島田荘司 文学の魅力

文学は、文字の連なり・ストーリーの流れの美しさを追及する芸術であるのはもちろんだが、

作者のそれまでの人生経験が深く関与してくるところが最も大きな特徴だと思う。

文学に限らず、どの芸術分野においても創造者のそれまでの経験から生まれる芸術がほとんどである。

しかし、こと文学においては作者に与えられた表現方法は文字だけであり、

白紙を最初から最後まで己の言葉だけで創らなくてはならない。

真っ白な紙を埋めるための言葉、そしてゼロから創る物語。

どんな物語であっても、そこには必ず作者の人生がにじみ出てくるものだ。


島田荘司氏の1985年の作品に、「夏、19歳の肖像」というものがある。

第94回直木賞候補作にノミネートされた作品で、

氏のミステリー作家としての才能が発揮されつつも、美しい文章がいくつも並ぶ佳作だ。

若い男を主人公とし、彼の初恋を描くこの青春小説は、最後に大きなどんでん返しがあり、

ミステリーの構えを見せながらも、またそれとは違う魅力にもあふれている。

文学の広さを説明するには、氏の本業であるミステリーとは違う部分で説明をするほうがふさわしい。


第一章が始まる前に、短いプロローグがある。

その事件からかなりの時間が流れた後で、ふと思い出した当時のことを悔やむような、懐かしがるような美しい文章である。

本章では、初めての恋をした若者が知らずと大きな世間の波に翻弄される様を描き、

若者にしかない情熱を持ってそれに立ち向かうが、最後は己の無力さに絶望をする。

若者でこその新鮮な気持ち、純粋な恋。

そして、世間にはびこるどうしようもない人間の欲望、弱肉強食の業。

本章で何が言いたいのかというと、それはひとつ、若者とは無力な存在だ、ということだ。

覇気があっても実力が伴わない。情熱を注いでも、力は届かない。

若さとは無力さだと、氏は心底の本音を吐き出すかのように書いている。

そして、最後のエピローグには無力だった頃のその精一杯のけなげさに勲章をやりたい思いさえする、という賛美の言葉がある。


ただ懐かしむだけではなく、すっかり自分の中で整理がついた大人の心境だ。

無力さにやり切れずにいる若者、時間が経ったあとで当時を賛える大人という姿は、間違いなく作者の強い人生観である。

文学には、創り手の人生観が、それも痛いぐらいに心に突き刺さった人生観が映し出される。

優れた文学には創り手の最も深い人生観が現れ、

また、創り手が心から思った観念を作品に投影しなければ名作は生まれないのであろう。


このように、文学は作者の人生を反映するものである。

さらに深く言えば、作者は文学にその時の深い気持ちを吐き出すことで自らの人生を整理し、

成長し、そして次の人生へと歩いてゆく。

読者にとっては人生経験の格好の場である。沢山の人の人生が作品には詰まっている。

そのひとつを読むことで、一人の作者の人生経験を垣間見ることができるのである。

作品に描かれた人の本性を見て、己の人生の糧とすることができる。

文学には、そのような側面があると思う。


「夏、19歳の肖像」では、初めて愛した女性が己の目の前で連れ去られた後で、

己の無力さにやりきれない気持ちをぶつける少年の姿に心を打たれた。

「私は、自分が何の取り得もない人間だという意識が強かった」という文章を見れば、

島田氏が若い頃にどれだけ己の無力さに失望されたかが想像できる。

そして、「十九歳の自分に何があるだろうと考えると、それはたった一つ、

オートバイしかないのだった」と続け、無力な若者が精一杯の情熱を振り絞って女性を取り返しに行く。


その結末がさらに若者の自虐の念を増幅するようなものであるところが、島田氏の若い頃に対する気持ちが強いことを窺わせ、

文学と作者の人生は接近するという私の文学の解釈に一致するのである。

もう一つ大切だと思うことは、文学が芸術である以上、

中途半端で結論の出ないままで物語を終わらせては芸術として成り立たないという点だ。

島田氏のこの作品は最後に当時を懐かしむだけではなく、理解し、大きく乗り越えている。

文学として公の場に出す以上は、痛みを痛みでさらけだす程度でとまってしまうのではなく、

その痛みを乗り越えた部分を見せて欲しいと思う。

傷をさらけ出すのはもちろん、どのようにそれを乗り越えたのか、

その情熱ある経緯をそのまま書き写すことが、文学本来の魅力になるのだと思う。

 

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