政治の公共性

「公共性」とはどのような概念で使われていた言葉か。

また、現代日本においてはどのような独自の意味合いが含まれているのだろう。

そもそも「公共性」とは社会全体に共通する利益を優先する概念を指し示す言葉であって、

例えば世間一般に必要なニュースを伝えることであったり、

社会で共有している財産の管理であるとか、誰がそれを行うということは関係なく、

行為そのものに「公共性」があることが重要であった。


ところが日本においては意味合いが違っており、

明治維新によって「家」や「ムラ」という農民社会の頂点に組み込まれた天皇が

この「公共性」の持ち主であり、その天皇につながる政府や官僚の領域に入らないと

「公共性」があるとは認識されにくい風潮が現在も残っている。


これは不思議なものである。行為そのものが判断基準にされるのではなく、

天皇の内にいるか外にいるかで公か私かが判断されるのである。

この考え方では、国家公務員や大企業の社員と、それに順ずる一部の人しか

「公共性」のある行為ができないということになってしまう。


これは長い江戸時代に士農工商の身分制社会があり、

武士がする政治に対して農工商が口をはさむものではなかったという

日本の政治文化が尾を引いていたこともあるだろう。

また、「公共性」を考えて何かを行うとあるが全員がかなう利益の配分はないのだから、

どのような諸価値の配分にコミットするのかという政治的な駆け引きがあるのだ。


それではいつから日本では「公共性」という言葉が権威の象徴になり、

庶民の上に立つ特権者しか使えなくなる風潮が生まれたのか。


それを紐解いてゆくと、明治維新において政府が諸藩を解体した時に遡る。

明治政府は維新後の庶民の心の拠り所として、国家は家であり、天皇は親、国民は子だとした。

このことで国民と天皇の間に擬似親子関係が発生し、

親に尽くす子は当然とする「家族国家」が出来上がったことが問題の始まりである。

 

 

 


そして、もうひとつ別の解釈の「公共性」は、農村に根付いている「ムラ」の中での共同意識だ。

「ムラ」という共同体の中では互いが身内同士として対面関係を重要視する。

明治維新以降の重工業育成による近代化はこの村社会を徐々に崩壊させていったが、戦前戦後にはまだ顕著な意識であった。


「公共性」のイメージが官僚に独占されてしまったところに現代日本での問題性がある。

広く一般にまで浸透してしまったこのイメージによって、

公的な組織に所属する公人のみが人を規制する資格を持つ、という原則が日本国内にできあがってしまったからだ。


そしてもうひとつの問題は、この「公共性」の立場から外れているときは

すべて私人であると人々は認識し、私人であれば多少は節度を守らなくても善しとされてしまったのである。


「公共性」のない中小企業であれば、ゴミの不法投棄も重要な問題にはならない。

ムラから離れた場所にいるときには、何をしてもそれは私人の遊びの範疇であるから問題ではない。


「公共性」のない立場の者は何をしてもいい、

ムラにいなければ縦横のつながりがないのだから何をしても許される。

長い間、日本の農村で培われてきたモラルが崩壊し、欲望だけに突き動かされる時代がやってきたのである。


特に農村から都会に流出してきた労働者たちにその意識は顕著で、

街は金を稼ぐだけの場所になり、隣人関係や地元意識は忘れ去られてしまう。

土地や仕事に愛着を持てない人間たちが国家という家の頂点である天皇に対して敬意を払うわけがない。

その行末に待っているのは家族国家論の崩壊である。


「ムラ」意識の崩壊はこうして家族国家論の矛盾までつながってしまう。

いや、太平洋戦争の敗北で天皇すらその象徴の権威を薄めてしまったのだから、残っているのは自己中心主義だけである。

会社や近所でお互いを思いやる気持ちを持つのではなく、

自分にとって利益のある人とだけつながっておけばよい、という身勝手な意識が生まれてしまう。


官僚や公共機関が上から見下す視点のものだけを「公共性」と呼ぶのではない。

同業社内や同グループ内だけにはびこる仲間内だけの「ムラ」社会でもなく、

本来は誰でも自由にみんなの利益になることに取り込む姿勢そのものが「公共政策」と呼ばれるものなのである。

民間の中にこそ「公共性」があって然るべきである。


官僚独占による公共のイメージを捨てて、オープンな場所で大勢が意見を出し合って物事を決めるとき、

そこに本来の「公共性」は存在するのである。

その意味ではインターネット上の掲示板に書かれた無名の意見には本来の「公共性」があると言うこともできる。


そうして市民が議論を交わしてルールを決めることが本来の民主主義であり、政治の原点であるのだ。

「公共性」の誤ったイメージを拭うためには市民の意識が変わらないといけない。


行政の立場から見る「公共性」と、民間の立場での「公共性」は自然に違ってくることだろう。

政府見解や裁判所の判例にばかり根拠を頼るのは日本政治文化として

今も残りがちではあるが、自分たちの意見を主張することが本当の「公共性」を作り上げることにつながるのだ。

 



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