仏は身長15m、体重250トンもあるよ、一体東京ドーム何個分?山手線何周分?

東大寺の大仏を造った聖武天皇は、この高さに絶対の自信を持っていたはず。

誰もが声をあげて驚き、魂を飛ばしてしまい、東大寺の大仏の高さ、ありがたさにひれ伏すはず。

そこには身分も職業も文化も、それから時代ですら関係がなく、人なら誰もに共通する仕掛け。

 

 

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千三百年の時の流れの前には、そのコンセプトも風化するのか?と思いきや、

私はとある場面で、東大寺の大仏の高さが、現代人の心にも強いインパクトを与えるのを見た。


東大寺の大仏を訪れる修学旅行生たち。

奈良駅からの道や奈良公園で見かける彼ら彼女らは、いっつも楽しそうに騒いでいて、

一番の興味は神鹿と鹿せんべいだから、動物園気分で奈良に来ているんだ、と軽く思っていた。


ところが、東大寺の本堂間際まで来て、あの東大寺の大仏の高さを

自分の目で確認した瞬間は、みんなが一様にその大きさに口を開けて驚いている。

あぁ、その反応が東大寺の大仏の高さを、物語っているよ!

 

 

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きっと千三百年前の大仏開眼式の時も、それから永らく続いてきた東大寺を訪れる人々の反応も、

この修学旅行生と変わらないものだったのでしょう。

つまりは人間の本性が修学旅行生たちの素直な表情に出ているのだと私は決めつけた。


なんて大きな大仏なのだ!

仏教のこと、仏像のルールは分からずとも、万人に伝わるものがあるから、

東大寺の大仏は高さで勝負しているんだ。

時代を超えて、年代・性別・嗜好さらには国籍だってお構いなしに、

東大寺の大仏の高さは、人間なら誰にでも、そのありがたさを伝えられる。

 

私はあなたが東大寺の大仏を見た時、どんな反応をするか想像する。

新しい反応?いいえ、直感は誰も裏切らないよ。

 

奈良の大仏 焼失

明智光秀と島左近が、奈良の大仏とすれ違っていた事実、想像だけでも歴史ファンの血が疼く。

伝説たちの遭遇、ただし決してキレイな状況で対峙したわけではない。


戦国時代、織田信長が桶狭間の戦いで勝利を収めた7年後の1567年のこと。

松永・三好の争い、俗称・東大寺大仏殿の戦い(許されないネーミングだ!)の兵火で、

東大寺大仏殿に加えて、奈良の大仏の仏頭が焼失している。

 

 

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信長に仕官する前の浪人時代に明智光秀が東大寺を訪れていたかは不明だが、

近畿一帯を攻略する全権を任された近畿管領を務めた役柄、

明智光秀は大仏殿がなく野ざらしになった焼失後の奈良の大仏を見たはず。


近畿一帯を攻略する全権を任された近畿管領を務めた役柄、彼は京の文化に通じた文化人の顔もある。

750年もの間、大和の寺社が守り続けてきた伝統を戦火で灰塵にしてしまった時代。

奈良の大仏の意味の重さですら、醜い利権争奪戦の前には価値を無くす。

 

 

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だから明智光秀と奈良の大仏の重さが交差した瞬間に美しい場面がない。

雨ざらしになり、仏頭を失った奈良の大仏を見上げて、明智光秀は感銘よりは無常を想ったことだろう。

平和を願い奈良の大仏を造立した聖武天皇の理想が、人災によって潰えた形。

明智光秀もまた、東大寺大仏殿の戦いの15年後には、戦によって命を落としている。


平和で幸せな現代人が見る奈良の大仏は、派手と明るさだけに満ちているようにも思える。

実体は、そんな歴史のページを幾つも経ている奈良の大仏だ、清濁を併せ持っている。

 

もうひとつのイメージを想い浮かべよう。

戦国時代、大和国の武将たちが東大寺・奈良の大仏の前で物思いにふける絵。

出陣の前、大きな決断の分かれ道に、奈良の大仏に助言を求め、ついつい訪れてしまうとか。


大和の有名な武将とは? 島左近、その御仁しかあるまい。

筒井順慶が大和国統一をした過程で、その右腕として戦術を請け負った希代の猛将だ。

島左近と奈良の大仏の遭遇、これも考えるだけでも歴史ロマンでウズウズしてくる。

 

 

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しかしそんな空想は現実のものではない。

東大寺大仏殿での戦火は島左近27歳のとき、それから奈良の大仏は焼失で仏頭がない。

大和国で生まれ育った者にとっては重い存在、奈良の大仏。

その重さに包まれ、島左近は育ってきたはずなのに。

戦場へ赴く前夜、東大寺大仏殿に島左近が歩いてくる。

共も連れずただ一人、半分失った奈良の大仏の姿を見上げながら一人思いに耽る。


そんなシーンを想うたび、涙が出るような美しさを感じ、奈良の大仏の大きさを知る。

夢幻だったようだ、そんな島左近と奈良の大仏の共演は。

奈良の大仏の頭部や、大仏殿そのものが焼け落ちてしまった後、島左近は何を思ったのか。

これも大きいお話、奈良の大仏の存在の大切さを痛感するような場面ではなかろうか。

 

大きさ 奈良の大仏

かえすがえす、奈良の大仏の大きさには、聖武天皇の鉄の志を感じる。

 

743年に造る詔を出してから、実際に東大寺で奈良の大仏が完成したのは752年。

計画を経て、鋳造の工程だけで5年がかり、費用はおよそ15億円という、当時としては天文学的な数字。

奈良の大仏の大きさは14.98m。

耳の長さだけでも2.54mあるなんて、まさにビッグボーイ・奈良の大仏。


滋賀の紫香楽宮で、聖武天皇は考えていた。

どうしたら、当時の大国・中国に対して、日本文化が独自性を確立したことを示せるのか、と。

それはすなわち日本の国力を証明し、中国からの侵略から守ることにつながるのだ。


たどりついたのは、奈良の大仏の大きさ

日本だって素晴らしい大仏やお寺を造れることが立証できれば、

「東夷」なんて差別的な呼び方を打ち払い、立派な国家として認められるはず。

聖武天皇の悲願だったのだよ、奈良の大仏の大きさは。

 

 

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そんな背景によって奈良の大仏は前代未聞の大きさを要求された。

天平時代には、5丈3尺5寸(16m)が奈良の大仏の大きさだったという記録がある。

これを完全に人の手作りで造った、という点に聖武天皇の強い心が顕れている。


平安時代の855年、大地震によって奈良の大仏の頭部が落下、861年に修理完成。

1180年の平重衡の兵火、1567年の三好・松永の戦いで、それぞれ奈良の大仏は部分的に焼失している。

 

 

大きさ奈良の大仏2.jpg

 

 

現存の奈良の大仏頭部は、江戸時代に造られたものだし、

体も脚も途中で修復されているから、正確な大きさは数字にできなく、幾つも数字が出る。

奈良の大仏殿は、創建当時には今の1.5倍もあったという。

江戸時代の大修理で巨木が手に入らず、正面の幅を30m縮小し再建されたとか。


数奇な運命を経て、現代も奈良公園に鎮座する東大寺の奈良の大仏の大きさは、

数字でも言葉でも表現しきれない、貴重な1,250年の軌跡。

どこまでも続いて行く、永遠のリレーであって欲しいと願って止まない。

 

 





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